マラカンド野戦軍の物語



THE STORY OF THE MALAKAND FIELD FORCE
AN EPISODE OF FRONTIER WAR

By Winston Churchil

 

マラカンド野戦軍の物語
辺境戦争における一エピソード

W・チャーチル著

 

 第二次大戦時のイギリス首相、W・チャーチルは23歳の時に現在のパキスタンに記者として従軍しました。そのときに新聞社に書き送った記事は帰国後一冊の本にまとめられました。以下はそれを当院院長が日本語に訳したものです。
 なお著作権はチャーチルの死後50年を経た2015年に切れています。文中の*は訳者注です。

 原文:https://www.gutenberg.org/files/9404/9404-h/9404-h.htm
 参考:BritishBattles.comというサイトのMalakand Field Force 1897のページに多数の写真や図、地図があります。
 文中に原書の中の図を挿入しました。NEW!
引用元:https://archive.org/details/storyofmalakandf00chur/page/n22/mode/1up
 訳者がまとめた資料です。 時系列 
 この作戦の2年前のチトラル包囲戦についてF・ヤングハズバンドと兄が書いた記事を訳したものです。THE RELIEF OF CHITRAL
 縦書きの印刷用PDFです。

 

 

 

口絵: マラカンド野戦軍指揮官、少将ビンドン・ブラッド卿

 

 

 

マラカンド野戦軍の物語

辺境戦争における一エピソード

ウインストン・チャーチル著

「それ(辺境戦争)は文明の波の先端と前進を示すところの泡にすぎない。」
ソールズベリー卿(*1830年生、イギリス首相)、ロンドン市庁舎にて、1892年

     目次

序文
第一章 戦争の舞台
第二章 マラカンド・キャンプ
第三章 勃発
第四章 マラカンドへの攻撃
第五章 チャクダラの救援
第六章 チャクダラの防衛
第七章 スワットの門
第八章 モーマンドの地への前進
第九章 調停
第十章 ナワガイへの行軍
第十一章 9月16日、マムンド渓谷の戦闘
第十二章 イナヤット・キラにて
第十三章 ナワガイ
第十四章 マムンド渓谷に戻る
第十五章 騎兵の仕事
第十六章 降伏
第十七章 軍事的所見
第十八章 そして最後に…辺境の謎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この本をここに記録された作戦をその指揮下に行い/その統率力によって成功に導き/その厚意によって著者に人生において最も価値ある魅惑的な体験をさせてくれた少将、ビンドン・ブラッド卿 K.C.B.(*バス勲章ナイト・コマンダー)に捧げる

 

 

 

 

 

 

 

 

序文

「世界の公明正大さに従い、私に観客を与えよ。」
          「ジョン王」 第五幕・第2場

大体において私は序文というものを軽視している。もし著者が二―三百頁を費やして読者の心を捉え、対象を明らかにすることができないのであれば、おそらくそれは五十行でも同じことであろうと思ってきた。しかし舞台の裏側について少しばかり語ることの誘惑は昔も今もとても強く、書き手はこれに抵抗することができない。私も試みようとは思わない。

私はマラカンド野戦軍に所属していた時、ロンドン・デイリー・テレグラフに一連の書簡を書き送った。これらの書簡が好評を博したことに励まされ、私はさらに多くの仕事を企てた。この本はその成果である。

私は元の書簡をバラバラにして、自由に、適切と思われる一節、フレーズ、事実を活用することにした。それらに含まれる見解は変わっていないが、キャンプの爽快な空気の中では穏やかに見えたいくつかの意見や印象は、平時のより温和な雰囲気に合わせるために修正した。

私は多くの勇敢な将校たちが私の取材に協力してくれたことに感謝しなければならない。彼らはみな自分の名前を出さないようにと依頼した。しかしその希望に添うならばマラカンド野戦軍の物語からその全ての最も勇敢な行動と最高の登場人物が奪われてしまうことになるであろう。

この本は辺境問題の複雑さを取り扱うつもりはなく、その局面と特色の完全な要約を提示するものでもない。最初の章で私はインド辺境の人口が多い有力な種族の一般的特色の説明を試みた。最後の章で、それはこの主題においては記憶を当惑させ、忍耐力を疲弊させるほど巨大なのであるが、私は平凡な人間の知性を膨大な量の専門家の証言に用いることを試みた。その他は物語である。そこではただ自分に見えたものをそのまま読者にお見せしようと思っている。

私はそこで起こったすべての行動と勇気の事例を本文に記述することができなかったため、付録に公式ディスパッチを付けた。(*ディスパッチ・・・通信、報告書*未訳)

