ヨーロッパの道徳の歴史

 

History of

European Morals

From Augustus to Charlemagne

By

William Edward Hartpole Lecky, M.A.


Ninth Edition

London

Longmans, Green, And Co.

1890

 

 

ヨーロッパの道徳の歴史

アウグストゥスからシャルルマーニュまで


ウイリアム・エドワード・ハートポール・レッキー 著



第9版

ロンドン

ロングマンス・グリーン・アンド・カンパニー

1890

 

 

 

訳者より:若き日のチャーチルの愛読書です。1869年初版です。明治43年に一度「欧洲道徳史」として和訳されていますが、文体が古いため訳し直しました。縦書きPDFが読みやすいと思います。詳細目次はグーテンベルグ・プロジェクトには収録されていませんが、インターネット・アーカイブに収録されています。整理や見直しに役立ちます。

縦書きPDF

詳細目次

 

1巻
グーテンベルグ・プロジェクト
https://www.gutenberg.org/files/39273/39273-h/39273-h.html#toc3
インターネット・アーカイブ

https://archive.org/details/historyofeuropea01leck/page/n18/mode/1up
「欧洲道徳史」:国会図書館デジタル・コレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754837

2巻
グーテンベルグ・プロジェクト
https://www.gutenberg.org/cache/epub/39535/pg39535-images.html
インターネット・アーカイブ

https://archive.org/details/historyofeuropea02leck/page/n10/mode/1up
「欧洲道徳史」:国会図書館デジタル・コレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754838

 

 

目次

序文… 1

第一章 道徳の自然史… 7

第二章 異教徒の帝国… 157

第三章 ローマの改宗… 323

第四章 コンスタンティヌスからシャルルマーニュまで… 444

第五章 女性の立場… 693

 

 

 

 

 

 

序文

道徳(*モラル)の歴史家が最も関心を寄せる問題は、道徳の水準とタイプに起こった変化である(*第一、第二の問題)。私は前者を、いわゆる徳が異なる時代に命じられ、実践されていた程度と理解しようと思う。また後者を、異なる時代に異なる徳に与えられていた相対的な重要性と理解しようと思う。たとえばプリニウス(*大はAD23―79、小はAD61―113)の時代のローマ人、ヘンリー8世(*1491―1547)の時代のイギリス人、そして現代のイギリス人は慈愛(*humanity)を徳とし、その反対を悪徳とすることでは皆同じだろうが、慈愛深い気質にふさわしい行いについての判断は大きく異なるだろう。最初の時代の慈愛深い人物はチューダー朝のイギリス人でさえ残虐で野蛮と見なした剣闘士の競技を心から楽しんだだろう。そして今ではチューダー朝の人々が黙認していた多くのスポーツが非難される番になっている。また、このような水準の変化に加えて、徳に与えられる優先順位の絶え間ない変化というものがある。例えば愛国心、貞節、慈善、謙遜といった徳は、ある時代には至高で超越的に重要なものとされ、徳の高い人格の真の基礎とされた。しかし他の時代には背景に追いやられ、高貴な生活の小さな美点に数えられてきた。英雄的な徳、愛情豊かな徳、そして特に宗教的な徳と呼ばれるものはそれぞれグループになって、異なる時代に異なる度合いの名声を得てきた。そしてこうした道徳のタイプの変化の性質、原因、および結果は、歴史の最も重要な分野の一つである。

 

 しかし、ある時代の道徳的状況を推し量るにはモラリストたちの理想を調べるだけでは十分ではない。その理想が国民の間でどの程度実現されていたかについても調べなければならない(*第三の問題)。国家の腐敗はしばしば指導者の放縦で利己的な倫理観を反映している。しかし時にその反動を生み、モラリストたちを社会の一般的精神とは正反対の禁欲主義へと駆り立てることがある。道徳の指導者たちが同胞に働きかける手段はその性質と効果において大きく異なっている。そして最高の道徳教育の時代は、しばしば最高の一般的実践レベルの時代ではない。一種の徳の貴族を私たちは見出すことがある。その指導と行動において最も洗練された卓越性(*excellence)を示すが、社会の大衆には目に見えるような影響力をほとんど持たない人々である。またそれほど英雄的ではないモラリストが社会のあらゆる部分に影響を及ぼしていることもある。したがって、歴史家は指導者によって説かれた道徳のタイプと基準に加えて、人々の実践的な道徳を調査しなければならない。

 

 この三つはアウグストゥス帝(*在位BC27―AD14)とシャルルマーニュ(*AD742―814)の間のヨーロッパの道徳の歴史を検討する際に私が特に重視した問題である。この研究の前段階として、私は道徳の性質と義務に関して対立する二つの学説について少し長く論じた。また後で自然な発展が特殊な要因によってどの程度影響を受けたかを確かめることができるよう、どのような徳が文明の各段階に特に相応しかったかを示すよう努めた。次に異教徒帝国の道徳的歴史をたどり、ストア派、折衷派、エジプト派の哲学を検討し、それらがどのような点で社会の一般的な状態の産物あるいは表現であったかを示し、立法や文学の多くの部門におけるその影響を追跡し、皇帝や哲学者のあらゆる努力を阻んだ根深い腐敗の原因を究明した。次に注目すべきはヨーロッパにおけるキリスト教信仰の勝利である。このテーマを扱うにあたって、私は大体において純粋に神学的または論争的な性格を持つすべての考察、パレスチナにおける信仰の起源に関するすべての議論、およびその教義における最高のタイプに関する議論を排除し、教会をシンプルにヨーロッパに影響力を行使する道徳的な主体とみなすよう努めた。私はこの制限の中で、異教徒の帝国の状況がどのように教会の成長を妨げ、あるいは助けたか、教会が遭遇しなければならなかった敵対者の性質、繁栄、禁欲的熱意、野蛮人の侵略の影響下で起こった変化、そして教会が社会の道徳的条件を決定した多くの方法について考察した。人命の尊厳に対する意識の高まり、慈善活動の歴史、聖職者の伝説の形成、禁欲主義の市民的、家庭的な徳への影響、修道院の道徳的影響、知性に関する倫理、衰退するキリスト教帝国とそれに取って代わった蛮族の王国の徳と悪徳、世俗の階級制度のゆるやかな神聖化、十字軍で頂点に達した軍事的キリスト教の第一段階、これらすべてを多少なりとも詳細に考察した。そして女性の地位と男女関係に関する道徳的な問題に起こった変化を検討して本書の結びとした。

 

 このように数多くの主題を調査していると、稀にではあるが、以前の著作で辿った道筋と交差することがある。そこで二、三の事例では、そこで簡単に言及した事実を躊躇なく繰り返すことにした。不可欠な付帯条件を省略して主題を提示したり、不必要に自分の著作を持ち出して常に不愉快なエゴイズムのようなものに陥ったりするよりは、そうした方が良いと考えたのである。私が辿った時代の歴史は私の知る限り、私が採用した視点と全く同じ視点で書かれたことはない。しかし、もちろん私はほとんどの場合、これまで何度も十分に調査されてきた、見慣れた領域を移動してきたのである。この著作に独創性があるとすれば、掘り起こした事実よりも、それらをどのようにグループ化し、どのような意義づけをしたかということだろう。私は助けを得た、より重要な著作物に感謝しようと努めた。もし必ずしもそうでなかったとしても、それは私が扱った主題に関連する特別な歴史書が非常に多いため、またあまりにも多くの参考文献でページを埋め尽くしたくなかったため、そしておそらく場合によっては歴史の一分野に深く関わってきた誰しもにとって、時に自分自身の考察から生まれたアイデアと書物から得たアイデアとの区別が困難にならざるを得ないため、と読者が考えて下さると信じている。

 

 特別に言及しなければならない一人の論者がいる。というのも、その名前はこの後のページでたびたび私の脳裏に浮かび、その記憶は他の誰よりも頻繁に、そしてこの数ヶ月はより悲しく私の脳裏をよぎったからである。最近亡くなったミルマン首席司祭(*ヘンリー・ハートポール、1791―1868、セントポール大聖堂首席司祭)の著作は輝かしいものであって、数も多い。しかし、その知識の驚くべき広がりと多様性、彼が多くの領域に持ち込んだ穏やかで明快でデリケートな判断力、最も幸せな逸話と、最も輝かしく、しかも最も優しいユーモアで沸き立つ彼の会話の無類の優雅さと機転に完全に触れられたのは、彼の友情という大きな特権を持つ者だけだった。そしておそらく個々の能力より注目すべきだったのは、彼の心と性格の見事なハーモニーとシンメトリーであって、そこには不釣り合い、奇抜さ、誇張が全くないため、時には天才でさえ華麗な病気のように見えてしまうほどだった。彼をよく知るすべての人にとって彼を言葉にできないほど尊い人物にした、さらに高い特質を忘れることはできない―真理に対する熱烈な愛、幅広い寛容、人と物に対する大きく寛大で力強い判断力、対立するそれぞれの党派に潜在する善に対するほとんど本能的な知覚、単なる派閥の争いの騒々しい勝利やはかない人気への軽蔑、過去のイメージに思いを馳せるときの優しく感動的な愛情、極度に老いてなお、自分の時代の進歩的な運動に対する最も鋭い、最も希望ある洞察力、周囲の若い人々の信頼を獲得し、その考えを読む稀有な力である。このような著述家が他のどの分野よりも無知、幼稚さ、不誠実さによって歪められてきた歴史学に身を捧げたことは英文学における最も幸福な事実の一つであると私は考えている。そして以下の著作の多くの部分において(時に彼の見解から乖離することもあるが)私は大いに彼の研究を利用させてもらった。

 

 この本はさまざまな方面からさまざまな理由で多くの、そしておそらく怒りに満ちた反論に遭う可能性があることは否定できない。この本は現在英国で極めて大きな影響力を持つ道徳哲学の一派と強く対立するものである。そしてその記述には多くの欠陥が発見されるだろうことに加えて、この本の計画そのものが多くの人々を不愉快にするに違いない。この主題は必然的に英国の論者が触れることが極めて困難な問題を含んでいる。そして歴史のこの主題が関係する部分は少なからず虚偽と情熱によって不明瞭にされてきたのである。私はこの本に判事的な公平さを持ち込もうと努めた。そして、いかに不完全なものだったとしても、その試みは読者にとって全く無意味なものにはならないと信じている。

 

 1869年5月ロンドンにて

 

 

 

 

第一章 道徳の自然史

道徳の性質と基礎に関する簡単な調査は、ヨーロッパの道徳的進歩の考察にとって当然のことであり、実際ほとんど欠くことのできない前置きと思われる。しかし残念なことに、こうした研究は深刻な困難と隣り合わせである。その理由の一つは、道徳哲学の体系が示す細部の極端な多様性であり、もう一つはそれらを二つの対立するグループに分ける、原理的な対立関係である。道徳的区別(*moral distinctions)の最高の調整者と見なされる直観と有用性の対立的主張から生じたこの大論争は、プラトン(*BC427―347)とアリストテレス(*BC384―322)の分裂の中にその痕跡をかすかに見ることができるかもしれない。それはストア派とエピクロス(*BC341―270)派の分裂によってさらにはっきりした。しかしそれが完全に明確に定義されたのは近代になって、一方のカドワース(*ラルフ、1617―1688)、クラーク(*サミュエル、1675―1729)、バトラー(*アルバン、1710―1773)、他方のホッブズ(*トマス、1588―1679)、エルヴェシウス(*クロード・アドリアン、1715―1771)、ベンサム(*ジェレミ、1748―1832)のような論者の影響によって、それに依存している問題の重要性が完全に理解されるようになってからのことである。

 

 この問題を取り扱う際に遭遇しなければならない広範な知的困難とは別に、個人的な種類の困難があり、これはすぐにでも解決することが望ましいだろう。ある種のモラリストたちは自分たちが提唱する原理が不道徳な結果をもたらすという非難を受けると、それを自分たちの人格に対する非難として憤慨する傾向がある。この論争の特殊性はことの性質上、すべてのモラリストが自分の反対者の見解に対してそのような告発をせざるを得ないということである。道徳哲学の仕事は私たちの道徳的感情を説明しその正当性を示すこと、言い換えれば私たちがどのようにして義務観念を持つようになったかを示し、それに基づいて行動する理由を私たちに与えることである。一つの体系を否定するモラリストは義務という概念や義務を遂行する動機が決してその原理に従って生まれなかったことを示すよう求められる。功利主義者は、彼の敵対者は存在しない能力に基づいて道徳の全システムを組み立てており、地域や時代によって道徳的義務を変化させるような原理を採用し、すべての倫理をぼんやりした感情へと分解していると非難する。直観的なモラリストは後に説明する理由のために功利主義理論は深く不道徳なものであると信じている。しかしこのような非難がモラリストの人格に及ぶものと考えるのであれば、道徳理論が人生の中で実際に占める位置を全く誤解していることになる。私たちの道徳的感情は私たちの倫理体系から生じるのではなく、ずっと前に生じているものである。そして私たちがそれらについて推論し始めるのは通常、私たちの人格が十分に形成された後である。推論が非常に不完全であっても、それをした人間の性格が不完全ではないのはあり得ることであり、また非常によくあることなのである。

 

 道徳に関する二つの対立的な理論は多くの名前で知られ、多くのグループに細分化されている。大体においてストア派、直観派、独立派、感情派が一方に、エピクロス派、帰納派、功利主義派、利己主義派が他方に属すると説明される。前者のモラリストは、その意見を最も大まかに述べるなら、人間には博愛、貞節、誠実など、ある性質が他の性質より優れていることを感知する生得(*natural、自然)の力があり、それらを培い、その反対を抑制するべきであると考えている。言い換えれば人間の性質の構造上、正しいという概念は義務感を伴うということである。ある行動の方針が私たちの義務であると言うことはそれ自体で、そしてあらゆる帰結とは無関係に、それを実践するための分かりやすく十分な理由であり、私たちは直観から私たちの義務の第一原理を導き出すのである、と主張する。反対派のモラリストは人間がそのような生得の知覚を持ち合わせていることを否定する。人間には本来、美点と欠点、感覚と行動の相対的優位性に関する知識は全くなく、人間の幸福に資する生活習慣の観察のみがこれらの概念を導き出すと主張するのである。行為を善とするものはそれが人間の幸福を増大させる、あるいは苦痛を減少させることである。悪はその逆である。したがって「最大多数の最大幸福」を得ることは、そうしたモラリストの最高の目的であって、徳の最高のタイプであり表現なのである。

 

 しかし、この後者の学派がそこから先へ進まなかったなら、すべてのモラリストが引き受けなければならない仕事を彼らが成し遂げられなかったことは明らかである。経験によってある種の行為が人類の幸福に資することが示され、その結果これらの行為が至高のものと見なされることがある、というのは容易に理解できる。しかしなぜそのような行為をしなければならないのか、という疑問が残る。もし徳のある行為とは経験によってそれが社会にとって有用なことが示されているものであると信じ、また同時に二つの利益が衝突したとき、自分の幸福よりも他人の幸福を追求する生得の義務があると信じている人々は決して帰納的モラリストの名に値しないだろう。彼らはバトラーやカドワースのように道徳的能力や道徳的義務感を真に認めていることになるからである。そして実際、何人かの直観的モラリストはこれと非常によく似た立場をとってきた。例えば現代における「道徳感覚(*a moral sense)」の学説のまさに創始者であり、おそらく他のどのモラリストよりも強力に徳の無私の性格を擁護してきたハッチソン(*フランシス、1694―1746)は、すべての徳は博愛、すなわち他者の幸福の追求である、と分析した。しかし彼は博愛の素晴らしさと義務は「道徳感覚」によって私たちに明らかにされる、と主張した。同じようにヒューム(*デイヴィッド、1711―1776)は有用性をすべての徳の基準であり本質的要素であるとした。ここまでは間違いなく功利主義者である。しかし彼はまた、私たちの徳の追求は無私のものであり、それは理性とは別の生得の賛否の感情(*要注目)から生じ、徳や悪徳を凝視したときに私たちの中に立ち上がる独特の感覚、すなわち嗜好(*taste)によって作り出される、とも主張している。同様の学説は最近ではマッキントッシュ(*ジェームズ、1765―1832)に提唱されている。多くの人は、これが功利主義的道徳体系の完全な説明だと考えている。功利主義的道徳体系はすべての行為と気質をその結果によって判断し、人間の幸福を促進する傾向に比例して道徳的であり、減少させる傾向に比例して不道徳であると宣告するものである。しかし、このような要約は明らかに不十分である。なぜならそれは、すべてのモラリストが答えなければならない二つの問いのうちの一つにしか答えていないからである。道徳の理論は何が義務であるか、だけではなく、どのようにして私たちが義務というものが存在すると考えるようになったか、についても説明しなければならない。また、単に私たちが追求すべき行動指針が何であるかを説明するだけでなく、この「べき(*ヒュームの法則:isからoughtを導き出すことはできない)」という言葉の意味は何か、そしてこの言葉が表している観念をどのような源泉から得ているのかについても説明しなければならないのである。

 

 私たちの道徳はすべて経験の産物であることを証明しようと試みた人々は、この課題から尻込みすることなく、彼らに開かれた一つの道に果敢に踏み込んできた。快楽(*pleasure)や苦痛の予感とは異なる、根源的義務感のようなものが存在する、という考え方を彼らは単なる想像上の幻想として扱う。ある行為を行うべきという意味は、それを行わなければ苦しむということだけである。幸福を得たい、苦痛を避けたいという願望だけが行動の唯一のあり得る動機なのである。私たちが徳のある行動をとるべき理由、言い換えれば他人の利益を求めるべき理由は全体として、そのような行いが最大の幸福をもたらすからであり、それが唯一の理由なのである。

 

 すなわち道徳を経験に基づくものとする学説の一般的な主張がここにある。何が徳であり何が悪徳であるかと問うならば、前者は人間の幸福を増やし、苦痛を減らすものであり、後者は逆の効果をもたらすものであるという答えが返ってくる。徳の動機は何かと問えば、それは賢明な自己利益であると答えが返ってくる。しかし幸福、有用性、利益という言葉は多くの異なる種類の楽しみ(*enjoyment)を含んでおり、この理論に多くの異なる修正を加えてきた。

 

 これらの理論の中で最も低俗で最も胸が悪くなるものは、おそらくマンデヴィル(*バーナード・デ、1670―1733)が「道徳の起源に関する探究」の中で唱えたものだろう。この論者によれば、徳は第一に支配者の狡猾さから生まれたものとのことである。支配者たちは人々を統治するため、彼らに自分の情熱にふけるのではなく、それを抑制し、共同体の利益のためにすべてを捧げるのは尊いことである、と説かなければならないと考えた。彼らは虚栄心に働きかけることによってこの目的を果たした。彼らは人間の本性は動物の本性よりも高貴なものであり、共同体への献身が人間を特別に偉大なものにする、と人々を説得した。彫像や称号や名誉によって、レグルス(*マルクス・アティリウス、BC250没、カルタゴの捕虜となって仮釈放でローマに帰るが徹底抗戦を主張した後、約束通りカルタゴに戻って拷問死する)やデキウス(*プブリウス・ムス、BC340没、ラティウム戦争で戦勝のために自らを生贄に捧げた)のような人物を絶えず褒め称え、無益な享楽に溺れる人々を低俗で卑しい階級と表現することによって、彼らはついに激しい競争心に火をつけ、最も勇ましい行動を鼓舞するほどに人々の虚栄心をたきつけた。そしてすぐに新しい影響が現れた。他人の尊敬という快楽を得るために自分の情熱を抑えることから始めた人々は、この抑制によって過度の放縦から当然もたらされる多くの苦痛を避けられることに気がついた。そしてこの発見が徳への新しい動機づけとなったのである。さらに共同体の各構成員は自分自身が他人の自己犠牲から利益を得ていること、また自分が他人を気にせず私益を追求するならば、同じように行動する人物がなによりも自分の前に立ち塞がることを発見し、自己犠牲の素晴らしさという観念を世に広める二つの理由を手にした。この結果、人々は社会にとって有害なものを「悪徳」と呼び、有益なものを「徳」として称えることに同意した、というわけである。

 

 マンデヴィルの見解は発表された当時はその本質的な価値以上の注目を集めた。しかし現在では急速に忘却の彼方へと沈下しつつある。この著者は「ミツバチの寓話」と呼ばれる詩と、それに付けたコメントの中で私が述べたものと全く相反する命題を唱えた。「私的悪徳は公的利益」と主張し、非常に弱々しく、時には非常にグロテスクな長い議論によって、悪徳は人類にとって最高度に有益であることを証明しようとしたのである。しかし、はるかに偉大な論者がすでに道徳の体系を打ち立てていた。それはいくらか反感を買うことが少なかったとはいえ、マンデヴィルの理念に勝るとも劣らず利己的なものだった。ホッブズの徳の本質と起源に関する見解は、それほど大きな変化もなしに狭義の功利主義者と呼ばれる一派によって受け入れられてきた。

 

 こうした論者たちによれば、自分自身の利益だけが私たちを支配しているのである。彼らは快楽こそが唯一の善であり、道徳的な善と道徳的な悪とは快楽をもたらす法則に私たちが自発的に従うこと以外の何ものでもない、と断言している。善を単に善として愛することは不可能である。私たちが神の善について語るとき、それは神が私たちに善をなすことだけを意味する。敬虔さとは、私たちに良いことも悪いこともする力を持つ者が、私たちに良いことだけをするという確信にほかならない。敬虔の快楽は、私たちが神から快楽を受けると信じることから生じ、敬虔の苦しみは、私たちが神から苦しみを受けると信じることから生じる。この論者たちによれば私たちの優しささえも、すべて自己愛の一形態だそうである。例えば慈善行為は部分的には他人の尊敬を得たいという欲求から、部分的に自分が与えた好意が報われることへの期待から、部分的に私たちが自分の欲求だけではなく、他人の欲求をも満たせることの証明による権力意識の満足から生じているのである。憐れみとは、自分に降りかかるかもしれない悲しみを他人の悲しみを見ることによって鮮明に実感することから生じる感情である。私たちは特に災難に相応しくない人々を憐れむが、それは私たち自身がその範疇に属していると考えるからである。そして、いかなる予測も不可能な苦しみの光景は、私たち自身にも起こりうることを最も強く想起させるのである。友情とは、友人が必要としているものに対するセンスである。(*すなわち取引である)

 

 このような人間の性質の概念からどのような道徳の体系が生じるかを予知するのは容易なことである。どのような性格、感情、行動も自ずと他より優れているものではなく、人間が未開の状態にある限り、道徳は存在しない。しかし幸いなことに私たちは皆、自分の快楽の多くを他人に依存している。協力と組織化は私たちの幸福に不可欠であり、これらは私たちの欲望に何らかの抑制をかけることなしには不可能である。この抑制を確保するために制定されたのが法律であり、それは報酬と罰に支えられて、共同体の利益に配慮することを個人の利益としているのである。ホッブズによれば、人間の気質は非常に無秩序なものであり、それを抑制することの重要性は非常に超越的であるため、絶対的な政府のみが善である。君主の命令は至高のものであり、したがって道徳の法でなければならない。この学派の他のモラリストたちはこの考え方を否定しながらも、倫理学の構想の中で、立法に非常に大きな際立った地位を与えている。なぜなら、私たちの行動はすべて私たちの利益によって決まり、徳とは単に私たち自身の利益が共同体の利益に一致することであり、賢明な立法はこの一致を確保するための主な手段であるため、モラリストと立法者の機能はほぼ同じなのである。(*エルヴェシウス)しかし刑法の賞罰に加えて、世論から生じるもの―名声や悪名、私たちへの友情や敵意―も徳の側に組み入れられる。法律の教育的影響力、共同体のさまざまな構成員の利害の一致に対する認識の高まりは、「平和で友好的かつ快適な生活の手段」(*ホッブズ)であるすべての資質に好意的な世論を作り出す。正義、感謝、謙虚、公平、慈悲のようなものである。純潔や貞節も、それだけを考えるならば最も粗野で最も無分別な欲望より優れているとは言えない。しかし社会の幸福に資することが示されるため、結果として徳となる。このような世論の教育は文明化とともに絶えず強化され、次第に人々の性格を作り上げ、益々無欲で無私で英雄的なものにする。利他的、無私的、英雄的な人物とは、もちろん自分の快楽の追求に熱中するが、その快楽の中に他人の幸せも含まれるような方法で追及する人物であると説明されている。(*ベイン)

 

 自分の利益を追求することに慎重な人物は、完全に徳の高い人生を送ることができる、というのは非常に古い主張である。宗教的な動機を軽視する傾向が最も強い、功利主義者たちのほとんどがこの見解を採っている。また、彼らがすべての人間は必然的に自分自身の幸福だけを追求するものであると主張するとき、別の道筋から、すべての悪徳は無知であるというプラトンの古い学説に戻ることができる。分別を持って快楽を追求することは徳であり、無分別に快楽を追求することは悪徳である。徳とは一種の賢明さであり、悪徳とは愚昧または誤算にほかならない。(*ベンサム)人類の道徳の状態を改善するための方法は二つある。そしてたった二つしかない。第一は、各人の利益をますます他の人の利益に一致させることであり、第二は、人が自分の本当の利益を知ることを妨げている無知を払拭することである。(*エルヴェシウス、ベンサム)貞節や真実、あるいは私たちが徳とみなすその他のものが、全体として駆逐するよりも多くの苦痛を生み出し、あるいは人に与えるよりも多くの快楽を奪うならば、それらは徳ではなく悪徳だろう。(*ベンサム、プラトン、ホラティウス)もし徳と認められているものを実践することが自分自身の利益にならないことが示されるなら、それらを実践する義務はすべて直ちになくなるだろう。(*ペイリー)倫理学の構想の全てはエピクロスの以下の四つの規範から展開することができる。苦痛をもたらさない快楽は、受け入れられなければならない。快楽を生み出さない苦痛は避けなければならない。より大きな快楽を妨げ、あるいはより大きな苦痛を生むような快楽は避けなければならない。耐えなければならないのは、より大きな苦痛を避け、より大きな快楽を確保するための苦痛だけである。

 

 ここまで私は現世的な動機以外にはほとんど触れてこなかった。この学派の最も著名な人々の多くはこれで十分だと考えているが、他の人々には―私が思うに、これから見るような―別の意見を持つ大きな理由があるのである。彼らの明らかな拠り所はあの世での報酬と罰である。従って彼らはこれを徳の動機として提示する。利己心の理論のすべての修正のうち、これだけが一定不変な、議論の余地がないほどに妥当な、徳への私心ある動機を備えていると言うことができる。もし人々が全知全能の裁判官によって与えられる無限の罰と無限の報酬という概念を受け入れるならば、間違いなくそれは悪徳よりも徳を実践する強い理由となるだろう。したがって同等の報酬の見込みなしに快楽を犠牲にすることは単なる狂気の沙汰であり、理性を持つ存在の名に値しないと強調する一方、来世においてはるかに大きな楽しみで報われるのだから、現世の楽しみは犠牲にしてもよい、というのがこういう論者たちの主張である。天国に入り、地獄から逃れることが私たちのすべての行動の源泉であるべきである。そして徳とは単に打算を死後にまで拡張したものなのである。この打算こそ私たちが「宗教的動機」と呼んでいるものである。徳の高貴さや卓越性が私たちを奮い立たせるという考えは異教徒の単なる妄想に過ぎないのである。

 

 単なる打算によって考察するなら、考えられる反論は二つだけである。天国に入るために必要な徳の量が明らかにされていないため、地上ではいくつかの悪徳を平気で楽しめると言えるだろう。しかしこれに対しては、必要条件が不確かだからこそ熱心な敬虔さが用心になるのである、またあらゆる功罪に適合する報酬と罰の尺度はおそらく段階的に存在するのである、という反論がある。また現在の快楽は少なくとも確かなものであるが、あの世の快楽は同様に確かなものではない、とも言えるだろう。これに対してはあの世で与えられる報酬や罰は非常に大きいので、通常の分別の法則に従うなら、もしそれが現実である可能性が少しでもあれば、賢者はそれを見据えて自分の行動を律するはずである、という答えが返ってくる。

 

 しかし、こうした論者の中には功利主義の大きな流れからある程度乖離して、道徳律の基礎は功利ではなく、神の意志あるいは恣意的な決定であると宣言する人々もいた。この見解はスコラ学者のオッカム(*1285―1347)や同年代の他の論者によって提唱されたが、現代では多くの信奉者を見つけ、さまざまな動機によって擁護されている。ある者は法は単に立法者が宣言したものに過ぎないという哲学的な理由から、ある者は道徳を神学に永久に従属させたいという願いから、またある者は神によって承認されたとされる明らかに不道徳な行為から生じるキリスト教への反論に答えるために、またある者はカルヴァン主義の強い影響を受けて功利主義道徳に深く反発し、同時に人間の性質の全的堕落を固く確信して、いかなる信頼しうる道徳感覚の存在も認めないことによって、この見解を支持してきたのである。

 

 しかし大半の場合、これらの論者は実質的に功利主義者であることがわかる。神の意志をどのようにして知ることができるのかと問われると、彼らはそれが明示的な啓示に含まれていない限り、功利の法則によって発見されなければならない、と答える。なぜなら自然は神が最高に慈悲深く、人間の幸福を望んでいることを立証しているからである。したがってその目的に向かうあらゆる行為は神の意志に適っているのである。なぜ神の意志に従わなければならないか、という問いに対する答えは二つしかない。一つは、私たちは創造主に対して感謝の念を抱く生得的な義務を負っているから、という直観的モラリストの答えである。もう一つは、創造主は無限の報酬と罰を自由に与えられるから、という利己的モラリストの答えである。通常は後者の答えが採用されているようである。最も著名なメンバーがこの学派の意見を非常に簡潔にまとめている。「人間の善が臣民、神の意志が支配者、永遠の幸福がすべての徳の動機であり目的である。」(*後出ペイリー)

 

 帰納的学派のモラリストの特徴は、私たちの性質の高い部分と低い部分を区別し、私たちに義務の法則の存在やそれが命じる行為を明らかにする、自然すなわち生来の道徳的感覚や能力の存在の完全な否定であることを私たちは見てきた。これらの論者の唯一の前提が、一般的に求められている幸福は望ましいものであるということ、彼らが行為や感覚に認める唯一の価値は人間の幸福を促進する傾向であるということ、そして彼らがあり得ると考える徳の高い行為の唯一の動機は行為者の現実の、あるいは想定される幸福であることを私たちは見てきた。道徳における拘束力はその義務をこのように構成しているということである。そして、それを離れて「べき」という言葉は全く意味をなさない。私たちが見てきたように、これらの拘束力にはさまざまな種類と重要度のものがある。ペイリー(*ウイリアム、1743―1805)は他のものも認めはするものの、宗教的なものを計り知れないほどに重要であると考え、それを徳の唯一の動機とした。ロック(*ジョン、1632―1704)はこれらを神の賞と罰、法的罰、社会的罰に分け、ベンサムは肉体的、政治的、モラル的あるいは社会的、宗教的なものに分けた。一つ目は悪徳の報いである肉体の害、二つ目は立法者の法令、三つ目は社会的交際の中での快楽と苦痛、四つ目は来世での賞と罰である。

 

 十六世紀から十七世紀にかけてのイギリスにおける道徳規範を経験から導き出す人々と、理性の直観、特別な能力、道徳的感覚、あるいは共感の力から導き出す人々との間の論争は、主に人間の本性における無私の要素の存在に関わるものだった。この存在の実在性はシャフツベリー(*アンソニー・アシュレー・クーパー、1621―1683)によって主張され、ハッチソンによって前例のない、そして私が思うに、抗しがたい力によって立証された。同じ問題はバトラー、ヒューム、アダム・スミス(*1723―1790)の著作においてかなりの位置を占めている。ホッブズ派の利己主義は、ある程度緩和されてはいるが、ベンサムの著作のあらゆるページに見出すことができる。しかし彼の弟子の数人はこの点において師から大きく逸脱した。そして彼らの手によって功利主義全体のトーンと色合いが変化した。この変容をもたらした二つの要因は私たちの無私の、すなわち共感的感覚の認識と、観念の連合の学説である。

 

 人間の性質は他人の喜びを見て自然に喜びを得るようにできている、ということは普通の観察者にとって考え得る限り最も明白な事実の一つかもしれない。しかしホッブズはこの事実をきっぱりと否定した。そして前世紀の大部分においてエルヴェシウス派の論者たちの間で、家庭や社会における全ての愛情は単に愛する側の必要の命ずるところである、という証明の試みが流行していたのはこれまで見てきたとおりである。ベンサムは共感の快楽と苦痛の現実性を認めていたが、自分の哲学の全ての精神に従ってそれらをできるだけ背後に追いやった。そしてすでに述べたように彼が承認する徳の要約に加えなかったのである。しかし、その後の同学派のメンバーたちはそれらを生じる源泉について意見を異にしてはいても、それらを完全に認識する傾向にある。一つの学派によれば、私たちの善意の愛情は利己的な感覚から、以下に説明するような方法で観念の連合によって導き出されたものだということである。もう一つの学派によれば、それらは私たちの本性の構造に元々備わっているものである。それがどのように発生したにせよ、その存在は認められ、その育成は道徳の主要な目的であり、その行使から得られる快楽は徳への主要な動機となる。この点に関する直観的モラリストとそのライバルとの相違は二種類ある。両者とも人間の本性には善意と悪意の両方の感情が存在し、私たちはその一方を他方と区別する生得の力を持っていることを認めている。しかし一方が他方より優れていると認識する生得の力をもっていることを前者は主張し、後者は否定する。両学派とも私たちが他者への博愛の行為に快楽を感じることは認めている。しかし前者の学派の論者の多くはその快楽は求めることなくして得られたものであると主張し、後者の学派の論者はそれを得たいという欲望が行動の動機であると主張するのである。

 

 しかし、功利主義的道徳の体系の中で最も独創的で、同時に最も影響力があるのは、その特徴をハートリー(*デイヴィッド、1705―1757)の連合の学説に負うものである。この学説は倫理学の近代的成果のなかで功利主義者側において、直観主義者のいうところの生得的道徳観念(*innate moral ideas)と区別される生得的道徳能力(*innate moral faculties)の学説に相当する重要な位置を占めている。この理論は古代人にはまったく知られていなかったわけではない。しかし彼らはそれがどれくらい拡張できうるかということや、そこから推定されうる重要な結果を認識していなかった。アリストテレスにもその痕跡が見られる。またエピクロス派の中にはこれを友情に応用して、私たちはまず友人が私たちに与えてくれる快楽のために友人を愛するが、やがて有用性を考慮することなく、彼自身ゆえに彼を愛するようになると主張する者もいた。近代人の中でロックは「観念の連合」という言葉を考案したという功績があるが、彼はそれを明らかに風変わりな共感や反感にだけ適用している。しかし、ハッチソンはハートリーの学説とこの学派が好んで用いた実例の両方を先取りした。私たちはあるものをそれ自体喜ばしいものとして欲し、別のものを単なる喜ばしいものを得るための手段として欲する、としたのである。そして後者を「二次的欲望」と呼んで、前者と同じくらい強力になる場合があることを指摘したのである。「例えば私たちは富や権力が欲望を満たすことを理解すると同時にそれらを欲するようになる。こうして、富と権力という欲望が普遍的なものになる。なぜなら、それらは私たちのすべての欲望を満足させる手段だからである。」今ではほとんど忘れられてしまったが、ゲイ(*ジョン、1699―1745)という名の聖職者は、自分の理論の最初の示唆をハートリーから得たとする短い論文によって、同じ原理をはるかに先に進めた。そして実際、そこにはその最も価値ある部分がはっきりと打ち出されている。ゲイは人間に生来の道徳感覚や博愛の原理が存在するという点においてハッチソンとは全く意見を異にする。しかし彼は成人した人間が道徳感覚を持っていることを証明するハッチソンの議論は抗しがたいものであることを認めた。そしてこの事実とロックの教えを「二次的欲望」説によって調和させようと試みたのである。私たちは推論において常に第一原理や公理に立ち返るわけではなく、ときに自明ではなくとも証明が可能とわかっている命題から出発することもある、と彼は言う。同じように私たちが自分の行動を正当化しようとするとき、その唯一の究極の根拠である幸福をもたらす意図ばかりに訴えるのではなく、その行動が既知の「幸福への手段」のいくつかを生み出すことで満足するのである。これらの「幸福への手段」は正しい行動の動機として訴え続けられるうちに、意図とは無関係に固有の価値を持つ目的と見なされるようになる。このようにして私たちは自分の利益とは無関係なときでも徳を愛し、称賛するようになるのである。(*ここまでゲイの見解)

 

 こうした見解を拡大・精緻化したハートリーの大著は1747年に出版された。この著作には感情がどのように精神に作用するかという、今では立ち入る必要のない多くの生理学的思索が含まれている。そしてプリーストリー(*ジョセフ、1733―1804)やベルシャム(*トーマス、1750―1829)には熱狂的に、そしてタッカー(*エイブラハム、1705―1774)にはある程度受け入れられたものの、その純粋な倫理的思索は今世紀になって一部の有力な功利主義者に取り上げられるまで大きな力を持つことはなかったと私は考えている。その真偽はともかく、マンデヴィルやホッブズのもののような低俗で卑しい人間観から出発して、新しい要素や高貴な要素を一つも導入せずに、哲学的錬金術の奇妙なプロセスによって、この本来の利己主義から最も勇壮で最も精妙な徳を進化させると宣言するシステムの知的壮大さには称賛を惜しむことはできない。この偉業達成の方法は、一般に欲望という情熱によって説明される。金銭そのものはまったく立派なもの、楽しいものではない。しかし私たちの欲望の対象の多くを調達する手段であるため、私たちの心の中で快楽の観念と結び付けられ、それ自体が愛されるようになる。金銭への愛がお金で手に入るすべてのものへの愛を完全に消し去り、取って代わることは可能である。守銭奴は金銭の何分の一かを手放すよりも、それらすべてを諦めようとするのである。

 

 同じ現象を他の多くの形で発見できるとのことである。例えば私たちは権力を求める。それが私たちに多くの欲望を満たす手段を与えてくれるからである。権力はそれらの欲望を連想させ、ついにはそれ自体が熱烈に愛されるようになるのである。称賛は誉める人物の愛情を示し、私たちが他人の愛情を得ていることの印になる。最初は手段として価値を持っていたものが、やがて目的としても求められるようになる。そして、その熱意は決して自分の耳に届くことのない死後の称賛のために、私たちがこの世のあらゆるものを犠牲にするほどのものとなる。そして連想の力はさらに遠くまで及ぶだろう。私たちが称賛を好むのはそれが私たちにある種の利益をもたらすからである。そして私たちはやがてその利益よりも称賛を愛するようになる。同じような経過で私たちの愛情は自然に、あるいは一般的に私たちに称賛をもたらすものに移っていく。私たちはついに称賛に値するものを称賛以上に愛し、それを放棄するくらいなら永遠の汚名にすら耐えるようになるだろう。私たちのすべての道徳的感情はこのような過程を経て生じる、とのことである。人間には生得の善意の感覚というものはない。しかし幼児はその快楽を母親の観念(*idea)と、少年は家族の観念と、人間は自分の階級、教会、国、そしてついには全人類の観念と結びつけることを学び、それぞれの場合において、やがて独自の愛情が形成されるのである。他人の苦しみを見ると子供は自分の苦しみを思い出し、親は幼児の想像力に訴えてこれをさらに強める。さらに「何人かの子供が一緒に教育されると、一人の子供の痛み、快楽の否定、悲しみが次第にある程度まで全員に及ぶ」こうして他人の苦しみが自分の観念と結び付けられ、憐れみの感情が生じるのである。博愛と正義は私たちの心の中で仲間の尊敬、互恵、将来の報酬の希望と結びついている。これらのものは最初これらに結びついているものゆえに、最終的にはそれ自身ゆえに愛されるのである。一方、反対の連想の流れは、悪意と不正に対する反発を生み出す。全体として、このようにして徳は私たちの愛情の最高の対象となるのである。私たちのすべての快楽のうち、徳と呼ばれる行為から得られるものは、他のどの源泉から得られるものよりも多いのである。他人の徳の高い行為は私たちに数え切れないほどの利益をもたらす。自分の徳は人々に尊敬されることと好意によって報われる。すべての称賛の形容詞は徳に、すべての非難の形容詞は悪徳に使われる。宗教は一方に無限の快楽の期待を、他方に無限の苦しみの恐怖を結びつけることを教えている。こうして徳は楽しいことという概念と特別に結びつくようになる。徳はやがてこれらとは無関係に、またそれ以上に愛されるようになり、それを実践することに快楽の輝きを感じ、それを犯すことに激しい苦痛を感じるようになるのである。こうして生まれた良心は私たちの生活の支配原理となり、それに背くくらいならこの世のあらゆるものを犠牲にするようになった私たちは、観念の連合によって、ヒロイズムの最も高い領域へと昇っていくのである。(*というのがハートリーの主張である)

 

 このある意味では空想的であると私が考える独創的な理論の影響力は、その信奉者の能力よりも、数に左右されている。それはイギリス国外ではほとんど知られていないと思われるが、イギリスでは非常に多様な考え方を持つ人々を大いに魅了し、他の形の帰納理論に対する反論のいくつかを間違いなく言い抜けることができる。例えば、直観的モラリストが私たちの道徳的判断は瞬間的であり、共感や反感の明白な衝動の下に行われるため、功利主義者が還元する利害関係の冷徹な計算からは最もかけ離れていると主張すると、私たちの判断の近因となる感情を生み出すには観念の連合だけで十分だと返答できるのである。この学派のモラリストの中でハートリーの弟子だけが良心を人間の本性の重要な要素として認め、先々を考えることなく、徳そのものを幸福の一つの形として愛することが可能であると主張している。この理論が教育に帰する計り知れない価値は、教育に並外れた実践的重要性を与える。私たちが罪と徳の間でバランスをとるとき、私たちの意志は必然的により大きな快楽の方に傾く、とこの理論は言う。もし私たちが徳よりも悪徳に多くの快楽を見出すなら、私たちは必然的に悪に傾く。もし悪よりも徳のほうに快楽を見出すなら、私たちは不可避的に善のほうに引き寄せられる。しかしこのような動機の強さは、幼少期の観念の連合によって計り知れないほど強められるだろう。幼い頃から称賛や快楽の観念を徳と関連付けることに慣れていれば、私たちは容易に徳の動機に屈し、悪徳に対してそうであれば悪徳の動機に屈するだろう。このように一方または他方の動機に容易に屈することが性質を作るのである。この性質はこうしたモラリストによれば教育の産物であり、観念の連合によってもたらされる、完全に人工的なものだということである。

 

 この理論は洗練された、堂々たるもののように見えるかもしれない。しかし本質的には依然として利己的なものであることが分かるだろう。徳への愛によってこの世のあらゆるものを犠牲にするときでさえ、善人は自分の最大の楽しみを求めているだけであり、自分が見送ったものよりも多くの快楽を与える一種の精神的贅沢を満喫しているのである。ちょうど守銭奴があらゆる形の消費よりも蓄積に多くの快楽を見出すのと同じである。確かにこの環境からこの理論を解放しようとする試みが一つあった。しかし私には全く無益なものと思われる。人は最初、快楽を得るために有害な過食にふけるが、その習慣が身につくと快楽を得られなくなった後もそれを続け、同様の法則が徳の習慣の場合にも働くと言われてきた。しかしある習慣を身につけた人が、それが積極的な楽しみを与えなくなった後もそれを実践し続けるのは、それをやめると激しい精神的苦痛にも等しい落ち着かなさや不安が生じるからである。その苦痛を避けることが行動の動機になっているのである。

 

 私が注釈に記した文章を熟読された読者は、功利主義の論者たちが利己主義という誹りを彼らの体系に対する中傷として、どれだけの義憤に基づいて非難しているかを理解できるだろう。人が苦しみを避け、可能な限り大きな楽しみを得るために行うすべての行為を利己的すなわち私利的であると表現することは、こじつけでも不自然でもないと私は考えている。もしそう表現するならば、利己的という言葉はこの体系のすべての部門に完全に当てはまる。同時に、最後に指摘した功利主義者の洗練された快楽主義とホッブズ、マンデヴィル、ペイリーの著作の間には大きな違いがあることも認めなければならない。また少なからぬ直観的モラリストやストア派のモラリストが、徳から得られる快楽について、これらの論者とほとんど変わらない言葉で語っていることも認めなければならない。帰納的学派の初期メンバーの主な目的はすべての最も高貴な行為を粗雑で利己的な要素に分解することによって、人間の本性を自分たちの水準まで低下させることだった。この学派の後期メンバーのうち、より影響力のある何人かの主な目的は、幸福と利益に関する彼らの概念を最高のヒロイズムの発露を包含するような形へと昇華させることだった。これまで見てきたように彼らは良心は実在するものであり、私たちの人生の最高の指針となるべきものであるということを完全に認めているが、それは元来利己主義から生まれ、観念の連合の影響下で変化したものであると主張している。また彼らは共感的な感情の実在を認めるが、その源泉は通常同じもの(*観念の連合)に由来していると言うのである。確かに彼らはその原則に矛盾せずに、言葉の厳密な意味での無私の行為の可能性を認めることはできない。しかし彼らは、人が他人のために自分を犠牲にすることに最高の快楽を見出すことは十分に可能であり、徳と快楽の結合はそれが習慣的に自発的で打算のない行動につながるときにのみ完全である、そして罪を犯すことにその結果得られる快楽よりも多くの苦痛を感じない人間は健全な道徳的状態にはない、と主張するのである。理論そのものの原理は変わっていないがこうした論者の手にかかって、その精神は完全に変化してしまったのである。

 

 このように帰納的理論のさまざまな修正について、簡潔ではあるが明確かつ正確に説明できたと思うので、私はこれに対して提起された、あるいは提起されうる主要ないくつかの反論に進むことにしよう。そして私たちの道徳的感覚は私たちの構造の本質的な部分であって教育によって発達するが、教育に由来するものではないと信じる人々の意見を定義し、弁護することに努め、その進化の道筋を調査してこの章を終えることにしたい。そうすることによって道徳の自然史をある程度理解し、その後の章において道徳の正常な進歩が宗教的または政治的な機関によってどの程度加速、または遅延されたかを判断することが可能になるだろう。

 

 「心理学とは発達した意識にすぎない。」(*サー・ウイリアム・ハミルトン、1788―1856)とはよく言ったものである。モラリストが私たちは徳と呼ぶものはその評価をもっぱら有用性から得ており、それを実践する動機は行為者の利益や快楽にあると主張するとき、私たちの最初の疑問は当然、この理論が人間の感情や言葉とどこまで一致しているかということである。しかしこの基準で検証するならば、功利主義ほどきっぱりと断罪された学説はない。そのすべての場面において、またすべての主張において、それは共通の言葉と共通の感情に真っ向から対立しているのである。あらゆる国、あらゆる時代において、一方の利益と実用、他方の徳という理念は多くの人々によって完全に異なるものと見なされてきたし、あらゆる言語がその区別を認めている。名誉、正義、正しさ、徳、およびあらゆる言語におけるこれらに相当する用語は、慎重、賢さ、または利益という用語とは本質的かつ明白に異なる考えを心に抱かせるものである。この二つの行動指針は一致することもあるが、決して交じり合うことはなく相反するものであると想像することには少しの困難もない。人が高い名誉意識や強い道徳的感情に支配されていると私たちが言うとき、それは彼が打算的に自分自身の利益や社会の利益を追求していることを意味しない。人類の普遍的な感情は自己犠牲を称賛に値する行為の本質的要素と見なす。自己犠牲とは見返りの快楽を期待することなく、意図的に最も快楽的ではない道を歩むことを意味する。利己的な行為は、罪はなくとも、徳とはなりえない。すべての善行を利己的な動機のせいにすることは徳の歪曲ではなく否定である。エピクロス主義者が大衆の前で自分の人生の目的は自分自身の幸福の追求であると宣言したなら憤慨と軽蔑の声が上がらないわけがない。利己的な理論によると(*有用性だけが)行動の唯一の合理的で実際的な動機であるという―このことを、その人格を卑しめ、貶めることなく、意識的に自分のすべての事業の計画の目的にすることは、誰もできない。自分の内面を見ようが、敵や味方の行動を調べようが、歴史やフィクションの登場人物を裁こうが、この問題に対する私たちの感情は同じである。個人的な楽しみへの欲求が善行の動機であると信じられるのと全く同じ分量だけ、その行為者の功績は縮小される。もし私たちがその動機を完全に利己的なものであると信じるなら、その功績は完全に失われる。もし、私たちがその動機を全く利己的なものでないと信じるなら、その功績はまったく純粋なものである。それゆえプロメテウス(*人類に火を与えたため、三万年間ワシに肝臓を啄まれるという刑罰を受けた)の、すなわち全能の神の悪意に絶え間ない苦しみを受ける徳、あるいは来世の報酬を期待しない無神論者が共同体の利益にならない意見を棄てるのではなく、それを真実であると信じたために恐ろしい死を遂げたことが称賛されるのである。すべての時代、すべての国、すべての人々の判断が、これまでに行われたあらゆる高貴な行為の特徴であったと宣言したこの自己犠牲を利己的モラリストは否定する。もし意識の光によって私たちの道徳的存在の法則を読み解こうとする哲学が、哲学体系を構築しようとはせず、ただ意識に従ってきただけの人類の大多数が到達した結論と真っ向から対立することが明らかになるならば、一般的な倫理用語によるほとんどの区別は全く意味のないものになってしまう。そして、このことは少なくともその真実に対する強烈な傲慢であると言えるだろう。モリエール(*1622―1673、フランスの俳優、劇作家)の主人公が生涯、散文体というものを知らずにそれを話していたとしたら、それは単に散文とは何なのかを理解していなかったということである。この場合、私たちは人が全ての語彙を使って論じていた自分の人生の主たる原理について完全な錯覚に陥っていたことを認めなければならない。

 

 このような場合、求める快楽が野卑で物質的な楽しみではなく、徳を実践したという満足の場合はまた別であると言われている。もし徳の高い人物の動機の一つが、自分が払った犠牲を補って余りあるほどの強烈な満足がその行為の後に待っているという確信であると人々が(*実際には納得できないが)納得できたなら、その違いは思ったほど大きなものではないと私は思う。しかし実際―そして、思うにこのテーマに関する人々の意見の根底にある意識として―徳の快楽はそれが追い求める対象ではないという明確な条件下でのみ得られるものである。この種の現象を私たちは皆知っている。例えば祈りはすべての超自然的な介入とは別に、人間の本性の法則によって祈祷者の心に非常に有益な影響を与えることがよく知られている。熱烈な真剣さ、揺るぎない信仰、そして目に見えない存在の存在を鮮明に実感しながら祈りを捧げる人の心は、それ自体が自分の幸福と道徳的資質の向上に極めて有益な状態にまで高められているのである。しかしそれ以上の何も期待していない人物は決してこの境地に達することはできない。自分の請願に応答があることを信じもせず、望みもしない者がそのような精神状態になることはあり得ない。聖母像の前でプロテスタントが、異教徒の偶像の前でキリスト教徒が、そこに達することはありえない。もし祈りがこの利益のためだけに捧げられるなら、それは絶対的に不毛なものであり、すぐに終息してしまうだろう。また同様に、ある政治経済学者たちは慈善のために金銭を与えるのは無駄である以上に悪いことであり、社会にとって明らかに有害であると主張している。しかし彼らはさらに、私たちの博愛の情を満足させることは私たちにとって喜ばしいことであり、この源泉から得られる快楽は私たちの贈り物から生じる悪よりも非常に大きいかもしれない、したがって私たちが「最大幸福の原則」に従って隣人をわずかに傷つけることでこの自分たちの大きな満足を買うことは正しい、と言っている。この功利主義的倫理学の非常に特徴的な標本に関する政治経済学については、後で検討することにしよう。ここでは、この動機のためだけに意識的に博愛を実践する人物は目当てとする快楽を得ることができない、ということを観察するだけで十分である。私たちは自分が善を行ったという思いから楽しみを得る。もし自分が害を与えていると信じ、それを自覚していたならそのような楽しみを得ることはできない。同じことが良心の充足にも顕著に当てはまる。義務を果たせばそれだけで満足感が得られるが、精神的な快楽の期待のためだけに義務を果たすのであれば、良心はその取引の承認を拒否するのである。

 

 人間の性質の道徳的な部分と、その他の部分との間には、種類と程度の両方において大きな区別があるということは最も顕著な事実である。しかし功利主義的な原則に照らせば、このことはまったく説明がつかない。もし徳の卓越性が人間の幸福を促進する実用性や傾向のみにあるとするなら、私たちの通常の道徳観念とはまったくかけ離れた行為の数々を列聖(*canonise)せざるを得ないだろう。社会の生理を明らかにする政治経済学や哲学史は、いわゆる有徳の行為よりも、利己的な行為の方がはるかに人類の幸福と福祉を発展させている、という全体的な傾向を示している。国家の繁栄と文明の進歩は主として、自己の利益を忠実に追求しながらも、無意識のうちに共同体の利益を促進した人々の努力によるものである。人に蓄財をさせる利己的な本能は、人に施しをさせる思いやりある本能よりも最終的に世界に多くの利益を与えている。ある偉大な歴史家は社会にとって知的発達は道徳的発達よりも重要であると力説した。しかし、これらを隔てる区別の真実が真剣に問われたことがあっただろうか。読者はおそらく、その区別の鍵は動機にあると叫ばれるだろう。しかし、行為者の動機は行為の道徳性に絶対的に影響を与えない、というのは功利主義学派のパラドックスの一つである。ベンサムによればあり得る動機はただ一つ、自分自身の楽しみを追求することである。このテストによって評価するならば最も有徳の行為も、最も悪徳の行為も、最も無関心な行為もまったく同じことになる。したがって動機の調査は私たちの道徳的判断から完全に排除されるべきなのである。どんなテストを採用しようとも、人類が徳に与えたユニークで卓越した地位を説明する難しさは残るだろう。傾向によって判断するならば、夢にも徳と見なされたことのないような数多くの物や行為が人間の幸福に大きく寄与している。動機で判断するならば、私たちが論評しようとしているモラリスト(*功利主義者)は打算的な動機と有徳の動機との属性の違いをすべて否定している。意図で判断するならば、真実や貞節が人類の幸福にどれほど貢献しようとも、それらの徳が博愛的な意図によって培われたのではないことは確かである。

 

 直観的モラリストの推論は、ある行為を正当化する際に、それに人類の幸福を促進する傾向があると訴えることによって、絶えず自分たちの原則を放棄するという罪を犯している、とよく言われる。またこの告発は通常、そうした傾向を持たない自明の徳を示してみよ、という挑戦を伴う。最初の異議に対しては、直観的なモラリストは博愛や慈善、言い換えれば人間の幸福の促進が義務であることを夢にも疑おうとはしない、と短く答えられるだろう。彼はそれがその通りであるというだけでなく、自分たちは直接的な直観によってこの事実に到達したのであって、そのような行動が自分の利益につながるという発見によって到達したのではない、と主張する。しかし彼はこのような徳の部門を心から承認し、徳を擁護するためにその有益な効果を主張する完全な権利を有する一方で、すべての徳がこの単一の原理に還元されうるとは認めない。人類の一般的な感情によって、彼は慈愛をそれが世の中の役に立つというだけの理由で良いものだと考えている。同じく人類の一般的な感情によって、彼は貞節と真理には幸福に資する影響とは別の、独立した価値があると信じている。公認されているすべての徳が人間に幸福をもたらすかどうか、という質問に答えることはより難しい。なぜなら行為の遠隔的な帰趨を推定することは通常きわめて困難であり、人類の一般的な認識では、道徳が非常に明確であっても、その結果はしばしば非常に不明瞭だからである。功利主義の論者はその大変な精度の高さを自慢するが、彼らが公言するところの道徳を測る基準はそれ自体、定義することも正確に説明することもまったくできないものである。幸福は最も曖昧で定義できない言葉の一つである。そして「可能な限り最大の幸福」とはどのようなものなのかを、誰も正確に言うことはできない。二つの国家でさえ、おそらく二人の個人でさえ、意見が同じということはないだろう。また、たとえすべての有徳の行為が疑いなく有用であったとしても、その徳がその有用性(*功利性)に由来するものであるとは決して言えない。

 

 一般に私たちが有徳と呼ぶ行為は、本人はともかく、少なくとも全体として人類に幸福をもたらすということは容易に認められるだろう。しかしそれらは功利主義の原理においてその行為に与えられているユニークな位置づけが示唆するような、有用性の独占性や優位性を決して持っていないということはすでに見たとおりである。さらに行為をその結果によって詳細に評価するなら、たちまち非常に驚くべき結論に至ることもつけ加えて良いだろう。第一に、徳は人類の幸福を促進するからこそ善であり、悪徳は人類の幸福を損なうからこそ悪であるとするならば、卓越性または犯罪性の程度は、有用性の程度、あるいはその逆と厳密に比例しなければならないことは明らかだろう。社会のあらゆる行為、あらゆる気質、あらゆる階級、あらゆる状態は人間の幸福を増進させ、あるいは減少させる程度に応じて、道徳的尺度の上に正確にその位置を占めなければならない。さて、ほとんど名前を挙げることもできないような最も怪しからぬ官能のいくつかの形が、気質の欠陥、怠慢、判断の軽率さなどと同じくらいの不幸を引き起こすかどうかはきわめて疑問である。自分の能力を信じず、争いから謙虚に身を引く、控えめで遠慮がちで内気な性質は、あらゆる闘争に駆り立てられ、あらゆる能力を開発する大胆で傲慢な性質の自己主張よりも全体として世界に対して生み出す利益が少ないことは疑いようがない。感謝は間違いなく人生の交わりを和らげ、甘美にするために大いに貢献してきた。しかしそれとともに復讐の感情は何世紀にもわたって社会の無秩序に対する一つの防波堤であったし、現在でも犯罪を抑制する主要な手段の一つである。公職の大舞台で、特に情熱が激しく奮い立つ大混乱の時期に世の中に最も利益をもたらすのは繊細な宗教的罪悪感(*scrupulosity)と誠実な公平さを備えた人間でもなければ、偽装や先送りのできない一途な宗教熱心家でもない。むしろ目的に対しては真剣だが、手段に対しては無節操で、良心の束縛からも熱意の盲点からも等しく自由で、その時代の情熱や偏見に部分的に身を委ねることで統治する敏腕政治家のほうである。しかし、現代の論者がいかに成功した英雄を偶像化しようとも、また大いなる寛容と厳正な節操のために戦いの指導者にはなり得ない、はるかに気高い人々を軽蔑し嘲笑しようとも、こうした場合に功利性を損なう繊細な誠実さを悪徳であると主張する人はまだほとんどいないのである。実用性が唯一の徳の尺度であるならば、引き起こす害悪よりも防ぐ害悪の方が大きいどのような人たちに対しても私たちが道徳的に顔をしかめることは理解できない。しかし、そのような原理によって功利主義の殿堂に奇妙な巫女を見つけることができるかもしれない。聖アウグスティヌス(*ヒッポの、AD354―430)は言った"Aufer meretrices de rebus humanis,turbaveris omnia libidinibus."(*人間社会から娼婦を排除しなさい。あなたを悩ませているのはそのすべての情欲なのである)

 

 自分の人生を一貫して功利主義によって律することを目指す質問者がいたとしよう。彼は自分の利益と義務との明白な乖離から生じるこの学派の最初の大きな困難を克服し、そうした乖離は存在しないと自分自身に言い聞かせ、それに応じて義務の追求を自分の唯一の目的としたとしよう。そして彼がどのような道を行くかを考えてみよう。彼は人間の行為に幸福以外の目的や規則があると考えるのは純粋な幻想であること、その結果を離れて本質的に良いもの、本質的に悪いものはないこと、有用な行為が悪であるはずがないこと、有用性はその行為の価値を成すものであり、測るための尺度であることを吹きこまれている。彼の最初の観察の一つは、世間が犯罪と呼ぶ殺人、窃盗、虚偽などの行為は大多数の場合において間違いなく有害であるが、非常に多くの特別な場合に明らかに善を生み出すように見えるということだろう。では、なぜこのような場合に実行してはならないのか、と彼は尋ねるだろう。答えはこうである、なぜなら私たちは行為の直接的な影響だけでなく遠隔的な影響も考慮しなければならず、特定の場合には虚偽や殺人さえも有益に見えるかもしれないが、生命と財産の神聖さを維持し、真実性の高い水準を守ることは人類の最も重要な利益の一つだからである。しかし、この回答は明らかに不十分である。回答者は世間で犯罪と呼ばれる一つの行為が社会の大きな防波堤を弱体化させる度合いが、それが生み出す直接的な善と釣り合うものであることを示さなければならない。釣り合わないならば天秤は幸福の側に傾き、殺人や窃盗や虚偽は有用であり、したがって功利主義の原理によれば徳になるであろう。さて公的な行為の場合であっても、無名の個人の例がもたらす効果は通常小さいが、その行為が完全な秘密裏に完遂されるならば、その例がもたらす悪しき効果は全くないだろう。人々が犯罪と呼ぶものを秘密裏に実行する許可を人々に与えることは危険であると言われてきた。これは功利主義者がこうした原理を宣言すべきではない非常に正当な理由かもしれない。しかし彼がそれに基づいて行動しない理由にはならない。ある人が有用な行為が犯罪であるはずがないと確信し、犯罪と呼ばれるものを犯すことによって直ちに大きな有用性のある目的を達成することができ、その行為が前例となることがなく、結果として道徳の一般水準に影響を及ぼさないことが完全に確実な、絶対的な秘密が確保できるならば、実用主義の原理に基づいてその実行は正しい、と言う論証は確かに可能だろう。もし私たちが徳と呼ぶものが役に立つからこそ徳であるとするならば、それは役に立つときにのみ徳となり得るのである。したがって多数者の行為の道徳性の問題はそれらが発見される確率に依存するはずである。そして、ちょっとした巧妙な偽善は単なる見た目だけではなく現実に、しばしば悪徳を徳に変えてしまう。こうした結論から逃れるためにもっともらしく試みられた唯一の反論は、その行為は実行者の性質を損なう、言い換えるなら別の機会に社会にとって概して有害な行動をさせやすくするという主張だった。しかし第一に、一つの行為が目下の大きな美点を打ち消すほどの影響を性質に与えることはない。特に私たちが考えてきたように、その行為が正しいと信じられているものに対する反逆ではなく、道徳の一つの確かな規則に則っていると完全に信じられている場合にはそうである。また第二にその行為が習慣となる限り、それはあらゆる場合にその有用性を正確かつ詳細に計算した上で行動を決定する習慣と言っていいだろうが、これはまさに功利主義の徳の理想といえるものである。

 

 もしこの質問者が強い想像力を持ち、孤独を愛する人物ならば、彼が想像の世界に長く住むことに慣れているというのはありがちなことである。この世界には喜びや悲しみ、誘惑や罪など、彼にとって生身の人間と同じくらいリアルな存在が住んでいる。人間の本性にある普通の感情に従って、彼は想像上の罪と長い間苦闘してきたかもしれないが、それを行動の罪に変えるよう真剣に誘惑されたことはない。しかし彼の新しい哲学は彼の心を慰めるのに見事に相応しいであろう。もし自責の念が起こらないなら、最も悪質な想像への耽溺は快楽であり、この耽溺が行動に結びつかないなら、それは明らかな利益であり、したがって称賛されるべきものである。ある過程が想像の中で遂行され続けても、それに見合う行動に結びつかないことに彼はすぐに気付くだろう。そして実際フィクションに対する主な反論の一つは、想像上の存在のために絶えず同情心を用いることは、明らかに人を積極的に現実的な慈愛に向かわせないということである。

 

 さらに話を進めると、このモラリストは功利主義の計算において非常に大きな役割を果たす遠隔結果説を正当化する理由をすぐに見出すだろう。人間を殺すことは、たとえその犯罪が大きな有用性を生むと思われる場合でも犯罪であると言われる。なぜなら殺人の事例はすべて、生命の尊厳を弱体化させるからである。しかし経験上、人間がある特定の人間の生命に完全に無関心でいることは可能であり、その無関心が他の部分にまで及ばないことが可能である。例えば古代ギリシャでは貧しい両親が子供を殺したり市場で売ったりすることが最も絶対的な冷淡さをもって継続的に行われていたが、成人の生命の尊厳に何の影響も与えなかった。同様に宗教的な不正直さと呼ばれるもの、あるいは有用な迷信と見なされるものを、それが誤りであることを意識しながら、あるいは少なくともそれを無効としうる事実を抑圧したり誤魔化したりして伝播する習慣は何ら産業的(*industrial、以下この訳語は「勤勉な」というニュアンスを含むこととする)不正直さを意味しないのである。投機における極端な不正直さとビジネスにおける細心の正直さの同居は最もありふれたものである。もし功利主義的理論に一致する悪があるとしたら、それは残酷さだろう。しかし動物に対する残酷さは人間に対する残酷さにつながることなく存在しうる。動物の苦しみが主要な要素になっている見世物が人格に有害な影響を及ぼす場合でさえ、それが最終的にもたらす人間の不幸の分量が、それが直ちに与える情熱的な楽しみとまったく同等であるかどうかは十二分に疑わしい。(*と言うのが功利主義的理論である)

 

 しかしこの考察は、功利主義理論の新たな、そして私にはほとんどグロテスクとしか思えない展開に注目することを必要にする。長い間あまりに軽視されてきた動物に対する人間の義務は、直観的モラリストの原則に基づけば容易に説明し、正当化することができる。(*功利主義論者によると)私たちの境遇や性格は私たちが接触するすべてのものに対して、多くのさまざまな愛着を抱かせ、私たちの良心はこれらの愛着が善であるか悪であるかを判断する。私たちは親切や慈愛が良い愛着であると感じ、またそれは異なる階層に異なる程度で存在すると感じる。この義務は子供を生んだ責任のある親や、親に恩義を感じている子供だけでなく、そのような特別な絆のない兄弟にも適用されるのである。だから私たちは同胞に対して他人よりも強い関心を持たないことは不自然であり、間違っていると思う。同じように私たちは動物に対して示すのが自然であって正しい慈愛と、私たち自身の種に対して示すべき慈愛との間には大きな隔たりがあると感じるのである。強い博愛主義は人肉食と共存できないし、犠牲者の皮を手に入れるため、あるいは些細な不便から解放されるために、人間の命を奪うことに何のためらいもない人物は、その慈悲(*benevolence)を称賛されることはほとんどないだろう。しかし、自分の食物、快楽、便宜のために動物の命を犠牲にすることに何のためらいもない人間は、動物に対して非常に慈愛深い(*humane)と見なしても良いかもしれない。

 

 前世紀末になるとイギリスでは動物に対する慈愛を支持する精力的な運動が起こり、当時勢力を伸ばしていた功利主義のモラリストたちは、その時代の精神を受け止め、それを拡大するために非常に名誉ある努力をした。しかし人間の幸福を増進すること以外に徳の目的を認めない理論では、この運動に適切な基盤を与えることができないことは明らかである。そこで最近のこの学派のメンバーにはその理論を拡大し、この楽しみや苦しみが人間のものか動物のものかということには全く関係なく、その行為が幸福という最終結果をもたらす場合には徳があり、苦痛という最終結果をもたらす場合には悪であると主張している。言い換えれば彼らは動物に対する人間の義務を同じ人間に対する人間の義務と全く同じに扱い、(*行為する側の)人間にとってより大きな幸福を生み出さないような苦しみを獣に与えることは正しくないと主張しているのである。

 

 この理論に対する最初の反論は、帰納学派の原理に基づいてどうやってこの理論に到達できるのかが理解しにくいということである。ここまで見てきたように、この論者たちによれば博愛は利害関係から始まる。私たちは何よりも自分にとって有益であるがために他人(*を憤慨させないため)に善を行うが、その習慣の力は最終的に利害とは無関係に作用することがある。しかし残忍さに憤慨することのない(*狩猟の対象としての)動物の場合には、このような利己利益の根拠はほとんどの場合存在しない。しかし、おそらくは観念の連合がこの難問を解決し、人間の社会的関係から生まれた博愛の習慣がついに動物界にも及ぶのかもしれない。しかし動物に対する義務が人間に対する義務と同様に扱われるようになることを私は予想しないし、(非人道的と非難される危険があったとしても)望まないと言っておかなければならない。それによって得られる快楽が、動物の生命を奪うことによって得られる快楽と同じく、動物に与える苦痛を上回ると確認しない限り、誰も動物の皮の服を着たり、動物の肉を食べたりしなくなる時代が来るなどと想像できないからである。このような計算の下で功利主義者が動物の肉を食べ続けなければならないなら、彼の原理はさらに進んだ結論に達するかもしれないが、私は正直言ってそれには反対である。スウィフト(*ジョナサン、1667―1745)が半ば餓死状態の住民が余った赤ん坊を食用にすることを支持する有名なエッセイを書いていたとき、より進んだモラリストによれば子供を食べるのと羊を食べるのはまったく同じことであり、一つのケースは他のケースと同じであり、その食事が全体として苦痛よりも快楽を生み出すかどうかが唯一の問題である、と知らされていたなら、その発見は彼の仕事は大いに楽なものにしていたはずである。

 

 功利主義的原理がその論理的帰結を完全に推し進めれば、時に主張されるように、通常の道徳観念とは決して一致しないこと、それどころかそれ自身が説明しようとしている道徳感情とは全く、とんでもなく相反する結論に至ることを示すために、私が提示した考察は十分だろう。私はそれが特に革命的なものになると信じている二つの大きな分野について非常に簡単に言及して、議論のこの部分を締めくくることにしようと思う。

 

 その第一は貞操の分野である。この徳に関する問題については詳細に書く必要があるのだろうが、そうすればこの著作の中で私が望む以上の長さになってしまう。現時点ではただ純潔の本質的な卓越性や気高さに関するあらゆる概念が追放された精神を想像し、そのような精神で、アテネの栄光の時代やイギリスの王政復古期のような官能がほとんど抑制されていなかった時代と、道徳が厳格だった時代とを、功利的基準で比較することを読者にお願いするだけにしよう。これらの社会の中でどれが道徳的に最も優れていたかという問題を解決するのは、どれが最大の楽しみと最小の苦しみを生み出したかということだけなのである。家庭生活の快楽、より自由な社会的交流から生まれる快楽、貞操の掟を破った者に与えられる苦しみの程度、それぞれの生活様式における幸福と人々の行く末が、比較するべき主な要素になるだろう。このように比較した結果、楽しみのバランスが間違いなく厳格な社会の側に大きく傾いて、その優位を正当化するなどと誰が信じられるだろうか。

 

 第二の領域は思索的な真理の領域である。迷信に対する断固たる敵意を最も尊重しているは功利主義者たちである。しかし彼らの原理がそのことを正当化できるかどうかは大いに疑問である。多くの迷信は奴隷的な「神々への畏れ」というギリシャの概念に間違いなく当てはまり、人類に言いようのない不幸を生み出してきた。しかしそれとは別の傾向のものも非常に数多く存在する。迷信は私たちの希望にも恐怖にも等しく訴えかける。迷信はしばしば心の奥の切なる願いに応え、それを満足させる。理性が可能性や確率しか与えないときに、迷信は確信を与える。想像力が喜ぶような概念を与えてくれる。時には道徳的な真理に新しい承認を与えることさえある。自分だけが満たすことのできる欲求や、自分だけが鎮めることのできる恐怖を生み出し、しばしば幸福の本質的な要素となる。その慰めの力が最も感じられるのは、それが最も必要とされる物憂い時や困難な時である。私たちは知識よりも幻想に多くを負っている。おそらく全体として建設的な想像力は、思索の領域において主に批判的で破壊的な理性よりも私たちの幸福に大きく貢献しているのである。危険や困難の時に野蛮人が自信たっぷりに胸に抱く粗末なお守りや、神聖で守護的な力を持つと信じられている貧しい田舎家の聖画像は、人間の最も暗い苦しみの時に、哲学の最も壮大な理論が与えられるものよりも、もっと真実の慰めを与えることができる。心の第一の欲求は寄りかかるものを見つけることである。幸福とは環境の問題ではなく感覚の問題である。そして一般的な心にとって、苦痛や悩みをもたらす疑念を排除することは幸福の第一条件の一つである。信仰のシステムは虚偽で迷信的で反動的なものであっても、それが大勢の人々に万物の鍵と信じるべきものを与え、賢明な理性の慰めが空言に過ぎない、苦悩に満ちた死別の時に彼らを慰め、病にあって死が近づいてくる陰鬱な時に彼らの弱弱しくよろめく心を支えるならば、人間の幸福に資するだろう。信心深く迷信深い性質は堕落するかもしれないが、迷信が迫害や恐ろしい形を取らない多くの場合にはそれは不幸ではない。また功利主義的倫理では不幸のない堕落はあり得ない。批評精神が広く存在すれば心地よい信念はすべて残り、痛みを伴う信念だけが消えるという想像は最も重大な誤りだろう。心に無知の自覚と疑念の激痛を受け入れるということは、多くの苦しみを背負い、それに耐えることである。その苦しみは(*迷信の否定へと)移行した後も続くかもしれない。ルター(*マルティン、1483―1546)の妻は自分が捨てた感覚的な信仰を悲しげに振り返りながら「昔の信仰ではとても頻りに、とても熱心に祈ったのに、今の祈りはあまりに少なく、あまりに冷たいのはなぜでしょう?」と言った。セラピオンという老修道士は擬人化論の異端を信じていたが、兄弟修道士によって全能の神に人間の姿をとらせることの愚かさを確信させられた、と言われている。彼は謙虚に理性をカトリックの信仰に従わせた。しかし彼が祈るためにひざまずくと、彼が想像し長年にわたって愛情を注いできたイメージが消えてしまった。そして老人は泣き出して「あなたは私の神を奪った。」と叫んだのである。

 

 これらは意見(*opinion、見解、世論、)の歴史に関心を持つすべての人々にとって、実に痛々しい事実だろう。喜ばしい虚偽を広く伝えたり、少なくともそれを続けさせたりすることがしばしば追加する幸福と、その消滅が一般的にもたらさずにはおかない苦しみの可能性を合理的に否定することはほとんど不可能である。人々が教えられたことを批判的に見直すことを常に正当化することを可能とする一つの、たった一つの適切な理由がある。それは意見を単なる精神的な贅沢品と見なすのではなく、真理を実用性とは別の、またそれに優る目的と見なすべきであり、それが快楽につながろうが苦痛につながろうが、それを追求することは道徳的義務である、という確信である。古代がピタゴラス(*BC582―496)に帰した多くの賢明な言葉の中でおそらく最も注目すべきなのは、彼が徳を二つの枝に分けたことである―真実であること、そして善を行うこと。

 

 功利主義者によると徳への唯一の動機をなす制裁のうち、ここまで述べてきたように、例外なく適切なものが一つある。人が宗教的制裁を採用するならば、常に徳に有利なように利害のバランスをとることができる。しかし現代の功利主義者の大多数は、大胆にも自らの理論をあらゆる神学的考察から切り離している。そこで私は二、三の指摘をもってこの制裁を退けよう。

 

 第一に、神の恣意的な意志を道徳の唯一の規則と見なすならば、神の属性を私たちの称賛に値するものと表現することが完全に無意味になるのは明白である。神の善さについて語ることは神の行いがそれに適うような善という性質の存在を意味するか、あるいは意味のない同語反復であるかのいずれかである。その意志と行為が完全性の唯一の基準や定義である存在の完全な善性を、なぜ私たちは称賛しなければならないのか。あるいはどのように称賛できるのだろうか。神の恣意的な意志が道徳の唯一の規則である、そして将来の報酬と罰の予見がそれに従う唯一の理由である、と説く理論は二つの部分から成っている。前者は神の善を消滅させ、後者は人の徳を消滅させる。

 

 第二の同様に明白な指摘は、これらの神学者が将来の報酬の希望と将来の罰の恐怖を正しいことを行う唯一の理由としている一方で、これらの報酬と罰の存在を信じる私たちの最も強い理由の一つは得点(*merit)と失点(*demerit)に関する根深い感情であるということである。現在の状況が多くの点で不公平であること、(*天国で)報いを受けるべき道にはしばしば苦しみが伴い、(*地獄で)罰を受けるべき道には幸福が伴うことが、人を来世の応報を推し量る方向へ導くのである。意識の不毛を脱するなら、この推論はもはや成り立たないだろう。

 

 第三の指摘は、これも同じように真実であると私は考えるが、同じように快く受け入れていただけないかもしれない。それは道徳的能力というものに同意できないなら、功利主義的な神学者が仮定する創造主の至高の善性は、自然からは全く証明できないということである。私たちは陽光に輝く昆虫の喜び、動物界に惜しみなく与えられた保護の本能、親の子に対する優しさ、小さな子供たちの幸せ、自然の美しさと恵みに示されている博愛について語る。しかし、この光景には別の面があるのではないだろうか?恐ろしい病気、数え切れないほどの略奪と苦しみ、体内に住みつき、知覚あるものの苦悶を糧とする腸内寄生虫、犠牲者の足掻きを喜んで長引かせる猫の獰猛な本能、被造物の無垢な部分の間に現れるあらゆる莫大な不幸の形、これらもまた自然のなせる業ではないのだろうか?私たちは神の真実性について語る。世界の知的進歩の歴史の全ては、自然の虚偽から自らを解き放とうとする人間の知性の一つの長い闘いに他ならないのではないだろうか。未開人の目に触れるあらゆる物体は彼の好奇心を呼び覚ますが、ただ単に彼を致命的な過ちに誘い込むだけである。彼の世界の周りを回る小さな光のように見える太陽、彼の道を照らすためだけに作られたように見える月と星、ダイモーンの実在の概念を抗しがたいほど示唆する奇妙な幻想的な病気、盲目的な力ではなく、特定の霊的作用の産物に見える自然の恐ろしい現象、これらのすべては致命的、必然的、不可避的に彼を迷信に追いやるのである。こうして生まれた迷信は長い時代に渡って世界を血で染めてきた。今では不可避の自然の法則であるとわかっているものに対して、何百万という祈りが空しく捧げられてきた。人類の長い幼児期が、自然の欺瞞的な外観によって普遍的に運命づけられている致命的な誤りから、人間の心は長年の努力の末に自らを解放したのである。

 

 そして富の法則においては、物事の現実と外見とがいかに異なっていることだろうか。何世紀にもわたって最も強力な知性をとても自然に絡め取った、国家間の利益の明白な対立に関する誤りが引き起こした戦争、それが引き起こした苦み、惨めさを誰が推し量ることができようか。そして、現代において科学が遅ればせながらようやくそれを払拭しに来たのである。

 

 これらのことに、私たちはどう答えればよいのだろうか。もし私たちがあるものはそれ自身の性質として善であり、他のものはそれ自身の性質として悪であるという知識を全く持っていないとしたら、この自然の光景からどうして完全な創造主の概念に至ることができるのだろうか?たとえ被造物の中に善意が優勢であることを発見できたとしても、自然の入り混じった属性はその設計者の入り混じった属性の反映と考えるべきだろう。私たちの至高の卓越性に関する知識、創造主の存在に関する最良の証拠は物質的な世界からではなく、私たち自身の道徳的な性質から得られているのである。それは理性によるものではなく、信念によるものである。言い換えれば、それは理性と同様に真に私たちの存在の一部であって、理性が決して教えることのできなかった道徳的な善の至高の超越的な卓越性を私たちに教え、この感覚の世界を不満として立ち上がり、別の領域に適応しようとするその願望のまさにその強さによって自らを証明し、同時に私たちの中の神の要素の証拠と私たちの前にある未来の兆しとなっている、本能的または道徳的性質から湧き出ているものである。

 

 これらのことは理論よりもむしろ感覚の領域に属するものである。その真理を最も深く確信している人々は、おそらく議論によってその確信の強さを十分に言い表すことができないと感じるだろう。しかし、あらゆる時代の最良で偉大な人々の記録された経験、地上のものの人間の本性を満足させることについての無力さ、個人と国家の両方においてこの願望を純粋で英雄的な生命が燃やし、利己的で腐敗した生命が曇らせたという明白な傾向、いかなる哲学と懐疑論もこれらを永久に抑制することができなかったという歴史的事実を指摘するだろう。私たちの道徳的本性の線は上を向いている。宗教と倫理の共通の根源はそこにある。たとえそれが実際には私たちの性質の中の最も弱い要素ではあっても、正しく至高で、威厳があり、信頼できるものだと教えてくれるものと同じ意識が、それが神聖なものであることを教えてくれるからである。人類を支配してきたすべての高貴な宗教は、その教えがこの性質と親和していること、一般的な宗教用語が正しく表現するように「心に」語りかけること、自己利益ではなく、すべての魂に潜在する自己犠牲という神聖な要素に訴えかけることによってそうしてきたのである。この道徳的性質の実在は、自然神学の一つの大きな問題である。なぜならそれは私たち自身とより高い存在の関係を含むからである。これがないのであれば造物主の存在は単なる考古学の問題であり、宗教は単なる想像力の働きに過ぎない。

 

 私は喜んで功利主義の世間的な制裁に戻ろう。その信奉者の大半はこれらの制裁は彼らの理論を立証するのに十分なものであると断言する。つまり言葉を変えるなら、正しく理解された場合、私たちの義務は私たちの利益と非常に厳密に一致するため、完全に賢明な者は必然的に完全に有徳の者になる、ということである。身体的な悪徳は最終的に身体を弱め、苦しみをもたらす。浪費は破滅に、抑えられない情欲は家庭の平和の喪失に、他人の利益を無視することは社会的・法的処罰につながる。一方、最も道徳的なものは最も平穏な気質でもある。博愛は私たちの最も真実の快楽の一つであり、徳は習慣によって楽しみに不可欠なものとなるだろう。一財産を築いた店主が、それでもカウンターに立ち続けることがあるのは、その日課が彼の幸福にとって必要なものとなったからである。そのように「道徳的英雄」は初め単なる自分の快楽の道具であった徳を、それ自体を他の何よりも貴重なものとして実践し続けることができるだろう。(*というのが功利主義者の主張である)

 

 徳と利益は完全に一致するというこの理論は、常にモラリストたちの常套句であり、徳を打算と捉えることを望まない多くの人々によって提唱されてきたが、一定の真実を含んでいることは間違いない。しかしそれはごく大まかな真実に過ぎない。それはすべての国に全体的にあてはまるわけではない。贅沢で女々しい悪徳が国民性を腐敗させ、衰弱させることは間違いない。しかし一貫した強欲、野心、利己主義、詐欺が国の繁栄を大いに助けることがあるのは古代ローマの歴史や少なからぬ近代君主制国家が十分に証明しているからである。それ(*徳と利益が一致するという理論)は世論による制限がなく、力が正義の唯一の尺度であるような不完全な社会組織には当てはまらない。また人類の最も文明化された部分にもごく不完全にしか当てはまらない。確かに洗練された社会において、ある程度の低い水準の徳が繁栄に不可欠であることを示し、抑制されない情熱の害悪を描き、社会の法律に背くよりも従う方が良いことを証明するのは簡単である。(*徳と利益は一致する)しかし犯罪者や酔っぱらいから目を転じて、周囲の人々の平均的なモラルと同じか、それをわずかに上回り、自分の健康にも評判にも害のない小さな悪習にふける人物と、自分の時代や階級のものよりもはるかに高い基準を真剣に、そして苦心して取り入れている人物を比較するならば、別の結論に行き着くはずである。(*徳と利益は一致しない)正直は最良の方策であると言われている―ただし、この事実は警察力の状況に大きく依存する―が、英雄的な徳は別の基盤の上に成り立っているはずである。どのような形であれ、幸福が人生の最高の目的であるとすれば、中庸は私たちの存在に対して最も強調されるべき勧告である。しかし中庸は悪徳と同じくヒロイズムと対立するものである。中庸によって培われたすべての知的または道徳的な卓越性は一般的に幸福を生み出す傾向を持っている。しかし大変な完璧さによって培われたならば、大抵のものはその逆の傾向を持つようになる。例えば知性の快楽の広大な領域に対して十分に開かれた心は、間違いなく無尽蔵の楽しみの原資を確保している。しかし、それゆえに最高の知的卓越こそ幸福に最も有利な条件であると推論する人物は、残念ながら欺かれることになるだろう。懸命な知的努力に伴う神経過敏の病、無知と空虚さから来る徒労感、深遠な研究の後によく起こる幻滅と瓦解は「多くの知恵は多くの悲しみであり、知識を増やすことは悲しみを増やすことである」(*聖書、コヘレトの言葉1章18節)という哲人王(*ソロモン、BC1011―931)の言葉の悲痛な木魂で文学を満たしているのである。知者たちの人生はほとんどの場合、古い神話の意識的、意図的な実現だった―知恵の木と生命の木が並んでいた。そして彼らは生命の木よりも知恵の木を選んだのである。

 

 またそれは道徳の領域でも同じである。幸福に最も資する徳は明らかに、多くの苦痛なしに実現でき、多くの努力なしに持続できるものである。法的および物理的な罰則はより粗悪で極端な形の悪徳にのみ適用されるものである。社会的な罰則は徳の最も高い形に向かうかも知れない。功利主義者がいつかすべての非社会的感覚を圧倒するほど強くなると断言する、人類との一体化の感情そのものが、人間が一貫して幸福なまま、非常に有徳なものであれ非常に悪徳なものであれ、社会の一般感情との調和を欠くような道を選ぶことをますます不可能にしてしまうだろう。完全に有徳な心の静寂は最高の幸福の形であり、大切な長所としてだけではなく、社会から称賛されることについても好ましい、ということが理論上は言えるだろうが、誰もその状態に完全に到達することはできず、大抵は近づくことすら困難である。悪しき情熱や衝動が非常に強いことに苦しむ人に、彼の性質が今と根本的に違っていたなら、もっと幸せだっただろうと言うのは無益なことである。もし幸福を目的とするならば、彼は自分という存在の現状を考慮して自分の行動を制御しなければならない。そして悪徳との妥協が彼の平和を最も促進するだろうことに、疑いの余地はほとんどないだろう。道徳の利己的理論(*功利的に生きることが有徳である)は気質の中に徳があるときだけ適用されるのであり、気質に逆らって維持される、はるかに高い徳の形には適用されないのである。(*気質に逆らって悪徳を避け、不幸になることがある)私たちは間違いなく自分の良い傾向を育てることにある種の快楽を感じるが、悪い傾向を抑えることに同じような快楽は決して感じない。あることを決意し、その反対の欲望を抱きながら生涯を終える人がいる。このような場合、徳は明らかに幸福の犠牲を伴う。なぜなら生得の傾向に抵抗することによって生じる苦しみは、それを適度に満足させることによって生じるものよりもはるかに大きいからである。

 

 まったくの真実は、この世に関する限り、最も徳の高い生き方を追求することは常に人間の幸福に資するというのは、最も明白に甚だしく間違った主張だということである。環境や性格によって、ある者は自分の最高の幸福を同類の幸福に見いだし、他の者は同類の不幸に見いだすようになる。そして、もし後者が自分の利益に従って行動するなら、功利主義者はたとえその結果をどんなに嘆いたとしても、彼を責めたり非難したりする権利はない。なぜなら、彼は自分の最大の幸福を追い求めているのであり、功利主義者の目で見るなら、これは何らかの形で人間の本性を動かすことができる最高の、より正確に言えば唯一の動機だからである。

 

 また通常、悪事に間違いなく伴う動揺や苦痛はその罪の巨大さとは全く比例しないということも指摘できる。神経系の錯乱や、先延ばしや不決断の習慣を主な原因とする苛立ち易い気性は、心を蝕む最悪の悪徳より多くの苦しみをもたらすことが多い。

 

 しかしこの苦痛と快楽の計算は、ある要素の欠落ゆえに不完全なものと言えるかもしれない。ある悪に向かう生来の非常に強い衝動を持っている人は生来の傾向を抑えるために苦心するよりも、その悪を控えめに用心深く満足することによって、その性質を鎮めるだろう。それでもその人には自分の行為を裁く良心があり、その疼きや承認はバランスを是正する以上に、激しい苦痛や快楽をもたらすのである。もちろん直観的モラリストは長い間、彼の学派がほぼ単独で主張してきたと言える良心の実在や、それが与える快楽や苦痛を否定することはない。しかし彼はそうした苦痛や快楽が、私たちの行為に比例して徳の適切な基礎になるほど強力なものであることを全く否定する。そしてその立場を証明するために意識というものを持ち出す。良心は、もともと備わっていた能力と見なすにせよ、観念の連合の産物と見なすにせよ、二つの異なる機能を発揮する。善と悪の違いを指摘すること、そして、その命令に違反したときには然るべき苦しみと不安を与えることである。第一の機能は生涯を通じて持続的に発揮される。第二の機能はある特別な状況下でのみ発揮される。有能な人間が自分が間違ったことをしていると意識せずに、著しい堕落と罪の人生を送るというのはほとんどあり得ないことである。しかし、意識が彼の平穏に明らかな影響を与えることなしに、彼がそうするというのは極めてあり得ることである。カーライル氏(*1795―1881)が言うように良心の状態は肝臓の状態ほどには人間の幸福に影響を及ぼさない。痛みの原因として考えたとき、良心の呵責は嫌悪の感覚と非常によく似ている。ジョンソン博士の主張というものがある(*獣になれば人間であることの苦しみから逃れることができる)が、肉屋の仕事には言いようのない苦痛と嫌悪が伴うため、もし他の方法で食肉を得ることができるなら、永久にそれを放棄するだろう人々が数多く存在することを私はあえて主張するものである。しかしこの仕事に慣れた人々にとって、この嫌悪感は既に消滅したものに過ぎない。彼らの感情や計算の中にはないのである。またほとんどの人が屠殺場に根気強く通うことで、同様の無関心さを獲得できることには疑いの余地がない。このように良心の呵責は些細な軽率な行為や不従順な行為を行った繊細で細心で有徳な少女にとっては疑いなく非常に現実的で重要な苦痛であるが、年を取って面の皮が厚くなった犯罪者にとっては最も完全に興味のない問題なのである。

 

 さて人が観念の連合によって、本来苦痛であるはずのものを快楽とし、本来快楽であるはずのものを苦痛とする感覚を獲得することは間違いないと考えられる。しかし、なぜこの感覚を尊重しなければならないのか、という疑問がたちまち湧き起こる。私たちは帰納的理論には生得の義務といったものは存在しないということを見てきた。人は自分の幸福を追求することだけを考えて人生に踏み出す。私たちの本性の構造、および社会的関係の親密さに起因する徳の体系の全体は、直接に快楽につながる何らかの道を避け、直接にはその逆となる道を行くことが人間の幸福のために必要である、という観察された事実から生じているのである。ハートリーの道徳化学がいかにそれを偽装し変容させようとも、利己心こそが徳の究極の動機なのである。するべき、と、するべきでない、は快楽を得るか失うかの予測以外の何ものをも意味しない。ある種の行動が他人の幸福を増進し、別の行動が他人の幸福を損なうという事実は、これらのモラリストの最終的分析において、そうした道筋が私たちに最大の幸福をもたらすのでない限り、前者を追求し後者を回避する理由にはなり得ない。その幸福は社会が私たち自身に及ぼす作用から生じるかもしれないし、私たちの生来の情け深い気質から生じるかもしれないし、また観念の連合、つまり自分自身が作り出した習慣の力から生じるかもしれない。しかし、いずれにしても私たち自身の幸福だけが行動のあり得る、考え得るただ一つの動機なのである。これが人間の本性の真の姿であるとすれば、すべての人間にとって合理的な道は、可能な限り最大の楽しみを得られるように自分の性質を修正することである。もし人がそれが防ぐ以上の苦痛を与えたり、それが与える以上の快楽を奪うような観念の連合を形成したり、習慣を身につけたりしたならば、彼の合理的な方針はその結合を解消し、その習慣を消し去ることである。これは功利主義的な語彙の中でその言葉が持ちうる唯一の意味によれば彼がする「べき」ことである。もしそうしないなら彼は軽率という罪を犯すことになる。軽率というのは功利主義が悪に対して一貫して浴びせることが可能な唯一の非難である。

 

 いま述べたような気質の人物が、自分の平穏に最も役立つであろう方針を厳しく非難し妨げる良心的感覚を黙らせるなら、それは幸福のためになり、また確かな力になることは自明だろう。そして実際、良心はそれが命じる行動方針を別にすれば、全体として快楽よりも苦痛の原因になっていないだろうかということは、大いに疑問である。良心の呵責は良心の承認よりも感じられやすい。徳の高い人物が自分の優れた功績を喜んで振り返る自己満足は道徳哲学者の著作において頻繁に語られている。しかし、それは最も穏やかなことが最も完全な性質であることが稀で、良心の感受性が少なくとも道徳的成長に比例して強くなり、最良の人物では常に慎み深さと謙遜の感覚が自己満足の横溢を抑制している実際の生活の場ではほとんど見られない。(*実生活において良心の承認は人をあまり幸福にしていない)

 

 あらゆる健全な道徳と宗教の体系において徳の動機は、心がそれに集中すればするほど、より強力になる。徳の動機が働かなくなるのはそれが見失われたとき、情熱によって不明瞭になったり、実行されなくなったり、忘れられたりしたときである。しかし功利主義的な徳の概念の特異性は、それが分析の溶解力にまったく抵抗できないこと、そして心がその起源と本質を理解すればするほど、性格に対するその影響力は減少せざるを得ないことである。感覚的な快楽は常に分析の力に逆らうことができる。なぜならそれらは私たちの存在の中に本当の基盤を持っているからである。それらは物事の永遠の本質の中にその基盤を持っているのである。しかしこの学派によれば、私たちが徳の実践から得る快楽はまったく異なる基盤の上に成り立っているのである。それは気まぐれで人工的な連想、習慣、想像力による手段と目的の混同、社会がそれ自身にとって有益な資質や行為に与えるある種の尊厳の結果である。このことが感じられるかぎり、つまり心が徳の観念を生得の卓越性と義務の観念から切り離し、そのつながりの純粋に人工的な性格に気づくかぎり、ちょうどそれに比例した分量だけ道徳的動機の強制力は消失することになる。行為や性質を幸福を増減する傾向によって判断するという功利主義の習慣や、人間は常に自分の行動の規則がすべての理性的存在に法として採用されるような行動をするべきであるというカント(*イマヌエル、1724―1804)の格言は人生の指針として非常に有用なものかもしれない。しかし、それらが道徳的な重みを持つためには道徳的な義務感、すなわちもし発見されるものならば、義務は私たちの生活の指針になる正当な権利を持っているという意識が前提でなければならない。そして理性の目で見たとき、この要素は単なる人工的な観念の連合が決して備えていないものである。

 

 読者が忍耐力を持って、この私の退屈な長い議論につきあって下さったのであれば、功利主義理論は多くの最も純粋な人々や、ほとんど英雄的とも言える徳を持った人々によって支持されていることは間違いないものの、それを論理的な結論にまで進めるならば、道徳を破壊し、特に自己犠牲とヒロイズムにとって極めて高度に不利なことが判明すると結論されたであろう。功利主義理論はもしこれらを説明したとしても、正当化することはできない。また単なる幸福の目的と手段の混同の中から見つかった良心は批判という溶剤に全く抵抗することができないだろう。この良心論はそれが説明しようとしている現象について正しく、あるいは適切に述べていると認める直観的なモラリストはいないだろう。モラリストの仕事が単に人間の持つある感情の発生を説明することと考えるのは、よくある、完全な間違いである。すべてのモラルの根底には、好き嫌いや快楽や苦痛とは明らかに異なる知的判断がある。愚かな、しかし全く罪のない行為によって自分の地位を傷つけた人、あるいは不注意に社会的規則に違反した人は、あたかも罪を犯したかのように自責の念や恥辱の感情を味わうかもしれない。しかし彼は同時に自分の行為が道徳的非難の対象ではないこと、非難される根拠は別のものであり、より低い種類のものであることをはっきりと自覚しているのである。良心の本質的かつ独特の特徴であって、それを人間の本性の他のすべての部分と区別する、義務と正当な優越性の感覚は、観念の連合では全く説明できない。ある行為が快いものであるということ、人々をその行為に駆り立てる感情が弱まることによってある量の苦痛が生じるということは、人々が自分たちはそれを追求すべきであるというときに意味していることとは明らかに異なる。ハートリーの徳は要するに想像力の病に過ぎないのである。それは社会にとって貪欲よりも好都合かもしれないが、同じように形成され、まったく同程度の拘束力を持つのである。

 

 これらの考察は、自己利益と区別して義務を語ることは意味がない、という一般的な功利主義者の反論に対する答えとなるだろう。なぜならそれをしないことによって何の悪い結果も生じないのに、何かをする義務があると言うのは不合理だからである。報酬や罰は義務を遂行するために必要なものであることは間違いないが、義務を構成するためには必要なものではない。この区別はそれが本当かどうかは別として、いずれにせよ哲学者ではないすべての人に自明と思われるという強みを持っている。こうして植民者の一団が新しい領土を占有すると、未占有の土地を自分たちの間で分割する、また彼らは野蛮な住民を殺害したり、欲望を満たすために使役したりする。どちらの行為にも完全に罰則はないが、一方は無罪で、他方は誤りであると考えられている。合法的な政府はその法令を罰則によって裏付け、土地を専有し、原住民を保護する。あるケースでは法律が義務を発生させ、かつ強制するが、他のケースではただ単に強制する。直観的モラリストはただ、人間にはある種の行動方針が他よりも高く、気高く、優れていると認識する力があり、私たちの存在の構造上、快楽やその逆の予測とは属性において異なるこの事実(*fact)は、行動の動機となりうるし、そうあるべきで、絶えずそうである、と主張しているだけである。低い方の道を選ぶ人物が出る可能性を疑うことはできず、この場合私たちは彼は罰に値すると言う。また彼が罰されないならそれを不当と言うのである。もし彼に報酬や罰を与える権力が存在しなかったとしても、彼の行為が無関心に見過ごされることはないだろう。それらは非難する者がいなくても恥ずべきこと、称賛する者がいなくても立派なこととして、根本的に卑しいとか、気高いとか、わかりやすく表現されるだろう。