私が帝国の大問題について政党のパンフレットに書いたことによってイギリス国民を侮辱してはいないことを、少なくとも公平な評者は認めるであろう。いかなる人物や方針にも反対を唱えようとせず、私は発生した事実と浮かんだ感想をそのとおりに記録したのである。実際のところ、私は誰も攻撃しないことですべての人の気分を害したのではないかと心配している。中立は不名誉な孤立へと堕するかもしれない。真実を見極めるための正直で偏見のない試みだけが私の唯一の防御策である。なぜなら読者の信用を得ることこそが終始私の主な願いであったし、結局それが私の唯一の支えとなる可能性があるからである。

                ウィンストン・S・チャーチル

          騎兵隊兵舎にて
    バンガロール、1897年12月30日

 

 

 

図1. 戦争の舞台となったインド北西辺境の地図

 

 

 

第一章:戦争の舞台

ギルザイの首長は返書してきた:「私たちの道は狭く、険しい。
太陽が谷を激しく焦がし、雪解け水が深い谷を流れる/
・・・・・・・・・・・
したがって、客人には安心できる護衛と勇敢な友人の誓いが必要である。」
        「アミール(*イスラム圏の首長)の伝言」A.ライアル卿

インドの北と北西の国境に沿って、ヒマラヤが横たわっている。ヒマラヤは混沌とした時代の変動が作り出した地表の最大の障害物である。幅約四百マイル、長さ千六百マイルを超えるこの山岳地帯は、南部の大平原と中央アジアのそれを分割しており、イギリスの東帝国とロシアのそれを海峡の対岸のごとく引き離している。この地面の混乱の西端は、ヒンズークシュの峰々によって形成されており、その南が本書の物語の舞台である。ヒマラヤは線ではなく、山々の巨大な国である。ディリ、スワット、あるいはバジャウルに聳え立つ峠または見晴らしのよい地点に立つなら、山脈に続く山脈は大西洋の大波の長いうねりのように見え、より高くはるかに輝く雪のピークは白い波頭を頂いた大波を連想させるであろう。毎年の土砂降りの雨が丘の側面から土壌を洗い流し、無数の水路がそこに奇妙な溝を掘っている。そして黒い太古の岩がいたるところに露出している。沈泥と堆積物は、間にある谷を埋め、その表面を砂だらけに、水平に、そして広々とさせた。再び雨はこの柔らかな堆積物の中に広く、深く、絶えず変化する水路を作った/時に深さ七十フィート、幅二百から三百ヤードにもなる大きな溝である。これがヌラーである。通常、小さいものは乾燥しており、大きいものでも小川が流れているだけである/しかし、雨の季節には豊富な水量がすべてを飲み込み、数時間で小川は通行不能な急流になり、川は波打つ洪水のように膨張し、渦巻いて土手を丸くくり抜き、水路を年々深く切り込むのである。

丘は谷の平原から急に立ち上がっている。その険しく荒削りな斜面は一面に厚い大岩に覆われていて、粗く草が生い茂っている。高い尾根の上にはまばらに松が生えている。ロンドンの広場やパリの並木道のプラタナスの美しい東洋品種であるスズカケノキが水路に時折見られ、快適な日陰をもたらすため感謝され重んぜられている。狭いテラスの段が丘のずっと上まで続いている。主にそれを作ったのは既に忘れられて久しい人々である。それは雨が運び去ろうとする土壌を捕え、大麦とトウモロコシの作物の収穫高を支えている。川の両岸に沿った水田は幅広く曲がりくねった鮮やかな緑地をなしており、目にとっては山々のくすんだ色合いからの唯一の救いとなっている。

実際、谷は春にはたくさんの花々で輝く―野生のチューリップ、シャクヤク、クロッカス、数種類のポリアンサス/そして果物の中ではその生産において人の手が加わっていないにもかかわらずスイカ、いくらかの小さなブドウや桑の実は素晴らしい。しかし本書に記述されている遠征の期間中は夏の暑い太陽がすべての花々を焼き尽くしていた。光の中で青と緑の羽が玉虫のように色を変えるほんの数羽の見事な蝶だけが風景の厳しさと対照的であった。

しかしそれでも谷は決してやせ地ではない。土壌は肥沃で、雨は豊富で、土地のかなりの部分が耕作に充てられており、住民の欲求を十分に満たしている。

小川は魚、マスとマーシー(*コイ科の魚)でいっぱいである。岸辺にはコガモ、ヒドリガモ、野生のアヒル、そしていくらかの場所ではシギが豊富である。丘の上ではヤマウズラの一種であるイワシャコと数種類のキジが入手できる。