 

 人間には幸福以外のものを選ぶ力があるというのは結局のところ、意識の証拠に委ねるしかない命題である。最終的にどれほどの幸福につながるかに関係なく、徳を追い求めることがこの選択の第一の実例であることは、一様に徳と利益の動機の属性を別のものと見なしてきた人類の共通の声によって立証されている。そして実際、強い情念と強い義務感との間に対立がない場合でも、徳の高さを楽しみの尺度で測ることは不可能である。最高の性質が最も幸福であることは稀である。ペトロニウス・アルビテル(*ガイウス、AD20―66、「サティリコン」の著者)はおそらくマルクス・アウレリウス帝(*在位AD161―180、哲人皇帝)よりも幸福な人間だっただろう。十八世紀もの間、キリスト教の宗教的本能は「悲しみの人」の姿にその理想を見出していたのである。

 

 今、私が主張したような理由から直観的モラリストたちは功利主義者の原理を否定するのである。直感的モラリストは人類の幸福に及ぼす自らの行動の影響が、その道徳的な資質を決定する上で最も重要な要素であることを確かに認めている。しかし、生得の道徳的感覚がなかったなら、人類の幸福が私たち自身の幸福と乖離したとき、人類の幸福を求めるのが自分の義務であるということに私たちは気づかなかっただろう、と彼らは主張する。そして徳がもともと有用性から発展したものであることも、必然的に有用性に比例するものであることも否定するのである。彼らは社会の現状において、少なくとも徳の道と繁栄の道との間に一般的な一致があることを認めている。しかし徳の義務は考えうるどんな事態の変動も破壊できないような性質のものであり、この世の政府が最高の善意ではなく最高の悪意に属していたとしてもそれは続くだろうと主張するのである。徳とは計算や習慣以上のものであると彼らは信じている。その基本原理を逆に考えることは不可能である。同質の感情を混同する傾向が強いにもかかわらず、人間の認識において義務の感覚と有用性の感覚は完全に区別されており、私たちは同じ行為に含まれる別々の成分を認識することが十分に可能である。勇敢だが危険な敵に対する敬意、有用な裏切り者に対する軽蔑、死ぬ間際の後に残る人々の利益に対する配慮、故意と過失の明らかな区別、軽率さの自覚と罪悪感の自覚との明確な区別、利益の追求は常に義務感によって抑制されるべきであり、そのため利己的動機と道徳的動機は本質的に対立するという確信、前者が存在すれば後者は必然的に弱まるという確信、名誉や恩義のために自分の利益を犠牲にすることを求められたとき、先々の計算をして立ち止まる人物に対する憤り、人間の本性の他のあらゆる感情とは異なる自責の念―いわば人類の普遍的で自然な感情、そのすべてが私たちの徳への愛情を自分の利益への愛情から遠く切り離すよう、一致して導くのである。快楽と苦痛は行動の究極の根拠であって、前者を求め後者を避ける理由は、そうするのが私たちの本性の構造であるから、という他ないように、善と悪という言葉は究極の理解しやすい動機を表していること、これらの動機は他のものとは属性が異なること、高次のものであって、義務の感覚を伴うことを私たちは認識しているのである。これらの事実を除外した道徳の体系は意識によって明らかにされている心の状態を正確かつ適切に描くことができない。あらゆる時代の人々の良心は、見返りとして何らかの、あるいは別の形の快楽を得るために快楽を犠牲にすることは、利子をつけて金を貸すことが慈善であるという考えと同様に、私たちの考える徳に当てはまらないというキケロ(*マルクス・トゥッリウス、BC106―43)の主張に共鳴したことだろう。私たちの徳の評価は、純粋な無私の観念を前提としている。これこそが私たちが英雄的行為に想いを馳せる時に抱く感情の根源である。私たちは結果として苦痛や災難、精神的な苦しみ、早すぎる死が生じ、その墓を輝かせる未来の報酬の見込みがなかったとしても、人間は正しいと信じることを追求することができると感じる。これは私たちの存在の最高の特権であり、人間の本性と神の接点なのである。

 

 功利主義学派の影響力は、それを支持する直接的な論拠に加えて、それに好意的ないくつかの非常に強力な道徳的、知的素因に多くを負っている―第一はこの後検討することになるが、社会のある条件下で顕在化した、この学派が生み出そうとする資質の助けになるような傾向であり、第二は統一性と精密さが多くの人の心に及ぼすほとんど抗しがたい魅力である。前世紀の感覚の学派(*功利派)に大きな人気を与えたのは、人間のさまざまな能力と複雑な動作を単一の原理やプロセスに還元することによって人間の性質を単純化したいという、この欲求だった。その学派の形而上学者のほとんどが人間の性質の二元性を否定するようになった。ボネ(*シャルル、1720―1793)とコンディヤック(*エティエンヌ・ボノ・ドゥ、1714―1780)は人間を完全に代表するものとして、観念の通路としての五感を備え、感覚の産物を変換するためにのみ使用される能力を持つ、生きた彫像を提唱するに至った。このことはエルヴェシウスの、すべての人間の本来の能力はまったく同じであり、私たちが天才と呼ぶものと愚か者と呼ぶものの違いはすべて環境の違いから生じているのであって、人間と動物の違いは主として人間の手の構造から生じているのである、という主張を導いた。道徳の分野において一元化の理論は非常にもっともらしいものであるが、また非常に危険なものであると私は考える。なぜなら人間の道徳的感情はお互いに作用し合い、それぞれが多くの変容を遂げるため、考えうる状況下で他のすべての感情の親とならないような感情はほとんど存在しないからである。ホッブズが自利の哲学の名において、同情は、他人の災難を感じることによって生じる、自分自身の将来の災難の想像にすぎないと主張したとき、ハッチソンが慈愛の哲学の名において、放縦の悪は私たちを他者への暴力に駆り立て、私たちが彼らに善を行う能力を弱めることであると主張したとき、人間の本性の卓越性を擁護する他のモラリストたちが、哀れみは人間の快楽の中で断固として最高のものであり、それを満足させたいという欲求が野蛮な行いの原因であると主張したとき、これらの理論は突飛なものであるにせよ、そこには間違いなく心理学的真実の萌芽が見られるのである。確かに将来の災難を極度に心配する人物が他人の災難を見てショックを受けるのは事実だろう。実際、慈愛という非常に強烈で吸引力のある感情はそれ自体、それを満足させる力を損なういかなる習慣からも人を遠ざけるに十分である。哀れみに一定の快楽が伴うことは事実である。そして哀れみの快楽が強くなりすぎたがために、罪を犯してまでそれを求めるようになることもありうる。これらの理論の誤りはその動機が持ちうる効力を誇張していることではない。人間の本性におけるその動機の実際の強度を誇張し、彼らが説明しようとしている結果がどのようにして得られたのかという過程について間違っていることである。道徳哲学における観察の機能は、その過程がどのように形づくられたかを理性が演繹的に決定することに任せて、ただ単に私たちの道徳的感情を証明することではない。むしろ、それが形づくられたすべての段階を通してそれらを追跡することである。

 

 ここで私は、道徳哲学において用いられる他の多くの用語と同様、帰納的という用語には重大な誤解を生む可能性があることに気がつく。この言葉は何が正しくて何が間違っているかを教えてくれる道徳的な感覚や能力の存在を信じず、そうした考えの起源はさまざまな行いが真の幸福を促進したり損なったりする傾向についての私たちの経験だけである、と主張するモラリストに用いることが適切である。しかし、私たちの道徳的観念の起源が何なのかを帰納や経験によって確認するべきと考えているのは帰納的モラリストのみ、と推測されることがあるようである。しかし私はこれを完全な間違いと考える。道徳の基礎は道徳理論の基礎とは別個の問題である。道徳的能力の存在を主張する人々は時に言われるように、この主張を彼等の議論の第一原理(*first principle:他のものから推論することができない命題)と仮定しているのではなく、反対派が用い得るどんなものよりもかなり厳しい帰納の過程を経て、この主張に到達しているのである。彼らは既存の道徳的感覚を調べ、分析し、分類し、それらの感覚がどの点で他のものと一致し、あるいは異なっているかを確認し、それらの様々な段階を追跡し、それらが分解不可能であって、他のすべてのものとは違う属性のものであることを示せたと考えた後に、ようやくそれらを特別な能力によるものとしているのである。

 

 私たちはこの言葉を、四肢と胴体のような関係を心に対して持っている、明確に定義された器官を意味するものと考えがちである。しかしそのような器官の存在についても、そのような物質的なイメージが適切なのかどうかも、私たちは何も知らない。自分自身の中に意志、物質とはまったく異なる特性を持つ知的、感情的な現象の群れを感じるがゆえに、私たちは意志を持ち、考え、感じ、それ自身の行動をかなり正確に査定できる非物質的な存在を推論するのである。ここでは能力という言葉を単に査定という意味で使っている。もし私たちが道徳的能力と美学的能力は別のものであると言うなら、それは心が道徳的な卓越性についての何らかの判断と、美的な卓越性についての何らかの判断をすること、そしてこの二つの心的プロセスは明確に区別される、ということを言っているに過ぎない。道徳的知覚を人間の本性のどの部分に帰すべきかを問うことは、それがどのような心的現象の系列に最もよく似ているかを問うことに過ぎない。

 

 この単純な、しかししばしば無視される考察を心に留めておくならば、直観的モラリストたちの見かけ上の不一致は、最初そう思われたであろうほどには深いものではないように思える。なぜなら各派閥はただ単に道徳的判断力の何か一つの特徴を説明しているに過ぎないからである。例えばバトラーは道徳的判断力に含まれる義務感を強調し、このことが道徳的判断を他のすべての感情と区別すると主張し、従って道徳的判断力は良心という最高の権威を持つ特別な能力である、としている。アダム・スミスや他の多くの論者は特にその共感的性格に重きを置いていた。私たちは生まれつき慈愛に惹かれ、残酷さに反発する。このモラリストたちによるとこの本能的で非理性的な感情が善と悪の間の差異をつくっているとのことである。しかしイギリス人でカントの先駆者であるカドワースはこのような分析の不十分さをすでに予見していたし、後の形而上学者たちはより完全にそれを示している。正義、慈愛、真実、およびその類いの徳は、単に私たちを惹きつける力があるだけではなく、それらが本質的に不変の善であること、それらの性質は私たちの気質に依存せず、相関関係もないこと、それらが悪徳になり、その逆が徳になることは不可能で想像もできないことを私たちは知的にも認識しているのである。ゆえにこれらを理性の直観という。クラークは同じ理性の直感の学派を発展させ、また人間の性質をそれぞれ程度の異なる尊厳を持つ力や能力の階層と、優越と劣後の適切な秩序と考えるモラリストたちに倣って、徳は物事の本質との調和によって成り立つと主張した。(*国教会の司祭、科学と神学と道徳を調和させようとした)ウォラストン(*ウィリアム、1659―1724)はそれ(*物事の本質)を真実に、ハッチソンは博愛に限定しようとした。彼がロックの哲学への敬意から「道徳的感覚」と呼び、シャフツベリーが道徳的「嗜好」と呼んだものによって博愛は認識され、承認されるのである、とハッチソンは主張した。シャフツベリーとヘンリー・モア(*1614―1687)によればこの嗜好を満足させる快楽こそが徳の動機ということである。道徳的な感覚や能力という学説はリード(*トマス、1710―1796)の倫理学の基礎となった。ヒューム(*功利派とされることもある)は徳の特質はその有用性にあるが、人間の感情はこれとは全く無関係である、そして私たちは自分たちの本性に刻み込まれた道徳的感覚によって何が徳であるかを知るのであり、この感覚が他者に有益なすべての行為を本能的に承認させるのであると主張した。バトラーによって投げかけられた示唆的なヒント(*道徳的判断力は良心と言う最高権力を持つ)を発展させ、私たちの道徳的判断力は単純なものではなく、理性の判断力と心の感情の両方を含む複雑なものであることを主張することによって彼はクラークとシャフツベリーの学派(*ともに直観派)の統合の基礎を築いた。この事実は後の論者によってさらに解明され、この二つの要素が異なる種類の徳にさまざまな度合いで適用されることが観察されている。ケイムズ卿(*ヘンリー・ヒューム、1696―1782)によれば善悪に対する私たちの知的認識は正義や真実といった、いわゆる「完全義務」、言い換えればその違反が明確な犯罪となるような性質の徳に最も厳格に適用される。一方、惹かれるとか愛するといった感情は、博愛や慈善といった不完全義務の徳に最も強く示されるのである。ハッチソンやシャフツベリー同様、ケイムズ卿も私たちの道徳的判断力と審美的判断力の類似性に気づいている。

 

 この類推は私たちがこれまで詳察してきたものとは大きく異なる思想の領域を切り開くものである。善と美の間に密接な関係があるということは常に感じられてきた。それゆえにギリシャ語で善と美は同じ言葉で表され、プラトンの哲学において道徳的な美は原型であって、すべての目に見える美はその影や像に過ぎないとされていたのである。私たちは皆、道徳的な美という言葉には厳密な妥当性があると感じている。私たちは美の形にはさまざまなものがあり、それはさまざまな道徳的資質に自然に対応していると感じている。そして詩や雄弁の魅力の多くはこの調和の上に成立しているのである。私たちは頭上の空のように、あるものを美しいと、直接、即座に、直感的に認識することがある。この美の認識はその有用性の認識とは全く違って、他から導き出せるようなものではあり得ない。それは太っ腹な、あるいは英雄的行為が呼び起こす瞬間的で非理性的な称賛と驚くほどよく似ている、と私たちは感じる。また私たち自身の心の動きを注意深く観察すると、美学的判断力には直感や知的認識、そして魅了されたり感嘆したりするという感情が含まれており、これらは道徳的判断力を構成するものと非常によく似ていることが分かる。幸福という観念がそれは望まれるべきものであること、義務という観念がそれを果たされるべきものであることを意味するように、美という観念もまたそれが称賛されるべきものであることを意味する。またそれぞれのケースで発見できる均一性の程度と種類の間には驚くべき対応関係がある。善と悪、美と醜の間に違いがあるというのはいずれも普遍的と感じられる命題である。善は悪に勝り、美は醜に勝るということは、同様に疑いの余地のないことである。さらに進んでこれらの性質の本質を定義しようとすると確かに細部の大きな多様性に出会うが、はるかに大量の実質的な単一性に出会うのである。イーリアスや詩篇のような詩は最も異質な場所に生まれ、約3,000年のあらゆる変転を経て人々の称賛を集めてきた。音楽の魅力、女性の顔つきの調和、星空や海や山の威厳、小川のせせらぎや黄昏の影の穏やかな美しさは、初期の世界の想像力が初めて自らを文字で表現したときにも現在と同じように感じられたものである。同じように最も遠い時代から伝わってきた英雄や徳のタイプが人類の称賛を集めている。私たちは最も古い歴史家が明らかにした称賛や非難の感情に共感し、最も古代のモラリストはすべての人々の心の琴線に触れることができるのである。大筋は変わっていない。正義が悪であるとか不正義が徳であるとか、夏の夕焼けが不快であるとか、人体の爛れが美しいなどと主張した人物はいない。また審美的な称賛の対象は常に、気高いものと美しいものという二つの大きなクラスに分けられていた。これらは倫理学においてはっきりと、英雄的なものと愛情豊かなものに相当する。

 

 また徳や美の判断に存在する疑いのない多様性を調べてみると、いずれの場合もその大部分が文明の程度の違いに起因していることがすぐにわかる。道徳的水準は一定の範囲内で社会の発展とともに規則正しく変化する。粗野な文明では非常に高く評価されていた徳が組織化された社会では比較的無価値になることがある。また逆に前者では従属的なものとみなされていた徳が後者では主要な徳になることもある。また高度に洗練された心でしか認識することができない徳というものもある。たとえば慈悲と野蛮、節制と不節制の違いなどという、徳と悪徳の問題は時に単なる程度の問題であり、文明のある段階における水準が別の段階よりはるかに高いことがある。同じように文明が進むと、美の大まかな特徴に対する認識は変わらなくとも、嗜好は着実に変化していくものである。何も教えられていない人々が控えめな色合いよりも派手な色合いを、形よりも色を、上品なスタイルよりも華美なスタイルを、発作的な態度や巨大な人物、強い感情を好むということは、かなり確信を持って言えるだろう。文化がもたらす洗練の影響が最も顕著なのはそれが生み出す嗜好の基準である。そしてある民族の文明度を測るのに最も適した指標は彼らが持っている美の概念、実現しようとするタイプや理想である。

 

 しかし道徳的判断や美学的判断の多様性の多くは偶発的な原因に起因している。大きな称賛を受けたり、大きな影響力を持ったりする人は外見の特徴で目立ったり、特徴的な服装をしたりすることがある。彼はたちまち数え切れないほどに模倣されるだろう。こうして美に対する生得の感覚は徐々に損なわれ、目と嗜好は誤った人工的な基準に順応し、ついに人は最も絶対的な自発性によってそうした基準に従う判断をするようになるのである。同様に何らかの偶然の状況が平凡な行為を特別な名誉に高めた場合、宗教システムがそれを徳とし、あるいは悪徳という烙印を押した場合、人の良心はやがてその宣告に順応する。そしてこの誤りを正すためには地域の法廷の外に向かって訴えなければならないのである。またすべての国民はその特殊な環境と立場のために美と徳の両方についてある特定のタイプを好む傾向がある。そして当然ながら自国のタイプを他のすべての型よりも称揚する。作物が実らない山中に住み、強大な敵に囲まれ、最も毅然たる規律と警戒心と勇気だけに頼って独立を維持している貧しい小国の徳は、侵略される恐れのない、商業の中心に位置する豊かな国民のそれとはいくらか異なるだろう。前者は後者にとって言いようもなく恐ろしい野蛮な行為や裏切り行為に非常に寛大だろうし、後者が比較的軽視する特定の規律の徳を非常に高く評価するだろう。そのため、黒人国家の美の概念は白人国家のものとは異なるだろう。熱帯の空の輝きや北の海の荒々しい壮大さ、大きな山々や広い平原の様子は崇高さや美しさのイメージを国民に与えるだけでなく、国民の基準を形成し、判断に影響を与えるだろう。その土地の風習や習慣は私たちの最も古い記憶と深く結びついており、ついに私たちはそれを本質的に尊いものと見なすようになる。そして最も些細な事柄でさえも、その結びつきを解消するには一定の努力が必要となる。小説家(**サミュエル・テイラー・コールリッジ、1772―1834)によるフランスの軍服に対するイギリス人下士官の侮蔑の描写には多くのウィットと同時に、多くの知恵があった。「青衛兵と砲兵を除けば、連隊服に青色は全く馬鹿げている」そしてフランスに対するほとんどのイギリス人の混乱した第一印象の中には、肉屋のような格好をした小作農の凶暴な風体に対する半ば本能的な嫌悪感が存在する、と私は思っている。

 

 「美や壮大さ、その他の嗜好と呼ばれるあらゆる感情は、行動に至ることはなく、楽しい熟視に終わる。これが、ある観点から見れば間違いなくそれらに準えられるだろう道徳的感情との本質的な違いである。」(*マッキントッシュ)と言われている。私はこの見解を全く受け入れられない。私たちの審美的判断は嗜好という性質を持っている。この判断はある種類のものを別のものよりも好むように私たちを導き、他の要素が同じである場合には行動の根拠になる。一緒に暮らす人、住む地域、私たちを取り囲むものを選ぶとき、私たちはその逆のものよりも美しいものを好む。美と醜の選択が問題となるあらゆる場合においてそれを打ち消す動機が介在しない限り、前者を選び、後者を避けるのである。人生にはこのような問題が生じない出来事が無数にあることは間違いない。そして道徳的判断を求められない出来事もまた非常に多い。私たちが言いたいのは、人間は強い道徳的原理に動かされていて、目の前に自然にやって来る道徳的判断を伴うあらゆるケースにおいてその命令に従って選択を行うということ、人がその動機に従うなら特別な行動をとるということである。この命題は私たちの美意識に関しても完全に真理であると主張することができる。その強さに比例して美意識は通常の生活で私たちの進路を指導し、固有の方針を決定する。私たちは有用性のために道徳的な美しさの感覚よりも、物質的な美しさの感覚をはるかに容易に犠牲にすることができる。不誠実な行為をするよりは、不格好な家を建てることに私たちは容易に同意するだろう。しかしある種の苦痛を感じることなく、美しいものよりただ単に不格好なものを自ら選ぶことはできない。そしてハートリーの学派によればこの種の苦痛こそが良心の正確な語義(*definition)なのである。また、美に対して強い感覚を持ち、それを蹂躙するくらいなら死を選ぶような人間を想像することはまったく難しいことではない。

 

 こうしたことを考えるなら、多くのモラリストが道徳的な卓越性をシンプルに美の最高の形とみなし、道徳的修養を嗜好の最高の洗練とみなしたことは驚くにはあたらない。私が思うにこのような見方は徳を有用性に分解する理論よりもはるかに妥当であって、ギリシャのモラリストやシャフツベリーの学派はこれらの観念の間には極めて密接な関係があることを十分に証明しているが、この理論の不十分さを示すだろう二つの考察がある。私たちは「美しい」という形容詞を慈愛、敬意、献身などの徳に使うことの妥当性をはっきりと意識している。しかし、私たちがそれを正直さや誠実さといった完全な責任を伴う義務に使うことは同じ様に妥当ではない。美の感覚とそれに続く愛情は、単に正直でまっすぐな人間を作り上げるシンプルな義務の過程よりも、むしろ熱意と感情に伴うものである。加えてストア派やバトラーが示したように、私たちの本性における良心の位置はまったくユニークなものであって、道徳と美の追求を明らかに区別している。私たちの感覚や欲望はそれぞれ限られた範囲でしか働かないが、良心は私たちの存在全体の構造を概観し、私たちのさまざまな情熱や欲望の満足に制限を設ける。良心にはそれらをすべて判断し抑制する特権が与えられているため、私たちの本性の他の原理とは程度ではなく、種類において異なっているのである。従って最も自然な欲望に従っている場合であっても、これに反するやり方は不自然であることが私たちにははっきりと感じられるのである。その力は微々たるものかもしれないが、その権利は議論の余地のないものであって「もし権利があって力があれば、世界を支配することができるだろう。」(*バトラー)すべての興味、情熱、嗜好とは異なり、それらに優るこの能力こそが徳を人生の最高の法則とし、それが触発する魅力の感覚に命令的な性格を付しているのである。キケロが内なる神、ストア派が理性の主権、聖パウロが自然の法則、バトラーが良心の覇権と表現したのもこの能力である。

 

 上記の推論に現れた、私たちの本性の高次の部分と低次の部分の区別は直観的な道徳体系において非常に重要な位置を占めている。しかしこれは例証によって弁護するしかないものである。論者にできるのは、こうした区別が最も明白と思われる事例を選んで読者の感覚に委ねることだけである。少し例を挙げるならば、私たちは快楽ですらも楽しみの量だけで測るのではないということ、そこには高次の、低次のという形容詞によって合理的に説明できるような種類の違いがある、ということで十分ではないだろうか。

 

 もし、感覚を介さずに純粋に合理的なプロセスから自らの概念を導き出した別の世界からやって来た存在が私たちの世界に降りてきて人間の性質の原理を調べたとしたなら、味覚と聴覚という二つの感覚から得られる快楽に対する人々の価値判断の違いは、彼が最も異常だと思い、また絶対に理解できない点だろうと私は想像する。前者には何らかの食べ物が味覚に作用することで生じる楽しみが含まれる。後者は音楽の魅力である。これらの快楽はいずれも自然なものであって洗練によって大いに高めることができ、いずれの場合も快楽は鮮烈かもしれないが、非常に一時的であり、いずれの場合も必ずしも悪い結果を招くものではない。しかし、間違いなくこれほど多くの類似点があるにもかかわらず、実際の世界に目を向けたとき、この二つの楽しみの間に比較が全く滑稽なほどの地位の差があることに気がつく。ではこの差は何によってもたらされるのだろうか。音楽から得られる楽しみの強さ(*同士の間)には多くの場合、このような優劣はない。私たちは皆これらの快楽を比較する際にその強さ、持続時間、結果などの考察とは異なる要素があることを意識している。私たちは自然に一方にかすかな羞恥の念を抱き、他方には名誉の念を抱く。味覚の快楽に非常に敏感な人物はどこか信用に値しない、と見なされる。人は食べることがとても好きだと自慢することはないが、音楽がとても好きだと認めることをためらわない。前者の趣味はその人を低くし、後者の趣味はその人自身の目にも、隣人の目にも、その人を高くする。

 

 また明るい性格で、教養はあるがあまり気難しくない人が、上手な悲劇や上手な道化を演じているときの自分の感情や周囲の人々の表情を観察するなら、後者の場合の自分の楽しみは前者の場合よりも混じり気がなく強烈だったという結論に至るだろう。彼は倦怠を感じず、ペーソスの楽しみに必然的に伴う痛みに耐えることもなく、鮮明で夢中な楽しみを経験し、隣人の激しい反応の中に同じ感情を見たのである。しかし悲劇から得られる快楽は道化から得られる快楽よりも高次のものであることを彼は容易に認める。時に彼は二者のどちらを選ぶか迷うこともあるだろう。彼を一方に導くのは単なる楽しみへの愛である。彼をもう一方に向かわせるのはそのより高貴な性質の感覚(*sense)である。

 

 同様の区別は他の部門でも観察されるだろう。男女の関わりを除けば、より強烈な快感は美の完成形よりもグロテスクなものや奇抜なものから得られるのが普通だろう。美から得られる快感はその性質上、暴力的なものではなく、ほとんどの場合、憂鬱と混ざり合っている。美しい風景に深い感動を覚えた人が極端な高揚感に包まれることはまずない。憂鬱の影が彼の心を支配する。彼の目は涙で満たされる。漠然とした、満たされない憧れが彼の魂を満たしている。このような楽しみは悩ましかったり壊れてしまったりするものではあるが、奇妙な事物の陳列から得られるものより高い種類のものであると評価することをためらう人はほとんどいない。

 

 もし快楽が私たちの追求の唯一の目的であり、その素晴らしさが、それがもたらす楽しみの量のみによって測られるとしたら、最小のコストで目的を達する者が最も賢明とされるのは最も明らかなことだろう。しかし文明の全ての過程はまったく逆の方向に向かっている。子供は最も単純なものから最も強烈な、最も絶妙な楽しみを得る。花、人形、粗野な遊び、最も美的でない物語があれば十分に魅了されるのである。教養のない農民は最も荒っぽい話や最も下品な機知に夢中になる。教養が増すとほとんどの場合、選り好みが生まれ、快楽をより精巧にすることが必要とされる。私たちは子供の頃の楽しみを続けている人物に対してある種の不信感を抱く。私たちがある種の娯楽から快楽を得るという事実そのものが、ある種の不面目となる。なぜならそれが私たちの性質の高貴さと調和していないと感じるからである。

 

 社会についての評価はこの点で個人についての評価と似ている。スペインのような停滞した未開発の国と産業文明の中心地における大衆生活のモデルを比較して、実際に実現された楽しみの量や平均は半文明社会より文明社会で大きい、と自信を持って言える人はほとんどいないだろう。未発達の性質が必ずしも不幸な性質とは限らないし、私たちは幸福を測る正確な尺度を持っていないが、少なくともその程度が成功の程度と一致しないことは確かだろう。後進社会の人々の嗜好や習慣は、狭い領域にあるいくつかの快楽に自らを適応させ、おそらくより文明化された人々がより広い範囲でそうするのと同じくらい完全な満足をその中に見出すだろう。そして前者の境遇に単調さからくる退屈がいくらかあるとすれば、後者の境遇にはずっと多くの不満の種がある。高度に文明化された人間の優越性は、主として彼が存在のより高い位置に属しているという事実にある。なぜなら彼は自分の存在の目的により近づいており、より多くの自分の能力を行動に移しているからである。そしてこのことはそれ自体が目的なのである。たとえ、ありえないことではないが、下等動物が人間より、文明人よりも半野蛮人が幸福であったとしても、獣であるよりは人間である方がよく、あらゆる事業と知識の流れから隔絶されたどこかの停滞した国に生まれるよりは、文明の激しい闘争のなかに生まれる方がましである。功利主義が美化することを喜ぶ物質文明にも、単なる楽しみの哲学では説明のつかない要素があるのである。

 

 また人類の全体的な声が、快楽と見なされる精神的快楽に肉体的快楽よりも莫大で議論の余地のない優越性を与えている理由を尋ねるなら、快楽の価値はすべてそれが与える楽しみの量で決まるという仮説は適切な、あるいは満足な答えにはならないだろう。前者は後者よりも変化に富み、長続きするが、一方で到達するためにより多くの努力を要し、はるかに狭い領域にしか拡散しないと言われていることは正しい。野原でのスポーツ(*狩猟)やその他の肉体的な楽しみから主に快楽を得る人々と、最高の知的源泉から快楽を得る人々を比べても、楽しみが主に動物的である少年期と主に知的なものである青年期を比べても、世界がこれらの快楽の間に大きな距離を置くことの正当性を幸福の総量の違いに見出すことはできないだろう。完璧な幸福の理想を描こうとする画家や小説家は、学識の深い研究者にそれを見出すことはないだろう。身体とあらゆる精神状態との関係についての疑問には立ち入らないことにするが、一般に身体の状態の方が精神的な状態よりも私たちの楽しみに大きな影響を与えるということは言えるかもしれない。大多数の人間の幸福は精神的あるいは道徳的な原因よりもはるかに、肉体的な条件から生じ、しばしば肉体的な楽しみを再生産すると推定される、健康状態や気質に影響される。そして急な肉体的苦痛はいかなる精神的苦痛よりも私たちの天性の全てのエネルギーを無力化する。最初の麻酔薬を発明したアメリカ人は、人類の真の幸福にソクラテス(*BC470―399)からミル(*ジョン・スチュアート、1806―1873)に至るまでのすべての道徳的哲学者より大きな貢献をしたのかも知れない。精神的な理由は人に我慢や、苦痛に耐えることを教えるだろうし、痛みを緩和することさえできるだろう。しかし肉体的な理由から一見したところ大抵の苦しみをほとんど感じないような性質がある。昔の哲人は「哲学は何の役に立つのか?」と問われたとき「哲学は人に死に方を教える」と答え、その言葉を尊い死によって証明したと言われる。しかし感じることが少なく、気づくことの微かな、鈍い動物的な性質が、哲学が辛うじて肩を並べられるほどの穏やかさで死に立ち向かえることは千の戦場で、千の絞首台で、シナやインドの広大な地域で証明されてきた。人間の性質の精神的な部分は、人間を最も幸福にするがゆえに肉体的な部分より優れているとされるのではない、というのが真実である。その優位性は別の種類のものであって、高次と低次という表現で分かりやすく表現できる。

 

 そしてもう一つ、私たちの道徳的感情を満足させることによって得られる快楽のうち、私たちが自然に最も上位に位置づけるものがある。ペイリーの学説に反して、人類の大多数は気前よく振舞う快楽は菓子を食べる快楽の何倍にも勝ると思うだろう。前者が想像を絶するほど強烈なものだからではない。それはより高次のものだからである。

 

 この種類の区別は、ほとんどの功利主義の論者によって無視されるか否定されてきた。最近これをその体系に導入する試みがなされたが、明らかにその原理とは相容れないようである。この区別の存在を認めるならば、私たちの意志は最も多くの楽しみを生み出すものへと必然的に傾くことからは程遠く、私たちは快楽においてさえ、より高い、全く異なる性質を認識し、楽しみではなくその性質を選択の対象とする力を持っていることになる。もし人が二つの快楽のどちらかを選ぶ際に、結果の考察とは距離を置いて、最も楽しみを与えないと知っている方を、より大きな価値や気高さゆえに好ましいものとして意図的に選択することがあり得るとしたら、彼の行為は完全に不合理であるか、「最大幸福」の哲学では説明できない判断原理に基づいていることは確かだろう。その哲学(*功利主義)に従うなら、人間の性質の別々の部分、思考や感情の別々の領域に高次、低次という言葉を使用する場合、より多い、あるいはより少ない楽しみを生み出す、という以外の意味はありえない。しかし、一旦快楽の評価において量の違いだけでなく、質の違いも認めるならばすべては変わってしまう。その場合、これらの快楽に関係する私たちの性質のさまざまな部分は、互いに高次、低次という言葉で明確に正しく説明できる別種の関係を持っていることは明らかである。私たちの理性が私たちの存在のこの階層性を直観的かつ直接に明らかにするという主張は、直観的モラリストの最大学派の基本的立場である。この論者たちによれば、私たちの性質の中の道徳的、知的なものは動物的なものよりも優れている、善意の情愛は利己的なものより優れている、良心が私たちの存在の他の部分に対して正当な優位性を持っていると言うとき、この言葉は理解可能であるがゆえに、恣意的でも幻想的でも気まぐれなものでもない。このような上下関係が示されるとき、それは私たち誰もが持つ感情と一致し、私たちの判断の自然な道筋、私たちの習慣的で巧まざる言い回しと一致するのである。

 

 生得的な道徳的知覚の理論に対抗する議論は二種類ある。一つはすでに言及したが、私たちの道徳的判断はすべて有用性の動機に分解できることを示そうとするものである。そしてもう一つは、異なる国や文明の段階における判断の多様性である、これは生得の道徳的能力を仮定した場合、全く説明不可能であるとされている。このような多様性は私が主張する学説の大きな障害であり、また道徳の歴史の非常に重要な部分なので、私がそれについていくらか詳しく言及することに支障はないだろう。

 

 第一に道徳的判断の多様性は道徳的なものではなく、純粋に知的な原因から生じる場合が多い。たとえば神学者たちが利息付きの融資は自然の法則に反しており、明らかに強奪であると宣告したとき、この誤りは明らかに金銭の用途についての間違った考え方から生じたものである。彼らは金銭は何も生み出さないものであり、借りた金を返した者はその取引から受けた利益をすべて帳消しにしたのである、と信じていた。最初のキリスト教のモラリストたちがこの問題を扱った時、特殊な事情で利子が極端に高くなり、その結果貧しい人々にとって極端に過酷のものになった、この事実が偏見を強めたことは間違いない。しかし高利貸しに対する非難の根本は単なる経済学的な誤りだった。金銭は生産的なものであって、貸した金によって借り手は富の源泉を生み出すことができ、それは貸した金額が返された後も継続するものであることが人々に理解されるようになると、彼らはこの利益のために支払いを要求するのは何ら不正義ではないことを認識し、高利貸しは非難されなくなるか、明確な命令に基づいた場合にのみ非難されるようになったのである。

 

 こうして再び子宮内の胎児がいつ別個の存在としての性質、したがって権利を獲得するのかという生理学的考察が中絶の犯罪性の問題に大きな影響を与えることになったのである。古代の人々の一般的な意見は、胎児は母親の一部でしかなく、母親は自分の体の腫瘍を焼灼するのと同じように胎児を消滅させる権利を有するというものだったようである。プラトンもアリストテレスもこの習慣を認めていた。ローマ法にはウルピアヌス(*AD170―228、法学者)の時代まで、故意の中絶を禁止する法令はなかった。ストア派は乳児は呼吸が始まったときにその魂を受け取ると考えていた。ユスティニアヌス帝(*在位AD360―363)の法典ではその受胎後四十日で命ある存在とされた。現代の法律では受胎の瞬間から別個の存在として扱われている。このような問題の答えは私たちの道徳的判断に影響するとはいえ、完全に道徳的感覚の範囲外に求めなければならないことは明らかである。

 

 次に良心の直接の指示による義務と、明確な命令に基づく義務には大きな区別がある。窃盗、殺人、虚偽、姦通を悪とする根拠は、金曜日に肉を食べること、日曜日に働くこと、宗教的集会を疎かにすることを人々が罪と宣告する根拠とは異なる属性に基づくものである。良心が後者の群の罪を犯した者に対して向ける非難は純粋に仮想的なものである。良心は神の命令への服従を命じているが、その命令が何であるかという決定は理性に委ねているのである。これら二つのクラスの義務の区別は、ほんの少し考えるだけで明らかになるものである。そして、その相対的な重要度の変化は宗教史の最も重要な部分の一つを成している。

 

 これと密接な関係があるのは、古来の習慣がその古さゆえに、あるいは手段と目的の混同によってついには宗教的な敬意の対象となることから生じる多様性である。ローマ共和国において女性の純潔を守るための多くの予防策の中に女性がワインを味わうことさえも禁じる法令があった。この非常に分かりやすい法律は初期の教育によって強調され、ついには習慣と伝統的な敬意によって人々の道徳感情に組み込まれ、その違反はとんでもない犯罪と見なされるようになったのである。アウルス・ゲッリウス(*AD125―180)は、カトー(*大カトー、マルクス・ポリキウス、ケンソリウス、BC234―149)が「夫は妻に対して絶対的な権威を持っており、妻がワインを飲んだり姦通したりといった恥ずべき行為をした場合、それを非難し処罰するのは夫である」と言った、という一節を残している。伝統に対する畏敬の念が薄れ、人々が古い慣習をその価値に基づいて判断する勇気を持つようになると、彼らはこの信条を着実に熟考し、それを原初の要素に還元し、その行為と結びついていた観念と分離することができた。このようにして彼らの良心が明らかにした、道徳に関するすべての推論の基礎になっている大きな道徳的法則や感情のいずれとも、それ(*女性の飲酒)が必ずしも対立するものではないことを認識することができたのである。

 

 より深刻な異常の根底には、辛抱強い分析によって容易に暴くことができる、観念の連合の混乱がある。例えば、単なる虚栄心や名声への愛、領土への貪欲さに駆られて、徒に何千もの死や苦しみ、遺族を生み出した征服者が巻き起こした称賛や深い敬愛の念と、おそらく極度の貧困や耐え難い虐待の圧力の下で貧しく無知な人物が犯した、たった一件の殺人や強盗が生み出した嫌悪感を対比させることは、道徳の歴史を深く考察する者にとって最も不面目なことだろう。通常一般大衆がその物質的な成果によって測る非凡の才と力の魅力、その人物が自国にもたらした利益、神の干渉によって戦いの勝敗が決まるという信仰、したがって軍事的成功は神の恩恵の証拠であるということ、そして王位が神聖なものであるということは、すべて間違いなく共謀して征服者の生涯の残虐さを隠してきたのである。しかし、おそらくその背後には別のより深い力がある。戦争に付随するあらゆる悪にもかかわらず、戦争に確かな道徳的な威厳を授けているのは、それが引き起こす英雄的な自己犠牲である。おそらく教会を唯一の例外として、戦争は欲得の動機が最も力を持たない領域であり、業績が厳格な義務によって評価され測られることが最も少ない領域であり、無私の熱意に最も大きな機会が与えられる領域なのである。戦場は非常に超越的かつ非常に劇的な自己犠牲の行為の場であり、そのすべての恐怖と犯罪性にもかかわらず、最も激しい道徳的熱意を呼び起こすものである。しかし、旗のため、すなわち彼らの首領のために命を捧げた多くの人々のこと考える時に生まれるこの感覚は、それを向けるべき明確な対象を必要とする。名もなき大勢の戦闘員たちは想像力を刺激しない。彼らは視界の中で、紛れもない生きた姿として目につくこともなければ、気づかれることもない。そのため最も目立つその首領が戦士の代表になるのである。殉教者の光輪が彼の頭上に降りる。こうして運命の皮肉にも見える混乱によって、何千人もの自己犠牲によって呼び起こされた情熱が、その途方もないエゴイズムがその犠牲を必要とした、まさにその人物の周りに神聖な光を放ったのである。

 

 道徳的逆説のもう一つの形は、実際的な宗教は私たちが意識的に道徳的矛盾を許容するように私たちの道徳的認識を上書きすることがあるという事実に由来する。この点において私たちの知的能力と道徳的能力は厳密に平行な関係にある。今もなおキリスト教会の少なくとも四分の三が公言しており、また何世紀ものあいだ教会全体において堅固なものだった信仰がある。ある夜、キリスト教の教祖が晩餐のテーブルに着いてから、自らの体を手に取り、それを裂いて弟子たちに配り、彼らはそれを食べ始めたのだが、同じ体は無傷のままテーブルに付いており、その後すぐにゲッセマネの園へ向かっていったというものである。このような教義が信じられているということは、それを支持している人々の能力がこの記述に矛盾や当然の馬鹿馬鹿しさを感じないような性質のものであることを意味しない。形而上学的な実体の概念の曖昧さから派生するよく知られた議論は、この困難をほんの少ししか和らげない。矛盾は明らかに認識されているが、それは教会の教えの一部として信仰によって受け入れられているのである。

 

 (*彼らによれば)全質変化(*聖餐のパンとワインがキリストの体に変わること)が理性的な秩序の中にあるように、洗礼を受けていない幼児を呪うアウグスティヌス派の教義と、永罰(*神から見捨てられること)のカルヴァン派の教義は、道徳的な秩序の中にあるのである。これらの教義はしばしば言われているように、異教徒の信仰に見られるどの教義よりも残虐なものである。そして、もしそれらがキリスト教の本質的な部分なのであれば、タキトゥス(*AD55―120)がこの信仰に使った「悪質な迷信」という言葉は十分に正当化できると言っても過言ではあるまい。生後わずかな時間しか生きられず、聖水をかけられる前に死んでしまう小さな子供には、祖先が6,000年前に禁断の果実を食べたことに対する責任があること、先祖の贖罪のために完全に蘇生して永遠の火の深淵に投げ入れられるのは完全な正義であること、また完全な正義と完全な慈悲の持ち主である創造主が全ての特性を発揮して、永遠に覆すことのできない、言語に絶する、無限の拷問を受ける運命の生命体を意図的に存在させるというなどということは、あまりに途方もなく馬鹿馬鹿しいと同時に、あまりに言葉にできないほど非道な主張であるため、それを採用するなら人々が道徳的認識の普遍性を疑うのは当然である。このような教えは、実際には単なるダイモーニズムであって、その最も極端な形である。この教えは想像力が絶対に凌駕できないような不正な行為や野蛮な行為、人間の残虐性の最も極悪非道な不行跡でさえ取るに足りないものになるような行為、神学者が悪魔に帰する行為よりも実際にはかなり悪い行為を創造主に帰しているのである。もし、これらの行為の本質を鮮明に認識しながら、それを生得的に完全な善の現れとする人々がいたとしたら、生得の道徳的認識に基づいた倫理体系は全くの誤りということになるだろう。しかし、幸いにもそうではない。これらの教義を受け入れている人々は、霊感を受けた教会や論者が説いているから信じているのである。また彼らはまだ使徒の無謬性に疑問を呈することを、考え得る限りの誹りによって神の徳性を毀損することより非宗教的と考える段階にある。そのため、自分の本性である道徳的感情を押し殺すことを義務と考え、称賛されるべきへりくだりの実践と考える。そしてついには、悪魔の属性を彼に認めることをためらったなら、神は非常に怒るだろう、と考えることになるのである。だが、彼らの道徳的感覚はそうした観念によって損なわれていないわけではないとはいえ、通常のテーマについて隣人のそれと全く異なるわけではない。彼らは、慈愛に欠けるがゆえにカリグラ帝(*在位AD37―41)やネロ帝(*在位AD54―68)の生涯に反感を抱くことさえできる。彼らの神学的価値判断において正義と慈悲は分離している。彼らは教義を一種の道徳的奇跡と受け止めている。そしてある神学者の一派が常にしているように、明らかに自己矛盾した主張を明言するとき、彼らはそれを神秘、そして信仰の機会と呼ぶのである。

 

 この例では、はっきりした道徳的矛盾が意識的に許されている。迫害の場合には、教義的神学体系の一部として受け入れられている非常に不道徳な主張から、完全に道徳的かつ論理的な帰着が導かれている。犯罪者を罰する際に考慮されるべき二つの要素は、その罪の凶悪さと、彼が与えた損害である。最大の罪と最大の損害が合わさったとき、最大の罰が与えられるのは当然のことである。殺人者を死刑にした人物が道徳的能力を持っていないと主張されることはない。したがって神学者たちがある意見を持つ人間は大変罪深く、もし彼がその意見を広めたなら彼の仲間が地獄に落ちると信じたなら、彼らがこの異端者を死刑にしなければならないと結論することには何の道徳的問題もなかった。利己的な理由が迫害を悪よりも異端に向けさせたのかもしれない。しかし、誤謬の罪と教会の無謬性というカトリックの教義はそれを正当化するには十分なものだった。

 

 このように合理的、あるいはその他の根拠によって受け入れられ、賞罰の見込みに支持されている教義体系は良心のそれとは別の倫理規範を教えることがある。そしてこの場合、良心の声は無視されるか、もみ消されるかのどちらかだろう。良心の声が誤らされることがあるのもまた事実である。たとえば神学者たちが長い間、探求の習慣よりも軽信の習慣を吹き込むなら、偏見を分析するよりも大事にした方がよい、率直にその価値を調べるより教えられたことに対するあらゆる疑念をもみ消した方がよいと人々に説くなら、ついにはあらゆる公平性と知的誠実さに本能的、習慣的に反発するような心的習慣をつくることに成功するだろう。もし人がある義務に絶えず違反するなら、ついにはその義務を感じなくなるだろう。しかし、このことが倫理的探求に大きな困難をもたらしたとしても、道徳的知覚の実在に対する反論にはなりえない。なぜなら、単純にそれは私たちの全ての力が従う法則だからである。悪しき知的教育は間違った、あるいは不完全な知識だけではなく、間違った判断の傾向や習慣を生み出すだろう。悪しき美学教育は、間違った嗜好の規範を生み出すだろう。身体の酷使は私たちの身体的知覚の一部を劣化させ、損なうことさえあるだろう。前二者のケースでは正誤の基準を決定するため、多くの条件下の多くの人々の経験に頼らなければならない。また病んだ器官を正常に戻すためには長く困難な訓練が必要である。私たちは個別の道徳的問題を推論(*reasoning)によって解決することができる。しかし、その推論とは直観によって私たちに明らかにされる特定の道徳的原理に訴えることなのである。

 

 私が想像するに、人間にはある種の生得の道徳的感覚があると認めることに多くの人が見出す最大の困難は、それがソクラテスのダイモーンのような、特定のケースで具体的で絶対に確実な知識を与えてくれる神秘的な仲介者の存在を意味する、という推測に由来するのだろう。しかしそれは完全な誤りである。この(*生得の道徳的感覚の)学派の意見は必然的に二つの命題に集約される。第一は人間の意志は快楽と苦痛の法則だけに支配されているのではなく、義務の法則にも支配されているということである。第二は義務という概念の基礎は、私たちの感情的存在を構成する様々な感覚、傾向、衝動の中には、本質的に善であって奨励すべきものと、本質的に悪であって抑制すべきものとがある、という直観的認識だということである。善意は悪意に優り、真実は偽りに、正義は不正に、感謝は恩知らずに、貞潔は官能に優ることを直感的に意識するのは心理的事実であり、あらゆる時代と国において、徳は低次ではなく、高次の感覚の方を向いてきたというのが彼らの主張である。また、義務感があまりに弱く、ほとんど感じられないことがある。その場合は人間の本性の低次の部分が優位に立つだろう。社会のある条件によって人が道徳的向上のために抱く熱望が、完全に一つか二つの分野に向けられるということもあり得る。たとえば古代ギリシャでは市民的、知的な徳が非常に高く評価されたが、貞節の徳はほとんど顧みられなかった。私たちの高次の本性の異なる部分が、ある意味で対立することもある。たとえば非常に強い正義感が私たちの博愛的な感情を抑制するような場合である。道徳律に従わない行為によって何らかの目に見えない存在の機嫌をとるよう、教義上のシステムが命じることもある。特殊な状況が影響し、多くの異なる動機が交錯して、道徳的な進化を不明瞭にし、複雑にすることもある。しかしこれらすべての上に、一つの大きな真理がある。人がより聖なる、より良い存在になりたいと願うとき、より邪悪に、より不実に、より不貞になることでそうなれると思う者はいない。これらの感覚の領域において完全になることを望む者はみな善意、真実、貞節へと駆り立てられるのである。

 

 さてこの理論によれば、異なる時代にあり得るであろう道徳的な一致は、基準や行動の一致ではなく、傾向の一致であることは明白である。人間は自分へ愛着に比べて、善意への愛着が非常に劣った状態でこの世に生を受ける。そしてこの順序を逆転させることが道徳の機能なのである。すべての利己的感覚を消滅させることは、個人には不可能であり、もしそれが全体的なものになれば社会は崩壊するだろう。道徳の問題は常に比率や程度の問題のはずである。ある時、善意の愛情は単に家族を包むだけであるが、やがてその輪はまずその階級を、次に国家を、次に国家連合を、そして全人類を包み込み、最後に人間による動物の扱い方に影響を与える。これらの各段階において前の段階とは異なる基準が形成されるが、いずれの場合も同じ傾向が徳と認識される。

 

 この事実の中に、直観主義学派に対して絶えず自信たっぷりに展開される圧倒的多数の異論に対する、単純、かつ私には決定的と思われる回答がある。年老いた親を殺す未開人がいること、文明国でも嬰児殺しが平然と行われてきたこと、最高のローマ人たちが剣闘士ショーには何の問題もないと考えたこと、政治的あるいは復讐的暗殺が何世紀にもわたって認められてきたこと、奴隷制度があるときは尊ばれ、あるときは非難されてきたことは、同じ行為がある時代には無罪、別の時代には犯罪と見なされる場合があるということの疑いない証拠である。しかし多くの場合、見かけ上の異常さを説明したり酌量したりする特定の環境が歴史的検証によって明らかにされることは間違いない。剣闘士ショーがもともと宗教的動機から始まった人身御供の一つの形だったこと、未開人の粗野な遊牧生活では、老齢で無力な部族のメンバーを養うことが不可能だったこと、両親の殺害は殺人者と犠牲者の双方にとって慈悲の行為と見なされたこと、効果的な司法当局が組織される以前には私的復讐が犯罪に対する唯一の防御であり、政治的暗殺が横領に対する防御であったということ、窃盗の犯罪性に対する一部の野蛮人の鈍感さは、すべてのものを共有する彼らの習慣に起因すること、窃盗を合法とするスパルタの法律は民間の軍事的機敏さの涵養をいくらか意図していたが、主に蓄財の防止を意図していたこと、奴隷制度の導入の動機は捕虜を殺さないための征服者の慈悲だったことはしばしば示されている。これらはすべて真実であるがもう一つ、より一般的な答えがある。すべての時代の人々が彼らの時代の道徳的原理の妥当性について合意していたなどとは考えられないし、主張されてもいない。主張されているのは、これらの原理はそれ自体同じものだということだけである。私たちの目に極悪非道の残虐行為と映るもののいくつかは、それに反論するために持ち出される普遍的認識である慈悲心の命ずるところのものである。またそうでない場合でも推測されるのは、慈悲の水準が非常に低かったということである。しかしそれでもなお慈悲は徳とされ、残虐は悪徳とされていた。

 

 この点において私は原型となる(*original)道徳的能力を仮定したならば進歩的な道徳というものはあり得ないという主張がいかに完全に間違っているかを示すことができる。このような主張には二つの非常に単純な答えがある。第一に、直観的モラリストはある種の資質を必然的に徳の高いものであると主張するものの、それらが作用する程度、言い換えれば義務の水準、が徐々に高くなる可能性を完全に認めているのである。第二に、直観的モラリストはすべての徳を有用性に分解することを拒んではいても、反対派と同様に博愛、すなわち人間の幸福の促進が徳であること、したがって人類の真の利益をより明確に示す発見は私たちの義務の本質に新しい光を当てるだろうことを完全に認めているのである。(*新しい発見の肯定は、当然進歩の肯定である)

 

 私が人間性に関して主張した事柄は男女のさまざまな関係にも同じように当てはまる。男性の情欲がまったく自由であれば、複数の妻との共同生活も、あらゆる風変わりな官能の形態も認められることだろう。この点で人間が自分の性質を改善しようとするとき、その目的は官能の主権を縮小し、制限することだろう。しかしこの改善過程には明らかな限界がある。第一に種の継続は官能的な行為によってのみ可能である。次にこの情欲の強さと人間の弱さは非常に卓越しているため、モラリストはすべての社会で、特に長い間情欲に自由な機会が与えられていた社会では、種の繁殖という単純な欲求によらない大量の放縦が生じるという事実を考慮に入れなければならない。そこで近親相姦を禁止し、妻たちの共同生活を通常の一夫多妻制に置き換えれば、道徳的な向上がもたらされ、徳の基準が形成されるだろう。しかしこの基準はすぐに新たな進歩の出発点となる。ユダヤの律法を調べてみるなら、立法者は姦淫を禁止し、婚姻の親等を規定すると同時に、妻の過剰な増加を戒めつつも一夫多妻制を認めていることがわかる。ギリシャでは例外はないわけではないが一夫一婦制が施行されていた。しかし同時に好ましくない影響が発生したため、男性たちは高い道徳基準に達することはできなかった。そして彼らには結婚の制限を超えたほとんどあらゆる形の放縦が許されていた。ローマでは道徳水準ははるかに高かった。一夫一婦制が確立していた。女性の道徳の理想はキリスト教諸国と同じくらい高い位置に置かれていた。しかし男性の間で不自然な恋愛や不倫は良くないこととされていたが、結婚前の単なる不品行はほとんど悪いこととされていなかった。カトリックでは結婚は種の繁殖のための手段であると同時に、人間の弱さに対する譲歩であるという二重の視点で捉えられている。そして他のすべての官能的な楽しみは厳しく禁止されている。

 

 こういう場合、人が情欲を抑えるために努力する程度と低次の本性に譲歩する程度には大きな差があるが、徳の方向性には差がないのである。姦通や子作りの場合にも利益や実用性の問題が介在することは間違いないが、一般的な物事はまったく別の考え方の上に立って進んでいることに私たちは気づく。すべての人々の感覚とすべての民族の言葉、この欲求はその最も正当な満足においてさえ、ベールをかけられ、視界から隠されるべきものであるという、しばしば弱まるが完全に消えることはない感情、上品と下品という名の下に知られているすべてものが、私たちの本性である官能的な部分には、何か品位を落とすものがある、自然に恥の感覚がつきまとうものがある、完全な純粋さの概念にそぐわないものがある、神聖な存在にふさわしいとは言えないものがある、という生来の、直感的、本能的な認識を私たちが持っていることを一致して証明している。かつてこのような認識を全く持たない人物がいただろうかということは疑問である。また統一性に対する最も執拗な情熱以外に、人がこれを単なる利害関係の打算に帰すよう促すものは何もない。私が説明した動き全体の根底にあるのはこの感覚または本能であり、カトリック教会に熱心に奨励されている、完全な禁欲を神聖なものとする感覚を生み出し、遙かな時空を超え、様々な信条を経て今に至っているのもこの感覚である。ユダヤのナザレ派やエッセネ派、エジプトやインドの司祭、タタールの修道院、アジアの神話に数多く登場する奇跡の処女の物語にそれを見出すことができる。たとえばシナの伝説では地球上に男が一人、女が一人しかいなかったとき、女は地上に人を住ませるためにさえ処女を捨てることを拒んだ。その純粋さをたたえた神々は彼女に恋人の眼差しで妊娠することを許し、処女の母親が人類の親となったということである。官能にふける古代ギリシャにおいて、貞操はアテネとアルテミスに与えられた卓越した神聖さの属性だった。「ゼウスの貞節な娘よ、」アイスキュロス(*BC525―456、ギリシャ悲劇詩人)において嘆願者たちが祈っている。「その穏やかな眼差しは決して乱されることがない、われらを見守り給え!処女よ、処女たちを守りたまえ。」パルテノン神殿すなわち処女宮はアテネで最も高貴な宗教建築物だった。司祭のいくつかの位階と巫女のいくつかの位階では禁欲が必須条件だった。プラトンはその道徳体系の基礎を人間の本性の身体的または感覚的な部分と、精神的または理性的な部分との区別に置いた。そして前者を人間の堕落の印、後者を人間の尊厳の印とした。ピタゴラスの学派全体は貞操を主要な徳のひとつとし、修道院制度の創設に力を尽くした。物質的な汚れのない魂を結びつける天空のアフロディテの概念は、地上のアフロディテすなわち欲望の守護神の概念と並存していた。そして、彫刻家が情欲の過剰さに迎合しようとした時代があったとしても、彼らの技巧はそれを洗練し理想化することに発揮された時代もあったのである。ストラボン(*BC64―24、ギリシャ系の歴史家)はトラキア(*バルカン半島東部)に独身と厳格な生活によって完成を目指す人々の共同体が存在したことに触れている。プルタルコス(*AD46―119、ギリシャ人著述家)は「断ち物によって神を敬う」ために一年間ワインと女性を断つことを誓ったある哲学者を称賛している。ローマでは宗教的な畏敬の念は特に結婚生活に集中していた。ペナテス(*貯蔵庫の神)に与えられた大きな栄誉は家庭生活の宗教的承認だった。またローマの女性たちの間では、伝説によると地上にいるとき夫以外の男の顔を見たことがなく、名前も知らなかった理想的な妻、ボナ・ディアへの信仰が盛んだったという。「祭壇と家庭のために」というのがローマ兵の鬨の声だった。しかしこれらすべての上に、より高い理想の痕跡を見出すことができる。ウェスタ(*かまどの神)の処女たちに与えられた極度の尊厳の中にそれを見出すことができるのである。その禁欲は恐ろしい罰則によって守られ、国家の繁栄と密接に関係しているとされ、その祈りは奇跡的な力を持つと信じられていた。ローマの通りを走ることは皇后にさえ許されていなかったが、彼女たちには許されていた。私たちはクラウディアの伝説の中にそれを見出すことができる。神々の母の像を乗せた船がテヴェレ川に座礁したとき、彼女は自分の帯を船首に取り付け、強い男たちが動かそうとしても無駄だったその巨大な重量を処女の手で引いて自分の貞操の疑いを晴らしたのである。処女にしばしば与えられる予言の才能、処女を死刑から守る法律、結婚そのものを欠陥と表現したスタティウス(*AD45―96、ローマの詩人)の言葉にもそのようなものが見出せる。キリスト教は処女性を女性の理想とすることを信仰の大きな魅力にしてきた。カトリックの修道院制度は何千人もの人々を活動的な仕事から引き離すように構築されている。その取り消すことのできない誓いは多くの苦しみと少なからぬ犯罪につながったことに疑いはない。私たちの混じり合った本性の普通の進展への異議は、しばしば想像力の重大な異常をもたらし、非常に高い道徳的価値を持つ家庭的な愛情や共感を禁止した。しかし人間の純粋に動物的な側面は低く、劣った側面であるという中心概念において、私はそれが人間の生得の感情を完全に忠実に反映したものであると信じている。

 

 これらの考察に別の性質の考察をいくつか加えることができる。他の国々が貞操を善とみなしていたのと同じ意味で、古代のある国々が一夫多妻制を善とみなしていたというのは真実ではない。ある状態を許容しようとすることと、それを神聖なものにしようとすることの間には大きな差異がある。イスラム教徒が天国に官能的なイメージを描くのは、それが彼らの聖なる理想だからではない。彼らが地上を徳の領域、天国を単なる享楽の領域と見なしているからである。もしなんらかの異教徒の国々が官能を神格化したとすれば、それは単なる自然の力の神格化であり、その中でも多産のエネルギーは最も顕著なものの一つであり、宗教の最も初期の形態の一つであって、神を道徳的理想と同一視するよりもずっと前からあったものだからである。処女にある種の汚名を着せた国々があったとしても、それは彼らが官能を貞操よりも本質的に神聖視したからではなく、世界における自国の地位が主に戦士の数に依存する貧弱な好戦的民族は当然、人口の増加の奨励を主目的とするからである。特に古代のユダヤ人はそうだった。彼らは極端な人口増加を国の繁栄と不可分の関係にあると常に考え、その宗教は本質的に愛国的なものだった。そして、自らがメシアの祖先になる可能性が出産に特別な尊厳を与えていたのだった。しかしユダヤ人の中でもエッセネ派は純潔を神聖な理想とみなしていた。

 

 ある時代には正当とされていた行為が別の時代には不道徳なものとされた、という理由で道徳的認識の生得論に対してロックの時代から絶えず提起されてきた反論はまったく空しいものであることを、いまや読者は理解されただろう。到達した卓越性の水準は異なっていても、どの時代においても徳は同じ感覚から培われたものだったことに気づくなら、これらの議論はすべて全く価値を失うのである。高さと低さ、高貴さと低劣さ、純粋と不純という言葉は、善と悪、徳と悪徳という言葉よりもはるかに忠実に道徳的事実を示している。道徳的な特質は絶対的で不変なものであるという観念がある。それらは完全に相対的で一時的なものであるというもう一つの観念がある。私たちの道徳的感覚に明らかに大きく反する行為、その感覚が養われる最も初期の段階においてさえも間違っていると見なされる行為がある。真実と虚偽の区別のように、その性質上、単なる徳の度合いとは別の明確な定義が即座に生じる区別もあるが、このような場合でも、時代が求める綿密さには大きな差がある。しかしはっきりと命じられていることは別として、人がそれらの行為を単に良いとか悪いとかではなく、明確に善と悪と呼ぶことを可能にする唯一の外的な規則は、私が思うに、社会の基準である。マンデヴィルが想像したような恣意的な基準ではなく、私たちの道徳的能力が私たちの性質のより高い部分、すなわち徳のある部分であると教えるものを培うことによって社会が到達した水準である。これを下回る者は徳の本質的な素質を遮断しているのである。これを達成しただけの者は自分の良心において、言い換えれば自分の道徳的成長の基準によって正当化されなかったとしても、いかなる外的規則に関しても自分の義務を果たしていることになる。これを超える者はそれを行うことは徳であるが、怠ることは悪徳ではない領域に入っているのである―カトリック神学者の間で「完全性の勧告(*counsels of perfection、清貧、貞潔、従順)」として知られる領域である。奴隷制度、戦争における捕虜の虐殺、剣闘士のショー、一夫多妻制が本質的に間違っているかどうかということほど、無益な議論はないと私は考える。現在では間違っているかもしれないが―かつてはそうではなかった―そして昔の人物が自分の例を挙げてこれらの一つや二つを認めたとしても、彼は罪を犯したことにならない。私たちが主張する不変の命題はこうである―慈悲は常に高潔な性質である―人間の本性の官能的な部分は常に低い部分である。

 

 しかしこの時点で当然ながら非常に難しい問題が発生する。私たちの道徳的性質は知的または身体的性質より優れていることを認め、また私たちの存在の構造上、私たちには自分の性質を完全に発展させる義務があることを認め、道徳的動機の優位性を確かなものと認めたとする。それでも、いかに大きな物質的または知的な利益をもってしても、いかに小さな道徳的な損失をも正当に贖えないほどに、私たちの存在のさまざまな部分の間の格差は大きいのだろうか、という疑問がまだ残る。これは決疑論(*教父たちの告解の指針として始まった実践的判定法)の大問題であり、聖職者たちが目的は手段を正当化するか(*天国に入るための免罪符は正しいか)、を問うことによって言い表す問題である。またこの問題について神学者の間には、絶対に実現不可能で、誰も実際の生活に適用することを夢想したことのない教義が存在する。それはたとえ最善の意図によって提唱されたものだったとしても、実行に移したなら最も初歩的な文明とすら全く相容れないだろう。つまり、疑いようのない罪はたとえ最も些細なものであっても、その本質と結果において言いようのないほど恐ろしいものであって、考えうる物質的、知的利益はそれに対抗することができない、罪を犯すくらいなら、罪を犯させないどのような災難にも耐えて、全人類が苦しみながら滅びた方が良い、と言う教義である。もしそうであれば、人類の最高の目的が罪のないことであることは明らかであり、この目的のための手段が欲望の絶対的な抑制であることも同様に明らかである。欲望の輪を広げることは、必然的に誘惑を増やすことであり、したがって罪の数を増やすことになる。欲望の絶対的抑制は確かに(*本物の)道徳的な水準を引き上げるかもしれない。(*罪を犯さないだけが道徳的に高い状態ではなくなるため)不活発になって罪を犯さないのは道徳的に高い状態ではないからである。しかし、もしすべての罪が神学者たちが主張する通りのものであり、もしそれが永遠の苦悶に値するものであって、それを犯すのが世界の破滅そのよりも悪であるほど想像を絶するほどに恐ろしいことであるとすれば、道徳的な利益でさえそれと全く釣り合わないものになってしまう。道徳的な気風を高めることや、帰依の深さや法悦は一瞬たりとも天秤にかけられることはない。この教義が実際の生活に適用された場合、その結果は非常に法外なものとなるので、それらを簡単に記すだけで反論できる。君主が戦争の結果を計算するとき、その戦争によって引き起こされる一つの罪、一つの負傷兵の冒涜、一つの鶏小屋の強奪、一人の女性の純潔の侵害は、その国の全商業の破滅、最も貴重な地方の損失、すべての権力の崩壊よりも大きな災難と考なければならない、ということになる。彼は軍隊の編成によって必ず生じる不品行の増加という弊害は、その軍隊が回避しうるいかなる物質的、政治的災害よりも計り知れないほど大きな災難であると信じなければならない。それが悪徳の抑制に最も弱く、最も一時的な影響しか与えないなら、自分の国を荒廃させる最も恐ろしい疫病や飢饉は喜ばしいことであると信じなければならない。自分の国民が大都市に集まることは彼らの罪を一つ増やすことに他ならず、どのような知的、物質的利益があったとしても、都市の建設は恐るべき惨事であると信じなければならない。この原理に従うなら人生のあらゆる苦心、多人数を集めるあらゆる娯楽、ほとんどすべての芸術、欲望を目覚めさせたり刺激したりする富の獲得は悪である。なぜならこれらはすべて何らかの罪の源となる。そしてその利益はほとんどの場合純粋に現世的なものだからである。文明の構造全体は私たちがしばしば正確に予見できるある種の道徳的な悪を犠牲にしてでも、知的、物質的能力を培うのは良いことだという信念の上に成り立っている。製造業を起業する人物が、彼の事業によってその都市の飲酒や不品行がどれくらい増加するかを確実に予測できるようになる時が来るかもしれない。それでも彼はその事業を進め、人類はそれを善と判断するだろう。

 

 この問題に関する神学的教義は多くの人々に信奉されていながら、そのあまりの厳しさゆえに、先述のように誰にも実行されておらず、一貫して守られていない。しかし他のすべての利益に対する道徳の有意性に関する人類の実際的な判断は非常に多様である。そしてこの多様性は直観的モラリストに対する最も深刻な反論の一つである。神学的な罪の価値判断に最も近い実践的なアプローチは苦行者(*初期キリスト教の禁欲主義者)たちの中に見出すことができる。彼らの体系の全ては、罪は超越的に恐ろしいものであって地上の利益とは何の比例関係も、あるいは明らかな関係もないという信念に基づいている。この信念から出発して苦行者は罪を犯さないようにすることを人生の唯一の目的とする。それゆえ彼は社会のすべての活動を避け、すべての世俗的な目的と野心を捨て、修行を続けることによって自然な欲望を鈍らせ、宗教的な課題に完全に埋没する生活を送るよう努力するのである。そして彼のこのすべての行動は合理的で一貫している。罪の重大さをこのように考える人物の自然な行動は、誘惑となりうるすべての外的影響を何としても避け、自分自身の欲求や感情をできる限り減退させることである。神学者たちはこの点を過大視することによって人間の道徳的本質を麻痺させてしまう。なぜなら罪の削減はいかに重要なことではあっても、道徳的進歩の一部分に過ぎないからである。これが不釣り合いに傑出することを強いられた時には常に、飼いならされた弱弱しい骨抜きの性質、すべての熱情と気力の欠如が見られる。そしてこの傾向は通常、優しさ(*gentleness、柔和さ、寛容さ)という徳が極端に傑出することによってさらに悪化してきた。それは本当は強い性質と激しい情熱を持った人々が到達するものであるはずだが、明らかにどこか弱々しく熱情のない性格に似合いのものになってしまっている。

 

禁欲的な慣習は明らかに急速に失われつつあり、その衰退はそれが表していた道徳観念の衰退の顕著な証拠である。しかし、現存する同じ事柄に関する多くの問題には、判断を複雑なものにする多様性が見られる。それはカトリックの聖職者が通常採用している教育システムは罪を予防することを最大の目的とし、常時厳しく監視することをその手段としているのと対照的に、イギリスのパブリック・スクールの教育システムは罪を犯す可能性を低くするにも、非常に細やかな宗教的罪悪感を育てるにも最も適していなかったとしても、あらゆる能力の健全な伸展を意図しており、それが一般的に認められているということに見て取れる。それは異なる時代の善良な人々が虚偽であると信じた宗教的見解に対してとった大きく異なる態度の中にも見出すことができる。ある人々は宗教改革者のように、迷信的な儀式に参加することを拒否し、いかなる場合にも、いかなる代償を払っても、彼らが嘘と見なしたものへの抗議を差し控えることを拒んだ。他の人々は古代のほとんどの、そして現代のいくらかの哲学者や政治家たちのように、最も絶対的な個人的不信仰と迷信的儀式の熱心な遵守を両立し、人々にとって有益であったり彼らの慰めになったりする妄想を妨げる人々を強く非難した。一方、三番目の人々は抗議することなく、静かにその儀式から身を引き、著述によって自分たちの意見を自由に表現することを望んだ。しかし同時に準備ができていない心に無造作にそれを押し付けようとする、あらゆる転向の勧誘を差し控えた。早婚をめぐって政治経済学者とカトリックの司祭は頻繁に対立する。前者は快適さの水準を下げないことが物質的な幸福の必須条件であるという理由で反対する。後者は打算的な動機のために多くの人が結婚を延期することは多くの罪を生む元であるという理由で擁護する。それは、それ自体は完全に無害なものであっても、悪の源泉やきっかけとなる娯楽に対して、異なる社会で示される寛容さの著しい多様性の中に最も顕著に見出すことができる。スコットランドのピューリタンを一方の極端な例として、(*大英)帝国のパリ風の社交界を他方のそれとするなら、おそらく平均的なイギリス人はそれらから等距離にいる。これらの違いは大きなものだが、原理ではなく程度の違いなのである。たまに単発の泥酔事件の誘因となることがある氏族の集会やハイランド・ゲームス(*毎夏の力比べ大会)をすべて規制することをピューリタンは真剣に望まない。もっとも、そうしたとしても他の罪が犯されることを防止できたという証明ができるはずもない。フランス人はどんなに楽しみが伴おうとも、許容されるべきではない一定の不道徳というものがあることを疑わないだろう。しかし、一方(*不道徳)は専ら見世物の道徳的な性質に、他方(*楽しみ)は魅力的な性質に関わるものである.この両者の間には多くのグラデーションがあり、それは競馬場、舞踏会、劇場、コンサートの功罪をめぐる頻繁な論争の中に見られる。ではどこに線を引くべきなのか、ということが問われるだろう。ある娯楽がその過程の中に存在する悪のために有害になる、と判断する地点をどのような規則によって決めれば良いのだろうか。

 

 これらの質問に対して、直観的モラリストはそのような線は引けない、そのような規則は存在しないと答えざるを得ない。私たちの道徳的性質の色彩は、言葉を用いたはっきりした線で区切られることはほとんどない。それらはほとんど気づかれないうちに薄れ、互いに混ざり合うため、移行の正確な地点を示すことは不可能である。人間の目的は自然がそれ自身に与えた調和と均整の中で、自らの存在を完全に発展させることである。そして、そのような発展は彼の人生の最高の優勢な動機が道徳的なものであることを意味する。いかなる社会や個人においても、もしこの優位性が存在しないならば、その社会や個人は病的で異常な状態にある。ただし、人間の本性の道徳的部分の優位性は疑う余地がないとはいえ、それは無制限なものではなく不確かなものである。そして世間一般の基準は常に同じではない。モラリストは一般的原理を打ち立てることしかできない。その適用方法を決めるの個人の感覚や社会の一般的な感情である。

 

 このような問題に関して直観的理論につきまとう曖昧さは常に対立学派のメンバーによって強調されてきた。彼らは「最大幸福の原理」というはっきりした決まり文句を主張し、それによって大胆に合法と違法の境界線を引き、道徳的論争を感覚の領域から実証の領域に移すことができる、としている。この主張は功利主義学派の大きな魅力になっているが、私が誤解していなければ、最も下劣な詐欺の一つである。私たちは最も多様な素材商品の価値を正確さと確信を持って比較する。なぜなら価値という言葉は交換価値を意味しており、私たちは交換の共通の尺度を持っているからである。しかし、私たちが異なる種類の有用性や幸福を比較するための尺度を探しても無駄である。例えば非常に身近な例として、のどかな田舎から港町への遊覧列車が悪よりも善を多く生み出すかどうか、道徳的原理に従う人物はそれに賛成すべきか反対すべきか、という問題を取り上げてみよう。それは何千もの人々に罪のない健康的な楽しみを与え、人々の考え方の幅をある程度広げる。それがなかったなら犯されなかった罪を防いだとは言い難いし、多くの泥酔の事案を引き起こしている。それはここまで見てきた神学の教義によれば、リスボンの地震やコレラ禍よりも恐ろしい惨事であるが、現世に与える影響は通常一過性のものである。それはしばしば、より深刻な悪徳の手段を、そして時に小さからざる手段を生み出す。何百人もの女性がこの遊覧列車で初めて純潔を失う、というのもありうることである。ここには多くの長所と短所がある。前者は知的、物質的なものであり、後者は道徳的なものである。ほとんどすべてのモラリストは、少数の不道徳な事例によって遊覧列車が全体としては良いものであることを否定できない、と認めるだろう。しかし非常に多くの事例があったなら、バランスが反対に傾くことは全員が認めるだろう。直観的モラリストは、道徳的な悪が物質的な利益を上回る場所に自ら正確な線を引くことはできない、と告白している。ベンサムの決まり文句を導入することでこの問題がどのように改善されるのか、私には理解できない。功利主義者はこの問題を単なる多数決の問題に矮小化したり、ある女性の破滅とお相手のその日の楽しみを天秤にかけるような皮肉を持ちあわせたりはしていないだろう。このような場合に明確な境界線を引くことができない、ということは直観的モラリストに対する反論にはならない。なぜならその不可能性は彼ら自身も最大限に共有しているからである。

 

 ここまで見てきたように功利主義的モラリストが関心を寄せる利益には二種類のものがある―究極の動機と信じる私的利益と、すべての徳の目的と信じる公的利益である。前者について直観的モラリストは利己的な行為が有徳の、すなわち価値あるものになりうることを否定する。ある人が窃盗を犯そうとしたとき、突然警官の存在に気づいて、逮捕と処罰を恐れたために犯すはずだった罪を犯さなかったとしたら、このことは人の目には道徳的価値を持つと映らないだろう。そしてもし彼が部分的に良心的な動機、部分的に恐怖によって決意したのだとしたら、後者の要素の強さに応じて彼の徳の価値は減じられるだろう。しかし、利己的な考えは有徳の考えとは明らかに対立するとはいえ、それが究極的に純粋に道徳的な力を持ってないと考えるのは誤りである。まず、よく整備された脅しと罰のシステムは、それなしにはほとんど不可能だったであろう明確な定義によって徳の道をはっきりと示している。次に、動機の対立によって心が揺らいだとき、報酬や罰を予想することによって徳の動機が強化されたり、支援されたりしてその勝利が確実になるのはよくあることである。そしてこの動機が勝利するたびにその強さは増し、反対の原理は弱まる。こうして未来の他の助けを受けない徳の勝利をより起こりやすくする、道徳的完成に向けた一歩が踏み出されるのである。

 

 社会の利益に関しては二つの別個の主張がある。第一は、他人の幸福を追求することは間違いなく一つの徳であるが、それが徳のすべてではないというものである。言い換えればたとえ人類にとって有益なものであっても、それゆえに徳なのではなく、その有用性に比例したり依存したりしない、本質的な卓越性を持つ徳というものが存在するということである。第二は、これらの徳を犠牲にすることを正当化するような、極端で圧倒的な有用性の動機が時折生じるということである。この犠牲はさまざまな方法で払われる―たとえば、ある人物がそれ自体は完全に罪のないものであって大きな物質的利益を生み出すが、ある程度の罪をも生み出すことをよく知りながら事業を引き受けるとき、また自分が真実でないと考える信念を、並外れて有用であると考えるがゆえに抗議せずに黙認するとき、また他人のために、しかも非常に切迫した状況下でまったくの虚偽を口にするとき、例えば無実の人の命を救うにはその手段しかないときに払われるのである。しかしこのような場合に極端な有用性への動機が道徳的動機に優先するという事実は、後者が前者とは種類が異なること、後者がより高い性質のものであること、後者は有用性とは性質が異なるばかりではなく、むしろ対立するものでありながら適切かつ正当である行動の動機をもたらす場合があるという事実と何ら矛盾しない。金と銀は別種の金属である。金は銀よりも価値が高い。金は非常に少量でも非常に大量の銀と交換することができるのである。

 

 自然な(*natural、生得的な)道徳的認識の理論に対する反論のうち、私が注目しなければならない最後のものは、自然という言葉の非常に有害なあいまいさから生じている。自然人(*natural man)という言葉は、原始的または野蛮な状態の人間と同義とされることもあれば、文明人の中の人為的な習慣や後天的に習得されたもの以外の、生得的なものすべてを表しているとされることもある。この曖昧さはとりわけ危険なものである。なぜならそれは興味本位の哲学に欠けている最も法外な行き過ぎの一つを意味するからである―つまり野蛮人と文明人の違いは単なる獲得(*acquisition)の差であって、発達(*development)の差ではまったくないという考え方である。この考え方にしたがって原初の(*original)道徳的分別を否定する人々は、旅行者の記録から道徳的感情(*moral sentiment)を持っていないように見える未開人の例を探し出し、それらを自分たちの立場を証明する決定的な証拠として提示してきたのである。しかしこのような話が極めて信頼できないものであることは十分に明らかだろう。ほとんどの場合、それらは批判力がなく哲学的ではない旅行者が集めたものである。彼らは説明しようとする人々の言葉も、内面生活もほとんど知らず、情報は単にその国を横断することで得たものであり、誇示されない徳よりも、道徳的な矛盾に驚き、目撃した風変わりな部分を装飾し誇張するのが常であって、その起源を調べることは非常に稀である。この種の証拠を最も強く主張した前世紀のフランスのモラリストたちが歴史上の全ての著述家の中で最も奇妙な妄想の餌食でもあったことを忘れてはならない。自分が触れたことのないものは信じなかった使徒の真の弟子であると主張し、その容赦ない批判が人間の性質の最も神聖な感覚と伝統的信仰のすべての教義を委縮させる効果を持っていた、こうした断固たる懐疑論者たちは理想が夢ではなくなった一つの幸福な国を発見していた。その純粋で理性的な道徳が偏見と熱狂の雲を一掃し、ヨーロッパの無知と迷信の上に、ほとんどまばゆいばかりの輝きをもって輝いているある人々を彼らは指し示すことができたのである。シナとシナ人が彼らの心の前に現れたときにヴォルテール(*1694―1778)は嘲ることを忘れ、エルヴェシウスは熱狂した。そして彼らはローマやキリスト教の徳が実現できなかった行動原理を実現しているのはこの半野蛮の民族である、とするのが常だった。

 

 しかしこうした考察をさておき、こうした論者たちが頼っている未開人の生活の描写を信用できるものと仮定しても、そのためにこれらを持ち出した論点を彼らは証明することはできない。私が弁護しているモラリストたちは、私たちは自分たちの性質の高次の部分と低次の部分とを区別する生得的な力を持っている、と主張している。しかし心の目は身体の目と同じように閉ざされることがある。道徳的、理性的な能力は同じように休眠状態になってしまうことがある。人々が完全に感覚を満足させることに没頭するなら必ずそうなるだろう。人間は植物に似ていて、生得の力を完全に発揮するためには好ましい土壌が必要である。理性的な力や道徳的な力がそこにあり、行動するよう刺激されたなら、それぞれが備えた機能を発揮するだろう。もし、理性を本能と区別する日進月歩のエネルギーや、徳を打ち立てようとする道徳的願望をまったく持たない未開人がいることが証明されたとしても、彼らの本性に理性や道徳の能力がないことの証明にはならないだろう。もし猿が知らず、感じず、行わないだろうことを、知らず、感じず、行わない野蛮な段階が人間にあることを示せたとしても、彼を獣のレベルにまで引き下げるにはそれだけでは不十分だろう。両者の間にはまだ大きな隔たりがある―一方は発達のための知的能力を持っており、他方は持っていないのである。好ましい環境下において野蛮人は理性的、進歩的、かつ道徳的な人間になる。しかし、このような変化はどのような環境下においても猿には起こりえない。ドングリの中から樫の葉を探し出すのは石の中で探し出すのと同様に難しいことである。しかしドングリは樫の木に変わることがあるが、石は常に石であり続ける。

 

 ここまでのページにおいて、二つの大きな学派の性質を十分はっきりと示すことができただろうと私は信じている―すべての人間は幸福を欲するという原初的な真理から出発し、この事実からすべての倫理学を展開しようとする学派と、私たちの道徳体系を、私たちの本質のある部分が他の部分より優れているという直感的な認識の中にまでさかのぼろうとする学派である。私たちの道徳的概念の起源に関するこの相違が、私たちの観念がもっぱら感覚に由来するのか、それとも部分的には心そのものに由来するのか、という非常に広大な形而上学的問題の一部であることは明らかである。古代における後者の理論は主にプラトン派の前世の教義に代表される。この教義は、心には生後の経験では説明できない特定の概念や観念を自らの奥底から引き出す力がある、したがってそれは前世で獲得されたに違いないという確信に基づいている。十七世紀にはこれは生得的観念の学説という形をとった。この理論はチャーベリーのハーバート卿(*1583―1648)によって発表されたが、ロックに批判されてほとんど消滅してしまった。しかし人間には外から受け入れた考えとは別のある種の能力があって、つぼみが特定の花へと必ず展開するように、それ自身の展開によってある種の観念を持つことができるだけではなく、必ずそれに到達するに違いないという理論は、依然として思索の世界において際立った地位を占めている。そしてその可能性は動物における本能の範囲と有効性に関する最近の観察によって大きく強化されている。ロック自身がこの区別について混乱した認識を持っていたことが彼のエッセイの中の数行から伺えるが、この区別は以前の論者には全く知られていないものだった。またロックの哲学が発表された後、この区別はシャフツベリーやライプニッツ(*1646―1716)によって明確に提示された。そして、カントが私たちの認識における形式と内容の区別、プリオリに受け入れる観念とポステリオリに受け入れる観念との区別を確立するずっと前に、バークリー(*ジョージ、1635―1753)はそれに偶然気づいていたのである。この観念の源泉の有無が一方の十八世紀のイギリスやフランスの帰納的哲学と、もう一方のドイツやスコットランドの哲学、十九世紀のフランスの折衷主義との対立の基礎になっている。前者の学派の傾向は、人間の心の活動的な力をできる限り限定し、外的環境の主権をできる限り強調しようとするものである。後者の学派は、特に人間の本性の直観的側面に注目する。そして理性の確かな直観、人間のすべての推論において前提とされ、感覚に分解することができない特定のカテゴリー、すなわち原初の観念の存在を主張している。先の学派の自慢は、その徹底的な分析によっていかなる心的現象も未解決のままにしておかないことである。そしてその魅力はそれが極端な単純さによって達成しうることである。後の学派は、能力すなわち原初の原理の数を増やし、主に私たちの理解の性質に注意を集中し、私たちの意志と知性の両方の主導権を非常に強く主張するのである。

 

 感覚に基づく哲学と、有用性に基づく道徳のこのような関係は古い時代にも見ることができる。アリストテレスは徳の有用性を強調したことで古代の人々の間で際立っていた。そしてロック派の標語となった有名な決まり文句(**いかなる人物の知識も、彼の経験を超えるものではない)はアリストテレスの著作から採られたものである。ロック自身は生得的な道徳感覚の学説に対する反論に特別な研究を捧げた。それを未開人の間に存在する不道徳な習慣の一覧表によって覆そうとしたのである。また彼が道徳の学説において時折見せたためらいは、内省を観念の源泉と認めたことが彼の形而上学に投げかけた曖昧さと符合しないわけではない。彼の敵対者ライプニッツが快楽を道徳的な行為の目的としていたとしても、それは他人の幸福を期待することから生まれる洗練された快楽に過ぎなかった。しかしコンディヤックとその追随者たちが、内省をロックが置いた位置から取り除き、感覚の哲学をその最もシンプルな表現に制限し、スコットランドとドイツの論者たちがその反対学派の原理を精緻化したとき、両者の道徳的傾向は疑いなく明らかになったのである。感覚の哲学には常に利益の道徳が伴い、観念論的哲学には常に道徳的能力の存在の主張が伴った。そして私たちの観念の起源に関する一般的な理論の影響を受けた全ての力は、倫理学の理論にそれ相応の影響を与えた。

 

 ベーコン(*フランシス、1561―1626)をたちまち最高の代表者とすると同時に主要な行為者の一人とした現代思想の大きな動きは、主にソクラテスの天才によってもたらされた古代思想の動きと著しい類似性を示し、同時に著しい対照をなしていると言われていることは正しい。ソクラテスは実用の名のもとに古代の知性を、長い間没頭していた空想的宇宙起源論の研究から、人間の道徳的性質の研究へと向かわせたのである。ベーコンも同じく実用の名のもとに近代の知性を、スコラ学者たちの無益な形而上学的思索から自然科学へ転換させようと努力した。新しく発見された研究手段、彼がとった健全な手段、そして素晴らしい知性集団が、この自然科学に速やかにかつてなかったほどの推進力を与えたのである。この運動は、おそらくガッセンディ(*ピエール、1592―1655)やロックの直接的な教え以上に、近代諸国における感覚の哲学の台頭に間接的に影響を与えたのだろう。そしてそれは古代と現代の歴史の最も重要な相違点のいくつかと関連している。古代人の間では人間の心は、主としてその法則が永久に揺れ動くと思われる哲学的な思索に向けられていた。一方近代人の間でそれは、むしろその法則が永久に進歩し続ける自然科学や発明に向かう傾向がある。古代人の間では国力、そしてほとんどの場合は国の独立さえも高い知的または心的(*moral、道徳的)資質の絶え間ないエネルギーを意味していた。国民のヒロイズムや精神が衰えたとき、文明にしばしば伴う、気力を弱める哲学や倦怠が訪れたとき、たちまち体系の全体が揺れ動き、王権は別の国家に移り、同じ歴史が別の場所で再現されるのである。ある偉大な国は確かに超絶的な美しさを持つ芸術や文学の作品、心がそのレベルに達したときにのみ役立つ哲学、向上心のある人々のヒロイズムを刺激するような先例、時には破滅への道を阻むような警告を後継者に遺した。しかし、これらはすべて心を通してのみ作用するものだった。一方、現代では宗教的な力を除けば文明人の優位性の主な原因は、いったん発見されれば決して消え去ることのない発明の中に見出される。そしてその効果は結果的に心的生活の高下からは大きく切り離されたものとなる。古代において社会の正常な発展を最も妨げる、あるいは加速させる原因は偉大な人物の出現だったが、近代では偉大な発明の出現だった。印刷は過去の知的業績を保証し、将来の進歩を確実に保証するものである。火薬と軍用機械は野蛮人の勝利を不可能なものとした。蒸気機関は各国民を最も緊密な絆で結んだ。無数の機械仕掛けは私たちの文明のあらゆる発展を彩ってきた産業的要素に決定的な優位を与えてきた。結果として心的動機の持続的なエネルギーよりも、発明(*独創)的な技術の勝利が近代社会の主な特色をはるかに際立たせることになった。

 

 今や自分の心と歴史の流れを注意深く考える人々には、自然科学の研究、発明的技術、産業的事業という三つの事柄は、ある国で一つの傾向が長く続けば、他も自然に続いていくような形で結びついていることがはっきり分かるだろう。この関係は部分的に原因と結果の関係であって、これらのいずれかの分野での成功は他の分野での成功を容易にする。自然の法則の知識は最も重要な発明の多くの基礎であり、それ自体が研究手段の助けを借りて獲得されるものである。そして産業は明らかに両者の恩恵を受けている。しかしこうした関係以外にも一致したつながりがある。これらの三つの型(*cast)は思考の同じ特色や習慣によって発達して来たものである。これらはすべて、理論的思考に対して実践的思考、演繹的思考に対して帰納的すなわち経験的思考、空想的や野心的であることに対して慎重さと堅実さ、自然に観念に留まる心に対して自然に物質へと向かう心の傾向、と一般的に呼ばれるものを示している。古代人の間では、すべての自然現象は神の気まぐれな支配によるものであるという信仰が生み出した(**Project Gutenbergではproducedが抜けている)自然科学に対する嫌悪感と、奴隷制度が生み出した産業的事業に対する嫌悪感が共に働いて哲学的傾向を助長した。しかし現代人の間では自然科学と産業的生活の習慣は絶えず互いに影響し合っている。

 

 現代の知的傾向はそれがもたらす物質的繁栄と、それが確保する絶え間ない進歩の両方において古代のそれよりもはるかに優れていることに疑問の余地はないだろう。しかしその一方で、この優位は品位や人格の気高さを犠牲にして贖われたものであることも、同様に疑いない事実であろう。精神的、道徳的資質の育成が第一の目標とされ、心とその利益が感覚(*sence)的なものから最も遠ざけられたときに、偉大な人物が最も頻繁に現れ、ヒロイズムの水準が最も高くなるのである。この場合にも、もう一つの場合と同様に、一致の法則が最高に当てはまる。物質の特性に最も集中している心はすべての観念を感覚から導き出す傾向がある。一方、自然に心自体の働きに留まっている心は観念的哲学に傾く。そして広く行われている道徳の体系はこの区別に大きく依存しているのである。

 

 次に私たちは倫理に関する限り、二つの偉大な道徳学派がもたらす対立の実際の重要性は、両者を隔てる知的な深淵から推測されるより小さいものであるということを指摘できるだろう。モラリストは社会の空気の中で成長し、他の人々に共通する全ての感覚を経験している。彼らが道徳の起源についてどのような理論を展開しようと、彼らは共通して世間一般の道徳原理を正しいと認め、これらの原理が自分たちの体系によって説明でき―それがいつも成功するとは限らないことを私は示そうとしたが―正当化できることを証明しようと努力する。両学派の大きな違いは彼らが説く徳目の違いではなく、それぞれの徳に割り当てる重要性の度合いや、提示し奨励する心の型の違いなのである。アダム・スミスが述べたように、ストア派のような自制心を卓越性の理想とする体系は特に英雄的資質に有利であり、ハッチソンのような徳を博愛に分解する体系は愛情豊かな資質に、功利的体系は産業的な徳に有利である。これら三つの道徳的卓越性の形のいずれかが特に顕著な社会は、自然にそれに一致する倫理学の理論の方向へ向かう傾向を持っている。しかし一方、この理論は一度形成されたなら、それが誘発した道徳的傾向に作用し、それを強化する。エピクロス派とストア派はそれぞれ自分たちに有利な偉大な歴史的事実を主張することができる。ギリシャの他のすべての学派がその創始者の教えを修正したり放棄したりしたとき、アテネのエピクロスの弟子たちは受け継いだ信念を汚さず、変えずに守ったのである。一方、ローマ帝国ではほとんどすべての偉大な人物、自由特権(*以下libertyをこう訳する。free、freedomを自由と訳する。)のためのほとんどすべての努力はストア派から生まれ、エピクロス主義は常に腐敗と専制と一体だった。直観学派は明確で単純な外的基準を持たないためしばしば迷信や神秘主義と同化し、幻想的で非理性的で非実用的なものになりやすいことが知られている。一方利益を重視し、功利主義的な体系に絶えず打算を介入させることは理想を抑圧し、性格を卑劣で非英雄的なものにする傾向がある。前者は道徳に主導権を与えて人生の格調と水準を高める。後者は周囲の環境が性格に及ぼす影響を明らかにし、最も重要な実践的改革をもたらす。こうしてそれぞれの学派はある意味で互いの学派を矯正し、補完するものであることが証明されている。それぞれが極端な結果に陥ったときには、害悪が生じて敵の再登場を招くのである。

 

 ここまで、人が自分の道徳的感覚を調査し、分類するための理論の性質と傾向についてある程度長く考察した。次にこれらの感覚が何ゆえに発展するのかという過程、言い換えれば、社会に自らの道徳的水準を高めさせ、どのような種類の徳を好むかを決めさせる原因についての考察に移ろう。この問題に関する私の考察はやや雑多な性格を持つことになる。しかしそれらはすべて、道徳の歴史を構成する変化の本質を示し、後続の章に詳細に適用されうるいくつかの一般的原理を私たちに与えることになる、と私は信じている。

 

 社会の組織が高度になればなるほど、英雄的な徳や禁欲的な徳を犠牲にして愛情豊かな徳や社会的な徳が培われるということは十分に明らかである。苦しみに勇敢に耐えることはおそらく人間の徳の最初の形であって、未開人の生活において自然の衝動に反して、その逆よりも高い、あるいは高貴であると信じて取られる行動方針の顕著な一例である。混乱した、無秩序で戦争の多い社会では偉大な勇気と偉大な忍耐の行為は非常に頻繁なものであって、物事の行方を非常に大きく左右する。しかし共同体の組織化に比例してその発揮の場と、発揮されたときの影響は等しく制限を受ける。これに加えて文明の嗜好や習慣、快適さを促進し、苦痛を軽減するために考案された無数の発明は社会の流れをヒロイズムとはまったく別の方向に導き、人格を洗練し柔軟にはするものの、どこか骨抜きにしてしまうのである。再び、禁欲主義―この言葉は単に修道院制度だけでなく、高度な聖性を培うために世間から離脱するあらゆる努力を含むこととする―は、いくぶん粗野で、その中では孤立が頻繁かつ容易な社会に自然に属するものである。人々が非常に緊密な協力関係で結ばれ、産業が非常に盛んになり、物質的な富と贅沢な享楽への衝動が強くなると、徳は主として、あるいはもっぱら社会の利益の観点から注視されるようになる。この傾向は立法による教育の力によってさらに強められ、道徳的特質を心に非常に深く刻みつける。しかし、それと同時に人々を道徳的特質を外的で功利的な基準のみによって評価することに慣れさせる。律法(*モーゼの十戒)の第一表(*神に対する義務、一条から四条)が第二表(*市民的義務、五条から十条)に道を譲るのである。善はそれ自身ゆえにではなく、目的のための手段として愛される。人々を高潔で博愛的にするために必要とされる徳はすべて社会にとって最高度に有益である。しかし、単に道徳的で愛情豊かな性格とは違って、聖人的、霊的な人格をつくる資質は、幸福を促進する直接的、一様、かつ明白な同様の傾向を持たないため、ほとんど評価されていない。動物的性質が最上のものだった未開人の暮らしの中には、こうした高い資質は見られない。非常に精巧な物質文明において、一般的な環境はそれを作り出すにもその真価を認めるにも好都合ではない。それは通常、中間的段階に位置していた。

 

 一方、洗練された社会の自然な産物である一定の徳も存在する。あらゆる地域的、特殊な事情に関わらず、人々が野蛮あるいは半文明の状態から高度に組織化された状態に移行すれば、必然的に合法的な復讐の範囲は消滅または縮小し、懲罰の権限は被害者から社会に任命された熱情のない法廷へと移り、勇ましい仕事から平和的な仕事への代替が進み、洗練された知的嗜好が入ってきて野蛮さが興を添えている娯楽に次第に取って代わり、すべての階級と国家の間のつながりが急速に増大し、また知的洗練によって想像力が強化される。この力を実感力と呼んでも良いだろう。この能力が主に私たちの道徳的性質と知的性質を結びつけているのである。私たちが苦しみを哀れむためには、それを実感しなければならない。そして私たちの同情の強さは通常、実感の生々しさに比例している。南米の最も恐ろしい大災害、地震、難破、戦闘は、私たちの目の前の一個人の際立った死よりも僅かな同情しか呼ばないだろう。目立った死刑囚に通常寄せられる並外れた同情、君主に集中する愛着や熱意、そして私たちの歴史判断の目に余る無定見の主な理由はここにあるはずである。マケドニア人が奴隷として売った30,000人のテーバイ人、ティルスで磔にした2,000人の捕虜、ローマ人が殺して名声を得た1,100,000人の兵士よりも、アレクサンドロスやカエサルが見せたいくらかの寛大さの記憶の方に私たちの心は動かされる。歴史上の偉大な悲劇は曖昧さという薄いシートに包まれていて、私たちの心に鮮明なイメージを呼び起こすことはない。それらを生き生きと蘇らせることができるのは歴史家の非凡な才能による偉大な努力だけである。ほとんどの人々にとって、セントヘレナ島の捕虜が看守との口論で見せた苛立ちは、彼の飽くなきエゴイズムが墓場へ追い立てた名もなき数千の人々よりも大きな力を持つ。私たちの性質の弱さとはティムール(*1336―1405、ティムール朝創始者)、バヤズィト(*1360―1403、オスマン帝国皇帝)、チンギスハンの剣の下で死んだ無数の人々の悲しみよりも、捕虜になったどこかの王女の涙や、歴史の流れに翻弄された、取るに足りない伝記の中の出来事に心を動かされることである。

 

 私たちの博愛的感覚がこのように想像力の奴隷であるとすれば、また実感することが同情するための必要条件であるとすれば、この実感する能力の範囲と力を増大させるあらゆる影響が愛情豊かな資質にとって好ましいことは明らかである。そして、そのために最も大きな効果を持っているのは教育であることも同様に明らかである。無学な人間にとって、自分とは無縁のあらゆる階級、国家、思考方法、存在を実感するのは不可能なことである。一方、すべての知識の増大は洞察力の増強をもたらし、従って共感を増強する。しかし知識の追加はこの変化の最も小さな部分に過ぎない。実感する力そのものが強化されるのである。彼が読むあらゆる書物、取り組むあらゆる知的課題は、彼の直接的な感覚を超え、その実感を新しい領域へと拡大し、他人の思考、感覚、性格を想像によって野蛮人には想像もつかないほど鮮やかに再現することを彼に習慣づける。それゆえ洗練された精神には最もデリケートな感情の濃淡を識別し、それに適応できる機転が大いに生まれる。またそれゆえその文明度に比例して、残酷さを実感し、それに反発する敏感な慈悲心が人に生まれるのである。

 

 しかし、ここで重要な区別をしなければならない。残酷という名の下には、その原因も、その結果の大部分もまったく異なる二種類の悪が存在する。冷淡さと残忍さから生じるものと、執念深さから生じるものである。前者は主に硬質で、鈍重で、やや不活発な性格に属し、強国や征服的な国、温帯に最も多く現れ、非常に大きな割合で実感能力の欠如に起因している。後者はむしろ女性的な属性であり、抑圧され苦しんでいる社会、情熱的な性格、熱帯によく見られる。大きな執念はしばしば大きな哀れみ(*tenderness)と結びつき、大きな冷淡さは大きな寛大さと結びつくが、執念深い性格が寛大であることは稀であり、残忍な性格が哀れみ深いことはなおさら稀である。古代ローマ人は冷淡さと寛大さが見事に融合していたが、不思議なことに現代のイタリア人の性格は明らかに反対の組み合わせに傾いている。思うに、どちらの残酷さも文明が進むにつれて縮小していくが、その理由と程度は異なる。冷酷な残忍さは洗練された想像力の前に消え去る。執念深い残酷さは私的な復讐に代わって刑罰制度が導入されることによって縮小する。

 

 苦しみの実感を容易にし、それゆえに同情を生み出す同じ知的洗練は、性格と意見の実感をも容易にし、それゆえ慈悲を生み出すのである。世の中の無慈悲な判断の大部分は想像力の欠如に起因するものではないだろうか。宗派間の強い憎しみの主な原因は、大抵の人々が敵対する体系をその信奉者の視点から見ることができず、彼らが抱く熱意に加われないことである。この知的共感力は一般的に大きく洗練された精神に伴うものであり、その存在はいたる所で論争に伴う怨恨を和らげる。私たちの犯罪者に対する評価は往々にして過剰に厳しくなりがちであるが、それは想像力が心的状態よりも行動の方をより容易に実感できるからである。泥酔の突発や暴力行為を想像することは誰にでもできる。しかしそのことの素因となった生まれつきの性質を、生来非常に真面目だったり非常に穏やかだったりする人々はほとんど想像することができない。有徳の人たちの中で育った善良な人物が恐ろしい犯罪の記事を読んだなら、彼はその環境を思い描くことに想像力を使い果たし「もし私がそのような行いをしたら、どの程度の罪になるのだろうか」と自問することで犯罪者の罪を推し量るのである。経験したことのない情熱の力を正しく理解し、自分たちの性格とは根本的に異なるタイプを想像し、とりわけ悪質な教育が必然的に生み出す道徳的気質の無法さや鈍感さを正しく評価するには想像の力が必要である。しかし、これは人間の才能の中で最も稀なものである。自分自身の行いを判断するときでさえ、この想像力の弱さが露呈することがある。老人は若い頃の愚かな行いを思い出したとしても、そのときの感情を実感する力を失っているため、自身の過去に対して非常に不当な態度をとることがある。強力な悪の情熱の持ち主が生来徳の高い人物に心を開くことを難しくしているのは、後者の徳というよりも、後者の無知である。それは自ら感じたことのない情熱の力を後者が理解できるはずがない、という確信である。清き全き神による裁きという考えを心に許容させるのは、清さと全知という属性の結合だけである。なぜなら完全な知識には完全な実感の力が含まれるからである。私たちの分析が進み、実感する力が養われるほど、私たちは環境が性格と意見の双方に与える影響や、道徳のばらつきに対する私たちの最初の見立ての過大さを感じられるようになる。強い反感はこうして徐々に和らいでいく。人は慈愛によって多くを得るが、熱意によって何かを失う。

 

 私たちはこの考え方をさらに一歩先に進めることができるのではないだろうか。私たちの感情を支配する想像力は初期の弱い段階では、擬人化された具体的な形を除いて、観念を把握する力はほとんどない。そして抽象化する力は、知的進歩の最も良い尺度の一つである。文字の始まりは象形文字や象徴的な絵であり、信仰の始まりはフェティシズムや偶像崇拝であり、雄弁の始まりは絵画的、感覚的、比喩的なものであり、哲学の始まりは神話である。最初の段階において想像力は個人に集中し、抽象化の努力によって次第に制度、すなわちはっきりと定義された組織へと向上していく。道徳的、知的原理を把握できるようになるのは非常に高度な段階に達してからのことである。それゆえに忠誠心、愛国心、国際的大義はそれぞれ精神的進歩の三つの連続的な段階にふさわしい道徳的熱意の三つの形なのである。そして、これらは宗教史の三つの段階の中心に位置する偶像崇拝、教会感覚、精神修養と一定の類似性がある、と私は考えている。

 

 この種の一般化がおおよその真実以上のものを示すことができないことは、読者も容易に理解されるだろう。私たちの道徳的進歩の法則に関する知識は気候の法則に関する知識に似ている。私たちは赤道に近づいたり遠ざかったりするときに予想される気温について、一般的な法則を定める。そして経験はそれが大体正しいことを示している。しかし高原、山脈、あるいは沿岸部で計算が多少狂うのはよくあることである。このように道徳的変化の歴史においても、宗教的または政治的制度、地理的条件、伝統、反感、親近感などの無数の個別の作用が一定の妨害、加速、または偏向の力を及ぼして、通常の発展をいくらか修飾するのである。私は単に道徳の自然史というものがあることを主張しているだけである。それは明確で規則的な秩序であって、私たちの道徳的感覚はそれに沿って展開してゆくということである。言い換えれば、未開の人々の環境や精神状態から自然に生まれる一定の徳のグループがあり、そして文明の正常かつ相応しい産物である別の徳のグループがある、ということである。未開人の徳は文明人にも徳と認識されているが、同じ完全さで発揮されるわけでもなく、義務の尺度の中で同じ地位を与えられているわけでもない。これらの道徳的変化のうち最も明白なものは、積極的および消極的ヒロイズムのゆるやかな退廃、同情と慈愛の高まり、忠誠心から愛国心と自由特権への熱意の移行である。

 

 文明とともに高まる徳のもう一つの形は真実性(*veracity)である。この言葉は単に直接的な虚偽を避ける、という以上のものを含んでいると考えなければならない。人は通常の交際の中で意図的に虚偽を口にするときだけでなく、事件の説明の中で重要な事実を伏せたり、隠そうとしたり、その根拠を良心に諮ることなく断固たる主張をするとき、真実に背いていることを容易に理解できる。おそらく真実性の義務の最も初期の形は誓いの遵守であって、これは初期の宗教において大変重要な位置を占めていた。その後の文明の進歩に伴って真実性の三つの形が相次いで説かれるようになった。それぞれを産業的、政治的、哲学的真実性と呼んで良いだろう。一つ目の真実性とは私たちが正直な人というときの一般的な意味、つまり発言の正確さや約束への忠実さのことである。ときに軍人精神に伴う強い名誉意識に支えられている場合もあるが、この真実性は通常、産業国家に特有の徳である。なぜなら産業界は欺瞞の誘惑に満ちているが、相互の信頼、そのための厳密な真実性はこうした職業において超越的に重要なものであって、人々の心中でそれまでになかった価値を獲得するからである。真実性は道徳的タイプの中で第一の徳となる。そしてそれを欠く人格はいかなる種類の承認も得られない。真実性は善人と悪人を見分ける他のいかなるテストよりも重要なものとなる。したがって私たちは、商業的詐欺が非常に多い場所でも、理屈の上では真実性が最高の徳であると本心から認められていること、そして道徳的卓越を目指すべての人が培おうとする最高の徳の一つであることを観察できる。おそらくこのことが、イタリア、スペイン、アイルランドなどの産業精神に欠ける国民と比べたときの、強い産業精神に貫かれた国民の主な道徳的優位性になっているのだろう。前者の国民の通常の特徴は、性格のある種のだらしなさや移り気、誇張の傾向、小さなことでの不誠実さ、約束を守らないことである。そして、このことから産業的生活の習慣によって教育された英国人は容易に、彼らには道徳的原理がまったくないと推測してしまう。しかし、より大きな哲学とより深い経験はその誤りを払拭する。産業精神が浸透していない国では、それが浸透している国のように、人々が徳の一覧表の中で真実性に卓越した地位を与えていないことに気づくのである。それは道徳の基礎と見なされていない。そして―産業社会ではほとんどありえないことだが―それらの国々では日頃小さなことについて不正直で不誠実ではあっても、深い宗教的感覚に動かされ、最も困難で最も痛みを伴う徳のいくつかを一貫して実践することによってその人生に美を添えている人を見つけることが可能であり、また一般的でさえある。神に対する信頼、極度の貧困と苦しみの中での満足と忍従、信者仲間を助けるための最も純粋な優しさと最も誠実な心構え、どんな迫害や賄賂にも揺るがない自分の宗教的見解への固執、英雄的、超越的、長期的自己犠牲の力が、常習的に嘘をつき詐欺をはたらく人々の中に見られる国があるのである。

 

 産業的な真実性の促進はおそらく製造業の発展が道徳に与える唯一の好ましい影響である。しかし、この徳が政治的な真実性、言い換えれば論争のある問題においてすべての意見、議論、事実が完全かつ公正に述べられることを望む公平無私の精神、に一致して成長することなく、非常に完全な形で存在することはあり得る。一般に「フェアプレー」と呼ばれるこの習慣は特に自由な共同体の特徴であり、政治生活によって最も顕著に育まれるものである。討論の実践はある事件において一方を抑圧することは不当であるという感覚を生み出し、それは次第に知的生活のあらゆる形を通じて拡散する。そして国民性の本質的な要素となる。しかしこうしたことよりもさらに高い知的な徳の形がある。拡大した知的文化、特に哲学的な研究によって人々はついに、それ自体のために真実を追求し、党派精神、偏見、情熱から自らを解放すること、そして真実を愛することを通じて論争における公正な精神を養うことを義務と考えるようになる。彼らは派閥人ではなく哲学者の知性を、党派人ではなく政治家の知性を目指すのである。

 

 三つの真実の精神のうち、後の二つは高度に文明化された社会のみに属するもの、と言えるかもしれない。特に最後のものは洗練された心でなければ到底到達できないものであって、人間の心に咲く最も新しい徳の花の一つである。しかし政治的、哲学的な真実性の成長は神学者たちの妨害によって不自然に遅らせられてきた。彼らは何世紀にもわたって自分たちの見解に異を唱えるすべての著作物を弾圧することを政策の主目的とし、この力が使えなくなると心と判断力の公平性をあらゆる方法で挫き、それを罪の概念と関連づけるようになったのである。

 

 産業的生活の道徳的影響についてはすでに述べたが、ここで二つだけ付け加えておこう。第一に産業精神は―倹約家と投機家という―まったく異なるタイプの性格を生み出すということである。どちらのタイプも物質的な快適さに対する強い価値観と強い欲求から生まれるが、その徳と悪徳の両方において大いに異なっているのである。一方のタイプの主な特徴は慎重さであり、他方のそれは冒険心である。倹約は人生の最良の調整装置の一つである。それは秩序、節制、節度、自制、たゆまぬ勤勉さ、その他、立派で尊敬すべきという言葉に相応しいあらゆる徳を生み出す。しかし、それは同時に熱意や生き生きとした共感を抱くことができない、しかめ面の不寛容な性格をつくる傾向も持っている。一方、投機的な性格は落ち着きがなく、熱情的で、不確実であり、大きな、目立ちやすい悪徳に陥りやすく、決まりきった仕事には耐えられない。しかし強い感覚、大いなる寛容さや決断には決して不向きではない。産業精神がこの二つのうちどちらの形をとるかは地域の環境にかかっている。倹約は主に商業の大きな流れの外に置かれた人々や、富がゆっくりとした地道な産業によってしか得られない立場の人々の間で盛んである。一方、投機的性格は事業と富の大きな中心地において最も一般的である。

 

 第二に産業的な習慣は道徳のタイプの中で、先見力に新しい地位を与えると言えるだろう。神学的な信仰の初期段階では、人は自分に起こるあらゆる出来事を神の特別な命令の結果と考え、食料や衣服の問題を神意に委ねて、将来のために何の予防措置もとらないことを信仰の試練とし、義務の一つの形と見なすことがある。他方産業文明では、分別ある先見力は単に正当であるだけではなく、義務、それもきわめて高度の義務とみなされる。産業型の善き男性は可能な限り家族を守れるようになるまで結婚しないことを義務と考える。もし子供がいれば単に自分の収入と当面の必要との関係によってのみならず、息子の教育、娘の持参金、家族の各メンバーの将来の必要とキャリアを常に考慮して、出費を調節するのである。常に先見力を持つことが彼の全人生を導く原理である。民衆の文明度を測るのに最も好都合な事柄は、文明の民衆への浸透度である。古い教義は事実上消滅している。そしてそれは、私たちのいかなる努力も先見力も回避できないことは諦めて受け入れなければならない、という意味にしか解釈されていない。

 

 このような変化は文明が進むにつれて、人類の敬虔な精神を減退させるいくつかの影響のひとつに過ぎない。功利主義的体系の中で敬虔さはせいぜい非常に疑わしい地位しか占めていない。なぜなら宗教的迷信や政治的隷属という形でこの敬虔さから芽生えた大きな害悪が、幸福よりも不幸を生んでいないかいうことは極めて疑わしいからである。しかしそれが生み出す幸福や進歩によって評価される、その地位にいかに疑問があろうとも、敬虔な精神に欠けている人格が最高度の卓越に到達することはありえない、というのはほとんどの人が意識していることだろう。それは道徳的な善のあらゆる形の中で、美しいという形容詞が最も力強く使われうるものである。しかし、私が間違っていなければ、文明の進展はその成長にとって全体として不利なものである。というのも敬虔さは常に依存しているという感覚からものだからである。それは自分に降りかかるすべての出来事が直接かつ特別に定められたものであり、それゆえすべての出来事は道徳的な重要性を持っている、と人々が信じている宗教的思想環境において育まれるものである。あらゆる前兆的な自然現象が神の直接的な介在の結果であると考えられ、その結果、謙虚さと畏怖の念が呼び起こされるような科学知識しかない状態において、それは培われる。政治生活の場面において君主に対する忠誠心や畏敬の念が支配的な情熱であるとき、王室から枝分かれした貴族階級がすべての村に恭順と従属の習慣を広め、革命的精神、民主的精神、懐疑的精神がどれも存在しないとき、それは助長される。全ての信仰や環境の大きな変化には感情の変化が伴う。自由特権の自己主張、民主主義による社会の平等化、批判の解剖刀、人々の関係を単純な契約へと縮小する経済革命、人口の集中、多くの古来の絆を断ち切る移動手段、これらはすべて伝統の力が壊れる前、信仰の純潔が汚される前に存在していた徳のタイプとは相容れないものである。博愛、真っすぐさ、冒険心、知的誠実、自由への愛、迷信への嫌悪が私たちの周りで育っている。しかし私たちは自分を信じず、他者を信じる、単純な、慎み深い、敬虔な、そればかりかイクシーオーン(*ケンタウロス族の祖)が雲に愛情を注いだように、自らの錯覚そのものを私たちの性質の中の何らかの最も純粋な徳の源としていた、過去の最も美しい性格を無駄に探し回っているのである。自然の荘厳な秩序に思いを馳せたとき、畏敬の念を抱く人は少なくない。しかし人類の大多数にとっては、それを支配する不変の法則の発見が現象からその道徳的意義を奪ってこと、敬虔な感覚が育まれてきた社会的、政治的領域のほとんどすべてが過ぎ去ってしまったことは、嘆かわしいが疑いようのない事実である。その最も美しい表現はアメリカ人や近代フランス人のような、時代の風潮に最も完全に身を投じた国民には見られない。むしろシュタイアーマルク(*オーストリア南部)やチロルのような人里離れた地方にある。その美術的表現は現代の才能の作品ではなく、中世の大聖堂の中に見出される。大聖堂は時間にとともに円熟したが、損なわれたわけではなく、過去数世紀を経てなお、その不滅の美しさで今も私たちを熟視しているのである。人間の歴史の他のあらゆる時代と同様に、迷信的な時代にはその独特の徳がある。それは進歩の新しい段階に到達する前に必ず衰退しなければならないものである。

 

 男女の関係における徳と悪徳は、そのテーマが明らかにデリケートなものであり、その自然史が特殊な理由から極めて曖昧にされているため、一般論として扱うことは困難である。私たちがここまで見てきた道徳的な進化において、最も強力なのは通常の影響力であり、環境による混乱と修飾の重要度はまったく補助的なものである。愛情豊かな徳の拡大、ヒロイズムと忠誠心の衰退、産業習慣の成長は、ほとんどすべての文明で必ず起こる変化から生じるものである。したがってこの動きの大まかな特徴はほとんどすべての国において実質的に同じものである。しかしながら官能の歴史においては、奴隷制度、宗教的教義、結婚に関わる法律などの特別な原因が最も強力に作用してきた。キリスト教がこの分野に及ぼした大きな変化については後で検討することにしたい。本章ではこの悪徳の性質と、文明のさまざまな段階がその経過に及ぼす影響についての二、三のごく大まかな論評に留めたいと思う。

 

 現代の論者の間で人気のある、私生児の統計によって国家の不道徳性を判断する方法は最も大きな誤謬である、と私は考えている。単なる売春を比較対象から除外するという、この方法の明らかな欠陥とは別に、この方法は多数の私生児が情欲の激しさとはまったく別の原因によって生じているという事実を完全に無視しているからである。たとえばイングランドの多くの田舎では結婚の儀式には過去の不品行を消し去る遡及的な徳があるという考えが広まっている。(*不品行の罪は結婚式で拭われるのだから、その権利はなるべく留保しておくのが得策である)大陸の一部の人々が法的または宗教的儀式の拘束を受けずに永久的な関係を持つという習慣も同じである。このような事実がいかに深く非難され嘆かれようとも、このような事実はそれが最も目立つ国々で情欲が暴走していることを最も顕著に示している、と推論するのは明らかに不合理だろう。私生児の数で見た場合、長い間道徳的に最低の地位にあったスウェーデンについては、結婚に関する法的困難が主な原因だったようである。実際の激しい情欲の表現においてさえ、統計にはまったく表れない違いがある。フランス人の性格の最も忌まわしい特徴である粗雑で皮肉で仰々しい官能、スペイン人やイタリア人の夢見がちで物憂げで審美的な官能、どこかの北の国の密かで遠慮勝ちな官能は、すべて同じ悪徳ではあるが、大きく異なる感覚であり、大きく異なる影響を一般的な気質に及ぼしているのである。

 

 気候が公衆道徳に大きな影響を与え、情熱を刺激したり和らげたりすることは間違いないだろう。それに加えて屋内や屋外での生活の流行、美人のタイプの決定によって気候は間接的に女性の地位、性格、嗜好に大きな影響を与えている。北方諸国では美の主流は形よりもむしろ色に依存している。それは主に顔色の新鮮さと優美さから成り、過酷な労働と絶え間ない日光への曝露によって必然的に毀損されてしまうものである。したがって大変貧しい人々の中に最高の完成型を見ることは稀である。しかし南方のタイプは本質的に民主的である。激しい太陽の光はその魅力を芳醇にし、成熟させるだけである。その最も完璧な実例は宮殿でも掘っ立て小屋でも同様に見られる。そして、この美の拡散の影響は人々のマナーと道徳の両方に見出すことができる。

 

 このような徳の形は野蛮ではなくとも半文明的な人々において自然に最も完全に見られる。(*例えばイタリア人男性は見境なく女性を口説くと言われる)しかし非常に洗練された文明はその成長にあまり好都合ではないようである。官能は若者と古い国々の悪癖である。気だるいエピキュリアニズムは高度な知的、あるいは社会的文明を獲得したものの、政治的原因によってそのエネルギーを発揮する適切な場がない国々の通常の状態である。ある人々の巨万の富から生じる誘惑と、他の人々の贅沢や刺激的な快楽への熱狂的な憧れから生じる誘惑はすべての大きな町に存在していて、女性の徳にとって特に致命的なものである。そして文明の大衆的娯楽はすべて同じ方向に向かう傾向がある。野蛮人の最高の楽しみである荒っぽい戦闘は残虐性を生み出す。洗練された人々の演劇や芸術の趣味や社交の習慣は官能を生み出す。教育は多くの貧しい女性を、より高い身分の男性の友人にふさわしく、同じ身分の男性にはふさわしくないような洗練された段階へと引き上げる。産業活動は確かに自制の習慣の促進、特に軍人の放縦の抑制に良い影響を与える。しかし一方、結婚の延期を奨励することによって誘惑を大いに増大させる。そして共同体の間では個人の間よりも、道徳的な格差が自制心の差より誘惑の差に起因するところがはるかに大きい。人間の大きな集団では、誘惑がある程度増加すると常に悪徳も増加する。ただし必ずしも悪徳に比例して増加するとは限らない。残念ながらその過剰な増加を抑制する手段の中で、自発的な節制が歴史的に及ぼした力は非常に小さい。決定的なものは肉体的、そして道徳的な害悪である。そしてこの二つは相反する重みを成しているため、不幸にも一方の減少が起こると他方が増加することが非常に多い。アイルランドの農民の間でほぼ全国的に行われている早婚の習慣が可能にしたものは、女性の貞操の高い水準と、女性の名誉を貴ぶ激しく嫉妬深い感受性だけだった。その多くの欠点やいくつかの悪徳のために、アイルランドの貧しさは長い間ヨーロッパで傑出していたのである。実際、こうした結婚こそが国民の先見力のなさの最も顕著な証拠であって、産業の繁栄にとって最も致命的な障害の一つなのである。アイルランドの農民がより貞節でなかったなら、より裕福になっていたことだろう。今世紀この国土を荒廃させたあの恐ろしい飢饉(*1845―1849、ジャガイモの飢饉、人口6,000,000人中死者1000,000人)が、罪を犯さないことよりも生活費を蓄えることを重視する人々の上に起こっていたなら、リムリック(*アイルランド西部)やスキブリーン(*同最南部)の荒涼とした丘で文字通り餓死した多くの人々はまだ生きていたかもしれない。

 

 しかしアイルランドの例は道徳的感覚の影響力が、それを生み出した事情を超えて作用する可能性のある顕著な例を示している。大陸の全ての国(*国教会誕生後のイングランドでは聖職者の結婚には問題がない)で折に触れて発生した独身の誓いの危険性を証明する道徳的スキャンダルが、アイルランドの歴史上の聖職者には完全に、そして私が思うに比類なく存在しなかったことは最も特異な事実であろう。政府がプロテスタントであるため聖職者の安全を守る(*ために悪用される)特別な審問法がないこと、聖職者の教区民へのほとんど無限の影響力、また疑われる正当な理由が存在するならばアイルランド世論の激しい宗派心によってそれが確実に誇張されることから、この方面におけるアイルランドの司祭の疑いない清廉さはさらに注目に値する。この事実を説明するために気候に関する考察はまったく不十分である。しかしその主な原因は十分に明らかだと私は思う。情欲が芽生えた最初の段階で結婚するという習慣は、司祭たちの大部分の出身母体であるアイルランドの農民の間に、乱れた性的放縦の悪に対する極めて強い感覚を生み出しているのである。そしてそれは永遠の独身に拘束されている人々にさえも力を持っているのである。

 

 先の考察から明らかなように、徳と悪徳の根本的な性質は不変である。しかし、社会が進歩するにつれて、異なる徳に相応なものとして理論上与えられる価値と、それらが実現される完全さの両方において永続的で、ある意味で秩序ある、必然的な変化が存在するのである。また、社会に道徳的な向上というものが存在しようとも、大規模なものには混じりけのない向上というものはほとんど存在しない、あるいは決して存在しない、ということが分かるだろう。私たちは失うものより多くのものを得ているのかもしれない。しかし、常に何かを失っているのである。文明の進歩とともに絶え間なく消えていく徳がある。そして最も下の段階にあるものでさえその特有の長所を持っている。善良な人間にとって暴君のくびきの下で苦悶する抑圧された国民の姿ほど哀れで恐ろしい光景はない。しかし情熱的で無条件の自己犠牲と英雄的な勇気、そして真の友愛の感情が、これほど壮大に発揮される状況は他にない。そして自由特権の勝利がこのような形の人類の道徳的なパフォーマンスを低下させるだけでなく、道徳的な能力を弱めることさえありそうである。戦争が恐ろしい悪であることは間違いない。しかしそれは平和な時代には枯れて朽ち果ててしまう大いなる徳の種まきである。ギャンブルのテーブルを囲むときでさえ、より熟練した愛好者の間では一種の道徳的神経、冷静に負けに耐え、欲望の力を制御する能力が育まれるのである。ただし、これが他の分野で等しく完璧に発揮されることはほとんどない。

 

 現存する国家にはまだ非常に多様な文明があって、空間を移動すれば過去の文明のほとんどすべての段階の生きた代表者と接触することになるため、ほとんど時間を移動するようなものである。しかし、知識の比類なき普及と単純化、移動手段のさらに驚くべき進歩、そして明らかにヨーロッパを広大な中央集権的、民主主義的国家の連合体へと変えつつある政治的、軍事的要因を前に、こうした相違は急速に失われつつある。主な変化は全体として有益であると信じる人々にとってさえ、この革命には憂慮すべきことがたくさんある。ヨーロッパの地図から間もなく姿を消すだろう小さな国々は、財政的繁栄、住民の物質的幸福、そして多くのケースで政治的自由特権、平和を愛すること、知的進歩においてほとんどの大帝国よりはるかに優れていることに加え、近代文明に極めて欠けている満足、安らぎ、過去への敬意といった精神の主な避難場所の一つとなっている。そしてその安全はいかなる時代においても最も曖昧さのない国際道徳の尺度である。修道院制度は肥大しすぎると害になる。しかし、それはあるタイプの性格に特に適した隠れ家を提供することで、間違いなく世界の幸福に寄与してきた。そしてあの執念深く近視眼的な革命はヨーロッパからこれを消滅させ、現代の行き過ぎた産業主義を正す最良の方法の一つを消し去ろうとしているのである。一人の国民が現存の進歩の最も進んだタイプに到達することは本人の利益になる。しかし、すべての国民が同じタイプに到達することが、たとえそれが最も進んだタイプであったとしても、社会全体の利益となるかどうかは極めて疑問である。完全な道徳的発達には非常に多様な環境の影響力が絶対に必要である。従って階級代表制の大きな政治的利点の一つは、ある階級が排他的な、あるいは圧倒的に優勢な力を持った場合に発揮するより、はるかに多様な才能と道徳的資質の両方を政治の世界にもたらすことである。また文明の程度が違う混成の帝国では異なる種類の卓越性が生まれて互いに反応し合、補完し合う。インドやオーストラリアの荒っぽい仕事の中から、イギリスになくてはならないタイプの人物が得られるのである。

 

 私が今述べたことが、近年非常に多くの人々の関心を集めている、知的進歩と道徳的進歩の関係という大きな問題に何らかの光を当てるのに十分なものであることを望んでいる。人類の進歩の歴史家はその注意をもっぱら知的な要素だけに集中すべきである、なぜなら道徳の歴史などというものは存在せず、道徳は本質的に静止しており、この点では最も粗野な野蛮人も私たちと同じくらいに進歩していたのだから、と主張されてきた。この見解に対して私は、道徳の根本的要素と呼ばれるものは不変であるが、求められる水準には絶え間ない変化があり、特定の徳の相対的な価値にも変化があり、これらの変化は歴史全体の最も重要な分野の一つである、と主張してきた。このような変化は実際に起こっていて、世界において極めて大きな役割を果たしているが、それは知識の変化が生んだ道徳の変化、すなわち知的原因による結果である、と主張している論者もいる。ここまで見てきたように、この見解はいくらかの真実を含んでいるが、非常に限定的にしか受け入れられないものだろう。知的業績において最も優れていた個人や時代が道徳的に最も優れていたわけではなく、高度な知的、物質的文明がしばしば多くの堕落と共存してきたことは最も明らかな事実の一つである。ある点において知的成長のための条件は道徳的成長には不利である。大都市は常に進歩と啓蒙の中心であって―人が集まることは物質的、知的進歩の最も重要な原因の一つである。しかし大きな町は悪の種まき場である。そしてそれが何らかの特有の等価値の徳を開花させるかどうかは極めて疑問である。社会的な徳でさえ、人がより親密な関係で暮らしている小さな集団の中でこそ、より育まれるものだからである。道徳的熱意の最も輝かしい爆発の多くは圧倒的な確信の力によるものである。しかしそれは間違いの可能性、矛盾する議論、環境の制限を鋭敏に察知することができる非常に洗練された心には滅多に見られないものである。文明は全体として、悪を制するよりも犯罪を制することに成功してきた。文明はより優しい、慈善的、社会的な徳に好都合であり、また奴隷制がない場合には産業的な徳に非常に好都合であり、知的な徳の特別な養育者である。しかし一般に、自己犠牲、熱意、尊敬、貞節を生み出すには等しく不都合である。

 

 しかし文明によってもたらされる道徳的変化は、究極的には主に知的な要因に帰することができる。なぜなら知的な原因は文明的生活の全体構造の根底に横たわっているからである。ここまで見てきたように知的な要因は直接的に作用することもある。しかし、それらが生み出した生活習慣がそれらの代わりに新しい義務の概念を生み出す、という間接的な影響しか及ぼさないことの方が多いのである。人間の道徳はその持論よりもその実践によって支配されている。徳のタイプはまず環境によって形成される。そしてその後、人はそれを原型として理論を作り上げていく。例えばある国を軍事的にし、別の国を産業的にする地理的、またはその他の事情は、それぞれが実感する卓越性のタイプを生み出す。そして、それに対応するさまざまな徳の相対的重みに関する概念も他所で生み出されたものとは大きく異なるだろう。また二つの集団の知識の量が実質的に同等であったとしてもこのようなことは起こるだろう。

 

 この問題について私のテーマの性質が必要とする限り十分に論じた。そこで歴史についての道徳的判断に非常に多く見られるいくつかの誤りを指摘し、そして道徳的タイプの性質から推測される、いくつかの重要な帰結についても明らかにするよう努めてこの章を終えようと思う。

 

 政治的判断において、ほとんどの人の道徳的基準は自分自身の利益に関係する私的な問題よりもはるかに低い、というのはありがちなことである。私生活では最も細心な誠実さの模範である人物が、政治的な不正や最も悪質な暴力行為を正当化したり弁解したりするのは最もありふれたことである。そのようなことを是認したからといって、その人々の一般的な道徳感情までを厳しく論じるなら、私たちは完全な間違いを犯しているだろう。また奇妙な道徳的逆説によって、政治的犯罪が国民の徳と密接に結びついていることも稀ではない。従順で、穏やかで忠実な国民は、まさにこれらの資質のために専制的な政府の支配を受ける。しかしこの制御不能な権力が支配者たちに最も有害な影響を及ぼさないことはない。そして彼らの数々の略奪と侵略の行為は、歴史の中で彼らが代表している国民のものとされ、国民性は完全に誤解されてしまう。また徳と悪徳の両方において、世の中に顕著に現れる特定の種類のものがある一方で、少なくとも同等の影響力を持ちながら歴史の注目をほとんど浴びない種類のものもある。例えば宗派間の対立、恐ろしい迫害、進歩に対する盲目的な憎悪、あらゆる苛立たしい除斥や拘禁に対する狭量な支持、激しい階級的利己主義、知的、政治的迷信の長期にわたる頑固なまでの擁護、教会史の主な特徴である幼稚であるが気まぐれな、教義上の細かな違いや服装や燭台についての激しい論争ゆえに、非常に不当なことではあるが、人は聖職者のタイプを自然に知的にも道徳的にもほとんど最低ランクのタイプに位置づけるようになるだろう。実際のところ、こうしたものが大胆な浮き彫りになって歴史のページに並んでいる、聖職者の影響の表出なのである。教区における聖職者の文明的、教化的影響力、無知な人々を教育し、過ちを犯した人々を導き、悲しむ人々を慰め、疫病の恐怖に立ち向かい、臨終の時に神聖な力を発する、単純で仰々しくない、無私の熱意、その小さな領域で悪しき情熱を静め、慣習を和らげ、周囲を向上させ、清める無数の行い―これらすべては詳細に観察する人物にとっては非常に明白なことであるが、歴史の記録において同じように鮮やかに目立つことはなく、歴史家たちには絶えず忘れられているのである。ある団体の性格から、それを構成するメンバーの性格を論じることは常に危険である。しかし、聖職者たちの歴史はこの判断方法が最も誤っているケースである。なぜなら見かけ上これほどまでに特有の優れた点が無く、団体の行動においてこれほどまでに心的、道徳的欠陥がひどく目立つ階級は他にないからである。また国によって徳の動機は大きく異なっており、ある国の尺度を別の国に用いると深刻な誤解が生じる。例えばフランス人の最高の国民的な徳は強い共感の力である。それは彼らのいくつかの最も美しい知的資質、社会的習慣、ヨーロッパにおける比類なき影響力の基盤になっている。国境を越えて自由のための偉大な闘いにこれほど不断に、鮮やかに共感している国民は他にないだろう。他のいかなる文学も外国の思想についてこれほど幅広く普遍的な才能を示し、これほど巧みに解説し、これほど寛大に評価することはないだろう。苦しんでいる国民を支援するための無私の戦争が、これほど多くの支持を得る国は他にないだろう。フランスの国家的な罪は数多く、また悲痛なものではあるが、フランスは多くを愛したがために多くを許されるだろう。(*ルカによる福音書7章47節)一方アングロサクソンの諸国民は時に強く、しかし瞬間的に熱狂することはあっても、常に並外れて狭量であり、鑑識眼がなく、共感もしない。彼らの国民的な徳の大きな源泉は義務感であり、共感や好意、熱意や成功というあらゆる動機とは無関係に、正しいと信じる道を進む力である。他の国々は美しいとされる多くの資質や、偉大とされるいくつかの資質において彼らをはるかに凌駕している。アングロサクソン民族の長所は、他のどの民族よりもワシントン(*ジョージ、1731―1799)やハムデン(*ジョン、1594―1643、清教徒革命時の政治家)のような特徴を持つ人物を生み出したことである。彼らは確かに栄光には無頓着だったが、名誉を大変重んじていた。道徳的に清廉であるという最高の尊厳を人生を導く原理としていた。そして、最も困難な状況においても、野心の誘惑や情熱の嵐が彼らを自らの義務であると信じる道から髪の毛一筋も逸脱させないことを証明したのである。これはローマ人の―特にマルクス・アウレリウスの―特徴でもあった。奴隷制に反対するイギリスの疲れを知らない、仰々しくない、そして栄光なき聖戦は、おそらく国家の歴史の中の三枚か四枚の完全に高潔なページの中の一枚と見なすことができるだろう。

 

 なんらかの徳が他の徳の否定であるとは言えない。しかし、徳はタイプの統一性に不可欠な相性、すなわち親和性の原則に従って自然にグループ化されることは間違いない事実である。このように英雄的な徳、愛情豊かな徳、産業的な徳、知的な徳は別々のグループを作っている。あるグループの発展が他のグループの存在と実際に相容れないとまではいかなくとも、その傑出とは相容れない場合がある。激しい産業精神に活気づけられた社会で満足が、軍事的な社会で服従や危害に対する寛容が、また信仰が善の本質とされている社会で知的な徳が主役になることはできない。それぞれのこうした環境は、特定の種類の徳の特別な領域なのである。ある道徳的タイプに特有の美しさは、それを構成する要素よりも、それらの要素が組み合わされる比率に依存する。ソクラテス、カトー、バイヤール(*ピエール・テレール、セニョール・ド、1476―1524、騎士)、フェネロン(*フランソワ、1651―1716、神学者)、そして聖フランチェスコ(*1182―1226)の性格はすべて美しいが彼らは属性において違っているのであって、シンプルに卓越性の度合いが違っているのではない。カトーに聖フランチェスコ特有の魅力を、あるいは聖フランチェスコにカトーのそれを分け与えようとするのは、アポロンとラオコーンの美を一つの像に、あるいは黄昏と真昼の太陽の美を一つの風景に統合しようとするのと同じく滑稽なことだろう。古代のストア派や現代のイギリス人からプライドを取り去ったなら、その最も高貴な徳の多くの基礎を破壊することになるだろう。しかし謙遜は修道士の道徳的資質のまさに原理と根本だった。女性にとって徳である資質で、男性にとって徳ではないものはない。しかし完璧な女性をつくる徳の傾向や秩序は、完全な男性をつくるにはまったく適さないだろう。この点で道徳は肉体のタイプと似ている。男の美しさは女の美しさではなく、子供の美しさは大人の美しさではなく、イタリア人女性の美しさはイギリス人女性の美しさではない。全てのタイプの顔つきが美しいものではないように、全ての性格が善いものではない。しかし、美の種類がたくさんあるように、善の種類もたくさんあるのである。

 

 この最も重要な真理はやや異なる形で述べることができる。ある人が何かの徳に著しく欠けるときは、もちろんその人の人格が不完全であるということになるが、必ずしも他の点において道徳的で高潔ではないということにはならないのである。しかし通常は、基本的な(*rudimentary)徳と呼ぶべきものが一つある。そしてそれは道徳的な卓越性の第一の条件として、顕著な形で世の中に提示されるため、それをまったく無視する人物は道徳の修養にまったく無関心であると推論しても差し支えないだろう。基本的な徳は時代、国家、階級によって異なる。例えば古代の偉大な共和国で愛国心は基本的なものだった。なぜなら、それは最も明白で最も不可欠な義務として非常に熱心に培われたからである。私たちには、より個人的な徳と国益への完全な無関心とが共存しているかもしれない。修道院時代には、また騎士道時代にはいくらか違った形で、敬虔な服従の精神が基本的なものであり、あらゆる道徳的進歩の基礎となった。しかし今や私たちは道徳的エネルギーが他の方向に向かって培われたために、基本的な徳を持っていない善良な人物を頻繁に見かけるようになった。一般的な誠実さと正直さはすでに述べたように、産業社会では基本的な徳であるが、他の社会ではそうではない。少なくともイギリスでは貞節は女性の基本的な徳であるが、男性の間ではほとんど基本的な徳とはいえない。そして全ての時代において、そして今でもすべての国々において女性の間で基本的な徳とはいえない。道徳史家にとって各時代における基本的な徳を発見するのは最も重要な仕事である。なぜならそれは他のすべての徳に与えられる地位を大きく調整するからである。

 

 ここまで私が述べてきたことから、どんなに素晴らしいものであったとしても、すべての人が必ず適合しなければならないモデルとして、単一の性格を絶対的なものとして推奨し過ぎるのはかなり危険なことが分かるだろう。性格はその種類自体において完璧でありうるかもしれない。しかし、すべての種類の完璧さを擁する性格は到底ありえない。なぜならここまで見てきたように、あるタイプの完成度はそれを構成する徳たちのみならず、それらに割り当てられた地位と卓越性によっても決定されるものだからである。理想に期待されるのは、その種類自体において完璧であること、そしてその時代に最も必要とされ、人類に最も広く役立つタイプを示すことである。ストア派が示したタイプが英雄的な資質を称揚するものであったのと同様に、キリスト教が示すタイプは愛情豊かであることを称揚するものである。これはキリスト教がストア派よりも文明の主宰者としてふさわしい理由の一つである。社会が組織化され、文明化されればされるほど愛情豊かな資質が発揮され、英雄的資質が発揮される余地が少なくなるからである。

 

 すべての人格を一つの型に押し込めようとする道徳的不寛容の歴史は、それにふさわしく吟味されたことはなかったように思われる。そしてこの後、頻繁にそれに言及することになるだろう。人が自分の嗜好や卓越性をすべての善きものの尺度とし、それと大きく異なるものをすべて不完全なもの、低いもの、あるいは二次的な価値しか持たないもの、と断定するのがいかにありふれたことかは誰でも気づいているだろう。これは通常自惚れのせいとされている。しかしおそらくほとんどの場合、想像力の弱さ、つまりほとんどの人にとって、自分とは根本的に異なる人格を思い浮かべるのが難しいことに起因している部分が大きいのだろう。善良な人物は通常、自分と異なるタイプのはるかに完全な性格より、同じタイプの非常に不完全な性格の方にはるかに共感できるものである。歴史的な原因や折々の利益の不一致と同様に、特に人種の違いが国籍の違いと一致する場合に、友好的な国際親善の実現が極めて困難な原因はここにあるのではないだろうか。それぞれの国民には異なるタイプの卓越性がある。そしてそれぞれ、自国民において最も優れていて、隣国民おいてしばしば最も欠けている徳を並外れて重んじるものである。また自国民が最も陥りにくく、隣国民が最も陥りやすい悪徳に対しては特別な反感を抱く。こうして軽蔑と嫌悪が入り混じった感覚が生じる。この感覚は賢明な人物ほどすぐに解放されるものである。しかし、それが一般大衆の感情なのである。

 

 各個人の性格のタイプは部分的には生来の気質に依存し、部分的には外的状況に依存する。好戦的社会、洗練された社会、産業社会はそれぞれ固有の資質を呼び起こし、それを必要とし、それにふさわしいタイプを生み出す。もし異なるタイプの人間が生まれたなら―例えば優しさや柔和の徳を最高度に発揮するように生まれついた人物が激しい軍事社会に生まれたなら―彼は適切な行動機会を見つけることができず、彼はその時代と衝突し、彼のタイプは不愉快なものと見なされるだろう。このような対立の結果として、彼は単に相応に評価されないというだけではなく、別の環境で発揮できたであろう彼の固有の徳を発揮することもできないだろう。教育の力、社会の習慣、人類の一般的見解、さらには彼自身の義務感など―すべてが彼に不利に働くだろう。彼の周囲の全ての卓越性の最も高い模範はすべて別のタイプであるがゆえに、自分の存在を向上させようとする努力そのものが、彼を優れたものにしようとしていた生得の資質を鈍化させるだろう。一方、生まれつき英雄的な資質を持つ人間がヒロイズムを非常に重視する社会に生まれた場合、彼はより高く評価されるだけでなく、好条件が重なることでそのヒロイズムを他の方法では不可能なほどに高いレベルにまで到達させることができるだろう。このように環境の変化はタイプの変化を生み出し、それゆえ道徳史に将来性が生じ、それを一般史と結合させる必要性も生じるのである。宗教は道徳的指導者と考えられるが、その道徳的教えがその時代の傾向に合致しているときにのみ実践され効果を発揮する。もしその一部が合致してなければ、その部分は公然と放棄されるか、修正されるか、あるいは暗黙のうちに無視されることになる。古代人においてはエピクロス派とストア派が共存して全く異なる二つの徳の原型を世に問うたことで、非常に驚くべき方法で別個の卓越性を認識することが可能になったのである。なぜならこれらの学派はそれぞれしばしば優位に立ったが、どちらも他方を完全に滅ぼしたり、信用を失墜させたりすることには成功しなかったからである。

 

 人間の道徳的条件を構成する二つの要素のうち、私たちの一般的な知識はほとんど一方に限られている。私たちは政治的、社会的、あるいは知的な原因が性格に作用する方法について多くを知っているが、生まれつきの気質を支配する法則、個人や民族の生得の道徳的多様性の理由や程度についてはほとんど何も知らないのである。しかしこの問題を考えるほとんどの人は、医学の進歩によってさまざまな道徳的素質の物理的原因が明らかになり、この点に関する非常に大きな知識が私たちの手の届くところにやってくる、と結論するだろう。人間の知識の大きな部門の中で、医学は得られた成果が最も明らかに不完全で暫定的なものであり、理解されていない可能性の分野が最も広いものであり、前世紀に機関車やその他の産業上の発明に向けられたように、人間の心がこれに向けられたならば最も素晴らしい結果が期待できるものである。最も致命的な病気の原因についての、ほとんど絶対的とも言える私たちの無知と、ほとんどすべての最良の医学的処置は経験的なものであることがしばしば認識されてきた。吸入の医学はまだ初期段階にあるが、自然は吸入によってほとんどの病気を生み出し、ほとんどの治療を行うのである。電気の持つ医学的な力は、あらゆる作用の中で最も生命に近いものであるにも関わらず、ほとんど未解明である。麻酔薬の発見は現代において計り知れないほど重要な分野を切り開いた。また、ある種の身体的条件下で可能であることが証明された外部からの暗示による感覚や感情の流れの全体の制御は、苦痛の軽減にさらに貢献するだろうし、ベーコンが医師たちの技術の結末として提案した安楽死にもおそらく貢献することだろう。しかし博愛主義者と哲学者の両方の目から見てこの分野、あるいはおそらく他のどの分野においても最も期待されるのは、私たちの身体的性質と道徳的性質との関係の研究における成果だろうと私は考えている。道徳的病理学を科学に昇華させ、すでになされた多くの断片的な観察結果を発展させ、体系化し、応用する人物はおそらく人類の優れた知性たちの中に位置づけられるだろう。中世の修道士の断食や瀉血、官能的な情熱を和らげたり刺激したりする薬、神経疾患の治療、狂気や去勢がもたらす道徳的影響、骨相学の研究、身体の発達の連続した段階に伴う道徳的変化、時に人格全体の様相を永久に変えてしまい、人格を通じてすべての知的判断力に作用してしまった病気の症例、などがこの種の科学が扱う事実になるだろう。心と身体は非常に密接に結びついている。唯物論に最も熱心に抗議する人々でさえ、それらが絶えず互いに作用し合っていることは容易に認めている。脈拍を速め、頬を青ざめさせたり紅潮させたりする突然の感情や、恐怖の効果によって流行病に罹りやすくなることは、心が身体に作用する身近な実例である。また身体が気質に与える、より強力で永続的な影響は無数の観察によって証明されている。この働きは私たちの道徳的構造のあらゆる部分に及んでいて、あらゆる情熱や人格の傾向には身体的な素因があって、もし私たちがこれらに精通するならば、現在の身体疾患の治療と同様に多種多様な道徳的病弊を医学によって体系的に治療することができるのだろう。このような知識はその計り知れない実用的な重要性に加えて、私たちの道徳的資質同士の親子関係に新しい光を当て、気候の道徳的影響を余すところなく扱うことを可能とし、そして人種の影響という大きな問題を個々の観察者の漠然とした印象ではなく、実験という確固たる基礎の上に置くという大きな哲学的価値を持つだろう。そして歴史家の労苦を補完するものになるだろう。

 

 しかし、おそらくそのような発見は、まだ到達からほど遠いものである。そしてその議論はこの著作の範囲に収まるものではない。私の目下の目的は外的環境が道徳に及ぼした作用を追跡すること、異なる時代に理想的なものとして提起された道徳的なタイプはどのようなものであったか、それらが実際にどの程度実践されたか、そしてどのような原因によって修正され、損なわれ、消滅してきたかを調査することである。

第二章 異教徒の帝国

古代文明の倫理的な教えを研究する人物が最初に心打たれる事実は、それがいかに不完全なものだったか、民間信仰がそれに与えていた影響がいかにわずかなものだったか、ということである。神々の行動の中に道徳観念が探し求められたことはなかった。そしてキリスト教の勝利のずっと前に、多神教は人類の洗練された知性に大きな影響を与えなくなっていたのである。

 

 ギリシャでは最も古い時代から、神話の伝説とは全く違った自然宗教の足跡を探し出すことができる。ギリシャの最初の劇作家たちはゼウスの最高権威と普遍的な神意を非常に強調していたため、キリスト教の教父たちは一般的にそれを直接の霊感か、ユダヤ教の著作の知識によるものとし、後のカドワースの学派の神学者たちはそれをもとに人類は元々一神教であったとする論陣を張ったのである。哲学者たちは広く流布している伝説を常に軽蔑し、敵視していた。神々について作り話をしたためにヘシオドス(*BC7世紀頃、神統記)が地獄で鉄の柱に縛られ、ホメロス(*BC9世紀)が蛇に囲まれた木に吊るされているのを見た、とピタゴラスは語った。プラトンは同じ理由で彼の共和国から詩人たちを追放した。スティルポン(*BC360―280)は生け贄の制度全体を嘲笑するようになり、ペイディアス(*BC490―430)が彫ったアテネが女神であることを否定したため、アテネから追放された。クセノパネス(*BC570―478)によれば、それぞれの民族はその民族特有のタイプの神々を持っており、エチオピア人の神々は黒く、トラキア人の神々は色白で青い目をしているという。神々の存在についてディアゴラス(*BC5世紀)とテオドルス(*B340―250)は否定し、プロタゴラス(*BC490―420)は疑問を呈したと言われている。また、エピクロス派は彼らは人間の問題にはまったく無関係であると考え、ピュロン(*B360―270)派は私たちの能力では人間や神についてのいかなる確かな知識も得ることはできない、と宣言した。キニュコス派のアンティステネス(*BC446―366)は人気の神は多いが、自然の神はただ一人であると言った。ストア派はアリストテレスによって支持された、ピタゴラスのものとされる見解を複製し、自然の全てに存在する魂を信じていた。しかし、この見解を採っているいくつかの近代学派とは違って、彼らは神意の教義と神の自意識を強く主張していた。

 

 ローマ共和国と帝国では知的発展の最初の成果として、哲学者の間にも同様の一般的な懐疑論が生まれ、教育のある階級はエピクロス派のような公然あるいは事実上の無神論者と、ストア派やプラトン派のような純粋神論者に急速に分かれた。ルクレティウス(*ティトゥス、カルス、BC99―55、)やペトロニウスに代表される最初の論者は、神々を単に恐怖が創造したものとみなし、あらゆる形の摂理を否定し、世界は原子の結合に、生命は自然発生に起因するとし、あらゆる形の宗教的信仰を想像力の幻想として追放することを哲学の最大の目的と考えていた。他の人々は多かれ少なかれ汎神論的な神の概念を持ち、神意の存在を主張したが、一般的な伝説を非常に軽蔑的に扱って様々な方法で説明しようとした。最初の体系的な説明の理論はシチリア人のエウヘメルス(*BC4―3世紀)によるもので、その著作はエンニウス(*BC239―169)によって翻訳された。神々はもともと王たちであって、自分はその歴史と系譜を突き止めた、と彼は主張した。そして彼らは死後に人間によって神格化されたものとした。もう一つの試みはローマの懐疑主義の最初の時期に一般に普及したものであって、ストア派の一部によるものである。彼らは神々を神性のさまざまな属性の擬人化、あるいは自然のさまざまな力の擬人化と捉えた。ネプチューンは海、プルートは火、ヘラクレスは神の力、ミネルバは知恵、ケレスは肥沃なエネルギーを象徴していたのである。帝政期より100年以上も前に(**?)ウァロ(*マルクス・ティレンティウス、BC116―27)は「世界の魂は神であり、その各部分は真の神性である」と宣言していたのである。ウェルギリウス(*BC70―19)とマニリウス(*マルクス、BC1世紀)は普遍的な精神、すべての生命の原理、すべての地球に行き渡り生気を与えている動きの原因を非常に美しい文章で表現している。またプリニウスは言っている「世界と空は、その中に万物が包まれており、永遠で巨大な、決して生まれない、決して滅びない神と見なされなければならない。これを超えるものを求めることは人間にとって何の利益もなく、それは人間の能力の限界を超えるものである。」キケロは神とは物質から解放された心であるというプラトン的な高次の概念を採用し、セネカは、「ユピテル、宇宙の守護者、支配者、魂、精神、この現世の主、支配者、…万物がそれに依存している原因の原因、…その知恵は世界がその航路を外れないよう見張っている。…すべてのものはそこから生じ、その精神によって私たちは生き、…それは目に見えるものすべてを構成している。」と壮大な言葉で称えた。ストイシズムの偉大な詩人であるルカヌス(*マルクス・アンナエウス、AD39―65)はユピテルを、徳と宇宙を王座とする威厳ある、すべてに行き渡る精神として描写したとき、自らの詩歌をさらに高め、彼の学派の感情をより正確に表現する人物となった。クインティリアヌス(*マルクス・ファイビウス、AD35―100)は一人の人間の笏の下に世界が服従していることを、それが神の支配の姿であるという理由で擁護した。他の哲学者たちはユピテル・マクシマスの最高権威を主張し、他の神々を単なる管理的、天使的機能、あるいはプラトン主義者が表現したようにダイモーンの地位に引き下げることで満足したのである。ストア派の何人かによれば最後の大災害が宇宙と蘇生した人間の魂とこれらすべての小さな神々を焼き尽くし、全被造物が偉大な親霊に吸収されて神がすべての中のすべてとなるということである。子供たちや老女たちはケルベロス(*地獄の番犬)やフューリー(*復讐の女神)を嘲笑し、単なる善悪の観念の喩えとして扱った。キケロの神学では民衆の神々は捨てられ、託宣は反論され嘲笑され、占いの全システムは政治的な詐欺とされ、奇跡の源は想像力の過多と判断力の病気にあるとされた。コンスタンティヌス帝(*在位AD306―312:西方副帝、AD312―324:西方正帝、AD324―327:全ローマ皇帝)の時代以前には、神託に反発する多くの書物が書かれていた。そのうちの大部分は実際に消滅しており、最も優れた論者たちはこの消滅を人々の軽信が減退したことの証拠、そして託宣がその軽信の結果だったことの証明であると正しく評価した。ストア派は直接的な宗教的議論から距離を置くことを習慣としていた。そして幸運の贈り物には意味がなく、善人は自分の良心に満足すべきであり、成功ではなく義務を人生の目的にするべきであるという理由から、それについて門人たちに質問させなかった。カトーは二人の卜占官が重々しく会見できることを不思議に思った。ローマの将軍セルトリウスは戦場で頻繁に吉兆を偽造して戦力にした。ローマの知恵者たちは好んで占いを嘲笑の対象とした。初期のギリシャのモラリストが不道徳な行いを神々に帰する俗説に対して放った非難は後世の哲学者たちによって長く繰り返され、オウィディウス(*BC43生)はこうした作り事をあざ笑って『変身』のテーマとし、彼の最も不道徳な詩においてユピテルを悪の手本として名指ししている。ホラティウスはイザヤ書とは似ても似つかない皮肉で、まだ形のない丸太をベンチにするか神にするか悩む大工の姿を描いている。キケロ、プルタルコス、ティルスのマクシムス(*AD2世紀前半)、ディオン・クリュソストモス(*AD45―115)は偶像崇拝を非難するか、あるいは単に神々のしるしや象徴であり、無知な人々の信仰を手助けするのに適しているという理由で像の使用を擁護した。セネカとピタゴラスの全学派は生け贄に異議を唱えた。

 

 こうした例はローマの哲学者たちが国家公認の宗教からいかに遠く離れていたか、また彼らの道徳的生活の源泉を他の場所に求めることがいかに必要だったかを示すに十分であろう。学識ある人々の見解は決して俗人の意見を忠実に反映するものではなく、またキリスト教の夜明けや印刷術の発明以前は両者の間の隔たりは現在よりもさらに大きかったのである。ルクレティウスの無神論的熱狂やカルネアデス(*BC214―129)の弟子の一部の懐疑的熱狂は例外的な現象であり、古代の哲学者の大多数は私的な場で、あるいは少数の人に読まれる著作の中で最も自由に思索しながら、彼らが軽蔑する宗教儀礼を容認し、実践し、擁護さえしていたのである。異なる国民や知識の水準にふさわしい多くの異なる道が同じ神性に収束すると信じられ、最も誤った宗教さえそれが良い性質を形成し、徳のある行動を促すならば良いものとされた。デルフィの神託は、最良の宗教はその人物自身の都市の宗教であると述べている。ポリュビオス(*BC200頃のギリシャの歴史家)とハリカルナッソス(*アナトリア半島の南西海岸にあった古代ギリシャの都市)のディオニュシオス(*BC60―BC7)は、すべての宗教を単に政治的な機関とみなしていたが、ローマ人の献身と彼らの信仰が比較的純粋なものであることを絶賛している。ウァロは、民衆が知らない方が都合のよい宗教的真理と、民衆が真実と信じるべき偽りが存在するという信念を公言した。学究的なキケロとエピクロス派のカエサルは、ともに宗教の高官だった。ストア派はすべての人は自国の宗教的儀式を正しく行うべきであると説いた。

 

 しかしローマの宗教はその最盛期においてさえ、立派な道徳的規律のシステムだったが、決して独立した道徳的熱意の源ではなかった。それは国家の創造物であり、政治的感覚から着想を得たものだった。ローマの神々はギリシャのように奔放で不遜な空想の産物ではなく、エジプトのように自然の力を象徴するものでもない。そのほとんどは単純な暗喩であり、さまざまな徳を擬人化したもの、あるいは産業のさまざまな部門を保護するために想像された責任者の神だった。この宗教は誓いの神聖さを確立し、特定の徳に公式に聖別を与え、それらが発揮された特別な事例を記念するものだった。その地域的性格は愛国心を強め、死者への崇拝は魂の不滅に対する漠然とした信仰を育み、家族における父親の優位性を維持し、結婚を多くの堂々とした厳粛な儀式で囲み、支配する神意に深く従順で、神聖な儀式を注意深く守る単純で敬虔な性格を作り出した。しかしこれらのことはすべて純粋に利己的なものだった。それは単に繁栄を得るため、災いを避けるため、そして未来を読むための方法だった。古代ローマは多くの英雄を生んだが聖人を生まなかった。その自己犠牲は愛国的だったが宗教的ではなかった。その宗教はその儀式が人々の最良の習慣のいくつかと混じり合い、それを強化することはあっても、独立した指導者でもなければ、霊感の源泉でもなかった。

 

 しかし、こうした習慣や宗教的な敬虔さは共和国の末期と帝国の幕開けの特徴となった不道徳と腐敗の中ですぐに姿を消した。監察官が熱心に、そしてしばしば圧制的に押しつけていた断固たる生活の質素さに贅沢が取って替わった。それはマンリウス(*グナエウス、ウルソ、BC189に執政官就任)の軍隊がアジアから帰還した後に初めて現れ、カルタゴ、コリント、マケドニアのほぼ同時征服後に巨大化し、アントニウス(*マルクス、BC83―30)の事例からさらなる刺激を受け、ついには帝政下で東洋の底抜け騒ぎが決して超えることができないほどに過剰なまでに膨れ上がったのである。共和国の社会的・政治的システムの完全な破壊、内戦による無政府状態、新しい哲学、習慣、神々をもたらしつつ増え続ける異国人の流入によって古い徳の絆はすべて失われ、消滅してしまった。単なる多くの礼拝形式の並置が最も懐疑的な文学や最も大胆な哲学によってもたらされることのなかったものをもたらしたのである。宗教の道徳的な力はほとんど消滅してしまった。敬虔な感覚はほとんど消滅してしまった。自分の艦隊が難破したため、アウグストゥスは厳かにネプチューンの像を降格した。ゲルマニクス(*ローマ市民に絶大な人気のある軍人・政治家だったが三十歳で病死した)が死ぬと民衆は神々の祭壇に石を投げたり、それを倒したりした。神聖という観念が一般的な神性からあまりにもかけ離れていたため、最も堕落した者でさえ声に出すことを恥じるような祈りが捧げられるという苦情が絶えなくなった。帝国の腐敗の中に、私たちは哲学者や皇帝による数多くの高貴な改革の努力を見ることができる。しかし古い宗教の道徳的影響の痕跡はほとんど見つけられない。皇帝たちの神格化はその堕落を完成させた。外国の神々はローマの神々と同一視され、その不道徳な伝説はすべて国家の信仰と結びつけられた。劇場は懐疑論の領域を大きく広げた。キケロは、神々は実在の存在ではあるが人間のことには関心を示さない、というエンニウスの台詞を聞いた民衆の同意の喝采について触れている。プルタルコスは、劇場でディアナの罪の陳述の後で観客が憤慨して立ち上がり、俳優に向かって「あなたの娘があなたが描いた通りになりますように!」と叫んだと語っている。後に聖アウグスティヌスや他の教父たちは、神殿で崇拝している神々を劇場で笑いものにする異教徒たちを長い間嘲笑っていた。人々は依然として迷信深かったが、新しい宗教として特別な力を持つお守りや護符、あるいは未来を占う魔術に頼るようになった。また、宗教史において非常に重要な位置を占める一種の迷信的懐疑論もかなりの程度存在した。神々は存在しない、あるいは神々は人間の問題に干渉しないと宣言しながら、同時にすべての予兆、占い、夢、奇跡に対する絶対的な信仰を公言する人々が大勢いた。彗星、流星、地震、怪物的な奇形児の誕生など、数え切れないほどの自然現象は一種のオカルト的、魔術的な効力を持ち、それによって人間の運命を予兆し、場合によっては影響を及ぼすものとされたのである。大プリニウスは、彼の時代には人間の全運命はその誕生を支配する星によって決定される、神はこれを定めて人間の問題に決して干渉しない、予兆が現実になるのはこの運命の予定のためである、という信仰が学者と俗人の間で急速に広まっていたことを指摘している。後世の帝国の歴史家の一人は、神々の存在を否定する多くの人々が、それでも、まず暦をよく調べて水星の位置や月が蟹座からどのくらい離れているかを確かめなければ、安全に人前に出たり、食事や入浴をしたりできないと信じていた、と述べている。おそらく田舎の農民の間のものを除いて、共和国末期と帝国の最初の一世紀のローマには迷信的なものを除いて宗教はほとんど存在していなかった。そして当時の真の道徳的影響を調べようとするならば、ギリシャから輸入された偉大な哲学の学派に目を向けなければならないだろう。

 

 ゼノン(*BC335―263)とエピクロスの対立する体系が人類の道徳の歴史において、とりわけ異教の帝国の末期において占める位置が大きいため、その創始者たちの創造的才能を誇張してしまいがちであるが、実際には彼らは世の中に常に存在していた優れたタイプに定義や知的表現を与えたに過ぎなかった。厳格で、まっすぐで、自制心があり、勇気があって、純粋な義務感に駆り立てられ、高い自己犠牲の努力をすることができ、他人の弱さにやや不寛容で、通常の社会生活ではやや厳しく同情的ではないが、自分の行く道に嵐が吹き荒れると、英雄的威厳を増し、自ら真実と信じる大義を捨てるよりは命を捨てる覚悟を持っている人々が常にいた。また、気性が穏やかで人当たりが良く、穏やかで慈悲深く、柔軟で、友人には誠心、敵には寛容、心は利己的だが可能な限り自分の満足を他人のそれと結びつけようとする人、あらゆる熱狂、神秘主義、理想主義、迷信を嫌い、人格の深さも自己犠牲もないが、見事に楽しみを分け与えて受け取り、人生を安楽にし、かつ調和させるのに見事に適した人々も常にいたのである。前者は本来のストア派であり、後者はエピクロス派である。そして、もし彼らが最高善(*summum bonum)や情緒(*affection)について推論を進めるならば、いずれの場合も彼らの性格がその持論を決定するのは当然すぎることである。前者は自制心を他のすべての資質よりも高く評価し、情緒を軽んじ、義務と利益の観念を遠く分離しようとする。一方、後者は体系的に英雄的なものよりも心地のよいものを、神秘的なものよりも実用的なものを好む。

 

 しかしこのような問題では通常、性格が意見を決定することは間違いなく事実であるが、性格自体が国情に大きく支配されることもまた事実である。ギリシャや小アジアの洗練された芸術的で官能的な文明はエピクロス派のタイプの優れた実例を容易に生み出すことができたが、ローマは最も古い時代からストイシズムの本場だった。ローマ人は哲学を理屈で説明するよりもずっと前に、それを行動に移して見せていた、そして彼らの思索の時代には最も高貴な精神が自然にこの学説に傾倒していたのである。戦いの成功が富や機械の才に依存せず、愛国的熱意の絶え間ないエネルギーと軍事的規律の不屈の維持に依存する時代に、絶え間ない戦争に従事していた大国では、国民の性格の全ての力がある一定のタイプの生産に傾いた。子供に対する父親、妻に対する夫、奴隷に対する主人の絶対的な権威の中に、戦場において非常に強力であることが証明されたものと同じ規律の習慣を見いだすことができる。愛国心と軍事的名誉はローマ人の心の中で切っても切れない関係にあった。この二つが国民の熱意の源であり、国民の偉大さに関する概念の主要成分だった。これらが後に至高のものと判明するその道徳理論を不可避的に決定したのである。

 

 さて、戦争は多くの風紀を乱すような影響をもたらすが、少なくとも常にヒロイズムの偉大な学校だった。それは人に死に方を教える。それは個人的な利害ではなく、名誉と熱意の影響の下で行われる崇高な行為という理念に心を慣れさせる。それは性格の強さを最大限に引き出し、同時の行動に必要な自制に人を慣れさせ、恐怖を抑え、感情をしっかりと制御することを強いるのである。愛国心はまた、その個人的な望みを自分の住む社会の利益より下位に位置付けるよう彼らを導く。人生の視野を広げ、過去の偉人の中に身を置き、英雄的な人生を学ぶことによって道徳的な力を獲得し、遠い未来の展望を通して、自分が去った後も続く組織の幸福を絶えず望むよう、人に教えるのである。こうした力はすべて、ローマ時代の生活において今では決して再現できないほどに発達していた。こうした理由によってこの時点で戦争は英雄的な徳の学校以上のものだった。神学的な強い情熱が何もない中で、愛国心は超越的な力を発揮していた。帝国のほとんどすべての長い期間と、都市の貴族的な組織によって形成された指揮の習慣は国民の性格の向上と誇りに貢献した。

 

 こうした考察から、ローマ人の環境は必然的にある種の人格を生み出す傾向があり、その本質的な特性はストイシズムのタイプであったことは十分に明らかだろう。人間がさまざまな資質の比較的な卓越性を評価する際に自分の性格に最も一致するものに最高の賛辞を与えるという傾向に加えて、この事実は伝記的要素が大きな位置を占めていた古代の倫理教育において大きな重要性を持つに至った。キリスト教における理想は一般に超自然的な存在か、超自然的な存在と絶えず結びついていた人物だった。そしてこれらの人物は通常ユダヤ人か、その人生の性質がほとんどの人間の共感から切り離され、民族性をできる限り拭い去られているような聖人だった。ギリシャ人やローマ人の間では、徳の模範はたいてい同胞だった。同じ道徳的雰囲気の中で生き、同じ目的のために闘い、同じ活動範囲で名声を得た人々は、その称賛者と同じ強度ですべての国民性を示していたのである。歴史は今ではほとんど失われてしまった教訓的な性格を帯びていた。あらゆるモラリストの最初の仕事の一つは、自分が強いる規範を説明するための人格の特性を集めることだった。ウァレリウス・マクシムス(*AD1世紀の歴史家)はさまざまな道徳的資質の一覧表をつくり、自国や外国の歴史から得た豊富な例によってそれぞれを説明する本を書くことによって古代の指導者たちの方法を忠実に再現した。

 

 プルタルコスは言った「私たちが事業を始めるとき、責任を負うとき、あるいは災難に遭うときはいつでも、私たちの時代あるいは過ぎ去った時代の偉大な人物の例を目の前に置き、プラトンやエパミノンダス(*BC420―362、スパルタを破ったテーバイの将軍)、リュクルゴス(*BC390―324、アテネの雄弁家)やアゲシラオス(*在BC444―360、スパルタ王)ならどう行動しただろうかと自問するのである。これらの偉人たちを精確な鏡のように見ることで、私たちは自分の言動の欠点を改善することができる…哲学を学ぶ者は難局が訪れたり、情熱に心をかき乱されたりするたびに、その徳を称賛されている人々の姿を思い浮かべる、そしてそれを想起することによってよろめく歩みが支えられ、転落が防がれるのである。」

 

 こうした文言は古代のモラリストの文章に絶えず登場する。そしてこのことは国民の卓越性の最高のタイプが道徳哲学の有力な学派をいかに自然に決定したかを示している。また国の歴史の英雄的な時代の影響が後の、全く異なる発展段階にある最高の精神に及ぶことをも示している。したがって帝政期には国民生活の状況が大きく変化したにもかかわらず、ストア派が依然として哲学的宗教であり、道徳的熱意の大きな源泉であり調整者であったことは驚くべきことではなかった。エピクロス主義は確かに帝政期に広く普及したが、それは崩壊の原理か悪徳の弁明、あるいはせいぜい強い道徳的熱意に動かされない静謐で無関心な性質の宗教に過ぎなかった。エピクロス自身が最も高潔な人物であったこと、彼の教義は当初、先行するキュレネ派の粗野な官能性とは注意深く区別されていたこと、理論的にはほとんどすべての徳を認めていたこと、この学派が卓越の最高位に達することがなかったとしても、少なくとも無害な生活を送り、師に熱心に献身し、特にその友情の温かさと変わらなさで知られる弟子たちを多く生み出したことは事実である。しかし安楽と快楽に高い価値を置く学派は軍事的専制政治の無政府状態の中で徳を教える指導者を襲う恐ろしい困難と闘うには全く適しておらず、その成功にとってローマ人の徳と悪徳は等しく致命的なものだった。ローマの卓越した偉大な理想はすべて別のタイプに属するものだった。デキウスやレグルスのような人物が出てくることはエピクロス社会では不可能だっただろう。たとえ彼らの原動力が死後の名声に対する欲求より高貴なものではなかったとしても、エピクロス社会の抜け目のない、穏やかで感傷を排した功利主義に満ちた道徳的空気の中ではその欲求は決して強くならなかっただろう。一方エピクロス主義者が多かれ少なかれ洗練された快楽と、人間の真の幸福を構成するものについての高貴な概念を区別していたことはローマ人には理解しがたかった。彼らは楽しみを犠牲にすることを知っていたが、楽しみを追求するとき、最も粗野な形に自然に引き寄せられるのである。それゆえエピクロス主義の布教はさっぱり効果が上がらなかった。その教えの反愛国主義的傾向はコスモポリタニズムの台頭に必要な国家感覚の破壊に貢献した。一方その神学的信仰に対する強い異議はルクレティウスの才能と熱意に支えられて衰退しつつある信念に力強い影響を与えた。

 

 エピクロス主義の作用がこうしたものだったため、倫理的な教えの建設的あるいは積極的な側面はほとんどストア主義に委ねられた。ストア主義の体系の一部に強く反対する哲学者は何人かいたが、彼らの努力は通常、その極端で過酷な特徴を修正する以上のものではなかったからである。ストア派は徳こそが目指すべき唯一の正当な目的であること、そして徳は理性を完全に優位に立たせ、情緒を完全に消滅させるものであるという二つの基本原則を主張している。ストア派は徳こそが目指すべき唯一の正当な目的であること、そして徳は理性を完全に優位に立たせ、情緒を完全に消し去るものであるという―二つの基本原則を主張した。プラトンの見解を主に学んだペリパトス派(*逍遥学派、アリストテレスの学校リュケイオンの学徒の総称)や他の多くの哲学者たちはこれらの原則の過大視を和らげようと努めた。彼らは徳は利害とは全く別のものであり、人生の主要な動機であるべきであることを認めたが、幸福もまた善であり、それに対する一定の配慮は正当なものであると主張した。彼らは徳において理性が感情に対して優位にあることを認めたが、制限された範囲内で情緒を行使することを認めた。しかしストア派の主な特徴である無私の理想と理性の支配は認められている。そしてそれぞれが古代の卓越性の概念の重要な一面を表しているため、これから私たちはそれを検証していかなければならない。

 

 第一に、愛国的な熱狂が引き出した自己犠牲の高い精神は知的にも表現されているということを私たちは容易に発見することができる。愛国主義の精神は非常に多くの、また非常に崇高な英雄的行為を呼び起こすが、その報酬として個人の不死を提示しないという独特の性質がある。人間のヒロイズムのすべての形の中で、それはおそらく最も無私のものである。スパルタ人やローマ人は祖国を愛するがゆえに祖国のために命を落とした。死の間際に殉教者の希望に満ちた恍惚の表情は見られなかった。彼は自分のすべての持ち物を放棄して自分が信じた通り永遠に目を閉じ、この世でも来世でも報酬を求めなかった。死後の名声という―報酬と呼ばれるものの中で最も洗練された精神的な―希望でさえ、最も著名な指導者たちにしか存在し得ないのである。古代の徳の体系の頂点あるいは理想を形成したのはこのような性質の実例であり、それらは自然に利益と義務の概念を非常にはっきりと深く区別するよう人々を導いた。実際、義務を構成するものについての概念は古代ではしばしば非常に不完全だったが、あらゆる利己心の変型とは区別されるものとしての義務が人生の最高の動機でなければならない、という確信は後のどの学派よりもストア派によって明確に強く主張されたというのが本当のところだろう。

 

 読者はおそらく前章から、道徳の指導者が人々を徳に導くために持ち出す四つの動機があることを理解されただろう。彼らは徳の高い人生には繁栄が訪れ、悪徳の人生は逆の結果を呼ぶという出来事の性質を論じるだろう―彼らは物事の通常の推移を指摘し、現世での利益と、来世での賞罰のための特別な神意が存在すると主張することによってこの命題を証明するだろう。来世の議論に関する限り、このような教えの効力は特定の神学的教義が強く根付いているかどうかにかかっている。一方、現世の動機の効力は社会がどの程度、どのような方法で組織されているかにかかっている。なぜなら完全に高潔な生活が繁栄への一般的傾向ですらない社会が存在することは間違いないからである。また特殊な環境や個人の性格がこうした教えの受け止め方に大きく影響するだろう。またキケロが言ったように「ある有用性が作り出したものを、別の有用性がしばしば破壊する」だろう。

 

 また心にとっての悪は体にとっての病気のようなものであり、ゆえに徳のある状態は健康な状態である、と彼らは論じるだろう。身体の健康とは痛みがない、あるいは少なくとも不快な状態がないこととして、それ自体が望ましいのと同様、秩序ある高潔な心はそれ自体のために、またそれによる外的利益とは無関係に幸福の条件とすることができる。また情熱と悪徳に悩まされている心的状態は、繁栄の追求の障害となるというより、それ自体が本質的に苦痛で邪魔なので避けた方がよいだろう、と。徳と悪徳を健康や病気の状態と捉え、一方はそれ自体を善とし、他方はそれ自体を悪とするこの概念はプラトンの倫理学の基本的命題だった。この概念はストア派にも認められていたが、その位置づけは補足的なものに過ぎなかった。そして多かれ少なかれ、後続のすべての体系に受け継がれている。これは自己訓練の大きく向上的な概念に特に好都合である。なぜならそれは人を個々の徳や悪徳の行為よりも、それらが生じる心の常の状態についての思索へと導くからである。

 

 第三に、徳のある行為を意図的に行った後に生じる快感を動機として提示することによって徳を支持することが可能である。この感情は個別の行為の後の個別のそれぞれの満足感である。したがって悪意や心をかき乱す衝動の消滅から生じる日常の気分の平穏とは容易に分離することができる。「善を行うことの贅沢さ」を楽しむようにという一般的で熱心な勧告に含意されているのはこの理論であり、特に博愛の行為を強く勧める。その場合、生み出された幸福への共感がその気持ちを強めるが、この快楽はあらゆる種類の徳に伴うものである。

 

 これら三つの行動の動機はその究極の目的が行為者の幸福にある、という共通の特徴をもっている。第一の動機はその幸福を外的環境に求め、第二と第三の動機は心理的条件に求める。しかし第四の動機というものがあり、これはモラリストの直観派の特徴であって反対派の躓きの石となっている。私たちは義務という概念がそれ自体、利己主義のあらゆる洗練や変型とはまったく別の最高の自然な行動の動機を提供する、と主張するのである。この動機と共に働く力は周囲の状況やあらゆる形式の信条とはまったく無関係である。それはキリスト教を信仰する者にも拒む者にも、来世を信じる者にも魂の死を信じる者にも等しく当てはまる。それは幸と不幸、賞と罰とは全く異なる性質の問題である。人々はある特定の生き方を自分の存在の生得的な目的と感じ、たとえ幸福を犠牲にしても、それを追求する義務があると感じる。彼らはある行為を本質的に善良で高貴なもの、他の行為を本質的に卑しいものと感じ、この認識ゆえにあらゆる楽しみの観点とは関係なく一方を追求し、他方を避けるようになるのである。

 

 前章でより詳細に論じたこれらの区別を再び私が取り上げたのは、ここで見直している哲学の一派が、これらの動機の中のより高いものが心に及ぼす力について、あらゆる歴史的事例のうちで最も完璧なものを提供しているからである。ストイシズムにおいて粗野な私利私欲は絶対的に非難された。自らの力の及ばないものにはすべて中立であるべきこと、心をあらゆる幸運の贈り物から引き離すのがすべての精神的訓練の目的であること、それゆえに打算を徳の動機から完全に排除しなければならないことが、この哲学者たちの最高の原理の一つだった。この原理を実行するために、彼らは人事の虚栄と独立心の威厳を絶えず強調し、他の学派ほどではなくとも賢者の無表情な平静の誇張に耽った。ローマ帝国において、ストイシズムは他のどの時代にも増してそうした教えに不利と思われる時代に栄えた。タキトゥスが強調した言葉を借りるなら「徳は死の宣告」だった時代もある。暴力がこれほど完全な勝利を収めた時代はなく、物質的利益への渇望がこれほど激しかった時代はなく、悪徳がこれほど仰々しく美化された時代はほとんどなかった。しかし、こうした状況の中でストア派は妥協でもなく、民衆の行き過ぎを抑えようとするのでもなく、むしろその厳かな高潔さによって、一般的な事例や彼ら自身の利益が命じうるすべてのものに対する極端なアンチテーゼである哲学を教えたのである。そしてこれらの人々は、来るべき栄光の予感に燃えている情熱的な狂信者ではなかった。彼らは魂の不滅の信念を行動の動機から断固として排除した人々だった。キケロの美しい推論と、この理論の中に永続する神秘に執着するプルタルコスのような少数の人々の宗教的信仰にもかかわらず、ローマに初めて哲学が導入されたとき一緒に入ってきた懐疑論と、タルタロス(*冥界のさらに下にある奈落)やスティクス(*現世と冥界の間の川)に関する古い神話の消滅と、民衆へのエピクロス主義の普及の中に、この理論は非常に低く沈み込んでしまった。キケロの著作の中で対談者が、プラトンの著作を前にして自分はそれを信じ、実感することができるが、本を閉じると推論はその力を失い、精神の世界は青白く非現実的なものになってしまうと述べたとき、おそらく彼は一般的な感覚を言い表していたのである。エンニウスが「神々は人間の問題に関与しない」と宣言して劇場の喝采を浴びれば、カエサルも元老院で「死はすべてのものの終わりである」と主張しても反感を買わず、ほとんど異議を唱えられなかった。おそらくローマの最も偉大な学者であるプリニウスはエピクロスの全学派の感情を取り入れて、来世を信じることは狂気の一形態であり、愚かで悪質な幻想であると述べている。ストア派の見解は揺れ動く、不確かなものだった。彼らの最初の学説は、人間の魂には来世があり、独立した存在ではあるが、永遠の存在ではなく、世界を破壊しすべての形あるものを自然の全存在の魂に吸収する最後の大火まで存続する、というものだった。しかしクリュシッポス(*BC280―207)はクレアンテス(*BC331―232)がすべての人に存在するとしたこの来世を最も優秀で高貴な魂に限定した。そしてローマのストア派の間ではこれさえも大いに疑問視された。人間の魂は神から切り離された断片であるという信仰は自然に、死後にそれが親霊に再吸収されるという信仰につながった。徳のほかに真の善はない、という理論は報われない功績や罰せられない罪が招く来世についての議論をストア派から奪った。そして善人は報酬とは無関係に行動すべきであると主張した熱心さが、一部のユダヤ人思想家がそうであったと言われるように、彼らを来世の報酬の否定に傾かせたのである。ローマのストア派の創始者パナティウス(*BC185―109)は魂は肉体とともに滅びると主張し、彼の意見にエピクテトス(*AD50―135)やコルヌトゥス(*ルキウス・アンナエウス、AD60頃活躍)も従った。セネカはこの問題で矛盾していた。マルクス・アウレリウスには漠然とした悲痛な願望以上のものはなかった。来世を信じる人々は、それを微かで不確かなものとして信じ、たとえ事実として受け入れたとしても、それを動機として持ち出すことは避けたのである。ストア派の倫理体系全体は、自己犠牲を他に並ぶもののないほどの地位に置き、比肩するものはほとんどないほどの影響力を行使したが、それは来世の教義の助力なしに発展したものだった。異教徒の古代はパナティウスの著作の発展型を自認するキケロの「義務について」よりも高貴な道徳的論説を遺さなかった。またそれは野蛮で悪名高い主人の病弱で奇形の奴隷であり、人生の後半には市民権を得たが、すぐにドミティアヌス帝(*在位AD81―96)によって追放されたエピクテトスほどに壮大な模範を残さなかった。彼は人間の不幸の淵を測り、単なる変質のように死を待ち望みながらも、神の存在の感覚に満たされ、その生涯は神意への賛歌であり続けた。そして同時代の人々にとってほとんど人間の善の理想と思われた彼の著作とその模範は、あらゆる時代と激変を乗り越えて慰めの力を失っていない。

 

 しかしローマのモラリストたちにもっと大きな影響を与えていたのは、別の形の不死だった。名声、特に死後の名声―つまり「高貴な心の最後の弱点」―に対する欲求は、ローマのヒロイズムの源泉の中で並外れて突出しており、古代の最も偉大なモラリストたちがほとんど免れ得なかったあの芝居がかった、過度に張り詰めた言葉づかいの原因だった。しかし一部の人々のように、異教徒たちは徳を世間から隠し、自ら不名誉に甘んじるという考えに至らなかったと推論するなら、それは全くの誤りだろう。義務感から大衆の好意の強い潮流に逆らい、軍人にとって最も致命的な世評を国のために引き受けたファビウス(*クィントゥス、マクシムス、BC275―203、第二次ポエニ戦争で決戦を回避し続けて批判されたが、持久戦でローマを勝利に導いた)、怒れる群衆の嘲笑、侮辱、嘲笑の中でも動じなかったカトー(*大、凱旋将軍の不正を告発して非難された)ほど古代において高く評価された人物はいなかった。キケロはストア派の原理を説明して「たとえ神々や人間の目から隠されたとしても」すべての悪を避けるべきであり、誇示することなく、他人の目から遠く離れて行われる行為ほど称賛に値するものはないことを学んでいないなら真の哲学に到達したとは言えないと宣言している。ストア派の書物には同じ趣旨の文章がたくさんある。「見解ではなく、良心に従う。」「自分の徳が知られることを望む者は、徳のためではなく名声のために苦心しているのである。」「良心の呵責に耐えかねて名声を犠牲にするのが最も徳の高い者である。」「私は称賛されることから尻込みしないがそれを目的や権利の条件とすることは拒否する。」「人を喜ばせるために何事かをするのであれば、あなたは自分の階級から転落したのである。」「悪い評判であっても高貴に獲得したのなら喜ばしいものである。」「偉大な男は打ち負かされ塵に伏してなお偉大である。」「神々しくありながら世に知られない人物があり得ることを忘れるな。」「美しいものはそれ自体が美しいのであって、人間の称賛はその特性に何も付け加えない。」マルクス・アウレリウスはピタゴラスの例にならって死について絶えず考え、想像力を働かせて過ぎ去った社会全体を思い起こすことによる、死後の名声の虚しさの実感を精神修養の特別な目的としたのである。小プリニウスは友人の一人を「見栄のために何もせず、すべてを良心のために行い、徳の報酬を人間の称賛に求めず、それ自体に求める」人物と表現して、ストア派の理想を忠実に描き出した。またストア派の人々は徳の義務と魅力の区別をあまり強調することはなかった。この点で彼らはより洗練されたエピクロス派と一線を画していた。エピクロス派はしばしば、単に快楽が私たちの行動の究極の目的であるのは当然で疑いないこととして、目的とする快楽の種類を最も高度なものに昇華しようとした。しかしストア派は断固としてこれを否定した。「快楽は道連れではあっても道案内ではない。」と主張したのである。「私たちは徳が快楽を与えるがゆえにそれを愛するのではない。私たちが徳を愛するがゆえにそれは快楽を与えるのである。」「たとえ神々や人々がその行為を見過ごしたとしても賢者は罪を犯さない。罰や恥を恐れるがゆえに罪を犯さないのではない。それは正義と善なるものに対する欲求と義務ゆえである。」「徳に対して報酬を求めるのは、目が見ることに対して、あるいは足が歩くことに対して報酬を求めるようなものである。」善を行うとき人間は「ブドウを実らせたブドウの木のように、適切な果実を実らせた後はそれ以上何も求めない」べきである。この指導者たちによれば、人生の目的は生においても死においても安らぎを得ることではない。人生の目的は自らの義務を果たし、真実を語ることである。

 

 私が注目したストア派の第二の特徴は、理性の絶対的優位に道を開くための情緒の完全な抑圧である。私がこれまで述べてきたストア派とエピクロス派の性質にほぼ対応する性格には―意志が優位に立つものと、欲望を最上位に置くものという―二つの大きな区分がある。前者のクラスの善人とは、自分の情熱や性向から、あるいは自分を取り巻く環境から反対の道を歩む強い誘惑があるにもかかわらず、意志が義務感に導かれて自分が正しいと信じる道を歩む人物である。後者のクラスの善人とは、その共感と欲望が本能的に徳の高い目的に向かうように幸福にできている人物のことである。前者の性格は、厳密に言えば美点という理念と結びつけることができる唯一のものであり、また継続的かつ英雄的な自己犠牲の高い努力を可能とする唯一のものである。前者の性格は、厳密に言えば美点という理念と結びつけることができる唯一のものであり、また継続的かつ英雄的な自己犠牲の高い努力を可能とする唯一のものである。しかし一方で、おそらく鍛錬された徳では決して到達できない、強制されない欲望の自発的な行動の魅力というものがある。生まれつきの気質によって貪欲に駆り立てられ、慈善を行うたびに苦痛を感じながらも、義務感のために一貫して物惜しみをしない人物は私たちの非常に高い称賛に値する。しかし気前良くすることに努力を要せず、それが彼の感情の自然な満足である人物は私たちの愛情をはるかに大きく引きつける。この二つの性格に対応する二つの異なる教育理論がある。一つは主に意志を強化することであり、もう一つは欲望を導くことである。前者の主な例は、古代のスパルタやストア派のシステムであり、中世の禁欲主義も若干の修正を加えたものである。これらのシステムの目的は人間が苦痛に耐え、明白で良く知られた欲望を抑え、楽しみを放棄し、感情に対する絶対的な支配を確立できるようにすることだった。一方で現代ほど普及していなかった教育方法がある。それは徳を魅力的にすること、徳を想像や繁栄のあらゆる魅力と関連づけること、そうして願望を無意識のうちに望む方向に引き寄せることに努力を傾けるものである。前者のシステムが意志の強い努力を必要とし、それを引き出す波乱の軍事社会に特に適しており、したがって英雄的徳の特別な領域であるように、後者は本来静穏で高度に組織化された文明に属し、したがって愛情豊かな資質に非常に好都合であり、文明が進むにつれ、結果として英雄的なタイプはますます稀となり、自己寛容的な類の善がより一般的になるだろう。古代社会の状況は前者のタイプへと彼らを導いたが、ストア派はその理論を情緒は病的な性質のものである、と極端に表現した―現代の形而上学者がしばしば用いる、神の愛や怒りなどというものは単なる比喩表現であることを証明するのと同様の論拠によって彼らはこの理論を正当化したのである。動揺は必然的に不完全なものであり、従ってどのような形においても完全な存在はそれを持たない、と彼らは主張した。私たちは理性が知的存在の最高の力であり、指図する力であるべきであると明確に直観しているが、感情の扇動によって行われるあらゆる行為は理性の支配から外れている。したがって意志は徳の方向に習慣的に行動するように教育されるべきであるが、感情は徳の方向に最も適しているようなものでさえ絶対的に禁じられるべきである、と推論されたのである。例えばセネカは寛容と憐憫の区別を詳しく説明し、前者は最高の徳の一つであり、後者は全くの悪徳であるとしている。寛容とは刑罰を適用する際の常の優しさの性質であるとセネカは言うのである。これは発生した刑罰の一部を免除する穏健さであり、厳格さを求める常の性質である残酷さとは正反対のものである。一方、憐憫と寛容の関係は迷信と宗教の関係と同じようなものである。苦しみを見てたじろぐのは、弱々しい心の優柔不断である。寛容は分別の行為であるが、憐憫は分別を乱す。寛容は苦しみと罪との釣り合いを裁定する。憐憫は苦しみだけを考え、その原因については何も考えない。寛容さは高潔な努力のただ中においては完全なまでに情熱がない。憐憫は理性的でない感情である。寛容さは賢者の本質的な特性であり、憐憫は弱い女性や病んだ心だけに似合うものである。「賢者は泣く者を慰めるが、共に泣くことはない。難破した者を助け、追放された者を歓待し、貧しい者に施しを与え…母の涙に息子を返し、捕虜を闘技場から救い、犯罪者を葬ることさえある。しかしこのすべてにおいて彼の心と表情はともに平穏であろう。彼は憐憫を感じない。彼は援助し、善を行う。なぜなら彼は仲間を助け、人類の幸福のために働き、一人ひとりに自分の役割を果たすために生まれてきたのだから…彼の表情と魂は物乞いの萎びた足、ぼろぼろの服、曲がってやせ細った体を見ても何の感情も表さないだろう。しかし彼はその価値のある人々を助け、神々と同じく、不幸な人々へと心を向けるだろう…他人の目の涙を見て潤むのは病んだ目だけであり、他人が笑うといつも笑い、他人があくびをするとあくびをするのは、真の共感ではなく、神経の弱さに過ぎないのである。(*以上セネカの言)

 

 キケロは、ストア派のモットーと言っても良いかもしれない文章で、ホメロスは「人間の特質を神々に帰した。それは神の特質を人間に授けるより良い事だった。」と書いている。ここに引用した注目すべき一節は、ストア派がこの模倣を極限まで推し進めたことを示すのに役立つ。実際、異教徒とキリスト教徒の間で栄えたさまざまな徳を比較すると、前者では意志と判断が、後者では感情が最も流行した卓越性のタイプであったことに必ず気がつく。愛情よりも友情、慈愛よりも歓待、感じやすさよりも度量の大きさ、共感よりも寛容、というのが古代の善の性格だった。ストア派は他のどの学派よりも感情の抑制を重視し、理性的で情熱的でない慈善の範囲を大幅に拡大することによって、人間の本性の博愛的側面がこうむった傷を埋め合わせるために熱心に努力した。彼らは最も強調された言葉で、すべての人々の友愛と、その結果としての各人が他人の幸福のために自分の人生を捧げる義務とを説いた。彼らはこの一般的な理論を一連の詳細な教訓に発展させたが、その慈愛の範囲、深さ、美しさにおいてこれを超えるものはなかった。彼らはその思いやりを犯罪にまで広げ、すべての罪は無知であるというプラトンの逆説を採用し、それを不随意の病気として扱い、懲罰の唯一の正当な根拠は予防効果であると宣言した。しかし、理論的には、彼らの原理を最も広範で積極的な博愛といかに完全に調和させることができたとしても、人間存在の感情的側面全体に対する戦いを宣告し、人間の徳を一種の威厳ある自己中心主義に貶めるシステムの実際的な悪を完全に打ち消すことはできなかった。例えば自分の息子が死んだことを知らされたとき、アナクサゴラス(*BC五世紀の哲学者)はただ「私は不死の子を産んだとは思わなかった」としか言わなかった。また自分の国が滅び、故郷の町が占領され、娘たちが奴隷や妾として連れ去られたとき、賢者は環境に左右されないゆえに自分は何も失わなかった、とスティルポンは豪語していた。そこに博愛の骨組みや理論はあっても、活力となる精神がないのである。夫や父親は妻や子供の死に完全に無関心でいるべきであり、哲学者は苦しんでいる友人を慰めるために見せかけの同情で涙を流すことはあっても、本当の感情が自分の胸に入り込むことはあってはならないと教える人々は、真の博愛の宗教を見つけることはできなかったし、永続的な宗教も見つけられなかったのである。痛みや病を悪と認めない人物は、他人のそれを和らげることに熱心ではないだろう。

 

 実際、すべての徳は自然との一致であると説いたストア派は、この点において彼ら自身の原理に大いに反していた。理性によって私たちに明らかにされた人間の本性は複合的なものであり、種類と尊厳において異なる多くの部分からなる構造体であり、多くの力が異なる地位で支配または従属するように共存することを意図した階層構造である。人間の本性の高い部分を全体の本性とすることは人間性を回復することではなく、切断することであり、この切断が試みられたときに重大な悪が生まれなかったことはない。ストア派は博愛主義者として、団結への情熱によって、自然が博愛の主要な源泉にしようとした感情たちの根絶へと導かれた。また思弁的な哲学者として、同じ欲求のために哀れな逆説の長い連鎖に巻き込まれた。すべての徳は対等である、より正確には同じものである、すべての悪徳は対等である、私たちの意志に影響を与えないものは悪ではない、従って痛みや死別は悪ではない、という彼らの有名な理論はローマのストア派によって部分的に釈明され、しばしば無視された。しかしそれでも彼らの教えが何か不自然で気取ったものに見えるほど、十分に目立つものだった。その性質の中の一つのものだけを尊び、一つの面だけを伸ばしてきたために彼らの心は狭くなり、視野は狭くなった。例えばエピクロス派は迷信を払拭するために自然を研究するよう人々を促し、古代の精神の進歩に対する主要な障害の一つであった物理学への無知を正そうと努めたが、ストア派はほとんどの場合、徳を追求する以外の学問を軽んじたのである。エピクロス派の詩人は人類の永遠の進歩を壮大な言葉で描いたが、ストア派は本質的に懐旧的で、過ぎ去った時代の単純さを回復するための無駄な骨折りに力を使い果たした。ゼノンの学派はこれまで生きてきた中で最も優秀で偉大な人物を多く輩出した。しかしその記録には高潔な言葉が行動に裏切られた例や、何らかの形において最も疑いなく超越した徳を示しながら、他の形において人類の平均よりはるかに低かった人物の例がかなり多く見られることも認めなければならない。哲学者ではないものの、哲学者の模範とされた大カトーは奴隷に対する非人道的な態度において際立っていた。ブルトゥス(*マルクス・ユニウス、BC85―42)は当時最も法外な高利貸しの一人で、サラミスの何人かの市民は彼の要求した額を払えないために投獄され、餓死している。ストイシズムが提唱した飾りのない質素な生活をサッルスティウス(*ガイウス、クリスプス、BC86―35)ほど雄弁に語った者はいなかったが、彼は腐敗した時代においてその強欲さで悪名高かった。セネカ自身、体質的に神経質で臆病なところがあり、崇高な哲学によって自らを支えようと努めたが必ずしも成功したとはいえなかった。彼は極めて困難な状況下で徳の大義を導き、その死は最も高貴な古代の記録の一つである。しかし彼の生涯は追従にまみれ、欲望から自由ではなかったことにおいて際立っており、残念ながらネロの最悪の犯罪の一つを隠すために筆を走らせたことは事実である。ルカヌスの勇気は迫害によって著しく損なわれ、彼が「パルサリア」の中でネロに贈った追従はマルティアリス(*マルクス・ウァレリウス、AD40―102)のエピグラムと並んで、おそらくローマ文学が身を落としたおべっかの極限と言っても良いだろう。

 

 ストア派の主な目的は哲学の普及だったが、彼らが要求した高い自制心によって、その体系は大多数の人間や通常の事情には極めて不向きなものとなってしまったのである。人生は歴史であって詩ではない。それは主に小さな事柄で出来ているのであって、偉大なヒロイズムの閃光によって照らされることはめったになく、大きな危険によって破られることも、大きな努力を要求されることも滅多にないのである。社会を支配するための道徳体系は一般的な性格と多様な動機に適応しなければならない。それは、決して英雄的なレベルに達することができない性質の人々にも影響を与えられなければならない。根絶したり一変させたりできない部分を、染め上げ、修正し、緩和しなければならない。キリスト教では常に人間の普通の感情を逆なでしたり、消し去ったりするために、絶え間ない苦痛を伴う努力を続けている少数の人たちがいる。しかし多くの場合、宗教的原理が心に及ぼす影響は非常に現実的なものであるにもかかわらず、深刻な緊張や闘争を引き起こすような性質のものではない。(*宗教的原理によって)獲得された一定の自発的な衝動の中にそのことを見ることができる。それは性格を柔らかくし、想像力を純化して方向づけ、習慣的な思考様式に無意識のうちに溶け込み、革命を起こすことなく、あらゆる行動様式に傾向と偏りを与えるのである。しかしストア派は単なる英雄の学派だった。それは徳や悪徳のグラデーションを認めない。それは一般人の徳が主に依存するあらゆる感情、あらゆる自発性、あらゆる混じり合った動機、あらゆる原理、感覚、衝動を非難したのである。それは最高の緊張状態にある道徳的性質にのみ作用しうるものであり、したがって当然ながら大衆からは拒絶された。

 

 この自制の哲学の中心的な概念は人間の尊厳だった。内面を見つめ、自らの称賛を求めさせる自尊心は、外面を見て、他者の見解に従って自分の振る舞いを決める虚栄とは違って、ストア派では許されていただけでなく、その主な道徳的原動力でさえあった。別のところで述べたように、この体系において徳の感覚はキリスト教における罪の感覚とほぼ同じ位置を占めている。古代人の概念では罪は単なる病気だった。それを正すのは賢人の役目であるが、その事情についてあれこれ考えたりはしなかった。エピクテトスや他の人々が人間が死に臨む際の適切な心構えについて残した多くの論考の中に、過去の罪に対する悔い改めは全く含まれていないし、それが人格に及ぼす純化と浄化の力に古代人が気づいていたとも思えない。また道徳的病弊の実在は十分に認識されており、高遠で実際には達成不可能な理想が絶えず提案されていた一方で、人間の性質の本質的な素晴らしさを疑う者はおらず、人間が自らの意志で高度な徳を身につける可能性を疑う者はほとんどいなかった。この最後の点で、ローマのモラリストの教えとギリシャの詩人の教えには大きな違いがあった。ホメロスは勇気や怒りなどを常に天の直接の霊感と表現している。運命論の偉大な詩人であるアイスキュロス(*BC525―456)は人間のあらゆる情熱を、ゼウスの動かしえない意志によって作り上げられた大きな目的の鎖の中の一つの輪に過ぎないと考えている。クリュテムネストラをアガメムノンを殺害するよう仕向けたさまざまな動機を描いた彼の作品ほど、詩の中で壮大なものはないだろう―殺された娘の復讐、アイギストスへの愛、過去の夫婦の義務違反への憤り、カサンドラへの嫉妬、これらすべてが夫の命に手をかけた激しい憎悪に溶け込んでいるのである。カサンドラの荘厳な歌は、すべての情熱の混乱以上に、この行為が天命であり、罪の種から湧き出た血の収穫であり、不幸なアトレウス一族に永遠にまとわりつく運命にある古代の呪いの成就であると宣言している。殺された王の遺体の前で、人間の最も荒々しい情熱の激発の前で、居合わせた人々は伏して叫んだ。「ゼウスの思し召しである―ゼウスは最高の支配者であり、すべてを司る神である。ゼウスの思し召しなしに何がこの世に起こるだろうか。」

 

 しかしこの種の概念はローマの哲学にはほとんど、あるいはまったく存在しなかった。人間界の問題や、幸運の贈り物の配分は、神意の管理下にある、と認識されていた。しかし人間は自分の感覚の主人であり、神々と比較されるような卓越した存在になることができた。今でこそ大胆に見えるかもしれないが、このような考え方はローマのモラリストたちのほとんどの学派に共通するものだった。折衷主義者のキケロは「私たちは当然のように自らの徳を誇っているが、もしそれが私たち自身からではなく、神から来たものであるならば誇ることはできないだろう。」と述べている。

 

 「人は皆、運は神から、知恵は自分から来るものであると判断している。」エピクロス派のホラティウスはその最も高貴な頌歌の中で、自らの徳を信じ、世界の破滅にも動じない正しい人間を描写して、ユピテルが与奪するものだけを祈るようにと説いている。「彼は生命と富を与える。私は自分のために平静な心を確保する。」「徳の自覚を授けられた心の平静」というのがエピクロス派の師による至高の幸福の表現だった。ルクレティウスは格調高い一節の中でエピクロスを神とし、彼の前では民衆の神々は取るに足らない存在であると豪語している。セレスは人間に小麦を与え、バッカスはワインを与えたが、エピクロスは徳の原理を与えたと言うのである。ヘラクレスは怪物を征服し、エピクロスは悪徳を征服した。ユウェナリス(*ユニウス・デキムス、AD60―128、風刺詩人)は言った「健康な肉体に健康な精神を宿すよう祈れ。死を恐れない勇敢な魂を求めよ…しかし、自分自身で得られるものもある。」セネカは言った「災難、損失、中傷は徳の前では太陽の前の蝋燭のように消えてしまう。」「ある点において賢者は神より優れている。神は恐れを抱かないことをその性質に負っているが、賢者は自分自身に負っているのである。崇高な境地!彼は人間の弱さを神の安全に結びつけているのである。」彼は他の所で書いている「不死を除けば、賢者は神に等しい。」「賢者の特徴は自らの善悪のすべてを自分自身の中に求めることである。」とエピクテトスは付け加えた。「その理性的な性質に関する限り、彼は神々に何ら劣っていない。」

 

 しかしストイシズムには人間と神との関係に対するこの見方を大きく修正し、時には積極的に否定するような、別の思想の傾向も見られるようになった。ストア派の神学は定義が不明確で、不確かで、幾分矛盾した汎神論だった。神性は特に神意と道徳的善の二つの側面から崇拝され、人間の魂は「神性の分離した断片」、あるいは少なくとも聖なるエネルギーに満たされ、そして伴われている存在とみなされていた。キケロは「いと高きところからの霊感なしに偉大な人物はなかった。」と言い、セネカは「神にとって閉ざされたものはない。神は私たちの良心の中に存在する。神は私たちの思考に介入する。」と言った。彼は他の所で書いている。「ルキリウス(*ガイウス、BC2世紀の風刺作家)よ、汝に告ぐ。私たちの内には私たちの善悪の行いの監視者、守護者である聖なる霊が宿っている…人は神なしでは善良であることができない。神の助けなしに誰が運命を凌ぐことができようか。神は高貴で高遠な助言を与える。神(何の神か私には分からないが)は、すべての善良な人間の中に宿っている。」マルクス・アウレリウスは言った「汝の内なる神に、男らしい存在、市民、持ち場にいてラッパが鳴ればすぐに命を捨てられる兵士を捧げよ。」「私たちの内なる神を信じ、純粋な崇拝によって彼を称えるだけで十分である。」

 

 このような文言はストア派の著作には少なくない。しかし、より一般的には徳は神を模倣する人間の行為として示されている。これがプラトンの「神に従え」という格言の意味である。そしてストア派はこれを絶えず繰り返し、最も感動的で美しい敬神の多くの文言を展開し、さらに神意の定めに対する最も絶対的で疑念なき服従の義務を付け加えたのである。この後者の点に関する彼らの理論は人間の感情的な側面に対する彼らの反感とよく一致していた。「泣くこと、不平を言うこと、うめくことは、反逆である」「恐れること、悲しむこと、怒ることは、脱走兵になることである」「あなたは役者にすぎず、主人が決めた役を演じているに過ぎないということを忘れてはならない。それは短いかもしれないし、長いかもしれない。貧乏人を演じろと言われたら心して演じよ。身体障害者、行政官、私人、いずれの場合も自分の役を立派に演じよ。」「何物も失ったとは言わず、返したと言え。妻や子が死んでも返した、農場を奪われても返したのである。それは不敬虔な男の手に落ちるだろう。自らの力によってそれを与え給うた神がそれを回収されるというのは、あなたにとってどういうことなのだろうか?」「神は善良な人間を栄えさせておかれない。試練を与え、強くして自分のために準備されるのである。」「神は自ら認められる者、愛される者を鍛え、試し、行使される。しかし神に甘やかされているような者には将来に悪しき事が待っている。」マルクス・アウレリウスは従順な感謝の気持ちを美しく爆発させながら叫んでいる「ある者はアテネについて言った。ああ、親愛なるケクロプス(*伝説上のアテネの初代の王)の都よ!と―しかし世界について、ああ、親愛なるユピテルの都よ!と言えないだろうか?…世界よ、汝にふさわしいものはすべて、私にふさわしいものである。」(*「MEDITATIONS」には色々な英訳があるがGutenberg Project版を翻訳して挿入した)

 

 こうした無限に追加できそうな引用は、ストア派が神意の概念の拡張によって彼らの教えの一面に疑いなく見られる傲慢さの緩和に成功したことを示すのに役に立つ。しかし、この試みによってもう一つの危険が生じた。この危険こそあらゆる時代の道徳体系の非常に多くを挫折させてきたものである。このような神意の命令への絶対的服従を命じ、情緒を禁じ、弟子たちを周囲の環境から完全に独立した存在とする教義は、ほとんどの社会において必ず静寂主義に陥り、積極的な徳とは絶対に相容れないことが証明されてきた。しかし幸いなことに、古代文明では徳の観念は早い時期から政治活動の観念と不可分に結びついていたので、長い間この危険は完全に回避されていた。古代において国家は、人々の思考の中で現代では決して到達できないほどに重要な位置を占めていた。愛国心の力は道徳的、知的生活のあらゆる性質に及んでいた。最も深遠な哲学者、最も純粋なモラリスト、最も卓越した詩人は軍人や政治家だった。それゆえ古代の倫理体系においては時に市民的な徳の過度の優越が起こり、また最も忌まわしい逆説も少なからず生じた。プラトンは妻の共同生活を提唱したが、その主な理由は生まれる子供が専ら国家と結びつくようにするためだった。アリストテレスはギリシャ人と野蛮人の差異を自分の道徳規範の基礎としたと言ってもよいだろう。十七世紀の論者たちはスパルタの法律をベネチア憲法と同様に理想的なものとして絶賛し続けた。一方、思索の領域と政治活動の領域との接触は、ある面で古代の哲学に非常に有益な影響を与えた。愛国心は義務の物差しの中でほとんどいつも重要な位置を占めていた。このことは現代の指導者たちが愛国心を軽視したり疑ったりしていることと著しい対照をなしている。確かにアナクサゴラス(*科学的考察をしたがために不敬の罪で訴えられ、アテネを去ることを余儀なくされた)が自分の本当の国として天を指さし、死後の世界に降りるのはどの国からでも同じなのだから追放は悪いことではない、と宣言したとのことである。こうした感情はエピクロス派やキニュコス派に存在しなかったわけではないが、一般的な風潮とは正反対のものだった。愛国心は道徳的な義務であり、最高位の義務であるとされた。私たちの祖国への愛は、最も近い近親者への愛よりもさらに神聖で深いものであり、そのために死ぬことさえためらう者は、善人と呼ばれる資格がない、とキケロが高貴な一節の中で主張したとき、彼は古代の一般的な見解を繰り返しただけだったのである。

 

 このように愛国心が強調された結果、古代の倫理学の多くは実践的な性格を持つようになった。実際、モラリストたちはしばしば人に野心を抑えるよう勧め、政治的逆境にある人を慰め、まっすぐな人物が一時的に公事から身を引くべき状況があると説いていることに私たちは気づく。しかし政治生活に参加する一般的な義務は強調され、静寂主義的な人生論の虚しさはただ主張されるだけでなく、いくらか誇張さえされていた。キケロは「すべての徳は行動にある。」と宣言している。小プリニウスはストア派のエウフラテス(*AD35―118)に、公務のために自分の哲学的探求に割ける時間が少ない、と嘆いたことがあった。しかしエウフラテスは答えた。公務の執行と正義の運営は哲学の一部を、それも最も重要な一部をなしているのである、なぜなら公事に携わることは学派の教えを実践することに他ならないのだから、と。人類は一つの身体であり、手足はそれぞれに専ら、そして継続的に全体の利益を視野に入れて行動すべきである、というのがストア派の基本的な行動原理だった。マルクス・アウレリウスはこの党派の最も純粋な精神の持ち主であり、十九年間にわたって文明世界を有効に支配していた。トラセア(*パエツス、AD?―66、ローマの元老院議員、自殺を命じられた)、ヘルウィディウス(*AD1世紀の政治家、処刑された)、コルヌトゥス(*ルキウス・アナエウス、1世紀、追放された)その他ストイシズムを信条として取り入れた多くの人々は、その教えに従って生き、多くの場合死に、専制政治の最も暗い時代に祖国の自由特権のために闘ったのである。

 

 このような高い義務感を持ち、激情を完全に抑え、徳と威厳の冷静な感覚のうちに人生を過ごしてきた人々が、弱い人間の悪夢である迷信的な恐怖に襲われることはほとんどなかっただろう。死への備えは哲学の主要な目的のひとつであると考えられていた。来るべき変化について考えることは、幸運の贈り物から心を切り離す助けになった。そして迷信的な恐怖をすべて消滅させることによって、ストア派の理想である自らを頼みとするタイプの威厳が完成したのである。しかし、死について彼らより雄弁に語り、より平静な勇気で臨んだ哲学者たちがいなかったことは確かであるが、彼らの絶え間ない論争が死を不健康に際立たせ、その人生観全体を幾分色褪せさせてしまったことは否定しがたい。ベーコンが言ったように「ストア派は死にあまりにも多くのものを支払い、その準備によって死をより恐ろしいものにしてしまった。」スピノザ(*1632―1677、オランダの哲学者)の格言には深い知恵がある。「賢者の研究にふさわしいのは、いかに死ぬかということではなく、いかに生きるかということである」、「賢者が最も考えない主題は死である。」活き活きと本分を全うする生活は終末への最上の準備である。そして死がもたらす災いの大部分は、その予期にあるのだから、絶え間ない瞑想によってその恐怖を取り除こうとする試みは、ほとんど必然的にその目的を達成することができない。その一方で不自然に緊張した、熱っぽい、悲劇的な性格をつくり出し、人間の進歩に不可欠な野心と熱意を消滅させ、愛情を冷まし、涸れさせてしまうこともまれではない。

 

 中世のアイルランドにまつわる多くの半異教的伝説の中で、最も美しいもののひとつは「生と死の島」に関するものである。ミュンスター(*南西部)のある湖に二つの島があったと言う。一つの島には死が決して立ち入ることができなかったが、そこには老いと病、人生の倦怠、恐ろしい苦しみの発作がすべてあった。そしてこれらゆえに住民は不死に倦み、もう一つの島を安息の楽園として見るようになった。彼らは暗い水の上へ帆船で乗り出した。彼らは岸に辿りついた。そして安らいだ。

 

この伝説はキリスト教よりも異教徒の精神にはるかに近く、実際は(*不死を手に入れたが不老を手に入れるのを忘れた)ティトノスの神話の別の形に過ぎないが、ストア派の代表者たちが死をどのように見なしていたかを非常に忠実に表している。魂の将来の運命に関する古代の哲学者の判断には、多くの見解や確信の相違があったが、死を単に自然の休息と見なし、それに伴う恐怖を想像力の病弊によるものとすることでは一致している。死は現在の私たちを苦しめない唯一の悪である、と彼らは言った。私たちが存在する間は死はなく、死が訪れると私たちは存在しなくなる。死を単に生の後にあるものとするのは間違った考えであって、それは生の前にあるものでもある。それは私たちが生まれる前と同じになることである。消された蝋燭は火をつける前と同じ状態なのであり、死んだ人は生まれていない人と同じ状態なのである。死はすべての悲しみの終着点である。死は幸福を保証し、苦しみを終わらせる。それは奴隷を残酷な主人から解放し、牢屋の扉を開け、痛みの不安を鎮め、貧しさとの戦いを終わらせる。それは自然の最後にして最高の恩恵である。人間をすべての心配事から解放するからである。悪くてもそれは私たちが楽しんできた宴の終わりに過ぎない。それは望まれようと、疎んじられようと、呪いでも悪でもなく、単に私たちの存在をその原初の成分に分解だけのするものであって、喜んで従わなければならない私たちの自然の法則なのである。

 

 アカデミアのクラントール(*BC?―275)が創始したとされ、キケロ、プルタルコス、その他のストア派の著作の中で大きな位置を占める「慰めの言葉」という美しい文献の主な話題はこういうものだったのである。キケロはプラトンのすべての学派と同じく、この主題に魂の不滅性についての非常に確固とした不変の言及を追加している。プルタルコスは同じ理論を同じように確信していたが、自身の「慰めの言葉」の中ではそれに地味な地位しか与えていない。またそれは哲学的根拠ではなく、神託の証言とバッカスの秘儀に基づくものだった。この教義はストア派では仄かで不確かな光しか当てられておらず、主題として取り上げられることは滅多にないか、全くなかった。しかしキリスト教の宗教文献から異教の哲学へと目を向ける研究者にとって最も印象深いのは、後者には死の刑罰的性格に関する概念がまったく存在しないことである。ソクラテスによれば、死は生命を消滅させるか、あるいは肉体の束縛から解放するかのどちらかである。前者の場合も死は祝福であり、後者の場合は最大の恩恵である。エピクロスは言った「死は重要なものではないという考え方に慣れよ。すべての善とすべての悪は感情によって成り立つ。そして死が感情の喪失以外の何ものだというのか?」キケロは言った「魂は死後も残る。あるいは死によって滅びる。もし残るなら幸福である。滅びても惨めではない。」セネカは弟の死についてポリュビオスを慰め、このように考えるよう勧めた「もし死者に何らかの感覚があるとすれば、私の弟はいわば人生の牢獄から解放され、ついに自由特権を満喫して、より高いところから自然の驚異と人間のすべての行為を見下ろし、彼が長い間虚しく理解しようとしていた神的な事柄をよりはっきりと見ているだろう。しかし、幸福か無かのどちらかである人物のために、どうして私が苦しまなければならないのだろう。幸福な者の運命を嘆くのは嫉妬であり、実体のない者の運命を嘆くのは狂気である。」

 

 しかし、ギリシャやローマの哲学者たちがこの点において一致していたにもかかわらず、民衆の心には強い反対の流れがあった。ギリシャ語で迷信とは、文字通り神やダイモーンを恐れることを意味する。哲学者たちは、俗人が死後の終わりのない苦しみを恐れて、死について考えることに慄いていると描写することがある。ギリシャにはこのテーマに関する神話が沢山ある。初期のギリシャの壷には、中世のフレスコ画のような地獄の責め苦の場面が描かれることがあった。エピクロス主義が迷信的な恐怖の束縛から人間の心を解放するものとして歓喜をもって迎えられたことは、その軛がいかに苛酷なものであったかを示している。ルクレティウスの詩の中に、キケロや他のラテン系モラリストの一節の中に時折、とりわけプルタルコスの論文「迷信について」の中に、共和制後期から帝国期にかけてもこうした恐怖が民衆に深い影響を与えていたことが窺える。迷信を打ち砕くことは哲学の最高の役割であるとされた。プルタルコスはそれを神に対する最悪の中傷であり、無神論よりも悪質で、不道徳な神話がもたらした悪しき結果であると非難し、別の教訓を与える伝説を喜んで取り上げた。例えばこのような物語である。アルゴスのある祭りのとき、ユノの像を神殿に運ぶはずの馬が止まってしまったので巫女の息子たちが自ら車の軛を引いた。母親は彼らの敬虔さを称賛して、何であれ人間にとって最高の恩恵を施すよう女神に祈った。祈りは叶えられ―彼らは眠り込んで死んでしまった。同じくデルフィのアポロ神殿の建築家たちも、最も良い報酬を選んで与えるよう神に祈った。それに対して神託は七日間を歓楽のうちに過ごすべし、その翌日の夜に報酬を与えようと告げた。彼らも眠ったまま死んでしまった。白鳥はアポロに奉納された。その死に際の歌には予言的な力があると信じられていたからである。スペインのケルト人は寺院を建て、死を称える賛美歌を歌った。善良な人間が自分の人生を振り返るとき、それを恥じることなく、積極的な満足感を持って眺めることができること、あるいは英雄的な死に対する人間の敬意は創造主の意思の予測であることに疑問を呈した古代の哲学者はいなかった。ソクラテスや古代の多くの賢人たちの最期に顕著だった平穏な勇気、あらゆる後悔の念の完全な欠如はこの確信に起因するものであろう。宗教の歴史の中で、この点における信仰心の性格の根本的な変化ほど驚くべき事実は他にない。ギリシャの七賢人の一人、キロン(*BC7―6世紀)はその生涯の終わりに弟子たちを自分の周りに集めた。そして自分の長い人生の中で、死に際して悲しむべき行いが一つしか思い出せないことを喜んだ。それは複雑なジレンマの中で、友人への愛が彼の正義感を少しばかり曖昧にしてしまったことだった。ティトゥス(*五賢帝の一人)は死の床で自分を責めるような行いはたった一つしか思い出せないと宣言した。(*それが何なのかは明かされなかった)アントニヌス・ピウス帝(*在位AD138―161)が生きていた最後の夜、護民官がその夜の合い言葉を尋ねに来た。瀕死の皇帝は「平常心」という言葉を与えた。ユリアヌスは消えゆく信仰の最後の偉大な代表者であり、同じ威厳ある系統を受け継いでいた。怒れる司祭たちの呪いと彼が愛した大義の差し迫った破滅の中で、彼は自分の徳を自覚しながら穏やかに死んだのである。古代が記録する最も最も恐れを知らない彼の死は、新しく生じた教義に対する哲学的異教徒の最後の抗議だった。

 

 ある論者たちは、古代の哲学者がキリスト教倫理を先取りしていた多くの点を示す際に、キリスト教が単なる異教の最高の教えの発展形、あるいは権威ある確認であるかのように、あるいはそれが追加したものは少なくとも異教世界の最良の純粋な精神がそれを知っていれば喜んで受け入れただろう性質のものであるかのように表現するのが通例である。この考え方は多くのプロテスタントの教えに当てはめるなら多くの真実を含んでいるが、初期キリスト教会や中世のカトリックの教えに当てはめるなら著しく誇張されているか、完全な間違いである。哲学者たちが最も重要視したテーマについて、彼らの一致した結論はカトリシズムの教えの極端なアンチテーゼだった。哲学者たちは死は「法則であって罰ではない」と教えた。神父たちは死はアダムの罪がこの世にもたらした罰であり、それが有害な植物の出現や物質界のあらゆる異変の原因でもあり、時には太陽光の減弱さえも引き起こすと主張した。前者は死は苦しみの終わりであると説いた。彼らは肉体が灰になった人々にさらに物理的な害悪が待ち受けているという考えを愚かさの極みと嘲笑した。そして彼らは自ら信じる通り、迷信的な恐怖の最終的な消滅が近づいていることを力強い雄弁を振るって語った。後者は人類の大多数にとって、死は果てしなく続く耐え難い拷問の始まりに過ぎないと説いた―その前では地上の最もひどい責め苦さえ取るに足りないものになるほどの拷問―どのような勇気も立ち向かうことのできない拷問―不死の存在以外には耐えられない拷問である。前者は人間をその意志が罪を犯すまでは純粋無垢な存在とし、後者は生まれた瞬間から罪の宣告を受けた存在とする。前者の偉大な論者(*プルタルコス)は言った「幼くして死んだ子供のために葬儀の犠牲を捧げることはなく、大人の葬儀で行われる儀式もその墓で行われることはない。幼児には地上や現世への愛着がないと信じられているからである。…より良い生活、より幸せな住処へと旅立った純粋な魂を嘆くことは不信心であるがゆえに法は彼らを記念することを禁じるのである。」初期キリスト教神学の著名な唱道者(*アウグスティヌス)は言った「キリストの秘跡を受けずに死んだ幼児はキリストのうちに生き返ると言う者は、使徒の教えに反すると同時に、教会全体を非難するものである。…そしてキリストのうちに生き返らない者は使徒が語る’一人の人間が犯したために、すべての人間に宣告されるようになった罪’の宣告を受けなければならない。全キリスト教徒が信じている通り、幼児は生まれながらにしてこの罪に責任があるのである。」一方の党派は人間は自らの徳によって、それのみによって神に受け入れられるのであって、あらゆる犠牲、儀式、形式は無意味であり、神の真の崇拝は神の善を認識し模倣することであると宣言し、その基礎を人間の道徳的性質に置こうと努めた。もう一方の党派によれば、教会の教えを盲目的に信じ、教会が命じる儀式を正しく守らなければ、人間の徳の最も英雄的な努力も永遠の断罪の宣告を回避するには不十分である。哲学者たちは一致して神の怒りと復讐、そしてその手による来世の拷問を否定し、司祭たちは反対意見を同様に非難されるべきものと考えていた。

 

 これらは古代の哲学の基本原理に関わるものであり、根本的な相違点である。異教徒の哲学者の主な目的は想像力が死の周囲に投げかけた恐怖を払拭することであり、この最後の恐怖の原因を消し去ることによって人間の自由特権を確保することだった。カトリックの司祭たちの主な目的は死それ自体をできるだけ忌まわしく、恐ろしいものとし、その恐怖からの脱出は彼らの支配に完全に服従しなければ期待できないとすることによって、死を政治の道具に変えることだった。踊ったり警告したりする骸骨、その他の死の忌まわしい陰気な安らぎのないイメージを増殖させ、火葬を土葬に置き換え、腐敗のおぞましさに想像力を集中させ、とりわけ不可視の世界に悪魔の幻影や耐え難い拷問を登場させることによって、カトリック教会は死それ自体を言いようもなく恐ろしいものにし、それによって死が人間に与える慰めに対抗することに成功したのである。伝説、儀式、芸術、教義、すべてがこの目的のために共謀した。その奇跡の歴史はその成功の明白な証拠である。迷信の大半は二つの中心の周りに群がっていた―死への恐怖と、人生のあらゆる現象は特別な霊的介入の結果であるという信仰である。古代人の迷信はたいてい後者の種類のものだった。占い、予言、戦争への介入、儀式を怠ったことの報いである不思議な出来事、国家や支配者の運勢における重大な出来事などは通常こうした形をとっていた。中世ではこうした迷信は非常に一般的だったが、最も顕著な迷信は煉獄や地獄の幻影、目に見える悪魔との戦い、あるいは悪魔の仕業という形をとっていた。暗闇には言うことを聞かない子供をさらうお化けがいっぱいいると信じ込ませて子供を支配する母親たちのように、また大人でも完全に解消することのできない観念の連合を作り出すことにしばしば成功する人物のように、カトリックの司祭たちは自らの力の基礎をこの弱点に置くことを決意していた。そして彼らは教育、文学、芸術に対する絶対的支配を長く続けることで、古代哲学の教えを完全に覆し、死の恐怖を何世紀にも渡って空想上の悪夢にすることに成功したのである。

 

しかしこの状況には別の側面もある。最良の異教徒が死に対して抱いていた漠然とした不安は教会の教えの前に消え去った。そしてしばしば希望に満ちた狂喜に取って代わられたが、後に煉獄の教義がこれを鎮めることに大きく貢献した。しかしカトリックの死に対する考え方の正当性や、死が人間の幸福に及ぼす影響についてどう考えるかは別として、それが異教徒の哲学者のそれと根本的に違っていることは明らかである。人間は不完全であるばかりでなく堕落した存在であり、死はその罪に対する罰である、というのは人類にとって極めて新しい教義だった。そしてそれは世界の道徳史に最も重大な性格を持った影響力を及ぼしたのである。

 

 古典的な死の概念とカトリックの死の概念との大きな乖離は、それぞれの体系の自殺に対する態度に非常にはっきりと現れている。これはおそらく一方の古代、とくにローマのストア派の教えと、他方のほとんどすべての近代のモラリストの教えのあらゆる対照の中で、もっとも顕著なものである。確かに古代人はその行為に決して全会一致で賛成していたわけではない。古代の最も賢明な言葉の多くを語っているピタゴラスは「指揮官、すなわち神の命令なしに、人生の守備隊や駐屯地を離れること」を禁じたと言われている。プラトンも同様のことを言ったが、法律がそれを必要とする場合、また人が耐え難い災難に見舞われた場合、あるいは貧困のどん底に沈んだ場合には自殺を認めている。アリストテレスは自殺は国家を傷つけることになるため、市民的な根拠からこれを非難した。ギリシャの自殺者の名簿は長くはないが、そこにはゼノンやクレアンテスのような有名な名前がある。自殺はより重要な位置を占めていたローマでも、その合法性は決して公理とは受け入れられておらず、レグルスの物語は、それが歴史であれ伝説であれ、かつて(*自殺による逃避ではなく)苦痛に耐えるのが最高の理想だったことを示している。ウェルギリウスは自殺者の来世を陰鬱な色調で描いている。キケロはピタゴラスの理論を強く主張したが、カトー(*小、マルクス・ポルキウス、ウティケンシス、BC95―46)の自殺は称賛している。アプレイウス(*AD124―170、ルキウス)はプラトンの哲学を解説して「賢者は神の意志によらない限り肉体を捨てることはない。」と教えた。カエサルやオウィディウスなどは、極度の苦痛の中では生を軽んじることは容易であり、真の勇気はそれに耐えることであると主張した。ストア派には、人は義務から逃れることはできないという信念と、すべての人は自分の命を処分する権利を持っているという信念が共存していた。セネカは自殺を強く擁護したが、それを悪いと考える者もいたことを認め、彼自身も弟子たちの間に生じた「自殺への情熱」と呼ばれるものを和らげようとした。セネカは自殺を強く擁護したが、それを悪いと考える者もいたことを認め、彼自身も弟子たちの間に生じた「自殺への情熱」と呼ばれるものを和らげようとした。マルクス・アウレリウスはこの問題について少しばかり揺らいでおり、すべての人は好きなときに命を捨てる権利があると主張したり、人間は神の兵士であり、持ち場を放棄することは犯罪であるというプラトン主義に傾いたりしている。プロティノス(*AD204―270、レバノン生まれ)とポルピュリオス(*AD234―305、エジプト生まれ)は、すべての自殺に強く反対した。

 

 しかしこのような意見があったにしても、古代の自殺観が私たちのものと広範かつ強力に対立していることに疑問の余地はないだろう。哲学のほとんどの学派では一般的に自殺は是認されており、自殺を非難する学派でさえ、自殺を現在のような極度の大罪とすることはなかったようである。このことは第一に古代の死に対する観念のためである。また社会が自殺を容認するようになると、その行為は不名誉なものではなくなり、その実際の犯罪性の多くを失うことを忘れてはならない。自殺が現代において遺族にもたらす汚名と苦痛だけが自殺者の罪のすべてではない(*自殺自体が罪である)と最も固く信じている人たちも、それらが自殺の罪をとても重いものにしているということは容易に認めるだろう。古代にはそれらが存在しなかった。エピクロスは「死が訪れることを好むか、それとも自ら死に向かうか、よく考えること」を人に勧めた。弟子の中でこの学派の著名な詩人ルクレティウスは自らの手で死に、暴君殺しのカッシウス(*ガイウス、ロンギヌス、BC86―42、カエサル暗殺の首謀者)、キケロの友人アッティカス(*ティトゥス・ポンポニウス、BC110―32)、放蕩者ペトロニウス、哲学者ディオドロス(*クロノス?、BC?―284)も同様だった。プリニウスは人間が墓へと飛び去る力をもっていることについて、人間の運命は少なくともこの点では神の運命より優れていると述べた。そして疲れた人物が迅速かつ無痛で死ねるような薬草で世界が満たされていることは神意の賜物の最大の証拠の一つであると指摘した。キケロについて少し触れただけで私たちの目の前に現れる、最も印象的な人物の一人は古代の人々に「死の弁士」と呼ばれたヘゲシアス(*BC4―3世紀)である。快楽の追求を理性的存在の唯一の目的とするキュレネ派の著名なメンバーである彼は、人生は不安に満ち、快楽ははかなく、不純物であり、人間にとって最も幸せな運命は死であると説いた。彼の雄弁の力、彼が墓の周辺に放った強烈な魅力は弟子たちにその理論の結果を歓喜とともに受け入れさせ、多くの人々が自殺によって世の中の悩みから解放された。その伝染力は非常に大きく、プトレマイオスが哲学者をアレクサンドリアから追放せざるを得なかったほどだったと言われている。

 

 しかし、自殺が最も脚光を浴び、その哲学が最も十分に練り上げられたのは、ローマ帝国とローマのストア派の間でのことだった。クルティウス(*マルクス、BC362没、地震のあとフォロ・ロマーノに巨大な深い穴が空いた。卜占官は神々がローマの最も貴重な財産を要求していると告げた。彼はローマ人の武器と勇気こそがそれである、として完全武装して穴に飛び込み、ローマは救われた。)やデキウスのそれのように、早い時期から自己を犠牲にすることは宗教的儀式とみなされていた。それはよく示唆されているようにおそらく人身御供の習慣の名残であって、異教の終焉に向かって多くの力が同じ方向へと働いた。前述のようにストア派の理想になり、その劇的な自殺が彼らの雄弁の人気のテーマになったカトーの例、剣闘士のショーが大変盛んになったことで生じた死に対する冷淡さ、同胞を殺すよりも、征服者の快楽に奉仕するよりも、自分の槍を自分の首に突き刺すか、自由に至る他のもっと恐ろしい道を見つけた蛮族の捕虜たちの多くの例、政治犯に自分の刑を執行させる習慣、そして何よりもカエサルの気まぐれで残虐な専制によって自殺が異常なまでに注目を集めるようになったのである。ネロの治世に、セネカが虐げられた者の唯一の避難所、よろめく心の最後の防波堤として自殺にしがみついた情熱的な喜びほど感動的なものはないだろう。「人生を罰でなくするもの、運命のしかめっ面の下に立ち、自分の心を揺らすことなく、それに自己を支配させることができるものは死のみである。私には頼れる存在がいる。目の前には様々な形の十字架が見える…拷問台や鞭、あらゆる手足や急所に使う拷問道具も見えるが、死も見える。それは私の野蛮な敵や高慢な同胞の向こう側に立っている。私がほんの一歩進んで自由特権を手にすることができれば、苦役の辛さは消え去る。人生のあらゆる危害に対して、私は死という避難場所を持っているのである。」「どこを見ても悪の終わりがある。あそこに大きく口を開けた絶壁が見える―そこから自由特権へと降りて行けるだろう。海、川、井戸―その底に自由特権があるのが見えるだろう…自由への道を探すのか?―身体中の血管に見つけることができるだろう。」「拷問による死と素朴で心地よい死のどちらかを選べるのなら、なぜ私は後者を選んではいけないのだろうか。私が航海する船と住む家を選ぶように、私は生を去る際の死を選ぶだろう…死ほど私たちが望みどおりに振舞うべき事柄はない。剣であれ、縄であれ、血管に忍び入る毒であれ、自分の衝動のままに生を離れ、自分の道を進み、隷属の鎖を断ち切るのだ。人はその生において他人の称賛を求めるべきであり、その死は自分自身にのみ関わるものである。それは彼をもっとも喜ばせることである…人生には一つの入り口と多くの出口があること、永遠の法が定める最良のものはこれである。私はすべての苦悩から解放され、すべての束縛を振り払うことができるのに、なぜ病気の苦しみや人間の暴虐に耐えなければならないのか。人生が悪しきものでないのはこの理由によるのであり、またこの理由のみによるのである―だれにも生きる義務などない。人の運命は幸福なものである。なぜなら不幸であり続けることは自分の選択だからである。生きていて楽しいと思うなら生きれば良い。そうでないなら来たところへ帰る権利がある。」

 

 これらの引用は非常に多くの中からいくつか選んだものに過ぎないが、ローマのストア派の最も影響力のある指導者が自殺を擁護した情熱を十分に示すものである。一般的な問題として法律は自殺を権利として認めていたが、ある時期から二つのわずかな制限が課されるようになった。政治的犯罪で告発された者の多くは遺体を晒される不名誉と財産の没収を防ぐため、裁判前に自殺することが慣例となっていたが、ドミティアヌスは被告の自殺はその判決と同じ結果を招くべきである、と定めてこの方策を封じた。後にハドリアヌス帝(*在位AD117―138)はローマ兵の自殺を脱走と同様に扱った。こうした例外を除いては、その自由特権は絶対的なものだったと思われ、その行為は最も多様な動機のもとに行われた。二度目の内乱の原因になるのを避けるために自殺したと言われているオト帝(*在位AD69)は、カトーの自殺に匹敵するほどの壮大な称賛を浴びた。ダキア戦争では敵がローマの名将ロンギヌスを捕らえ、トラヤヌス帝(*在位AD98―117)から降伏の条件を引き出そうとしたが、ロンギヌスは毒を飲んで皇帝を窮地から解放した。オトの死後、兵士の一部は悲しみと敬愛のあまり、彼の亡骸の前で自殺し、またアグリッピナ(*小、AD15―59)の解放奴隷も皇后の葬儀の際に自殺した。共和制の崩壊前、戦車競技においてある党派の熱狂的な一員が、お気に入りの御者の死体が焼かれている薪の上に身を投げ、炎の中で死んでしまった。あるローマ人は幸運に恵まれ、君主の寵愛を受けていたがティベリウス帝(*在位AD14―37)の治世に自害した。帝国の犯罪を目の当たりにすることに耐えられなかったのである。また他の者は不治の病に冒されていたが、少なくとも自由に死ねるようにとドミティアヌスの死まで自殺を延期し、暴君が暗殺されると機嫌よく墓へ急いだ。キニュコス派のペレグリヌス(*プロテウス、BC?―165)は、人生に疲れたので決めた日に旅立つと宣言し、大勢の参列者の前で火葬の薪に登った。しかし多くの場合、死は「病気の最後の医者」であって、自殺は耐えがたい苦痛からの正当な救済であると考えられていた。エピクテトスは言った。「何にもまして、扉が開いていることを忘れてはならない。遊んでいる少年たちよりも臆病になってはならない。少年たちは遊びが楽しくなくなると、もう遊ばないと宣言する。あなたがたもあらゆることがあなたがたに重くのしかかり始めたら退くがいい。しかし留まるのなら不平を言ってはならない。」セネカは老いの極みを待っている者は「臆病者とかけ離れた存在」ではない、「瓶の底の澱まで飲み干す者は当然ワインの中毒者と見なされるように」と断言した。そして付け加えた「老齢が私の良い部分を残しているなら私はそれを手放さないだろう。しかし、もしそれが私の心を揺さぶり始め、その能力を一つずつ消し去り、私に生命ではなく息を残しているだけなら、私は腐った、ぐらつく建物から離れるだろう。私は病気が治るかもしれず、私の心に障害を残さないのなら、死によって病から逃れることはないだろう。私は痛みのために自分自身に手を下さない、なぜならそのように死ぬことは征服されることだからである。しかし、もし私が助かる望みなしに苦しまなければならないと知ったなら、痛みそのものに対する恐れのためではなく、それが私の生きる目的のすべてを妨げるがゆえに私は旅立つだろう。」ムソニアスは言った「家賃を支払われない家主がドアを引き抜き、垂木を取り去り井戸を埋めるように、私はこの小さな体から追い出されるようだ。私にそれを与えた自然が、目と耳と手と足を一つずつ取り去っていく。だから私はこれ以上長居せず、宴会を辞するように明るく出て行こう。」

 

 自殺は安楽死であり、病による苦しみの短縮であり、老いの衰えに対する保証であるという考え方は哲学的な論説にとどまらなかった。これが頻繁に実践されたことを示す証拠がたくさんある。このように自分の人生を短縮した人々の中に最後のラテン詩人の一人であるシリウス・イタリクス(*AD26―101)がいる。小プリニウスは友人が病に倒れたとき、冷静かつ慎重に自分の進むべき道を決めたことに対して最も熱い称賛の言葉を述べている。彼は病気が危険で長引くだけなら友人の希望通りに自重し、もし望みがないなら自分の手で死のうと決心したのである。彼はローマ人らしい穏やかな勇気をもってこの処置の妥当性を説き、医師たちの会議を招集して、どちらの運命にも中立な精神で冷静に彼らの宣告を待った。同じ論者は恐ろしい病気にかかって体中がただれた塊のようになってしまった男のことに言及している。彼の妻はこの病気が不治の病であることを確信して夫にその苦しみを短くするよう勧め、彼を励ましてその試みへと奮い立たせ、彼と共に墓に入ることを自分の特権と主張したのである。夫と妻は互いに結び合って湖に投身した。セネカは手紙の中でローマの自殺者の死の床についての詳しい描写を残している。哲学の教えを長い間嘲笑してきたが、ついには転向者の情熱とともに哲学を受け入れた、驚くべき能力と非常に真面目な性格の青年トゥリウス・マルセリヌスは、不治ではないものの長引く重病に悩まされ、ついに自殺を決意した。彼は周囲に友人を集めた。そしてその多くは彼に生き続けるよう懇願した。しかしその中に一人のストア派の哲学者がいて、セネカが言うところの最も高貴な言葉で彼に語りかけた。彼は、あたかも生きていることが非常に重要な問題であるかのように、自分が決めようとしている問題を重く見すぎないように、と諭した。そして、生命は私たちも奴隷や動物も同様に持っているものだが、本当に価値ある高貴な死はそうではないと主張し、自殺を薦めて論を結んだ。マルセリヌスは自ら望んだとおりの忠告を喜んで受け入れた。友人の助言に従って、彼は忠実な奴隷たちに贈り物を配り、死別が近づいていることを慰め、三日間一切の食事を断ち、ついに体力が完全に尽きると、温かい風呂に入り、静かに息を引き取った。彼の最後の息には人生を退く際の満足感が表れていた。

 

 自殺の理論はまさにローマのストア派の最高到達点だった。哲学者の誇り高く、自立した、確固たる性格は、苦しみや絶望の極限から逃れるための確実な手段があると感じたときにだけ維持することができたのである。徳は単なる利害関係から生まれるものではない。しかし、いまだかつて義務の理想とともに幸福の理想を提示しない偉大な体系が栄えたことはない。ストア派は人々に少しも望まず、何も恐れないことを教えた。それは死を積極的な至福への道として鮮やかな色で飾り立てなかった。しかし苦しみを終わらせるものとして、死をからあらゆる恐怖を取り除くよう努めた。運命の嵐からの避難所、老いと苦痛からの迅速な脱出手段を人が見つけたとき、人生の苦味は大きく取り除かれた。刑罰というより、むしろ救済とみなされるようになったとき、死は恐ろしいものではなくなった。ストア派の体系において生と死は同じ基調にあった。人間の徳の神格化、罪の観念の完全な欠如、屈辱を最悪の汚点と見なす誇り高く頑固な意志が各個人に等しく見られた。その種のタイプはそれ自身、完璧なものだった。最高点にまで伸長し、最も高貴な目的に向けられたときの、人間の自尊心に伴うすべての徳と威厳がここに示されたのである。謙虚さや謙遜に伴うものはすべて欠けていた。

 

 私は調査のこの段階で少し立ち止まって、先の議論の主要なステップを簡単に振り返ってみたい。そうすることによって、多くの詳細や引用が時として不明瞭にしていた関連性を明確に浮かび上がらせたいと思っている。そうすることでストイシズムがどのような点で既存の社会が生み出した結果であり、どのような点で有効な力だったか、その影響がどの程度キリスト教倫理への道を準備し、どの程度それと対立していたかが一目瞭然になるだろう。

 

 他の人々と同様に、ローマ人の間にも徳の性質と承認に関するはっきりした知的観念が形成される前に、非常に明確な道徳的卓越性のタイプが生まれていたことを私たちは見てきた。人の性格は主にその営みに支配されるものである。そして共和国は完全に軍事的成功を目指して組織されていたために、軍事社会のあらゆる徳と悪徳を持っていたのである。またいつの時代でもそうだが、特に古代の戦乱の状況下では軍隊生活は愛情豊かな徳には非常に不利で、英雄的な徳には非常に有利なことを私たちは見てきた。ローマ人は武力に非常に高い価値を置いていた。常に他者を苦しめることに携わっているため、その自然な、ありのままの慈悲心は非常に低いものだった。彼らの道徳的感情はほとんど政治に制限されており、自分の階級、自分の国、そして同盟国に対してのみ、さまざまな強さで働いていた。不屈の誇りがその性格の最も卓越した要素だった。実際、戦勝国の軍隊が謙虚だったり、遠慮がちだったり、侮辱に寛容だったり、二番手に甘んじたりするなど、ほとんど言葉の矛盾である。外国人との関係における愛国の精神は、統治者との関係における政治的自由特権の精神に似た、不断の油断ない自己主張の精神である。そしてどちらも高い道徳性と大きな献身に非常に合致している。しかし、その影響が強く浸透している社会で真の謙虚さの美点が栄えることはほとんど見られない。ローマ人の目に最も好ましく映ったのは、単純で、強力で、重厚だが、木目の粗い卓越性だった。動機の機微、感覚の洗練、感受性の細やかさなどは、ほとんど評価されることがなかった。

 

 これは情勢の暗い面である。一方、傭兵的な考え方を持たず、素晴らしい献身の実例を他のどの国よりも頻繁に示したそのメンバーたちが作り上げた国民性は早くから英雄的なレベルに達していた。絶えず死に直面していたため、勇気をもってそれに立ち向かうことが徳の最大の試練だった。人々は素朴で、質素で、高潔で、勤勉な習慣を持っていた。社会のあらゆる年齢と階級に厳しい規律が浸透しており、意志はほとんど比類がないほどに鍛えられ、情熱を抑え、苦しみや対立に耐え、不人気な目的に向かって着実に、恐れを知らずに進んでゆくよう鍛えられていたのである。義務感は非常に広く行き渡っていた。そして都市の利益に対する深い愛着が多くの徳を生み出した。

 

 ローマ人の知的教養が哲学的な議論を生み、多くのギリシャ人教授が部分的に政治的な出来事、部分的にスキピオ・エミリアヌス(*BC2世紀のローマの執政官)の庇護に引きつけられてローマにやってきて、ゼノンやエピクロスの大学派や、その周辺の多くの小学派が彼らの信条を持ち込んだ時代に、ローマ人が到達していた卓越性のタイプはこういうものだった。エピクロス主義は既存の徳のタイプとは本質的に対立するものだったため、大きく広がりはしたが、徳の学派の地位には到達しなかった。ロードス島のパナティウスや、その後すぐにシリアのポシドニウス(*BC135―51、パナティウスの弟子)によって教えられたストア派は教養ある階級の真の宗教となった。それは徳の原理を提供し、当時の最も高貴な文学を彩り、道徳的熱意のすべての発展を導いたのである

 

 ストア派の倫理体系は、最も高い意味で独立した道徳の体系だった。私たちの理性が自然の確かな法を明かしてくれること、そして賞罰、幸不幸といったあらゆる動機とは無関係にこの法に従おうとする願望は可能かつ十分な徳の動機になる、というのがその教えだった。またそれは最も高い意味において規律の体系でもあった。理性の完全な制御の下に行動する意志だけが唯一の徳の原理であり、人間の存在の感情的な部分はすべて病的なものである、とそれは教えていた。したがって意志に尊厳を与えて強化し、欲望を卑しいものとして抑圧するというのがその全体的な傾向だった。さらに人間は極めて高い道徳的卓越性に到達できること、現世の向こうに恐れるべきものはまったくないこと、人格の尊厳と一貫性のためには狼狽せずに死を見つめる必要があること、望むなら死を早める権利があることが説かれていた。

 

 この倫理体系が、彼らの置かれた環境が作り上げた、ローマ人の性格に完全に合致していたことは容易に理解できる。また環境の力によって最初にそれが優位に立ったこと、それが生み出した意志のエネルギーが、変化してしまった社会の風潮に対する強力な抵抗を可能にしたであろうことも明らかである。このことはローマのストア派の歴史に顕著に見られた。一方の帝国の強烈であからさまな堕落を、他方の時流のまさに中心でほとんどの著名なストア派哲学者たちが占めていた高い地位を思うなら、セネカとその学派の著作の厳かな純粋さはおそらく歴史の中のユニークな事実だろう。後の時代にも知的な輝きと全体的な堕落が同時に起こったことは何度もあったが、このような道徳的現象は再現されなかった。レオ10世の時代にも、フランスの摂政時代にも、ルイ15世の時代にも、イタリアやパリの文明の中心に高い道徳的な教えを見つけることはできない。これらの時代の真の指導者はドイツやスイスの辺鄙な町に現れた宗教改革者たち、あるいはジュネーブ近郊の閑居から出てきて、まばゆいばかりのほとんど比類のない雄弁の輝きと、しばしば熱狂的、逆説的、非実践的ではあっても、超越的な威厳と最も陶酔的な純粋さと美しさにあふれた道徳教育でヨーロッパを魅了した病める隠遁者だった。堕落した社会ではその中心に育った最高の道徳的指導者でさえ、周囲の悪徳の伝染を自覚していた。彼らの理想は堕落し、厳格さは緩み、訴えかけるのは浅ましく卑俗な動機であり、人格評価は動揺する不確かなもので、教えのすべては妥協的なものだった。しかし、古代ローマで徳の指導者たちが周囲の腐敗に対して弱々しい行動しか取らなかったとしても、少なくとも彼ら自身の信条は汚れないものだった。カエサルの光り輝く才能は敗れたカトーの道徳的な威厳を覆い隠すことはなかったし、内戦や政治的動揺の劇的な変動の中でも道徳的卓越性の最高権威は決して忘れられることはなかった。リウィウス(*ティトゥス、BC1世紀の歴史家)の雄弁は主に徳の描写に使われ、タキトゥスの雄弁は悪徳の烙印を押すのに使われた。ストア派は周囲の堕落のために自分たちの水準を下げることはなかった。そして彼らの教えの中になんらかの広く愛されていた楽しみを探すとすれば、それは墓の静謐さについてつぶさに論じる情熱の激しさの中にしか見つけることができない。

 

 しかし道徳体系は悪徳に対する防波堤になるだけでは十分ではなく、文明の進歩が生み出す道徳的共感の伸張と洗練を認められなければならない。悪に対する敵意が剛直であることは、決して善の概念を拡大する能力を意味しない。ローマにストア派の信条が輸入されてからキリスト教が台頭するまでの間に、政治的変化によって道徳観念は極めて重要な変容を遂げた。そして新しい要素がどこまでストア派の理想と合体するか、またそれが本質的に異なるタイプの理想にどこまで取って代わる傾向があるかが問題になった。この政治と道徳観念の変化は二重構造になっていたが、非常に密接に関連していた。つまり英雄的資質とは異なる、情け深い、すなわち愛情豊かな資質がますます注目されるようになり、そして最初はある階級や民族だけを対象としていた道徳的共感が、多くの人工的障壁の破壊によって、ついにはすべての階級とすべての民族を包むに至ったのである。この変化の原因―キリスト教の勝利の最も重要な前兆―は非常に複雑で数が多いが、この動きの概要を数ページで明らかにすることは十分に可能だろうと私は思っている。

 

 それはギリシャ征服の結果としてギリシャ文明とラテン文明が統合されたとき、ローマ帝国で生まれたものである。ギリシャ人の一般的な慈愛は常にローマ人のそれとは比較にならないほど大きなものだった。彼らの芸術と文学が持つ洗練の力、剣闘士の競技を楽しまないこと、そして征服欲が比較的少なかったことが彼らを半野蛮な征服者たちから大きく隔てており、その理想とする人格に独特の柔和さと優しさを与えていたのである。ペリクレス(*BC495―429、アテネの政治家、将軍)は死の床に集まった友人たちが、彼はもう意識がないものと思いながら、その素晴らしい功績を語っていたとき、自分が名声を得るための最高の資格を彼らは忘れていると告げた―「私のために喪服を着たアテネ人はまだいない。」自分を追放した者たちに危険や苦しみを与えて自分を呼び戻すことを決して強要しないように、と神々に祈ったアリステイデス(*BC530―468、同)、不当に断罪されたとき、息子に決して自分の死の復讐をしないよう諭したフォーキオン(*BC402―318、同)、これらはすべてローマの影響が生み出したものよりも穏やかな性格を示している。エウリピデス(*BC480―406、三大悲劇詩人の一人)の劇は古代世界にとって、より穏やかな徳の最高の美しさを最初に大きく啓示したものだった。アテネで栄えた多くの祭祀の中でひときわ目立ち、他のどの祭壇よりも尊ばれた祭壇があった。周囲には信者たちが群れていたが、そこには神の像も教義のシンボルもなかった。それは憐れみ(*Pity)に捧げられたものだった。そして慈悲(*Mercy)の至高の尊厳を人類で最初に主張したものとして古代世界全体で大いに尊ばれた。

 

 ギリシャの精神は非常に早い時期からその慈愛において際立っていたが、当初はローマの精神と同様にコスモポリタニズムからは程遠いものだった。プリニキウス(*BC6―5世紀、ギリシャ悲劇作家)が「ミレトス(*小アジア南西岸)の包囲」でギリシャ人に対する野蛮人の勝利を描いたため罰金を課せられたことはよく知られている。彼の後継者であるエスキルス(*BC525―456)はペルシャ王と廷臣たちに彼ら自身を野蛮人と言わせ続けるならば、あらゆる演出上の妥当性が侵されてしまうと考えた。ソクラテスは確かに自らを世界市民と宣言した。しかしアリストテレスはギリシャ人は野蛮人に対して野獣に負う以上の義務を負わないと説いた。また自分の愛は自分の国を越えてギリシャの全ての人々に及ぶ、と宣言した別の哲学者の共感は行き過ぎと思われていた。しかしソクラテスの死後(*BC399)間もなく起こった哲学的議論の溶解と分解(*ゼノンとエピクロスの分裂など?)は、政治的な事件(*BC334、アレクサンドロス東征)にも助けられ、この(*地域的)感情を強力に破壊することになった。ギリシャ哲学をエジプトと結びつける伝統、その後ピュロンやアナクサルコス(*前者は後者の弟子、二人ともアレクサンドロス東征に同行)が傾倒したとされるインド学派への称賛、政治生活への無関心を説くことで一致するキニュコス主義とエピクロス主義の流行、人気の国家宗教の完全な解体、狭い地域感情と優れた知識や成熟した文明の両立の困難がこの変化の知的な原因だった。アレクサンドロス(*3世、BC356―323)がスパルタとアテネの歴史の栄光を世界帝国というビジョンで消し去り、征服した国々に征服者の特権を授け、アレクサンドリアに商業交流と哲学的折衷主義の大きな中心を作り上げたとき、(*ギリシャ精神の)拡大の動きは大きな政治的刺激を受けたのである。

 

 したがってローマでギリシャの思想が広まるならば、狭い国民感覚が二重の方法で消失することは明らかである。それはローマ人ではない人々、そしてすでに地域感情から大きく解放されていた人々の台頭である。ギリシャ人が数世紀にわたって素晴らしい文学を持っていた時代にローマ人はそれを持たなかったこと、文学的な目的のためにラテン語はまだあまりにも粗末なものだったため、ローマ人が純粋に軍事的な状態から知的文明圏に浮上した時期にギリシャの思想が台頭したこともまた明らかである。ローマ最古の自国の歴史家であるファビウス・ピクトル(*クィントゥス、BC254―?)とキンキウス・アリメントゥス(*ルキウス、BC200頃活躍)はともにギリシャ語で執筆した。エンニウスの詩やマルクス・カトー(*大カトー)の「起源論」はラテン語の改良と定着に大きく貢献し、その先例はすぐには途絶えなかった。ギリシャ征服の後、ローマの政治的優位とギリシャの知的優位はともに普遍的なものだった。征服した側の人々は先に述べたような影響のために愛国心が大きく損なわれていたが、新しい状況を容易に受け入れ、保守派の激しい努力にもかかわらず、ギリシャの風俗、感情、思想がすぐにすべての階級に浸透し、ローマの生活のあらゆる形を作り上げた。鋭い観察者が気づいたように、大カトーはすべてのギリシャ人哲学者をローマから追放することを望んでいた。小カトーはギリシャの哲学者たちを最も親しい友人とした。ローマの徳を最高に表現していたのはストア派だった。ローマの悪徳はエピクロスの名の下に身を隠していた。シチリアのディオドロス(*BC1世紀)とポリュビオスは、ギリシャ語で初めて世界史の輪郭を描いた。ハリカルナッソスのディオニュシオスはローマの古代を研究した。ギリシャの芸術家とギリシャの建築家が都市に押し寄せたが、前者はローマに影響されて理想を捨て、肖像画を描くようになった。そして後者は高貴なコリント式の柱を粗悪品の混合物へと劣化させてしまった。突如活気を取り戻した劇場は今や全面的にギリシャ人の借り物になっていた。エンニウスとパキュヴィウス(*マルクス、BC220―130)はエウリピデスを模倣し、カエリシウス(*カラクテの、BC50―?)、プラウトゥス(*BC254―184)、テレティウス(*プブリウス、アフェル、BC195―159)、ナエウィス(*グナエウス、BC270―201)は主にメナンドロス(*BC342―291)に傾倒した。ルクレティウスの時代には恋する女性を口説くためにギリシャ語が使われていた。ギリシャ文学を生業とする奴隷には莫大な高値がつき、首都の魅力はアテネ社会の輝かしい人々のほとんどをローマに引き寄せた。

 

 ギリシャの知性と風俗が完全に優位に立つと、昔ながらのローマ人の単純さは消滅し、同時にローマ人の共感は広がっていった。そしてそれと同じくらい強い力が、長い間貴族と平民の間に越えられない壁を築いてきた、貴族的感覚と階級感覚を打ち砕こうとしていた。彼らの長い争いは内戦、ユリウス・カエサルの独裁、そして帝政へと進んだ。そしてこれらの変化が古い境界線の大部分を消し去ったのである。対外戦争は独自の国民的性格を強烈に発展させ、国民の意識を国内の変化から逸らすものであり、通常は保守的精神に好都合である。しかし内戦は本質的に革命的なものである。それはあらゆる階級の壁を乗り越え、エネルギーと才能に最高の褒賞を与えるからである。この真理を示す非常に顕著な、まったく前例のない二つの事例がローマで起こった。ウェンティディウス・バッスス(*BC89―38)はその軍事的手腕とユリウス・カエサル、後にはアントニウスの友情によってラバ追いの地位からローマ軍の指揮官に昇進し、ついには執政官にまで上り詰めた(*BC43)。また紀元前40年頃にスペイン人のコルネリウス・バルブス(*ルキウス、BC1世紀)もこれを成し遂げた。アウグストゥスは最も貴族的な皇帝だったが、独身主義を阻止するため、元老院議員以外のすべての市民に解放奴隷の女性との婚姻を許可した。帝国はいくつかの点で貴族階級の権力にとって明らかに不都合だった。帝国はほとんどの部分において本質的に民主的だった。それは大衆の人気を得ており、貴族と特権の共通の中心だった元老院を崩壊させたのである。新しい専制的な権力はすべての階級に等しく作用し、彼らを平等な隷属状態へと追いやった。皇帝たちは多くの場合、反乱の産物であり、その政策は彼らの出自に支配されていた。彼らの警戒心は多くの貴族を苦しめ、他の貴族は慣習的に行われるようになった公開競技や、公職についていないために駆り立てられた贅沢によって破滅した。そして新たに生まれた存在がすべての相対的重要性を低下させた。富の支配権は新たな場所に移り始めた。皇帝に奨励されたディレータ、すなわち政治的密告者たちは彼らが非難した人物から没収された財産によって豊かになり、大きな影響力を持つようになった。カリグラの治世から数代にわたって最も力を持っていた市民は解放奴隷たちだった。彼らは宮廷の主要な役職を占め、通常は皇帝に対して完全な優位に立っていた。彼らを通さずに嘆願書を提出することはできなかった。皇帝の好意は彼らの手で分配された。時に彼らは皇帝を退位させた。彼らは革命の連続の中でもその権力を揺るぎなく保持した。富でも、権力でも、取り巻きの数でも、生前の宮殿と死後の墓の豪華さでも、彼らは他のすべての人々を凌駕していた。そして初期のローマ貴族たちが知り合いになることを恥としただろう人々は、彼らの好意を得るための最も誇り高い闘いを見たのだった。

 

 こうした影響に加えて、似たような他の多くの影響も見ることができるだろう。グラックス(*BC2世紀に護民官となった政治家兄弟)が提唱した植民地政策はナルボンヌ(*フランス南西海岸部)で実行された。そしてユリウス・カエサルの後期にはこの属州のガリア人が元老院に議席を獲得し、ローマ人を驚かせ反発させた。帝国が広大だったため、多数の軍隊が遠い属州に長きにわたって駐留する必要があった。そうして身についた外国の習慣がローマ軍の排他的な感覚の破壊を開始し、その後の蛮族の入隊でそれは完了した。公開競技、膨大な贅沢、権力・富・才能の集中は、ローマを莫大で絶え間ない見知らぬ人々の集まりの中心地、帝国のあらゆる哲学と宗教の焦点とした。その住民はすぐに、あらゆる国民、習慣、言語、信条、あらゆる程度の徳と悪徳、洗練と野蛮、懐疑と軽信が混ざり合い影響し合う、定まった形のない、異質な成分からなる集団と化した。旅行は十九世紀以前のどの時代よりも容易に、そしておそらく頻繁に行われるようになった。文明世界全体が一つのルールに従ったことで、移動の主な障害は取り除かれた。近代国家がほとんど匹敵できず、決して越えることのできない見事な道路が全帝国に張り巡らされ、早馬のリレーによって旅行者は驚くほどの速さで進むことができるようになった。カルタゴの艦隊が破壊された後、ほとんど完全に海賊の支配下に置かれていた海は、ポンペイウス(*BC106―48)によって掃討された。地中海のヨーロッパの海岸とアレクサンドリアの港は船でごった返していた。ローマ人は政治、軍事、商業の所用で、あるいは健康や知識、楽しみを求めて帝国の全域を行き交った。コモ(*北イタリア)やテンペ(*ギリシャ中部東岸近くの渓谷)の魅惑的な美しさ、バイア(*ナポリ近郊)やコリント(*ペロポネソス半島基部)の豪華な風俗、アレクサンドリアの学校、商業、気候、神殿、シチリアの過ごしやすい冬、アテネやナイルの芸術的な驚異や歴史的な回想、ガリアの大きな植民地の利益が何千ものローマ人を魅了した。ローマの贅沢は最果ての地の産物を必要とし、円形闘技場のための動物の需要がローマの事業を最も荒廃した砂漠にまで拡大した。首都はさまざまな信条に寛容だったため、この都市はすぐに世界の縮図になった。ほとんどあらゆる種類のいんちきや信仰が野放しにされ、大勢の改宗者を誇っていた。外国の思想があらゆる形で台頭してきた。ローマの知的発展を主導してきたギリシャはハドリアヌスの好意的な政策の下で新たな影響力を獲得し、ギリシャ語は最初期の論者の言葉だったと同様、後期の論者の言葉となった。エジプトの宗教と哲学は、最も熱狂的な関心を呼んだ。アウグストゥスの治世には早くも何千人ものユダヤ人がローマに居住し、その習慣と信条は人々の間に広く浸透していた。カルタゴ人のアプレイウス、ガリア人のフローラス(**?)、ファヴォリヌス(*AD80―160)、スペイン人のルカヌス、コルメラ(*ルキウス・ユニウス・モデラトゥス、AD4―70)、マルティアリス(*マルクス・ウァレリウス、AD38―104)、セネカ(*スペイン、コルドバ出身)、クインティリアヌス(*スペイン北部出身)などは、それぞれの分野でローマの文学や哲学に高い地位を占めていた。

 

 これに符合する革命が奴隷の世界で起きていた。医師や彫刻家の多くが奴隷だったこと、奴隷階級に三、四人の著名な著述家が現れたこと、ギリシャから輸入された多数の文学奴隷、内戦中や帝国の最悪の時期のいくつかに奴隷が提供した勇気、忍耐、主人への献身などの素晴らしい実例が、奴隷階級と自由階級の間の溝を埋めていたが、同じ傾向は解放奴隷の膨大な人数と圧倒的な影響力によってさらに力強く刺激されたのである。ローマの体制の規模は巨大で、頻繁に変動しており、また戦争のたびに無数の捕虜が奴隷にされていたため、奴隷の解放は頻繁かつ容易に行われ、すぐにそれは忠実な奉仕の通常の帰結とみなされるようになった。多くの奴隷が主人に常に許可されていた貯蓄をはたいて自由を買った。また解放後に労働でその代価を支払った者もいた。ある主人は小麦の分配における自分の役職を得るために、ある者は苦しめた奴隷に自分の犯罪を暴露されるのを防ぐために、ある者は虚栄心ゆえに自分の葬儀に長い解放奴隷の列が出席することを望んで奴隷を解放したが、非常に多かったケースは単なる忠実な奉仕の報酬としての解放だった。解放奴隷はまだ元の主人のパトロネージ(*庇護)と呼ばれるものの下にあった。彼は後の時代には封建的な絆と呼ばれるものによって主人に縛られており、貴族の政治的、社会的重要性はクライアント(*追随者)の数に非常に大きく依存していた。解放奴隷の子供たちもパトロンと同じ関係にあり、自由の剥奪や制約がすべてなくなるのは三代目からだった。こうした制度ゆえに奴隷解放はしばしば主人の利益になった。主人はその生涯に何度も奴隷解放を行った。死の床で、あるいは遺言によって、絶えず大勢の奴隷が解放された。アウグストゥスがその権限の制限が必要であると考えるほどに、遺言による奴隷解放は大規模なものになっていた。彼はいくつかの制限を設けた。その中で最も重要だったのは誰も遺言によって百人を超える奴隷を解放してはならない、というものだった。一度、奴隷を特定の服装で区別しようという提案があった。しかし彼らに自分たちの戦力が明らかになったなら都市を思いのままにされてしまうほどにその数が多かったため、その提案は退けられた。奴隷でない人たちの間でも、すぐに奴隷制度に由来する集団が優勢になった。自由人の大多数は自分自身が奴隷だったか、奴隷の子孫だったと思われる。そしてこのような汚れた血筋を持つ人々が国家のあらゆる役職に就いていたのである。よく言われるように「全世界からの人間の循環があった。ローマは彼らを奴隷として受け入れ、ローマ人として送り返したのである。」

 

 共和政の時代からいかに大きな変化があったかは明らかである。それは長い間単一の階級が最高の地位を独占し、監察官があらゆる形の贅沢とそのひけらかしを厳しく抑制し、ほんの微かな異国の流儀さえ人々の断固とした単純さを損なうことがないように修辞家  (*rhetorician)が都市から追放され、大災害の後に首都をウェイイ(*エトルリアの都市)に移すという提案が、ローマの神々をカピトリーノ以外の場所で拝んだり、神官や巫女が城壁の外へ移住したりすることは不敬である、という理由で拒否された時代だった。

 

 全体の融合や平等を目指すこれらの傾向の多くは、環境のストレスから生じた盲目的な力であり、人間の先見性によるものではなく、別の目的のために働いた力だった。しかし明確な政治理論がこの動きを加速させるのにかなりの役割を果たしたことは認めなければならない。共和国の政策は征服の政策、帝国の政策は保全の政策と大別できるだろう。ローマ人は広大な領土を獲得したが、すべての一等国家が解決を迫られる大きな問題に直面した―どうすれば言語、習慣、性格、伝統の異なる多くの共同体を単一の支配者の下に平和的に留め置けるのだろうか。近代においてこの困難には地方議会が最もうまく対処してきた。地方議会は「分断の線」、すなわち反発心が形成されうる核を提供したとしても、他方では、併合された人々に大きな自治権、地方世論の中心と安全弁、地域的な野心の領域、独自の地域性に適した制度の階層を与えるという貴重な利点を有しているのである。他のいかなる体制も複合体である帝国を、これほどまでに緊張、努力、屈辱なしに継続させることはできず、その避けがたい最終的な分解をこれほどまでに危険と動揺なしに成し遂げることはできない。しかし英国の政治家にとって特別な栄光である地方議会はもっぱら近代文明に属するものである。ローマの懐柔方法は、まず被征服者の習慣、宗教、自治体の自由を最も寛大に許容し、その後徐々に征服者の特権を認めさせるというものだった。帝国の防衛を大幅に彼らに委ね、国務を彼らに開放し、特に何世紀にもわたってローマの住民に固く制限され、その後イタリアとアルプスの手前側のゴール人にだけ許容されていたローマ市民権を彼らに与えることによって、皇帝たちは帝位に就こうとしたのである。その過程は非常に緩やかなものだったが、スペイン人のトラヤヌスと解放奴隷の息子ペルティナクス(*在位AD193)が帝位に就き、カラカラ帝(*在位AD209―217)の勅令がローマ市民の権利を帝国のすべての地方に拡大したとき、全ての政治的な奴隷解放運動は完成に至ったのである。

 

 パナティウスとコンスタンティヌスの間の時代に、コスモポリタニズムへの抗しがたい風潮が見られることは、ここまでのスケッチから明らかだろう。この集中性は、それを構成する諸々の影響の数、力、一致を考えるなら、まさに歴史上に類のないものだった。この運動は宗教、哲学、政治、産業、軍事、家庭生活のあらゆる分野に及んだ。人々の性格は完全に変容し、すべての制度のランドマークは取り除かれ、すべての組織の原理は逆転した。出来事が人格を支配する、すなわち古い習慣や交際を消滅させ、そうしてほとんどの場合に国の制度や状況の表現、あるいは最終的な道徳の結果である優れた国民のタイプを変えてしまう様子について、これほど顕著な例は他にないだろう。この動きの影響は多くの点で間違いなく害悪であり、帝国の風紀紊乱を招くとして反対した大カトーやタキトゥスのような優れた人物もいた。しかし、それは罪を増やしたとしても、必然的に徳に独特の性格を与えた。あらゆるものが階級間の分裂や国家間の警戒心や不和を深めるように相助けている社会で形成された卓越の概念を、世界的な交流と合併の時代にそのまま維持することは不可能だったのである。第一期の道徳の表現は、明らかに狭い軍事的、愛国的な徳に、第二期のそれは広い博愛と共感に見出すことができる。

 

 ストア派の哲学はこのような共感の広がりを導くのに見事に適していた。この哲学は、いつの時代にも愛国者の主要な学派だったが、同時に最も早い段階から、最も明確な方法で人類の友愛を認めていたのである。ストア派は徳だけが善であり、他のものはすべて重要ではないと説いた。この立場から彼らは生まれや階級、国や富は人生の単なる偶然であり、徳だけが人を他人に優越させるものであると推論した。彼らはまた、神とは宇宙に命を与え、人間の魂の中に特に鮮明に現れる遍在の霊である、と説いた。そしてすべての人間は同じ神の霊に加わることによって一体になっている仲間であると結論した。この二つの理論はストア派の最初期の教えの一部だったが、それはローマの指導者たちの特別な名誉であり、私が述べてきた事態の明らかな結果であって、その事態を完全に救済したものである。現存する「人類に対する博愛」の義務についての最も古く最も強い主張の一つは、キケロの義務に関する論文に見られるが、これは明らかにストイシズムに基づくものだった。キケロは一世代にわたって合併の動きが急速に進んでいた時期に執筆し、ストア派の倫理学をほとんど無制限に採用しながら、後にキリスト教会が主張したのと同様の、普遍的兄弟愛の理論をはっきりと主張していた。「この世界全体は神々と人間の共通の都市と見なされなければならない。」と彼は言う。「人々は人々のために生まれたのであり、彼らはそれぞれ他人を助けなければならない。」「人は誰であれ全ての人の幸福を願うよう自然は定めている。それが誰であれ、それが人であるがゆえにその幸福を願うよう定めているのである。」「人を自分の都市に対する義務に限定し、他の都市の住民に対する義務から解放することは、人類の普遍的な社会を破壊することである。」「自然は私たちを人間を愛するように傾けている。そしてこれが法の基礎である。」同じ原理は後のストア派でも強調を強めながら繰り返された。彼らはテレンティウス(*プブリウス、アフェル、BC195―159、ローマの劇作家)がメナンドロスから翻訳した有名な台詞を取り入れ、何人をも自分とは無関係と思ってはならないと主張した。マルクス(*前出ルカヌス)は「人類が武器を捨て、すべての国が愛を学ぶ」ときについて、キリスト教の詩人のように熱く語った。セネカは言った「あなたの周りの宇宙、神と人のすべての物事は一つなのである。私たちは一つの大きな体の一部なのである。自然は同じ材料から、同じ運命のために私たちを生んだのだから、私たちは親戚なのである。それは私たちにお互いへの愛を植え付け、社会生活を営むように私たちを作ったのである。」「ローマの騎士、解放奴隷、奴隷とは何ぞや?それは野心や権利の侵害から生じた呼び名に過ぎない。」エピクテトスは言った「あなたは市民であり、世界の一部である…手や足が理性を持ち、自然の法則を理解していれば、体の他の部分と関係のないことはしないし、願わないように、市民の義務は自分の利益と他人の利益を別のものと考えないことである。」マルクス・アウレリウスは言った「アントニヌス朝の一員として、私の国はローマである。一人の人間として、私の国は世界である。」

 

 ここまではストア派はこの時代の道徳的要求に完全に応えているように見える。ローマ帝国の環境が人間を成熟させたために生まれた普遍的な兄弟愛の理論を、これ以上誠実に承認し、これ以上美しく強く主張することは不可能だろう。プラトンは、人は自分一人で生まれてきたのではなく、一部を祖国に、一部を両親に、一部を友人に負っていると述べた。ローマのストア派はより広い視野に立って、人間は自分自身のためにではなく、全世界のために生まれてきたのであると宣言した。そして彼らの理論はその学派の本来の原理と完全に一致するものだった。

 

 しかしストア派は文明の拡大の動きを代表することはできても、同様に文明の軟化の動きを代表することはできなかった。その情緒に対する非難、その厳格で張り詰めた理想は単純な軍事時代の闘争には見事に適していたが、アントニヌス朝の穏やかな風俗と贅沢な嗜好には不向きだった。ストア派のように享楽ではなく徳こそが至高の善であると信じ、徳はただ啓発された意志が欲望を制御することによって成り立つと信じるが、同時に博愛の情に自由な領域を与え、道徳の体系全てにより宗教的、神秘的な色合いを与える一群の論者が現れ始めた。さまざまな思索的理論を公言し―折衷主義者、周縁主義者、プラトン主義者など―さまざまな名前で呼ばれた彼らは、ストア派のものほど強くも崇高でもなく、忍耐や英雄主義には不向きで、意志のエネルギーも際立っていなかったが、はるかに優しく人を引きつける徳性を作り上げる、あるいは代表していることで一致していた。道徳のタイプにおいて力の徳が後退し、愛情の徳が前進し始めた。苦しみに対する無感覚はもはや装われず、不屈の強さはもはや偶像化されず、弱さと悲しみにもそれぞれにふさわしい徳があると感じられるようになった。こうした論者たちの作品には、強く生き生きとした感覚なくして思い浮かび得ないようなデリケートなタッチが溢れている。プリニウスが奴隷の死について書いた有名な手紙や、ストア派が友人の死に対する無関心を誇示していることに対する頻繁な抗議など、単純で素朴な悲哀が人間の最も繊細な琴線に触れる多くの事例においてこうしたことが見受けられる。プルタルコスが娘の死後に妻に慰めの手紙を書いたとき、幼いわが子のある無邪気な性格の記憶が胸に迫ったがためにストア派のあらゆる常套句に背を向けたことを私たちは見る―「あの子は乳母に自分の人形にも乳を与えてくれるよう頼んだのだ。彼女はとても愛情深かったので、自分に喜びを与えてくれるものすべてが自分の持っている最高のものを分かち合ってくれることを望んだのだ。」

 

 プルタルコスのモラリストとしての名声は伝記記者としての名声によって不当に覆い隠されているのではないかと思うが、この運動の指導者と見なすのが妥当だろう。彼の道徳に関する著作を、より厳格な学派の最も多弁な説明者であるセネカの著作と比較することは有益かもしれない。セネカは自意識過剰で、芝居がかっていて、過緊張であることが少なくない。彼の教えには何か通俗的説教師のような気取った響きがある。その短い文章の不完全な融合は彼の文体にバラバラな、いわば粒状の特性を与えており、カリグラはそれをセメントなしの砂に例えて喜んだ。しかし彼はしばしば雄弁の威厳、思想と表現の両方において壮大さを発揮し、これに匹敵するモラリストはほとんどいなかった。プルタルコスは荘厳さにおいてはるかに彼に劣るが、より持続的で、落ち着きがあり、一様に心地よい。彼は古代のモンテーニュ(*ミシェル・ド、1533―1592)であり、その才能は主題のまわりで戯れ、優美に光彩を放つ。彼は多くの場合、非常に生き生きとした独創的な例証を好むが、その数が多すぎるために、時にそれは彼の論説の飾りというよりむしろ肌合いに見えることさえある。プルタルコスのすべての著作の特徴は穏やかで優しい精神と、逆説や誇張、過度の卑屈さを排した判断力である。プルタルコスは慰めのモチーフを集めることに、セネカは慰めを必要としない人物をつくること最も秀でている。プルタルコスには女性的なところがあるが、セネカはすべてにおいて男性的である。前者の著作はフルートの音色に似ており、古代人はこのフルートに、情熱を鎮め、悲しみの雲を忘れ去らせ、穏やかな説得によって人を徳の道に引き込む力を見出した。後者の著作は、勇ましい勇気で魂を燃え立たせるラッパの音色に似ている。前者は子供の死を嘆く母親を慰めるのに最も適しており、後者はたじろいだり、幻想を抱いたりすることなく避けがたい運命に立ち向かう勇者を奮い立たせるのに最も適しているのである。

 

 セネカが残した、悪徳の平等性や情緒の害悪といったストア派の特徴的な理論に関する緻密な書簡は、今では歴史的な興味の対象でしかない。しかし彼の著作の全般的な論調はそれらを永遠に重要なものとしている。なぜなら、それらはストア派の消滅以来、文筆において適切に表現されたことのなかったある種の卓越性を反映し、育むものだからである。一方、プルタルコスの道徳的な論調は主に愛情豊かな徳の強調から成るものであり、キリスト教徒の論者たちによって覆い隠されたり超えられたりしているが、哲学と道徳に対する彼の確かな貢献はセネカのそれより重要なものである。彼は迷信に関する最も優れた著作の一つと、神意に関する最も独創的な著作の一つを現代に残している。彼はおそらくピタゴラス派の転生論とは別の普遍的な博愛の大原則のもとに、動物への慈愛を非常に強く主張した最初の論者であり、また女性の卓越性と女性の愛情の神聖さに対する高い意識において同時代の誰よりも注目すべき人物である。

 

 ローマ人はいつの時代も哲学の体系の論理的、思索的な一貫性よりも実践的な傾向を重んじていた。彼らの目に映ったストア派の最大の魅力の一つは、その主な目的が考え方の体系の構築ではなく、生活様式の提言だったことだった。またストイシズムそのものはパナティウスによって単純化されて初めてローマの性格に適合するようになったのである。ストイシズムは高度な文明には不向きな硬さから完全に解放されることはなかった。しかし新しい理論を混合することによってそれを和らげることを殆どためらわなかった、後のストア派によって大きく修正された。セネカ自身は決して純粋なストア派ではなかった。エピクテトスがそれに近いとすれば、それは彼が極度の苦難を受けたため(*解放奴隷であり、片足が不自由であり、追放されたこともある)不屈の精神と忍耐の重要性について同時代の人々よりも思いを巡らせたからだろう。マルクス・アウレリウスは最も多彩な学派の門人たちに囲まれていた。そして彼のストア哲学はより穏やかでより宗教的なプラトン主義の精神の影響を強く受けていた。ストア派は他のすべての人々と同様に時代の道徳的潮流を感じていたが、他の人々ほど容易にそれに屈することはなかった。トラセアはその時代において前の時代のカトーのような地位を占めていた。しかし、この偉大な原型のような険しさや硬さは彼にはほとんど見られない。もし後期ストア派の著作に先人のそれと同じ要素が見られるとしても、少なくともそれらの要素の混合の割合は違っているのである。

 

 第一に、ストア派はより宗教的にならざるを得なかった。ストア派の性格は他のすべての優れた人々と同様、常に敬虔なものであったが、その敬虔さはキリスト教徒のそれとは大きく違っていた。それは神よりも徳に、特に偉大な人物が示した徳に集中していた。ルカヌスが英雄を称え、「神々は征服者の主張の味方だが、カトー(*カエサルに敗れたが、命を許されることを王者の徳を受け入れるものと拒んで自刃した)は被征服者の主張の味方である」と豪語したとき、あるいはセネカが「スッラ(*反対勢力をすべて倒して独裁政治を敷いた)の幸運」を「神々の犯罪」と表現したとき、現代の耳にはひどく冒涜的に聞こえるこれらの文言に対して、不満のつぶやきはなかったようである。このように賢者を神と対等なものと主張する大胆な言葉を私たちはすでに見てきた。一方、あらゆる成功の条件から離れた徳や、とりわけカトーのような、強い道徳的信念によって力、才能、環境に立ち向かい、不成功に終わりながらも勇敢に闘った人物に対する敬愛はおそらく後のどの時代よりも堅固で情熱的なものだっただろう。すでに示したように、神意に絶対的に服従する義務は絶えず説かれ、すべての徳は神性の一部または発露であるという汎神論的観念がしばしば主張されていた。しかし依然としてストア派の体系の中心は人間であり、その理想にこそ彼らの敬意と熱愛は向けられていたのである。後期ストア派ではこの視点が徐々に変化してゆく。正式に汎神論的な概念を放棄することなく、哲学者たちの言葉は紛れもない自分の神性をはるかに明白に認めるようになったのである。エピクテトスやマルクス・アウレリウスのすべての著作は最も深い宗教的な感覚に満たされている。前者は述べた「まず学ぶべきことは、神が存在すること、神は全宇宙を知ろしめすこと、そしてそれが私たちの行為だけでなく、思考や感覚にも及んでいることである…神々を喜ばせようとする者は、生きている限り神々に似るように努力しなければならない。神が誠実であるように誠実であり、神が自由であるように自由であり、神が情け深いように情け深く、神が寛大であるように寛大でなければならない。」「神を創造主とし父とし守護者とするなら、すべての悲しみと恐れから解放されるのではないだろうか?」「ドアを閉め部屋を暗くしたとき、私は一人だと自分に言い聞かせてはいけない。神はあなたの部屋におり、またあなたと伴にある。彼らは暗がりではあなたの行動を見ることができないと思ってはならない。老人であり、不具者である私に神を賛美すること以外に何ができようか。もし私がナイチンゲールなら、ナイチンゲールの務めを果たし、もし白鳥なら、白鳥の務めを果たすだろう。しかし私は理性的な存在である。私の使命は神を賛美することであり、私はそれを全うする。また命ある限りこの仕事から尻込みすることはない。ともに賛美の歌に加わることをあなた方にも強くお勧めする。」

 

 マルクス・アウレリウスの「自省録」にも同じ宗教的性格がさらに大きく表れているように思われる。しかし皇帝の倫理はある点で奴隷の倫理と大きく異なっている。エピクテトスには人間の尊厳に対する最も強い感覚が常に見られる。神の子として、最も高貴な徳に到達することができる存在として、彼は自らを最高点にまで高らしめた。そして弟子たちに高慢にならないようにと戒めたまさにその一節によって最も高らしめたのだった。ペイディアスによるオリンピアのゼウス像が示しているのは傲慢さではなく、完璧な自信と強さの曇りない平穏さである、と教えたのである。またマルクス・アウレリウスは人間の力よりもむしろ弱さに目を向けた。その自省にはキリスト教徒のへり下りほどではなくとも、少なくとも最も優しく感動的な慎みの精神が息づいている。実際、彼は自分自身を殺人者や姦通者にするように大げさに非難することを常とした後代の聖人たちとは違っていた。彼は人間の徳を現実のものとして認め、自分がそれに到達した程度について神意に感謝することをためらわなかった。しかし、彼は常に自分の性格の弱点を容赦ない厳しさで見直し、あらゆる徳の指導者からのうるさい非難を受け入れ、さらには最高権力者の立場にありながら、あらゆる傲慢と自尊の感情を監視するためにそれを求めていた。自分の心を畏怖させ、抑制する卓越した理想を目指していたのである。

 

 後期ストア派のもう一つの注目するべき特徴は、内省的な性格を強めていたことである。カトーやキケロの哲学では、徳はほとんど行動によってのみ示されるものだった。後期ストア派では自己点検と思考の純化が絶えず説かれていた。一部の論者は弁明するよりも説明する方が容易であるという頑固さゆえに、それに反する非常に明確な証拠を無視して、これらの徳をキリスト教だけに属するものとする。そしてそれらが後期ローマのモラリストの中で紛れもなく占めていた地位は、新しい信仰の直接的または間接的影響によるものであると、何の証拠もなく主張する。それらはギリシャ人に完全に知られていたものである、という明白な事実がある。プラトンもゼノンも夢はしばしば人間の性質の潜在的傾向を明らかにするという理由で、自分の夢を研究するよう人々に勧めている。ピタゴラスは弟子たちに毎日、眠る前に自分自身を省みるよう促し、この習慣はすぐにピタゴラス派の修養の一部と認識されるようになった。それは共和制が終わる前にその学派とともにローマに導入された。それはキケロやホラティウスの時代には知られていた。セネカの師の一人で、主にキリスト教時代以前に活躍したピタゴラス派の哲学者セクスティウス(*クィントゥス、BC70―?)は毎日、一部の時間を自己点検に充てる習慣を持っていた。セネカは当初ピタゴラスの教義に傾倒していたが、その実践はセクスティウスから学んだ、と明言している。東方の信条の侵入に伴ってピタゴラス哲学がますます脚光を浴び、帝国が政治生活の道を閉ざしたことによって、人々の注意は自然に行動から感情に向かうようになった。また後期ストア派では共感や情緒に許される自由が大きくなったため、徳の感情的な部分が大きく脚光を浴びることになったのである。セネカの手紙は一種の道徳的な薬であり、その大部分は性格のさまざまな弱点を癒すために使われている。またプルタルコスは「道徳的進歩の兆候」に関する美しい論説の中で感覚の育成をデリケートな技量で扱っている。形式的な儀式ではなく、純粋な心で神に仕えることが著述の常識になった。そして自己点検は最も認知された義務の一つになった。エピクテトスは想像力を浄化するように促し、美しい女性を見ても「彼女の夫は幸せ者だ!」と心の中で叫んではならない、とした。マルクス・アウレリウスの自省はとりわけ終始、自己点検の訓練であり、思考を監視する義務が絶えず説かれている。

 

 プルタルコスが言うところによれば、ストア派は本来厳格で曲げられない性格の持ち主には時として有害な硬化作用を及ぼすが、本来穏やかで従順な性格の持ち主には心の支えとして特に有用であることが証明されている。この真理の実例としてローマのストア派の最後にして最も完璧な代表者であるマルクス・アウレリウスの生涯と著作以上のものはない。単純で、子供のような、非常に愛情豊かな性格で、知力や本来の意志の力はあまりなく、活動的で公的な生活よりも瞑想や思索、孤独や友情に傾き、王者の華やかさを深く嫌い、元々学問への志向が強かったが、ゼノンの強化する哲学を最良の形で受け入れ、この哲学によって彼はおそらくこの世界に現れた中で、最も完全に高潔な人物に近い存在になった。十九年間の治世の波瀾万丈の出来事に試され、ひどく腐敗した社会と、放縦で悪名高い都市を支配したが、彼の人格の完璧さは中傷さえも黙らせ、人々の自然な感情は彼を人というよりむしろ神として称賛したのである。内面的な生活に関して私たちがこれほどまでに確信を持って語れる人物は、これまでほとんど存在しなかった。彼の「自省録」は最も印象的な本の一つであると同時に、宗教的文学全体の中で最も真実な本の一つである。その大部分は陣営の混乱の中で、あわただしく途切れ途切れで、時にはほとんど理解不能の文で書かれた、文学的技巧も整理もされていない無骨な断片的メモからなっているが、最も鋭い誠実さに貫かれた語り口で、彼自身のイメージの一つを用いるならば、裸を隠すためのベールを必要としない星のような純粋さを持つ、とでも本当に言うべき彼の魂の闘争、疑念、意図を記録している。誰もが認める全文明世界の支配者だった彼は、トラセアやヘルウィディウス、カトーやブルトゥスといった人物を手本とし、すべての市民が平等な自由国家と、市民の自由特権尊重を第一の義務とする王権、という概念の実現を目標にしたのだった。彼の生涯は絶え間ない活動の中にあった。彼は軍とともに帝国の遠い地方にあって十二年近く不在だった。そして彼の政治的能力が疑問視されたのは、おそらく大いに正当なことではあったが、彼がその偉大な地位の職務を遂行するのに費やした不断の熱意を否定することは不可能である。しかし女性や隠遁した宗教家がしばしば示す、細やかな徳、デリケートな道徳的機転、些細な良心の咎めといったものをはるかに押し進めながら、これほどまでに活動的な生活との接触に耐えられた人物はほとんどいない。嫉妬深い二人の修辞学者が討論しているときに彼らの友情を破壊しかねない反論を控えるよう説得したときの憂慮、ハンガリーのキャンプで自分にできる限りのすべての道徳的義務を思い出し、最も無名な家庭教師にまでも捧げた注意深い感謝の気持ち、自分の行動においてあらゆる杓子定規とマンネリズムを避け、あらゆる官能的な想像を心から排除しようとする熱望、純粋さの義務に対する深い感覚、自ら陥っていた傾眠の習慣を正そうとする努力、そしてそれに屈したときの自己非難は、文明世界の最高支配者であり、最も巨大な利益の方向に絶えず携わっていた人物が示したものであることを思い起こすなら、言いようもなく感動的なものだろうと私は考える。しかしマルクス・アウレリウスにおいて特に注目に値するのは、彼の博愛主義に狂信的なものがまったくないことである。人類を改善しようと心から願っている専制君主は当然、立法によって社会を自分たちが善と信じる道に押し込めようと骨を折るものであり、このような動機で行動する人物は時として人類の害悪となる。フィリぺ2世とカトリックのイザベルは良心に従って、ネロとドミティアヌスが欲望に従ったときよりも、より多くの苦しみ(*宗教戦争)を与えた。しかしマルクス・アウレリウスはその誘惑にしっかりと立ち向かった。彼は書いている「プラトンの共和国を実現しようなどと決して思ってはいけない。人類を多少なりとも改善しただけで十分であり、その改善を重要なことではないと考えてはならない。人の意見を変えることができるのは誰なのか?感情が変わることがないなら不承不承の奴隷と偽善者以外の何が生まれるのか。」彼は純粋な慈愛の精神に触発されて多くの法律を公布した。剣闘士ショーを緩和した。政治的自由の最後の防波堤である元老院に常に敬意を払って接した。知識と道徳教育を民衆に広めるための多くの哲学の講座を寄付した。蔓延する過度の贅沢を宮廷が模範となって正そうと努めた。そして自らの生涯によって活動的で良心的な行政官の完全な模範を示した。しかし彼は厳しい法律によって民衆をその自然のままの生活から追い出すという軽率な行動はとらなかった。彼は臣民の腐敗を痛感し、悲痛な、しかし穏やかな忍耐をもってそれに耐えていた。この点においてストア派から離れたギリシャの指導者たちの穏やかな精神がうかがえる。しかし彼は特に、すべての悪は無知から生じる、というストア派の理論から自分の生き方を導き出し、この理論に繰り返し立ち返ることによってそのすべての判断に悲しくも優しい慈愛を与えたのだった。「人は人のために作られた。ならば彼らを正せ、あるいは支えよ。」「彼らが悪しきことをするならば、それは明らかに無知からくるものである。」「あなたにそれができるなら彼らを正せ。できないなら、彼らのために発揮するべき忍耐力を与えられていることを思い出せ。」「医者が人が熱に苦しむのを不思議がっているのは恥ずべきことである。」「不死の神々は数え切れないほどの長い年月、大変な数の、これほど邪悪な人間たちに対して怒ることなく耐え忍び、さらに祝福で包みさえしているのである。しかしとても短い命しか持たない汝はすでに疲れているのではないか?それは汝自身が邪悪だからではないか?」「正義、節制、善良さ、その他すべての徳を魂は気づかないうちに失くしてしまう。このことをいつも覚えておかなければならない。そうすれば全人類に優しくなれるだろう。」「人が自分を傷つけた人物を愛するのは正しいことである。人はみな自分の親族であり、人は無知と無自覚のために罪を犯すのであり、そして私たちはみなすぐに死んでしまうことを思い出すなら、そうするようになるだろう。」

 

 マルクス・アウレリウスの徳の特徴はその時代に帝国内に広がっていたギリシャ精神による軟化の影響を示してはいるが、その本質において厳格な、ローマ的なものだった。神意に対する敬虔な感謝には満ちていたが、ヘブライ人の徳の原理であり、ユダヤ人の論者に人心を支配する非常に大きな力を与えた、強いへりくだりと深く微妙な宗教的感覚は彼の中には見られない。彼の「自省録」は自然に直観的に生み出された善きものであるが、そこにはギリシャの道徳の主要な動機であり、その後プロティノスの著作によってローマ世界に広く知られるようになった、徳の審美的な感覚が見られない。多くの優れたローマ人と同様に、彼の徳の原理は義務感であり、それに従うことが私たちの存在の目的であり目標である、自然の法の存在に対する確信だった。二次的な動機については、彼はほとんど意識していなかったようである。宗教的な信念の中で最も強かったのは監督者である神意に対する確信だった。しかしそれさえも時折覆い隠されることがあった。来世というテーマにおいて彼の心は憂鬱な疑念の中を漂っていた。彼は死後の名声に対する欲望をきちんと抑えることを自らの義務と考えていた。彼の学派のほとんどの論者は死を悲しみの終末としてとらえ、その恐怖を払拭するために死について考え続けた。しかしマルクス・アウレリウスは死を主に、この世の事物の空しさを示す最後の大きなデモンストレーションと表現している。これほど行動的で寛ぎのない徳が、これほどわずかな熱意と結びつき、これほど小さな成功の幻想に支えられているのは実にまれなことである。「真に価値があるのはただ一つ―真実と正義を守り、嘘つきや不正義な人間の中にあって怒らずに生きることである。」と彼は書いた。

 

 その表情には高揚も落胆も現れることはない、と言われるほどに彼は自分の感情を支配していた。しかし彼の内面の記録を目の前にしている私たちは彼の心を覆っている深い憂鬱を察知するのに苦労はしないし、彼の晩年は数多くの様々な悲しみによって暗いものになった。彼が心から愛し、深く慕っていた彼の妻は、歴史家が伝える宮廷のスキャンダルを信じるならば彼の愛情にふさわしい人物ではなかったが、墓へと先立ってしまった。成長した彼の唯一の息子は、後に彼を最悪の支配者の一人とした悪癖をすでに示していた。若いころに彼を指導し、彼が優しい友情とともにまとわりついていた哲学者たちは一人一人と姿を消した。そしてその代わりになる新しい人々は出てこなかった。自己犠牲的な徳の長い治世の後、彼は帝国の退廃がますます明白になっていくのを見た。ストア派は東洋の迷信への情熱の前に急速に衰退していった。蛮族は一時的に撃退されたが、再び辺境を脅かしており、彼らの将来の勝利を予見するのは難しいことではなかった。再生に取り組むには民衆の大部分はあまりにも無気力で、あまりにも腐敗していた。恐るべき悪疫が、続いて数多くの小さな災難が降りかかり、悲惨と恐慌が多くの地方に広がった。このような惨禍の中、皇帝は死に至る病に倒れたが、いつものように穏やかな勇気をもって耐え抜き、ほぼ最後の言葉でさえも彼は自分のことを忘れ、常に臣民の境遇を案じていたことを示していた。死の直前、彼は従者を下がらせ、最後に息子と面会した後、長い間そうして生きてきたように、一人で死んでいった。

 

 こうして異教徒の中で最も純粋で優しい精神、後期ストア派の最も完璧な鑑である人物が雲と闇の中へと沈み込んだのである。彼の中では、この学派の硬さ、険しさ、傲慢さは完全に消え去り、その逆説が生みがちな情緒は大きく和らげられていた。狂信も迷信も幻想もなく、彼の全生涯はシンプルで揺るぎない義務感に支配されていた。ストア派が長い間低迷させていた観照的、感情的な徳はその地位を取り戻したが、活動的な徳はまだ衰えてはいなかった。英雄の徳は依然として深く尊ばれていたが、理想のタイプの中で穏やかさと優しさが新たに重要度を増した。

 

 しかし、このように環境の力が古代の倫理的観念を新しい方向に発展させている間に、ローマの人々の大部分は単なる倫理的な教えでは十分に矯正できないほどの堕落に陥ってしまっていた。記録されている帝国の道徳的状況は、いくつかの点で最もぞっとするようなものの一つである。そして論者たちはこの現象を説明するためにその事情を調査するよりも、その巨大さを描き出したり、誇張したりすることの方がはるかに多かった。しかし、そのような事情が存在したことに疑いはない。国民の生得的な性質が共和国の最盛期より帝政期で悪かったと信じる理由はない。国民の堕落には他のすべての現象と同様、明確な原因がある。そして、この例においてそれを発見するのは難しいことではない。

 

 ローマ人の徳は国家の制度によって形成された軍事的、愛国的なものであって、宗教的な教えは単なる付随物に過ぎなかったことはすでに述べた。内政、軍事、検閲の規律は国民の一般的な貧困や農業への従事と相まって、最もシンプルで最も飾らない習慣を作り出した。また一方で市民的自由特権の制度は名誉ある野心に十分な領域を提供していた。貴族は自由な国家の最高組織であり、同時に護民官に手引きされた手強い反対勢力に絶えず直面していたため、熱心に公的活動に専念していた。周囲のイタリア諸国、後のカルタゴとの危険な競争は絶え間ない警戒を必要とし、それを揺るぎないものにしていた。ローマの教育は英雄的な愛国心を引き出すよう巧みに設計されていた。そして過去の偉人たちは想像によって理想的な姿になった。宗教は儀式や伝説によってその地域的感覚を高め、多くの有用で家庭的な慣習を設け、誓いの神聖さを教え、常に神に監視されているという意識を育てることによって、全体的な性格に深さと厳粛さを与えた。

 

 このような力が国民的な徳のタイプを形成していたのであるが、文明の進歩によって、ほとんどそのすべてが腐敗し、変質してしまったのである。懐疑論が高まり、外国の迷信が多数侵入する中で、国内の土着宗教は優位性を失った。また倹約令や検閲制度によって長く維持されてきた簡素な風俗は、バビロニアのような贅沢なものに取って代わられた。貴族の尊厳はその特権とともに消え去った。愛国的なエネルギーと熱意はあらゆる種類の言語、習慣、民族を包含する世界帝国の中で息絶えた。

 

 貧しさと闘う社会の徳が、贅沢さが増すにつれて消えてしまうのは必然的なことである。しかし社会の正常な状態においては、それらは異なる種類の徳に取って代わられる。より穏やかな風俗と拡大した博愛が文明の流れに乗り、より大きな知的活動とより拡大した産業活動はそれらが必要とする道徳的資質に新たな重要性を与え、政治的興味の範囲が広がる。そして、もし特権から生じる徳が減少したなら、平等から生じる徳が増加する。

 

 しかしローマには正常な発展を阻害する三つの大きな原因があった―帝政、奴隷制度、剣闘士ショーである。これらはそれぞれ、人々の道徳に最も広く、最も悪質な影響を及ぼした。その影響の全ての波及効果を辿るならば、本書に与えられた制限をはるかに超えてしまうだろう。しかし、私はその性質と一般的な性格を簡潔に説明することに努めたいと思う。

 

 ローマ帝国の原理は典型的な独裁制だった。共和国の諸々の役職は消滅したわけではなかったが、次第に一人の人間に集中していった。元老院は表向きの最高権力を保持していたが、実際には単なる皇帝の隷属者であって、皇帝の権力を制御することは事実上不可能だった。共和国末期に国家に対する陰謀を告発するよう奨励されていた政治的スパイや私的告発者たちは、アウグストゥスの時代に皇帝に対する陰謀を告発し始めた。ティベリウスの時代に非常に増加し、没収された財産の一部を与えるという約束に刺激されたこの階級は、すべての有力政治家、さらにはすべての富豪を脅かすようになった。貴族は次第に弱体化し、破滅し、あるいは公生活の危険のために私的な贅沢な乱痴気騒ぎへと追いやられていった。貧しい人々の歓心は自由特権の拡大や永続的な繁栄によってではなく、小麦の無償配給や公の競技で買われ、皇帝は自らを神聖な存在とするために、神格化という宗教的な手段を採った。

 

 この迷信は現在でも王族に与えられる称号にその痕跡が見られるが、まったくの政治家の思いつきだったわけではなかった。神格化された人物は古代の信仰において長く重要な地位を占めていた。そして都市の創設者が住民に崇拝されるのは頻繁なことだった。教養ある人々にとって君主に神格を贈ることは単なるお世辞であって、彼の命を狙う無数の陰謀や、彼の記憶に対する容赦ない批判を何ら妨げるものではなかった。しかし政治家の意図を超えて、民衆の敬愛の念は皇帝を何らかの特別な神意の庇護の下にある存在と捉えることが少なくない。アウグストゥスの周りにはたちまち奇跡の物語が群がってきた。アウグストゥスの生まれ故郷は世界の支配者を生み出す運命にある、という神託があったとされた。アウグストゥスは幼い頃、見えない手によってゆりかごから運ばれ、聳え立つ塔の上に置かれ、そこで朝日に顔を向けているところを発見された。祖父の家の周りで鳴いていた蛙を叱ると、蛙は永遠に静かになった。鷲が彼の手からパンを奪って空中に舞い上がり、降りてきて再び彼に差し出した。また別の鷲は、月桂樹の枝をくちばしにくわえた鶏を彼の足元に落とした。皇帝が生まれたベッドで他の男が眠ろうとしたとき、見えない手が不敬な侵入者を引きずり出した。レイトリウスという名の貴族は姦通で断罪されたが、自分はアウグストゥスが生まれた場所の幸運な所有者である、と減刑を訴えた。ティベリウスはキシクスというアジアの町の特権を奪ったが、その主な理由はアウグストゥスの崇拝を怠ったことだった。迷信的な時代に顕著な人物がしばしば伝説の核となった経緯は、部分的には疑いなく政治的なものだったが、部分的には自然発生的なものでもあった。帝位の簒奪や通常の継承の断絶はすべて一連の奇跡によって暗示された。そして皇帝が死のうとするときには常に、天と地の両方にはっきりとした予兆があった。

 

皇帝たちのほとんどは疑いなく神としての栄誉を空疎な演出と受け止めていた。そして共和国の誇る英雄たちが決して超えることができないような気取らない嗜好や性格を紫衣の下に示した者も少なくなかった。ウェスパシアヌス帝(*同69―79)は死の間際に、自分の力が弱まっていくのを感じつつ「私は神になっていくような気がする。」と近づいてくる自分の地位について悲し気に冗談を言ったという。アレクサンデル・セウェルス帝(*在位AD222―235)やユリアヌス帝(*在位361―363)は、月並みな追従の言葉を受け入れようとしなかった。しかしそれを拒否しなかった皇帝たちの多くも、現代の君主が嘆願の言辞や宮廷の儀式を見るようにそれを見ていたことが分かっている。ネロでさえ皇帝の地位に酔うことなく、絶えず歌手や俳優としての勝利を求めた。そしてその虚栄心を刺激したのは神の特権ではなく、芸術的な技量だった。しかしカリグラは文字通り錯乱していたようで、自分の神性を重大な事実として受け入れ、多くのユピテル像の頭部を自分の頭像に取り替えた。そして剣闘士のショーを中断させた雷雨の中で怒り狂って席から立ち上がり、血迷った身振りで天に対する呪詛を叫び、帝国の分断は本当に耐え難い、ユピテルか自分か、どちらかがすぐに倒れなければならない、と宣言したと言われている。ヘリオガバルス帝(*在位AD218―222)は彼の伝記記者の言葉を信じるならば、人間的なものと神的なものを混同し、醜悪で冒涜的な酒神祭を行い、あらゆる宗教を自分への崇拝に統合しようと考えた。

 

 この神格化の奇妙な帰結は、皇帝の像が神々の像のような神聖な性格を持つようになったことである。皇帝像は奴隷や抑圧された人々の避難所と認識された。そしてそれらに対するわずかな不敬も極悪な犯罪として激しい怒りを買った。ティベリウス帝の時代には奴隷や犯罪者は皇帝の像を手に持ち、それに守られ、免責されながら、主人や裁判官に反抗的で傲慢な言葉の奔流を浴びせることに慣れていた。同じ皇帝の時代に、酔っ払った男が輪の中に皇帝の肖像が彫られている何らかの家具にたまたま触れたところ、すぐにスパイに告発された。この治世には皇帝像を設置した庭を売った者が大逆罪に問われた。アウグストゥスの像の近くで奴隷を殴ったり、服を脱がせたり、彼の肖像が彫られた金を持って売春宿に入ったりすることは死刑に相当するとされた。また後の時代には、ドミティアヌスの像の前で服を脱いだ女性が実際に処刑されたと言われている。

 

このように傲慢と権力の頂点に上り詰めた人物、すなわち深刻な腐敗状態にある社会の中で無制限の権限を行使した人物が、しばしば最も大それたな浪費の罪を犯したことは容易に想像できるだろう。特に帝国の最初の時代にはまだ伝統がなく、経験によって帝位の危険性が知られていなかったため、その地位を占めた者の中に、その高さに頭脳が打ち震え、一種の精神錯乱に陥った者たちがいた。スエトニウスの著作は、当時パラティーノに出現した堕落の深淵、恐ろしく、耐え難い残酷さ、これまで想像されたこともなく、口にするのも憚られるような欲望の放埓の永遠の証言として残されている。またそれは異教徒社会が陥った道徳的混沌に恐ろしい光を投げかけて、帝国を堕落させた力の十分な証拠を見せてくれる。皇帝たちの中にはこれまでこの世に生まれた中で最低の人物もいたのと同様に最高の人物もいたことは事実である。しかし悪は監視され緩和されても、決して根絶されることはなかった。宮廷の腐敗、スパイという職業の形成、贅沢の奨励、小麦の分配、競技の増加など、悪の強さの程度はさまざまだった。しかし帝国の存在そのものが、古代の偉大な共和国の道徳のタイプを生んだ政治生活の習慣を作り出すことを妨げたのだった。自由特権はしばしば神学体系には非常に不利であるが、最終的にはほとんど常に道徳に有利である。人を悪から遠ざけるために工夫された最も効果的な方法は、より高い野心に自由な機会を与えることだからである。ローマ帝国にはこのような機会がまったくなく、長く続いた政治的慣習がなかったため、道徳的状況は皇帝の性格によって大きく変動した。

 

 奴隷制度がもたらした結果は、おそらくもっと深刻なものだった。主人の専制的で凶暴な心的態度を助長するという明らかな効果に加え、すべての労働に汚名を着せ、同時に貧しい自由民を堕落させ、貧しくしたのである。近代社会では産業的生活の謹直で規則的な習慣を身につけた、影響力のある多数の中産階級の形成が国民道徳の最大の保証になっている。そうした階級が存在するところではその上の階級の混乱は間違いなく有害ではあっても、決して社会にとって致命的なものとはならない。イングランドで王政復古の後に起こったような、上流階級の堕落の大爆発の影響は表層的なものにとどまることがほとんどである。貴族はこれ見よがしに悪徳の限りを尽くすかもしれない。しかし織機、勘定台、あるいは鋤で働く大多数の人々は彼らに影響されることなく、その職業の条件が強いる生活習慣によって全体的な堕落から守られているのである。古代ローマの腐敗の最も恐ろしい特徴は、それが社会のあらゆる階層に及んでいたことだった。最も単純な機械類しか存在していなかったため、製造業とそれがもたらす巨大な産業的生活は未知のものだった。貧しい市民は立派に生計を立てることができるほとんどすべての分野が完全に、あるいは少なくとも非常に大きな割合で奴隷に占められていることに気づいた。また職業に頑強な嫌悪感を持つようになった。その結果、俳優、無言劇俳優、雇われ剣闘士、政治スパイ、男娼、占星術師、宗教詐欺師、偽哲学者など、自由人階級の不安定で一時的な生計を支える腐敗した職業が非常に増え、その結果、(*貴族が平民を庇護する)クライアント制度は巨大なものになってしまった。すべての金持ちは、その費用で生活し、その情欲に奉仕し、その虚栄心を満足させることに生涯を費やす、依存者の一団に取り囲まれた。そして何より小麦や、時には金銭の公的な配給が行われ、全てのローマの貧しい自由民は生活必需品に関して政府の無償支援を受けていた。この配給を迅速かつ気前よく行うことが帝国の政策の主な目的であり、その結果は最も法外な貧民法や最も過度な慈善事業より悪いものだった。人口の大半はなんの根拠もなく与えられる小麦を恩恵としてではなく、権利として受け取り、それによって絶対的な怠惰を支援されたのである。そして無償の公的娯楽が彼らをさらに労働から遠ざけた。

 

 こうした影響のために人口は急減した。イタリアには生産的な事業がほとんどなくなった。そして前例がないほどにさまざまな原因が重なって、悪質な独身主義が常態化した。アウグストゥスの時代にはすでにその弊害が明らかになっていた。そして後の皇帝たちの治世において貴族たちはより全体的に公的生活から遠ざかったため、あらゆる官能的放縦へと追いやられてしまった。その自由特権が失われて以来、ギリシャは小アジアやエジプトの主要都市と同様に最も荒んだ腐敗の中心地になった。そしてギリシャや東洋の捕虜はローマに無数にいた。イオニアの奴隷は飛びぬけて美しく、アレクサンドリアの奴隷は凝り固まって飽きのきた放蕩者の色あせた感覚さえも刺激する巧みな技術で有名で、すべての貴族の家の装飾、若者の仲間、指導者になった。結婚に対する嫌悪感はとても一般的なもので、裕福な独身男性の遺産を確保しようとおべっかに明け暮れる男たちの数が増え、悪名が高くなった。奴隷の集団はそれ自体が悪の温床であって、触れるものすべてを汚染していた。一方、競技の魅力、そして特に遊民のたまり場になった公衆浴場はイタリアの気候の魅力と一般的な粗末な住宅建築と相まって、貧しい市民を室内の生活から引き離すことに成功した。怠惰と娯楽、そして最低限の暮らしだけが望まれていた。また富裕層で堕胎、あらゆる階層で嬰児殺しや遺棄が一般的に行われていたため、さらに人口が減少した。

 

 こうした状況に置かれた人々の公的精神の喪失は完全かつ必然だった。共和制の時代、ある執政官が「自由特権のことだけを考える者がローマ人にふさわしい」という理由で、勇敢なイタリア人にローマ市民権を認めるよう主張したことがある。帝国では、すべての自由特権は競技や小麦と喜んで交換された。そして最悪の暴君もこうした手段で人望を得ることができた。共和国においてマリウス(*ガイウス、BC157―86)が自ら追放した人々の家を略奪のために開放したとき、人々は高貴な節制によってその行為を非難した。その許可を利用しようとするローマ人は誰一人いなかった。帝国では、ウィテッリウス帝(*在位AD69)とウェスパシアヌスの両軍が都市の所有権を争っていたとき、退廃したローマ人は剣闘士の見世物のように喜んで集まり、捨てられた家を略奪し、浅はかな喝采でどちらの軍をも励まし、逃亡者を引きずり出して殺害し、国の災いを祭りに変えてしまったのである。国民性の堕落は永久的なものだった。ストア派の教えも、両アントニヌス帝の統治も、キリスト教の勝利も、これを回復することはできなかった。自由特権に無関心なローマ人は、現在も当時と同様に怠惰な暮らしと公的な見世物だけを求めている。ローマ皇帝たちの時代における小麦の配給や円形闘技場の競技は、現代のローマでは無数の修道院や宗教的野外劇に当たる。

 

 このように帝国の首都で公的精神が衰退している間、その模範によって消え残っている炎を再燃させるような独立勢力や対抗勢力が存在しなかったことも忘れてはならない。近代ヨーロッパでは、文明の水準は同じでも、政府の形や国民生活の状況が異なる多くの国家が存在するため、ある程度の愛国心と自由特権の永続性が確保されている。ある国でこれらが滅んでも、別の国では存続する。そしてそれぞれの国民はその競争心や模範によって周囲の人々に影響を与えるのである。しかし文明化した世界全体から成る帝国には、こうした政治的相互作用は働かない。宗教的、社会的、知的、道徳的な生活において外国の思想をはっきりと認めることができるが、奴隷化された地方に中央の政治生活を再燃させる力はない。そして文明においてイタリアに肩を並べていた地方でさえもその堕落と卑屈さにおいてイタリアを凌駕していたのである。

 

 しかし帝国の道徳が依存していた状況を見直すなら、依然として二つの非常に重要な中心、または徳の苗床があり、それについて言及することが必要である。それは農業への従事と軍隊の規律である。ロムルスの言葉とされる非常に初期の言い伝えは、戦争と農業だけが市民の名誉ある仕事である、と宣言していた。そして人々の間に節制と高潔な習慣を形成する上で後者の影響力をいくら評価しても過大評価にはならないだろう。現存する大カトーの唯一の著作の主題は、この点である。ウェルギリウスはそれを彼の詩の輝きで飾った。ローマの宗教の大部分はその舞台を象徴し、その活動を聖別することを意図していた。ウァロは、カウパーが英語詩に取り入れた「天意は田園をつくり、人為は街をつくる」という美しい文言で極めてローマ的な感情を表現している。ウェスパシアヌスの改革は主に地方の農業従事者の地位向上だった。全ての中で最も完璧なローマ皇帝だったアントニヌスは、在位中ずっと熱心に農業をしていた。

 

 遠く離れた地方に関する限り、帝国の制度は全体的に良いものだったと思われる。共和国末期を辱め、キケロの憤怒の雄弁によって不滅のものとなった属州総督のスキャンダラスな強欲さは皇帝の監督の下で終焉するか、少なくとも大きく減退したようである。十分な自治体の自由、良い道路、そしてほとんどの場合、賢明で節度ある統治者たちによって、帝国の遠方の地域には大きな繁栄が約束された。しかしイタリアでは農業とそれに伴う生活習慣が急速に、そして致命的に衰退していった。小農業経営者はすぐに絶望的な負債へと滑り落ちていった。奴隷制度が富裕層に与えた多大な利益は、次第にイタリアのほとんどすべての農地を富裕層の手に委ねるようになった。経営者でなくなった農民は、奴隷労働者に仕事を奪われて雇われ農民にもなれなかった。一方、小麦の無償配給が彼を容易に大都市に引き寄せるようになった。こうした配給の規模は大きかったため、支配者たちは小麦を遠方の国、特にアフリカやシチリアから年貢の形で得るようになり、イタリアでは小麦はほとんど栽培されなくなった。土地は荒れ果て、あるいは奴隷によって耕され、あるいは牧草地に変えられた。そして広大な地域で自由農民が完全に消滅した。

 

 このイタリアの道徳的状況に深い影響を与えた大革命は、長い間差し迫っていたものだった。貧しい農民の借金と、貴族たちの征服した領土を独占しようとする傾向は、共和国に最も激しい争いを引き起こした。そして帝国の初期にはイタリアの農地に降りかかった胴枯れ病が絶えず哀れなほど嘆かれた。リウィウス、ウァロ、コルメラ、プリニウスは最も強い言葉でこのことに触れている。またタキトゥスは、かつて遠い地方に小麦を供給していたイタリアがクラウディウス帝(*在位AD41―54)の治世にはすでに生活必需品を風と波に頼るようになっていた、と述べている。この弊害はほとんど絶望的なものだった。風向きやその他の偶然による小麦の輸送の中断は首都に深刻な困窮をもたらした。もし何らかの不幸で小麦の大産地が帝国から切り離された場合に生じる災難を想像するなら、政治家はぞっとしたことだろう。しかし前述のように奴隷制度と小麦の無償配給の力が複合的に作用し、イタリア農業復興のためのあらゆる努力は失敗に終わった。そして奴隷制度は廃止できないほど深く根付いていた。配給の停止、あるいは制限の後でさえ起こったであろう惨事や反乱に敢えて遭遇しようとする皇帝はいなかった。この悪弊を改善するため、多くの真剣な取り組みがなされた。アレクサンデル・セウェルス帝(*在位AD208―235)は貧しい人々に土地を購入するための資金を提供し、土地の生産物から無利子で徐々に支払いを受けた。ペルティナクス帝(*在位AD193)は耕作することを唯一の条件として貧しい人々を所有者として荒れた土地に住まわせた。マルクス・アウレリウスが始め、アウレリアヌス帝(*在位AD270―275)とウァレンティニアヌス帝(*Ⅰ世の在位はAD364―378)が続けたのは、多数の蛮族の捕虜をイタリアの土地に定住させ、奴隷として耕させるという制度だった。この大きな外来の要素がイタリアの中心部に持ち込まれたことが、結局は帝国を崩壊させる原因の一つになったのである。また、この時期に初めておぼろげながら農奴すなわち農地への隷属という境遇を見ることができる。そしてこれはその後奴隷制度を吸収し、数世紀にわたってヨーロッパの貧困層の一般的な境遇になった。しかし、イタリアの農業を破壊しつつあった経済的、道徳的原因は抵抗できないほどに強く、農業が促進する単純な生活習慣は後の帝国ではほとんど、あるいは全く通用しなくなっていた。

 

 軍人の生活においても、それほど急速ではなかったにせよ、最終的には完全な退廃が起こった。ローマの軍隊は最初、上流階級からしか招集されず、兵役は実際の戦争の間だけで、しかも無給だった。しかし共和制が終焉を迎える前に、こうした状況は消失した。軍人の給与はウェイイ包囲のときに制定されたと言われている。ローマとカルタゴが敵対していた時代に入隊したスペイン人の一部は、ローマが外国人傭兵を採用した最初の例になった。マリウスは新兵の財産資格を廃止した。スペインやアジア諸国での長い滞在の中で規律は次第に緩んだ。そしてローマにおける東洋の贅沢の経過をたどった歴史家が、それはまず兵士によって都市に持ち込まれた、という不吉な事実を強調したことは正しかった。内戦は古い軍事的伝統の破壊に貢献したが、もし有能な将軍によって指揮されていたなら、軍の規律よりも愛国心に影響を与えていたことだろう。アウグストゥスは軍事システム全体を再編成し、プラエトリアニ(*親衛隊)として知られる、いくつかの特権を与えられた兵士の集団をローマに常駐させ、他の軍団は主に辺境に集められた。アウグストゥスの長い治世とティベリウスの治世の間、両部門は静穏であったが、カリグラが直属の兵士に殺されると長い不服従の時代が始まった。クラウディウスは賄賂によって兵士たちから自分の安全を買うという、致命的な実例を最初に作ったとされている。地方の軍隊はすぐにローマ以外の場所で皇帝を選出できることに気づいた。そしてガルバ帝(*在位AD68―69)、オト、ウィテッリウス、ウェスパシアヌスはすべて反乱の産物だった。しかし悪弊が回復する見込みはなかった。ウェスパシアヌスとトラヤヌスは非常に厳格な規律を施行し、成功を収めた。皇帝たちはより頻繁に陣営を訪れるようになった。兵士たちの数は少なく、しばらく動乱は鎮まった。帝国の最悪の時代の歴史は、非常に困難な状況下において勇敢な兵士たちが一途に自分の義務を果たそうとした実例に満ちている、という事実が指摘されている。しかし歴史家はすぐに、アジアの官能的な都市が軍団に与えた深い影響に再び気づくことになる。イタリアから何年も離れた彼らは民族の誇りを失い、忠誠心は君主から将軍に移った。そして帝国の笏が次々と無能な支配者の手に渡ったとき、彼らはいつも指揮官に反乱を促し、ついには帝国を軍事的無政府状態に陥らせたのである。身についた贅沢な習慣によるものではないこの悪弊は、帝国の分割によって各軍が皇帝の直接の監督下に置かれたことで改善された。後年、キリスト教が兵士の不服従を減じたことは確かだが、それは同時に軍事的熱情をも減じたのかもしれない。しかし、他のさらに強力な原因が作用してローマを軍事的に没落させようとしていた。ほとんどの皇帝が人気取りのために奨励した帝国の政策が生み出した不活発な習慣は、軍隊生活の苦難に対する深い嫌悪をもたらした。長い間イタリア人に制限されていたプラエトリアニ親衛隊も、セプティムス・セウェルス帝以降は辺境の軍団から選ばれた。イタリアは通常の兵役から解放されていたため、これらの人々はもっぱら地方で募集され、無数の蛮族に助成金が支給されたのである。この変化の政治的、軍事的帰結は十分に明らかである。大砲がなく、野蛮人に対する文明国の軍事的優位性が現在よりもはるかに低かった時代に、イタリア人は実際の戦争にまったく不慣れで、何よりも軍事規律と相容れない習慣を身につけていた。帝国を脅かし、最後には崩壊させた蛮族の多くは、実際にローマの将軍に訓練を受けていた。道徳的な結果も同様に明白である―軍事的規律は農業労働と同様、イタリアの道徳的な力の中に何の役割も果たさなくなったのである。

 

 私が列挙した事柄を正しく評価する人々にとって、帝国の没落と道徳的衰退は何ら驚くべきことではない。しかし、帝国の苦悩がこれほど長引いたこと、異教徒とキリスト教徒の両方から多数の善人と偉人が生まれ、彼らが疑いもなく幅広い影響を及ぼしていたことを不思議に思うのは当然かもしれない。徳のある習慣が自然に形成されるはずの、ほとんどすべての制度や仕事が汚されたり破壊されたりする一方で、恐るべき力が作用して人々を悪に駆り立てていたのである。金持ちは最も名誉ある野心の道(*政治)から排除されていた。そして彼らのあらゆる情熱を燃え立たせる無数の寄生虫に取り囲まれて、気がついたときには悪徳の自発的な奉仕者であって、しばしばその指導者にもなる、無数の奴隷たちの絶対的な主人になっていたのである。貧しい人々は産業を嫌い、あらゆる知的資源に恵まれず、習慣的に怠惰な生活を送り、卑屈な隷属を幸運への普通の道と見なしていた。しかし両階級の主な娯楽が流血の光景、人間の死、時には拷問だったことを思い返すなら、その様子は実に恐ろしいものになる。

 

 剣闘士競技は現代人の感覚からすると、その残虐性においてほとんど信じがたいようなローマ社会の特色の一つである。文明の発達した時代に男性だけでなく女性も―高い道徳規範を公言するだけでなく、非常に良く実行していた男女が―人間の殺戮を習慣的な娯楽としていたこと、このすべてが何世紀にもわたって、ほとんど抗議も受けずに続けられていたということは道徳史において最も驚くべき事実の一つである。しかし、これは完全に正常なことである。そして生得的な道徳的知覚の理論と何ら矛盾するものではない。同時に痛ましくも非常に深い関心に対する倫理的探求の分野を切り開くものでもある。

 

 ローマで長い間、興趣と影響力において他のあらゆる娯楽を凌駕してきたこの競技は、もともと偉大な人物の墓で挙行される宗教儀式であって、祖先の霊(*Manes)を鎮めるための人間の生け贄だった。その後、それは勇敢な死の光景を絶えず見せることによって軍事的精神を維持する手段として擁護された。そしてこの目的のために、戦争に出発する兵士たちに剣闘士ショーを見せることが慣例となった。このような機能に加えて剣闘競技は大きな政治的重要性を持っていた。というのも、通常の自由特権の機関がすべて麻痺しているか廃止されていた時代には、支配者は闘技場で何万人もの臣下に会うのが常だった。彼らはこの機会を利用して請願を提出し、不満を表明し、君主やその大臣を自由に非難することができたのである。この競技はエトルリアが起源とされ、紀元前264年にブルトゥスという男の二人の息子が父親の葬儀で三組の剣闘士を闘わせた時、初めてローマに伝わったのである。そして共和制が終わる頃には大きな公的行事で、さらに恐ろしいことには貴族の宴会でよく行われるようになった。カエサルとポンペイウスの敵対関係はその数を大幅に増やした。それぞれがこの手段で民衆と親睦を深めようとしたのである。ポンペイウスは人間対動物という新しい形の戦いを導入した。カエサルは競技を男性の葬儀に限定していた古い慣習を廃止した。そしてカエサルの娘は墓を人間の血で汚された最初のローマ女性になった。この改革に加えて、カエサルはそれまで競技が行われていた仮設の建物を木製の常設円形闘技場に置き換え、貴重な絹の日除けで観客を覆い、あるときは死刑囚に銀の槍で戦うことを強い、元老院がその数を法律で制限しなければならないほど多くの剣闘士を都市に呼び寄せた。帝政初期には、スタティリウス・タウルス(*BC60―10、執政官)が最初の石造りの円形闘技場を建設した。アウグストゥスは一度に戦う人数を120人以下とするよう、いかなるプラエトル(*法務官)も一年に二回以上競技を開かないよう命じた。ティベリウスは再び戦闘員の最大数を定めたが、これらの制限の試みにもかかわらず、競技はすぐに最も巨大な規模になった。有力者が死んだ親族を悼むために、公職に就くときに、征服者が人気を得るために、またすべて公の慶事があるたびに、そして社会的地位を得ようとする金持ちの商人がそれを習慣的に行っていた。また剣闘士の競技は公衆浴場の呼び物でもあった。イタリアのすべての主要都市には剣闘士の学校が―しばしば富裕な市民の私有地に―あり、奴隷や犯罪者のほか、数年の期限付きで自ら応募してきた自由民で賑わっていた。多くの人々の目には、勝者に支払われる多額の賞金、貴族や度々の皇帝の後援、さらには成功した剣闘士に集中する大衆の熱狂が、この職業のあらゆる危険性に勝ると映ったのである。すぐに観客も戦闘員も生命に完全に冷淡になった。剣闘士を供給する「ラニスタ」は重要な職業になった。彷徨う剣闘士の一団がイタリアを出て、地方の円形闘技場で活躍するようになった。競技の影響は次第にローマ人の生活の構造全体に及んでいった。会話の中で競技は普通のことになった。子供たちは遊びの中でそれを真似た。ウェスタに仕える乙女たちは闘技場の上座に座っていた。コロッセオは80,000人以上の観客を収容することができたと言われており、帝国のいかなる華麗な記念碑をも凌駕していた。そして現在でも異教徒のローマの最も印象的で最も独特な遺物である。

 

 地方でも同じような熱狂が繰り広げられた。ガリアからシリアまで、ローマの影響力が及ぶ全ての場所に血のスペクタクルが導入された。そして多くの国の円形闘技場の巨大な遺跡はその廃墟の壮大さによって、それが追い求められた規模を今なお証言している。ティベリウスの治世には郊外の町フィデネーの円形闘技場が倒壊し、20,000人以上が死亡したと言われている。ネロの時代、シラクサ人は剣闘士の数を制限する法律の適用を特別に免除された。ティトゥス(*ウェスパシアヌス)がユダヤから連れてきた膨大な捕虜のうち、かなりの人数が地方の競技に送られた。アンティオコス・エピファネス(*シリア王、在位BC175―163)によって導入されたシリアでは、当初は快楽よりもむしろ恐怖をもたらした。しかし柔弱なシリア人はすぐに熱狂的に楽しむようになった。アグリッパ(*ユダヤ王、在位AD37―92、1世と2世がいる)は一度、ベリュトスの円形闘技場で千四百人を戦わせたことがあった。ギリシャだけはある程度例外だった。アテネにこの見世物が導入されようとしたとき、キニュコス派(*英語cynic、皮肉な)の哲学者デモナクス(*AD70―170)は「まず憐れみの祭壇を倒さなければならない」と叫び、民衆のよりよい感情に訴えることに成功したのである。その後、競技はアテネに伝わってティアナのアポロニウス(*BC4―AD98)によって禁止されたと言われている。非常に多くの外国人が住んでいたコリントを除いて、ギリシャは全体的な熱狂を共有することはなかったようである。

 

 このような嗜好の最初の結果の一つは、通常の文明化に伴う穏やかで洗練された娯楽が人々にまったく不向きになったことである。命がけの闘いの激しい浮沈を見慣れた人々にとって、強い興奮を呼び起こさないような見世物は退屈だった。円形闘技場や野外大円形競技場の見世物に比肩する娯楽は、女神フローラの祭り、無言劇のポーズ、バレエなど、官能的情熱に強く訴えかけるものだけだった。ローマの喜劇は確かに短い期間繁栄したが、それはただ同様のものを扱っていたからに過ぎない。プラウトゥスの主な登場人物は女衒と高級娼婦であり、より控えめなテレンティウスは同等の人気を得ることはなかった。様々な形の悪徳は絶えず作用し、互いに影響し合う傾向がある。そして円形闘技場が必然的に生み出したであろう興奮への激しい渇望が、タキトゥスやスエトニウスが描写した官能の乱行を刺激した力は小さくなかったことだろう。

 

 剣闘士の試合とともに喜劇が多少栄えたとしても、悲劇ほどではなかった。確かに悲劇の役者は闘技場で目撃されたものよりも激しい苦悩や壮大なヒロイズムを表現することができる。彼の使命は昼の光の中にあるものを描くことではなく、人間の心の中にあるものを描くことである。彼の身振り、声調、外見は、彼が演じる人物が決して示したことがないようなものである。しかし彼はその人物が感じたであろう、しかし十分に現すことができなかっただろう感情を完全な激しさで観客に見せてくれる。しかし円形闘技場の激しいリアリズムに慣れた人々にとって、舞台の理想化された苦しみは印象的なものではなかった。シドンやリストリ(*ともに19世紀の女優)がどんなに天才的な演技をしても、生きた人間が血を流して彼らの足元に倒れ込むのを見続けてきた観客の心を動かすことはできなかっただろう。舞台の最も重要な機能の一つは、嫌悪の感受性を最高度に引き上げることである。ホラティウスがメデイア(*ギリシャ神話に登場する女性)は舞台で自分の子供を殺してはならないと言ったとき、彼は単なる恣意的なルールを言ったのではなく、この演劇の展開から必然的に生じるルールについて言ったのである。流血の光景にショックを受け、気分を害するのは洗練された教養ある嗜好の本質的な特性である。(*観衆が舞台上の殺人にショックを受けなくなるのは望ましいことではない)そしていくぶん危険なまでに感情と演技を切り離し、理想化された苦しみに人々の同情心を浪費させる演劇は、この感受性を最高度に発達させることによって少なくとも極端な形の残虐行為に対する障壁になっているのである。一方、剣闘士の試合はあらゆる嫌悪感を、それゆえあらゆる洗練された嗜好を消滅させ、演劇の永続的な勝利を不可能なものにしたのである。

 

 人間の苦しみを見たときに生じる本能的な衝撃や自然な嫌悪感は、動物の苦しみを見たときに生じるものと一般的に異なるものではないことは、過去と現在の経験によって十分に明らかである。後者はそれに慣れていない人にとって強烈な苦痛である。前者は習慣によって頻繁に絶対的に無意味な問題になる。もし一方のケースで感じる嫌悪感が他方のケースよりも大きいとすれば、それは私たちに自分たちの種を重んじるよう命じる生来の感情のせいではなく、単に私たちの想像力が動物よりも人間の苦しみを理解することが容易なためであり、また教育が一方のケースにおける感情を他方のそれよりもはるかに強めているからなのである。しかし人間が同胞のある一群を殺すことを犯罪ではないとみなすなら、すぐに野生動物を殺すときと同じように何のためらいもなく殺すようになるというのは最も明確に立証されている事実である。これが未開人の通常の状態である。植民地人とレッド・インディアンとは現在でもしばしば、猛獣を撃つのとまったく同じく、平然と互いを撃ち合う。そして戦争の歴史全体は―特に戦争が現在よりも野蛮な原理に基づいて行われていた時代において―この事実を示す例証になるのである。したがって現代において驚くべきことではあっても、ローマの観客たちが人間の虐殺を完全な平静さで観賞していたのはまったく不自然なことではない。幼少期から闘牛場に連れていかれるスペイン人は慣れない外国人が見ると恐怖に震える光景をも、すぐに平然と、あるいは楽しんで眺めることができるようになる。そしてそれが人間の苦痛の光景だったとしても、同じプロセスは同様に有効だろう。

 

 このような冷淡さを私たちは今、憤りとともに振り返る。しかし理解することは難しくとも、慣れによってそれを共有するほどに無感覚にならない人間はほとんどいないということはおそらく本当だろう。最も慈悲深い人物が、これらの競技が公然と罪のないものとされる国に住んでいたなら、ごく幼い頃にこの競技に連れて行かれ、それをロマンスの最初期の夢と結びつけることに慣れ、その後をただ感情の戯れに任せていたなら、最初の恐怖の発作はすぐに収まり、それに続く嫌悪感は次第に弱まり、興味の感情が喚起され、おそらくそれだけが支配する時が来ただろう。しかし人間の苦痛を見ることに対するこの絶対的な冷淡ささえも、剣闘士の試合から生じる悪のすべてではない。ある種の人々は自分の利益とは関係なく、ただ単に苦しみを苦しみとして見つめることにリアルで生き生きとした快楽を感じられるようにできている、という主張は悪徳を正当な利己心を置き換えたもの、または誇張したものに過ぎないと考える人々に強く否定されてきたし、この現象の実在を認めている他の人々もこれを非常にまれで例外的な病気として扱ってきた。現在の社会では―少なくとも極端な形のものは―そうであることが当然望まれているのだろう。しかし少年たちの習性を観察したことがある人なら、少なくともいくらかの痛みを与えて楽しむのは十分に一般的なことであるという意見に疑問を呈さないだろう。また犠牲者が知覚を持つ生き物でなかったなら、大人の男性のスポーツすべてがまったく同じ熱心さで行われるかどうかはわからない。しかし残虐な刑罰が一般的だったすべての社会において間違いなく際立っていたのは、人間の本性のこの側面だった。クラウディウスは剣闘士のショーで死にゆく者たちの表情を見るのが特別な楽しみだったと言われている。というのも彼は彼らの苦悩の変化を観察することに芸術的な快楽を覚えるようになったからである。剣闘士が倒れたとき、観客は助命か殺害かを親指の合図で示すのが通例だった。後者の場合、興行主は経済的な理由で人々の裁定を受け入れるのをためらったりはしなかった。

 

 これに加えて単なる新しさへの欲求が人々をあらゆる過剰な、あるいは洗練された野蛮に駆り立てたのである。単純な戦闘がやがて退屈になると、衰えた関心を喚起するため、ありとあらゆる残虐行為が考案された。あるときは鎖でつながれた熊と牛が砂の上を激しく転がり回った。またあるときは野獣の皮をかぶった犯罪者が赤熱した鉄や、先端に燃える松脂の付いた投げ矢で狂わされた牛の前に放り出された。カリグラの時代には一日で四百頭の熊が殺され、クラウディウスの時代には三百頭の熊が殺された。ネロの時代には四百頭の虎が雄牛や象と戦い、四百頭の熊と三百頭のライオンが兵士によって屠られた。ティトゥスによるコロッセオの献堂では一日で五千頭の動物が死んだ。トラヤヌスの下では、競技は百二十三日間連続で行われた。ライオン、虎、象、サイ、カバ、キリン、雄牛、雄鹿、さらにはワニや大蛇までもが、見世物に新味を加えるために使われた。また人間のいかなる形の苦痛にも不足はなかった。ゴルディアヌス一世(*在位AD238)は造営官のときに十二回の見世物を行い、それぞれに百五十から五百組の剣闘士が登場した。アウレリアヌスの凱旋では八百組が戦った。トラヤヌスの競技会では一万人が戦った。ネロは夜間、キリスト教徒の遺体に松脂で火をつけて庭を照らしていた。ドミティアヌスのもとでは弱々しい小人の軍隊が戦うことを余儀なくされた。また女性剣闘士が闘技場に降りてきて死んだことも一度や二度ではなかった。架空の人物になぞらえられた犯罪者は十字架に磔にされ、熊に引き裂かれた。またスカエウォラ(*敵に捕らえられたとき、平然と火の中に手を突っ込んで勇気を示した古代ローマの若者)に見立てられた者は、本物の炎に手をかざすことを強要された。そしてヘラクレス(*毒の痛みに耐えかね薪で焼かれて自殺)に擬された者は生きたまま薪の上で焼かれた。血への渇望があまりに強かったため、小麦の分配を怠る君主より競技を怠る君主の方が不人気だった。そしてネロこそ、この点で気前が良かったがために、おそらくローマの大衆に最も愛された君主だっただろう。ヘリオガバルス帝(*在位AD218―222)とガレリウス帝(*在位AD293―305:東方副帝、AD305―311:正帝)は、犯罪者が野獣に引き裂かれる光景を楽しみながら食事をしていたと伝えられている。後者については「彼は人間の血を見ずに食事をしたことがない」と言われている。

 

 このような事実をしっかりと見つめることは、私たちにとって良いことである。これらの事実は、人間の本性が沈むことのできる堕落の深淵を単なる哲学的論考よりも鮮明に示している。それは私たちが到達した道徳的進歩の真実性の印象的な証拠である。そしてそれはキリスト教が世界に及ぼした更生の力をある程度評価することを可能とする。剣闘士競技の廃止は完全にキリスト教の仕事だからである。哲学者は確かにそれを嘆き、優しい人はその悪影響を避けたかもしれない。しかし大衆にとっては魅力があり、それを打ち負かすことができたのは新しい宗教だけだった。

 

 またこの魅力は驚くべきものでもなかった。これほどまでに強い吸引力を持つ要素が組み合わされたページェントはかつてなかったからである。壮大な野外大円形闘技場、集まった宮廷の豪華な衣装、巨大な群衆の中を目に見えて駆け巡る熱狂の伝播、期待に満ちた息もつかせぬ沈黙、八万の舌から同時に湧き上がり、都市の最果てまでこだまする野生の歓声、戦いの素早い交替、示された素晴らしい勇気ある行動はすべて、想像力を陶酔させるにふさわしいものだった。剣闘士の数々の罪と隷属は、彼を取り巻く栄光の輝きの中でしばし忘れ去られた。ローマ人が徳の筆頭とみなした勇気を最高度に表現し、無数の人々の視線を集め、この世界の大都市の話題の中心となり、勝利すればモザイク画や彫刻の中で不滅のものとなる運命にある彼は、しばしば英雄的な威厳を身にまとうことになる。剣闘士スパルタクス(*AD?―71)は三年間、ローマの最も勇敢な軍隊に立ち向かった。ローマの最も偉大な将軍たちは自分の護衛に剣闘士を選んだ。剣闘士の一団は死に際しても忠実で、他の誰もが彼を見捨てたとき、倒れたアントニウスの後を追った。情熱に震える美しい瞳が戦いを見下ろしていた。そしてローマで最も高貴な女性たち、さらには皇后さえもが勝者の愛を切望することが知られていた。剣闘士たちは試合がめったに行われないことを嘆き、闘技場に降りることが許されないと激しく不平を言い、最も強力な敵以外と戦うことを蔑み、傷の手当てを受けると大声で笑い、ついに塵の中に倒れたときには勝者の剣に平然と喉を差し出したという話が残っている。彼らの周囲には非常に激しい熱狂が集まり、特別な法律が必要になるほどだった。そして時にはその法律も、貴族がその隊列に加わることを防ぐには不十分だった。彼らに決して死ぬことを失敗させなかった静かな勇気は、哲学者たちに最も印象的な事例を提供した。戦いの前に要求される厳しい節制は、ローマの生活の放縦さと鮮やかな対照をなし、剣闘士に道徳的な威厳さえ与えていた。また教父たちが全ての異教徒の中でキリスト教徒に最も近いモデルに剣闘士を選んだことは、非常に示唆的な事実である。聖アウグスティヌスは、友人の一人が見世物に引き込まれ、罪深いものと知っているその魅力から目を閉じて逃れようとしたときのことを語っている。突然の叫び声とともにその決意は崩れ、彼は二度と目を離すことができなくなってしまった。

 

 円形闘技場の影響が民衆を完全に支配するようになった一方で、ローマ人に道徳的感覚を宥めるための言い訳がなかったわけでもなかった。競技は先に述べたように元来―死者の宗教的儀式における―人身御供だった。そして剣闘士の死はホメロスの時代に墓で生け贄として捧げられた受動的な犠牲者の死よりも、名誉で慈悲深いものであると主張されたのである。戦闘員は職業的剣闘士、奴隷、犯罪者、または軍の捕虜だった。最初の者の運命は自発的なものだった。二番目の者は長く自由人の保護の下にあるか、外にあった。しかし、共感の輪が広がり、ローマ人が奴隷を「第二の人間」と見なすようになると彼らに競技をさせることの残虐性が認識され、皇帝の勅令によってそれは禁じられた。三番目は死刑囚だった。しかし勝った剣闘士は少なくとも恩赦を受けることがあったため、戦いの許可はむしろ慈悲と見なされた。初期のローマ人が現代人のように四番目の者の運命を恐怖することはなかった。征服者が捕虜を殺戮する権利はほとんど誰もが認めていたからである。しかしローマ帝国のモラリストの中で、競技をある程度制限することを望むより先に踏み込む者は極めて少数だった。罪人の死さえも見世物にして民衆の娯楽とするのは恐ろしく、不道徳なことであるという立場にはローマのどの学派も到達しておらず、ごく少数の個人が到達していただけだった。キケロは「剣闘士の見世物が残酷で非人間的に見える人もいる」と述べ、さらに「今のやり方がそうでないかどうかは知らないが、罪人が戦うことを強いられるとき、その苦痛と死を人々に見せるよりも良い戒めはないだろう。」と述べている。セネカの言葉がより称賛に値するものだったことは事実である。彼は情熱的な雄弁を用いて競技を糾弾した。彼は戦闘員たちの罪を根拠とする議論に憤然と反論した。こうした娯楽はあらゆる形態と変化において、獣的で、野蛮で、憎むべきものであると断じた。プルタルコスはさらに踏み込んで、野獣の戦いを非難した。なぜなら人間はすべての意識ある生き物と共感の絆を持つべきであり、血と苦しみのショーは必然的かつ本質的に退廃的なものだからである。これらの例に加え、内戦に関する詩において見世物を非難したペトロニウス、ヴィエンヌ(*現フランス中部の都市)の住民に見世物を許可せず、皇帝の諫言に「ローマでもこのような見世物を廃止することができればどれだけ幸せなことでしょう!」と答えたユニアス・マウリクス(*AD1世紀の元老院議員アルレヌス・ルスティクスの兄弟)、さらに鈍い剣で剣闘士を戦わせて一時的に彼らを比較的安全にしたマルクス・アウレリウスが挙げられるだろう。しかし、この時代の最も目につく最も残虐な特徴に対して異教徒が抗議した例は、すでに述べたアテネ人の諌めとともに、ほとんどこれだけしか残っていない。ローマの風俗の全ての分野を手厳しい風刺で網羅し、奴隷に対するあらゆる残虐行為を激しく非難したユウェナリス(AD60―140)は、剣闘士ショーに何度も注目した。しかしそれが慈悲に反するとは一度も言っていない。それを記録した偉大な歴史家たちの中で、誰一人として自分が野蛮なことを記録していると意識していた者はいなかった。そして快楽に向かう風潮の高まりと危険な集団の過剰な増殖以上の害悪をそこに見出した者はいなかったようである。ローマ人は人を優しく慈愛深くするのではなく、勇敢で恐れを知らぬ者にしようとした。そして優しさを犠牲にしてでも死の恐怖に立ち向かう心を鍛えるショーは、称賛されるべきものとその目に映っていた。ティトゥスとトラヤヌスの治世では、おそらく短時間に最も多くのショーが行われた。二人とも際立って寛容な人物だったが、一方の治世では3,000人、他方では10,000人の剣闘士が戦うことを強いられたという事実が彼らの人格にわずかな影を落とすことになるとはローマ人も想像しなかったようである。スエトニウスはティトゥスの人柄の良さを示す一例として、剣闘士の戦いの最中に民衆と冗談を交わすのが常だったことを挙げている。そしてプリニウスは特にトラヤヌスを称賛しているが、それは彼が人格を弱めるようなものではなく、人を「気高い負傷と死の軽視」に駆り立てるショーを推奨したからである。この論者は多くの点で優しさと慈愛に優れていたが、ヴェローナの人々の見世物の要求に応じた友人を熱く称賛し、次のような驚くべき一文を書いている。「これほど多くの求めがあったのにもかかわらず拒否するのは毅然とした態度ではなく、残酷である。」四世紀の終わりにも、その時代の最も尊敬すべき異教徒の一人とみなされていた長官シンマコス(*クィントゥス・アウレリウス、AD345―402)が、息子の祝い事で戦わせるためにサクソン人の囚人を集めた。彼らは獄中で自ら縊死し、シンマコスは彼らの「不敬な手」によって自分に降りかかった不幸を嘆いた。しかしソクラテスの忍耐と哲学の教訓を思い起こして気持ちを鎮めようとした。

 

 私はローマ人の生活のこの側面の極端な残虐性を隠したり、軽んじたりする気は毛頭ない。しかしそこにはある種のごく自然な誇張があり、それに対して私たちは警戒する必要がある。人間の本性には、とりわけ博愛の情の行使には、不平等、矛盾、異常があり、理論家はそれを必ずしも考慮に入れていない。古代ローマで剣闘士の戦いを楽しんだ人間は、同じような見世物を楽しんだ現代人と同じように非人間的であると考えるなら、それは全くの誤りだろう。自分の慈悲深い時代の基準より少しばかり劣る人間は、もっと野蛮な時代の基準に適合していた人間より、実際にはずっと悪いことが多い。たとえ後者が、前者が恐怖で尻込みするようなことを完璧な平静さで行っていたとしてもである。私たちは善意と悪意の両方の感覚を局在化する力を、時に推測されるよりもはるかに強く持っている。ある人物がある特定の集団に対して非常に親切だったり、非常に厳しかったりする場合、これは通常、そして全体として当然その人物の一般的な性格を示す指標とみなされる。しかしこの推論は絶対に確実なものではなく、容易に行き過ぎてしまう。自分の親切心のすべてを一つの集団に費やし、その外側のすべてを完全に冷淡に扱うように見える人々がいる。またある集団を自分の共感の埒外と見なし、他の領域では生き生きとした不変の愛情を示す人々もいる。野蛮な習慣には微塵の抵抗もなく従うが、習慣によって神聖化されていない同じように野蛮な行為を全く受け入れない人々がたくさんいる。私たちの情緒はその性質上、非常に気まぐれなので、最も妥当と思われる推論を経験の列挙によって修正することが常に必要なのである。たとえば動物に対する残酷さは当然人間に対する残酷さにつながる心の習慣の前兆であり、それを促進するというのは疑いのない、非常に重要な真実である。一方、動物に対して優しい慈悲深い性格は、一般に穏やかで愛情豊かな性格を伴う。しかしこの原理を慈愛の絶対的な基準として採用するなら、すぐに誤りに気付くことになる。ドミティアヌスがハエを殺して野蛮な性癖を満足させたという、いささか陳腐な逸話がある。それに対してスピノザは人類の中で最も純粋で、最も穏やかで、最も慈悲深い人物の一人だったが、彼の人生のほとんど唯一の娯楽はハエを蜘蛛の巣に入れて、その闘争と死を観察することだったと言われている。フランス革命の間、人間の苦しみに最も絶対的に冷淡だった人々の非常に多くが動物に深い愛情を持っていたことが知られている。フルニエ(*クロード、レリティエ、1745―1825)はリス、クートン(*ジョルジュ・オーギュスト、1755―1794)はスパニエル、パニス(*エティエンヌ・ジャン、1757―1832)は二羽のキジ、ショメット(*ピエール・ガスパール、1763―1794)は鳥、マラー(*ジャン―ポール、1743―1793)は鳩を大切にしていた。ベーコンは残酷な民族であるトルコ人が、それでも動物たちに対する優しさにおいて際立っていることに気がついた。そして長い嘴の家禽に猿轡をしたために石で打たれそうになったキリスト教徒の少年の例について触れている。エジプトには引退した猫のための病院があり、最も忌まわしい昆虫でさえ優しく扱われるが、人間の命はまるで重要でないかのように扱われ、人間の苦しみはほとんど注意を引かない。このような対照は東洋のすべての国で多かれ少なかれ見られる。一方、スペインでは闘牛への激しい情熱が最も活動的な博愛と最も愛情豊かな気質と両立することを、旅行者は異口同音に述べている。また別の分野に目を向けるなら、征服者はその野心のために大勢の人間を完璧な無慈悲さで犠牲にするが、孤立した個人の扱いにおいては常に温情が目につくということも珍しくない。この種の異常は、ローマ人の中に絶えず現れている。闘技場の砂が人間の血で赤く染まるのを喜んで見下ろしていた同じ人たちが、テレンティウスの有名なセリフが人間の普遍的な兄弟愛を宣言したとき、劇場で拍手喝采したのである。元老院がある貴族を殺害した犯人を発見できず、その400人の奴隷を死刑にすることを決定したとき、民衆はその判決に表立って反抗した。アウグストゥスの時代、自分の息子を折檻して死なせてしまったエリクソという騎士は、憤慨した民衆によって八つ裂きにされそうになった。ある元老院議員がその愛人が見物できるような時間に処刑を行ったという理由で、大カトーは彼の地位を剥奪した。円形闘技場にも、穏やかな精神の痕跡が残っていた。ドルスス(*ネロ)は血を見ることを目に見える形で喜んだことで人々の不興を買い、カリグラは死を見ることに好奇心を持ちすぎていた。カラカラは少年時代、犯罪者の処刑に涙を流して熱狂的な称賛を得た。ローマで最も人気のある見世物のひとつが綱渡りだった。そして当時も現在と同様、綱は地上から非常に高い位置に張られ、見かけ上、そして実際に危険であることがその興行に悪趣味を添えていたのである。マルクス・アウレリウスの治世に事故が起こり、皇帝はいつものような細やかな慈愛を発揮して、下に網や敷物を置かずに綱渡りをすることを禁止した。コロッセオで捕虜の血が水のように流れていたローマ帝国の最悪の時代の一世紀以上にわたって、どのキリスト教国も採用していなかったこの予防措置が続いたというのは非常に不思議な事実である。慈愛の水準は非常に低かった。しかしその感情は、その発露において気まぐれで一貫性がなかったものの、まだ明白だった。

 

 私の上記のスケッチはローマのモラリストたちとローマ人の間に存在した大きな隔たりを示すのに十分であろう。一方には倫理体系がある。その教えの範囲と美しさ、それが訴える動機の崇高さ、迷信的要素からの完全な解放を考慮するなら、それに匹敵するものはあったかもしれないが、それを超えるものはなかったと言って過言ではないだろう。他方には、道徳的な制度や職業や信条がほとんどなく、必然的に全般的な堕落をもたらす経済的、政治的システムの下に存在し、最も残虐な娯楽に熱中している社会がある。道徳律は理論的包容性において拡大していたが、実際の適用において縮小していた。初期のローマ人は非常に狭く不完全な義務基準を持っていたが、彼らの愛国心、軍事制度、そして強いられた生活の簡素化がその道徳基準を本質的に普及させていた。後期ローマ人は義務について非常に高度で精神的な観念を獲得していたが、弟子のグループを抱えた哲学者、あるいは数少ない読者を抱えた論者には民衆との接点がほとんどなかったのである。古代の哲学者たちの大きな現実的問題は、いかにして大衆に働きかけるかということだった。徳のなんたるかを人々に告げ、その美しさを讃えるだけでは不十分である。もし国民の人格を形成し、常習的な悪を根絶しようとするなら、それ以上のことをしなければならない。

 

 この問題にローマのストア派は対応できなかった。この問題にローマのストア派は対応できなかった。しかし、彼らは自分の力を発揮することはしたし、その努力は社会の病弊には全く不十分であったが、決して軽蔑すべきものではなかった。第一に、彼らは多くの偉大で優れた支配者を育て、彼らは徳の大義のためにその地位の影響力をすべて行使した。多くの場合、これらの改革は最初の悪い皇帝が即位すると廃止されたが、少なくともいくつかは残った。アクティウムの戦い(*BC31)からガルバの治世)までの間に最も度を越していた食卓の贅沢が、この時期から縮小し始めたことが観察されている。この変化は主に、多くの地方議員を導入してローマ貴族制度をいくらか改革し、宮廷を最も厳しい倹約の模範とした、ウェスパシアヌスによるものとされている。ネルウァ帝(*在位AD96―98)の即位からマルクス・アウレリウスの死までの八十四年間は一様に他の専制君主制国家が追随できないほどの善政が敷かれていた。当時君臨していた五人の皇帝は、いずれも史上最高の統治者たちの一人に数えられるにふさわしい。トラヤヌスとハドリアヌスは、個人的な性格において最も不完全だったが、偉大で傑出した才能を持つ人物だった。アントニヌスとマルクス・アウレリウスは政治家としてはそれほど優れていなかったが、これまでに玉座についた中で最も完全に高潔な人物だった。この時期の四十年間、文明世界全体は完全で途切れることのない平和に支配されていた。蛮族の侵攻はまだ始まっていなかった。帝国を構成するさまざまな民族は、完全な内政と完全な知的自由に満足し、政治的自由特権にはまったく関心を示さなかった。そして現在では三百万人以上の兵士が守っている地域を、三十万人あまりの兵士が守っていたのである。

 

 このような状況を作り出す上でストア派は帝国の主要な道徳の担い手として圧倒的とまではいかないまでも、かなりの影響力をもっていた。他の方面ではその影響力はより明白で排他的だった。「賢者は公的生活に参加すべきである」というのがこの学派の基本的な格言だった。それゆえストア派が栄えれば愛国心が復活しないことはありえなかった。新プラトン主義者を夢見る神秘主義者に、カトリック信者を役立たずの隠者に変えたのと同じ道徳的衝動が、ストア派を祖国のための危険な最前線へと駆り立てたのである。ローマの徳のランドマークが次々と水没し、贅沢と懐疑論と外国の習慣と外国の信仰が国民生活の骨組み全体を腐食している間、失効した自由特権の最後の発作の中で、その崩壊のすぐ後に始まった悪徳の恐ろしいカーニバルの中で、ストア派は変わることなく過去の代表者であり支持者だった。カトー、トラセア、ヘルウィディウス、ブルトゥスといった人物に導かれ、徳の党という高貴な称号を得た党は、専制と変節の最も暗い時期にローマの徳とローマの自由特権の旗を掲げた。宗教的な熱意を政治に持ち込むすべての人々と同様、彼らはしばしば偏狭で不寛容、社会の必然的な変化には盲目で、妥協ができず、乱暴で不適当な要求もした。しかし彼らの高貴な節操と勇気はその誤りを償って余りあるものだった。彼らの生活の厳かな純粋さと死の英雄的な荘重さは、ネロやドミティアヌスの下でもローマの自由特権の伝統を守り続けた。このような人々が存在する限り、すべてが失われることはないと考えられていた。自由の集結地点、新たに芽吹くかもしれない徳の種、帝国の専制と腐敗に対する生きた抗議がまだあったのである。

 

 ストア派が民衆道徳に与えた第三の、さらに重要な貢献はローマの法学の形成だった。ギリシャとローマがその支配権をめぐって争った多くの知的努力の中で、これは後者の優位に議論の余地がない唯一のものだろう。ローマ人の詩人が「諸国民を支配していること」を同胞の最高の誉れとしたことは正しかった。そして彼らの行政における非凡な才能は、今に至るまで歴史上に比類がない。法に対する深い敬意は長い間、彼らの主要な道徳的特徴の一つだった。そしてそれを早い時期から教え込むため、ローマの教育制度の一環として子供たちに十表の法を暗記させることが義務付けられていた。しかし共和国の法律は民衆を支配的する、地方的、軍事的、聖職的精神の契約の表現であって、帝国の政治的、知的拡大には必ずしも適していなかった。アウグストゥス時代にストア派のラベオ(*マルクス・アンティスティウス、BC?―11)によって始められた刷新は、ハドリアヌスとセウェルスの時代にも熱心に続けられ、テオドシウス(*2世、東帝、在位AD408―450)とユスティニアヌスの有名な編纂物によって世に出た。この運動において二つの部分を観察しなければならない。ローマの偉大な法律家たちによって、法学者の理想―特定の法律を制定する目標―とでもいうべき、ある種の一般的な指導のルールが定められた。法が言及していないか、または曖昧な場合に、裁判官を導くための公平(*equity)の原理である。また特定のケースに対応するための明確な制定法も存在した。前者の部分はシンプルにストア派から借用したものだった。その理論と方法は哲学の学校の狭い輪から抜け出して、文明世界の道徳的な目印と公認されるようになった。ストア派と初期のローマ思想の根本的な違いは、前者があらゆる階級や国家の制約を超越あるいは圧倒する人類の団結の絆の存在を主張していたことだった。ストア派の方法の本質的な特徴は自然の法則の存在を主張することであり、哲学の目的はそれに従うことだった。この信条はローマの法律家たちによって、最も無制限に語られた。ウルピアヌスは「自然法に関する限り、すべての人間は平等である」と言った。パウルス(*ジュリアス、プルデンティシムス、AD1―2世紀)は「自然は私たちの間に確かな関係を築いた。」と言った。ウルピアヌスは「自然法によって全ての人間は生まれながらにして自由である。」と宣言した。フロレンティヌス(*4世紀末の政治家)は奴隷制を「ある人間が自然の法に反して、他の人間の支配下に置かれる国法上の習慣」と定義した。こうした原理に従ってローマの法律家の間では、奴隷か自由かの二者択一が問題になるような疑わしい事件では裁判官の判断は後者をとるべし、というのが格言となった。

 

 ローマの法律は二重の意味で哲学の子だった。第一にそれは哲学的モデルの上に築かれたものであって、社会の既存の要求に合わせた単なる経験的な制度ではなかった。抽象的な正義の原理を定め、それに法律を従わせようとしたのである。そして第二に、これらの原理はストア派から直接借用されたものだった。この学派がローマのモラリストの間に占めていた際立った地位、彼らの公共の問題への積極的な介入、またその用語の正確さと簡潔さが法律家たちに気に入られていた。そしてこのとき法律と哲学の精神が融合したことは今なお感じることができる。後世の最も道徳的で、そして最も影響力があり、しかし最も空想的な政治的思索の基礎となった、あらゆる人間の制定法を超えた自然の法の存在の明確な認識は、主にストア派とローマの法律家たちの功績とするべきである。またローマ法の研究の復活は宗教改革に先立つリバイバルの重要な要素であった。

 

 これらの原理が実際の立法にどのように適用されたかを詳細に追うことは本書の目的ではない。ストア派の普遍的、人道的原理がある程度浸透していない部門はほとんどなかったというだけで十分である。政治の世界では、すでに見たようにローマの市民権はそれに付随する保護と法的特権とともに、小さな階級の独占物だったが、徐々に、しかし非常に広く拡散した。家庭においては、古い法律が家族の父親に与えていた権力は消失こそしなかったものの大幅に縮小された。そして以下に少しばかり言及する価値のある重要な革新が帝国の社会制度に導入された。

 

 道徳の年表において家庭の徳が他のすべてのものに優先するのは当然である。その初期の段階にはたった一つの条項しかなかった―家長に対する絶対的な服従の義務である。義務の相互性が感じられ、文明の全体的な傾向が家族のメンバー間の格差の縮小に向かうのは、後にいくらかの愛情が生まれた後の事である。私は後の章で妻が単なる奴隷から、夫の仲間になり対等な存在になった過程をたどるつもりである。父親と子供との関係は教育の中に愛情が占める新しい立場によって大きく変化する。教育は未開の国では主に権威に、文明社会では共感に立脚している。ローマでは家長の絶対的な権威は、立法者が支持するべき目標である規律と服従の体系全体の中心であり原型だった。親孝行は第一の義務として強いられていた。ウェルギリウスによればこれは民族の始祖が驚くほど身に着けていた徳だった。老人に払われる表面的な尊敬の念はスパルタと比べても、ほとんど劣ることはなかった。親が子供に対してこれほど大きな権限を持つ国は他にない、というのが法律家たちの誇りだった。子はまさに父親の絶対的な奴隷であり、父親はいつでもその命を奪い、その全財産を処分する権利を持っていた。子が父親の存命中にこの束縛から解放されることはなかった。五十歳の男、執政官、将軍、護民官も、この点では幼児と同じ立場にあり、いつ父親の命令によって、労働から得られるすべての収入を奪われ、最も下等な仕事に追いやられ、あるいは死刑にされるかもしれなかった。

 

 この法律が少なくともその存在の後期においてその目的に失敗していたことにはほとんど疑いの余地がないだろう。これほどまでに不幸な家庭を生む間違った教育はないだろう―親は子供の信頼を得ようとする前に、服従を命じようとしたのである。これがローマの立法者が親に指し示した道だった。それは当然の帰結として、若者の共感を冷めさせ、憤慨を引き起こした。親孝行は全ての徳の中で、おそらくローマの歴史に現れる頻度が最も少ないものである。プラウトゥス(*BC254―184)の劇においてそれは王政復古期(*謹厳な清教徒政権の反動で放縦な時代であったとされる)英国の劇作家が夫婦の貞節を扱ったような頻度でしか扱われていない。ティベリウスの治世の歴史家は、内戦は妻の夫への献身、奴隷の主人への献身、息子の父への裏切りや無関心などの多くの実例を提供することで等しく注目に値すると述べている。

 

 異教徒の帝国時代に行われた改革は家族を再構築するものではなかったが、少なくともその専制性を大きく緩和した。この問題に関する感覚の重大な変化は、古代ローマ人の子供を死に至らしめた親への敬意ゆえの尻込みしながらの黙認と、アウグストゥス政権下でエリクソの行為が引き起こした憤りとの対比に見て取れる。ハドリアヌスは自分の息子を暗殺した人物を明らかに専制的な権力を用いて追放した。嬰児殺しは禁止されていたが、真剣に抑制されてはいなかった。しかし成人した子供を死刑にする権利はアレクサンデル・セウェルスが正式に父親から取り上げるずっと前から廃れていた。また子供の財産権もわずかながら保護されていた。嫡出の子たちの相続分がなかったため遺言が無効とされた例もいくつか記録されている。またハドリアヌスは二人の前任者が弱々しく始めた政策を引き継いで、息子が自ら軍務で獲得したもの全てについて絶対的な所有権を与えた。ディオクレティアヌス帝(*在位AD284―305)は父親が子供を売ることをいかなる場合にも違法とした。

 

 奴隷制度の分野では法制度の改革はより重要なものだった。この制度は実にローマの道徳史のあらゆる場面で私たちを待ち受けているものであって、本章でもすでに二回この制度について言及している。私はローマ人の生活において奴隷の要素が非常に重要であったことが、帝国の哲学の特徴である共感の拡大の原因の一つだったこと、また奴隷制度は非常に強力なものであって、いくつかの異なる道筋で自由人階級の腐敗の原因になったことを示した。奴隷自身の状態については三つの時期に分けられると考えてよいだろう。共和国の初期の単純な時代には一家の長は奴隷の絶対的な主人だった。しかし環境が専制の弊害をかなり緩和していた。奴隷の数は非常に少なかった。ローマの所有者は通常一人か二人の奴隷しか持ってなかった。彼らは土を耕すのを手伝い、主人が出征で不在のときは財産を管理した。当時の質素な習慣の中で、主人は奴隷と最も親密な関係を築いていた。主人と奴隷は労働と食事を共にし、主人の奴隷に対する支配はほとんどの場合、息子に対するものとほとんど変わらなかっただろう。このような環境下で奴隷に対する大きな蛮行は常に有り得たが、一般的なものではなかっただろう。また宗教による保護が習慣の力に加わっていた。労働の神であるヘラクレスは奴隷の特別な保護者だった。スパルタはかつてヘロート(*共有奴隷)たちを裏切って殺したため、その報復としてネプチューンが起こした地震によってほとんど破壊されてしまったという伝説がある。ローマではかつてユピテルがある男に夢の中で、公の競技における奴隷の残酷な扱いに対する神の怒りを元老院に告げるよう命じた、と言われている。権威ある法律によって奴隷たちは宗教的祭事の際の野外労働を免除されていた。特に彼らのために設けられたサトゥルナリア(*農神祭)とマトロナリア(*出産の女神の祭)はローマで最も人気のある祝日であって、これらの日には奴隷が主人と同じテーブルにつくのが慣例だった。

 

 しかしこの時代にも時には大きな残虐行為があったことだろう。極端な虐待には監察官が干渉しただろうが、法律はあらゆることを許可していた。初期ローマ人の貴族的感覚は日々の労働を共にすることによっていくらか矯正されていたが、時に自分以外のすべての階級に対する激しい蔑視となって噴出した。前期ローマ人の典型と考えられる大カトーは、奴隷を単に富を得るための道具と語っていた。そして老いたり弱ったりした奴隷は役に立たないものとして売るよう、その教えと模範によって主人たちに勧めた。

 

 次の時代には奴隷の状態は大きく悪化していた。ローマの勝利、特に東方での勝利は無数の奴隷と最も放縦な贅沢を都市に持ち込んだ。そして主人の専制は法律で制限されないままであり、以前からそれを緩和してきた生活習慣は消滅していたのである。同時に人々の良心的感情も致命的に損なわれていた。そして多くの新しい動機が一緒になって悪に拍車をかけた。剣闘士ショーへの情熱が始まり、苦しみを与えることに対する野蛮な冷淡さを絶えず生み出していた。シチリアの奴隷戦争とスパルタクスの反乱はイタリアの中心を揺るがし、すべての家庭がその衝撃を感じた。「奴隷のように多い敵」というのがローマの諺になった。蛮族の捕虜の激しい闘争は恐るべき罰による報いを受け、反乱を起こした何千人もの奴隷が十字架の上で死んだ。市民の安全を確保するために、主人が殺された場合、その家の奴隷のうち鎖につながれている者と病気で全く無力な者以外はすべて死刑に処する、という残虐な法律が制定された。

 

 また最も忌まわしい野蛮な行為も数多く行われた。フラミニウス(*ガイウス、ネポス、BC?―217)は客の好奇心を満たすために見世物として奴隷を殺すよう命じた、ウェディウス・ポリオ(*政治家、BC?―15)は奴隷の肉を魚に食べさせた、アウグストゥスは可愛がっていたウズラを殺して食べた奴隷に十字架刑を宣告したという有名な逸話は記録に残る最も極端な例である。ただしローマの婦人が気まぐれで罪もない使用人を十字架につけるよう命じたというユウェナリスの有名な描写は歴史的事実ではないだろう。しかし共和国末期から帝政初期にかけての奴隷の生活について、他にも非常に恐ろしい光景を垣間見ることができる。法律は奴隷の結婚を全く承認していなかった。彼らにとって姦淫、近親相姦、一夫多妻という言葉は法的な意味を持たなかった。法廷において彼らの証言は一般に拷問によって得られたものしか採用されなかった。犯罪ゆえに処刑されるとき、彼らの死は最も恐ろしい種類のものだった。エルガストゥーラすなわち主人の私的な牢獄はしばしば彼らの唯一の寝床になった。年老いた奴隷や病弱な奴隷はよくテヴェレ川に浮かぶ島に捨てられて死んでいった。鎖でつながれて門番をしていた奴隷、また鎖につながれて畑を耕していた奴隷の記録もある。オウィディウスやユウェナリスは、使用人の顔を引き裂き、ブローチの長いピンをその肉に突き刺した獰猛なローマ女性たちについて書いている。共和国末期には主人は奴隷を剣闘士として、あるいは野獣と闘う戦士として売ることができる完全な権利を有していた。

 

 これらはすべて非常に恐ろしいことだが、この状況には別の側面があったことを忘れてはならない。多くの教会系の論者は帝国の異教徒社会を一種の伏魔殿として描くのが通例である。この目的のために彼らは私が引用した事実、そのほとんどがローマの風刺作家や歴史家によって語られた最も極端でぞっとするような残虐行為の実例を収集するのである。彼らはそれを奴隷階級の通常の扱いの公正な見本として紹介する。そして主張されるであろう多くの緩和的な事実を考察から完全に締め出しているのである。奴隷の結婚は法的に認められてはいなくとも慣習によって承認されており、その家族を引き離すことは一般的ではなかったようである。すでに触れた二つの習慣が古代の奴隷制度を現代のそれと大きく区別している。ペキュリウムすなわち奴隷の私有財産を主人は十分に認めていた。奴隷の死後、その一部または全部が主人に戻るのが普通だったが、中には奴隷の遺言による処分を認める主人もいた。奴隷の解放は都市の人口に深刻な影響を与えるほどに行われた。キケロによると勤勉で行いの良い捕虜は、一般的に六年すれば自由になることを期待できたようである。個々のひどい残虐行為は疑いなく存在した。しかし世論はそれを強く非難した。そしてセネカは奴隷を不当に扱う主人は街頭で指さされ、侮辱されたと証言している。奴隷は必ずしも後世に見られるような劣悪な存在ではなかった。ローマ人の病気を治した医者も、息子の教育を任せた家庭教師も、都市で称賛を浴びた芸術家も通常は奴隷だった。奴隷たちは時に家庭で主人と仲良くし、いつも同じ食卓を囲み、主人の最も温かい愛情を受けていた。キケロの奴隷であり、後に解放奴隷になったティロは主人の手紙を編纂した。そしてその中にはキケロから彼に宛てた最も誠実でデリケートな友情の言葉が残されている。小プリニウスが何人かの奴隷の死に対する深い悲しみを吐露し、死ぬ前に彼らを解放したので、少なくとも彼らは自由の身で死んだのであると考えて自分を慰めようとした手紙については既に述べた。エピクテトスは奴隷だったが、たちまち皇帝の友情を得るようになった。奴隷の大増殖は彼らを主人の共感から遠ざけたが、少なくともほとんどの場合、彼らの負担を軽減したに違いない。奴隷の証人に拷問を加えるのは恐ろしいことではあるが、滅多にないことで、法律によって注意深く制限されていた。多くの悪習が育まれたことは間違いない。しかし、それでも内戦や帝国の年代記には奴隷たちの忠実さを示す最も素晴らしい実例がふんだんにある。多くの場合、奴隷は主人を裏切るよりも自由特権の恩恵を断って最も恐ろしい拷問に立ち向かい、他のすべての人々が主人を見捨てたときに逃亡に同行し、危険から救うために不屈の勇気と不断の工夫を示し、ある場合には意図的に自分を犠牲にして主人の命を救ったのである。このことは実際にしばらくの間、ローマの卓越した徳だった。そしてまた時に主張されるほどに主人は専制的ではなく、奴隷は堕落していなかったことを決定的に証明している。

 

 奴隷に対する慈愛の義務は、いつの時代も哲学者が最も熱心に説いたものの一つだった。プラトンとアリストテレス、ゼノンとエピクロスはこの点に関して実質的に一致していた。ローマのストア派も同様にこの義務を強調していた。特にセネカは、地位の偶然は人間の真の尊厳に何ら影響を与えないこと、奴隷は徳によって自由になりうるが、主人は悪によって奴隷になりうること、奴隷に対するあらゆる残酷さだけでなくあらゆる蔑視さえも避けることが善人の義務であることを忘れるな、という主人への勧告で紙面を埋めている。こうした勧告の中にキリスト教の影響を発見したと考える者もいる。しかしこれらは実際には古代ギリシャの教えの、そして特にストア派の創始者ゼノンがキリスト教の夜明けよりずっと前に打ち立てた「すべての人間は本来対等であり、彼らの間に差をつけるのは徳だけである。」という大原則の繰り返しに過ぎない。平和だったアントニヌス朝の緩和的な影響力はこの慈愛の働きを助けた。奴隷はカエサルの専制政治の最悪の特徴の一つから、ある偶発的な利益を得ていた。自らの命や権力に対する陰謀を常に懸念していた皇帝たちは、重要な臣下に数多くのスパイを送り込んでいたのである。そして奴隷は主人の行動を容易に知ることができたため、政府は奴隷たちに好意を持つようになった。

 

 このような影響の下で奴隷の法的立場を大きく変える多くの法律が公布され、ローマの奴隷制の第三期とでも言うべき時代が始まった。アウグストゥス、というよりむしろネロによって発布されたペトロニア法は、主人が裁判官の判決なしに奴隷を野獣と闘わせることを禁じたものである。クラウディウスの時代、一部の市民は病気の奴隷をテヴェレ川のエスクラピオス島(*ティベリーナ島)に捨て、世話をする手間を省こうとした。皇帝は、捨てられた奴隷が病気から回復すれば自由を得ること、また奴隷を捨てる代わりに殺した主人は殺人者として罰せられる、という布告を出した。エスクラピオス神殿に捨てられた奴隷には救いの手が差し伸べられた可能性もある。またこの法律から奴隷の理由のない殺害はすでに違法だったことがわかる。この頃、皇帝の像は奴隷の避難所となっていた。ネロの時代には彼らの訴えを聞くために裁判官が任命され、奴隷を残酷に扱ったり、欲望の道具にしたり、十分な生活必需品を与えなかったりした主人を罰するよう命じられた。その後、かなりの間が空いた。しかしドミティアヌスは官能的な目的のために奴隷の体を切断する(*去勢して男娼にする)東洋の習慣を禁じる法律を制定し、それはその後何度も繰り返し制定された。そしてアントニヌス朝の時代にも改革の更新に大きなエネルギーが費やされた。ハドリアヌスとその二人の後継者は、主人から奴隷を殺す権利を正式に奪い、ラニスタすなわち剣闘士の元締めに奴隷を売ることを禁じ、エルガストゥルムすなわち私的監獄をなくし、主人が殺されたときに拷問するのは音の聞こえる範囲にいた奴隷だけ

に制限するよう命じ、州に奴隷の訴えを聞く役人を置き、主人が奴隷を苛酷に扱うことを禁じ、それが明らかになった場合、主人に不当に扱った奴隷を売ることを命じた。これらの法律に法学者がストア派から借用した、裁判官の判断の指針となる原理を与える、人類の本質的な平等を主張する広範な公平性の格言を加えるなら、帝国ローマの奴隷制度が一部のキリスト教諸国のそれと比較して決して非難されるべきものではないことを認めざるを得ない。

 

 ストア派の原理や用語のかなりの部分が公法の体系に組み込まれた一方で、ローマの哲学者たちは、より直接的に人々に働きかける手段を持っていた。家族の死は人の心が最も感じやすいときであり、哲学者は遺族を慰めるために呼ばれるのが常だった。死にかけた人々は人生の最後の時に彼らの慰めと支えを求めた。彼らは実践的道徳の込み入った事例の解決のために、あるいは落胆や自責の中にあって彼らに頼ってくる大勢の人々の良心の指導者になった。彼らはあらゆる悪徳に対して特別な勧告を行った。そしてあらゆる人格に適応する救済策を持っていた。悪人や分別のない者が哲学者に見出され、魅了され、彼の指導の下、長い道徳的訓練を経て、ついには高い徳に到達した転向の事例が数多く挙げられている。教育は大いに彼らの手に委ねられた。多くの名家が現代であれば家庭内牧師とでもいうべき哲学者を抱えていた。一方で大衆的な説教の体系が作られ、広く普及した。

 

 これらの説教者の中には、その性格と手法において大きく異なる二つの集団があった。一つは「ストア派の修道士」と呼ばれるキニュコス派で、異教徒の帝国の後期モラリストの間ではカトリックにおける托鉢僧のような地位だったようである。エピクテトスの並外れて興味深い論文にはキニュコス派が目指すべき理想像が描かれているが、これを読むとキリスト教の修道士との類似に驚かずにはいられない。キニュコス派は、全人生を人類の指導に捧げる人間でなければならない。彼は未婚でなければならない。彼のエネルギーを逸らせる、あるいは希薄にするような家庭の情を持ってはならないからである彼は。最もみすぼらしい服を着て、むきだしの地面で眠り、最も簡素な食事をし、この世のあらゆる快楽を断ち、それでいて常に上機嫌で満足している実例を世に示さなければならない。彼自身がユピテルに召され、助けられているということを信じられないなら、神を怒らせることを覚悟の上でそのような人生を選んではならない。神の使者として人々の間を行き来し、季節の変わり目には、人々の軽薄さ、臆病さ、悪徳を叱責することが彼の使命である。彼は市場で金持ちを呼び止めなければならない。街道で民衆に説教しなければならない。彼は敬意も恐れも持ってはならない。彼はすべての男性を自分の息子、すべての女性を自分の娘と見なさなければならない。嘲笑する群衆の中でも、人々に石かと思われるような穏やかな落ち着きを示さなければならない。虐待や追放や死も、彼にとって何ら恐怖すべきものではない。彼の人生の規律はこの世のあらゆる束縛から彼を解き放っているからである。そして彼が打たれた時「彼は打った者を愛する。なぜなら彼は全ての人間の父であり兄弟だからである。」

 

 キニュコス派と対照的だったのはローマやアテネの社交界の最も輝かしい人々をすべて自分の椅子の周りに集めていた哲学的な修辞家だった。ギリシャの自由な制度が生み出した演説への情熱は、それを生み出した原因が消失してからも命脈を保ち、非常に風変りではあるが影響力のある職業を生み出した。この職業は共和制ローマの時代には排除されていたが、政治的自由特権が消失した後に大きな発展を遂げた。修辞家は都市から都市へと動き回って熱弁を振るい、しばしば強い関心とともに迎えられる一種の巡回講演者だった。しかし多くの場合、彼らの人格や才能はあまり尊敬に値するものではなかったようである。彼らの虚栄心と強欲さについては数多くの逸話が残っている。そしてその成功は大衆の嗜好の退廃の顕著な証拠だった。彼らは演説の芝居がかった部分を最も注意深く訓練していた。その髪型、衣装の襞、全ての態度とゼスチャーには美術的配慮が行き届いていた。彼らは講演のそれぞれの分野、雄弁のそれぞれの形式ごとに適切な所作の種類を決めていた。時にはホメロスの詩や古代ギリシャの歴史上の人物になりきって、その人物が人生のある局面で行った演説をすることもあった。時にはハエやゴキブリ、ほこり、煙、ネズミ、オウムを雄弁のテーマにして聴衆を感心させることもあった。また別の者たちは目に余る逆説や詭弁の弁護、法律や道徳の複雑な事例についての議論に巧妙さを発揮した。あるいは精密ではあるが、粗探しの小うるさい批判が目につく文学講義を行なった。修辞家たちの中には最も念入りに準備した長演説だけを暗唱する者もいれば、いつでも討論する準備ができている者もいた。彼らは都市から都市へと移動しては、微細で大抵は軽薄な問題について反対者に議論を挑んだ。詩人のユウェナリスや風刺作家のルキアノス(*サモサタの、AD125―180)は一時期この仕事をしていた。最も著名な人物の多くは莫大な富を得、立派な従者たちを従えて旅し、訪れる都市から都市へと熱狂を運んだ。彼らはしばしば都市から、税の免除や犯罪の処罰の赦免を嘆願するため、皇帝の前に出るよう求められた。彼らは大いに民衆の教育者になった。そして民衆の趣味嗜好の形成と方向づけに非常に大きく寄与した。

 

当初からこの職業を取り入れ、修辞学的な講義の形で自派の原理を説くことを習慣とする哲学者たちがいた。フラウィウス朝時代とアントニヌス朝時代には哲学、特にストア派の哲学と修辞学の提携がより顕著になった。そしてウェスパシアヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスの気前の良い寄付によって創設された修辞学、哲学の講座が、これを維持することに貢献した。プラトン主義者であるティルスのマクシムスやストア派のディオン・クリュソストモスの論考が伝わっているが、いずれも本質的価値の高いものである。前者は主に、活動的な生活と観照的な生活の卓越性の比較、ホメロスの神話や寓喩の根底にある神性に関する純粋で高貴な概念、ソクラテスのダイモーン、プラトンの神性に関する概念、祈りの義務、哲学の目的、愛の倫理といったテーマについて論じている。ディオン・クリュソストモスは、その演説の中で最も高貴で純粋な神学を説き、礼拝において像が占めるべき位置を検証し、奴隷に対する慈愛を唱え、おそらくローマ帝国で最も早く世襲奴隷制を間違ったものとして非難した論者だった。彼の生涯は波乱万丈で、非常に高貴なものだった。彼は詭弁家(*sophist)として、またその職業の手の込んだ軽薄さに長じた修辞家として有名になっていた。しかし、ある災難とプラトンの著作が彼にそれらを放棄させた。そして彼はもっぱら人類を向上させることに専念するようになった。彼は向う見ずにもドミティアヌスの暴政によって追放された人物を擁護し、そのため物乞いに身をやつしてローマを脱出することを余儀なくされたのである。そしてプラトンの著作とデモステネス(*BC384―322)の演説だけを携えて、帝国の最も遠い辺境まで旅をした。彼は手仕事で生計を立てており、講演の代償としての金銭の受け取りを拒否した。しかし、彼は蛮族の間に散在していたギリシャ人入植者たち、さらには蛮族自身をも教え、魅了したのである。ドミティアヌスが暗殺され、軍団がネルウァに忠誠を誓うのをためらったとき、ディオン・クリュソストモスの雄弁は彼らの逡巡を打ち消した。また、アレクサンドリアや小アジアのギリシャの都市で起こった反乱を同じ雄弁で何度も鎮めた。彼はホメロスの一節をテキストとして、トラヤヌスの前で王の義務について説いた。彼はオリンピック大会のためにアテネに集まった膨大で洗練された聴衆に、以前スキタイの未開の野蛮人に与えたような衝撃を与えた。彼の嗜好は修辞家の軽薄さに決して染まってはいなかったが、好奇心と注意を喚起するあらゆる術に長けていた。そして彼の雄弁は最も遠い国の最も多様な聴衆でさえも意のままにした。しかし彼の特別な天命は、その原理を人類の大衆に拡散することによってストイシズムを広めることだった。

 

 ヘロデス・アッティコス(*AD101―177)、ファウォリヌス(*AD80―150、半陰陽で知られる)、フロント(*AD100―170)、タウルス(*ルキウス・カルヴェナス、AD2世紀)、ファビアヌス(*パピリウス、AD1世紀)、ユリアヌスといった修辞哲学者の書物の名前、あるいはいくつかの断片が伝わっている。そしてそれぞれが熱烈な崇拝者のグループの中心になって、帝国の大都市に文壇をつくるのに貢献した。アウルス・ゲッリウスの「アッティカの夜」にこの運動の活き活きとした姿を見ることができる―また同書はラテン文学の中で最も興味深く、有益な作品の一つであり、そしてそれとアントニヌス朝の文壇の関係は、エルヴェシウスの著作と革命前夜のパリ社会の関係にとても似たものだったと私は考えている。エルヴェシウスは「精神」という偉大な著作の材料を、主としてその会話がフランス人が達したことのなかったほどの完成度に達していた、パリの客間の会話から集めたと言われている。彼が著作活動をしていたのは「百科辞典」の時代、革命の社会的、政治的混乱はまだ感じられず、迷信と貴族の高慢に長く覆われていた社会に知的自由の最初のまばゆい輝きが放たれ、ヴォルテールの天才とディドロ(*ドゥニ、1713―1784)の比類なき会話の力がベーコンやロックの大胆な哲学に光を当て、上流社会全体が知的熱狂に輝き、そして過去の知恵と秩序に対する軽蔑だけが未来に対する確信と肩を並べていた時代である。華麗で、優雅で、多才で、浅薄な彼は、心地よい雄弁と緩んだモラル、徳に対する深い不信、知的な美しさへの強い欲求、あらゆる衒学と迷信と神秘への軽蔑、分析の全能性へのほとんど狂信的な確信とともに、あらゆる徳とヒロイズムを自己利益の偽装にすぎないとする哲学によって同時代の人々の原理を体現していたのである。彼はすべての議論を諸学派の堅苦しい学問ではなく、客間のきらびやかな逸話や鋭い文学批評によって説明した。こうして彼はそれ自身が持つ価値とは別に、それが生まれた社会を最も完璧に映し出す作品を作り上げたのである。形式、テーマ、傾向においてまったく異なるが、それに劣らず真に代表的だったのはアウルス・ゲッリウスの作品である。それはアントニヌス朝後期のローマとアテネの文壇の中心で、その精神に深く浸りながら、余暇を利用してその主要人物を描き、彼らの教えの要旨を集めた日誌、あるいは備忘録、雑記帳である。子供じみた文学的、道徳的情熱と絶望的な知的堕落が結びついて、これほど奇妙な様相を示している書物は他に類がない。著名な哲学者はみな熱狂的な弟子たちに取り巻かれていた。彼らは講義室で拍手喝采し、人生のあらゆる問題について師を自らの監視者としていた。彼は彼らの振る舞いに見られる悪徳や虚飾の例をすべて公に叱責し、彼らを自分の食卓に迎え、彼らの友人になり、悩みを聞き、時にはその助言によって彼らの職業上の義務を助けた。タウルス、ファウォリヌス、フロント、アッティカスは最も著名な人物だった。そしてそれぞれ腐敗した社会の中心で、最も単純かつ最も熱心な真剣さで知的、道徳的向上に専念する若者の小集団を形成していたようである。しかしこの集団は極めて幼稚なものだった。天才の時代は過ぎ去り、衒学の時代になっていた。過去の偉大な論者に対する、微小な、奇妙な、口やかましい文字通りの批判が学者の主な仕事だった。そしてその精神の全体的な風潮は回顧的で古風なものにまでなっていた。エンニウス(*BC239―169)はウェルギリウスよりも偉大な詩人、カトーはキケロよりも偉大な散文家とされていた。中には気取って古風で時代遅れの言葉で会話を彩る者もいた。語源の研究が盛んになり、文法や発音に関する珍しい問題が熱心に議論されるようになった。語源の研究が盛んになり、文法や発音に関する珍しい問題が熱心に議論されるようになった。知的貧困の時代にはたいていそうであるが、論理学は大いに研究され、重んじられた。大胆な思索や独創的な思考はほとんどなくなっていたが、哲学者たちは偉大な論者の議論を三段論法に置き換え、学派の規則に従って討論することを喜びとしていた。学者たちの楽しみは、まさに気まぐれで幼稚な衒学の形を取っていた。真面目な勉強が一段落すると、タウルスの弟子たちが師の食卓に集まって、人はいつ死んだと言えるのか、それは生の最後の瞬間か死の最初の瞬間か、あるいはいつ起きたと言えるのか、それはまだベッドの上にいるときかベッドから出たときか、といった問題を議論しながら楽しい時を過ごした魅力的な午後を、ゲッリウスは感動とともに思い起こしている。時には、昔の論者が今では死語になってしまった言葉をどのような意味で使っていたのか、という文学的な質問を互いに投げかけることもあった。また「あなたは失くしていないものを持っている。あなたは角を失くしていない。だからあなたは角を持っている。」「あなたは私ではない。私は人間である。だからあなたは人間ではない。」というような三段論法で議論することもあった。モラリストとして彼らは非常に純粋な徳への愛を示していた。しかし衒学的で回顧的な性格は同じだった。彼らは監察官の取り締まりや共和国初期の慣習をしきりに詮索していた。彼らは最もシンプルな教訓ですら、古代の事例をふんだんに用いたり、哲学者の文章を切り取って説明したりすることなしには決して主張しない、という習慣を持つようになった。それはピューリタンの論者が聖書の文言をしきりに使うことと同じだった。彼らはとりわけ良心の問題を喜んで取り上げ、中世のスコラ学者のような巧みさで議論した。

 

 ラクタンティウス(*AD240―320)は、ストア派はその教えの大衆的あるいは民主的な性格によって特に注目されていたと述べている。この点における彼らの成功には修辞学者たちとの同盟がおそらく大きく貢献したのである。しかし他の点においてそれはこの学派の没落を早めることになった。クリシッポス(*BC280―207)の緻密な才能がストア派の単純な道徳と結びつけた無益な思索、洗練、逆説は初期ローマのストア派においてほとんど背景に追いやられていた。しかし修辞学者の教えにおいて、それらは至高のものだった。アントニヌス朝が哲学者に与えた寄付は、長い髭を生やし哲学者の服を着ていたが、悪名高く不道徳な生活をしていた多くの詐欺師を引きつけた。特にキニュコス派は社会の通常の慣習を否定することを公言し、最悪の時代でも少なくとも托鉢僧の表面的な道徳を確保していた規律や監視の下を去り、絶えず全ての徳や良識の名残を投げ捨てていた。ストア派は偉大な人格を作り上げ、英雄的な行動を鼓舞する代わりに、最も怠惰な詭弁の教習所、あるいは明白な詐欺の隠れ蓑と化したのである。マルクス・アウレリウスが玉座に就くのを見た、まさにその世代が彼の学派の影響力が消滅するのを見たのである。

 

 ストア派の衰微の内的要因は非常に強力なものではあるが、その完全な消滅を説明するには不十分である。その最大の原因は人々の心が新たな転機を迎えたことであり、その熱意が東洋の宗教へ、そしてプロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス(*AD245―325、シリア人)、プロクロス(*AD411―485、トルコ南西部生まれ)の指導のもと、一部はエジプトの、一部はプラトンの神話哲学の方向に急速に流れて行ったことに見出されるはずである。異教徒の帝国に関するこのレビューを終えるにあたって、私は異教徒の道徳のこの最後の変容を指摘し、説明しなければならない。

 

 それは第一に、ストア派の詭弁の極端な無味乾燥に対する、またセクストス・エンペイリコス(AD2―3世紀)が復活させた懐疑論に対する、ごく自然な反応だった。そしてこの点において後世に何度も例証されてきた人間の心の法則を象徴している。例えばスコラ学者たちの小うるさい、満足を与えない、知的な細かい区別立ては聖ボナヴェントゥーラ(*1221―1274)の、そして後にはタウラー(*1300―1361、ドイツ)の純粋に感情的で神秘的な学派に直面した。また例えば前世紀の哲学において一般的だった人間の知性の崇拝はド・メイスター(*1753―1821、イギリス)とラメンネ(*1782―1854、フランス)によるその権能の完全否定への道を地ならししたのである。

 

 次に、神秘主義は長い間進行していた霊化(*spiritualising)運動の正常な継続だった。カトーからマルクス・アウレリウスに至る倫理学の強い傾向は、徳のタイプにおける感情の優位性を拡大するものだったことは、すでに見たとおりである。穏やかな、霊的な、一言で言えば宗教的な人格の形成が道徳文化の重要な一部となり、それは単なる手段としてではなく、目的とみなされるようになったのである。しかし、マルクス・アウレリウスもカトーもストア派だった。マルクス・アウレリウスではそのタイプが大きく修正されていたが、二人とも同じ徳の一般的な特色や観念を代表していた。しかし、着実に変化してきた徳の実践的な部分と感情的な部分とのバランスが、後者に決定的に有利になる時が間もなく訪れることになる。そしてその時、ストア派のタイプは必然的に捨て去られることになったのである。

 

 政治的、商業的な原因が重なって東洋の信仰を広めるのに非常に有利な状況が生まれた。商取引がエジプトとイタリアの間の絶え間ない交流を作り出した。ローマには自国の宗教に熱烈に傾倒している東洋人の奴隷が大勢いた。そしてアレクサンドリアは知的発達と地理的・商業的位置があいまって、多くの教義の融合に非常に有利であり、すぐに世界的影響力を持つ思想の一派を生み出した。折衷主義の四大体系が発生した。アリストブルス(*AD1世紀の聖人、バルナバの兄弟とも言われる、ブリタニアに宣教)とフィロ(*BC20―AD50)はユダヤ教にギリシャ哲学とエジプト哲学を取り入れた。グノーシス派とアレクサンドリアの教父たちは、非常に異なる割合ではあるが、同じ要素にキリスト教の教義を統合した。ただし少なくともその後の形においては、新プラトン主義はギリシャとエジプトの精神の融合を表していた。プラトンの理想哲学と東洋に固有の神秘哲学の間に大きな相似性が見出された。そしてこの二つの体系は容易に融合した。

 

 しかし、この運動の最も強力な原因は長い間帝国内で高まっていた積極的な(**positive、実際的な、確かな) 宗教的信仰への強い願望だった。ローマ人の不信仰が極限に達した時期は、キリストの誕生前の一世紀と後の半世紀だった。政治的な原因による共和国の古い習慣の突然の消滅、帝国の多種多様な宗教の初めての比較、さらにエウヘメルスの著作によって、エピクロス主義が代表し奨励する絶対的な宗教不信が生まれたのである。しかし、この不信は、すでに述べたように、数多くの魔術的、占星術的迷信と共存しており、自然科学に対する無知は大きく、一般法則の観念も微弱だったため、迷信を大きく復活させる材料はまだ残っていた。一世紀の中頃から、より信心深く、敬虔な精神が生まれ始めた。イシスとセラピスの崇拝は支配者たちの敵対にもかかわらず、ローマに押し寄せた。フラウィウス朝の終わりには、ティアナのアポロニウスが道徳的な教えを宗教的な実践を結びつけようと努め、長い間停止していた神託がアントニヌス朝の下で部分的に回復された。帝国の災難と目に見える衰退は、人々の心から長い間宗教的感覚の代わりになっていたローマの偉大さに対する誇り高い愛国的崇拝を奪い去っていた。そしてマルクス・アウレリウスとその後継者の治世に国中を襲った恐ろしい疫病の後には、盲目的、熱狂的、発作的な迷信が流行した。加えて人々は魂の起源、性質、運命という大問題の無視を長く黙認したことはなかったし、何らかの宗教的礼拝や願望を欠いたこともなかった。欲求や活力と同じく、宗教的な本能が人間の本性の一部であることは、すべての歴史が立証している事実であり、また人間の魂が絶えず向かっている目に見えない世界の実在を示す最も強力な証拠の一つである。初期ローマのストア派はこの点において現代の実証哲学にいくらか似ているが、その信奉者の大部分は宗教の大問題から目を背けていた。そして外部の超自然的な是認に頼ることなく、既存の人間の本性から倫理体系のすべてを発展させようとした。しかしプラトン派と、自らをピタゴラスの名と結びつけたエジプト派は本質的には宗教的だった。前者は徳の源泉および模範として神を崇め、人間に作用するダイモーン、すなわち下位の霊的存在を認め、民間宗教と敵対することなしにそれを弁明し、純粋化した。後者は恍惚状態や静寂主義を理想とし、テウルギアという特別な宗教儀式によって心を清めようとした。両哲学は相助けて偉大な宗教改革を実現しようとした。その中で通常ギリシャの精神は理性的な要素を、エジプトの精神は神秘的な要素を代表していた。

 

 前者の中でプルタルコスはその筆頭だった。彼は理性の至高の権威を説いた。迷信は神の特性を誹謗するものであって無神論より悪いものであること、またその害悪は消極的なものではなく、積極的なものであることを彼は丹念に論じた。同時に彼は神話を作り事の織物とは見なさない。あるものは否定する。他のものは釈明する。また他のものは率直に受け入れる。ほとんどの場合、彼は純粋な一神教を説いている。別個の神々を単なる神の属性の通俗的擬人化と表現したり、ダイモーンの通常の説明を用いたりすることによって、彼はそれを一般的な信仰と調和させようとしている。恐れを知らない厳しさで人間的道徳による試験を行うこと、神に属するものとされた残酷または不道徳な行為を憤然と却下することによって、彼は詩人たちの作り事のほとんどを切り捨てた。彼はすべての宗教的恐怖政治を非難している。また神についての迷信的で偶像崇拝的な概念と哲学的な概念をはっきりと区別している。「迷信的な人物は神々を信じているが、その本質について間違った考えを持っている。この善き存在の意思は私たちを注意深く見守り、私たちの過ちを忘れようとするものである。しかし人はこの存在を、自分たちを苦しめて喜んでいる、凶暴で残酷な暴君として表現する。真鍮の鋳造者、石の彫刻家、蝋の成形家を信じる。神々に人間の形を与える。自分が作った像を飾り、崇拝する。そして神の像を、形の美しさではなく、壮大さや威厳、寛大さ、善良さと関連づける哲学者や知識人に耳を貸さない。」またプルタルコスは異教徒の信仰には間違いなく超自然的な根拠があると考えていた。託宣を信じていた。非常に巧妙な論考で、先祖の罰の継承と特別な神意の教義を擁護した。肉体的苦痛の概念こそ否定したものの、来世の報いを認めていた。そして彼は詩人のいくつかの作り話が伝える道徳的な教えをはっきりと浮き彫りにしたのである。

 

 プルタルコスがトラヤヌスの治世に占めた地位を、次の世代ではティルスのマクシムスが占めた。彼はプルタルコスと同じく、しかしより一貫して純粋な一神教の教義を支持して、「ゼウスは万物を生んだ最も古い指導的な精神であり―アテナは思慮であり―アポロは太陽である。」と宣言している。プルタルコスと同じく、彼は神話の多くを説明するためにプラトン的なダイモーンの教義を展開した。そして異教徒の教科書あるいは聖書だったホメロスの作り事に自由自在に寓意的解釈を施した。これらの手段によって、彼は純粋な一神教と矛盾するあらゆる要素や道徳的に疑わしい伝説を取り除き、民衆の信仰を澄んだものにしようと努めた。また同時に民衆の礼拝を無害な象徴主義に昇華したのである。「神々自身は像を必要としない」しかし人間の弱さは「拠り所となる」目に見える印を必要とする、と彼は断言する。「ぐらつかない心で天と神の元に昇る力を持つ者は像を必要としない。しかし、そのような人物は非常に稀である。」そしてギリシャの彫像、エジプトの動物、ペルシャの聖なる炎など、人が神の性質を表現したり象徴したりしようとしたさまざまな方法について話を進める。「太陽よりも空よりも古く、すべての歳月、あらゆる時代、あらゆる自然の営みよりも偉大であり、いかなる言葉によっても表現できず、いかなる眼も見ることができない、存在するものすべての父にして創造者である神…その姿について、私たちが何を語ることができるだろうか。人々には、ただ神の性質は一つしかないことを理解させるだけでよい。ギリシャ人が主にペイディアスの芸術によって神を記憶していようと、エジプト人が動物や川を崇拝していようと、他所で炎を崇めていようと、私は表現の多様性を責めるものではない―ただ人々には、一つしかないことを理解させ、ただ一つだけを愛させ、一つを記憶にとどめさせよ。」

 

 ティルスのマクシムスとほぼ同じ時期に、同じ方向でいくらかの努力をした第三の論者がアプレイウスである。しかし彼は道徳的指導者としても、迷信からの解放という点でも、前述の論者たちに遠く及ばなかった。彼が最も称賛したのはエジプトの宗教だった。しかし哲学においてはプラトン主義者であり、その立場からプラトン的道徳律を解説するとともに、ダイモーンの教義に関する非常に明確で印象的な論考を残している。彼は言っている。「ダイモーンは地上と天上の住人の間で祝福と祈りを運ぶ者であり、一方からは祈りを、他方からは援助を運ぶ…プラトンが『饗宴』の中で主張しているように、すべての啓示、魔術師のさまざまな奇跡、あらゆる種類の兆しは、彼らによって支配されているのである。彼らには遂行すべき任務があり、つかさどるべき部門がある。ある者は夢を、ある者は内臓の性質を、ある者は鳥の飛翔を指図する…最高神はこうしたことにまで踏み込まない―中間神に任せるのである。」しかしこうした中間の霊は、単に超自然的な現象を引き起こすだけではない―私たちの徳の監視者であり、私たちの行動の記録者でもある。「人は皆、人生における自分の行いの目撃者と守護者を持っている。この霊は誰にも見えないが常に存在し、すべての行為だけでなく、すべての思考を目撃しているのである。人生が終わり、来た所へ戻らなければならないとき、私たちを監督していた同じ霊が私たちを連れ去り、その保護下で私たちを裁きへと急がせ、そして私たちが動機を弁明するのを助けてくれるのである。もし何か偽りの主張があれば、彼はそれを訂正し―真実の主張であれば、それを立証してくれる。そして彼の証言に従って私たちの判決は決定されるのである。」

 

 このような宗教改革の試みは多くの点で興味深く、また重要なものである。これらは非常に興味深い。なぜなら神々の起源に関するエウヘメルスの説と混じり合ったダイモーンの教義は教父たちによって異教徒の神学の真の説明として普遍的に受け入れられたため、また三世紀以降その概念、守護霊の美術的な(**artistic)タイプまでが守護天使の概念として再び登場したため、また多神教から従属的な霊たちの軍勢への委任やその奉仕によって働く一柱の神、という概念への移行は明らかにキリスト教の受容への道を用意するのに適していたからである。また、宗教的信条を自分たちが到達した道徳的、知的水準のレベルまで昇華すること、宗教的慣習をいくらかの道徳的改善の手段にすることを熱望する人間の心の動きを示している点でも興味深い。しかし何よりも興味深いのは、ギリシャとエジプトの改革方法が、後のすべての時代における宗教思想の二つの大きな傾向を典型的な明瞭さで表現していることである。ギリシャの精神は本質的に合理主義的で折衷的であり、エジプトの精神は本質的に神秘主義的で献身的だった。ギリシャ人は自分の宗教を裁いた。彼は自分の宗教を修正し、縮小し、洗練し、寓喩化し、あるいは選択した。また、宗教の矛盾や不条理、不道徳を、日常生活で遭遇するものと全く同じように自由に批判して扱った。一方、エジプト人は神の臨在の前に深く頭を下げた。彼は目を覆い、その理性を卑しめた。彼はヨーロッパの道徳への新しい要素、宗教的な敬虔さと畏怖の導入の象徴だった。

 

 アプレイウスは「エジプトの神々は主に悲嘆によって、ギリシャの神々は踊りによって敬われた。」と述べている。この非常に重要な発言の後半の真実は、ギリシャの歴史のあらゆるページに現れている。宗教制度から生まれた遊びや祭りのコレクションがこれほど豊富な国は他にない。軽快で、陽気で、しばしば放埒な空想が、民衆の信仰をめぐってこれほど大胆に展開された国は他になく、宗教的恐怖政治がこれほどまれだった国も他にないだろう。神々が人間より神聖視されることはほとんどなかった。そして特定の儀礼や儀式をきちんと守ることが、神への十分な貢ぎ物とされた。エジプトの宗教儀式は神秘と寓喩に包まれていた。貞節、動物食の禁忌、沐浴、準備あるいは伝授(*preparation or initiation)のための長く神秘的な儀式が礼拝の最も顕著な特徴だった。自然の偉大な力を象徴する、神秘的なシンボルに包まれた神々は、他の古代宗教とは比べものにならないほどの畏敬の念を抱かせた。

 

 東洋の宗教の侵入に伴って生まれた思索的哲学と道徳的概念は同じような性質のものだった。前者の最も顕著な特徴は、恍惚の直感が理性の推論に取って代わろうとする傾向だった。新プラトン主義やそれに連なる哲学は基本的に汎神論的だったが、ストア派の汎神論とは大きく異なっていた。ストア派が人間を神と同一視した目的は人間を賛美することだった―新プラトン主義者の目的は神の概念を押し広げることだった。前者の概念では人は独立し、自制する、宇宙の最高の本性の一部であって、被造物の中で最も優れた存在である。後者によれば人は神の推力に支配され、浸透されている、ほとんど受動的な存在に過ぎない。しかし人は完全に神性なわけではない。神性はその魂に潜在しているが、肉体の圧制によって鈍化し、曇らされ、押しつぶされているのである。人生の主目的は「私たちの中にある神を宇宙の中にある神と一致させること」、心に刻まれていながら肉の情念によって曖昧にされ隠されている観念を引き出すこと―とりわけ神性を完全に実現するための唯一の障害である肉体を制すること―だった。ポルピュリオスは、すべての哲学を死の先取りと見なした―自分の最期を穏やかに見つめることを教えるストア派的な意味ではなく、死は哲学の理想である魂と肉体の完全な分離を実現するからである。その結果、禁欲的な道徳と超感覚的な哲学が生まれた。「最大の悪は」と彼は説く「快楽である。快楽によって魂は肉体に釘付けにされている。そして肉体が説得することを真実と思うようになる。そして神的なものに対する感覚を失うのである。」「正義、美、善、そしてそれらがつくり出すすべてのものは目で見ることはできず、肉体の感覚では捉えられない。哲学は純粋で混じりけのない理性によって、感覚を停止させた状態で追求されなければならない。なぜなら肉体にかき乱されるために心は知恵を追い求められなくなってしまうからである。知恵が失われ、泥に混じっている限り、私たちは望む真理を十分手に入れることはできないだろう。」

 

 しかし、このように真理を明らかにするものとして称揚される理性(*新プラトン主義における理性)を推論の過程と混同してはならない。ここで言う理性は批判、分析、比較、推論とはまったく別のものである。この理性は本質的に直観的なものであるが、超越的な直観力は長い修養の過程を経て初めて獲得されるものである。昼の日差しの中から暗い部屋に入った時、最初は全くと言っていいほど周りが見えないだろう。しかし次第に目が微かな光に慣れ、部屋の輪郭がぼんやりと見えるようになり、次々と物が視界に飛び込んできて、ついには凝視することで自分の周囲をかなりはっきり見ることができるようになるのである。この事実は神的なものの知識に関する新プラトン主義の教義の部分的なイメージを私たちに与えてくれる。私たちの魂は肉との接触によって暗くなった暗い部屋であるが、その中には神の観念が刻まれており、生きた神の要素が存在している。理性の目は長い間、着実に内観することによって、これらの文字を解読できるようになる。定められた訓練の課程に助けられて、意志はこの神の要素を呼び起こし、それを生み出した宇宙の精神と融合させることができるのである。したがって精神集中と形而上学的抽象化の力は最高の知的才能である。そして静寂主義(*quietism)、すなわち私たちの性質の神への同化は徳の最終段階である。ピタゴラスは「人間の目標は神である。」と言った。アレクサンドリアの三位一体説の第一者である、属性も形もない形而上学的抽象である神秘的な「一」は、人間の思考の頂点であり、恍惚状態は道徳的完成の頂点である。プロティノスは何度もそれに到達したと言われている。ポルピュリオスは長年の修養の末に一度だけ、たった一度到達しただけだった。推論の過程はここでは役に立たないばかりか、有害である。「神々に関する生得的な知識はすべての推論に先立って私たちの心に植えつけられている。」神的なものにおいて、人間の仕事は創造することでも獲得することでもなく、演繹することである。その人間完成の手段は弁証や研究ではない。長く忍耐強い瞑想、沈黙、日常の気晴らしや娯楽の禁止、肉体の征服、継続的な修養の生活、彼を物質的なものから引き離し、その心を畏怖させ高揚させ、彼の神的な存在の実感を早める神秘的儀式への常の参加である。

 

 新プラトン主義の体系は様々な形と名前で最も多様な時代と信仰の中に見出せる思考様式を示している。神秘主義、超絶主義(*transcendentalism)、霊感、恩寵といった言葉はすべて、人間は感覚から得た物とは別に知識の泉を持っており、また通常の能力のいかなる働きや組み合わせによっても説明できない、ある種の心の状態、ある種の道徳的閃光、知的啓発が存在する、という根深い信念を表現している。論理的精神の真面目さ、小心さ、揺らぎを新プラトン主義は想像上の恍惚に置き換えた。そして抽象化の力こそ養われたものの、他のあらゆる知的能力は禁欲主義の修養のために犠牲にされた。それは人々を信じ易くさせた。なぜならそれは絶えず侵入してくる想像力に対する唯一の障壁である批判精神を抑圧したからである。なぜならそれは迷信的儀式を啓示すなわち恍惚状態に特に資するものとしたからである。なぜならそれは神経質で、病的で、常に幻を見がちで、簡単に霊感のせいにされる曖昧で不確かな感覚に煽られる予見的気質を作り出したからである。道徳的な体系としては、それは確かに感覚と想像力の純化をそれまでのどの学派よりも高い完成度へと押し上げた。しかし感情と行動を切り離してしまうという致命的な欠点があった。この点において、それはローマ哲学の終焉、最後の自殺となるにふさわしいものだった。ストア派は行動に結びつかない徳はすべて空しいと説いていた。エピクテトスでさえ、禁欲的なキニュコス派の描写において―マルクス・アウレリウスでさえ、その細心の自省の中で―決して外界を忘れてはいなかった。初期のプラトン主義者たちは精神的な修養を非常に重視していたが、それに劣らず実践的だった。プルタルコスは光と人間に対して同じ言葉が使われることを思い出させる。(*マタイによる福音書:5章14節、あなた方は世の光である。)その言によれば人間の義務は世の光になることだからである。また彼は抜かりなく、ヘシオドスが収穫のために祈ることを農民に勧めながら、鋤に手をかけたままそうするよう説いたことを述べている。アプレイウスはプラトンを解説して教えた「善を求めるよう自然によって感化された者は、自分を自分だけのために生まれたものと見なしてはならず、全人類のために生まれたものと見なさなければならない。ただし彼は様々な種類と程度の義務を有している。なぜなら、彼はまず自分の国によって、次に自分の親族によって、そして仕事や知識によって結ばれている人々によって作り上げられたものだからである。」ティルスのマクシムスは二つの高貴な論考を供して、人類の間で行動を起こすことなく精神的な陶酔の中で自らを使い果たす全ての徳の虚しさを示した。「知識が有益であることを行わないのであれば、知識にどんな意味があるのか?医者の技術も、それによって病人を治さないなら意味がない。ペイディアスの技巧も象牙や金を彫らないなら意味がない…ヘラクレスは賢人だったが、自身が賢かったわけではなく、その知恵によってすべての陸と海に利益を拡散させたからである…もし彼が人から離れた生活を送り、怠惰な知恵に従うことを好んだなら、ヘラクレスは確かに詭弁家(*Sophist)になっていただろうし、彼をゼウスの息子と呼ぶ者はいなかっただろう。神自身は決して怠惰ではない。もし神が休まれたなら、天は動きを、地は実りを与えることを、川は海に流れ込むことを、季節は定まった経路を進むことを止めるであろう。」新プラトン主義者たちは市民的な徳について語ることもあった。しかし彼らは恍惚の境地はすべてを超越しているだけでなく、すべてを含んでいると考えていた。そして受動的な生活によってのみ、その境地には到達することができる、としていた。アナクサゴラスの「自分の使命は太陽、星、自然の推移を観想することであり、この観想こそが知恵なのである。」という言葉は、彼らの哲学の縮図とされていた。プロティノスの教えを信奉していたロガンティアヌスという元老院議員は、生活上の事柄に強い嫌悪感を抱いて、すべての財産を捨て、法務官の義務を全うすることを拒み、元老院議員の職務を捨て、あらゆるビジネスや娯楽から身を引いてしまった。プロティノスは彼を非難するどころか圧倒的な賛辞を与え、愛弟子として選び、絶えず哲学者の模範と呼んだ。

 

 ここまで述べてきた二つの特徴―市民の義務の放棄と批判精神の抑制―は、ピタゴラス派では非常に早い時期から顕在化していた。三世紀から四世紀にかけての哲学の融合において、この二つの特徴はますます明白になっていった。プロティノスはまだ独立の哲学者だった。彼はギリシャ思想の伝統を受け継ぎながら、ギリシャの生活の伝統は受け継がず、明らかに理性的な方法によって自らの体系を構築し、テウルギア(*ギリシャの神に祈る儀式、神働術)や宗教的魔術を完全に否定していた。彼の弟子ポルピュリオスはまず新プラトン主義を反キリスト教的なものにした。そして新しい信仰に激しい反感を抱き、それを宗教体系に転換し始めた。イアンブリコスはエジプトの司祭だったが、この変換を完成させ、すべての道徳的修養を神学に分解し、すべての理性を信仰の犠牲にした。ユリアヌスは復活した異教の概念を哲学と融合させ、哲学によって純粋化することで実現しようとした。奇跡と信仰への欲求はあらゆる形で示された。ダイモーンの理論は異教徒のさまざまな神々を神の属性の寓喩あるいは化身とみなす古いストア派の自然主義に完全に取って代わった。プラトン倫理学は大部分において再び優位に立ったが、異質な要素に深く染まっていた。例えば新プラトン主義者たちは自殺を非難したが、その根拠は自殺は神が私たちに与えた持ち場の放棄である、というプラトンの原理のみならず、動揺は必ず魂を汚染し、その行為には精神の動揺が伴うため、自殺者の魂は汚染されて肉体から離れていく、という静寂主義でもあった。ピタゴラスとプラトンの学派で共に栄えた来世への信仰は、普遍的なものになっていた。長い間、人々が徳の報酬と見てきたローマの偉大さが急速に衰えるにつれて、「神の都」という概念が人々の心の中でより明確になり始めた。東洋の信仰の主要な伝播者の一人であり、ローマの生活にかつてないほどの影響力を行使し始めた無数の奴隷たちは、より幸福で自由な世界(*来世)へと、自然かつ涙ぐましい熱意とともに向きを変えた。ルクレティウス、カエサル、プリニウスが抱いた懐疑心は消えていた。とりわけ道徳的な修養と宗教との間に融合がもたらされ、モラリストは浄化のために主要な手段を神殿の儀式に求めるようになった。

 

 私は今、本章で取り組んできた長く複雑な仕事を完了した。ローマ哲学の勃興からキリスト教の勝利までの長い間にローマを教えていた異教徒のモラリストたちの一連の精神を、全般的傾向の描写と引用の選択によってできる限り示すよう努めたのである。私の目的はこれらの論者をその思索の信条に従って精細に分類することではなかった。私が目指したのはむしろ、各モラリストが至高の善とみなした徳の全般的概念またはタイプの起源、性質、運命を示すことだった。歴史とは単に年表によって繋がれているだけの連続した出来事ではない。それは原因と結果の連鎖なのである。個人の道徳的、また知的能力の程度と方向性には当然大きな差異がある。しかし人間の大きな集団の自然な道徳の全般的な平均には大きな差異はないだろう。ある社会において非常に徳が高かったり、非常に低かったりするとき―ある特定の徳や悪徳が特別に突出しているとき、あるいは人々の道徳的観念や基準に重要な変化が起こるとき―私たちが追跡しなければならないのは、ただそれらについて支配的だった環境がどのように働いたかということだけである。ローマの倫理の歴史は、社会の全般的な条件に導かれた間断のない一定の流れを示している。そしてその進歩の特徴はローマ、ギリシャ、エジプトの精神が次々と台頭してきたことだろう。

 

 カトーとキケロの時代には、その哲学的表現こそギリシャのストア派に由来していたが、理想の性格は完全にローマ的なものだった。それはローマの環境が早くから生み出していた力強さ、壮大さ、硬さ、実践的な傾向のすべてと、ごく近年の政治的、知的な変化から生じた精神の普遍性が組み合わされたものだったのである。そのうちに古代の穏やかで慈愛豊かな精神を代表するギリシャの要素が台頭してきた。それは、アントニヌス朝の長い平和、増大する贅沢によって生み出された柔弱な習慣、多くのギリシャ人をローマに引き寄せた大都市の魅力、皇帝の庇護、またパナティウスやキケロが主張したがそのすべての帰結を知ることはなかった、万人の兄弟愛の理論の現実化によって促進された、シンプルな宣伝の結果だった。折衷主義的な、そして大部分はプラトン主義的なモラリストの影響力の中に徳のタイプの変化を見ることができる。彼らの特別な攻撃はストア派による感情の排斥に向けられた。そしてストア派のタイプは徐々に軟化していった。セネカの現実的で広範な博愛の教えは、学派の非常に明らかな硬さを打ち破っている。しかしその博愛は感覚的優しさからではなく、むしろ義務感から生じたものである。ディオン・クリュソストモスにおいて実践的な博愛はそれほど顕著ではないが、高慢さと冷淡さはどちらも少ない。エピクテトスは手引書の中で最も厳格なストア派を体現している。しかし彼の論文には深い宗教的感覚と幅広い共感が表れている。マルクス・アウレリウスでは感情的な要素が大きくなり、英雄的な資質よりも愛情豊かな資質が優位に立つようになった。同時に純粋な思考と想像力の新たな重視、敬虔な感覚の高まり、民衆の宗教を改革しようとする切実な願いをも見て取ることができる。

 

 この第二段階は、ローマとギリシャの精神の幸福な結合を示すものである。ストア派は冷淡で、断然実用的で、ギリシャの思索の細かな区別立てを嫌悪していた。しかし依然として世界の支配者で組織者であり、その熱意は本質的に愛国的であり、義務感のためにプライド以外のすべてを犠牲にできる人々の信条だった。しかしこの信条は愛情豊かで、穏やかで、霊的なものへと変化した。そして、その美しさにおいて多くを得たが、力において何かを失った。物理の世界と同じように、道徳の世界で強さは硬さとほぼ一致する。感覚の鋭い者は簡単に動揺し、愛情豊かな性格の根底にある感じやすい同情心は結果として弱さの原理になる。ネロやドミティアヌスの圧制の間も絶えることなく続いた、ローマの偉大なストア派の系統は衰え始めた。この学派の理想が最高の完成に達したまさにその時、新しい運動が現れて哲学は評価を落とし、ドラマの最後の幕が開いたのである。

 

 この時代もそれ以前の時代と同様、すべてが普通に規則正しく動いていた。専制政治が長く続いたためにストア派が表現していた活発な公共精神は次第に失われていった。ギリシャの繊細な知性の優位と修辞家の増加によって哲学は論争と詭弁の学校へと変質していった。感情の養成(**cultivation of  the  emotion)はますます進み、道徳の中心とでもいうべきものが変化した。そして行動の統制よりも感覚の発達(**development  of  feeling)が重要視されるようになった。この感情の養成が、人々を宗教に向かわせる要因になった。前の世代の懐疑論に対する反動が多くの小さな運動によって強化された。そしてアレクサンドリアは徐々に帝国の道徳の首都になった。ローマのタイプは速やかに消滅した。迷信的な儀式と哲学が融合した。そしてエジプトの神々への崇拝は、プラトンの思索の最も空想的な部分を東洋の古代哲学と結びつけた新プラトン主義者の教えへの道を開いた。プロティノスには前者の大部分が、イアンブリコスには後者の大部分が見出される。彼らの影響を受けた人々の心は、内省的に、信心深く、迷信深くなった。そして忘我の幻覚と非実践的な神秘主義の静寂を理想的な状態とするようになった。

 

 このような影響力が、専制政治、奴隷制度、残酷な娯楽によって本当の芯から堕落し腐敗していた社会に順々に作用していった。悪弊を改善するために相次いで興ったそれぞれの学派は何らかの貢献をした。ストア派は善と悪の大きな区別について粗探しをしなかった。それは普遍的な兄弟愛の理論を説き、高貴な文学と高貴な法律を作り、その道徳体系を当時のローマ人の生活の活力源だった愛国心と結びつけたのである。帝国の初期のプラトン派はストア派の誇張を修正し、愛情豊かな資質に自由の余地を与えた。そして英雄的な人物や極度の緊急事態だけではなく、一般的生活の人物や環境にも適用できる善悪の理論を提供したのである。ピタゴラス派や新プラトン派は宗教的な敬虔さの感覚を蘇らせ、謙虚さ、信心深さ、思考の純粋さを説き、道徳的な理想を自分自身ではなく、神と関連づけることに慣れさせた。

 

 社会の道徳的な向上は、今や他者の手に委ねられることになった。長きに渡って不明瞭さを増していたある宗教が光の中に姿を現し始めたのである。その道徳的教訓の美しさ、崇拝者の想像力と習慣を支配する体系的な技術、訴えるべき強い宗教的動機、見事な教会組織、そして付け加えなければならないのだが、権力の手を容赦なく使うことによって、キリスト教はすぐに他のすべての党派を駆逐し、滅ぼし、何世紀ものあいだ道徳世界の最高の支配者になった。ストア派の万人の兄弟愛という理論、ギリシャ人の愛情豊かな資質への嗜好、エジプト人の敬虔な精神と宗教的な畏怖の念を組み合わせて、それは当初から、それが取って代わったどの哲学も持っていなかった影響力の強さと普遍性を獲得していたのである。次の章ではローマにおけるこの宗教の台頭を支配した道徳的原因、それが提示した徳の理想、それが国民の性格にそのイメージを刻みつけた程度と方法、そしてその悪用と歪曲について検討しなければならない。

 

 

第三章 ローマの改宗

コンスタンティヌスの即位以前の、異教徒の論者たちのキリスト教の重要性と運命に対する完全な無意識は人間の心の歴史の中で最も注目に値する事実である。キリスト教に関する彼らの十から十二の言及に多大な注意が払われてきたため、これらの言及がいかに少なく、貧弱なものであるか、またこれらの言及から初期教会の正確な歴史を構築するのがいかに不可能なことであるかを私たちは忘れてしまいがちである。おそらくその解説の幅において、プルタルコスや大プリニウスは当時の他のどの論者よりも優れており、セネカは間違いなくその時代の最も輝かしいモラリストだったが、それに触れることさえなかった。エピクテトスやマルクス・アウレリウスは、それぞれ通りすがりに軽蔑的に非難する程度だった。タキトゥスはネロによる迫害を詳細に記述しているが、苦しんでいる宗教を単に「忌まわしい迷信」として扱っている。スエトニウスは同じ表現を用いて、この迫害を暴君の称賛に値するか、どうでも良い行為に数えている。最も重要な文献は小プリニウスの有名な書簡である。ルキアノスはキリスト教徒の慈善心の程度と、彼らがその時代の宗教的ぺてん師と見られていた側面について、いくらかの光を当てている。ハドリアヌスの即位から教会の勝利の前夜までの最も重要な時期の皇帝の生涯について書いた異教徒たちの長い続き物は、宮廷の服装、遊び、悪徳、愚行に関する山ほどの細目の中で、世界を変えつつあった宗教に関する六つか七つの短い観察を私たちに与えている。

 

 この主題に関する異教徒の論者たちの全般的な沈黙は、権力が課した制約によるものではない。この分野には最も幅広い自由があったのである。また一部の歴史家の仕事を王、政治家、将軍の業績の一覧表にした、歴史の尊厳や個人の努力の重要性の観念から生じたものでもない。道徳的な革命の記録と説明という歴史の概念は、もちろん現代の論者ほど発展していなかったが、古代において決して知られていなかったわけではなく、ローマ帝国の社会の変化に関する私たちの知識は多くの部分において非常に豊富である。古い信仰の消滅、共和制のもとで起こった社会的、道徳的システム全体の分解は文人たちの関心を非常に強く惹きつけた。そして彼らはその段階をたどる際に最も称賛に値する勤勉さを発揮した。ローマの贅沢の発展に関する彼らの有り余る情報と、キリスト教の発展に関する彼らのほとんど絶対的な沈黙との対比は、非常に興味深く、示唆に富むものである。前者の運動の道徳的重要性を彼らは明確に認識し、それに応じて、服装、宴会、建物、見世物のあらゆる変化を完全に記録した。それは監察官が庭の手入れを怠った人物の選挙権を取り上げた日から、ネロやヘリオガバルスの乱行騒ぎまで、ローマの贅沢の歴史を最も詳しく書けるほどだった。しかし、彼らはもう一つの運動の道徳的重要性を完全に見落としていた。そしてその手落ちは歴史に決して埋めることのできない亀裂を残している。

 

 人類史上最大の宗教的変化は、周囲の腐敗を深く意識していた輝かしい哲学者や歴史家の目の前で起こったはずであること、これらの論者が皆、観察していた運動の結果を全く予測できていなかったこと、また三世紀の間に善かれ悪しかれ人間の問題に作用した最も強力な道徳的な梃子だったと今ではすべての人が認めざるを得ない力を、彼らが単に軽蔑すべきものとして扱ったことは、宗教的転換期の全期間を通して十分に思索に値する事実である。その説明は、前章で考察した道徳の領域と完全な宗教の領域との間の広い分離に見出すことができる。近代において世界の道徳的な未来を考察する人々は当然、第一にそれぞれの宗教団体の相対的な位置と予想される運命に注意を向けるだろう。ローマ帝国のストア派の時代には、完全な宗教は単に人生の問題において超自然的な援助を得るための術であり、人類の道徳的向上はその領域の全く外側にあると見なされるようになっていた。教育を受けた人々にとっては、哲学が最も文字通りの宗教になった。哲学は生活の規則であり、神性の顕現であり、信仰の感覚の源だった。この都市に氾濫していた多くの東洋の迷信は、特に有害で軽蔑に値するものと見なされていたが、中でも最も哲学者たちに嫌われていたのはユダヤ人のものだった。ユダヤ人は東洋の移民の中で最も卑劣で、最も乱暴で、最も非社会的な存在として悪名高かったのである。最も著名なローマ人たちですら示していた彼らの教義についての無知には、タキトゥスが彼の歴史書に重々しく挿入した、おそらく風刺小冊子から採られた、彼らの信仰に関する一連の長いグロテスクな作り話に印象的な実例が見られる。哲学者の目にはキリスト教は単なるユダヤ教の一派としか映っていなかったのである。

 

 私はこの著作において純粋に神学的な問題をできる限り避け、キリスト教の単なる道徳的主体としての側面について考察したいと考えている。しかしローマ帝国におけるその勝利がどの程度道徳的な原因によるものだったのか、また支配的だった哲学との関係はどのようなものだったのかを確認するため、数ページの前置きが必要だろう。後期ストア派の教義とキリスト教の教義が一致することに衝撃を受け、キリスト教は早くから哲学に決定的な影響を与えていて、ローマの主要な指導者たちの何人かに信仰されていたのだろうと想像した論者たちがいる。ローマ帝国の改宗を、キリスト教の指導者たちが福音書の物語の真実性を証明した圧倒的な証拠という、単なる証拠の問題に矮小化してしまう人々もいる。また、キリスト教の勝利は奇跡だったとシンプルに考える人々もいる。彼らの言い分は全てその逆だった。教会の進路は風や潮の挑戦に負けることなく目標に向かって速く、着実に進む船の航路のようであり、帝国の改宗は死者の蘇生や突然鎮まる嵐のように、文字通り超自然的な現象だったというのは。

 

 これらの説のうち、最初のものについては前章に書いたので長々と説明する必要はないだろう。ローマ帝国の偉大なモラリストたちは、キリスト教に全く言及しなかったか、軽蔑的にしか言及しなかったこと、無知な人々の間に生じた多くの宗教を常々無視していたこと、そして彼らがキリスト教に接近したり、好意的だったことを示すいかなる直接的証拠もないことには疑いがない。彼らがキリスト教の影響を受けたという仮説は、主にキリスト教の自省の義務の強調、人類の普遍的な兄弟愛の強い主張、そして彼らが最後に示したデリケートで広々とした慈愛に基づいている。これらすべての点において後期ストア派はキリスト教に類似しているが、それぞれのケースにおいて、その傾向の原因を発見するのが容易なことはすでに見たとおりである。自省の義務はピタゴラスの戒律に過ぎず、キリスト教勃興のはるか以前に同派で施行されていた。そしてローマでピタゴラス派が流行したときにストア派に導入されたものであって、そこから借用されたことは明らかである。人類の普遍的な兄弟愛という理論は、文明化した地球全体を一つの大きな帝国にまとめ上げ、最も遠方の部族にさえもローマの市民権を開放し、その周辺で道徳的理論が形成されてきたあらゆる階級区分を破壊した政治的、社会的変化の明白な表われだった。キケロはセネカ同様にこのことを力説している。それは被造物全体を一なる神の魂が充満している一つの大きな統一体と表現した汎神論と一致していた。セネカとキリスト教の関係を証明するものとして、現代の論者が最も自信満々で提唱する、万物は共に神の中に属している、という表現がラクタンティウスによってストア派の汎神論の最も明らかな例証に選ばれていたというのは不思議な事実である。後期ストア派の教えが慈愛深いのは、ローマ帝国建国以前から始まっていたギリシャ的要素のローマへの注入、ハドリアヌスの治世に新たに受けた(*東方からの)刺激、さらに贅沢な文明生活とアントニヌス朝の長い平和による軟化の影響であることは明らかである。ローマ人は慈愛の実践と実感においてギリシャ人にはるかに劣っていたため、理論的な慈愛においてある一点(*人類の普遍的な兄弟愛)以外でその師を超えることはなかった。ギリシャ人の慈愛は非常に熱心なものではあったが、狭い範囲にとどまっていた。ローマ帝国の社会的、政治的環境はその障壁を破壊したのである。

 

 ストア派の著作が新約聖書の影響を受けているという考え方について、まことしやかな論拠が主張されているのはセネカのケースだけである。聖リヌス(*AD10―AD76)が書いたとされる、聖ペテロと聖パウロの殉教の捏造記事の中のセネカと聖パウロの往復書簡を根拠として、中世のすべての論者はこの哲学者をキリスト教徒とみなしてきた。これらの手紙は最初の三世紀の間は全く知られておらず、聖ヒエロニムス(*エウセビウス・ソフロニウス、AD342―420)によって初めて言及されたが、現在では一般的に贋作とされている。またセネカの弟は聖パウロとユダヤ人の論争を聞くことを拒んだガッリオー(*ルキウス・ユニウス、アンナエウス、AD5―65、当時はペロポネソス半島北部のアカイア総督)であり、セネカの友人で同僚だったブッルス(*セクストゥス・アフラニウス、AD1―62)はローマで聖パウロの拘留を任された役人だったという事実がこの推測を強化した。この問題が引き起こした些細で冗長な批判に私が立ち入る必要はないだろう。キリスト教的表現と見なされているものの多くは、全ての存在を含む大きな一つの統一体と、全ての存在に命を吹き込み、導く一柱の神の御心という汎神論的概念から生まれたことが分かっている。またその他の多くの偶然の一致はわずかなものであって論拠とする価値がない。それでもこの問題について書かれたものを見直すなら、ほとんどの人が少なくともキリスト教徒の言葉の断片がセネカの耳に入った可能性があると結論するだろう。しかし彼の道徳体系がキリスト教を手本に、あるいはその影響を受けて形づくられたと考えるなら、キリスト教とストア派双方の最も明白な特徴に目をつぶることになる。なぜならその極端な違いを示すのに、これほど相応しいモラリストは他にいないからである。崇拝と謙譲、神の至高の威厳と人間の弱さと罪深さを常に意識し、常に来世に言及することは、キリスト教の本質的な特徴であり、そのすべての力の源泉であり、その特徴的なタイプの基礎となっている。これらすべてはセネカの教えと全く正反対である。来世に無関心で、人間の最高の威厳を深く確信していた彼は、弟子たちを「神と人に対するあらゆる恐れから」解放しようと努めた。そして賢者を神々と対等なものと主張する誇り高い言葉は、おそらく哲学者の傲慢さが到達した最高点だろう。当時一般的にキリスト教徒と同一視されていたユダヤ人は「呪われた民族」である、と彼は強調している。後期のストア派の中にキリスト教徒のタイプをほとんど実現し、その純粋で優しい性質の中にその学派の傲慢さがほとんど見られない人物がいた。内的証拠だけで論じるなら、マルクス・アウレリウスはすべての異教徒の中で最も容易にキリスト教に共感していただろう。しかし彼はこの信仰を迫害し、「自省録」の中にキリスト教の殉教者に対する軽蔑を記している。

 

 異教徒の哲学者とキリスト教との関係は、初期の教会において多くの議論の対象であると同時に、根深い意見の相違の対象だった。ある学派の論者たちはソクラテスの殺害を弁解して、思想に殉じたギリシャ人を「アテネの道化師」と呼び、彼のインスピレーションを悪魔の力によるものとした。彼らはまた哲学者たちの著作を「異端者の学校」と呼び、悪意を持って彼らの記憶に重ねられたあらゆる中傷を収集した―一方、主に異教徒の哲学とキリスト教の啓示の大いなる親和性の立証を目指した人々もいた。ほとんど子供の頃からプラトンの高貴な教えが体に染み込んでいて、その哲学と自分たちの新しい信仰の類似性に敏感に反応したこの論者たちは、この類似性の証拠は自分たちにとって深く感謝するべきものであると同時に、異教徒の隣人の偏見を払拭するのに最も効果的な方法であることを発見した。(*古代ギリシャの)巫女や神託によるものとされるキリストの予言の成就、アレクサンドリアの社会的、商業的地位が生み出した折衷主義への情熱、さらにギリシャ語に翻訳されたユダヤ人の著作が異教徒の知恵の多くの源になったことを少し前に主張したユダヤ人のアリストブルスの例が、彼らの歩みを後押しした。最も融和的であり、同時に最も哲学的な学派は教会の最も早い時期に存在した。殉教者ユスティノス(*AD100―165)―教父たちの中で、その著作に何らかの一般的な哲学的重要性がある最初の人物―は、異教徒の哲学の多くの部分の卓越性を認めていた。さらにその卓越性を神的インスピレーション、産出的な、すなわち「種子的ロゴス(*seminal  logos)」の作用によるものとさえしている。このロゴスは太古から世界に存在し、ダイモーンに悩まされてきたソクラテスやムソニウス(*ガイウス、ルーファス、AD20―101)といった指導者たちにインスピレーションを与え、キリスト教において最終的かつ完全に明確に受け入れられたとされるものである。同じような寛大で包容力のある評論は、後世の教父たちの著作にも見出すことができる。しかしこの学派はいくつかのグロテスクな放縦ゆえにすぐ姿を消した。殉教者ユスティノスのすぐ後に続いた―幅広い共感力、相当な独創性、非常に幅広い学識を持ちながら、弱々しく、空想的な判断力しか持たなかった―アレクサンドリアのクレメンス(*ティトゥス・フラウィウス、AD150―215)は古代の知恵をすべて二つの源から発するものとした。第一の源は伝承である。彼によれば、大洪水以前の女性たちに魅了された天使たちは、当時天国で行われていた形而上学やその他の学問の要約を伝えることで、その美しい相手に気に入られようと努めたのである。そしてその談話の要旨は伝統的に語り継がれ、異教徒の哲学者たちの主要な概念になったのである。天使たちはすべてを知っていたわけではないので、ギリシャ哲学は不完全なものだった。しかしこの出来事は文筆の歴史における最初の大きなエポックになった。異教徒の知恵の第二の、そして最も重要な源は旧約聖書だった。初期のキリスト教徒の多くは、その影響が古代の知恵のあらゆる部門に及んでいることを発見した。プラトンは哲学のすべてを、ホメロスは詩の最も高貴な概念を、デモステネスは雄弁術の最も繊細なタッチを、この書物から借用したのである。ミルティアデス(*BC550―489、アテネ)の軍事的技術もモーゼ五書から学んだものであって、マラトンの戦いで勝利した伏兵はモーゼの戦略の模倣だった。さらにピタゴラスは割礼されたユダヤ人だった。プラトンはエジプトで預言者エレミヤ(*BC7―6世紀、ユダヤの預言者)に教えを受けた。セラピス神(*ヘレニズム期エジプトの習合的な神)は父祖ヨセフ(*エジプトに移住したアブラハムの曽孫)に他ならず、彼のエジプト名は明らかに曾祖母サラに由来している。

 

 私は極端な例を挙げたが、決してこれ限りではないこの種の馬鹿げた話は通常、キリスト教への反論を撃退することを主目的としていた。そしてこれらは批判能力のない時代に常に存在する、最も小さな反論に注意を払うより、何の根拠もない、最も手の込んだ説明理論を捏造する傾向を示している。例えば異教徒がキリスト教を人間の心が普通に生み出すものに還元しようとして、まさにユダヤ教の歴史そのものの非常に多くの異教徒の伝説を指摘したとき、彼らはダイモーンは予言を注意深く研究し、神の征服者の到来を恐怖とともに予見した、そして人々が彼を信じるのを防ぐため、預言された出来事に似た一連の伝説を作り出したのである、と答えた。しかし初期のキリスト教徒たちはより頻繁に剽窃という批判に反論した。そして異教徒が書いたとする著作物を偽造したり、本物の異教徒の著作物の中のユダヤ人の影響とされる痕跡を指摘したりすることで、自分たちの信仰の足跡を過去に探そうとした。しかしグノーシス派、新プラトン主義者、特にオリゲネス(*アダマンティウス、AD185―253)によって頂点に達したこの融合の手法は帝国の後期ストア派ではなく、キリスト教誕生前の偉大な哲学者たちに向けられたものだった。最初の三世紀の教父たちがユダヤ教の聖典の影響を見出したのは、エピクテトスやマルクス・アウレリウスではなく、プラトンの著作の中だった。そしてこれらのつながりを見出そうとする情熱が最も途方もないものだった頃、セネカとその弟子たちがキリスト教徒の影響を受けていたという意見はなかった。

 

 そこでストア派優勢の時代にキリスト教が哲学的階級の信条に完全な、あるいは部分的な影響力を持っていたという考えをまったく根拠のないものとして退けることにしよう。そして私たちは、ローマ帝国は証拠のシステム―人々の裁定によるキリスト教の神性の奇跡による証明―によって改宗させられたのである、という意見に行き着く。この見解を正しく評価するためには当時の人々の奇跡を判断する能力と、また―別の問題ではあるが―そのような証拠が彼らの心にどの程度の重みを持っていたかということを考慮しなければならない。この問題を満足に扱うためには、奇跡の証拠という大きな問題に少し踏み込むことが望ましいだろう。

 

 カトリック教会の少数派の司祭を除いて、奇跡というテーマについて現在ほとんどすべての教養ある人々の意見の根底には一般的な懐疑がある。ほとんど全員が、ある種の特定の奇跡を心から信じていたとしても、原則として同じ証拠によって証明されている自然現象を完全に信じるにも関わらず、すべての古い歴史家の記事に頻繁に見られるそのような出来事を虚偽で信じられないものと見なしているのである。このような不信の理由は奇跡の不可能性、あるいは自然界における極度のあり得なさではない。というのも、いくつかのケースはともかく、その少なくとも一つの種類や概念には、論理的な困難が全くないからである。力と知恵において私たちを計り知れないほどに超越した霊的存在が存在すると信じること、そしてそれが存在するなら、その力を普通に使えば電信機や日食の予報が野蛮人の能力を超えるように、最も才能ある人々の理解をはるかに超えるような偉業を成し遂げられると信じることには何の矛盾もない。また一般に言われているように、他の分野において十分とされるような量や種類の証拠が不足しているため、不信が起こるわけではないと私は考える。歴史上のほとんどの小さな事実は、聖フランチェスコの聖痕(*12世紀、苦行中に聖痕が現れた)や聖なる棘(*16世紀に茨の冠の入った箱に触れた女性の涙道瘻孔が治った)の奇跡、あるいは助祭パリス(*ド・フランソワ、1690―1727、ジャンセニストの禁欲主義者)の墓で起こったとされる奇跡(*病気が治る)よりも少ない証拠によって証明されている。私たちは一人か二人のローマの歴史家の証言から、歴史的な出来事の数々をある程度確実に信じることができる。タキトゥスやスエトニウスはウェスパシアヌスが盲人の視力を回復させ、不具の者を強健にしたと記述している。しかし彼らの熟慮の上の主張でさえ、私たちにそれが真実かもしれないという疑念を抱かせることはない。古典時代や中世において奇跡が日常的に起こるものではなかったことは確かである。しかしこれらの時代についての知識を私たちに与えてくれるほぼすべての同時代の論者たちは、奇跡は日常的に起こるもの、と確信していたのである。

 

 このテーマに関する普通の教養ある人々の意見を正しく解釈するなら、奇跡に対する一般的な態度は、疑いやためらい、既存の証拠への不満ではなく、むしろ絶対的、軽蔑的な、吟味の余地さえない不信ということのように思われる。かつては常に少なくともいくつかの奇跡の可能性が認められていたことを思うなら、また奇跡を支持するために挙げられる膨大な量の伝承に直面するなら、この事実は一見驚くべき異変のように見える。そして奇跡の信仰はほとんどの場合、論破されたわけではなく、ただ風化していっただけであることを知るなら、それはなおさら驚くべきことである。

 

 このような心境に至る過程を確認するために、幸いにも論争とは無縁の領域で例を挙げることができる。おとぎ話の虚構性を問題視する人はほとんどいない。またこの類の逸話を聞かされたなら、ほとんどの人はその証拠をほんの少しも吟味することもなく、信じないことを、あるいは嘲笑することさえもためらわないだろう。しかし、妖精の存在がどのような点で矛盾や不条理をはらんでいるかと問われれば、答えるのは難しいだろう。妖精とは単に人間の知能を適度に持ち、道徳的能力をほとんど、あるいは全く持たず、体は昆虫のように透明で翼があり、移り気で、踊りに熱中し、おそらく様々な植物の性質について並外れた知識を持つ存在である。このような存在が存在すること、あるいは存在するがゆえに彼らには人間の力を超えた多くのことができる、というのはさしたる困難も引き起こさない主張である。何世紀もの間、彼らの存在はほとんど万人に信じられていた。彼らの出現に関する伝承が長く伝えられていない国、地方、教区はほとんどない。これだけの伝統の重み、また本質的不条理やありそうもないことを完全に除外した上での申し立てを裏付ける、独立した一連の数多い証拠は、説得力を持つとは言えないまでも、少なくとも非常に強い一応の証拠のある事件(*primâ facie case)を提示するのに十分だろうし、またこのテーマを辛抱強い慎重な調査に値するものとするだろう。

 

 それがそうならなかった理由は十分に明らかである。おとぎ話の信憑性の問題は、証拠の検証によってではなく、歴史の発展の法則を観察することによって解決されてきた。無知で素朴な民衆がいるところでは、どこでも妖精信仰があり、妖精の出現に関する状況証拠的な証言が流布している。しかし教育が進むと必ずこの信仰は消えていく。おとぎ話が反論されたり、誤魔化されたり、あるいは厳しく吟味されたりするからではない。妖精が現れなくなるのである。この衰退の一様性から、おとぎ話はある一定の状態にある想像力の正常な産物である、と私たちは推論する。そして、おとぎ話の衰徴が同様の変化の長い系列の中の一つに過ぎないことに気づくなら、この立場は強い確信へと変わるのである。

 

 未開人が世界を見渡し、存在に関する理論を形成し始めると、すぐに三つの大きな間違いに陥る。それは後に続く見解の第一原理となるものである。この世界は宇宙の中心である。そしてその周囲を取り囲むすべての天体は利用されようとしている。それが示す混乱や齟齬、特に重要な死の呪いは、彼の生涯の何らかの出来事と関連している。また、彼の周囲に見られる数々の現象や自然の変動は、物質を司る精霊、あるいは物質に固有の知性の直接的かつ独立的な意志によるものである。このように彼は信じる。こうした主要概念の周りには、すぐに特定の伝説が群れるようになる。自分のそばに石が落ちてくれば当然、誰かが投げたのだろうと考える。それが隕石ならば、天人の仕業と考える。彼は彗星や天変地異や疫病を、それぞれ直接的かつ独立的な行為から生じたものと考え、精霊である迫害者が自分を攻撃するようになった動機と、その怒りを鎮めるための方法についての理論をつくるようになる。そして数多くの異なる驚異の系統があることを発見し、それぞれに適当な主宰神を設定する。彼にとって奇跡とは奇妙な出来事でも、自然の法則に反するものでもない。ただ単に世界の通常の支配の覆いが取り除かれ、明らかにされたものなのである。

 

 このような広範な知的概念には、いくつかの小さな影響が付随している。直接的な擬人化や、感覚ある生物に由来する形容詞を無生物に好んで使うことに表れ、またあらゆる詩や雄弁、特に社会的に早い時期のものの中に多く見られる潜在的なフェティシズム(*呪物崇拝)は、私たちの見解のかなりの部分の根底をなしているものである。とても身近な例を挙げるとすれば―最も文明的で理性的な人物が何かのはずみで戸柱に激しく頭をぶつけたときの感情を観察してみることである。おそらく最初の叫びは痛みだけでなく怒りによるものであり、その怒りは木に向けられたものであることに気づくだろう。一瞬にして理性は感情を抑制する。しかし自分の感情を注意深く観察するなら、その心の中に潜在し、子供や野蛮人の場合には遺憾なく発揮される無意識のフェティシズムについて納得することは容易だろう。人間は自分に強い影響を与えるものには本能的に意志を付与する。想像力の脆弱性が他の原因と結託して、未開の人間が擬人的な神という概念を超えることを不可能にする。そしてそうした存在の気まぐれな、あるいは独立した行為が、彼の確かな奇跡の概念を形作るのである。同じ想像力の脆弱性のゆえに、彼はすべての知的傾向、対立する感情、すべての力、情熱、または空想に物質的な形を与える。彼の心は自然に対立する感情の衝突を、対立する精霊の戦いの歴史に置き換えるようになる。神話の膨大な蓄積が自然に形作られる―それぞれの伝説は単に心的事実を物質的に表現したものにすぎない。それを助けているのは、素晴らしいものへのシンプルな愛と、あらゆる批判的精神の完全な欠如である。

 

 このように社会のある段階では、ここまで述べてきたような影響の下で著名な人物や組織の周りに奇跡的な伝説が自然に形作られていくことがわかる。私たちは四月の通り雨や秋の収穫を見るようにそれを見るのである。私たちはある伝説がどのように作られたのか、またその伝説に含まれている真実の核心は何なのかを確信を持って示すことはほとんどできない。しかし、人間を奇跡的なものへと駆り立てた一般的な原因を分析することはできる。私たちはそのような原因が常に効力を持っていたということを示すことができる。また信仰の衰退に伴って必ず起こる精神状態の漸進的変化を追跡することができるのである。人間に批判的精神が乏しいとき、不変の法則の概念がまだ生まれていないとき、そして想像力がまだ抽象的な考え方に至らないとき、奇跡の歴史は常に形作られ、常に信じられ、これらの条件が変化するまで栄え、増殖し続けるのである。奇跡は人々がそれを信じ、期待しなくなったときに消滅する。同じように軽信の時代には、奇跡は想像力が神学的話題に向けられる強さに比例して増減する。最も異なる国々の歴史を比較するなら、神話的な時代がすべての国に共通のものであることを明らかになる。国民性や、ある種の地域的な型や色を帯びてはいても、多くの地域において私たちは実質的に同じ奇跡を発見するだろう。アルプス山脈において同じ通り雨が日当たりのよい谷間では雨として、高い山頂では雪として降るように、ある精神的領域ではニンフや妖精、あるいは陽気な伝説の形をとっている同じ知的概念が、別の領域ではダイモーンや恐ろしい幽霊として登場するのである。迷信が見誤っていた自然の事実を正確に発見できることもある。たとえば、てんかん、悪夢、何らかの動物に変身したように感じる精神病などは、悪魔憑き、夢魔、狼憑きの多くの物語を説明するものであることは疑いない。また空は地球に近いという考えや、太陽は地球の周りを回っているという考えなど、伝説の元になった個々の誤りを発見できる場合もある。しかしより多くの場合、私たちは全体的な説明によってこれらの伝説を、ある特定の段階の知識や知的能力の正常な表現として、それにふさわしい場所に置くことしかできない。そしてこの説明はこれらを論破するものである。私たちはこれらの伝説は有り得ないだとか、私たちが信じている多くの事実と同程度の証拠によって証明されていないとは言わない。ただ私たちは社会のある条件下では、この種の幻想は必然的に現れると言うだけである。幽霊など存在しない、ということは誰も証明できない。しかし熱で頭がぐらぐらしている人が幽霊を見たと宣言するなら、その主張について意見を述べるのはそう難しいことではないだろう。

 

 文明の進展に伴って奇跡的な物語が徐々に衰退していくのには三つの主な原因があると考えられる。第一はあらゆる教育が多かれ少なかれ生み出す傾向のある、観察と表現の一般的な正確さである。これは想像力の規律のない拡大を抑制する。そして真実というテーマについて粗野な文明には存在しない、はるかに強い精神的感覚が速やかにそれに続くのである。第二は抽象化する力の増大である。これも一般教育の結果であり、あらゆる現象を擬人化する早期の習慣を正すことによって、伝説の最も多産な源の一つを消滅させ、歴史の神話時代の幕を閉じるものである。第三は自然科学の進歩である。自然科学はそうした伝説の大部分を生んだ、絶え間ない恣意的な干渉に支配される宇宙という観念を徐々に払拭していくのである。自然科学の全ての歴史は法則の支配の一つの継続的な啓示である。ホコリの粒子の運動やツチボタルの光を支配しているのと同じ法則が、最も壮大な惑星の運行や最も遠い太陽の炎を支配していることが示されている。何世紀にもわたって、精霊の働き、災いの前兆、あるいは神の復讐であると広く信じられてきた無数の不思議が一つ一つ説明され、物理的原因に対する盲目状態から引き上げられ、予測可能であるか、人間による対策の余地があることが示されたのである。現代の病院は昔から憑依によって起こるとされていた精神病の治療に成功している。彗星の出現は予言されている。懐疑論者のフランクリン(*ベンジャミン、1706―1790)が発明した避雷針が、天の雷撃から教会の十字架を守っている。惑星の運行や微生物の世界を調べようとも、物理的自然のどの分野を研究しようとも、科学的探求の一定で不変の結果は、最も不規則で驚くべき現象でさえ、自然の先行要因に支配されており、互いに結びついた一つの大きなシステムの一部分であることを示している。この膨大な証拠の一致と、非常に多くの領域における経験の画一性から、科学者の心には、物理的性質の全過程は法則によって支配されており、その中の特定の種類の現象に神が絶え間なくに干渉しているという概念は誤りであり非科学的であること、自然の大災害を神の警告または罰、あるいは訓練と解釈する神学の習慣は根拠のない、悪質な迷信であるという、絶対的道徳的確信にも相当する信念が生まれるのである。

 

 このような発見が奇跡の伝説に及ぼす影響には様々なものがある。まず、何らかの現象を不規則的なものとする概念の周りに集まった膨大な数の伝説―例えば古代人が彗星は何かの前兆であるという見解を裏付けるために集めた無数の記録―は、それが規則的なものであることが証明されれば直ちに覆される。次に、現象の相互依存性が明らかになれば、いくつかの伝説には実際に反論が不可能なあり得なさが大幅に増加する。太陽を単に世界を照らすランプだと信じていた人々には、ある日敵を皆殺しにしつつある軍隊を照らすため、文字通り太陽が中天で停止した(*旧約聖書、ヨシュア記10章13節)と信じることに大きな困難はなかった。しかし太陽はこの世界の広大なシステムの中心であり、地球が運動を停止したなら、それを超える奇跡が起こらない限りカオスが必至であることが認識されるなら、このケースは違ってくる。例えばアダムの罪によって一部の動物が初めて肉食になったという古い考え方は、この革命が単なる習慣や嗜好の変化と考えられている限り、許容できる素朴なものだった。しかし歯の変遷が知られるようになると信仰の立場は困難なものになった。そして自らの食物に特化した消化器官を持つすべての動物において、その消化器官もまた変化していることが分かったとき、この困難にさらなる追い打ちがかけられたのだろう。(*「種の起源」は1859年、本書は1865年の出版)

 

 最後に、自然科学は私が中心概念と呼んでいるものを破壊することによってさらに幅広い影響力を行使している。無数の個々の理論はその中心概念から発展したのであり、それらの理論は中心概念の自然な表現であり、それらの理論は中心概念に依存しているのである。私たちの世界は宇宙の中心ではなく、他の多くの惑星と一緒に太陽の周りを回っていることを証明し、この世界の混乱や苦しみは、わずか6,000年前の出来事から生じたものではないこと、その時代よりはるか昔に地球に最も恐るべき大変動による大混乱があったこと、無数の世代の感覚ある生物と、最近の発見が確証したように、無数の世代の人々が生まれては死んできたことを証明し、莫大な証拠の蓄積によって宇宙は特別な干渉による個別の行為によって統治されているのではない、と証明することによって―自然科学は想像力に新たな方向性を与え、判断に新しい蓋然性の尺度を提供した。そして私たちの信念全体に影響を与えたのである。

 

 しかし、ほとんどの人はまだ不完全にしかこの移行を成し遂げていない。そして自然の性質における科学がこれまで説明できていない部分は、特別な介入の領域と見なされているのである。例えば天体の現象が曲げられない法則に従っているという事実を認識している多くの人々でも、ある意味において雨の降り方は人間の行動によって決定される恣意的な介入の結果であると想像する。確かに赤道付近において雨量はかなり一定しており、予測することができる。しかし赤道から遠ざかるにつれて雨量はより変動しやすくなり、その結果一部の人の目には超自然的なものと映る。しかし科学者たちは皆、この雨が惑星の運動を決定する法則と同じくらい曲げられない法則に支配されていることを微塵も疑わない。しかし、決定的な原因が非常に複雑なので私たちはそれを完全に説明することができない。そこで私たちの罪ゆえに送られた「雨と洪水の災い」や「私たちの悪行の最も当然の報いとしての飢餓と死」について語る習慣がまだある。科学が不完全にしか説明していない病気や死についても同様の表現が用いられている。もし人が鉄粉や有害な蒸気を吸い込まなければならないような職業に就いていたり、疫病の多い湿地に住んでいたりするのであれば、これらの条件から生じる病気は審判や懲罰とは見なされない。自然要因がはっきりしていて決定的だからである。しかし病気を発生させた条件が非常に微妙で非常に複雑な場合、医師がその性質や影響を確実に突き止めることができない場合、とりわけそれが伝染病の性質を帯びている場合、それは常に神の審判として取り扱われる。この見解に対抗する推定は、医学の進歩に正確に比例して、病気は身体的条件の必然的な結果であることが証明されているという事実のみならず、説明のつかない病気が持つ、それが自然発生のものであることをはっきりと立証する数多くの特徴からも導かれる。例えば神学的な方法に従って治療されることが多いコレラは気温の条件によって変化し、特定の食事によって生じ、川に沿い、医学的治療にある程度反応し、悪や徳とは関係のない振る舞いによって増悪したり軽快したりし、あらゆる程度の道徳や意見を持っている人々から無差別に犠牲者を出す。通常、審判とされたものに明らかな原因が発見されたときには最もグロテスクな不条理がもたらされる。例えばイギリスの家畜に致命的で謎めいた病気が発生したとき、一部の神学者はこれを審判として扱うことに飽き足りなかった。そして五書や永罰について異端とされる意見を含む、ある大衆的な書物をその原因とした。この病気がそのような思索が知られていない国から入ってきたこと、異論を唱えられた著者たちは家畜を持っていなかったこと、この病気で主に被害を受けた農民はほとんどの場合、これらの本の存在をまったく知らず、もし知っていれば憤然とそれを否定しただろうこと、主にそれを読む町の人々は食糧価格の上昇という正統派と異端に完全に公平に波及する間接的な影響しか受けなかったこと、懐疑論者がまったく目立っていなかった特定の州が特に被害を受けたこと、前の時代にも同様の著作があったが家畜は病気にならなかったこと、そして疫病がまさに猛威を振るっていたその時、はるかに大胆な思索が流行していた外国が絶対的に感染を免れていたことは事実だろう。これらすべての因果関係をものともせず、この理論は自信を持って主張され、熱い拍手が送られたのである。

 

 このような問題の中で、厳密に帰納的な方法で議論できるものがいかに多いかは、十分に注視されていないように思う。もし悪疫や伝染病が誤りや悪徳に対する罰として送られるというなら、その主張は疫病の歴史と巨大な悪徳や異端の時代の包括的な検証によって証明されなければならない。もし、どんな軍事機関よりも強力な力が戦いの行方を左右するというなら、電気やその他の力を実験によって検出するように、この力の作用を検出しなければならない。もし無謬という属性が特定の教会にあるとするなら、帰納的推論者は無謬の教会というのはどこまで望ましいものなのか、あるいは何らかの古の言葉の外見をどこまで予言と解釈してよいかを問うだけでは満足しないだろう。この教会が実際にその教えにおいて不変で一貫していたかどうか、時代の無知や情熱に影響されたことがなかったかどうか、その力が常に真実であると証明された側に行使されていたかどうか、後に誤りであると証明された科学的見解をその権威によって支持したり、大衆の誤りを黙認して強化したり、後に人類の啓発者とされた人々の道に障害を置いたことがなかったかどうか、広く注意深く、彼は教会史を調査するだろう。もし教会の審議が、啓発や超自然的な力によって特別に霊感を受けたり指導されたりするというのであれば、聖職者の評議会や教会会議が、神の助けを受けていない私たちの能力の働きでは合理的に説明できない知恵の度合いと調和を示しているかどうかを調べなければならない。もし制度が、通常の自然法則のシステムとは別の、特別な超自然的な力によって成長してきたと言うなら、その経過が自然法則では説明できないほどに著しく特殊なものかどうかを検討しなければならない。戦いの場合のように非常に多くの影響が結果に結びつくときは常に、その結果がしばしば私たちの予測を裏切る。また運に左右されるゲームにおいて同じ数字が繰り返し何度も出るような、奇妙な偶然の一致も起こる。しかし、私たちが有りうると考えるものからの変動には限度がある。サイコロを投げて一律に同じ数字が出たなら、あるいは戦争で最も武力に乏しい軍隊が一様に勝利したなら、私たちは何か特別な原因が働いてその結果がもたらしたことを容易に推論できるはずである。またあらゆる巨大な歴史的危機において一方が優位に立つなら、それには長い余波が伴うこと、そして私たちは事態の一面しか見ていないことを忘れてはならない。もしハンニバルがカンヌで勝利した後、ローマを占領して焼き払っていたなら、ローマ帝国の台頭に続く膨大な一連の結果は起こらなかっただろう。しかし海洋、商業に優れた、比較的平和な勢力の支配は全く異なる一連の結果を生み出し、それはその後のすべての進歩の基礎を築き、その不可欠な条件になっていたはずである。そして現在ではその種類と性質を推測することが不可能な文明が生じ、その神学者たちはおそらくハンニバルの生涯を記録上最も明白な特別の(*神の)介入例とみなしていただろう。

 

 このような事柄について健全な意見を述べようとするならば、歴史の現象を非常に幅広く、公平に調査しなければならない。ある事象が自然には説明できないような均一性や持続性をもって、ある方向に傾いているかどうかを調べなければならない。自分の仮説を裏づける事実だけでなく、それに反する事実も調べなければならない。

 

 通常、このような方法が採られないことは誰の目にも明らかだろう。ベーコンが言ったように人は「命中を記録するが、ミスは記録しない、」彼らは多くの、時にはありえないような出来事が自分たちが良いと考える結果に収束した事例を熱心に収集する。そして逆の結果になった出来事をシンプルに考慮から外す。彼らは人類の進歩における偉大な運動の無意識の先駆者や実行者になった皇帝の生涯を誇らしげに語る。しかし、絶望的な抵抗にその才能を使い果たした人々や、バヤズィト(*皇位継承に伴う兄弟殺しの先例となる)やティムール(*残虐で有名)のように、人類に計り知れない害悪を与え、永続的な果実を残さずに去っていった人々には思いが及ばないのである。成功することが極めて難しそうなある事業に百人の宣教師が着手する。九十九人は死に、忘れ去られる。一人の宣教師が成功し、その成功は超自然的干渉によるものとされる、なぜなら確率はあまりにも彼に不利だったからである。ある国や時代において長い一連の政治的、軍事的な出来事がプロテスタントの勝利を確実なものとしたことが観察される。しかし他の国で別の一連の出来事によって同じ信仰が消え去り、最も高貴な殉教者たちの努力が無駄になったことは忘れ去られている。私たちは公の祈りの後の降雨のことを知らされる。しかし雨乞いの祈りが叶えられないことがどれくらいしばしばあったのか、祈りが捧げられたときにすでに通常よりどれだけ長く日照りが続いていたかは知らされていない。昔の哲学者が言ったように、助かった人の奉納額は神殿に吊るされているが、難破した人のそれは忘れ去られているのである。

 

 残念ながら、このような無定見はシンプルに知的な原因から生じているのではない。良心的(*religious、敬虔、宗教的)であろうとしながらも、実際にはかつて全くその逆の感覚が、人々により恐ろしい物質的現象の原因を調査することを躊躇させたのである。すなわち、それは神の干渉の特別な例である、したがって調査するには神聖すぎるものとされたのである。自然科学の世界では、このような考え方はほとんどなくなった。しかし、歴史の一般的な審判の中にはこれと同様の感情がしばしば見られる。非常に多くの―真実の神の名において真実の追求を非難している―善意の人々は、人生についての神学的理論を説明したり裏付けたりする事実を収集するのは称賛に値する良心的なことであると考えている。しかし、彼らはそれらの事実やその理論に通常の帰納的推論の厳しさを適用することは不遜で間違っていると考える。

 

 私が書いたことは、神意の定めるところによって、道徳的な原因が幸福や成功に自然かつしばしば圧倒的な影響を与えるという信念とも、また私たちの道徳的性質が非常に現実的、恒常的、直接的により高い力とのつながりを持っているという信念とも、いささかも矛盾するものではない。また物理的性質の秩序にさえ、神が干渉する可能性を否定するものではない。ほとんどの公平な探究者は、これが私たちの住む惑星のシステムではないことを確信するだろうが、中世の神学者が想像したような特別な介入行為に支配された世界は完全に想像が可能なものである。そして、もしそうした干渉の何らかの実例が証言されたとしても、本質的にあり得ないものとして否定されてはならない。しかし、奇跡に関するほとんどの論者の基本的な誤りは、その注意を二つの点―それが事実である可能性と証拠の性質―に限定してしまうことである。この問題には極めて重要なもう一つの要素がある。それは社会のある段階における人々の奇跡的なものに対する素質である。それは奇跡的な話が常に流布し、信じられていればいるほど強くなる。そして自然の事実を立証するには十分な量の証拠を、超自然的事実を立証するには全く不向きなものにしてしまう。私が主張してきた立場は、自然の成り行きに神が永久に干渉するというのが、奇跡に関する最も古く最もシンプルな概念だということである。また多くの信仰体系に暗示されているこの概念は、半ば自然の法則に対する無知から生じ、また半ば人に自分の先入観と一致する事実だけを集めさせ、それと矛盾するものには目もくれさせない帰納的証明能力の不足から生じるのである。このような方法によって擁護できない迷信は存在しない。彗星が出現した後に起こった戦争、飢饉、疫病について完全な正史を伝える本が書かれている。どんなに幼稚な予知も予言も、無限の多様な事件の中で時折立証されたことがないものはない。そして迷信的想像力の影響下にある心にとって、そうした時折の立証はすべての誤りの事例を凌駕して余りあるものである。病気を治すにはシンプルな知識では全く不十分である。大海原を観察することに人生を費やし、雲の兆候をほぼ正確に読み取れるようになった船乗りほど、幸運な日や不運な日、超自然的な前兆の実在を固く信じている者はいない。常習的なギャンブラーほど、運勢に関する迷信を信じ込んでいる者はいない。迷信家は自分の理論を放棄するやいなや、どのような途方もない仮説にも頼ろうとする。古代の人々は夢は大抵超自然的なものであると確信していた。夢が立証された場合、これは明らかに予言だった。出来事が夢の予兆の正反対であっても、それはまだ超自然的なものだった。なぜなら夢は時々逆に解釈しなければならないというのが公知の原則だったからである。夢がその後の出来事と何の関係もなかった場合、それが幻想的な寓喩に変容しないなら、それは依然として超自然的なものだった。なぜなら寓喩は啓示の最も普通の形の一つだったからである。(**夢がその後の出来事と何の関係もなかった場合、それは超自然的なものに留まるか、啓示すなわち神的知識の開示とされるかのどちらかである)もし解釈の工夫によって予言的な意味が見いだせなかったとしても、その夢の超自然的な性質は必ずしも消失しなかった。ホメロスは人を欺くような幻影が心に入り込む特別な入り口があると言い、また教父たちは意味のない夢で私たちを当惑させ困惑させるのはダイモーンの仕業であると宣言したからである。

 

 奇跡の真実性を調査する者は、真っ先に(*人々の)奇跡的なものに対する素質の力を正しく評価しなければならない。このテーマを公平に検討しようとする人物は誰しも、この素質は歴史上の多くの時代において、ありえなさそうな自然の事実を十分に立証するものよりもはるかに大量の証拠を、純然たる妄想の周囲に蓄積するほどに強力なものだった、と結論せざるを得ないだろう。異教徒のローマの全期間を通じて、さまざまな種類の驚異があらゆる重大な出来事を予告したこと、生け贄には災いを軽くしたり阻止したりする力があることは、最も豊富な経験によって確かめられた疑いのない真実と見なされていた。共和制時代には元老院自身が公式に驚異を検証し、説明していた。帝国ではタキトゥスからアウグストゥス時代の最も卑しい論者に至るまで、数多くの驚異をあらゆる君主の即位と死、そして民衆に降りかかるあらゆる大災害の予兆と固く信じていない歴史家は一人としていなかった。洗練されたギリシャ人から最も粗野な野蛮人に至るまで、古代において人が未来を予言することを可能にする本物の術の存在を認めていなかった民族は一つもなく、その信仰の強さは何世紀にもわたって人類の尊敬を集めてきた神託のための見事な神殿によって十分に証明されている、とキケロは真実を語っている。魔女の奇跡の実在は、不完全なものとはいえ、少なくとも当時世界に存在した最も精緻な批判法廷、ヨーロッパ各国の法廷の判決、世論の一致した声に支えられ、数世紀にわたって最も有能な人々の研究によって裏付けられていたものである。王の手で瘰癧(*結核性頸部リンパ炎)が治るという信仰は、英国の歴史の最も輝かしい時代に広まった。最も多くの公式の実験にもそれは揺らぐことはなかった。それは枢密院によって、二つの宗教(*英国教会とカトリック)の司教によって、英国教会の最も穏やかな時代の聖職者の総意によって、オックスフォード大学によって、そして民衆の熱狂的な賛成によって主張された。それは宗教改革、ベーコン、ミルトン、ホッブズの時代も生き続けた。ロックの時代にも決して消滅したわけではなく、革命による王朝の(*ハノーヴァー朝への)交代が遅すぎた懐疑論を助けなければ、おそらくさらに長く続いていたことだろう。しかし現在では、こうした奇跡を擁護する教養ある人物はほとんどいない。確かにぼんやり考えれば、神意が驚異によって来るべき出来事を告げたり、ある人物に奇跡的な力を与えたり、悪霊が人間の間に存在して彼らの企てを助けることを許したりした可能性は十分に想像できる。そうした奇跡を立証する証拠は積み重ねられ、アンティオキアの地震のような、誰も夢にも疑おうとしない数多くの自然現象の証拠よりも、計り知れないほどに大きなものになっている。私たちが奇跡を信じないのは、ある種の知的条件下で、私たちが解明できるようになったある種の誤りの影響下で、この種の迷信が必ず現れては栄え、こうした知的条件が過ぎ去ると、奇蹟は必ず止まり、迷信の構造全体が静かに溶けてなくなることが圧倒的な経験によって証明されているからである。

 

 過去の書物にほとんど通じておらず、無意識のうちに自分の時代の批判精神を他の時代に持ち込んでしまう通常の人物にとって、何世紀もの間、最もグロテスクで途方もない性質の歴史がわずかな疑問も持たれず、わずかな真実もなしに、継続的に提唱され得た事実を理解するのは極めて難しいことである。しかし古代の精神が自然科学から思索的哲学へと転換したこと、印刷技術が多くの誤りを防止しなかったこと、ベーコンと同時代の人々が近代哲学に吹き込んだ注意深く実験的な研究の習慣が全くなかったこと、キリスト教時代の、信仰の精神は徳であり、懐疑の精神は罪であるという神学的概念に思いを馳せるなら、この軽信をいくらか理解できるのではないだろうか。また、人が天体の運動の鍵を見つける前―つまり渦動説(*ルネ・デカルト、1596―1650、天体は渦のようなエーテルに押されて動いている)の間違いと重力理論の正しさが判明する前―明らかに気まぐれな現象の数が非常に多かった頃、世界が個別の独立した力によって支配されているという考え方は、最も理性的な知性にとってさえ、最も有りうるべきものだったことを忘れてはならない。このような知識の状態―つまりローマ帝国の最も啓発的な時代の知識の状態―において、普遍的な法則の仮説は無分別で早計な一般化とみなされるのは当然のことだった。すべての探究者は、無数の明らかに奇跡的と思われる現象に直面した。ルクレティウスが宇宙から超自然的なものを追放しようとしたとき、彼は多くの工夫によって、ユピテル・アモン神殿の近くにある奇跡の泉がなぜ夜は熱く、昼は冷たいのか、井戸の温度はなぜ夏よりも冬に高いのかを自然の法則によって説明する努力をしなければならなかった。民衆は月食を災いの予兆と考えていたが、ローマの兵士たちは太鼓やシンバルを叩くことで再び月が円い輝きを取り戻すと信じていた。偉大な皇帝アウグストゥスは夢に従ってローマの通りへ金銭を乞いに行った。そしてその行為を記録した歴史家は自身の裁判の延期を懇願する手紙をプリニウスに書いたのである。雷の一撃は予兆であり、それは特に雷雨のときに救い難い恐怖にすくむ著名人への脅しだった。アウグストゥスはアザラシの皮を被って雷から身を守っていた。ティベリウスは完全な宗教的自由思想家であることを公言していたが、月桂樹の葉を強く信仰していた。カリグラは雷雨のときにベッドの下にもぐりこむのが常だった。ユリウス・カエサルを称える競技の際に空に七日間彗星が現れた。それを人々は死者の魂と信じた。そして敬意を示すために神殿が建てられた。この軽信性は時に信仰の奇妙な矛盾や半合理的な説明によって崩されることがある。リウィウスは無数の奇蹟を完全な信頼とともに語っているが、それでも奇蹟が信じられれば信じられるほど、より多くの奇蹟が報告されることを観察している。神託の実在を最も完全に認めていた人々は予言の能力はすべての人に備わっているが、ほとんどの人のそれは眠っていると主張した。そして睡眠、純粋で禁欲的な生活、死に先立つ衰弱、特定の蒸気によって生じる錯乱によってその能力が活性化され、最期の徐々の衰弱によって神託は停止するのである、とした。地震は超自然的な介入によって生じ、贖罪のための生け贄を求めると信じられていたが、同時にそれには直接的な自然の先行現象もあった。ギリシャ人はそれが地下水によって引き起こされると信じ、それゆえポセイドンに生贄を捧げた。ローマ人はその物質的先行現象について確信がなかったため、贖罪の祭壇に名前を刻まなかった。ピタゴラスはこの現象を死者の闘争によるものと考えたと言われる。長い議論の末、プリニウスはそれを大地の裂け目から空気が押し出されることによって発生するものとした。しかし彼はすぐに、この現象は必ず災いの前兆であると断言している。同じ論者は月食の予知と説明における天文学者の勝利を語り、それによって迷信の支配から人間を取り戻した偉人たちに対する雄弁へと議論を急転換し、無知の束縛を打ち破るためにさらに努力を重ねるよう、熱烈な言葉で高らかに呼びかけている。彼はその数章後に彗星の不吉な性質についての揺るぎない確信を公言している。魔術や占星術の概念もあらゆる神学的信仰とは切り離されていた。そして完全な無神論者の中にその多くを見出すことができるだろう。

 

 こうした例はキケロやセネカの著作の後にも、アウグストゥスとアントニヌス朝の輝かしい時代にも、ローマの土壌は奇跡の歴史を受け入れる準備がいかに完全にできていたかを示すに十分であろう。物質的な観念から抜け出せない未開の心の弱さは確かに過ぎ去り、民衆の神学的伝説は教養ある人々に対する力を全く失っていた。しかしその一方で、自然科学や帰納的推論に対する絶対的な無知は残っていた。超自然的とされる事柄以外についてさえ、最も著名な人物たちが示した信じ易さは、彼らの作品に親しんでいる者でなければ実感できないだろう。いくつかの例を挙げると、私がたびたび引用してきた偉大な博物学者(*ルクレティウス)は、最も獰猛なライオンが鶏の鳴き声に震えること、象が宗教儀式を行うこと、雄鹿がその息で蛇を穴から引き出して踏み殺すこと、茹でた食物や木の実にサンショウウオが触れると人間にとって致命的なものになること、船が凄まじい嵐に揉まれていて錨や鎖がそれを落ち着かせられないとき、コバンザメやウニをその竜骨に打ち付けるだけで難を逃れ、波の中で揺らぐことなく安定を保てることを最大限に重々しく語っている。最も簡単に検証できそうな事柄についても、彼は同様に確信している。例えば人間の唾液には多くの不思議な性質がある。特に絶食中の人間が蛇の喉元に唾を吐くと、その蛇はたちまち死ぬという。唾液を目に塗れば眼炎の特効薬になるのは確かなことである。拳闘家が敵を殴った後、自分の手に唾を吐きかけると、彼が与えた痛みは即座に止まる。もし殴る前に手に唾を吐けば、その一撃はより痛烈なものとなる。ギリシャの偉大な博物学者アリストテレスは、海辺では引き潮の間以外は、どんな動物も死なないという不思議な事実を観察していた。数世紀後、数多くの干満の激しい海に洗われる帝国の最大の博物学者プリニウスはこの記述に注目した。彼はアリストテレスがすべての動物について述べていることは実は人間についてだけ言えることであって、ガリアで行われた注意深い観察の結果、それは不正確なことが判明した、と宣言している。1727年とその翌年、ロシュフォールとブレスト(*ともにフランスの地名)で行われた科学的観察によって、ついにこの妄想は払拭されたのである。

 

 ローマ帝国の最も啓発的な時代に、偽りを見破るには最も有利に見える環境下においてさえも、奇妙な、特に奇跡的な物語がいかに容易に信じられていたかを示す実例は何巻もの本になるだろう。しかし超自然的現象の分野では、前章で描写したある運動がコンスタンティヌスの改宗に先立つ一世紀半の間に、極めて例外的な量の軽信を生み出していたことを忘れてはならない。キケロやセネカの著作も、プリニウスやプルタルコスの著作でさえも、教養ある人々の信念の適正なサンプルと見なすことはできない。エピクロス哲学は否定され、アカデミズム哲学は疑われ、ストア派哲学は単純化して迷信に転化し、いずれも消滅してしまったのである。マルクス・アウレリウスの「自省録」はストア派の影響力の終止符であり、ルキアノスの「対話篇」は消えゆく懐疑論の最後の孤独な抗議だった。キケロの哲学の目的は自由な批判力を使って真理を確かめることだった。ピタゴラス派の哲学の目的は、恍惚の境地に達し、宗教的儀式によって心を浄化することだった。すべての哲学者はたちまち魔術的な儀式に没頭した。弟子たちの目に彼らは伝説の後光に包まれているように映った。異教徒がキリストの対抗馬にしたティアナのアポロニウスは、死者を蘇らせ、病人を癒し、悪魔を追い出し、ラミアすなわち吸血鬼に魅入られた若者を解放し、予言をし、ある国で起こっている出来事の中に別の国で起こっているそれを見て(*エフェソスにいながらローマで皇帝が暗殺されるのを見たとされる)、その奇跡とその聖性の名声で世界を満たしたという。同様の力は、彼自身が否定しているにもかかわらず、プラトン主義者のアプレイウスにもあると一般に言われていた。ルキアノスは哲学者アレクサンドロスが奇跡を起こす人物という名声を得ようとして働いた詐欺行為について詳しい記事を残している。魔術師がプロティノスに対抗しようと企んだとき、彼の魔法は不思議なことに彼自身に跳ね返ってきた。またエジプトの神官がこの哲学者の守護霊であるダイモーンを呼び出そうと呪文を唱えると、ダイモーンではなくイシス神殿が神の存在で光り輝いた。ポルピュリオスは風呂から邪悪なダイモーンを追い出したと言われている。弟子たちの間では、イアンブリコスが祈ると(別の信仰の聖人のように)その身体は地面から10キュビト(*1キュビトは45―56cm)引き上げられ、その身体と衣服は黄金色に輝いたと伝えられている。彼がガダラ(*ガリラヤ湖の南東)で二つの泉の水からその守護霊を出現させ、その姿かたちを弟子達に見せたことは有名だった。ソスピトラという女性は、年老いたカルデア(*メソポタミア南東部)人の姿をした二柱の霊の訪問を受け、超越的な美しさと超人的な知識を授けられた。愛と死以外の人間のあらゆる弱さを超越した彼女には、あらゆる土地で行われることを一目で見抜く力があった。そして人々は彼女の美しさと知恵に目を奪われ、彼女を神と遍在を分かち合うものとした。

 

 キリスト教は一連の東洋の迷信や伝説を持ち込んだ軽信の波に乗って、ローマ帝国に流入した。その道徳的側面には周囲のシステムと大きく異なる特徴があったが、その奇跡は宗教的な教えの通常の付属物として敵味方を問わず受け入れられていた。ユダヤ人は長い間、異教徒にその軽信で知られていたが、キリスト教徒はその評判を倍にして受け継いだ。また奇跡の問題に関してはその評判が当然だったことを否定することはできない。異教徒の間では神々を神格化された人間に過ぎないとするエウヘメルスの説が懐疑派の拠り所となっていたが、より信仰的な哲学者たちはプラトン的なダイモーンという概念を採用していた。キリスト教の指導者たちは両方の説を組み合わせて、神々の名前はもともと亡くなった王たちのものだったが、悪意あるダイモーンがそれと入れ替わったと主張した。そして教父たちは一人の例外もなく、異教徒の奇跡の真実性を彼らのものと同じく最大限に主張していた。ここまで見てきたように、神託は多くの哲学者たちによって嘲笑され否定されてきた。しかしキリスト教徒は一致してその実在を認めていた。彼らは一連の長い神託を自分たちの信仰の予言であると主張した。そしてフォントネル(*ベルナール、1657―1757)が要約して翻訳した驚くべき本の中で、1696年にヴァン・デールというオランダのアナバプティスト派(*幼児洗礼否定派)の牧師が教会権力の一致した声に対抗して、神託は単なるまやかしであるという―今や普遍的に受け入れられている―理論を主張するまでその超自然的性質が否定されたことはなかったと私は信じている。このような意見を持つ人々が、二世紀や三世紀において、一世紀にユダヤで奇跡が起こったかどうかを、なんらかの信頼に足る適切な根拠によって確認することができたと考えるのは、非常に馬鹿馬鹿しいことである。また非常に多くの奇跡が行われていると考えられていた時代に、奇跡の真実性の確信が彼らの心に大きな印象を与えたとは思えない。

 

 実際のところ、ユダヤの奇跡の真実性の問題はローマ帝国の改宗の問題とは注意深く区別しなければならない。私たちは現代の調査と思考習慣の光を当てることによってユダヤ人論者の証言を検討する。しかし現代のより賢明な護教論者の多くは、ユダヤ人の極めて高い軽信性を考慮して、この問題をシンプルに証拠の一つにすることを避けている。そして主に、奇跡は起こり得ること、聖書の物語において奇跡はそのように語られており、シンプルで素朴な物語の織物にその真実性を内的に証明するように織り込まれていること、それらはその後の奇跡とは違う種類のものであること、そして特に、キリスト教の性格と運命こそがその奇跡的な起源をあり得るべきものにしていることを示そうと努力している。しかしローマ帝国の主な改宗の時代には初期の奇跡の証拠を適切に鑑別する歴史的調査は不可能であり、奇跡は宗教の証明として大きく利用されることもなかった。修辞学者アルノビウス(*シッカの、AD252―330)は初期の護教論者の中で信仰の証拠としてキリストの奇跡を重要視している唯一の人物だろう。証拠による証明がなされる場合、それは通常、奇跡ではなく予言によるものだった。しかしここでもまた、教父時代の意見は全く無価値なものと断じなければならない。予言と正確に一致する出来事がユダヤで起こったこと、あるいは予言が本物であることの証明は、いずれもローマ時代の改宗者の批判力をはるかに超える仕事だった。一般にオリゲネスと関係があり、殉教者ユスティノスやエイレナイオス(*リヨンの、AD130―202)の著作にもっと早くから見られる幻想的な寓喩の乱暴な放縦さは、予言の解釈を絶望的に混乱させた。一方、キリスト教全体を、あるいはその枠内で生まれた特定の教義を広めることになった、意図的な、そして明らかに完全に無節操な文献全体の偽造のため、批判は特別に困難であると同時に、必要なものになった。キリストの苦難を詳細に予言する、長い一連の神託が引用された。キリスト教徒によって偽造され、異教徒の巫女によるものとされた予言は、教会全体で本物として受け入れられ、信仰の最も強力な証拠の一つとして絶えずアピールされた。殉教者ユスティノスはこれを読むことが死罪になったのはダイモーンの扇動のせいであると宣言している。アレクサンドリアのクレメンスは、聖パウロが信者仲間たちにこれらを研究するように促したという伝承を残している。ケルスス(*アウルス・コルネリウス、BC25―AD50、百科事典を書いた学者)はキリスト教徒をシビュリストと呼んだが、これは彼らがシビュラ(*巫女)に固執したからである。コンスタンティヌス大帝はニカイア公会議での厳粛な演説の中で、この言葉を引用している。聖アウグスティヌスはキリストの名前と称号(*ΙΗΣΟΥΣΧΡΙΣΤΟΣΘΕΟΥΥΙΟΣΣΩΤΗΡ、イエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を単語に含むギリシャ語の魚(*ΙΧΘΥΣ)が、初期教会によって神聖なシンボルとして採用されたが、それはエリトラ(*キオス島の対岸の小アジアの町)のシビュラによるものとされる予言の言葉の頭文字(*ΙΗΣΌΎΣΧΡΕΙΣΤΟΣΘΕΟΥΎΟΟΣΣΩΤΗΡΣΤΑΎΡΟΣ、イエス、キリスト、神の、子、救世主、十字)をも含んでいることを指摘している。異教徒たちがこれらの予言が偽造された、あるいは改竄されたものであると非難したことは事実である。しかし教父たちの時代にはこれらの予言の権威に異議を唱えたキリスト教徒の論者は一人もいなかったし、最も著名な論者にもこれらの予言を支持しなかった者はほとんどいなかった。それらは教父たちの教会において満場一致で認められ、中世においても認められ、ミサ典書の最も美しい歌詞の中でも言及されている。偉大だが不幸なカステリオ(*セバスチャン、1515―1563)がそれらの中の本物であるはずがない多くの文章を指摘したのは、ようやく宗教改革の時代になってからのことだった。十七世紀初頭にポッセヴィーノ(*アントニオ、1533―1611)というイエズス会士が彼に続いた。シビュラはモーセより後の時代を生きていたことが知られているが、シビュラの書物の多くの箇所がモーセ以前に書かれたものとされていることに気づいたのである。そこで彼はこれらの文章は改竄されたものであると言った。さらに独特の賢明さによって、それは本に疑いを持たせるために、サタンが挿入したものに違いないと付け加えた。1649年、フランスのブロンデル(*デビッド、1591―1655)というプロテスタントの牧師が教会の中で初めて、これらの著作を意図的で下手な贋作であると非難した。そして多くの怒りに満ちた論争を経て、彼の批判的意見はほとんど議論の余地のない優位を獲得している。

 

 ローマ人の改宗者の意見は、過去の歴史や文献批評を扱う場合には極めて無価値なものだった。しかし奇跡の一分野については、彼らの立場はやや異なっていた。現代の奇跡はしばしば最も驚異的な性質を持つが、当時のそれは通常は幻視、悪魔払い、あるいは病人の癒しといった性質のものであり、殉教者ユスティアヌスの時代から教父たちは一様に彼らの間に存在するものであると述べていた。そして、エウァグリウス(*ポンティコス、AD345―399)とテオドレト(*キュロスの、AD393―466)の書物、聖ヒエロニムスが書いたヒラリオン(*AD291―371、聖アントニヌスの弟子)とパウロ(*テーバイの、AD227―341)の生涯、聖アタナシウス(*AD295―373)が書いた聖アントニウス(*AD251―356)、ニュッサ(*カッパドキア)の同名の著者が書いたグレゴリウス・ソーマトゥルガス(*AD213―270)、そして聖グレゴリウス(*1世、教皇、AD540―604)の対話篇の中で中世の最も荒々しい伝説のようなグロテスクな放縦に達するまで、着実に歴史を重ねるのである。この件に関して、最も優れた教父たちが行った主張ほど印象的なものはない。例えば聖エイレナイオスは、すべてのキリスト教徒は奇跡を起こす力を持っており、予言し、悪魔を追い出し、病人を癒し、時には死者を蘇らせ、このようにして蘇生した者たちが彼らの中で何年も生きており、毎日行われた素晴らしい行いを数え上げることは不可能であると断言している。聖エピファニオス(*サラミスの、AD310―403)は、(*キリストが水をワインに変えた)カナの奇跡を証明するために、いくつかの川や泉は年に一度ワインになると語り、自分もその泉の一つを飲み、信者仲間たちも別の泉で飲んだと付け加えている。聖アウグスティヌスは奇跡は以前ほど頻繁には起こらず、広く知られていないが、依然として多くの奇跡が起こっており、そのうちのいくつかを自身が目撃したことを記している。彼は奇跡が報告されるたびに、その状況について特別な調査を行い、目撃者の宣誓証言を公に民衆に読み聞かせるよう命じた。その他にも彼は多くの奇跡について語っている。ガマリエル(*BC?―AD52、パウロも尊敬していたユダヤ教パリサイ派の法学者)が夢の中でルキアノスという司祭に聖ステファノの骨が埋められている場所を明かした(*AD415)こと、その骨が発見され、聖アウグスティヌスが司教を務めているヒッポ(*現アルジェリア・アンナバ)に運ばれたこと、五人の死者を蘇らせたこと、その骨による奇跡的な癒しはその一部が記録されただけだったが、司教管区で聖人の命令によって作成された証明書は二年間で七十枚近くに上ったとのことである。隣接するカラマ司教管区では、その数は比較にならないほど多かった。聖アンブロジウス(*アウレリウス、AD339―397、ミラノ司教)とアリウス派の皇后ユスティナ(*AD?―388)との間の大きな争いの最中、この聖人は抗しがたい予感によって―あるいはその場にいた聖アウグスティヌスが言うように、夢の中で―自分が指し示す場所に聖遺物が埋められているという啓示があったと宣言した。土が取り除かれると、血に満たされた墓が見つかり、そこには頭が胴体から切り離された二体の巨大な骸骨があった。これは約300年前に受難したとされる驚くべき体格の殉教者、聖ゲルバシウスと聖プロテシウスのものであると公言された。その骨に触れると盲人は見えるようになり、ダイモーン憑きは治ったので、それらは本物の聖遺物であることが証明された。そしてなにより大事なことにダイモーンは聖遺物が本物であること、聖アンブロジウスは地獄の権力者の永遠の敵であること、三位一体の教義は真実であり、これを否定する者は間違いなく呪われることを認めたのである。翌日、聖アンブロジウスはこの奇跡を疑う者すべてに対して罵りの言葉を浴びせた。聖アウグスティヌスはそれを著作に記録し、聖人崇拝をアフリカ中に広めた。ミラノでは奇跡が熱狂的に歓迎されたので、聖アンブロジウスはあらゆる障害を克服することができた。しかし、アリウス派は奇跡を信じがたいものとして嘲笑的に扱った。そしてダイモーン憑きのふりをした者たちは聖人に買収されたのであると宣言した。

 

 この種の、同じように正確ではないにしても、同じように固く信じられた非常に多くのものから選ばれた言説は、明らかに利益とその地位の重みを指向している。しかし私たちが今関心を持っているのは、いま述べたような一つ二つの個別の奇跡と、これから説明する一群の奇跡を例外として、奇蹟は真偽にかかわらず、固く信じている信徒の啓発だけを目的として作られたという事実だけである。その例外的な奇跡とは悪魔払いである。それは初期の教会では非常に特異な位置を占めていた。ある種の病気が神の働きによって引き起こされるという信仰は古代人にとってなじみ深いものだったが、初期のギリシャ人には悪魔の憑依という概念はなかったようである。プラトンの哲学では、ダイモーンは神には劣るが悪霊ではなく、キリスト降臨の頃までに悪のダイモーンの存在がギリシャ人やローマ人に知られていたかどうかは極めて疑問である。この信仰は当時流入していた東洋の迷信とともにローマに伝えられた。そしてその中には憑依や悪魔祓いの概念があった。ユダヤ人は自分の国では見るからに悪魔に取りつかれている人物が歩き回っているのはごく普通のことだと考えていたようであり、悪魔を追い出す方法をソロモンから学んだと公言していた。彼らはすぐに主要な悪魔払いになり、一部は厳しい命令によって、一部はバアラスという奇跡の植物の根によってその芸当を成し遂げるようになった。ウェスパシアヌスの治世にエレアザルという名のユダヤ人がこの方法でダイモーンを憑依されていた者の鼻孔から引き抜き、その奇跡が成し遂げられたとき、その者が地面に倒れるのを自分は見た、とヨセフス(*AD37―100)断言している。そのとき悪魔は魔術師の命令によって犠牲者から本当に離れたことを証明するため、離れた場所に置かれたカップの水をひっくり返した。新プラトン主義やそれに類する哲学の発展は、この信仰を大いに強め、後世の哲学者の中にも、多くの宗教的詐欺師と同様に、悪魔払いを実践する者がいた。しかし、キリスト教徒はこの点においてすべての集団の中で最も有名になった。殉教者ユスティアヌスの時代から約二世紀の間、ラオデキア(*小アジア西部)教会会議(*363年)の後、その数は少なくなったが、決して絶えることはなく、この力の実在と頻繁な使用を厳粛かつ明確に主張しなかったキリスト教の論者は一人もいないと私は信じている。キリスト教徒はユダヤ人や異邦人の悪魔祓い師が持つ超自然的な力を十分に認識していたが、多くの点で自分たちは彼らより優れていると主張していた。単に十字を切ることによって、あるいは主の名を繰り返すことによって、彼らは異教徒の悪魔祓い師のあらゆる魔術に抵抗した悪魔を追い出し、神託を黙らせ、ダイモーンにキリスト教信仰の真実を告白させることができると公言していた。ときにその力はさらに拡大された。ダイモーンは動物の中に入ることがあったというが、これもキリスト教徒による厳命によって追い出された。聖ヒエロニムスは「聖ヒラリオンの生涯」の中で聖人が憑依されたラクダに対峙し、それを救った勇気を活き活きと物語っている。ユリアヌスの治世に殉教者バビラス(*アンティオキアの、AD253殉教)の骨はダフネ(*アンティオキア近郊)の神託を黙らせるのに十分だった。ユリアヌスの命令で(*バビラスの)聖遺物が移されると、天から雷が降りてきてキリスト教徒の凱歌の中で神殿を焼き尽くした。聖グレゴリウス・ソーマトゥルガスは、偶像の神殿からダイモーンを追放した。神官は生活の手段が失われたことを知り、聖人のもとにやってきて、再び神託を受けさせてくれるよう懇願した。聖グレゴリウスは旅の途中だったが「サタンよ、戻れ」という言葉を含む書き付けを与え、それは直ちにその通りになった。そして奇跡に畏怖した神官はキリスト教に改宗した。テルトゥリアヌス(*クイントゥス・セプティミウス・フロレンス、AD160―220)は迫害の時代に異教徒に向けて書いたものの中で、反対派にダイモーンに憑かれた者、異教の神の霊感を受けたとされる巫女や予言者のいずれかを連れてくるよう、最も落ち着き払った真剣な言葉で要求している。どんなキリスト教徒の尋問に答えようとも、ダイモーンはその悪魔的な性格を告白せざるを得ないと彼は主張し、そうでない場合は、そのキリスト教徒を直ちに死刑にするよう異教徒に求めた。そしてこれを最も単純かつ決定的な信仰の証明として提唱しているのである。殉教者ユスティノス、オリゲネス、ラクタンティウス、アタナシウス、ミヌキウス・フェリクス(*マルクス、AD250死去)は、いずれも同様に厳粛かつ明確な言葉で、異教徒に対して彼らの神々から搾り取られた自白から意見を作り上げるよう呼びかけている。彼らによれば、キリスト教徒が憑依された者や異教の神の霊感を受けた者の前で祈ったり、十字を切ったり、主の名を唱えたりすると、その者は叫び声や恐ろしい身振りで、加えられた責め苦を示し、この責め苦によって悪霊はその性質を明かさざるを得なかったということである。キリスト教の論者の何人かは、このことが広く異教徒に知られていたと述べている。ある点において、悪魔払いの奇跡は特に証拠能力が高いとされていた。ダイモーンはダイモーンを追い出さないため、必然的にそれは間違いなく神のものとされる唯一の奇跡だったのである。

 

 この挑戦が異教徒の論者によってどのように受け取られたかを調べるのは興味深いことである。しかし残念なことに、キリスト教徒の皇帝によってこの信仰に敵対する書物が消し去られたため、この点に関して私たちが情報を得る手段は非常に乏しくなっている。しかしながら、いくらかの情報はあって、少なくとも教養ある階級の間ではこうした驚異が大きな称賛を得ることはなかったことを示している。初期の哲学者たちが魂や精神世界の性質を論じる際に守っていた、悪魔憑きについての雄弁な沈黙は、彼らの時代には憑依が大きな注目を集めたり、一般的な信用を獲得したりしていなかったことを決定的に示している。プルタルコスは邪悪なダイモーンの存在を認め、神託を最も熱心に擁護していたが、悪魔払いが属する迷信全体を非常に軽蔑的に扱っている。マルクス・アウレリウスは、自分が関わったさまざまな人物から受けた恩恵について語る中で、哲学者ディオグネトゥス(*家庭教師、詳細不詳)が、魔術師やぺてん師、ダイモーンを追い出す者を信用しないよう教えてくれたことに感謝の念を述べている。ルキアノスは、狡猾なぺてん師はキリスト教徒をうんと𠮟りつけ、彼らの純真さを食い物することで財を成すことができると断言している。ケルススはキリスト教徒を若者や騙され易い人々にぺてんを披露するぺてん師と表現している。しかし最も決定的な証拠はキリスト教徒に向けられたと考えられる「呪術、呪詛、あるいは(詐欺師の常套句である)悪魔祓い術を使う者」を有罪とするウルピアヌス(*グナエウス・ドミティウス、法学者、AD170―228)の法律である。現代の批判はこの不明瞭なテーマに光を当てる事実をいくつか指摘している。悪魔憑きの症状はほとんどの場合、精神異常やてんかんの症状と同じであること、立派な宗教的儀式の興奮によって異常が引き起こされたり、中断されたりするというのは十分にありうること、これらのケースで誘導尋問によって望ましい答えが得られた可能性があること、教父たちのいくつかの文章から悪魔払いは常に成功したり、その治癒は常に永続的なものだったりしたわけではないことが観察されている。また当初、悪魔払いの権限はすべてのキリスト教徒に制限なく与えられていたこと、宗教的なぺてん師が非常に一般的だった時代、とても信じ易い教会員たちのいる教会でこの許可は詐欺師たちに大きな便宜を与えたこと、四世紀のラオデキア教会会議が司教によって正式に認められた者以外の悪魔祓いを禁じると、これらの奇跡は急速に減少したこと、五世紀の最も初頭にポセイドニウス(*詳細不明)という名前の医師が悪魔憑きの存在を否定したことが観察されている。

 

 この問題全体をまとめるなら、ローマ帝国の改宗を実現する上で、証拠のシステムと呼ばれるものは重要な位置を占めていなかったと結論づけることができるだろう。歴史批判はかつての奇跡の何らかの価値を主張するにはあまりにも不完全だった。また広く普及していた奇跡や魔法の力という概念とともに、教父時代の奇跡とされるものが一般的に(*公的ではなく)私的な性格のものであったことが、同時代の不思議を非常に印象の薄いものにしていた。しかしシビュラの予言や悪魔祓いには、それなりの重みがあった。というのも前者はローマで長く深く崇拝されてきた宗教的権威と結びついていたし、後者はいくつかの事情によって大きな注目を浴びるようになったからである。しかし、これらの効果はまったく副次的なものと考えてよい。そして改宗の主因は別の、より広い領域に求めなければならない。

 

 その原因はこの時代の一般的な傾向だったのである。それらは前章で私が描こうとした、懐疑と軽信が入り混じった広大な運動、多くの信条の融合や解消、習慣や感覚、理想の重大な変容の中に見出すことができる。世界がかつて経験したことのないほど宗教の布教に有利な環境下で、長い破壊的な批評の過程によって道が整備され、すべてが十分に代表されていて唯一世界の運命を決定することができるこの大都会で、人類の宗教と哲学が支配権をめぐる闘争をしていたのである。教養ある人々の間では一時期、荘厳ではあるが到達できない崇高さを説き、愛情の支えや来世の希望、宗教の慰めを軽んじる冷淡なストア派が優勢だった。それはただ時代の宗教的欲求に対して明らかに不適切になったとき、その高貴で最も実り多い経歴を終えただけのことである。他の階級では宗教に次ぐ宗教が征服の道を歩んでいた。ユダヤ人はさまざまな原因によってローマの臣民の中で最も嫌われ、その宗教は強烈な民族的性格から布教には特に適さないものと思われていたが、一神教、慈善、悪魔払いの力がモーゼの信仰を遠く広く流布した。皇妃ポッパエア(*サビナ、AD30―65)はユダヤ教改宗者だったと言われている。ユダヤ教の儀式に対するローマ女性の情熱は、ユウェナリスが苦言を呈したものの一つだった。安息日とユダヤ教の断食はすべての大都市において見慣れた現実になり、ユダヤ教の律法の古さが熱心に議論されるようになった。他の東洋の宗教はさらに成功を収めた。ミスラ、そして何よりもエジプトの神々への崇拝は何千もの人々を魅了した。そして三世紀以上にわたって、ローマの文献にはその進展についての言及が溢れている。ボナ・ディア(*ローマ神話の豊穣、治癒、処女性の女神)の秘儀、イシスへの厳粛な礼拝、罪を犯した魂を清める罪滅ぼしの儀式は大変な熱狂的興奮を巻き起こした。ローマの女性たちが冬の夜明けにテヴェレ川の氷を割ってその聖なる流れに三回飛び込み、罪の償いのためにタルキニウスの野原(*イシス神殿があった)を血だらけの膝を引きずって歩き、女神の声を聞いたとうっとり夢想し、イシス神殿の聖水を手に入れるためのエジプトへの巡礼を引き受けることを申し出た、とユウェナリスは書いている。彼女の行列の重々しい威厳と、それが最も放縦な人々や最も懐疑的な人々をも魅了することをアプレイウスは生き生きと描写している。コンモドゥス帝(*在位AD180―192)、カラカラ、ヘリオガバルスはそれを情熱的に崇拝していた。イシスとセラピスの神殿、そしてミスラの像はローマ芸術の最後の傑出した作品である。他にもあらゆる形で同様の軽信が表れていた。沈黙していた神託は再開し、占星術師はすべての都市に群をなし、哲学者は伝説的な雰囲気に包まれ、ピタゴラス派は軽信を体系にまで高めていた。四方八方で、歴史上類を見ないほどに、人々はもはや古い地域宗教に満足せず、信念を渇望して、情熱的に、せわしなく新しい信仰を探し求めていた。

 

 このような動きの中でキリスト教が優位に立った。そして、その勝因を探すために迷うことはないだろう。このような環境下で、これほど多くの異なる力と吸引力を併せ持つ宗教は他になかった。ユダヤ教とは違ってこの宗教には地域的なしがらみがなく、あらゆる国民とあらゆる階級に等しく適応していた。ストア派とは違って、最も強い方法で愛情に訴え、共感的な礼拝の魅力をすべて提供していた。エジプトの宗教とは違って、純粋で高貴な倫理体系を独特の教えと一体化させ、それを行動で実現できることを証明した。また社会的、国家的な広大な融合の動きの中で、人類の普遍的な兄弟愛を宣言していた。哲学と文明の軟化の中で、愛の至高の神聖さを説いた。ローマの宗教生活にこれまで大きな影響を及ぼしたことがなかった奴隷にとって、それは苦しみ、抑圧された人々の宗教だった。驚異を渇望する世界に、アポロニウスのそれよりも不思議に満ちた歴史を提供した。ユダヤ人やカルデア人がその悪魔祓い師に敵うことはほとんどなく、その信者の間では絶え間なく奇跡の伝説が流布していたのである。政治的な崩壊を深く意識し、未来を熱心に、不安の中で探し求めていた世界に対して、それは地球を即時に破壊するぞくぞくするような力―すべての味方の栄光とすべての敵の天罰―を宣言した。カトーが描き、ルカヌスが歌った、冷たくて情熱のない壮大さにうんざりしていた世界に対して、それは哀れみと愛の理想を提示した―友人の墓のそばで泣くことができ、私たちの弱さに心を動かされる指導者像である。要するに敵対する信条や相反する哲学に気を取られていた世界に対して、それは自らの教義を理性よりも信仰によって証明された、人間的な思索ではない、神の啓示として教えたのである。「人は心で信じて義とされる(*ローマ人への手紙10:10)」、「神のみこころを行う者であれば、この教えが神からのものかどうか分かるであろう。(ヨハネの福音書7:17)」、「信じなければ理解できない」、「生まれながらのキリスト教徒」、「心は神学者を作る」、これらはキリスト教が世界に与えた最初の作用を最もよく表しているフレーズである。すべての偉大な宗教がそうであるように、この宗教もまた、思考よりも感覚の流儀を重んじるものだった。その成功の主な原因は、その教えが人間の精神的な性質に合致していたことだった。その時代の道徳的感情に忠実だったからこそ、人々がそのとき向かっていた最高の卓越の型を忠実に表現していたからこそ、彼らの宗教的欲求、目的、感情に一致していたからこそ、全ての霊的存在がその影響下で拡張し展開し得たからこそ、それは人々の心に深く根を下ろしたのである。

 

 これらすべての魅力的な要素に、さらに別の種類の要素をつけ加えなければならない。キリスト教は単に道徳的な影響や見解の体系、歴史的な記録、あるいは不思議な働きをする人々の集まりではなかった。それは明確で精巧かつ巧みに組織された制度であり、孤立した、統制のとれていない指導者たちが決して太刀打ちできないような重みと安定性を持っていた。そして世界でも例がないほどに、愛国者が自分の国にするのと同じような、その共同の利益に対する熱心な献身を呼び起こしたのである。異教徒の崇拝のさまざまな形態はその性質上、柔軟なものであった。それぞれが特定の利益や精神的な満足を提供していた。しかしすべてが一緒に存在してはならない理由はなく、あるものに参加することは決して他のものを軽んじることを意味しなかった。しかしキリスト教は明らかに排他的だった。その信者は周囲の信仰をダイモーンの所産として嫌悪し、忌避し、自らはそれらを消滅させるためにこの世に存在していると考えなければならないのだった。それゆえ、この世で目撃されたどのようなものとも全く異なる、厳しく、攻撃的で、同時に規律のある熱意が生まれたのである。公的な礼拝の義務、キリストの戦士の誓いを意味する秘跡、教会員の感覚を強める断食や懺悔や記念日、人生の最も厳粛な重大事への宗教の介入などが、その支持に一役買った。とりわけ、そのとき初めて世界に閃いた信仰による救済の教義、すなわちキリスト教はその信者に永遠の幸福を開き、その囲いの外の者は永遠の拷問の運命にあるという、非常に鮮やかで目新しい信仰はおそらく想像もつかないほどに強力な行動の動機になったのである。それは希望と恐怖の最も粗雑な和音と、慈悲と愛の最も精細な和音を同じように鳴らしたのである。キリスト教が真実である可能性を認めていた多神教徒は、単なる用心深さゆえの打算からそれを受け入れるようになった。熱心なキリスト教徒は自分の愛する人々をその囲いの中に引き入れるために、どんな苦しみもいとわなくなった。また、他の誘因も必要だった。証聖者(*信仰のために迫害された者)には教会において、司教ですら主張できないような偉大で由緒ある権威が与えられた。殉教者は天国の果実のほかに、地上において最高の栄光を得た。その血塗られた冠を勝ち取ることによって、最も卑しいキリスト教徒の奴隷はデキウスやレグルスのような輝かしい名声を得ることができたのである。彼の遺体は豪壮華麗に安置され、遺物は防腐処理され、あるいは祀られ、ほとんど偶像崇拝的ともいえる敬意をもって崇め奉られた。教会では彼の来世での誕生を記念する日が祝われ、聖人たちの大集会では彼の英雄的な苦難が語られた。実際、彼が羨まれないはずがなかった。彼は永遠の至福へと旅立ったのである。地上には永遠に名が残った。生涯の罪は「血の洗礼」によって一瞬にして消し去られた。

 

 英雄的な熱狂はある種の自然条件から生まれるものであると認識することに慣れている人なら、私が説明したような環境下で、超越的な勇気が呼び起こされたことを理解するのに何の困難もないだろう。人々は本当に死を愛しているようだった。聖イグナティオス(*アンティオキアの、AD35―107)は、自分たちが「神の小麦」であると信じ、「野獣の歯で挽かれてキリストの純粋なパンになる!」日を待ち望んでいたのである。この燃える熱狂の下ですべての地上の愛の絆はプッツリと断ち切られた。少年時代のオリゲネスは迫害者に身体を差し出そうとして力づくで阻止された。そこで彼は投獄されていた父(*レオニデス、後に殉教)に手紙を書いた。家族に彼の決意に介入してそれを押さえつけたり、彼が自分の血で信仰を証明することを邪魔させたりしないようにして欲しいと懇願したのである。聖ペルペトゥア(*AD180―203)は一人娘で二十二歳の若い母親だったが、キリスト教の信仰を受け入れ、裁判官の前でそれを告白し、そのためには殉教する用意があると宣言していた。父親は何度も何度も苦悩の激発の中で彼女のところに来て、自分の晩年の喜びと慰めを奪わないでくれ、と懇願した。彼は自分が彼女に注いだ優しさの思い出―幼い子供―間もなく悲しみのうちに墓場へ運ばれていく自分の白髪について訴えかけたのである。その時、彼は親としての威厳を忘れ、我が子の前に膝をつき、両手にキスをし、目から涙を流して、彼女に慈悲を懇願した。彼女は心を動かされなかったわけではなかったが揺るがなかった。彼女は悲しみに狂乱した父親が法廷の前から引きずり出され、白い髭を引き裂き、心を打ち砕かれ、疲れきって牢獄の床に伏しているのを見た。彼女はより愛する信仰のために死へと赴いた―父親との永遠の別れを命じた信仰である。殉教への願望は時に絶対的な狂気、一種の自殺の流行となり、教会の指導者たちは信者が迫害者の手に身を委ねるのを防ぐためにあらゆる権威を行使する必要があることに気づいた。あるアジアの小さな町で、全住民が総督のもとに集まって自分たちはキリスト教徒であると宣言し、皇帝の布告を実行して殉教の特権を与えてくれるよう懇願したことをテルトゥリアヌスは記している。困惑した役人は、そんなに人生に疲れたのなら、絶壁やロープでそれを終わらせることはできないのかと尋ねた。そして少数の嘆願者を死刑にし、残りを解散させた。二人の著名な異教徒のモラリストと一人の冒涜的な異教徒の風刺作家が、この情熱に最も不愉快な軽蔑を込めて触れている。エピクテトスは言った「狂気によって、またガリラヤ人のように習慣によって死を軽視する者がいる。」「よく準備されている心とはどのようなものだろうか?消えるにしろ、散り散りになるにしろ、持続するにしろ、体から出て行く必要があるのなら。―キリスト教徒に見られるような純粋な頑固さではなく、深い思慮によって準備されたものであるべきである。」ルキアノスはキリスト教徒について言った「この哀れな者たちは自分は不死で永遠に生きられると信じ込んでいる。だから彼らは死を軽んじており、自ら進んで殺されに行くのである。」

 

 「私はあなた方に対して、あなた方が快楽に貪欲であるのと同様に、死に貪欲な者たちを送り込む。」この言葉は後日、イスラムの首領がシリアの堕落したキリスト教徒に語りかけたもので、彼の勝利の予告であり説明だった。この言葉は初期のキリスト教指導者が異教徒の敵に対して使っても同じように適切だったかもしれない。キリスト教徒と異教徒の熱意はその程度も種類も異なっていた。コンスタンティヌスがキリスト教を国教にしたとき、その信奉者はローマでは少数派に過ぎなかったと思われる。テオドシウス(*1世、在位AD379―395)の時代でさえ、元老院はまだ異教と結びついていた。それでもコンスタンティヌスの措置は当然かつ必要なものだった。多数派は確固たる信念もなく、道徳的熱意もなく、明確な組織もなく、抵抗や攻撃の英雄的行為を鼓舞するような原理も持ち合わせてはいなかった。少数派はその熱意を純化し、鍛え、維持できる、あらゆる動機によって活性化された密集方陣をつくっていた。一旦キリスト教徒が無視できない地位を獲得すると、その運命はシンプルなものだった。押し潰されるか、君臨するか。ディオクレティアヌスの迫害の失敗は不可避的に彼らを王座に就かせた。

 

 ローマ帝国の改宗は、奇跡や人間の本性の通常の原理の停止という性質からはほど遠く、記録されている大きな運動の中で、原因と結果がこれほど明らかに一致するものはほとんどない、と確信を持って断言できるだろう。歴史の明らかな例外は少なくないが、それは別の方面で見られることである。ギリシャの国々の狭い領域とわずかな人口の中で、哲学、叙事詩、劇詩、抒情詩、文章と口語の雄弁、政治手腕、彫刻、絵画、そしておそらく音楽の分野でほとんど、あるいは完全に人間の完成の領域に到達し、考えうるほぼすべての天才が生まれたこと―他のすべての信仰の下では粗野で物質的な崇拝が不可避なことが証明されている知的環境において、ムハンマドの信仰は広大な人口に採用されても、その純粋な一神教とあらゆる偶像崇拝の排除を守り続けたこと。これらの事実はいずれも非常に不完全にしか説明できない。気候、さらに政治的、社会的、知的な習慣や制度を考慮すれば、前者の困難は緩和されるかもしれないし、ムハンマドが美術に対して取った態度は、後者の困難の部分的な説明になるかもしれない。しかしそれらすべてを語ったとしても、ほとんどの人は非常に例外的で驚くべき現象に直面していると感じるのではないだろうか?ユダヤにおけるキリスト教の最初の興隆は本書が扱うものとはまったく別の問題である。私たちが検証するのはローマ帝国におけるキリスト教のその後の動きだけである。この運動について道徳的あるいは知的な奇跡を想定することはまったく無益である、と大胆に言い切って良いだろう。宗教的な転換がこれほどまで明らかに不可避だったことは、かつてなかった。その本質的な卓越性からも、時代の特別な要請に明らかに適合していたことからも、キリスト教ほど多くの魅力を兼ね備えた宗教は他になかった。その成功の大きな原因の一つは他のどの信仰よりも英雄的行為を生み出し、より多くの高潔な人々を作り出したことである。しかし、それはまさに予想されていたことだった。

 

 しかし、ローマにおけるキリスト教の勝利は当然説明のできない(*奇跡的な)ものであると主張する人々は、キリスト教が遭遇しなければならなかった迫害を指摘してこの推論に反駁する。この問題は数多くの誤解を受けている。また後の迫害(*キリスト教側が行った迫害)との関連において極めて重要であるため、簡単に論じる必要があるだろう。

 

 支配者がある宗教的崇拝や見解を力づくで抑圧する理由が非常に多様なことは明らかである。直接または間接的に不道徳を生み出すという道徳的な理由、それが神に対して侮辱的であるという宗教的な理由、あるいは国家や政府にとって有害であるという政治的な理由、怨嗟や欲望の満足という腐敗した理由などによって彼はそれを行うだろう。したがって宗教的迫害という単純な事実から、迫害者の主義主張をすぐに推測することはできない。しかし上記の動機のうちのどれが、あるいはそれらのどの組み合わせが迫害者を動かしたのかを詳細に調べる必要がある。

 

 さて、キリスト教司祭の教唆による迫害は、他のすべての迫害とは大きく異なっていた。それははるかに持続的で、組織的で、断固たるものだった。それは単なる崇拝行為だけではなく、思索的な見解にも向けられていた。それは単なる権利ではなく、義務として支持されていた。それは神学の書物全体において、特に敬虔な階級にも、最も対立していた宗派にも主張された。そしてそれは神学の教義の大部分とともに、常に衰退してきたのである。

 

 私は別の機会にキリスト教徒が行った迫害の歴史を詳細に調べた。そして例外的な原因が時折発生することは間違いないにしても、圧倒的多数の場合、それは単に受け入れられた神学のある部分の自然で、正当で、不可避の結果であることを示そうと努力した。その部分とは、正しい神学的見解が救済に不可欠である、そして神学上の誤りは必ず罪を意味する、という教義である。キリスト教徒の迫害者がもたらしたほとんどすべての苦しみ、彼らが人類の進歩の道筋に置いた障害のほとんどすべてがこの二つの意見に遡れることは明らだろう。これらの苦しみは、迷信はしばしば悪徳よりも大きな呪いではないことが証明されなかっただろうか、またその障害は、神学の影響の縮小は知的進歩の最善の手段であると同時に不可欠の条件にならなかっただろうか、ということが合理的に問われるほどに痛烈なものだった。このような原理を完全に身につけた人間が迫害を躊躇する原因になるのは、自分の意見が間違っているかもしれないという考えだけである。しかしそれは信仰の神学の力によって排除された。すなわち、他のいかなるものを含んでいようとも、少なくともこの信仰には絶対的で完全な確実性があることを示唆し、そしてすべての疑いを、それゆえ疑いに起因するすべての行いを罪とみなすよう信者たちを導いた力である。

 

 キリスト教側の迫害のこの一般的な動機には二つの補助的な力が加わっているだろうことを私は既に示した。神学的倫理観の大部分は、その中で概して記録上最も冷酷で悲惨なものだった宗教的虐殺を神の直接の命令とし、その中で偶像崇拝を力で抑圧する義務を道徳律のどの条項よりも強調し、その中で不寛容の精神を最も雄弁に情熱的に説いた書物(*旧約聖書)に由来するものだった。加えて、神学者たちが不信心者を待ち受けていると述べた運命はあまりに悲惨で、あまりに恐ろしいものだったため、誤りを撲滅するための地上の苦しみを強調するのは、ほとんど子供じみたことになってしまった。

 

 これらがキリスト教による迫害の大部分を引き起こした真の原因であることは歴史上最も確かであると同時に、最も重要な事実の一つであると私は信じている。詳細な証拠については、私が別のところに書いたものを参照していただくしかない。しかし、この証明はこのような問題において要求されうるあらゆる種類の証拠を組み合わせたものであることをここに記しておく。これらの原理が当然人を迫害へと導くことは明らかである。コンスタンティヌスの時代から、合理的精神が司祭の手から血塗られた剣を奪い取るまで、迫害は一律に擁護されていた―教会が生み出した最も優秀で偉大な人々の、他のほとんどすべての点において異なっていた宗派の、考えうるあらゆる方法でその熱意の純粋さを証明した多くの人々の、長く、博識な、入念な論説によって擁護されていたのである。寛容は根本的教義と非根本的教義の区別から始まって、広教派(*教理、教会組織、典礼などをあまり重視しない教派、17世紀イギリス)の拡大に正確に比例して拡大し、立法者の間で教義への無関心が優勢な感情になって初めて勝利した、と言える。戦いに勝利したとき―つまり教会に対抗して行動する反教義派が迫害を不可能にしたとき―に初めて神学者の大勢はその主張を修正し、その見解ゆえに人を罰することは自分たちの信仰と完全に相容れないことを発見したのである。この喜ばしい、しかしいささか遅すぎた転向の価値について今は触れない。しかし現代の論者の中には、独占的救済の教義が迫害を引き起こすはずがないと主張することに飽き足らず、それが迫害を引き起こしたという明白な歴史的事実に、何世紀にもわたる神学者たちの一致した証言に対して、あえて異議を唱える者たちがいる。キリスト教による迫害の歴史を見てきた人々なら、このことに誰しも極度の驚きを感じざるを得ないだろう。排他的救済を信じていなかった異教徒たちも迫害を行った、したがってその教義が迫害の原因であるはずがない、と彼らは主張する。それに対する答えは、まともな人間なら記録されているすべての迫害を同じ原因から生じたものとは主張しない、ということである。私たちはキリスト教による迫害が、主に私が申し立てた原因から生じたことを、最も明確な証拠によって証明することができる。異教徒による迫害の原因も、異なるものではあるが同様に明白である。私はそれを手短に示すことにしよう。

 

 それは部分的に政治的であり、部分的に宗教的なものだった。ほとんどの古代国家の政府は、その存在の初期段階において、人々の完全な教育を引き受けていた。着る服や食卓に出る料理までも、社会生活の細部にわたって管理し、統制し、一言で言えば人々の生活全体と性格を一律のタイプに成型すると公言していたのである。したがって国家と関係のない組織や集団、特に外国で始まったものはすべて不信感や反感を持たれていた。またこの反感は宗教的な動機によって大いに強められていた。古代の人々の心に最も深く根付いていたのは幸運や不運は霊的存在の介入によってもたらされ、神聖な儀式を怠れば都市に災いが起こるという信仰である。政府の機能が巨大なものになっていたギリシャの小国家には強い不寛容が存在し、しばらくの間それは慣習のみならず著作や言論にも及んでいた。アナクサゴラス、テオドロス(*BC340―250、キュレネ派)、ディアゴラス(*メロスの、BC5世紀)、スティルポン、ソクラテスの有名な迫害、国内の自由と同様に宗教とも対立したプラトンの「法律(*著作)」、アテネにおける尋問法廷の存在はそれを十分に証明している。しかしギリシャが最終的に滅びるずっと前に、思索の自由特権は完全に達成されていた。エピクロス派と懐疑派の発展が妨げられることはなく、ソクラテスの時代にもアリストパネス(*BC466―385、喜劇詩人)は舞台で神々を嘲笑することができた。

 

 ローマの初期には宗教は国家の職分と捉えられていた。宗教の主な目的は神々を国政にとってめでたき存在にすることであり、その主要な儀式は元老院の直接の命令で行われた。宗教に関する国家的理論は、その人物にとって最良の宗教は常に自国の宗教である、というものだった。同時に征服された国々の宗教にも最も大きな寛容が示された。ローマ軍はあらゆる神々の神殿を尊重した。ローマ軍は都市を包囲する前に、その都市で祀られている神々に祈願するのが慣わしだった。人身御供の抑制が慈悲の行為と考えられ、激しい反乱を鎮圧する必要があると考えられたドルイド教を唯一の例外として、すべての民族宗教の指導者は征服者の干渉を受けなかった。

 

 しかしこの政策は、宗教儀礼がその土着の国で行われている場合にのみ適用されるものだった。帝政時代にイタリアに集まった膨大な数の見知らぬ人々に与えられる自由特権はまた別の問題だった。旧共和国時代には監察官が生活の最も細かい事柄を最も専制的な権限によって規制し、国教が政治や家庭内の処置のあらゆる細部にまで織り込まれていたため、自由特権はほとんど期待できなかった。カルネアデスが同じ命題について賛成と反対の主張を交互に繰り返してローマ人に彼の普遍的な懐疑論を教えようとしたとき、カトーは彼の教えによって人々が堕落しないよう、直ちに元老院に彼の都市からの追放を促した。同じような理由ですべての修辞家は共和国から追放された。私たちに伝えられた同時代のローマの不寛容の極致とも言えるのは、マエケナス(*ガイウス・キルニウス、BC70―8)がオクタウィウス・カエサル(*アウグストゥス帝)が即位する前に与えたとされる忠告である。「常に、どこでも、自分の国の儀式に従って神々を崇拝し、他の人々にも同じ崇拝を強要しなさい。異国の宗教を持ち込む者を憎しみと罰をもって追及しなさい。それは神々のため―神々を軽んじる者は決して偉大なことはできない―だけでなく、新しい神々を持ち込む者たちはその多くが外国の法律の使用を唆すからである。それゆえに陰謀、徒党、集会など、均質であるべき帝国には非常に不向きなものが発生するのである。神々を卑下する者も、宗教的なぺてん師も容認してはならない。占いは必要である。したがって、腸卜師と鳥卜官はぜひとも続けさせ、望む者には彼らに相談させなさい。しかし魔術師は真実を語ることもあるとは言え、偽りの保証で人を陰謀に駆り立てることがより頻繁であるため、完全に禁止しなければならない。」

 

 この印象的な一節は、古代において一部の人々の間で不寛容の精神がどの程度まで浸透していたということ、またそれを生み出した混合的動機を非常に明確に示している。しかし、これを帝国の実際の宗教政策の描写と見なすのは大きな間違いである。このことを理解するためには、思索の自由特権と崇拝の自由特権を分けて考える必要がある。

 

 アシニウス・ポッリオ(*ガイウス、BC75―AD4)がローマで最初の公共の図書館を設立したとき、彼はそれを女神リベルタの神殿(*Atrium Libertatis)の中に設置した。文人階級にこのように与えられた教訓は決して忘れ去られることはなかった。世界の歴史の中で、ローマ帝国ほど思索の自由が完璧だった時代はなかったと思われる。キケロ、セネカ、ルクレティウス、ルキアノスの著作に見られる、あらゆる民間信仰に対する大胆不敵な精査が弾圧を受けたことはなかった。確かに哲学者たちは皇帝の専制政治に熱心に反対してドミティアヌスやウェスパシアヌスに迫害されたが、自分たちのテーマに関しては全く制約を受けなかったのである。ギリシャの論者たちは自国の独立が消滅したとき、知の領域ではギリシャ国家の干渉的な政策に、絶対的な堂々たる自由が取って代わったことで自らを慰めた。その影響下で学派間の対立の激しさは薄れていった。古代のあらゆる思想的対立の中で、後の神学論争の激しさに最も近づいたのは、おそらくストア派とエピクロス派の対立だった。しかし、エピクロスの道徳的善良さを最も強調する証言はその反対派の著作の中にあることは注目に値するだろう。

 

 しかし、宗教儀礼に対するローマの支配者の政策は、意見に対する政策とは非常に異なっており、一見すれば真っ向から対立しているように見えるだろう。キケロが言及した古い法律は新宗教の導入を明確に禁じており、共和制時代や帝政初期の時代には、この法律が施行された例が数多くある。例えばローマ建国紀元326年、深刻な干ばつによって人々は新しい神々に助けを求めるようになったが、元老院はローマの神々以外の崇拝を許さないよう造営官に命じた。ルタティウス(*ガイウス、カトゥルス、BC3世紀の軍人・政治家)は第一次ポエニ戦争の直後、元老院から外国の神々の託宣を求めることを禁じられた。「なぜなら共和国は他国のそれではなく、自国の鳥卜官に従って運営されるのが正しいと考えられたからである。」と歴史家は述べている。第二次ポエニ戦争の間、近年のある種の革新が元老院の厳しい布告によって禁止された。ローマ建国紀元615年頃、法務官ヒスパルス(*グナエウス・コルネリウス・スキピオ、BC?―176)は、ザバジオスのユピテル(*フリギュアないしトラキアの神、ギリシャではディオニュソスやゼウスと同一視される)崇拝を持ち込んだ人々を追放した。バッカスの儀式は下品でスキャンダラスな猥褻行為を伴っていたため禁止され、執政官は注目すべき演説で、人々に祖先の宗教的方針を復活させるよう呼びかけた。イシスとセラピスの信仰がようやくその地位を確立するまでには、長い闘争と少なくない迫害があった。この宗教が時に好んだ下劣な不道徳、ローマの生活や伝統の全体的な性格から完全にかけ離れた野蛮で忌まわしい迷信、さらに神職の組織が、それを政府にとって特別に不快な存在にしたのである。最初に弾圧の布告が出されたとき、民衆は自分たちの目に尊く見えた神殿を破壊することをためらった。そして執政官アエミリウス・パウルス(*ルキウス、マケドニクス、BC229―160)は自ら斧を手にして最初の一撃を加えることによってその恐怖を払拭したのである。共和国末期には、エジプト神殿の破壊を命じる布告が出されていた。オクタウィウス(*後のアウグストゥス帝)は若い頃この新しい宗教に好意的だったが、間もなくそれは再び弾圧された。ティベリウス帝の時代には再びこの崇拝が忍び込んできた。しかしイシス神官たちがムンドゥス(*デキウス)という貴族にアヌビス神を装わせて、意中の熱心な女性信者と一夜を共にさせため、皇帝の命令で神殿は破壊され、像はテヴェレ川に投げ込まれ、神官たちは磔にされ、詐欺師は追放された。同じ皇帝の下で、ユダヤとエジプトの迷信に侵されたとして四千人がサルデーニャに追放された。彼らは強盗の取り締まりを命じられていた。しかし、同時に独特の軽蔑を込めて、この地の風土が不健康なものであるがゆえに彼らがもし死んだとしても、それは「小さな損失」に過ぎない、と言い添えられた。

 

 このようにかなりの量の宗教的抑圧の措置が見られるものの、これらはもっぱら政策や規律の観念によって生み出されたものである。国家のために他のあらゆる利益を犠牲にし、世俗の面でも宗教の面でも、国民のタイプの同一性を損ない、軍事的精神の優位と共和国の厳格な統治が作り出した規律を崩壊させうるあらゆる形の革新に抵抗する、あの激しい民族精神がこれらの措置を生み出したのである。また道徳的スキャンダルの結果のこともあった。しかし共和国の国内政策が帝国に適していないことが明らかになると、支配者たちは率直にその変化を受け入れた。ティベリウスの時代から、キリスト教徒を唯一の例外として、ローマではすべての宗教の信徒に完全な信仰の自由特権が認められていたようである。たった一つの例外を除いて、世界中のすべての宗教が「聖都」で堂々と頭をもたげていた。

 

 しかし外国の宗教を信仰し、実践する自由特権は、ローマ人が自分の国の犠牲やその他の宗教的儀式を行う義務を免除するものではなかった。異教徒による迫害と入り混じった宗教的狂信がここで発揮されたのである。エウセビオス(*カエサレアの、AD263―339)によれば、ローマ人の宗教は三つに分かれていたとのことである―神話や詩人から受け継いだ伝説、これらの伝説を哲学者が合理化し、濾過し、説明しようとした解釈や理論、そして儀式や公式の宗教行事である。最初の二つの領域では完全な自由特権が与えられたが、儀式は政府の管理下に置かれ、強制の対象とされた。これを支えた感覚の強さを理解するためには、帝国の興廃は主に国の神々の歓心を買う熱心さや冷淡さに左右されると多数の人々が固く信じていたこと、また前章で述べたように、哲学者たちはほとんどの場合、公式の儀式を実践するだけでなく熱く擁護していたということを思い起こさなければならない。異教徒の哲学者の間では、さまざまな形の真理への愛がそれまでになかったほど発揮されていた。しかしその中の一つの形はまったく知られていなかった。人が宗教的な問題において嘘をついたり、自分が根拠のない迷信とみなしているものを自らの存在と模範によって是認したりすることは間違っている、という信念は古代の倫理には存在しなかった。多神教がもともと持っていた宗教的柔軟性、すべての階級に浸透していた強い政治的感覚、さらに哲学を無知な者の信条とすることは明らかに不可能だったことから、哲学者たちの間ではしばしば表明されるものの、一般に向けて公言されることは稀な(*本音と建て前の)感覚がほぼ普遍的なものになっていた。人々の宗教的意見は彼らの宗教的実践にほとんど影響を与えず、懐疑論者は自国の行事に参加することを合法であるだけでなく、義務であると考えていた。キケロほど古代の迷信をばらまいた人物はいない。キケロ自身が卜占官であり、国の儀式を遵守する義務を強く主張していた。セネカは最も嘲笑的な言葉で民間信仰の不条理を語り、その列挙の最後に「賢者はこれらすべてを、神々に喜ばれるものとしてではなく、法によって命じられたものとして遵守する、」そして「その礼拝は信仰によるものではなく、習慣によるものであることを忘れてはならない。」と宣言している。その厳格な信条が最も純粋な一神教にまで達しているエピクテトスは基本的な宗教的行動原理として、すべての人はその信心を「自分の国の習慣に合わせる」べきであると教えている。それを拒んでいたユダヤ教徒とキリスト教徒だけが、異教徒の世界には知られていなかった道徳的原理の代表者だった。

 

 また皇帝を神格化する東洋の習慣がローマに伝わり、皇帝の像の前で香をたくことが一種の忠誠心の証となっていたことも忘れてはならない。実際この崇拝は特定の信念を意味していたようには見えない。そしてほとんどの人々は私たちが君主に使う「神聖な尊厳」という言葉や、その前で跪く習慣を妥当なものと見なすのと同様、それを妥当なものと見なしていたようである。しかし、これはキリスト教と相容れないものとみなされた。そしてキリスト教徒がこれに従うことを良心的に拒否したことがある感情を引き起こした。それは裁判所に従うことを拒否したクエーカー教徒(*17世紀―)がキリスト教世界で長い間引き起こしてきたものに似ていた。

 

 偶像崇拝の宗教的儀式を行う義務が厳格に執行されたなら、ユダヤ人とキリスト教徒は完全に排斥されていたことだろう。しかし、この理由によってユダヤ人が迫害されたことはなかったようである。ユダヤ人はローマに大きく影響力のあるコロニーを形成していた。彼らは異教徒の中にあって、その排他的な習慣を衰えさせることなく、偶像崇拝者との宗教的な交わりをすべて拒否するだけでなく、ほとんどの社交を拒否し、街に独自の区域を占め、彼らの独自の儀式を熱心に実践していたのである。しかし彼らは普段はまったく野放しであって、その暴動などの行為が支配者の注意を引いたときのみ取り締まられた。政府は彼らの宗教に反する行為の強制とは程遠かった。アウグストゥスは彼らが分け前を失うか、安息日を破るかという選択を迫られないように、小麦の分配の日をわざわざ変更したのである。

 

 このようにかつての共和国の不寛容は帝国ではほとんど消滅したと言っていいほどに修正されていた。思索や議論の自由特権は全く制限されなかった。外国の宗教儀式を行う自由特権は表向き無認可の宗教に対する法律で制限されていたが、それでもティベリウス以降は安全だった。公的な国の儀式を回避する自由特権はより不安定ではあったが、偶像崇拝に対する警戒心がキリスト教徒のそれに劣らないユダヤ人には完全に認められていた。今や前者に向けられた並外れた熱狂と反感の原因は何だったのかを私たちは考察する必要がある。

 

 キリスト教迫害の最初の原因は先に述べたような宗教的観念だった。私たちの世界は神の介入の個別の働きによって支配されている、その結果としての物理的、軍事的、政治的な全ての大災害は罰または警告とみなすことができる、という信念が古代の宗教制度全体の基礎になっていた。共和国時代には飢饉、疫病、干ばつが起こるたびに、宗教的儀式が徹底的に調査され、どのような不規則性や怠慢が神の怒りを引き起こしたかが確認された。また、その不品行が国家の災いを引き起こしたと信じられたためにウェスタの処女が死刑に処せられた例が二件記録されている。一見すると、このような信仰が自然に生み出す狂信はキリスト教徒と同様にユダヤ教徒に対しても強く向けられそうに見える。しかし少し考えればその違いを説明することは十分に可能だろう。ユダヤ教は本質的に保守的であり、拡張的ではなかった。東洋の宗教に熱中するあまり、ローマ人の多くがその儀式を行うようになったが、この宗派には布教の精神はなかった。そして排他的なこの宗教に従った者はほとんどすべてがヘブライ民族だったと思われる。一方、キリスト教徒は熱心な宣教師だった。彼らの大部分は古い神々への忠誠を捨てたローマ人だった。その活動は非常に活発で、非常に早い時期から、いくつかの地方では神殿がほぼ廃墟と化していたほどだった。またユダヤ人は周囲の宗教を単に忌避し、軽蔑していただけだった。キリスト教徒はこれらをダイモーンの崇拝と糾弾し、侮辱する機会を決して逃さなかった。したがって大きな災害が起こるのはすべて神々の敵のせいである、と民衆が固く信じていたとしても驚くには当たらない。テルトゥリアヌスは言っている「テヴェレ川が城壁の手前で干上がってしまえば、あるいはナイル川が野に溢れなければ、天が雨を拒めば、大地が揺れれば、飢饉と疫病が国を荒らせば、直ちに『キリスト教徒を獅子に』との叫び声が上がる。」ローマでは「雨が降らない―キリスト教徒が原因だ」という格言が流行っていた。地震はその独特の恐ろしさと、無知な人々にとっての神秘的な性質から、迷信の歴史の中で非常に大きな役割を果たしてきたが、アジア属州では頻繁に起こる恐ろしいものだった。そしてキリスト教徒迫害の三、四の例は明らかにそれが生み出した狂信によるものだったことが見て取れる。

 

 様々な教会の発展を交互に助けたり、妨げたりしたこの信念の効果は教会史の中で最も興味深いものである。キリスト教の歴史の最初の三世紀において、それは信仰が経験した恐るべき苦しみの原因だった。しかし、その時でさえキリスト教徒はその適用に関しては違っていたものの、通常は敵対者の説を受け入れていた。テルトゥリアヌスやキプリアヌス(*カルヒノドス、AD200―258、カルタゴ司教)は、この災難は偶像崇拝に対する神の怒りによるものであり、真理の迫害に対する復讐のためであると強く主張した。キリスト教信仰に敵対して恐ろしい死を遂げた人物が早くから収集され、その死は神の罰であると宣告された。最初のキリスト教皇帝(*コンスタンティヌス1世)の権力を確立した勝利(*ニカイア公会議、AD325)とアリウス(*AD250―336)の突然の死は、その後キリスト教の真実とアリウス主義の偽りを証明する決定的なものと受け止められた。しかし、やがて帝国崩壊の明白な兆候が異教徒の熱意を蘇らせた。彼らは自分たちの古来の神々への忘恩を非難し始め、国の災難を侮辱された天による復讐と捉えたのである。勝利の祭壇が元老院から軽蔑的に撤去されたとき、ウェスタの処女の聖職者団が解散(*AD294)されたとき、とりわけアラリック(*AD375―410)の軍隊が帝都を包囲(*AD408)したとき、怒りの呟きが沸き起こってキリスト教徒が勝利に酔うのを妨げた。神学者たちの立場は、その後いくらか変わった。聖アンブロジウスは国家の衰退はウェスタの処女の解散に起因するという説を最も容赦ない合理主義で批判し、その経緯をすべて辿り、その不条理をすべて暴露した。オロシウス(*パウルス、AD375―420)は、改宗前の帝国にも大きな災難が降りかかっていたことを証明するために歴史書を書いた。サルウィアヌス(*AD5世紀)は蛮族の侵入はキリスト教徒の不道徳に対する神の裁きであることを証明するために神意に関する論文を著した。聖アウグスティヌスはアラリックの侵略の影響の下で書かれた大作にその才能のすべてを集中させ、「神の都」は地上になく、それゆえキリスト教徒は帝国の没落に動揺する必要はないことを証明しようとした。大聖グレゴリウス(*AD540―604)はイタリアの災難は世界の滅亡を予感させる警告である、と絶えず主張していた。ローマが蛮族の前についに沈んだとき、現世の成功は神の恩恵の証であるという教義はついに捨て去られなければならないかのように思われた。しかしキリスト教の聖職者たちは彼らの大義を破滅した帝国のそれから解き放ち、その没落を予言の成就と神の裁きであると宣言し、聖職の威厳をもって蛮族の征服者に立ちはだかって、まさにその勝利の瞬間に彼らを征服したのであった。未開の部族の改宗においては特別な介入という教義が重要な位置を占めていた。ブルグント族はフン族に敗れたとき、最後の手段として最も強力であると漠然と信じていたローマの神の保護下に入ることを決意し、その結果として全国民がキリスト教を信仰するようになった。クローヴィス(*1世、フランク王国初代国王、AD466―711)は大きな戦いの重要な瞬間に妻の神の助けを求めた。戦いに勝利して、彼は何千人ものフランク人と共にこの信仰へと改宗した。イングランドではノーサンブリア(*北東部)の改宗は部分的だった。またマーシャ(*中央部)の改宗は主に神の介在がキリスト教王の勝利を確保したと信じられたためだった。あるブルガリアの小君主は疫病の恐怖から信仰へと駆り立てられ、たちまち臣民の改宗を実現させた。ムハンマドの信奉者たちによる多くの聖堂の破壊やキリスト教の軍隊の敗北、教会のあらゆる祝福に守られて出征した十字軍の悲惨で不名誉な転覆も、この信仰を損なうことはできなかった。中世の間ずっと、そして中世が過ぎ去った後の何世紀かの間、あらゆる驚くべき大災害は、罰、警告、または世界の終末が近づいていることのしるしと見なされた。教会や修道院が建てられた。宗教的共同体が設立された。懺悔が行われた。ユダヤ人は虐殺された。また人々が運命のあらゆる変遷や自然のあらゆる異変を神学者による論争と結びつけようとした理論の一覧表は長いものになるだろう。例えばこういった例である。聖アンブロジウスはマクシムス帝(*在位AD383―388:西ローマ皇帝)の死は、キリスト教徒が破壊したユダヤ教のシナゴーグを彼らに強制的に建て直させた罪の結果である、と自信満々で断言した。ユスティニアヌス法典(*AD534)の中にはユダヤ人、サマリア人、異教徒に敵対的な法律があって、その昔、異教徒がしばしばキリスト教徒のせいにしていた農産物の不作をはっきりと彼らのせいにしている。聖像破壊運動による迫害の初期(*AD726、東ローマ皇帝レオーン3世が聖像禁止令発布)に起こった火山の噴火(*AD726、ギリシャのサントリーニ島が噴火)は、ある一派によれば皇帝の聖像に対する敵意が、他の一派によれば偶像崇拝の撲滅をためらう罪深い皇帝が、神を怒らせたことの明確な証拠として持ち出された。後年ボダン(*ジャン、1530―1596)はサン・バルテルミの虐殺(*1572)を命じた君主(*シャルル9世、1550―1574)が早く死んだのは、その治世に犯した最大の罪のせいであると考えた。彼はある有名な魔術師の命を助けたのである。(*ボダンは異端審問所の裁判官であり、De la démonomanie des sorciers“魔術師の悪魔狂”という著作がある)宗教改革に続く闘争の中でも自然災害は異端や教皇の、ある時代には黙認、別の時代には寄付金に起因するものとされ続けた。しかしある時代には劇場が、またある時代には自由思想家の著作がその原因であるとされた。しかしこうした考え方は次第にそしてほとんど無意識のうちに消えていった。古い言い回しはよく聞かれるが、もはや実感されることも実施されることもなくなった。そして世界の歴史に大きな役割を果たした(*災害は神の怒りであるという)この教義は人類の行動に目に見えるような影響を与えることはなくなったのである。

 

 この宗教的動機は主に下層の人々に作用したが、その上キリスト教を教養ある人々にとって不愉快なものにする政治的動機があった。教会は広大で高度に組織化されており、多くの点で秘密結社を構成しており、明らかに違法であるだけでなく、政府の不安を最高度に煽って然るべきものだった。反乱の核になる可能性があるすべての団体の弾圧は帝国の政策の中でも最も頑強に支持されていた。この政策がどこまで実行されていたかはトラヤヌスがプリニウスに宛てた書簡に驚くほど表れている。消防士たちは彼らが提携して会合を開くという理由で組合を作ることさえ禁じられたのである。こうした感覚の中で、無数の教団員に支配され、会合や教義のいくつかを薄暗がりで覆い隠し、国家に対するものよりも大きな愛着と献身を喚起し、帝国の全域に浸透し、その影響を止めどなく拡大する巨大な団体が存在すれば強い不安を巻き起こすのが当り前である。キリスト教の弁証者たちはそのことを明確に認識していた。しかし彼らは、謀略が絶えない時代に迫害された多数のキリスト教徒が(*国家に対する)不誠実さを見せた例を反対派は一つとして示すことができない、と正しく反論した。受動的服従という彼らの教義をどう捉えようとも、私たちはすべての利益に背を向けてそれにしがみついた節操を称賛しないわけにはいかない。しかし、異教徒たちが新しい共同体を帝国の偉大さにとって致命的なものと見なしたことはまったく間違っていなかった。それはローマ帝国を反キリストの現れとみなし、その破壊を熱烈に待ち望む人々たちからなるものだった。それは国家存立の生命線である愛国心に代わる新たな熱狂だった。多くのキリスト教徒は国のために戦うことは間違いであると考えた。彼らは皆、ローマの勝利を勝ち取った、そして差し迫ったローマの破滅を回避する唯一の手段だった誇り高き武勇の熱情と全く矛盾するような人格を目指し、そのような希望と動機によって動いていた。

 

 この団体の目的と原理は非常に不完全にしか理解されていなかった。異教徒の中でも最も偉大で優れた人々はそれを憎むべき迷信と呼んだ。そのメンバーについて語るときに最も頻繁に繰り返された言葉は「人類の敵」または「人類の憎悪者」だった。このような非難が愛の至高性を大原則とし、疑いなくその慈愛において他のどの階級よりもはるかに優れていた人々に対して執拗に向けられたのは、おそらく第一に公共の娯楽をすべて控え、国の勝利を称えて家を灯火で飾ることも門口に花輪をかけることも拒否しなければならないと考え、同胞とは別の異質の者であることをいくらか見せびらかすような、改宗者たちの非社会性のためだったのだろう。また、それは異教徒の来世の定めに関する一般的なキリスト教の教義に関する知識から生じたのかもしれない。ローマ人がキリスト教徒は自国の英雄や賢人、そして膨大な数の存命中の同胞にどのような定めを科しているかを知り、教会の最も切実な願望の一つは自分が属するかつての栄光の帝国の破壊であると聞かされたなら、その感情が私が引用したような言葉で表現されるのは至って有りうるべきことだった。

 

 一般的な告発に加えてキリスト教徒の道徳に対する最もひどい部類の具体的な告発がなされた。道徳的水準が非常に低かった当時、最も腐敗した人々でさえも嫌悪感を抱くような極悪行為で彼らは告発されたのである。彼らは秘密の集会で常習的に最も放縦な祭りを祝い、人肉を食し、その後、明かりが消されると乱交、特に近親相姦にふけるようになった、とされた。このような告発が執拗に行われたことは、弁証者たちの著作や迫害に関する記述の中でこの告発が非常に重要な位置を占めていることからも見て取れる。今ではこうした告発が全くの虚偽だったことを誰も疑わないだろう。教父たちは長きにわたって敵に殉教者の信仰以外の罪が証明された例を一つでも挙げてみよ、と挑むことができた。そしてキリスト教の教義の真実やキリスト教の奇跡の神的起源に疑いがあったとしても、少なくともキリスト教が大勢の人々の人格を変え、新しい情熱によって冷めた心に生気を与え、最も堕落した人間を救い、改心させ、解放したことには疑いがない、と正当かつ高潔な誇りを持って主張してきたのである。高貴な生、英雄的な死は初期の教会の最高の主張だった。敵もそれを認めることは少なくなかった。初期のキリスト教徒が苦しむ仲間に示した愛はルキアノスによって、彼らの礼拝の美しい簡素さはプリニウスによって、彼らの熱烈な慈愛はユリアヌスによってもっとも強調されて証言された。実際、この状況には別の側面がある。しかしキリスト教徒たちの道徳的水準が大きく低下したときでさえ、それは彼らの周りの社会の水準まで低下したに過ぎなかったのである。

 

 このような中傷は教会の規則によって大いに助長された。教会は洗礼を受けていない者に対し、より神秘的な教義のいくつかを一切知らせず、少なくともその儀式の一つを非常に不明瞭に隠していたのである。洗礼を受けたキリスト者以外は立ち入ることができず、聖職者にも受洗者や世間への説明が許されていなかった聖餐式の性質に関する漠然とした噂が、おそらく人肉食の告発の起源となったのだろう。一方、アガペすなわち愛餐会、愛の接吻の儀式、そしてキリスト教徒がキリストにあって一体であり仲間であることを宣言する独特の、異教徒にとってはおそらく理解不能な言葉は他の告発を唆したのであろう。ユダヤ人に対する同様に根拠のない非難を何世紀にもわたって信じてきた軽信によってその受け入れ易さを説明することができる。また秘密犯罪の立証を非常に困難なものにする極めて不完全な警察制度が中傷の範囲を大きく広げていたことは間違いない。しかし、こうしたことに加えて正統派はいくつかの点で非常に不運だった。異教徒たちの目には彼らはユダヤ人の一派と映った。ユダヤ人は、その絶え間ない暴動、異邦人世界に対する抑えられない憎悪、反乱にしばしば伴う残虐行為のために、早くから異教徒の怒りと軽蔑を買っていたのである。一方、ユダヤ人は律法の放棄を最も凶悪な犯罪とみなし、その愛国心は自国の災難の中でより激しい炎をあげて輝き、キリスト教徒に容赦ない敵意を抱いていた。周囲の人々から軽蔑され、嫌われ、神殿は塵となり、独立の最後の痕跡は破壊されたが、彼は古代の信仰の希望と特権に必死の執拗さでしがみついていた。その目にキリスト教徒は背教者であり裏切り者だった。異邦人の軍隊がエルサレムを包囲し、忠実な人々の軍勢がエルサレムを守るために集まったとき、キリスト教徒のユダヤ人は民族の運命を放棄し、終焉の場面の英雄的行動と苦しみに関与することを一切拒否したのである。イスラエルの色あせた栄光を回復する約束のメシアはすでに来た、長い間一民族が独占していた特権は異邦人世界に渡った、かつて最高に祝福されていた民族は将来にわたって人類の間で呪われることになる、と彼らは宣言した。したがってこの二つの信仰の間に異教徒顔負けの敵意が生まれたとしても驚くにはあたらない。キリスト教徒は打ちひしがれた民衆に降りかかった災難をあまりに歓喜して眺めることによってその苦い杯を何世紀にも渡って満たし、ユダヤ教徒は飽くなき憎悪とともに中傷によって異教徒の民衆の感情を煽り立てることに勤しんだ。一方、カトリックのキリスト教徒は異端の宗派に迫害の剣を振るうことに極めて意欲的だった。異教徒がキリスト教信者は下劣で淫らな乱行をしていると非難したとき、最初の弁証者はその非難を否定しながらも異端者について「これらの人々が明かりを消し、乱交し、人肉を食べるなどという恥ずべき、途方もない振る舞いをするかどうか、私は知らない。」と注意深く付け加えた。疑いや当てこすりの言葉は、数年後には直接的な断定の言葉に変わった。聖エイレナイオスやアレクサンドリアの聖クレメンスを信じるならば、カルポクラテス(*2世紀頃、アレクサンドリアの学者)の信奉者、マルキオン(*シノベの、AD100―160)派、その他のグノーシス派は秘密の集会で、想像し得る限りの醜悪で奇怪な不浄で淫らな行為に常々興じており、その行為は正統派による迫害の原因の一つだった。教父たちはグノーシス派を非難する際に、異教徒の民衆の最も途方もない告発さえも繰り返した。四世紀の聖エピファニウス(*AD439―496、イタリア、パヴィーア司教)は、その宗派の中には乱交の末に生まれた子供を殺し、香辛料をかけて食べることを習慣とするものがあると断言している。逆に異端は喜んでカトリックを告発した。そしてローマの裁判官はユダヤ教、正統派キリスト教、異端を一つの卑劣な迷信のわずかな改変に過ぎないと考えており、この非難の応酬に自分の先入観の正しさを確信したことは間違いないだろう。

 

 キリスト教徒に対する反感のもう一つの原因は、女性の改宗者が多かったために常に家庭生活に支障をきたしていたことである。キリスト教の指導者は早くから女性の心の琴線に触れる比類なき技量で注目されていた。後世の魅惑的な教皇につけられた「淑女の耳かき」という生々しい称号は、迫害の時代には多くの人々に使われたかもしれない。すべての宗教的な問題において、一家の長の最高権威を家庭内道徳の基礎と考えるローマ人にとって、これほど不名誉で反乱的な性質はないだろう。プルタルコスは異教徒世界の最も深い確信を表明している「妻は夫の友人以外の友人を持つべきではない。神々は友人の筆頭であるため、妻は夫が敬愛する神々以外の神を知るべきではない。彼女にドアを閉じさせ、くだらない宗教や外国の迷信を締め出させよ。夫の知らないところで妻が捧げる犠牲を神が喜ぶはずはない。」しかし異教徒の社会システム全体が拠り所としていたこうした原理は今や無視されるようになった。大勢の妻たちは家を出て、最も深い疑惑の目で見られ、法で禁止された宗派の夜間集会に通うようになった。妻の隣で枕に頭を載せるたび、夫は何度も何度も苦い思いをしたものである。妻の共感はすべて自分から遠ざかっている、妻の愛情は異国の聖職者と異国の信仰のものである、妻は優しく、従順な忠実さで彼女の義務を果たすかもしれないが、自分は妻の心を動かす力を永遠に失ってしまった―妻にとって自分はのけ者であり、地獄行きの烙印を押された存在なのだ―と。聖アウグスティヌスが描いた、失意の夫が神々に助けを求め、神託の苦い答えを受け取る姿にはキリスト教徒でさえ深く同情した。曰く「一度迷信に染まった女の心を浄化するよりは、波の上に消えない文字を書くか、空中を羽ばたいて飛ぶ方が容易である。」

 

 私はすでに悪魔祓いの実践が初期の教会で顕著になったこと、より哲学的な異教徒によって軽蔑されたこと、その公言者を取り締まる法律に触れた。この実践はキリスト教徒を教養ある人々の目には低く見せ、民衆の目には高く見せたが、迫害の明らかな原因になったとは考えられない。ローマ帝国に侵入してきた迷信の群れの中で、悪魔払いは目立った地位にあった。すべてのそうした実践は大衆に人気があった。帝国において真剣な迫害を受けた唯一の魔術は政治的な占星術、すなわち帝位継承者を探すための占いで、これについてキリスト教徒が非難されたことはなかった。しかし教会に関係する迷信とみなされるものがもう一つあり、異教徒の哲学者たちはこれにより深い嫌悪感を持っていた。宗教的な恐怖政治で人の心を煽り、未知の世界を恐ろしい苦痛のイメージで満たし、想像力を喚起して理性を支配することは、異教徒の世界では最も凶悪な犯罪の一つだった。古代人にとって、こうした恐怖はまさに迷信の定義であり、その撲滅はエピクロス派とストア派の両方の主な目的だった。このような感情を持つ人々にとって、自分たちの共同体の範囲を超えて、当時世界に存在した全人類に永遠の拷問が用意されていると主張し、この教義の主張を主な成功の手段の一つにしていた宗教指導者がどれほど不愉快な存在だったかは容易に理解できるだろう。初期の神学者たちは、信念より探究心を重視することはなく、恐怖より理性に訴えかけることは少なかった。当然ながら、哲学においては最も物分かりが良い体系が、神学においては最も不寛容な体系が最も強いのである。弱い女性、若い人、無知な人、臆病な人、一言で言えば自分の判断力に疑問を持っていたすべての人々のもとに独占的救済の教義は恐るべき力とともに到来したはずである。他のどの宗教もこのようなことを公言していなかったため、この教義は教会にかけがえのない強力な立場を提供した。そして間違いなく多くの人々を自らの囲いの中に追い込んだのである。この教義は背教者がしばしば見せた恐怖の苦悩にも大いに関係している。(*拷問に屈した)背教者の肉体は目下の拷問を逃れた、しかし克服できなかった弱さは永遠の苦痛によって罰される、と彼は確信していたのである。マルクス・アウレリウスが制定した「迷信的な恐怖によって弱った心を怯えさせるようなことをする者があれば、島流しにする。」という法律は、おそらくこのような教えに対する憤慨に由来するものだろう。

 

 キリスト教会に対する敵意の主因は、当時の教会が見せた不寛容な態度にあったことは疑いようがない。ローマ人は他の宗教を容認したように、どのような形の宗教でも容認する用意があった。ユダヤ人は皇帝に捧げる生け贄を拒否するという点ではキリスト教徒同様に頑固だった。しかし反乱の直後を除いては、ユダヤ教がいかに排他的で非社会的だったとしても、依然として攻撃的ではない民族宗教だったため、ほとんど干渉されることはなかった。しかしキリスト教の指導者たちは自分たちの宗教とユダヤ人の宗教以外のすべての宗教は悪魔によって作られたものであり、自分たちの教会に異を唱える者はすべて滅びなければならないと説いた。宗教的な興奮を最高潮に高め、あらゆる儀式や神託に際してそこにいるダイモーンの直接の働きを目にしていると思い込んだ人々がその熱意を抑え、他人の感情を少しでも尊重することは不可能だった。疲れを知らないエネルギーで改宗を進め、国の繁栄はすべてその庇護にかかっていると民衆が信じていた神々に激しい非難と嘲笑を浴びせ、崇拝者を侮辱し、偶像を汚すことが珍しくなかった彼らはたちまち異教の信者たちを激怒させ、帝国に降りかかるすべての災難は(*キリスト教徒の無礼に対する)神々の正当な復讐であると信じ込ませてしまった。また懐疑的な政治家は、帝国の宗教政策と明らかに相容れない宗教の発展になおさら好意を抱かなかったようである。その目には当時組織されていた新しい教会が本質的に、根本的に、必然的に不寛容に映ったに違いない。それが勝利することを許すなら、世界のすべての主要な国々から成り、そのすべての信条を許容する帝国において、信教の自由特権の消滅を許すことになるのである。苦難の時代、弁証者たちが雄弁な言葉で高らかに迫害の不義と信教の自由の貴重な価値を訴えたことは事実である。しかし、教会が優位に立ったなら、その言葉が非常に違ったものになるのを見抜くのは容易なことだった。異教徒の哲学者は異端審問、アルビ(*カタリ派の虐殺)、またはサン・バルテルミの悲惨な歴史を予見することはできなかった。しかし、キリスト教徒が優勢になったなら悪魔に捧げられたと信じる儀式を決して許さず、彼らが弱かったときにほとんど抑えられなかった宗教的敵意を、権力を握ったときに決して抑えたりしないことに疑いを持たなかった。礼拝者の慟哭の中で偶像と神殿が叩き壊され、先祖の宗教儀式を行う者はすべて死刑になる時があっという間にやってくることを予見するのに予言的霊感は必要なかった。

 

 迫害の時代のキリスト教徒よりも深く純粋な愛情で互いに結ばれていた共同体は、おそらく地上に存在したことがないだろう。罪に対処する際に、これほど優しく、これほど賢明な親切さを示し、罪に対する断固たる敵対と罪人に対する無限の慈愛をこれほど幸福に結びつけ、結果として最も悪質な人間を改心させ一変させることに、これほど成功した共同体は、おそらく存在しなかっただろう。しかし、その勝利の後に必然的に生じる不寛容をこれほどはっきりと示した共同体もまた存在しなかったのである。非常に初期の伝承では、使徒ヨハネの三つの逸話が教会のこの三つの側面を忠実に物語っている。それは、大勢のキリスト教徒たちが彼の周りに集まって、彼の口から何か教えを聞こうとしたとき、彼はただ「私の子供たちよ、互いに愛し合いなさい、」としか言わなかった。この中に律法のすべてが含まれている、と言ったのである。この使徒は、ある司教に預けた若者が悪に染まって強盗団の頭目になったと聞いて、指導者の怠慢を激しく責め、極度の老齢にもかかわらず、山に入ってわざと強盗団に捕まり、涙を流して頭目を抱きしめ、彼を徳の道に引き戻したと言われている。同じ使徒はあるとき自分が入った浴場で異端者ケリントゥス(*AD50―100、グノーシス主義者)を見て、異端者が自分と同じ屋根の下にいたため、屋根が落ちるのを恐れて直ちに駆け出したと言われている。アリウス派とドナトゥス派(*一度棄教した者の秘跡を無効とする一派)の論争で帝国を動揺させ、後の時代に世界を血で染めたあの激しい憎悪はすべて、コンスタンティヌスの改宗のずっと以前の教会に見出すことができる。二世紀にはすでに、正統派キリスト教徒は破門された者や異端者と会話をしてはならず、生活の最も普通の礼儀さえ交わしてはならない、という規則があった。ともに(*迫害に)苦しみながらもお互いへの敵意が和らぐことはなく、生活の最も純粋で好ましい関係は新しい不寛容に汚染された。デキウス帝(*在位249―251)の迫害がほとんど終わらないうちに、聖キプリアヌスは論文を書き、大洪水のときに箱舟の外が救われなかったように、教会の外で救われることはない、殉教にも分派の罪を消し去る力はない、主のために地上で拷問を受けて死んだ異端者は、主の命令により、直ちに地獄に落とされて永遠の苦しみを受ける!と主張した。闘技場においてさえ、カトリックの殉教者たちは死ぬときに異端者たちと一緒にならないように、モンタノス派(*初期教会に戻ろうとする厳格派)のそばを離れたのである。聖アウグスティヌスは後年、彼がマニ教信者だったとき、母親(*聖モニカ)はしばらく道を誤った我が子と同じ食卓を囲むことさえ拒んだと語っている。聖アンブロジウスはユダヤ人の会堂を焼き払ったキリスト教の司教の行為を擁護しただけでなく、政府がその会堂の再建を命じたことを地獄行きの罪として糾弾した。同じ聖人がウェスタの処女(*財産権や高い地位を持っていた)の略奪を主唱し、キリスト教国家が自分の宗教以外の聖職者に寄付を与えることは犯罪であるという、近代の自由主義がそれを拭い去るのに多大な努力を要した教義を主張したとき、彼は初期のキリスト教徒の足跡を辿っていたに過ぎなかったのである。彼らは間接的な形で異教徒の崇拝を黙認していると思われないために月桂冠さえ被らず、最も罪のない市民の祭りにさえ参加しなかった。弁証者たちが異教徒の迫害者に寛容の義務を主張する一方、キリスト教徒に人気のシビュラの託宣(*古代の地中海世界の巫女の託宣をまとめたとされる「シビュラ書」の形式をユダヤ人やキリスト教徒が真似てつくって偽書)には異教徒の神殿の暴力的な破壊への熱い期待が満ちていたのである。そして、キリスト教が王座に就くやいなや、これらの予兆になる政策が台頭してきた。一部の支配者の無関心や世俗的な賢さ、そして異教徒の圧倒的な数が、最終的な完成を遅らせたことは間違いないだろう。しかし、コンスタンティヌスの時代から(*異教信仰に)制限的な法律が施行され、聖職者たちの影響力は絶え間なく彼らの利益のために行使され、賢者は異教の礼拝が速やかに絶対的に禁止されることを予期せずにはいられなかった。異教徒の預言者ソシパトラの息子、哲学者アントニヌス(*AD5世紀、エジプト)はある日、弟子たちとともに古代美術の驚異の一つであり、やがてキリスト教修道士の粗野な手によって消滅させられる運命にあったアレクサンドリアのセラピス神殿の前に立っていたと伝えられている。すると母の予言の霊が彼の上に降りてきた。彼は別の神殿(*エルサレム)を前にした別の預言者のように、迫り来る破滅を予言して聴衆を驚かせた。その時、目の前にある栄光の殿堂は倒され、彫られた像は壊され、神々の神殿は死者の墓となり、人類に大きな闇が訪れると彼は言ったのである!

 

 そして信教の自由特権だけでなく、ローマ文明の最高の到達点だった思想と表現の自由特権も危機に瀕していた。新しい宗教は消えつつあった宗教とは違って人々の意見と行動を規定しようとし、その指導者たちは宗教的問題において自分たちの意見から逸脱するあらゆる意見の自由な表明を大それた犯罪と決めつけた。あらゆる自由特権の中で最も長く持続し、最も尊ばれていたのはこの自由だった。コンスタンティヌスの後でも、異教徒のリバニオス(*AD314―392)、テミスティウス(*AD317―390)、シンマコス、サルティウス(*サトゥルニニウス・セクンダス、AD4世紀)は、彼らの宗教に課せられた制限とは著しく対照的な自由を行使して自分の見解を強く主張した。聖バシレイオス(*カエサリアの、AD330―379)とリバニオス、シュネシオス(*AD370―413、プトレマイス―現リビア北東部―司教)とヒパティア(*AD350―415、新プラトン主義の女性哲学者)との美しい友情は、当時の最も感動的なエピソードの一つである。異教徒の自由と殉教者ユスティノスやオリゲネスの真のカトリシズムの伝統は長く続いたが、誤りが犯罪とみなされ、罰されることは不可避だった。アタナシウスとアウグスティヌスの教条主義、聖職者の力の増大、修道士たちの狂信が、その結末を早めた。テオドシウス(*キリスト教アタナシウス派を国教とした)による一宗教を除くすべての宗教の弾圧、キュリロス(*AD376―444、アレクサンドリア総主教)の配下の修道士によるアレクサンドリアのヒパティアの殺害、ユスティニアヌスによるアテネの学校の閉鎖は、知的自由の決定的な転覆を示す三つの出来事である。この自由が部分的に回復されるまでに、千年の歳月が流れた。

 

 私が簡潔に列挙した事柄はキリスト教の殉教者たちの卓越した勇気、純粋で、感動的で、神聖な徳に対する称賛をいささかも損なうことはないだろう。しかしそれらは(*異教徒側の)迫害者たちの行為をいくらか酌量するだろう。その中にはかつて玉座についた中で最も優れた、最も慈愛深い君主だった皇帝(*マルクス・アウレリウスのことと思われる)が一人、そして徳の平均をかなり上回るはずの君主が少なくとも二人含まれていたのである。それらの事柄(*キリスト教側の不寛容)を円形闘技場の見世物が生んだ人間の苦しみに対する冷淡さや血への渇望と結びつけるなら、迫害を十分に説明できることは間違いない。キリスト教徒側の迫害が独占的救済の教義から生じたことが証明できるなら、その教義を持たなかったローマの異教徒側の迫害も全く当惑すべきものではないことをそれらは示している。ローマ皇帝によるキリスト教迫害は厳しいものだったことは間違いないが、その普及に好都合な広大な道徳的、社会的、知的な働きを完全に打ち消すほど継続的なものではなかったことは、いくつかの時代を見れば分かるだろう。

 

 エジプトの儀式がローマに導入されたとき、迅速かつ精力的な弾圧措置がとられたこと、こうした措置が何度も繰り返されたが、ついには効果がないことが判明すると統治者たちは敵対をやめ、新しい宗教を認めたことを私たちは見てきた。政府との関係においてキリスト教の歴史はこれと逆だった。それが最初にローマに紹介されたとき、反対は全くなかったようである。ポンテオ・ピラトからの報告に基づいてティベリウスはキリストをローマの神々に加えることを希望したが元老院はその提案を拒否した、とテルトゥリアヌスは主張している。しかし、この主張は信頼できる証拠によって全く裏付けられておらず、本来極めてあり得ないことなので、今では一般的に間違いとされている。スエトニウスの一節によれば、クラウディウスの時代に「クレストゥス(*キリストを指すという説もある)という人物に扇動されて、絶えず暴動を起こしていたユダヤ人たち」が都市から追放された。しかしキリスト教の論者は、この治世に彼と同じ宗教を信じる人々が妨害を受けたことを物語っていない。一方すべての論者は完全に一致して、大いに強調して、ネロを最初の迫害者としている。それはキリスト教徒に向けられたものだったが、表向きの理由は宗教ではなく、彼らがローマに火を放ったという濡れ衣だった。そして、それがこの街以外にも広がったかどうかは非常に疑わしい。また、この迫害はキリスト教徒としてではなく、放火犯としてキリスト教徒に向けられたため、背教によって逃れられないという特殊性も持っていた。ローマの城壁の中でそれは猛威を振るった。国家の大合流と古い信仰の崩壊の中で、長年にわたって制限されることなく布教を続けてきたキリスト教徒は恐るべき集団になっていた。タキトゥスによると彼らは非常に人気がなかった。しかしネロが彼らに加えた恐ろしい拷問と、彼らが他にどんな罪を犯していたとしても街に火を放ったりはしていない、という確信ゆえに広く同情された。ある者は野獣の皮を被せられて犬に食いちぎられた。またネロの庭では松脂のシャツを着せられて並べられた者たちが生きたまま焼かれた。十字架にかけられた者たちもいた。大勢の人々が死んだ。この迫害がキリスト教徒の心に与えた深い印象は、直後に生まれたネロを中心人物とするシビュラの文献全般や、この暴君はまだ生きていて反キリストの直接の前兆として再び舞い戻り、教会に最後の大迫害を加えるだろうという何世紀も続いた信仰に表れている。

 

 西暦68年にネロは死んだ。その時から少なくとも二十七年間、教会は絶対的な安息を享受していた。ドミティアヌスの治世の最後の年まで、教会の自由が受けたどんなに小さな妨害にも信頼に足る証拠はない。そしてその大胆不敵さを世界に示す驚くべき実例が最近発見された。ネロとドミティアヌスの治世の間に、ローマ近郊で主要な幹線道路のすぐ近くの地上に、キリスト教徒のカタコンベに通じる大きく立派なポーチが建てられていたのである。ドミティアヌスの長い治世はローマ史の中で残忍さでは凌駕されたかもしれないが、専制政治の巧みさと持続性では決して凌駕されたことはなかった。政治的自由の伝統を守り、ウェスパシアヌスの手によってすでに多くの苦しみを味わっていたストア派と文人階級は容赦ない敵意とともに迫害された。メティウス・モデストゥス(*AD82に代理執政官consul suffectusになった人物と思われる)、アルレヌス・ルスティクス(*AD35―93)、セネシオ(*ヘレニウス、AD?―93)、ヘルヴィディウス(*プリスカス、ファニアの夫、AD?―79)、ディオン・クリュソストモス、小プリスクス、ユニアス・マウリクス、アルテミドロス(*?)、ユーフラテス(*?)、エピクテトス、アリア(*ファニアの母)、ファニア(*AD?―100)、グラティラ(*?)が殺されるか追放された。しかしキリスト教徒に対しては西暦95年(*ドミティアヌスの治世はAD96年まで)に短期間の、しかも明らかにそれほど厳しくない迫害が行われるまで何の措置もとられなかったようである。しかしこれに関する私たちの情報は乏しく矛盾したものである。この迫害を引き起こした特別な原因については多くの疑問が残されている。エウセビオスがヘゲシッポス(*AD110―180)のあまり信頼できない証拠に基づいて書いたところによると、キリストの弟ユダの孫たちの存在を聞いた皇帝が、彼らはダビデの家系であり、したがって王位を狙う可能性があるとして、自分の前に連れてくるよう命じた、しかし彼らが単なる田舎者であり、彼らが話していた約束の王国は霊的なものであると知ると平和裏に彼らを解放し、自ら始めた迫害を止めたとのことである。ある異教徒の歴史家は、公の競技への浪費によって帝国の財政が疲弊したため、ドミティアヌスは財政を補うためにユダヤ人に厳しい特別税を課したと述べている。ユダヤ人の中には税を逃れるため自分の信仰を隠した者がおり、またキリスト教徒と思われていた者がユダヤ人であると明言されないままユダヤ教の儀式に参加していたこともあった。しかし、おそらく最も単純な説明が最も真実であり、迫害はストア派のように自分の政策に抵抗しないまでも、少なくとも自分の支配から完全に離れたところで大きな影響力を行使していた機関に対して、ドミティアヌスのような専制君主が必ず感じたはずの反感に起因するものだろう。このとき聖ヨハネは大変高齢だったがパトモス島に流されたと言われている。皇帝の親族だった執政官フラウィウス・クレメンス(*タイタス、AD?―95)は死刑に処された。彼の妻、あるいは別の説では姪のドミティラは一説ではポンツァ島に、別の説ではパンダテリア島に追放され、彼女の流罪に多くの者が同行させられた。また「(*国家公認の神々に対する)不敬虔またはユダヤ人の宗教(*ここではキリスト教のこと)に転向した罪で告発された」多数の人々が告発されたという。ある者は殺され、ある者は公職を追われた。迫害の中止については二つの異なる説がある。テルトゥリアヌスやエウセビオスは、暴君はすぐに勅令を撤回し、追放されていた人々を戻らせたと述べているが、ラクタンティウスによれば、ドミティアヌスの死後までこれらの措置はとられなかった。後者の記述はネルウァが即位すると「不敬虔で訴えられた人々を許し、追放者たちを呼び戻した。」というディオン・カッシウス(*AD163―235)の主張によって裏づけられている。

 

 この迫害が続いた期間が非常に短く、またそれに対する注目度が非常に低いことを考えるならば、それはキリスト教のような強力な宗教運動を目に見えて抑制するほどのものではなかったと結論するのが妥当だろう。ドミティアヌスが暗殺されるとローマ帝国は黄金時代に突入する。異教徒の歴史家の目に映った西暦96年のネルウァの即位から同180年のマルクス・アウレリウスの死までの期間は、一様な善政、急速に進歩する人類、偉大な立法改革、そして平和が深刻に壊れたことがほとんどなかった時代として記憶されている。キリスト教徒の歴史家にとっては、信仰の歴史の中で最も重要な時期の一つとして、さらに注目すべき時代とされている。この時代に入る頃、教会は一つの宗派として帝国の中で無視できない存在ではあったが、帝国の重要な勢力と見なすには十分な大きさではなかった。しかし、この時代から教会は人数を増し、その枝を伸ばして、最も手ごわい攻撃にもかなり対抗できる存在として浮上してきた。それゆえ、この八十四年間(*五賢帝時代)に彼らが闘って打ち破った反対勢力が、この勝利を奇跡的なものと見なさなければならないような種類と強さのものだったかどうかは、まだ確認が必要である。

 

 この時代のほぼ終わり頃、マルクス・アウレリウスによる迫害のとき、サルディス(*小アジア西部)の主教聖メリト(*AD2世紀)は皇帝に諫言の手紙を書き、その中でアジアにおける敬虔な者の迫害は「かつて起こったことのない」出来事で「新しく、奇妙な命令」の結果であり、皇帝の前任者たちは「他の宗教と同じく」キリスト教信仰を尊重することを習慣としており「ただネロとドミティアヌスだけが」これに敵対したことをはっきりと主張している。それから二十年以上経った後、テルトゥリアヌスは同様にはっきりと強い言葉で、キリスト教徒を迫害したのはネロとドミティアヌスであり、彼らを苦しめた善良な君主の名は一つとして挙げることはできない、と断言している。テルトゥリアヌスはマルクス・アウレリウスを迫害者の一人に数えることを拒み、彼の手によるものとされる偽の手紙にさえ頼って彼を教会の保護者の名簿に加えている。約一世紀後ラクタンティウスは迫害の歴史を振り返り、ドミティアヌスの後の善良な君主は迫害を差し控えたと宣言し、ドミティアヌスの迫害からデキウスの迫害までを一挙に通り過ぎる。前者の皇帝の政策を指摘した上で、彼はこう続ける「暴君の法令は取り消され、教会は元の状態に戻っただけでなく、より華麗に、より豊かに輝いた/多くの善良な君主が帝国の笏を振るった時代が続き、教会は敵からの攻撃を受けず、東と西にその手を広げた…/しかしついに長い平和は破られた。多くの年月の後、教会を苦しめたあの憎むべき怪物デキウスが現れたのである。」

 

 この三つに分かれた文言からこの八十四年間、キリスト教徒の一般的な普通の状態は平和なものだったこと、そして後の二つの文言を受け入れるなら、さらに長い期間にわたって平和が続いたが、その平和は完全に途絶えなかったわけではないことが推断できる。最初は単にユダヤ教の一派と見なされていたキリスト教会は独立した組織として認められ始めた。そしてローマの法律は表面上、明白に認可された宗教だけを許容していた。確かに帝国、特に都市の拡大に伴い、宗教に関する立法の原理、あるいは少なくとも実践が大いに変化したことは事実である。まずユダヤ教を含む特定の宗教が公認され、次に他の多くの宗教が明白に認可されることなしに容認されたのである。こうして東洋の迷信の激流に対抗しようとするすべての試みは無駄に終わり、立法者はその努力を断念し、あらゆる形の放縦な迷信が公然と、そして罰されることなしに行われるようになった。迷信を禁止する法律はまだ無効になっていなかった。しかしほとんど廃れるか、少なくとも特別なスキャンダルがあったとき、政治的な危険が実際に起こるか危惧されるときにだけ使われていた。しかし帝国の下で都市や属州の自主性は非常に大きく、多くのことはその地方の総督の性質に左右されていた。ある属州ではキリスト教徒が邪魔されず、好意を受ける一方で、隣接する属州では厳しく迫害されるということが絶えず起こっていたのである。

 

 すでに見たように、キリスト教徒はさまざまな理由で民衆からひどく嫌われていた。彼らは不人気なユダヤ人と混同されていたこと、またキリスト教徒が秘密集会で行ったとされる犯罪に関する中傷が一般に信じられていたこと、公共の娯楽を断っていたこと、彼らの神々への敵意があらゆる物理的災厄の原因であるという確信が反感の特別な原因だった。アントニヌス朝の歴史において、民衆の迫害願望が常に支配者の慈悲によって抑制されていたことは明らかである。ネルウァの短い治世には迫害はなかったようで、宗教に関する公的な措置についての私たちの知識は異教徒の歴史家が伝える、皇帝は「不敬虔で有罪判決を受けた者を赦し」、「不敬虔やユダヤ教の儀式ゆえに有罪を宣告することを許さなかった」という二文である。しかしトラヤヌス帝の下では純粋に局所的なものではあるが、いくつかの深刻な騒動が起こった。皇帝自身はローマの君主たちの中でも最も賢明で、ほとんどの点で慈愛深い人物であったが、臣下のいかなる団体や組織に対しても神経質に用心し、それらに対抗する特別な勅令を出した。しかしキリスト教徒に対する迫害は政府というよりも、民衆によるものだったようである。エウセビオスの言葉を信じるならば、明らかに暴動のような、しかし時には属州総督によって黙認されるような局所的な迫害が帝国のいくつかの地域で勃発したのである。ビテュニア(*トルコ西部)では総督を務めていた小プリニウスがトラヤヌスに宛てた有名な書簡を書いた。その中で彼は、すでに神殿が寂れるほどに増えており、膨大な数がその法廷に召喚されたキリスト教徒に対してどのような措置をとるべきか自分にはまったく分からないと公言している。彼は皇帝の像の前で焼香し、キリストを呪うことに同意した者は釈放したが、拒否を続ける者の中でローマ市民でない者は「頑固な強情さは懲罰に値すると信じて疑うことなく」処刑した。彼は囚人たちに信仰の内容を問いただし、啓示を知るために二人の女中を拷問することさえためらわなかったが「卑しく極端な迷信しか発見できなかった。」彼が秘密礼拝の内容を尋ねると、彼女らは決まった日の夜明け前に集まってキリストを神とする賛美歌を歌い、あらゆる罪を避けることを誓い、別れる前に無害な食事を共にするのである、しかし結社に敵対する勅令以来それをやめている、と言った。この手紙に対してトラヤヌスは、もしキリスト教徒が法廷に引き出されて有罪になれば処罰されるべきだが、彼らを探そうとするべきではない、もし彼らが犠牲の儀式に同意するならば、彼らの過去の生活について審問してはならないし、彼らに対する匿名の告発を受けてはならない、と答えた。彼の治世にはれっきとした殉教の事例が二つある。エルサレムの主教シメオン(*BC3―AD117)は120歳で、異端者たちに告発され、数日間拷問され、最後は十字架にかけられたという。アンティオキアの主教イグナティウス(*AD35―107)は逮捕されてローマに運ばれ、トラヤヌスの命令で野獣に投げ与えられた。この苛烈な行為の理由を私たちは知らない。しかしこの頃、アンティオキアでは宗教的な興奮を引き起こすような激しい地震が頻繁に起こっており、殉教を熱望するイグナティウスの性格が彼を例外的な熱意に満ちた行動に駆り立てたのだろう。殉教者の手紙はローマで信仰が公然と、かつ大胆に告白されたことを証明している。この十九年間の治世において、キリスト教徒への政府主導のいかなる反対もなかったようである。そして時折、地域的な騒動はあったものの、全体的な迫害と言えるようなものはなかった。

 

 続く二つの治世の間、政府はキリスト教徒に対してより好意的だった。ハドリアヌスは公の競技で民衆が頻繁にキリスト教徒の処刑を要求していることを聞いた。そして何人もただ単に彼らへの敵対的な叫び声に従い、正式な裁判、法に反する罪を犯したという判決なしに処罰してはならない、という勅令を出し、すべての虚偽の告発者を罰するよう命じた。キリスト教に対する彼の態度は、キリストを神々の中に入れるつもりだったという伝説を生むほどに平和的だった。彼は宗教的なことに興味はあったが、キリスト教についてはローマの自由思想家のように無関心だったと思われる。彼のものとされる書簡の中でそれはセラピス崇拝と混同されている。政府に関する限り、キリスト教徒は全く干渉を受けていなかったようである。しかし、この治世に多くのキリスト教徒は、必死の、しかし不運なヒロイズムによって自由を取り戻すための最後の努力(*バル・コクバの乱)を行ったユダヤ人反乱者の手によって恐ろしい責め苦を受けたのである。この時、ユダヤ教徒とキリスト教徒が見せたお互いに対する敵意によって異教徒は両者を別個の存在として見るようになった。ハドリアヌスはユダヤ教徒が再びエルサレムに入ることを禁じた時、彼はキリスト教徒には完全な許可を与えてその区別を承認したと言われている。

 

 ハドリアヌスの次のアントニヌスは、キリスト教徒への民衆の反感を抑制するために新たな努力を行った。彼は彼らを苦しめてはならない、という勅令を出した。また小アジアで起きた地震のために民衆の怒りが激しくなったときには、彼らを告発した者を罰するよう命じた。これらの暴動を除けば、彼の治世の23年間は絶対的な平和の時代だったと思われ、それはマルクス・アウレリウスの治世の数年間も続いたようである。しかし正確なことは分からないが、ついに迫害の勅令が出された。これまでの統治者の中で最も優れた人物の一人がキリスト教徒を迫害するようになった理由について、私たちはほとんど何も知らない。妻の死に際し、元老院に対するたった一つの願いとして、自分を慰めるために自分に反抗した者たちの命を救ってくれるよう頼んだという―いささか過剰な優しさだけが欠点だった人物の残忍な性質や、抵抗への苛立ちゆえでなかったことは、自信をもって断言できるだろう。それが聖ルイ(*1214―1270、フランス王)を奇妙なほどの迫害に駆り立てた宗教的狂信に似たものではなかったことは、同様に明白である。聖ルイが迫害(*カタリ派討伐)をしたのは、自分の宗教的な見解を否定することは凶悪な犯罪であり、異端は地獄への道であると信じていたからである。マルクス・アウレリウスにはそのような信念はなく、ストア哲学を自分の信条と慰めにした最初のローマ皇帝である彼は、自分の哲学に最も敵対する哲学の教授たちに寄付をした最初の皇帝でもある。国家の中の国家として存在し、国家のそれとは全く異なる体制、理想、熱意、希望を持つキリスト教会が帝国の既存の体制と相容れないことは、教会が増えるとともに明らかになっていた。人肉食や近親相姦といった不道徳な行為に対する非難はより一貫したものとなった。そして後者は最近発生したカルポクラテス派(*財産や女性の共有を主張した)の異端者に正当に当てはまるものだったと言われている。マルクス・アウレリウスのストア派は悪魔祓いや来世の恐怖の訴えに反発していたと思われる。また周りの哲学者たちもおそらく彼の敵意を刺激しただろう。彼の師で友人だったフロントはキリスト教に敵対する本を書き、キニュコス派のクレスケンスは策略によって殉教者ユスティノスを殺したと言われている。また皇帝がキリスト教徒に対する厳しい勅令を出したことを否定することはできないが、彼の治世における迫害の残虐な内容は民衆の凶暴性と、遠く離れた属州の総督の弱さに起因するものだった。そして、もし彼がキリスト教信者にとって非常に厳しい敵だったとすれば、二十年余り後に著作を残したテルトゥリアヌスがその事実を知らずに、最も著名なキリスト教徒の擁護者の一人として彼を持ち出すとは考えにくい。

 

 しかし、これらの点をどのように考えようとも、不幸なことに彼の治世にローマが最高の哲学者であり、教会で最も純粋で優しい性質の持ち主だった殉教者ユスティノスの血で染まり、迫害が広く行われたことに疑問の余地はない。遠く離れたスミルナとリヨンでは、ネロ以来キリスト教が耐えてきたものをはるかにしのぐ残虐行為があった。そして、いずれの場合も殉教者によって最も超越的なヒロイズムが示されたのである。聖ポリュカルポス(*AD65―155、スミルナ主教)や他の多くの人々が最も尊い死を遂げたスミルナでの迫害は公的な競技の機会に行われ、それを刺激していたユダヤ人の影響力を私たちは辿ることができる。教会史の中で最も残虐なものの一つであり、殉教学の中で最も壮大で、最も悲壮な異彩を放っているリヨンの迫害は、民衆の怒りと総督の卑屈さの結合という最悪の特徴から発生したものだった。あるキリスト教徒家庭の使用人は拷問におびえながら、近親相姦、嬰児殺、人肉食、醜悪な不道徳行為など、世間でうわさされているあらゆる犯罪で主人を告発した。その結果、恐るべき残忍さが噴出した。老人や弱い女性の体に何時間も、何日も、数え切れないほどの恐ろしい拷問が加えられた。彼らは苦しみの中で戦場でも見られたことがないほどの気高い勇気を示し、その記憶は人類の間で不滅のものになっている。ブランディナ(*闘技場で殉教した女奴隷)とポティヌス(*AD87―177、リヨン初代司教)はフランス教会の栄光の歴史の最初のページを血で書き記したのである。マルクス・アウレリウス帝の晩年、三つか四つの属州で厳しい迫害が行われたが、帝国全体でキリスト教を弾圧しようとする組織的な努力はなかった。

 

 次に、西暦180年にマルクス・アウレリウスが死去してから、同249年にデキウスが即位するまでの期間を一つの期間として考えてみることにしよう。この間ずっと、キリスト教は重要な影響力を持つ強大な団体だった。そして、その期間の大部分において大勢のキリスト教徒たちが文武の高い地位に就いていた。キリスト教に示された敵意はおそらく(*政治的迫害だった)マルクス・アウレリウスの晩年を除いて、以前よりも政治的な様相を呈し始めた。帝国のシステムとは全く異質な、巨大で急速に成長する団体の存在は、すべての支配者の前に立ちはだかった。コンモドゥス帝(*在位AD180―192)やヘリオガバルスのような皇帝は通常、利己的な快楽に没頭するあまり、明確な政策を持つことができなかった。しかし、賢明な君主たちは、帝国の幸福を心から願い、マルクス・アウレリウスやディオクレティアヌスのように、台頭する信仰を抑制しようと努め、あるいはアレクサンデル・セウェルスや、ついにはコンスタンティヌスのように、積極的に奨励したのである。マルクス・アウレリウスが行ったキリスト教に対する措置はコンモドゥスの下で停止された。彼の愛妾マルシアは、多くの迫害の原因になってきた女性の影響力が寛容をもたらした数少ない記録上の実例である。しかし、彼の治世にキリスト教徒の哲学者アポロニウスと、奇妙な応報を受けたその告発者(*アポロニウスは奴隷に告発された。主人を告発した奴隷は処罰されるという法律があった。彼が罰しようとした奴隷が彼を恨んで巻き添えにしたという説もある。)が同時にローマで処刑された。私たちが考えている六十九年の間に、教会の平和は二度だけ破られた。最初の機会はセプティミウス・セウェルス帝(*AD193―211)の治世で、彼はしばらくキリスト教徒に好意的だったが、202年か203年に異教徒がキリスト教やユダヤ教を信仰することを禁じる勅令を出した。この勅令に続いて、アフリカとシリアで激しい迫害が行われ、オリゲネスの父をはじめ、聖フェリシタス(*妊娠しているためにペルペトゥアと一緒に殉教できないことを心配したが早産して同時に殉教した)や聖ペルペトゥアも命を落とした。この迫害は西方には及ばなかったようである。迫害はどうやら勅令を皇帝の直接の法令というよりも、キリスト教徒への敵意の兆候と受け取った属州総督の仕業だったようで、勅令は異教徒を改宗させることに積極的なキリスト教徒にだけ適用された。このときまで、キリスト教の殉教者の数は非常に少なかったとオリゲネスが述べていることは注目に値する。第二の迫害はアレクサンデル・セウェルスがマクシミヌス帝(*在位AD235―238)に殺害されたことに起因する。この簒奪者は、亡くなった皇帝の有力な廷臣を激しく追及したが、その中にはキリスト教の司教も含まれていた。同じ頃ポントスとカッパドキアで激しい地震が起こり、恒例の民衆の沸騰が起こった。しかし、これらの例外を除いてキリスト教徒が悩まされることはなかった。カラカラ、マクリヌス帝(*在位AD217―218)、ヘリオガバルスは彼らに敵対する措置は何も講じず、十三年間君臨したアレクサンデル・セウェルスは彼らを熱心に着実に支援していた。ある異教徒の歴史家は、この皇帝はキリストを称える殿堂を建てるつもりだったが、司祭たちが他の神殿をすべて放棄するよう主張したため思いとどまったと証言している。彼は私的な礼拝堂でティアナのアポロニウス、アブラハム、オルフェウス、そしてキリストの像を崇拝していた。彼は属州総督たちを任命する前に、彼らが犯した罪を告発する機会を民衆に与えるように命じた。この規則は明らかにユダヤ教徒とキリスト教徒が聖職者を選出する際の手順から借用したものである。そして、「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という教訓を、宮殿やその他の公共建築物に刻むよう命じた。またキリスト教徒が占有しており、ある飲食店のオーナーがその所有権を主張していた土地に関する争議を、神の礼拝が最も重んじられるべきであるという理由をつけて前者に有利に裁決した。私たちが考察中の時代の最後の五年間に君臨したピリップス・アラブス帝(*マルクス・ユリウス、在位AD244―249)はキリスト教徒に非常に好意的で、信頼に足る証拠はないものの、彼は洗礼を受けたと信じられている。

 

 ここまで、ローマにキリスト教が布教されてから約二百年後の西暦249年までの迫害の歴史を振り返ってきた。この間、キリスト教徒は時には多くの苦しみに耐え、多くのヒロイズムを示したが、ネロの迫害という非常に疑わしい例外を除いて、帝国全体でキリスト教を弾圧しようとする試みは一度もなかったことを私たちは見てきた。マルクス・アウレリウスの時代にスミルナやリヨンで、セウェルスの時代にアフリカやアジアのいくつかの属州で、厳しい迫害が行われた。公的競技の興奮や、地震や洪水、中傷的な告発による民衆の騒動はまれではなかった。しかし後世に教会裁判所が自分たちの見解に反するそれを何度も何度も弾圧したような、継続的、組織的、全体的な迫害はなかった。そして帝国のどの地域においても、いくつもの世代が完全な平穏のうちに過ぎ去った。ガリアや小アジアの大部分では、マルクス・アウレリウスの治世より前には殉教者は出ていない。イタリアではネロの死後、ドミティアヌスとマクシミヌスの時代に宗教とは全く別の原因による少しばかりのトラブルがあったが、私たちが考察している期間中には殉教は孤発性のものがほんの数例あっただけである。教会の指導者である司教は特別に敵対視され、世界各地で数人が倒れた。しかし使徒時代以降、デキウスの治世にファビアヌス(*AD?―250、ローマ司教)が殉教するまで、ローマの司教が殺されたことがあったかどうかは極めて疑わしい。キリスト教は正式には認可されていなかったが、同じような立場にある他の多くの宗教と同様に、一般に黙認されており、ここまで見てきた期間の大部分において、その信仰告白者の宮廷や軍隊での昇進を妨げることはなかったようである。皇帝たちはほとんど彼らに無関心か好意的だった。異教徒社会において神官はほとんど影響力を持っておらず、ディオクレティアヌスの時代頃まで迫害に目立った役割を果たすことはなかったようである。ユダヤ人をたった一つの例外として、どの階級も近代の迫害のほとんどを生んだ誤謬の犯罪性という教義を持っていなかった。また神々を無視したり侮辱したりすると大きな災難がもたらされるという信仰は異教徒による迫害の宗教的動機になったが、これが働いたのは稀で例外的な大災害のときだけだった。キリスト教の時代には迫害者の第一の目的は教育を統制し、異説の著作の出版を阻止し、自らが抑圧しようとする宗教の儀式を不可能にするような厳密な警察検査を実施することだった。この時代にはこのようなことは試みられなかったし、実際に可能でもなかった。皇帝の護衛を除いて、極めて穏健な規模の軍隊のほとんどは帝国の広大な辺境に集結していた。警察力は最も貧弱なもので、街路の一般的な秩序を守れる程度のものだった。政府は教育を奨励することはあっても、統制することはまったくなく、親や社会は若者を好きなように教育する完全な自由特権を持っていた。書写が奴隷制度によって大変便利になったため、文芸は非常に大きく広がり、その大部分はまったく統制されていなかった。アウグストゥスは偽造された予言の書物を焼却させ、ティベリウスとドミティアヌスの暴政下では、暴君殺害を賛美したり、帝国に激しく敵対したりした政治論者や歴史家が迫害されたことは事実である。しかし、これらの行為が極めて強い怒りを引き起こしたことはその稀少さの証明になっている。そして政治と関係のない問題についての文筆の自由特権は絶対的なものだった。一言で言えば、教会は寛容が規則だった社会で都市、属州、個人の独立が最高点に達し、支配階級が宗教的見解にほとんど無関心だった時代、かつてないほどの影響力の合流がその発展を促した時代に布教活動を行ったのである。

 

 三世紀半ばまでの教会の状況がこのようなものだったことを見れば、奇跡なくしてどのような見解も生き残ることができなかったような激しく持続的な迫害に直面しながらキリスト教が広まったと主張したり、初期の教会の歴史から迫害は真理の抑圧にいかなる現実的な効果も持たないと論じたりするのは不条理なことが容易に理解されるだろう。そうした環境に加えて、教会が持っていた比類のない魅力と脅迫の手段を考えるなら、教会はその後に耐えなければならなかったはるかに深刻な攻撃に対抗できるほどの巨大さを獲得していたことを理解するのに何の問題もないだろう。教会のこの伸長は豊富な証拠によって明らかにされている。私がラクタンティウスから引用した言葉(*ドミティアヌスとデキウスの間に迫害はなかった)は、デキウスの迫害以前の論者たちによって強調された声の微かな反響に過ぎない。殉教者ユスティノスは「ギリシャ人であれ野蛮人であれ、十字架につけられた御方の名によって祈りと感謝を捧げない民族はいない。」と述べている。「私たちは昨日の私たちではない、」とテルトゥリアヌスは叫んだ「私たちはあなた方の都市、島、砦、地方議会、陣地そのもの、部族、分隊、宮殿、元老院、公会広場に満ち溢れている。」エウセビオスはローマ司教コルネリウスの手紙を保存しており、そこにデキウスの迫害時の教会職員の名簿がある。この教会は一人の司教、四十六人の長老、七人の助祭、七人の副助祭、四十二人の侍祭、五十二人の悪魔祓い師、朗読者、守衛で構成されていた。また教会は千五百人以上の未亡人や貧しい人、苦境にある人を支援していた。

 

 西暦249年に勃発したデキウスの迫害は、おそらく帝国を古代の規律に戻し、外来の非愛国的な影響を排除することを目指して始まったものだった。また属州政府の全機構に支えられ、帝国全土に及んだ、世界からキリスト教を根絶することを意図した最初の試みだった。その恐怖を表すために、どんなに強い言葉を使っても強すぎることはなかっただろう。長い間抑圧されていた民衆の凶暴な本能が新たに爆発し、支配者たちはそれを許したのみならず、奨励したのである。偶像崇拝の生け贄を敬遠する人々を脅かす死よりもはるかに悪いのは、殉教者の節操を征服しようと行政官がしばしば行った恐ろしい長時間の拷問であり、ときにキリスト教徒の処女に加えられた、言うに忍びない蹂躙(*売春宿で働かせる)だった。教会は長い平和のために無気力になって、時代の悪徳に深く感染しており、その打撃によろめいた。人々が信念によってではなく、家族関係によってキリスト教徒になり、より豊かなキリスト教徒が周りの異教徒と贅沢を競い、多くの場合、司教でさえ公職を目指す俗物だった時代に入ってから長い時間が過ぎていた。そのため棄教が非常に多かったことは驚くに値しない。迫害が最初に始まったときに(*異教の犠牲の)祭壇に群がった何千人もの人々、最も輝かしい教会の突然の崩壊、それが証明する条件の遵守を要求することなく棄教の証明書を提供するという属州総督の申し出が多くの人々に受け入れられた熱心さを、異教徒は勝利の嘲りとともに、教父たちは燃えるような怒りとともに記録している。信仰を捨てた者にその後再び聖体拝領を受けさせるべきかどうかは、カトリックからノウァティアヌス派(*対立教皇)を分裂させる最大の原因となり、モンタノス派を分裂させる一因となった。一方、司教が課した懺悔を免除して赦しを与える、という聴罪司祭たちの主張は争いを引き起こし、監督制度の優位の確立に非常に大きく貢献した。デキウスの迫害はその前後に起こった迫害に比べると教会の態度の高貴さにおいてやや劣るものの、肉体的に最もか弱い人々が、少なからぬ例で示した極めて勇敢で献身的な多くの例で彩られている。この迫害は教会の破壊に極めて適したものだった。もしこの迫害がもっと早い時期に行われ、長い年月にわたって続けられていたならば、奇跡が起こらない限りキリスト教は滅んでいたに違いない。しかしデキウスの迫害は二世紀にわたって存在していた教会に降りかかって、二年足らずで終わったのである。その激しさは属州によって大きく違っていた。政府の脅迫を予期して民衆が騒いだアレクサンドリアとその近隣の町ではそれは極度に恐ろしいものになった。カルタゴでは当初、属州総督が不在だったため死刑判決は下されなかったが、属州総督が到着すると、流刑や投獄に代わって恐ろしい拷問と死刑が執行された。民衆の怒りは特に司教の聖キプリアヌスに向けられたが、彼は賢明にも嵐が去るまで隠れていた。一般に、支配者たちの目的はキリスト教徒を殺すことより打ち負かすことだったようである。棄教を強要するための恐ろしい拷問が絶えず行われた。そしてそれが無駄なことが分かると最終的に多くの者が解放された。

 

 デキウスの迫害はキリスト教徒のカタコンベ(*地下墓地)が初めて侵害された出来事として、キリスト教考古学的に注目すべきものと考えられている。墓が並べられたこの地下の広大な回廊は、小さな礼拝堂へと拡張されることが非常に頻繁にあり、その礼拝堂はしばしばとても美しい絵画で飾られていた。そして迫害の時代には長きにわたって侵されることのない避難場所だった。ローマ人が埋葬の場所に与えた極度の尊厳によって、冒涜は撥ね返されていた。そして三世紀の初めにはカタコンベは教会の合法的な所有物と認められていた、とされている。ローマの立法者たちはギルドや組合の結成には否定的だったが、埋葬協会、すなわち各メンバーが一定の金額を支払ってその団体の土地にきちんと埋葬されることを確実にする団体は例外としていた。教会はこの特権を利用し、この資格によって法的な存在になったと信じられている。元来、別個の家族の資産だった墓はこうして教会の所有物となり、カタコンベはおそらく最初から埋葬場所以上のものだったのだろう。その中には数多くの礼拝堂があるが、その規模は小さく、一般的な礼拝には全く適していない。それらはおそらく葬儀のための礼拝堂であり、殉教者を記念する礼拝にも用いられていたのだろうが、初期の通常の礼拝はキリスト教徒の個人宅で行われていたのだろう。キリスト教の礼拝に捧げられた建物があったことを示す最も古い記録は、すでに述べた(*キリスト教の殿堂を建てようとした)アレクサンデル・セウェルスの決定である。しかしそのどれくらい前からそれがローマに存在していたのかは分からない。しかし、深刻な迫害が起こると彼らは間違いなくこれらの建物を放棄したのである。そして最後の頼みの綱として、カタコンベは迫害者からの避難所になった。

 

 デキウスの治世は二年ほどしか続かず、その終わり頃には迫害はほとんどなくなっていた。西暦251年の最後の月に息子のガッルス帝(*在位AD251―253)が即位すると、しばらくの間は完全に平和だった。しかし、ガッルスは翌年の春に迫害を再開した。それほど激しくもなく、全体的でもなかったようだが、その一年後にガッルスが死ぬまで迫害は続いたようである。殉教したファビアヌスの後を継いだコルネリウスとその後継者ルキウスという二人のローマ司教がこのとき死刑になった。西暦254年に即位したウァレリアヌス帝(*在位AD253―260)は当初キリスト教徒を容認するだけでなく、熱く擁護し、同時代人の言葉を借りるなら、彼の家が「主の教会」のように見えるほどの大勢を宮廷に集めたのである。しかし、四年余り後に彼の態度は変わってしまった。エジプトの魔術師マクリアヌスの説得によって西暦258年に迫害勅令に署名し、キリスト教徒の聖職者や元老院議員を死刑に、その他のキリスト教徒を流刑または財産没収とし、カタコンベに入ることを禁じたと言われている。その後には血なまぐさい全体的な迫害が続いた。犠牲者の中には、カタコンベで死んだローマ司教シクストゥスや、追放後に斬首され、カルタゴ司教として最初に殉教したキプリアヌスがいた。ついにウァレリアヌスがペルシャ軍に捕らえられた。ガッリエヌス帝(*在位、共同皇帝AD253―260、単独皇帝AD260―268)は西暦260年に即位すると直ちにキリスト教徒の完全な容認を宣言した。

 

 いま簡単に述べたように、西暦249年のデキウス即位から同260年のガッリエヌス即位までの間は、教会がこれまで耐えてきた中で最も惨憺たる期間だった。ガッルスとウァレリアヌスの治世の約五年間を除いて迫害は継続したが、その強度と範囲は大きく変化した。死者の数ではなく、加えられた拷問の残虐さで測るなら、最初の頃の迫害はおそらく記録されている中で最も厳しいものだった。その後、それは主に指導的な聖職者に向けられ、既に見てきたように四人のローマ司教が命を落としている。政治的な理由に加えて、崇拝を怠ったことに対する神々の怒りとされた大きな災害が引き起こした民衆の熱狂は、かつての時代と同様大きな影響力を持っていた。また政治的な災害は帝国の崩壊の接近をはっきりと予見させ、その後には恐るべき大飢饉と疫病が続いた。聖キプリアヌスは、これらのことをキリスト教徒の仕業と最も固く信じていた迫害者(*アフリカ総督デメトリアヌス)の一人に宛てた論説の中で、帝国の全体的な失意と、これらの災難をキリスト教徒がどのように受け取っていたかの両方について、非常に興味深い記述をしている。聖人は他の多くの信徒たちと同様、この世の終わりが近づいていることを確信していた。世界の衰微が到来し、自然の力はほとんど枯渇し、太陽はもはや昔の輝きを失い、土は昔の肥沃さを失い、春は美しくなくなり、秋は豊かでなくなり、人間のエネルギーは衰え、すべてのものは急速に終焉に向かって進んでいる、と彼は言った。飢饉や災いは、裁きの日の前兆である。偶像の前にひれ伏し、真理を信じる者を迫害する反抗的な世の中に警告を与え、罰するために送られたのである。「これが真実である。キリスト教徒が迫害されたなら、たちまち神の怒りが天に現れないことはない。」聖人の心には改宗した帝国という概念がちらりとも浮かんだことはなかったようである。彼が予言した教会の唯一の勝利は来世のものだった。迫害者の脅威に彼は再び恐ろしい脅迫で対抗した。「灼熱の炎が罪人を永遠に苦しめ、その苦しみには休息も終わりもない。ほんの一時、拷問を受けている私たちを熟視していた人たちが、永遠の苦しみの中にいるのを私たちは熟視するだろう。迫害者たちの野蛮さが非人間的な光景で大いにその目を楽しませた短い快楽ゆえに、彼ら自身が永遠の苦しみの光景を晒すのである。」災難が次から次へと世界を襲っているのは最後の警告である。すでに死の影の中にある人物の厳かさによって、聖キプリアヌスは迫害者たちに悔い改めて救われるようにと訴えたのである。

 

 ガッリエヌスの即位によって教会は新たに完全な平和の時代を迎え、それは一つの取るに足りない例外を除いて四十年以上続いた。その例外とはアウレリアヌスである。アウレリアヌスは治世のほぼ全期間にわたってキリスト教徒に非常に好意的で、正統派の主教たちから異端として破門した高位聖職者をアンティオキアから追放してほしいと嘆願されたこともあった。彼はその治世の終わりに彼らを迫害しようとした。しかし、一説には彼は勅令に署名しようとしたときに暗殺され、別の説によれば勅令が各属州に送られる前に暗殺された。そして実際に迫害が行われていたとしても、全く取るに足りないものだっただろう。この間、キリスト教は完全に自由であっただけでなく、大いに栄誉を受けていた。キリスト教信者たちは属州総督に任命され、生け贄の義務を明白に免除されていた。文官は深い尊敬の念を持って主教たちを扱った。皇帝の宮殿はキリスト教徒の召使いで埋め尽くされていた。彼らには自由に宗教を公言することが許され、その忠実さは非常に高く評価されていた。民衆の偏見も落ち着いたと見え、信仰の急速な発展にも騒動や敵対行為はなかった、と言及されている。広々とした教会が各地に建てられたが、礼拝者が多くて入りきれなかった。ディオクレティアヌスの迫害が始まる前、ローマには四十を下らない数の教会があった。キリスト教徒はまだ数で異教徒を上回っていなかったかもしれない。しかし彼らの組織、熱意、そして急速な発展を考えるなら、迅速な勝利は必然だったように思われる。

 

しかし、その勝利が達成される前には最後の、そして恐ろしい試練をくぐらなければならなかった。ディオクレティアヌスはいくらか不当にその名前を迫害と結びつけられてきたが、はるかに大きな責任は同僚のガレリウスの方にあったのである。ディオクレティアヌスは十八年近くキリスト教徒を完全に平和な状態に置いていたが、外国の信仰を撲滅するためもう一度努力するように説得された。彼は最も卑しい身分(*解放奴隷の子と言われている)から実力で上り詰めたが、その治世の他のすべての行動において穏健で、寛容で、群を抜いた慈愛深さを示していた。彼は私生活の質素さ、自発的な退位によって皇帝の権威を大いに高めたが、何よりも引退後の長い年月における並外れた高潔な振る舞いによって稀に見る雅量を示したのである。彼は政治家として非常に高い評価に値すると私は思う。アントニヌスとマルクス・アウレリウスは、共和国の伝統とストア派の厳格な教えと回顧主義に魅了され過ぎて、制度を贅沢で高度に文明化した人々の欲求に合わせる必要性を理解できなかったため、帝国の運命にほとんど永続的な影響を及ぼさなかった。しかしディオクレティアヌスはその立法において、常に先見力と大局観を示し、治める社会の状況をよく認識し、遠い将来の出来事を予見していたのである。ローマの腐敗は不治の病であることを認識した彼は、大きくて比較的堕落していない属州の州都に新しい政治活動の中心を作り、帝国を再生しようとした。また彼が普段暮らしていたニコメディア(*小アジア北西部)、その他にカルタゴ、ミラノ、ラヴェンナはみな彼の好意の印をふんだんに受けていた。彼はまだ残っていた共和的な自由特権のための時代遅れの非効率的な制度を一掃し、あるいは無視して、実際のところ自分の政府にどこか東洋的な性格を持たせた。しかし同時に、帝国を四つに分割するという大胆かつ非常に危険と言わざるを得ない手段によって、各支配者たちの権力を縮小し、属州のより良い管理と権限の強化を保証し、時折帝国を無政府状態にする危険があった軍の反乱の効果的な抑制策を初めて考え出した。(*四帝分治、決定権、採決権はディオクレティアヌスだけが持つ)同じように精力的な政治家として、彼は課税制度全体を再編成し、賢明ではなかったが、商取引を規制しようとした。このような皇帝にとって、キリスト教の急速な進展と深い反国家的性格がもたらす問題は深刻な検討事項であったに違いなく、彼の性格の弱点は教会にとって最も不都合なものだった。ディオクレティアヌスは、心と頭に多くの高貴な資質を持っていたが、いまだ迷信深く、率直ではなく、神経質で、揺らぎがあった。そして血気に逸ってキリスト教徒への敵対を扇動する粗野で残忍な軍人(*ガレリウスのこと)にあまりに容易に流されてしまったのである。

 

 ガレリウスがこの問題に関して見せた極度の熱意は、第一に異教信仰に熱烈に傾倒していた母親の影響によるものとされている。キリスト教の論者たちは彼を限りなく奔放な官能の人物、反対に遭うと激怒する高圧的な人物、その残虐さが冷酷さをはるかに通り越して、苦しみを与え、それを凝視することが悪魔的な喜びになった人物、という暗い色彩で描いている。異教への強い愛着ゆえに、彼はついにいくつかの原因によって強化された、彼の党派の公然たる代表になった。この頃、帝国の哲学は完全に新プラトン主義やピタゴラス主義の段階に移っていて、宗教的儀式と密接に結びついていた。その最も著名な代表者だったヒエロクレス(*AD?―222)やポルピュリオスはキリスト教に敵対する本を書いた。東洋の宗教は人々の間に大いなる狂信を引き起こしていた。今やキリスト教徒たちは国家の中で非常に手強い存在となっていたため、政治的な利益は迷信と結びついた。彼らの利益は副帝コンスタンティウス・クロルス(*在位AD305―306:西方副帝、コンスタンティヌス大帝の父)に代表されていると考えられていた。この宗教はディオクレティアヌスの妻や娘(後者はガレリウスと結婚していた)によって受け入れられるか、少なくとも熱く支持されており、宮廷の主な役人の何人かは公然と信仰告白をしていたのである。ニコメディアの皇帝の宮殿に面する丘には、壮大な教会がそびえ立っていた。主教はほとんどの都市において最も活動的で影響力のある市民の一人だったが、その影響力は必ずしも良い方向に行使されたとは言えなかった。無分別な熱意が異教徒の宗教を侮辱することになったいくつかの事例、軍隊生活が侵攻に反するとして兵役を拒否した一、二の事例、長い平和の間に生じたスキャンダラスな道徳の緩み、教会の指導者たちが示した悪名高い激しい不和などが、さまざまな形で迫害を加速させる要因になった。

 

 ディオクレティアヌスはかなり長い間、ガレリウスによるキリスト教徒への敵対の催促にことごとく抵抗していた。唯一取られた措置はガレリウスによる軍隊からの数人のキリスト教徒将校の罷免だった。しかし西暦303年、ディオクレティアヌスは同僚の懇願に屈し、多くの事情が相助けて引き起こした恐るべき迫害が始まった。神官たちはある公的な儀式の場で、キリスト教徒がいるせいで内臓(*犠牲として焼いた動物の内臓を見て占う)にいつものようなお告げが現れないと宣言した。ディオクレティアヌスが伺いを立てたミレトスのアポロンの神託は、彼にキリスト教徒を迫害するよう強く促した。ある狂信的なキリスト教徒が迫害の最初の勅令を破り捨て、皇帝を辛辣に嘲笑し、自分の行いを公言して、恐ろしい死によってそれを償った。迫害が始まった後、ディオクレティアヌスとガレリウスが住んでいたニコメディアの宮殿に二度火が放たれ、無理もないことだが、キリスト教徒のせいにされた。その後シリアで起きたいくつかの小さな騒動も同じだった。その後、次々と矢継ぎ早に勅令が出された。最初の勅令はすべてのキリスト教会の破壊とすべての聖書の廃棄を命じ、ひそかに礼拝に集まるキリスト教徒は死罪にすると脅し、彼らの市民社会における権利をすべて奪った。第二の勅令ですべてのキリスト教聖職者を投獄するよう命じた。そして第三の勅令でこれらの囚人に、そして第四の勅令ですべてのキリスト教徒に拷問を用いて犠牲の儀式を強いるよう命じた。当初ディオクレティアヌスは彼らの命を奪うことを許さなかったが、ニコメディアの火事の後、この制限は解除された。多くの者が生きたまま焼かれた。そして迫害者が彼らの決意を揺さぶろうとした拷問はあまりにも恐ろしいものだったので、そのような死でさえも慈悲の行為と思えるほどだった。マルクス・アウレリウス帝の時代に血の洗礼を受けたガリアは唯一の平和な属州だった。現在はコンスタンティウス・クロルスに統治されており、彼は皇帝の命令に従って教会を破壊せざるを得なかったものの、個人に対する迫害からはキリスト教徒を保護した。スペインもコンスタンティウスの統治下にあったが、直接の監視下になかったため、迫害は穏やかだった。しかし帝国の他のすべての地域では、西暦305年にディオクレティアヌスが退位するまで猛烈な迫害が吹き荒れた。その後、西方属州にはほとんど直ちに平和に戻ったが、ガレリウスの絶対的な支配下に置かれた東方キリスト教徒の不幸はさらに大きなものになった。彼らの不屈の精神を打ち倒すため、おぞましい、様々な、時間をかけた拷問が行われた。そして彼らの最後の抵抗は、ゆっくり火で炙られるという、最も恐ろしい死によって有終の美を飾った。全体的な迫害が始まってから八年後、キリスト教徒に敵対する最初の措置が取られてから十年後の西暦311年まで東方の迫害は終わらなかった。キリスト教徒の大敵だったガレリウスは恐ろしい病気に襲われた。彼の体は胸の悪くなるような、悪臭を放つ糜爛の塊―無数の蛆虫に食い荒らされ、死体置き場の臭いを撒き散らす生ける屍になったと言われている。多くの罪のなき血を流した彼はローマ的な死から尻込みした。彼は苦しみのあまり医者から医者へ、神殿から神殿へと助けを求めた。そして、ついにキリスト教徒に対して譲歩した。キリスト教徒の自由特権を回復し、教会の再建を許可し、自分の回復のために祈るようにとの布告を発した。今や迫害の時代は終わりを告げた。長い間苦しめられていた小アジアの教会をマクシミヌス・ダイア帝(*在位AD305―307:東方副帝、AD308―313:東方正帝)による短い発作が襲ったが、短期間のうちに静まった。コンスタンティヌスの即位、西暦313年のミラノ宣言、リキニウス帝(*在位AD308―324:東方正帝、エウセビオスらによってキリスト教の敵対者とされている)の敗北、そして征服者の改宗がすぐに続き、キリスト教は帝国の宗教となった。

 

 私たちが追跡できる限り、初期の教会に加えられた最後の、そして最も恐るべき迫害の輪郭はこのようなものである。残念ながら、その犠牲者の数、それを引き起こした原因、それの著述者の目的について、私たちが持っているいかなる情報もほとんど信頼できるものではない。これらの事柄に関する教会側の説明は異教徒側の陳述とは全く照合されておらず、ほとんどエウセビオスの歴史書とラクタンティウスの著作とされる論文「迫害者たちの死について」のみに基づいている。エウセビオスは非常に学識があり、批評能力も当時の低いレベルより低くはなかった。そして彼が記録したパレスチナの出来事のいくつかについて個人的な知識を持っていた。しかし彼には公平性の自負は全くなかった。歴史を書くときの原則は教会の評判を傷つけるような事実を隠すことである、と彼は率直に語っている。そして彼の実践は時にその原則より優れたものだった。しかし、彼が描いた後援者コンスタンティヌスの聖なる徳の肖像は私たちが他の資料から訂正することができるものであって、この宮廷主教がいかに躊躇なくフィクションの道へ迷い込むことができたかを十分に証明している。「党のパンフレット」と呼ばれているラクタンティウスの論文はさらに信用できないものである。この論文は迫害者たち、特にガレリウスの悲惨な結末に対する歓喜の賛歌であり、最も凶暴で情熱的な罵詈雑言で書かれており、すべてのページに不正確さと誇張が明白に現れている。初期の迫害の歴史は丸ごと虚偽の厚い雲に包まれた。裁きの日の前に十回の大迫害が起こる、という予言から導き出された考え方は、早い時代には、その日が差し迫っていると信じるキリスト教徒の想像力を掻き立てていた。そして時が経つにつれて、人々は耐え忍んだ苦しみを誇張するようになった。そして信じやすく無批判な時代には一つの実際の出来事が、多くの別々の物語の中でしばしば増殖し、多様化し、誇張されるのは自然なことだった。トラヤヌス帝の時代にアララト山で一万人のキリスト教徒が磔にされたとか、ティベリアヌス(*パレスチナ総督、詳細不明)がトラヤヌス帝への手紙の中でパレスチナで絶え間なくキリスト教徒を殺すのにうんざりしていると不満を述べたとか、マクシミアヌス帝(*在位AD286―305、306―308、310:西方正帝)によって虐殺されたという六千人のテーベ軍団(*エジプトから動員され、ガリアで殉教した)などという、とんでもない虚構が大胆に広められ、簡単に信じられてしまったのである。殉教者の骨には徳があると考えられた。そして習慣と、八世紀の第二回ニカイア公会議の布告による、すべての祭壇の下に聖人の遺物を安置することの義務化によって偽物の聖遺物は膨大な数になり、それに伴って伝説に対する需要も高まった。たちまちほとんどすべての村落が守護殉教者と地元の伝説を必要とし、最寄りの修道院は通常それをすぐに提供できた。修道士たちは厳密な歴史的事実と称して、教化的と思ってのことではあったが、実は意図的な捏造である無数の殉教者の行為を作り出して広めることに時間を費やした。そして、素晴らしい奇跡によって盛り上げられた恐るべき拷問の描写は、すぐに人気の大衆文学になった。ルイナール(*ティエリー、1657―1709、ベネディクト会の修道士)は修道士によって捏造された膨大な数の殉教者の行為の中から本物を正確に識別しようとした。しかし、それはおそらく不可能なことだろう。しかし、現代の評論は古代の迫害をその真の規模に縮小することに大いに貢献している。十七世紀末に発表されたドッドウェル(*ヘンリー、1641―1711)の有名な論文は、少々特別弁護人(*special pleader)的精神で書かれており、独自の誇張がないわけではないと私は考えるが、教会史に大きな永続的な影響を与えた。そしてギボン(*エドワード、1737―1794)がこの問題に当てたさらに有名な章(*ローマ帝国衰亡史16章)によって、ドッドウェルの結論が世に知れ渡ることになったのである。

 

 ギボンがこの章で示した夥しい知識と批判的洞察力にも関わらず、ほとんどの人は一読して反発と不満を感じるのではないかと私は思う。殉教者たちが示した英雄的な勇気への共感の完全な欠如と、死闘の苦しみに携わった人々の言葉と行いを測る歴史家の冷ややかさ、実のところ最も非哲学的な過酷さに、あらゆる寛容な人物は反発せずにいられないだろう。一方、迫害を苦しみの量ではなく死者の数で評価することに固執するなら、異教徒の迫害の本当に際立った残虐さから心は逸れてしまう。ギボンは迫害者の怒りは常に特に司教に向けられていたこと、そしてエウセビオスによればディオクレティアヌスの迫害全体で死刑になった司教はたったの九人だったこと、この歴史家がそこで列挙した、ガレリウスの統治下で迫害の嵐の猛威にさらされたパレスチナにおける殉教者の全数は九十二人だったことを指摘している。ギボンはこの事実から出発して、有名な計算方法によってディオクレティアヌス帝の迫害の間の帝国全体の殉教者数を約二千人と推定した。これはスペインの異端審問所でトルケマダ(*トマス・デ、1420―1498、異端審問所長官)の任期中に火刑にされた人数と偶々一致し、カール5世の治世にオランダで信仰ゆえに罰を受けたとされる人数の約二十二分の一に過ぎない。殉教者の数で計るなら異教徒が行った迫害はキリスト教徒が行った迫害より恐ろしいものではない。しかし前者が圧倒的に残虐に見える一面がある。そして真実の歴史家であれば、間違った気遣いを排して、それを堂々と述べない訳にはいかないだろう。属州総督の行動は、勅令によって迫害を強いられたときでさえ、しばしば際立って慈悲深いものだった。キリスト教徒の記録には、キリスト教徒の捜索を拒否し、告発者を冷遇し、あるいは処罰し、巧妙な脱法行為を提案し、その目にばかげた頑固さと映ったものに打ち勝とうと真剣かつ忍耐強い親切心を発揮し、その努力が無駄になると、宣告せざるを得ない判決を自らの権限で軽減した統治者の例がいくつもある。教会の著名な指導者や、時に盲従的な人々を除けば、誰かが危険にさらされることは非常に稀だった。裁判の前に与えられた時間は、彼らに逃げるための大きな便宜を与え、死刑判決を受けたときでさえ、キリスト教徒の女性は通常牢獄に彼らを訪問し、キリスト教的愛によって彼らを慰めることを完全に許されていた。しかしその一方で、議論の余地のないキリスト教徒の著作には、異端審問の最悪の恐怖がかすむほどの、恐ろしく、忌まわしい蛮行が絶えず改宗者に加えられたことが記録されている。異端者をゆっくりと火炙りにするのは異端審問官の得意とするところであり、彼らがその時代で最も有能な拷問の達人だったことは事実である。あるカトリックの国では、宗教的な意見ゆえに生きたまま焼かれる人間を見世物として公共の祭典に取り入れるという残虐な習慣があったのは事実である。殉教者の行為の大部分は嘘つき修道士による見え透いた偽造であることも事実である。しかし異教徒の迫害に関する正真正銘の記録の中に、人間の本性が沈み得る残虐性の深さと、達成し得る抵抗のヒロイズムの両方を、おそらく他の何よりも生き生きと示している歴史があることも事実である。かつてローマ人には、その厳しくもシンプルな刑法において、残虐な行為や長時間の拷問を一切認めていないことを正当に誇ってよい時代があった。しかし、すべては変わってしまった。人間の苦痛と死の光景をあらゆる階級の楽しみとしたあの憎むべき競技は、ローマの名が知られるあらゆる場所にその残忍な影響を広め、何百万もの人々を人間の苦悶の光景に完全に冷淡にさせ、先進文明の本当の中心で、多くの人々の心にアフリカやアメリカの野蛮人並みの拷問への興味と情熱、苦痛の極限の痙攣を見ることの歓喜と興奮を生み出したのである。記録されている最も恐ろしい拷問は、たいてい闘技場で民衆によって、あるいは民衆の目の前で行われたものだった。キリスト教徒たちが赤熱した鉄の椅子に縛られ、半ば焼き尽くされた肉の臭いが息苦しい雲になって天に昇っていく様子、貝殻や鉄の鉤で骨が露出するまで引き裂かれた人々のこと、剣闘士の欲望や女衒に差し出された清い乙女たちのこと、あるとき二百二十七人の改宗者が鉱山に送られ、それぞれが赤熱した鉄で片足の腱を切断され、眼窩から目をえぐり出されたこと、火が非常にゆっくりとかけられ、犠牲者は何時間ものたうち回っていたこと、体から次々と手足がもがれたり、溶けた鉛をかけられたりしたこと、塩と酢を混ぜたものが処刑台の上で流血している肉体に注がれたこと、拷問は朝から晩まで様々な方法で続けられたことを私たちは読む。ひとこと言いさえすれば解放されるのに、主なる神への愛と、真実と信じる大義のために人々は、そしてか弱い少女たちでさえ、怯むことなくこれらの苦しみに耐えたのである。後世の司祭たちの行いに対して私たちが抱くいかなる思いも、殉教者の墓の前に頭を垂れる敬虔な気持ちを損なうことはない。

第四章 コンスタンティヌスからシャルルマーニュまで

 

前章においてローマにおけるキリスト教の勝利を確実にした要因と、キリスト教が打ち負かした反対勢力の特徴について私が述べたことは簡潔ではあるが、全く不明瞭なものではないと信じている。次に新しい宗教が導入した道徳的理想の性質と、それを実現しようとした方法について検討を進めよう。そして、この調査の冒頭において重大な誤りから身を守らなければならない。多くの人々にとって、キリスト教の教えをマルクス・アウレリウスやセネカの著作の対応箇所と並べてキリスト教と異教を比較し、哲学的な教えに対するキリスト教の優越を全てキリスト教がもたらした道徳的進歩と考えるのは普通のことである。しかし、そのような結論が不当なことは少し考えただけで分かる。異教徒の倫理は哲学の一部だった。キリスト教の倫理は宗教の一部だった。前者は少数の高度な教養人の思索であり、人類の大衆に直接影響を与えることはなかったし、与えることもできなかった。後者は少なくとも最も無知な者にも最も教養ある者にも、同様に強力に働きかける広大な宗教システムの礼拝、希望、恐怖と不可分に結びついていた。異教徒の宗教の主目的は、未来を予言し、宇宙を説き明かし、災いを避け、神々の助けを得ることだった。異教徒の宗教には私たちの説教の制度、聖体拝領ための道徳的準備、告解、聖書の朗読、宗教教育、霊的恩寵のための合同の祈祷に相当する道徳教育の手段はなかった。人々の徳を高めることは医者の役目ではないのと同様に、神官の役目でもなかった。一方、哲学的な義務の解説は神殿の宗教的儀式とは全く無関係だった。この二つの領域を融合させること、宗教に徳育を組み入れること、そうして儀式の遵守によって、人類の最も普遍的で強力な情熱の一つであることが経験的に知られている、天と直接交わりたいという願望を味方にすることがキリスト教が挙げた最も重要な成果だった。この方面においてすでに何らかの試みがあったことには疑いがない。哲学は修辞学者たちの手によって、より一般的なものになっていた。ピタゴラスは心を清めるための宗教的な儀式を命じていた。そして特に東洋の宗教では贖罪の儀式が一般的だった。しかしキリスト教の特徴は、その道徳的な影響が間接的でも、気軽でも、よそよそしくも、散発的でもないことだった。すべての異教徒の宗教と違って、キリスト教は道徳教育を聖職者の主な役割とし、道徳的統制を礼拝の主目的とし、道徳的な性質を適切な儀式の挙行のための必要条件にしたのである。説教壇、儀式、そして持てる力のすべてを使って、それは人類の再生のために組織的かつ根気よく努力した。その影響によって、古代の最も高貴な知性だけがかろうじて把握することができた神の本質、魂の不滅、人間の義務に関する教義が、村の学校の公理になり、田舎家や路地の諺になったのである。

 

 しかし、徳に対する新しい動機を導入することなしには、キリスト教の聖典の美しさも、宗教儀式の完璧さも、この偉大な成果を挙げることはできなかっただろう。この動機には私心のあるものとないものがあるが、キリスト教はそのどちらにも大きな影響を及ぼした。第一に、キリスト教は来世と罪の性質に関する教えによって、完全な革命をもたらした。異教徒の間では来世の教義はあまりにも漠然としていたため、一般的に強い影響力を持つことはなかった。それに最も熱心に執着していた哲学者たちでさえ、それを単なる慰めの光としてしか見ていなかった。キリスト教はこれを最も強い抑止力にした。永遠の苦しみや人類の迷走という教義に加えて、厳密な個人の懲罰という考え方は、極めて独創的であると言わざるを得ない。大罪を犯したり、重大な義務を怠ったりすれば、来世で償わされるかもしれないという考えは、確かに異教徒にとっても身近なものだった。しかしそれは彼らの生活にほとんど影響を与えず、最悪の犯罪者にさえ、キリスト教徒の伝記に顕著な、死の床における悔恨の念を稀にしか、あるいはまったく示さなかった。しかし、キリスト教における小さな罪の重大さ、人生の細部はすべて来世で精査されるという信念、歴史家や伝記記者が留意しないような人格の弱さや義務の小さな違反、社会に何の影響も及ぼさないようなこと、人類の間でほとんど論評されないようなことが、墓の向こうで永遠の非難を受ける根拠になるという考え方は、古代人にはまったく知られていなかった。そしてそれが目新しくあらゆる点で新鮮だったときには、人格を変えるために打ってつけだった。異教徒の哲学者の目は常に徳に向けられ、キリスト教徒の指導者の目は罪に向けられていた。前者は聖なるものの美しさを褒め称えることで、後者は悔悟の念を起こさせることで人の行いを改めさせようとした。それぞれの方法には長所もあれば短所もあった。哲学は人間に威厳を与え、高貴にすることには見事に適していたが、再生させることには全く無力だった。哲学は徳を奨励することには大いに貢献したが、悪徳を抑制することにはほとんど、あるいはまったく貢献しなかった。徳の趣味嗜好が形成され、培われ、その実践は多くの人々を引きつけた。しかし他のあらゆる高い嗜好と同じく、一度完全に損なわれてしまった性質はこの嗜好を全く受け入れることができなかった。そして、キリスト教によって継続的にもたらされたこうした性質の変容は、それが自認するとおり哲学の力の及ばないものだった。徳の美と尊厳に全く無感覚な人間が、裁きの恐怖に打ちのめされ、罪に対する真の後悔に目覚めたなら、その気質の傾向を逆転させ、最も根深い習慣から離れ、人生全体の方針を改めることさえあるというのは、経験によって十分に示されているところである。

 

 しかし、人間の性質の暗い面を主に強調する習慣はキリスト教の教えの再生の効果に大いに貢献したとはいえ、欠点がなかったわけではない。神学者は性質をその逸脱によって測定することを習慣とするため、偉大な徳と大きな欠点が釣り合っているような強く情熱的な性質を評価する際には通常、重大な不公平に陥ってきた。そしてこれは弁解できないことである。なぜなら彼ら自身の著作の中でダビデ(*BC1040―961)の詩篇が、姦通者や殺人者(*ダビデは人妻と姦通し、夫を激戦地に送って戦死させた)の中にも高貴で優しく情熱的な性質が生き残り得ることをはっきりと証明しているからである。またこの罪の意識を通じて働きかけることを習慣として、また人間を異常で道を外れた状態にあるように見せようとして、彼らは絶えず人間の性質を歪めて卑下する見解を提示し、人間を完全に悪に支配されているものと表現した。そして時には異教徒の徳そのものを罪の本質と宣告するほどの放縦の高みにまで達したのである。しかし人間の性質の中で最も例外的で特徴的なものは、その悪ではなく、その卓越性であるというのは最も確かなことである。それは動物界のさまざまな領域で同じように、あるいはそれ以上の程度で見られる官能性、残酷さ、利己主義、情欲、妬みではない。それはすべての被造物の中でただ一種類、人間だけが持つ、自分の感情を分類し、欲望の奔流に抵抗し、道徳的完成を目指すことを可能にする、あの道徳的性質である。また文明化され、それゆえ啓発された人物において善が悪よりはるかに優勢であることも確かである。慈悲心は残酷さより一般的であり、苦しみを見れば喜びより憐れみが生じ、恩恵を受けたら感謝しないよりも感謝するのが普通である。人間の共感は自然にヒロイズムや善に向かうものであり、悪そのものは通常、それ自体の性質としては完全に無害な性向の誇張や歪曲に過ぎないのである。

 

 しかし一部のプロテスタントにおいて極限に達しているこのような人間の堕落の誇張は、最初の三世紀の教会には見られない。罪の意識はまだ人間の中に存在する善の否定を伴ってはいなかった。キリスト教は罪からというより、むしろ誤りからの救済と考えられていた。異教徒がよく墓に刻む「それに相応しい(*well deserving)」という形容詞がキリスト教徒のカタコンベにも好んで刻まれていたことは重要な事実である。ペラギウス(*AD354―440)論争(*原罪の否定)、聖アウグスティヌスの教え、禁欲主義の進展によって人間の完全な堕落の教義が徐々に導入され、後の時代に卑劣な迷信の豊かな源泉になった。

 

 罪の概念を維持し、明確にするために初期の教会は念入りな制度を使用した。教会での定期的な聖体拝領は最も重要なものと考えられていた。秘跡への参加は永遠の生命に不可欠と信じられていた。非常に早い時期からそれは乳児に与えられており、このことは聖キプリアヌスの時代にはすでに教会の中で普遍的なものになっていた。そして少なくとも何人かの教父は乳児の救済のためには普通にそれが必要であると宣言していた。成人は毎日、教会によっては週に四回秘跡を受けるのが通例だった。迫害の時代にもキリスト教徒が省略することに同意したのは半ば現世的な愛餐だけだった。聖職者たちは儀式への参加の可否の決定権を持っていた。そして彼らは敬われていたため、聖体拝領の条件を独自に決定することができた。

 

 このような環境から、ごく自然に、広大な道徳的規律の体系が生まれた。人がある種の道徳的な性質を持っていないなら聖なる食卓につくのは適切なことではない、と常に認識されていた。そして、懺悔の期間によって罪を償うことなしに聖体拝領は許されない、とすぐに付け加えられた。宗教的儀式の長期間の欠席、婚前交渉、売春、姦淫、剣闘士や役者の職業に就くこと、偶像崇拝、迫害者の味方をしてキリスト教徒を裏切ること、少年愛や不自然な愛など、非常に程度の異なる多数の犯罪が指定され、それぞれに明確な宗教的罰則が設けられた。最も軽い罰は数週間の聖体拝領の剥奪だった。より重い罪を犯した者は一年、十年、あるいは死の直前までそれを剥奪され、場合によっては、より重い破門、すなわち永遠の聖体拝領剥奪を宣告された。懺悔の期間中、懺悔者は夫婦の寝床やその他のあらゆる快楽を断ち、主に宗教的な課題に時間を費やすことを強いられた。彼は聖体拝領を再開する前に、袋地の服を着て、頭から灰をかぶり、髪をそり落として、集まったキリスト教徒たちの前で聖職者の足元に身を投げ、大声で自分の罪を告白し、赦しを請うのが通例だった。破門された者はキリスト教の儀式から永遠に追放されるだけでなく、かつての友人たちとの交流も断ち切られた。キリスト教徒たちは自分が破門されることを恐れて、彼と一緒に食事したり、話そうとしたりしなかった。彼は現世で憎まれながら孤独に生きなければならず、来世は地獄行きと決まっているのである。

 

 宗教的恐怖政治に基づくこの法体系は初期の教会史の最も重要な部分の一つであり、公会議の主目的はこれを発展させ、あるいは修正することだった。告解はまだ習慣的で普遍的に義務づけられた儀式ではなく、また悪評の高い罪の場合にのみ要求されたが、この制度の中に潜在的あるいは萌芽的なものではなく、完全に行動として現れた、最も圧倒的な教会的専制主義があることは明白である。確かに聖職者が人々の救済に不可欠とされるものを与えない権利を持ったことはローマの最悪の迷信の基礎を築いた。しかし他方で非常に価値ある道徳的効果をもたらした。あらゆる法制度は教育制度であり、人の心に善悪やそれぞれの罪の重さに関する一定の概念を定着させるからである。そして教会の懺悔の規律ほど最も厳粛に執行され、最も直接的に宗教的感覚に訴えかけた法律はなかった。教会はおそらく他のどのような機関よりも、罪の重大さとその報いを確信させた。またそれはキリスト教が人類に対して使った二つの大きな梃子のうちの一つだった。

 

 しかし、もし人間の本性の利己的、私利的な面へのキリスト教の訴求力が驚くべきものだったとしても、その無私の熱意に対する絶対的な支配こそ、はるかに驚くべきものだった。プラトン主義者は神に倣うことを、ストア派は理性に従うことを、キリスト教徒はキリストを愛することを熱心に説いた。後代のストア派はしばしば理想的な賢者の中にその卓越性の概念を統合した。エピクテトスは弟子たちに誰か卓越した人物を設定し、彼が常に自分の近くにいるように想像することさえ促していた。しかしストア派の理想は真似るための手本になるのが関の山で、それへの称賛が愛情にまで深まることはなかった。キリスト教には、十八世紀もの間のあらゆる変化を通じて、人々の心に熱烈な愛を呼び起こし、あらゆる時代、民族、気質、境遇に働きかける力を示し、単に最も高い徳の原型だったのみならず実践の最も強い動機であり、三年間という短い活動のシンプルな記録が哲学者たちのあらゆる論考やモラリストのあらゆる説教よりも人類を再生し、和らげるのに役立ったと言えるほどの深い影響を及ぼしてきた、理想的な性格を世界に提示することが運命づけられていたのである。これがキリスト教徒の生活における最良のもの、最も純粋なものの源泉だった。あらゆる罪と失敗の中で、また教会を汚したあらゆる偽善売教と迫害と狂信の中で、教会はその開祖の人格と模範の中に、永続的な再生の原理を維持してきたのである。完全な愛は権利というものを知らない。それは限りない、打算のない自我の否定を生み出し、人格を変え、あらゆる徳の親になるものである。キリスト教には、恐怖政治や教条主義の迷信と隣り合わせに、天国も地獄も消し去って、神のみに仕えたいと願った聖テレジア(*アビラの、1515―1582、神秘家、修道院改革者)に共鳴する人々が常に存在してきたし、キリストの愛の力はキリスト教徒の殉教の最も雄々しいページ、キリスト教徒の忍従の最も悲壮なページ、キリスト教徒の博愛の最も優しいページに等しく示されてきたのである。殉教者たちは、獣の牙の下に身を投じ、最後の瞬間まで愛する十字架の形に腕を伸ばし、戦いの勲章として鎖を一緒に埋めるように頼み、その恐ろしい傷をキリストのために受けたのだからと喜んで見つめ、花婿が花嫁を歓迎するように、自分を神のもとに近づける死を歓迎したのである。聖フェリシタスは牢獄で殉教の時を待っているときに産みの苦しみに襲われた。苦しみのあまり彼女が叫び声を上げると、そばにいた者が言った。「今、こんなに苦しんでいるなら、野獣の前ではどうなってしまうのでしょう?」彼女は答えた「今の苦しみは私だけのものです。でも、その時には私がその方のために苦しむお方がともに苦しんで下さるでしょう。」聖メラニア(*AD384―438、ローマ生まれ、エルサレムに女子修道院を設立)は夫と二人の息子を失ったとき、愛する者たちの遺骸が横たわるベッドに跪いて、こう叫んだ。「主よ、あなたが私の重荷を軽くしてくださったおかげで、私はより謙虚に、より容易くあなたに仕えることができるでしょう」

 

 キリスト教の徳を聖アウグスティヌスは「愛の命令(*order、秩序)」と表現した。ほとんどの人々においていかにシンプルな義務感が情熱のエネルギーに逆らえないかを知っている人物、高貴な道徳と純粋な神学が生きた模範と結びつかなかったため、いかにイスラム教徒がより高い、より優しいすべての徳を生み出さなかったかを観察した人物、とりわけキリスト教会の歴史を通してキリストの愛の力を追跡した人物は、迷うことなくキリスト教徒の熱意の最も純粋で最も特色ある源泉の価値を評価するだろう。ある点において、それが初期の教会に与えた影響を私たちはほとんど理解できない。現在では自然法則の不変性の感覚が人の心に深く刻み込まれていて、どのような宗教的見解を持っていようとも、真に教育を受けた人物が自分の周りの驚くべき現象―嵐、地震、侵略、飢饉―はすべて超自然的な力が個別に働いた結果であり、人間の何らかの利害に影響を与えようとしていると真剣に信じることはない。しかし初期のキリスト教徒はこれらのことをすべて、彼らが心から愛した主に直接帰することができた。この確信の結果、今ではほとんど理解できないような感覚が生まれた。ある偉大な詩人(*パーシー・ビッシュ・シェリー、1792―1822)は、英文学の中でも最も高貴な詩(*“Adonais”)の一節で、死に際してすべてに充満する自然の魂と一体化した人物、宇宙の同種の要素に溶け込んでいる彼の存在の壮大さと優しさ、美しさと情熱、あらゆるメロディーの中に聞こえるその声、地球に浸透し生気を与える一つの可塑的エネルギーの一部として感じられ知られるべき存在である彼の魂について歌っている。こういう種類の、しかしはるかに鮮明で現実的な性格のものが初期のキリスト教世界の信仰だった。彼らにとっては愛が万物の形を変えていた。そのすべての現象、すべての破局は新しい光の下で読まれ、新しい意義を授けられ、宗教的尊厳を身に着けた。キリスト教は永遠の生命や千年後の栄光の期待よりも深い慰めを与えた。疲れた人、悲しんでいる人、孤独な人に天を仰ぎ「神よ、我を顧み給え。」と言うよう教えたのである。

 

道徳的な卓越性を説き聞かせることを主目的とし、来世の報いの教義によって、その組織化によって、また無私の熱意を生み出す力によって、人間の心に対して比類なき支配力を獲得した宗教制度がその信者たちの尊厳を非常に高めたとしても驚くには当たらないだろう。それがヨーロッパに設立されてから二百年近く、キリスト教共同体が道徳的な純粋さを示し、それに匹敵するものがあったとしても、それを超えるものが長い間なかったことは確かにほとんど疑いの余地がない。周囲のローマ世界から完全に切り離され、政治的生活も、裁判に訴えることも、軍事的職業も禁じられ、主の即時の再臨と自分たちの住む帝国の滅亡を絶えず待ち望み、若い宗教のあらゆる熱情に励まされて、キリスト教徒は彼らの中に、時代の汚濁から身を守るのに十分強力な考え方と感覚の秩序を丸ごと見いだしたのである。社会に対する一般的な態度や、宗教的な戒律の性質や緻密さにおいて、彼らはおそらく既存のどの宗派よりもクエーカー教徒に似ていた。デキウスの迫害以前には実際に深刻な道徳的退廃の兆候が見られたようである。そして教会の勝利が大勢の名ばかりのキリスト教徒をその中に引き込み、富と繁栄の誘惑に晒し、その世俗政治との結びつきを強いることによって、その熱意を冷まし、純粋さを損なったことは明らかである。しかし、最初の三世紀にキリスト教について考えた人々の中に、キリスト教が周囲の異教信仰に完全に取って代わり、その指導者たちが最も強大な君主たちを意のままに従わせ、法律のあらゆるページにその影響を刻み、千年にわたって文明の全ての方針を指図し、しかも彼らが最高の地位にあった時代が歴史上最も卑劣な時代の一つになるなどと想像した人物は誰もいなかっただろう。

 

 この時代の主な特徴を簡単に説明しよう。マルクス・アウレリウスの死後、キリスト教がローマ世界に重要な影響を及ぼすようになった頃、帝国の退廃は急速に、ほとんど絶えることなく進行していた。初代キリスト教皇帝は異教の伝統と栄華に汚染されていない新しい都市に首都を移した。そして彼はそこにキリスト教をすべての倫理の源泉とする帝国を設立し、約千百年間存続させたのである。そのビザンツ帝国についての歴史の一般的な評決は、ほとんど例外なく、それは文明がこれまでに取った中で最も徹底的に卑しく、見下げ果てた形を取っていた、というものである。非常に残酷で官能的ではあったが、残酷さがより無慈悲で、官能がより奔放だった時代もあった。しかし、偉大さの形や要素がこれほど完全に欠落した永続的な文明は他になく、卑劣という誹りがこれほど強く当てはまる文明もなかっただろう。ビザンツ帝国はとりわけ不実の時代だった。その悪徳は徳を学ぶことなく勇敢さを失った人間の悪徳だった。愛国心もなく、自由特権の達成も欲求もなく、宗教的興奮の最初の激発の後、非凡の才も知的活動もなかった。奴隷たちや自発的奴隷たちは行動と思考において官能と最も軽薄な快楽に浸り、無気力から脱することができるのは神学上の細かな相違や戦車レースの競争の刺激によって狂乱の暴動を起こすときだけだった。彼らは先進的な文明の外観をすべて備えていた。彼らは知識を持ち、最も高尚なヒロイズムが漲る古代ギリシャの高貴な文献を絶えず目の前にしていた。しかし、後にヨーロッパの復活に大いに貢献したその文献は、堕落したギリシャ人たちに高貴さの火花や外観を与えることはできなかった。この帝国の歴史は司祭、宦官、女性たちの共謀、毒殺、陰謀、一様な忘恩、絶え間ない兄弟殺しの単調な物語である。コンスタンティヌスの改宗後、ローマ帝国のどの地域にもネロやヘリオガバルスほど堕落した、あるいは少なくとも恥知らずな君主はいなかった。しかし、ビザンツ帝国にはアントニヌス(*ピウス)やマルクス・アウレリウスに僅かでも似た人物はいなかった。東ローマ帝国でそれに最も近かったのは、キリスト教信仰を軽蔑して棄教した皇帝ユリアヌスだった。そしてついに、イスラム教徒の侵攻によって東ローマ帝国の長い衰退が終わった。コンスタンチノープルは新月旗の下に沈んだ。その住民たちはまさにその崩壊の時まで神学上の相違点について口論していたのである。

 

 アジアの諸教会はすでに滅んでいた。小アジアの放埓な都市に植え付けられたキリスト教信仰は、多くの狂信的な禁欲主義者と少数の著名な神学者を生み出した。しかし一般の人々には何の革新的効果ももたらさなかった。それは彼らの間に果てしなく続く執念深い不和の原理を導入したが、彼らの贅沢や官能性を目に見えて和らげることはほとんどなかった。放縦の狂乱は止まることを知らなかった。そして実際のところ、帝国の大部分においてそれが絶頂に達したのはキリスト教が勝利した後のことだったようである。

 

 西帝国の状況はいくらか違っていた。コンスタンティヌスの改宗から一世紀も経たないうちに帝都はアラリックに占領された。そして蛮族の侵略が長々と続いて、ついにローマ社会の枠組み全体が崩壊した。一方蛮族は自らキリスト教信仰を取り入れ、キリスト教の司祭に絶対的に服従した。古代のすべての宝の保護者として生き残った教会にはその人類の卓越性の理想を実現するための未開拓地が与えられたのである。教会もまた期待に応えることはできなかった。それは何世紀にもわたって人類の思想と行動をほとんど絶対的に支配し、あらゆる部分に教会の影響力が浸透している文明を作り上げた。そしてカトリックが支配した、暗黒時代と呼ばれるにふさわしい時代には間違いなく、偉大で真に卓越した特徴が数多く見られる。積極的な慈善、敬虔な精神、忠誠心、協力的な習慣において、彼らは異教徒の最も高貴な時代をはるかに凌駕していた。そして苦しみを与えることを嫌う慈悲においてローマ文明より、貞操への敬意においてギリシャ文明より優れていた。一方、市民的、愛国的な徳、自由特権への愛、生み出した偉大な人物の数と輝かしさ、作り上げた気質の威厳と美しさのタイプにおいて、彼らの地位は最良の異教徒文明より限りなく低いものだった。彼らは騒乱、無政府、不正義、戦争を十分に経験した。そしてすべての知的な徳において、彼らの時代はおそらく人類の歴史の中で最も低いものだっただろう。あらゆる意見の相違に対する果てしない不寛容は、同様にあらゆる虚偽と、公認された見解に与する意図的な詐欺への果てしない寛容と結びついた。信じ易さは徳であると説かれ、すべての結論は権威によって規定され、何世紀にもわたってほとんど行動を停止していた人間の心には瀕死の麻痺状態が腰を下ろしていた。そして事実上それを打ち破ることができたのはイタリアにおける産業共和国の勃興に伴う、吟味し、革新し、自由に考える習慣だけだった。司祭や修道士を除いて、キリスト教の勝利から十四世紀までの間のどの時代よりも、アテネ共和国やローマ共和国の最盛期、アウグストゥスの時代やアントニヌス朝の時代に生きたかったと思わない人々はいないだろう。

 

 古代にはほとんど知られていなかった何らかの善の要素や原理を神学が世界に導入したことに間違いがなかろうと、社会に与える感化あるいは緩和の力の価値が計り知れないものであろうと、ギリシャ正教やカトリック教会のような形でそれが文明を監督する裁定者になることは決して人類のためにならないということの証拠として、コンスタンティヌスの改宗から千二百年の歴史ほど明確なものは考えられない。コンスタンティヌス以前のローマ世界は急速な衰退期にあった、後の時代の多くの逸脱は半ば抑圧されていた異教の伝統と活力によって説明できる、教会の力はしばしば至高というよりは名目上の表面的なものだった、暗黒時代の無知を批判するには野蛮人による社会の混乱を大きく割り引かなければならない、とよく言われる。この中には多くの真実が含まれている。しかし、ビザンツ帝国では異教徒の伝統から解放され、千年以上にわたって野蛮人に支配されなかった新しい首都で神学の刷新の力が試されたこと、西方では侵略の衝撃が収まった後の少なくとも七百年間、教会が他のどんな道徳的、知的機関よりも絶対的な支配力を行使したことを思うなら、私が思うに、この実験は既に十二分に行われたと言っていいだろう。古代の甚だしい悪徳の一覧表を作り、キリスト教の著作の純粋な道徳と対比させるのは簡単である。しかし、実現された改良を正しく評価しようとするなら、古典文明と教会文明の全体を比較し、それぞれの場合において抑制した悪徳だけでなく、到達した確かな卓越性の程度と種類についても観察しなければならない。キリスト教会の最初の二世紀には道徳的な気高さは極めて著しいものであり、それは信仰の神性の証として絶えず訴え続けられた。しかし、コンスタンティヌスの改宗の前世紀には既に著しい落ち込みが見られていた。コンスタンティヌス以降の二世紀を教父たちは一様に、全般的でスキャンダラスな悪徳の時代と表現している。その後に続いた教会的な文明は、その独特の長所がないわけではないが、教会による社会の再生、というよくある自画自賛を正当化するものではないことは確かである。今から過去三世紀の間に文明は、ほとんどの点において、それ以前のどの文明よりも高い水準に達した、と少なくとも私は固く信じている。しかし神学的倫理は非常に重要ではあっても、その卓越性の多くの複雑な要素の一つに過ぎない。機械の発明、産業生活の習慣、自然科学的発見、政府の改善、文学の発展、異教徒の古代の伝統など、すべては際立った位置を占めている。その一方で、その歴史を十分に調査すればするほど、二つの重要な真実がより明白に暴露される。第一は、神学の影響が何世紀にもわたってキリスト教ヨーロッパの全知性を無感覚に麻痺させてきたこと、私たちの近代文明の出発点となった復興は、主に知性の二つの領域が依然としてカトリックの笏に支配されていなかったという事実に因るということである。古代の異教徒の文献と、イスラム教徒の科学の学派はキリスト教国の眠っていたエネルギーを蘇らせる主要な力だった。第二の事実は、別のところでも詳しく説明したが、三世紀以上の間、神学の影響の後退が私たちの進歩の最も不変の兆候と物差しの一つだったということである。医学、物理学、商業利益、政治、そして倫理においてさえ、改革者はその道を阻む神学の断定的主張に直面した。それらは極めて重要なものとして全面的に擁護されたが、やがて文明の世俗化の力の前に全面的な屈服を余儀なくされたのである。

 

 ここに非常に興味深く重要な問題がある。私は本章でそれについて調査しようと思う。道徳的な教えの美しさよりも、人類に働きかける力において際立っており、ここ数世紀は世界に無数の恵みをもたらしてきた宗教が、なぜこれほど長い期間に渡って、しかもさまざまな条件下でヨーロッパを再生することがまったくできなかったのか、その理由を私たちは明らかにしなければならない。これは気の緩みや不完全な行動の問題ではなく、相反する作用の問題である。カトリックという広大で複雑な組織には、人類を改善し、向上させるために見事な力を発揮する部分があった。また、正反対の効果をもたらす部分もあった。

 

 キリスト教が最初に世界に示した一面は、キリストにある人間の友愛を宣言するものだった。幸と不幸(*天国と地獄)の両極端を運命づけられ、救済の特別な共同体によって互いに結ばれている不滅の存在と考えられたために、キリスト教徒の人間の最初の、そして最も明白な義務は、その仲間を神聖な存在として見ることだった。そしてこの観念から、すべての人間の生命の神聖さについての極めてキリスト教的な考え方が育まれたのである。私はすでに自然は人間に、故なく同じ人間を殺すのは間違いであるとは言っていないことを示そうとした―そしてこの事実は生得の道徳的認識の実在性に対する一般的な反論に応える上で、非常に重要なので退屈を承知であえて繰り返すことにする。人間的な高次の能力が未発達で、ほとんど萌芽の状態にある野蛮な初期段階について言及するまでもなく、特定の階級や民族の人間を虐殺することに、狩りで動物を虐殺することと同様に、何の後ろめたさも持たなかった、洗練された、さらには道徳的ですらあった社会が存在した、というのは議論の余地がない歴史的事実である。初期のギリシャ人は野蛮人に対して、ローマ人は剣闘士に対して、歴史のある時期には奴隷に対して、スペイン人はインディアンに対して、ヨーロッパの監督から離れたほとんどすべての植民者は下位の人種に対して、古代の膨大な数の国々は生まれたばかりの嬰児に対して、この完全で絶対的な非情さを示しており、私たちの島でも過去三百年以内のその痕跡を見つけられるだろう。(*原注:対アイルランド、スコットランド)そして、あらゆる理不尽な殺戮を残虐と見なすことが私たちの道徳感覚の本質的な部分になった現代においてそれを実感するのは難しいかもしれない。しかし、善良な人々や、他のあらゆる点でどの時代においても際立った慈愛の持ち主とされただろう人々がこの冷酷さを絶えず示してきたことは疑いようのない事実である。チューダー朝の時代には、最良のイギリス人が今では最も野蛮なスポーツとみなされるものを楽しんでいた。古代には真の慈愛を持った人々―優しい親戚、愛情のある友人、情け深い隣人でもあった人々―そして私たちと同様に同胞を殺すことを残虐と見ていた人々が、剣闘士競技を観覧し、開催し、拍手を送り、また幼児の遺棄を躊躇なく勧めていたというのは絶対的に確実なことである。しかし、このような事実の積み重ねが生得的な道徳的知覚の実在にごくわずかな疑いを投げかける、という非常に一般的な想像は完全に混乱した考え方であると私は思っている。直観的モラリストが主張するのは、慈愛深さと残酷さの間に区別があることを私たちは生まれながらにして知っているということ、前者は私たちの本性のより高い部分、より優れた部分に属し、それを培うことが私たちの義務であるということだけである。その時代の基準はそれ自体、社会の一般的な状態によって決定されるものであって、義務の自然な線を引いているものである。その下に落ちる人物はそれを押し下げているのである。さて基準について最も大きく異なっていた国や時代が、完全に一致して慈愛の卓越性を認めていたということは最も絶対的に確かな事実だろう。嬰児殺しを推奨したプラトン、老いた奴隷を売ったカトー、闘技場の試合を称賛したプリニウス、捕虜を奴隷や剣闘士にした昔の将軍と、捕虜に何ら不面目な労働を課さない現代の将軍は同じく、法典を拷問や切断刑や恐ろしい形の死刑で埋め尽くした昔の立法者も、最も罪深い者の処罰を軽減しようと絶えず努力している現代の立法者と同じく、力で支配した昔の規律励行者も、共感で支配する現代の指導者と同じく、その首に揺れる投げ矢の爆竹が火を噴き、狂乱する雄牛を眺めて黒い瞳を歓喜に輝かせるスペイン娘も、その感じやすい慈愛ゆえ狩猟に身震いするイギリス婦人も、時々出会う、あらゆる野外スポーツや食用の動物の屠殺を嫌悪し、あるいは命の犠牲を最小限にするために大きな動物だけを食べようとする改革者も、あるいは動物を楽に死なせる新しい方法を常に発明している人々も―これらの人々はすべて、その行動や、どのようなものを「残忍」と呼ぶべきか、またどのようなものを「素晴らしい」と呼ぶべきかの判断において大きく異なるが、慈愛は残酷さに勝ると信じること、その国や時代の基準を下回る行為をはっきりと非難することでは一致しているのである。さて、キリスト教がもたらした最も重要な功績の一つは、私たちの博愛の情を大いに高めたことに加え、娯楽や単なる便宜のために人命を奪うことの罪深さを明確に、そして教義によって主張し、それによって当時世界に存在した中で最も高い、新しい基準を作ったことである。

 

 この点におけるキリスト教の影響は人生の最も初期の段階から始まっていた。古代において中絶という行為に深い非難の感覚を持つ人物はほとんどいなかった。胎児は出生の時まで生物ではないとする生理学的理論が、この行為への判断に何らかの影響を与えていたことを前の章で指摘した。そしてこの理論が一般的ではなかった地域でも、この行為が普及していたことは簡単に分かる。胎児の死は同情心に強く訴えるものではない。そして人間の生命の神聖さについてまだ強い感覚を持っていない人々は、これらの問題について共同体の一般的利益に従って、功利主義的見解によって行動を調整して良いと信じていた。そこで多くの場合、産児制限は慈悲の行為である、と非常に容易に結論したのである。ギリシャではアリストテレスがこの習慣を容認しただけでなく、人口が指定された一定の限度を超えた場合には法律で強制することを望んだほどである。ギリシャにも、ローマ共和国にも、帝国の大部分にも、これを咎める法律はなかった。そして、もし考えられているように、異教徒の帝国が終わる前にこれを咎める何らかの措置がとられていたとしても、それは全く効力がなかった。異教徒、キリスト教徒を問わず、多くの論者がこれの習慣を公然のもの、またほとんど一般的なものと表現している。彼らはこの習慣を、単に不身持ちや貧困からではなく、母親たちが出産による容貌の劣化を恐れる虚栄心というとても軽い動機から生じたものとしている。彼らは堕胎したことのない母親は称賛に値すると語り、その罪の頻度はそれが正式の職業になるほどのものだったと断言している。同時にオウィディウス、セネカ、アルルのストア派ファウォリヌス、プルタルコス、ユウェナリスは、いずれも中絶を一般的かつ悪名高いものと語っており、それを疑いようのない犯罪としている。後期の異教時代の平均的なローマ人はそれを、前世紀のイギリス人のお祭り騒ぎの不行跡のように、確かに間違ってはいるが、非難するほどのこともない些細な事と考えていたようである。

 

 キリスト教徒たちの言い分は最初から大きく違っていた。揺るぎない一貫性と最大の強調によって、彼らはこの行為を単に残酷なものとしてではなく、はっきりと殺人として糾弾したのである。教会の懺悔の規律では中絶は嬰児殺しと同じカテゴリーに分類された。そして、罪を犯した者が受ける厳しい宣告は単なる戒告よりも深く、その罪の重大さをキリスト教徒の心に刻み込んだのである。アンカラ教会会議で、罪を犯した母親は死の直前まで秘跡から除外されることになった。まもなくこの罰はまず十年、後に七年の懺悔に軽減されたが、依然としてこの罪は教会法において最も重いものの一つに数えられていた。この領域におけるキリスト教の改革は、教父たちの神学全体の中でおそらく最も忌まわしい教義によって強力に支えられていたのである。異教徒にとっては、中絶や嬰児殺しを非難するときでさえ、これらの犯罪は比較的些細なものとされていた。なぜなら犠牲者は非常に取るに足りない存在で、その苦しみも非常に軽いものと思われたからである。事業と希望の真っ只中で倒れ、周囲の多くの人々と愛と友情の絆で結ばれ、その旅立ちが彼が活動してきた社会に動揺と傷心をもたらす成人男性の死と、地上とほとんど接触がなく、責任も愛もほとんど知らない生まれたばかりの幼児の痛みを伴わない死が引き起こす感情はまったく違ったものである。しかし神学者にとって、この幼子の命は恐るべき重要性をもっていた。子宮の中の胎児が生を得た瞬間、それは不滅の存在となり、たとえ生まれずに死んだとしても、終わりの日に再びよみがえる運命にあり、アダムの罪に責任があり、洗礼を受けずに死んだ場合には、天国から永久に排除されて、ギリシャ人教父は痛みも喜びもない地獄の辺土に、ラテン人教父は地獄の深淵に、投げ込まれてしまう運命にあると説いた。キリスト教と異教の社会を大きく区別し、現在ではあらゆる教義の変更と無関係に私たちの道徳的感情に完全に組み込まれている、幼児の生命の価値と神聖さに対する健全な感覚は、おそらくかなりの程度、この教義に起因するものだろう。殺された幼児の運命について初期および中世のキリスト教徒の同情心に非常に強く訴えたのは、彼らが死んだことではなく、彼らが通常、洗礼を受けずに死んだことだった。そしてそれが儚い生命の消滅だけでなく、不滅の魂の呪いに関わると信じられるようになると、堕胎の犯罪性は計り知れないほど深刻なものになったのである。「聖人たちの人生(*アルバン・バトラー著、1756―1759にロンドンで出版された)」には不思議な伝説がある。ある男が出産前の子供の状態を確かめようと、妊婦を殺害し、母親と胎内の子供の二重の殺人を犯してしまった。殺人者は自責の念に駆られ、砂漠に逃れ、懺悔と祈りの余生を送った。そして長い年月の後、女を殺したことを赦す、という神の声が聞こえた。しかし死の床で彼の心は曇っていた。子供の死について赦されたという確信がなかったのである。

 

 人間の生命の次の段階である新生児に目を向けるなら、古代文明の最も色濃い汚点の一つだった嬰児殺しの習慣に出会うことになる。この犯罪の自然史は、いささか特殊である。慈悲の感覚が非常に希薄で、その戦争や遊牧の習慣が幼児の生命に極めて不利な未開人の間では、予想される通り、親は自分が生んだ子を生かしたいかどうかを決定し、生かさない場合には遺棄するか殺すのが通常の習慣である。野蛮な段階を脱したものの、まだ無骨で単純な習慣を持っている国々では通常、嬰児殺しの習慣はまれである。しかし、他の暴力犯罪と違って嬰児殺しは文明の進歩によって自然に減少することはなく、未開の生活の時期が過ぎると、その蔓延は人々の野蛮さよりも官能性に大きく影響される。また多くの国や時代において、子供は両親の果実、代理、そして最も大切な財産として、神々に喜ばれる生け贄である、という考え方が見られる。周知のように、ギリシャ人の間ではほとんど例外なく嬰児殺しが認められていた。それはプラトンやアリストテレスの理想の中の法律や、リュクルゴス(*スパルタの、BC820―730)やソロン(*BC639―559、アテネ)の実際の立法によって、現在私たちが「最大幸福原則」と呼ぶべきものに基づいて承認され、場合によっては強制された。共同体全体を考えたとき、非常に厳しい人口の増加制限と、無力で非生産的な構成員のできる限りの排除が社会にとって最も利益になることを彼らは明確に理解していた。したがって幼児の生命、特に生き長らえさせてもおそらく彼ら自身の負担になるだろう奇形児や病児を苦しませずに死なせることは、全体として利益であると結論したのである。ギリシャ人の生活は非常に官能的なもので、彼らの考えは長期間の禁欲という近代的な発想とはまったくかけ離れていた。またギリシャでは母親たちの社会的、知的地位が極めて低く、国民の思想習慣に大きな影響を与えなかったことも考慮されるべきである。物心のつかない幼児に対する愛情においてはるかに優れているのは父親ではなく母親であることは昔からよく知られている。ただしギリシャ全土で嬰児殺しと遺棄が許されていたわけではない。テーバイでは、これらの罪は死によって罰せられたと言われている。

 

 ローマではもともと父親が子供に対して生殺与奪の権を握っていたため、嬰児殺しは無制限に許されていたと思われるかもしれない。しかしロムルスのものとされる非常に古い法律では、この点において親の権利は制限されていた。そして父親はすべての男児と少なくとも一番上の女児を育てることを義務づけられ、親の愛情が育つと考えられる三年目を終えるまでは、問題のない子供を殺すことを禁じられた。しかし奇形や障害を持つ子供については、その近親者の五人の同意を得て遺棄することが許されていた。ギリシャの政策がむしろ人口の増加を抑制するものだったのに対し、ローマの政策は常に奨励するものだった。そしてローマでは帝国の堕落と官能の時代まで嬰児殺しが一般的だったとは思えない。当時の立法者たちは嬰児殺しをはっきりと非難していた。そして多くの子供を持つ父親に特別な権利を与え、貧しい親には税金の負担をほとんど免除し、遺棄された幼児の安全をある程度保証する法律によって間接的に嬰児殺しを抑制していたのである。世論はおそらく、その犯罪性の度合いについては大きく異なっていようとも、事実上現代の世論とほとんど変わらなかった。読者が記憶されている通り、この行為はキリスト教徒に対して最も頻繁に行われた告発の一つであって、間違いなく民衆の怒りを買うものだった。異教徒とキリスト教徒の当局は、嬰児殺しは帝国の捨て置けない悪徳であると口をそろえたが、テルトゥリアヌスはこれを禁止する法律ほど簡単に、また絶えず回避されるものはないと述べている。一般に嬰児殺しと遺棄は大きく区別されていた。後者はおそらく非難されてはいたが、法律で罰されなかったことは確かである。それは巨大な規模で、まったく処罰されることなく行われ、論者たちは最も冷ややかな無関心を示しただけだった。そして少なくとも貧乏な親たちは非常に軽微な犯罪と見なしていたのである。疑いなく、遺棄された子供が死亡することはよくあった。しかし、この習慣そのものは犠牲者の命を奪うよりも救うことの方が多かった。彼らは整然とウェラブラム(*フォロ・ロマーノの西側の谷)近くの円柱へと運ばれ、そこから投資家たちに連れ去られ、奴隷としての、あるいは非常に多くは売春婦としての教育を受けたのである。

 

 全体としてこの問題で求められていたのは、より明確な道徳的な教えではなく、むしろ長い間行ってきた嬰児殺しの処罰をより強力に実行すること、そして遺棄された幼児の保護の強化だった。教会は悔悟の文言、ここまで述べてきた教義的理由、説教者や著述者による切実な勧告によって、この行為が大罪であることを深く認識させ、中でも自分の子供を不確かで疑わしい他人の慈悲にゆだねる罪は、シンプルな嬰児殺しの罪とほとんど違いがないことを人々に確信させようと努めたのである。ローマ法にもその影響力は発揮されたが、あまり有効ではなかったと私は思っている。コンスタンティヌスは改宗した年にラクタンティウスの助言によって、貧困にあえぐ親による嬰児殺しを減少させるため、親が養えない子供たちに国の費用で衣服と食事を支給するよう命じたと言われている。この法令は最初イタリアに適用され、西暦322年にはアフリカにも拡大された。しかし、この政策はすでにアントニヌス朝において大規模に行われていたものだった。西暦331年、遺棄された子供が慈善家または興味を持った人物に引き取られる機会を増やすことを目的とした法律が出された。その中で拾われた子供は息子として養子になるか奴隷として雇われるかにかわらず、その救済者の絶対的所有物となり、親は将来いかなるときにも子供を取り戻す力を持たないことが規定された。西暦329年に出された別の法律では遺棄されたのではなく、売られた子どもは、父親が代金を支払えば取り戻すことができると規定されていた。(*遺棄した子供は買い戻せない)

 

 この二つの法律は曇りなき満足を与えるものとは言えない。遺棄された子供の身分を規定する法律は、間違いなく最も慈悲深い意図で制定されたものではあるが、いくぶん逆行的なものだった。異教時代の法律は父親は養育にかかった費用を支払うことで、いつでも遺棄した子供を奴隷の身分から取り戻すことができると規定していたし、トラヤヌスは遺棄された子供をいかなる場合にも奴隷にすることはできないとさえ決めていた。一方、コンスタンティヌスの法律は子供を取り返しのつかない奴隷状態に陥れるものだった。この法律は西暦529年にユスティニアヌスがトラヤヌスの原則に立ち返り、父親は子供を遺棄することによってその子供に対するすべての正当な権限を失うのみならず、子供を助けた者はその行為によって子供の生得の自由特権を奪うことができないことを決定するまで有効だった。しかしこの法律が施行されたのは東帝国だけであり、少なくとも西の一部では遺棄された幼児の奴隷化は何世紀も続き、ヨーロッパにおける奴隷制の一般的な消滅とともにようやく終了したようである。子供の売買に関するコンスタンティヌスの法律はおそらく必要な一歩だったのだろうが逆行的な一歩だった。カラカラを筆頭とする歴代の皇帝は、自由人の子供の売買を「恥ずべきもの」として糾弾し、廃止しようと努め、ディオクレティアヌスもこれを明白かつ絶対的に非難していた。しかし、コンスタンティヌスの治世には内乱による極度の窮乏から、絶対的な貧困の場合には子供を売るという古い慣習を認める必要が生じた。それは非難されてはいたが、おそらく完全に中止されたことはなかった。テオドシウス大帝はこのように売られた子供たちは購入代金を返済することなく自由を取り戻すことができる、一時的な奉仕は購入に対する十分な補償である、という布告を出して一歩先に進もうとした。しかしこの措置はウァレンティニアヌス3世(*在位AD425―455:西方正帝)によって廃止された。教父たちによって糾弾されたものの、大変な窮乏のときに子供を売ることは、テオドシウスの時代以降も長く続き、ディオクレティアヌスの人道的な法令を執行したキリスト教皇帝もいなかったようである。

 

 このような遺棄された子供を保護するための措置とともに、嬰児殺しに直接有罪を宣告する法律もあった。この主題のこの分野は、多くの曖昧さと論争によって不明瞭になっている。しかし異教徒の法律では嬰児殺しを殺人の一つの形と見なしていたとするのが最も妥当だろう。ただし他の形の殺人よりも大それたものではないと考えられていたため、罰は死ではなく、追放だった。コンスタンティヌスの、父親による子供の殺害を親殺しと同罪とする法律はサトゥルヌスへの子供の生け贄が非常に一般的だったアフリカを主要な、そしておそらく限定的な対象とするものだった。そして最後にウァレンティニアヌスは西暦374年にすべての嬰児殺しを死刑とした。そして特別に遺棄を禁止した。7世紀のスペイン西ゴート族の法律では、嬰児殺しと堕胎を死刑または目つぶしで罰している。シャルルマーニュの法令では嬰児殺しは殺人として処罰された。

 

 これらの措置によって、嬰児殺しがどの程度減少したかを正確に把握することは不可能である。しかし、キリスト教の影響ゆえに遺棄された子供を公に売買をすることはできなくなり、この犯罪の重大性に対する感覚が大いに高まったことは間違いないだろう。この犯罪の最も大きな原因の一つだった極度の貧困は、キリスト教徒の施しによって手当された。多くの遺棄児が個人のキリスト教徒によって教育されたようである。ブレフォトロピア(*捨て子保護施設)とオルファノトロピア(*孤児保護施設)は教会の最も古い慈善施設の一つとして記録されているが、遺棄された子供がそこに受け入れられたかどうかは定かではなく、その後数世紀の間、キリスト教の捨て子養育院の痕跡を見つけることはできない。このような慈善事業は、中世の初期に徐々に発展していった。六世紀にはトリーア(*ドイツ最西部、ドイツ最古の都市)に、七世紀にはアンジェ(*フランス西部)に存在したとされ、八世紀にミラノに存在したことは確かである。九世紀にルーアン(*フランス北部)教会会議が、密かに子供を産んだ女性たちに教会の門前に子供を置くよう呼びかけ、引き取りに来ない限り養育することを約束した。彼らは教会の土地付きの多くの奴隷や農奴の中で育てられたのだろう。五世紀のアルル教会会議の布告とその後のシャルルマーニュの法律はコンスタンティヌスの法令に倣い、遺棄された子供は保護者の奴隷になるべきである、と宣言していた。奴隷制が衰退するにつれ、多くの罪の記念物たちは、中世社会の他の多くの不調和な要素と同様に、間違いなく修道院の組織に吸収され、聖別されたのである。教会が常に示してきた不品行は重罪であるという強い感覚が聖職者たちを、他の慈善活動よりも、この活動に慎重にさせたものと思われる。捨てられた子供たちの施設がゆっくりとしか前進しなかったのはそのためだろう。多くの慈善事業の源であるローマでさえ、十三世紀初めまでは何も行っていなかった。十二世紀半ばには、他の役割とともに遺棄児の捜索を引き受ける団体がミラノに見られる。同じ世紀の終わり頃、名前は定かではないが、一般にブラザー・ガイと呼ばれているモンペリエの修道士が、聖霊と呼ばれる団体を設立して子供の保護と教育に献身した。この団体はその後二世紀にわたって、ヨーロッパの広い範囲に枝分かれした。パリの聖霊養育院はおそらく当初は主に正式な結婚の遺児の世話をするためのものであって、それに限定されたものであり、十五世紀にはそれが捨て子の入院を拒否したこともあったが、やがてその手に大量の拾い子の世話が委ねられるようになった。嬰児殺しの頻発に対する数多くの苦情の果てに、ついに聖ヴァンサン・ド・ポール(*1581―1660)が現れた。そしてこの分野の慈善事業に大きな推進力を与え、その第二の創始者と見なされるようになった。そして彼の影響は民間の慈善事業だけでなく、法律制定にも及んだのである。これらの措置の影響―すなわち嬰児殺しの罪を抑制するために設けられた制度が淫乱という悪徳を助長したこと、また慈愛の利益と貞操のそれの明らかな対立を示す深刻な道徳論争―については、私が立ち入る必要はないだろう。私たちは今、キリスト教の慈愛を動かしてきた原理について考えているのであって、その組織の知恵について考えているのではない。どのような間違いがあったにせよ、私がたどった運動全体には、社会から見捨てられた人々の生命だけでなく、道徳的な幸福に対する、古代の最も慈愛深い国々ですら抱いたことのなかった憂いが表れている。奴隷、剣闘士、野蛮人、幼児など最もみすぼらしい形の人間の生命と人間の徳に対するこのような細心で綿密な配慮は、実際のところ異教徒の精神とは全くかけ離れたものだった。それは不滅の魂の計り知れない価値というキリスト教の教義が生み出したものだった。これはキリスト教精神が浸透したすべての社会の際立った、超絶的な特徴である。

 

 キリスト教が幼児の生命保護に及ぼした力は大いに現実的なものではあったが、誇張も多々あったと思われる。しかし私たちが次に検討する分野でその力を過大評価することは困難である。人類の道徳史において剣闘士ショーの禁止ほど重要な改革は他になく、この功績はほとんどキリスト教会だけに帰せられるべきものである。ローマ世界の最高の最も偉大な人々の中で円形闘技場の競技を絶対的に非難した人々がいかに極端に少なかったかを思うなら、教父たちの弾劾の揺るぎない、妥協なき一貫性には最も深く感服せざるを得ない。また、教父たちをこの問題の扱いについて最も見識ある異教徒のモラリストたちと比較するなら、常に一つの最も重要な相違点を見出すことができるだろう。異教徒は哲学の精神に基づいてこの競技を非人間的なもの、風紀を乱すもの、品位を落とすもの、残忍なものと非難した。キリスト教徒は教会の精神に基づいて、この教義を殺人という明確な罪とし、観客と演者は神の前に等しくその直接の責任を負うとした。異教徒の帝国の最終末期には、壮大な円形闘技場がまだ存在し、コンスタンティヌス自身、多くの野蛮人の捕虜に野獣と戦う刑罰を与えた。初代キリスト教皇帝がローマ帝国で初めて剣闘士競技を断罪する勅令を出したのは、ニカイア公会議の直後の西暦325年のことだった。この勅令はシリアのベリトュスで発布され、フェニキア属州にのみ適用されたとする説もある。しかしそれはこの地方でさえも効力を失い、わずか四年後、リバニオスはアンティオキアでいつも行われている競技のことを述べている。西帝国ではいくつかの小さな制限が課されていたものの、その継続は完全に認められていた。コンスタンティヌスは西暦357年、剣闘士の供給者であるラニスタが宮殿の召使いを買収して戦闘員にすることを禁止した。ウァレンティニアヌスは西暦365年にはキリスト教徒の犯罪者を、西暦367年には高官の縁者を罰として戦わせることを禁じた。ホノリウス(*在位AD393―423:西方正帝)は剣闘士だった奴隷が元老院議員に仕えることを禁じた。しかしこの最後の措置の真の目的は剣闘士の名誉を傷つけることではなく、武装した貴族の危険から身を守ることだったのだろうと私は想像している。さらに重要な事実は、コンスタンティヌスの新首都に見世物が導入されなかったことである。ローマでは見世物の数は減ったものの、最終的に禁止されるまで中断されたようには見えない。古い異教徒社会において、剣闘士への情熱は最悪の特徴であり、宗教的自由特権はおそらく最高の特徴だった。そしてこの二つのうち、キリスト教帝国で先に消滅したのが、より高貴な部分だったというのは憂鬱な事実である。テオドシウス大帝は帝国全土であらゆる礼拝の多様性を抑圧し、多くの場面で聖職者の従順な奴隷であることを示していたが、野蛮人の捕虜に剣闘士として戦うことを強制して異教徒のシンマコスの喝采を浴びたのだった。この他にも、西暦385年、391年、そしてホノリウスの時代にも剣闘士の試合が行われ、犯罪者を闘技場に送るという習慣がまだ続いていたことが分かっている。

 

 キリスト教が国教となってから九十年近く、帝国の大都市における剣闘士ショーの禁止は効果がなかったが、この件に関するキリスト教徒と異教徒の教えは違ったままだった。最も尊敬すべき異教徒たちは、最後までキリスト教徒を好意的に、あるいは無関心に見ていたようである。ユリアヌスが稀に見る雅量によって、キリスト教との対立の中で最も容易なことだった、教会に非難されている民衆の競技への情熱を利用することを飽くまで拒んだのは事実である。しかしリバニオスは競技を称賛していたし、シンマコスはすでに見たようにそれを実施し、称賛していた。しかしキリスト教徒はプロの剣闘士がその職業を放棄することを誓うまでは洗礼を受けることを認めず、競技に参加するすべてのキリスト教徒は仲間から排除された。教会の説教者や著述家は剣闘士を限りない猛烈さで非難した。そして詩人プルデンティウス(*AD4―5世紀)は皇帝に直接、剣闘士を禁止するよう訴えている。東帝国では剣闘士競技はあまり定着せず、テオドシウスの時代には消滅した。代わりにコンスタンチノープルや他の多くの都市で最も豪奢の極みに達した戦車レースへの情熱が起こったようである。西暦404年、ホノリウスの治世のローマでスティリコ(*AD365―408)の勝利を祝して最後の剣闘士ショーが行われた。このとき、(*聖)テレマコスという名のアジア人修道士が、最も高潔な博愛のヒロイズムに駆られて円形闘技場に突入し、戦闘員たちを引き離そうとした。怒った見物客たちの投石の雨を浴びて彼は死んだ。しかし、彼の死は競技の最終的な廃止につながった。。しかし野獣と人間の闘いはその後も続き、特に東洋で人気があった。全体的な貧困化によって野獣の調達が困難になったことと、その他の原因が競技の衰退につながった。それは最終的には動物には残酷だが人間にはほとんど危険のない競技になり、7世紀末のトゥルッロ教会会議でついに非難されることになった。イタリアでは中世を通じて模擬戦闘の習慣があった。そしてペトラルカ(*フランチェスコ、1304―1374、人文学者)はその時代にはかなりの流血を伴うこともあったと述べている。おそらくそれはある程度まで円形闘技場の伝統に遡ることができるものだろう。

 

 剣闘士の見世物の消滅は初期キリスト教の影響のすべての結果の中で、歴史家が最も深く、最も純粋な満足感とともに眺めることができるものである。剣闘士が直接引き起こした流血は恐ろしいものだったが、この競技はあらゆる階級に無慈悲な感覚を拡散したという点でおそらくさらに悪質であり、慈愛の水準を全体的に向上させる上で致命的な障害になっていた。しかし異教徒たちの態度は、哲学や社会文明のいかなる進歩も、長い間それらを根絶できなかっただろうことを決定的に証明している。もし北の無骨な戦士たちが、トラヤヌスの治世のようにこの競技が何の抵抗も受けずに繁栄していた時代にイタリアの帝国を手に入れていたならば、それは征服者たちによって熱心に取り入れられ、中世の生活に深く根付き、人類の進歩を無限に遅らせていたであろうことはほとんど疑いようがない。キリスト教だけが、この邪悪な植物をローマの土壌から引き抜くのに十分な力を持っていたのである。死者を讃える競技のために大金を遺贈するという異教徒の習慣に代わって、キリスト教では困窮者や苦難者の救済のために遺産を与えるという習慣が生まれた。そして、剣闘士の見世物の特別な季節としてローマ世界全体で待ち望まれていた十二月は、教会ではキリストの降臨を記念する別の祭りで聖別されたのである。

 

 初期のキリスト教徒を剣闘士競技と敵対させ、ついにはこれを打倒させるに至った人命の神聖性の観念は、彼らの一部によって国家の独立や現行の刑罰制度とは全く相容れない範囲にまで拡げられてしまった。彼らの多くは、キリスト教徒は兵士として、あるいは死刑を宣告することによって、あるいは死刑執行人として、命を奪うことを正当化できないと説いたのである。これらの問題のうち最初のものは、この章の後の方で、キリスト教と軍事精神との関係を検討するまで保留するのが好都合だろう。そしてそれ以外については、ほんのわずかな言葉で片づけることができる。正義の処刑にも何か不純で不潔なものがあるという考え方は、多くの時代を通じて見られるものであって、法に仕える身である死刑執行人は非常に古い時代から罪深いものと見なされてきたのである。ギリシャでもローマでも、法律は彼らに城壁の外での生活を強い、ロードス島では街に入ることさえ許されなかった。この種の考え方は初期の教会で非常に強く維持された。そして皇帝や将軍に対してさえ強要された懺悔の規律は、手を血に染めた者は、たとえその血が正義とされる戦争で流されたものだったとしても、懺悔による準備期間なしに祭壇に近づくことを禁じていた。最初の三世紀のキリスト教徒たちの意見は通常、市民生活や政治生活における必要性を考えることなく形成されたものだった。しかし教会が優位に立つと、それを速やかに修正する必要があることがわかった。四世紀のラクタンティウスは三世紀のオリゲネスや二世紀のテルトゥリアヌスと同様に、すべての流血は不義であることを主張したが、一般的な教義は司祭や司教は死刑に関与してはならない、というシンプルなものだった。この聖職者の例外的な立場から、彼らは何らかの反乱行為やその他の原因によって都市や近郊が血腥い侵攻に脅かされたとき、犯罪者のための公式の執り成し人、慈悲の使者という立場を速やかに獲得した。それまで帝国の彫像や異教徒の神殿が持っていた聖域(*避難所)の権利は教会に与えられた。四旬節と復活祭の聖なる季節には刑事裁判は開かれず、犯罪者を拷問したり処刑したりすることはできなかった。奇跡は告発された者や有罪とされた者の無実を証明するために行われることはあっても、犯罪者を社会的権力に処刑させるために行われたことはなかったと言われている。

 

 これらのすべては、法の執行を和らげるという直接的な効果をはるかに超えた重要性を持っていた。それは民衆の想像力に尊厳と慈悲の観念を結びつけ、人命に対する畏敬の念を強めることに大きく貢献したのである。また別の著作で言及したように、もう一つの目覚ましい効果もあった。司祭が死刑判決につながるような告発をすることは間違っているという信念は、他のあらゆる点において迫害理論が十分に成熟していた時代に、主だった聖職者が異端を迫害して死刑にすることを躊躇する理由になったのである。異端は最上級の犯罪であって、刑罰を科すべきであることが容易に認められたとき、異端者を追放、罰金、投獄する法律が法令集に満ち、聖職者の教唆によって宗教的自由特権のあらゆる痕跡が隠蔽されたとき、彼らは最後の必然的な一歩を踏み出すことを躊躇した。それは良心の呵責からではなく、いかなる状況であれ司教が流血を容認することは教会の規律に反するからだった。聖アウグスティヌスはドナトゥス派の迫害を熱心に主張しながらも、彼らが死刑に処されないことを何度も願い、また聖アンブロジウスやトゥール(*フランス北西部)の聖マルティヌス(*AD316―400)は精力的な迫害者であったにもかかわらず、プリスキリアヌス(*AD340―385、初めて異端として処刑された司教)派(*グノーシス主義に由来する)の人々を死刑にしたスペインの司教への嫌悪を表明したのはこのためである。私は他のところで後世の宗教裁判官たちの忌まわしい偽善について述べた。彼らは異端者の「できるだけ穏やかに、血を流さずに」処罰されることを祈りつつ判決の執行を社会的権力に委ねたのであるが、それは最終的に火刑と解釈されたのである。しかし、この恐ろしい茶番は宗教の歴史において特別なものではないことをここに付け加えておきたい。プルタルコスによれば、貞節を守らなかったウェスタの巫女を生き埋めにする理由の一つは、彼らが非常に神聖であり、暴力的な手を加えることは違法だったからである。また、ドナトゥス派の中でキルクムケリオーネス(*ドナトゥス派に合流した反ローマの下層民集団)は一時期、福音書の命ずるところに従って剣の使用を控える習慣があった。彼らは神学的意見の異なる者を巨大な棍棒で殴り殺し、その棍棒にイスラエル人という非常に意味深長な名前を与えた。

 

 キリスト教司祭たちが十分に血を流す時代が来た。しかし、彼らが最初に示した極端な慎重さはその後の歴史と対比すると非常に興味深いだけでなく、それが促進した観念の連合は慈悲に非常に好都合だった。しかし、初期の教父の中の数人はベッカリア(*チェザーレ・ボネザーナ・マルチェーゼ・ディ、1738―1794、刑罰は最大多数の最大幸福原理に基づくべきと主張)の先駆者であることは間違いないが、彼らの教えは十八世紀の哲学者のそれとは違って、刑法の厳しさを緩和する上で重要な影響をほとんど、あるいは全く与えなかったことは注目に値する。実際、帝国のキリスト教法制を注意深く検討し、ストア派の影響下にあった異教徒の立法者が作ったものと比較すればするほど、ローマ法の黄金時代はキリスト教時代ではなく、異教徒時代だったことが明らかになると私は思っている。偉大な法典化の仕事はテオドシウスとユスティニアヌスの治世に成し遂げられた。しかし不正を正し、抑圧された階級を引き上げ、人間の生来の平等と友愛の理論を法制の基礎とするほとんどすべての重要な措置がとられたのは異教徒皇帝、特にハドリアヌスとアレクサンデル・セウェルスの治世だった。これらの法律の遺産を受け取ってキリスト教徒が何かを追加したことは間違いないが、注意深く調べてみれば、それは驚くほど少なかったことがわかるだろう。その後の長い老衰の時期は別として、ストア派哲学者たちの偉大さは、彼らの影響下で数年のうちに行われた法制改革の巨大な歩みと、キリスト教が帝国内で優位に立ったときのほとんど取るに足らない歩みとの対比によって最も際立っている。刑罰の厳しさを緩和する方法として、コンスタンティヌスが犯罪者の顔に焼印を押す習慣、犯罪者を罰として剣闘士にすること、かつては屈辱だったが今では神聖なものになり、非常によく行われていた十字架刑を禁止する三つの重要な法律を作ったことは事実である。しかし、これらの措置はキリスト教皇帝が嬰児殺し、姦通、誘拐、強姦、その他いくつかの犯罪を極端に厳しく罰したことによって相殺され、死刑の数は以前よりかなり多くなった。テオドシウス法典(*AD438)における教会の影響の最も顕著な証拠の数々は実際、最も嘆かわしいものである。それは一方では聖職者を別個の神聖なカーストへと引き上げ、他方ではカトリックの正統性という細い道筋から逸れた者をあらゆる形で、あらゆる程度の暴力によって迫害することを目的とした膨大な量の法律である。

 

 キリスト教が人間の生命を価値判断した最後の帰結は、自殺を非常に強調的に非難することだった。この行為に反対した異教徒の道徳主義者の主張が四種類に分かれていたことはすでに見たとおりである。ピタゴラスとプラトンは、私たちはみな神の兵士であり、定められた職務に就いているのであって、それを放棄することは造物主に対する反逆である、という宗教的主張をした。アリストテレスやギリシャの立法者たちは、私たちは国家に奉仕する義務があり、したがって自ら命を捨てるというのは国に対する義務を捨てることである、という市民的な主張をした。プルタルコスや他の論者たちは、真の勇気は苦しみを男らしく耐えることによって示されるのであって、自殺は逃避の行為であり、それゆえ人間にふさわしくないという主張を人間の尊厳から導き出した。新プラトン主義者は、すべての動揺は魂の汚染であり、自殺という行為は動揺を伴い、動揺から生じるものであり、それゆえ犯人は罪によってその生涯を終えるのである、という神秘主義的あるいは静寂主義的な主張をした。この四つの主張のうち、最後の主張はキリスト教的な自殺の抑制策の中に位置づけられるものではなかったと私は思う。また第二の主張の影響はほとんど感じられない。愛国心は道徳的義務である、という考え方は初期の教会では常に否定されていた。また三世紀の教会の理想だった隠者生活を同時に非難することなしに、自殺に対する市民的反対意見を主張することはできなかった。現代のモラリストたちが自殺の一般的な犯罪性の最も明白な、そしておそらく最も決定的な証拠とみなす、また市民的主張の代替物とも言える、人が家族に負っている義務には異教徒も初期キリスト教徒もほとんど注目していなかった。前者は父親の権威を重視するあまり義務をほとんど認識せず、後者は倫理をすべて来世の利益に結びつけようとするあまり、この欠落を補うことにあまり力を入れなかったのである。キリスト教における謙遜の義務や人間の堕落の見解は、教父の論者たちにとって人間の尊厳の主張をいくらか好ましくないものにしていた。しかし、この論者たちは迫害の下で示した自らのヒロイズムによって高貴な力を与えられた言葉を使って、真の忍耐の勇気についてたびたび説いている。カトーの例に対抗してレグルスやヨブを挙げ、死に立ち向かう勇気に対抗して苦しみに耐える勇気を挙げたのである。プラトンの教え、すなわち私たちは神のしもべであり、神の目の前で、神の援助を受けて、神の意志により、割り当てられた任務を遂行するために地上に置かれているという教えを、彼らは絶えず強調し、最も深く実感していた。そしてこの教えはほとんどの場合、それ自体が十分な予防策になった。なぜなら、ある偉大な論者(*アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール、1766―1817:原注より)が言ったように「自殺よりも色濃い罪は多いが、人がこれほど正式に神の保護を放棄したように見える罪は他にない」からである。

 

 しかしこの一般的な教えに加えて、キリスト教の神学者たちは私たちがいま考察中の領域に恐怖政治と信仰という二つの新しい要素を導入した。それらは人類の判断に決定的な影響を及ぼした。彼らは人命の尊厳に関する理論を発展させて、自ら生命を絶つ者は通常の殺人者と同種同大の罪を犯したのである、と教義上で主張するまでになった。そして同時にその刑罰の性質と、魂の来世の運命に関する理論によって死に新たな性格を与えた。一方、道徳的尺度において忍従に与えられた高い地位、人生の最も暗い不幸せに一条の光を投げかける来世の幸福の希望、信頼の感情や迸る祈りから生じる深く不思議な慰め、そして何よりも苦しみの救済的、神意的性格に関するキリスト教の教義は、絶望に対する十分な防御能力を発揮した。痛みを善きものとするキリスト教の理論は、この点において痛みを悪しきものではない、とする異教徒の理論が決して持ち得なかった力を持っていたのである。

 

 しかし初期の教会では、ある種の寛容やためらいとともに尊ばれていた二つの自殺の形があった。迫害によって乱心して、また殉教が生前の罪を一瞬にして消し去り、苦しむ者を直ちに天上の喜びに導くという信仰の影響によって、熱狂に我を忘れて異教徒の裁判官の前に殺到し、殉教を懇願したり誘発したりする人々は珍しくはなかった。そして教会の数人の論者たちは彼らを大いに称賛していたが、教父たちの書物や教会会議の一般的な論調は彼ら批判的だった。さらに深刻だったのは迫害者による不名誉な刑罰によって、あるいはより頻繁に皇帝や野蛮人の侵略者の欲望によって純潔が脅かされたとき、それを守るために自殺したキリスト教徒女性の問題である。わずか十五歳の少女だった聖ペラギア(*アンティオキアの、AD311没)は教会によって列聖され、聖アンブロジウスや聖クリュソストモス(*AD347―407、金口イオアン)によって熱く称賛されている。彼女は兵士に捕まったとき、服を着るために自分の部屋に戻る許しを得て家の屋根に登り、身を投げて死んだのである。アンティオキアのドムニナというキリスト教徒女性には母譲りの美しさと信仰心で評判の二人の娘がいた。ディオクレティアヌスの迫害で捕らえられ、純潔の喪失を恐れた彼女らは、ある大胆な行動で危険を脱することに合意した。そして母娘は道端の川に身を投じ、貞潔なまま波に沈んだとのことである。暴君マクセンティウスはローマ長官の妻であるキリスト教徒女性の美しさに魅了されていた。彼の求愛を逃れることが叶わず、暴君の手下によって家から引きずり出された忠実な妻は、支配者の抱擁に身を委ねる前にほんの少しだけ自分の部屋に戻る許しを得た。そしてそこでローマの真の勇気をもって自分の心臓を刺し貫いたのである。こうした歴史を語る際の、初期教会の論者たちのあからさまな称賛に嫌悪感を示してきたプロテスタントの論客たちがいるし、当惑してきたカトリックの論客たちもいる。しかし神学的な見解によって自然な高貴さの感覚をすべて破壊されていない人々には、それを弁護する必要はないだろう。

 

 これが初期の教会で唯一許さ