狩人は地域の野生動物の中では黒や茶色のマウンテン・ベア、時々はヒョウ、マーコール(*らせん状に角がねじれたヤギ)、および数種類の野生のヤギ、ヒツジ、カモシカを追いかけるであろう。小さい四足動物にはウサギ、毛皮の色がずっと明るい以外はイギリスの種とそっくりなアカギツネ、数種類のネズミがいる。その中にはとても興味深く希少な種もいる。美しさには乏しいが用途がなくもないセンザンコウが頻繁に見られる/しかし、すべての動物の中で最もよく見かけるのは長さ約三フィートの大トカゲの不愉快な種であって、たるんだ肌のワニに似ており、腐肉を食べている。ニワトリ、山羊、羊、牛と不可避のハゲタカ、時折のワシが動物相を完成させている。

その全ての上にはまぶしく青い空と力強い太陽がある。これが戦争の舞台である。

これらの未開ではあるが豊かな谷には多くの部族が住んでいるが、どれも似たような性格と境遇である。暖かい太陽と豊富な雨が肥沃な土壌に育てるふんだんな作物に支えられ、多くの人々は余暇を好戦的に過ごしている。種まきと収穫の時を除いて、土地全体に確執と紛争の絶えない状態がはびこっている。部族は部族と戦う。ある谷の人々は隣の谷の人々と戦う。共同体同士の喧嘩に個人の戦闘が加わる。それぞれ郎党に支えられているカーン(*中央アジアの王族、貴族)がカーンを襲撃する。すべての部族民はその隣人に血の宿怨を抱いている。すべての男の手は他の男に、そしてすべての手は余所者に向けられている。

これらの闘争はまた、そうした発達段階の種族が通常持っているような武器を用いて行われるのではない。ズールーの凶暴さにアメリカインディアンの術策とボーアの射撃が追加されるのである。その世界は「慈悲なき文明の力」というぞっとするような光景を呈する。千ヤード先の旅行者は後装式ライフルのよく狙いを定めた弾丸に撃たれて倒れる。襲撃者が近づき、南海の島民の凶暴さで彼を叩き切って殺す。十九世紀の武器が石器時代の野蛮人の手に渡っているのである。

男たちの間の殺人の意図を誘発するあらゆる感化、あらゆる誘因がこの山岳民族を裏切りと暴力に駆り立てる。すべての人間が受け継いでいる太古からの強い殺人性向はこれらの谷で他に例がないほどの強さと勢いで保存されている。何よりその宗教はとりわけ剣によって設立され広められたものであり―その教義と原理には虐殺への動機が漲っており、三つの大陸で戦闘種族を生み出した―野蛮で無慈悲な狂信を鼓舞している。常に山岳民族の特徴である略奪への愛はその目に絢爛で贅沢に見える南部の都市と平野の光景によって育まれている。昔のスペインと同じくらい堅苦しくなくはない礼儀がコルシカのそれと同程度に執念深いヴェンデッタ(*何代にもわたる家同士の血の報復)によって守られている。

そのような社会の状態においては、すべての財産は直接力づくで所有される。すべての男は戦士である。彼はどこかのカーン―かつての封建領主の重騎兵のようなもの―の郎党であるか、あるいは―中世の市民にあたる―自分の村の軍隊の一人である。そのような環境においてはある野心的なパシャン人の栄枯盛衰を簡単に辿ることができる。彼は最初、前の持ち主を追い出して以来家族が持っていた小さな土地で、農業家として熱意を持って倹約しながらせっせと働く。そして秘密裏に金をためる。これで彼はライフルを購入する。大胆な泥棒がその命を危険にさらして辺境守備隊宿舎から盗んできたものである。彼は恐れられる人物になる。そして自分の家に塔を建て、周囲の村人を威圧するようになる。村人は徐々にその権威に服従するようになる。いま彼は村を支配しているのであろう/しかし目指しているのはさらなる高みである。彼は地元のカーンの城への攻撃に参加するよう隣人を説得、あるいは強制する。攻撃は成功する。カーンは逃げるか殺される/城は奪取される。郎党は征服者と折り合いをつける。土地の保有は封建的である。その土地と引き換えに彼らは新しい首長に従って戦争に行く。もし彼が郎党を他のカーンが従者を扱うより悪く扱うならば、彼らは強力な武器を他のどこかに売ってしまうであろう。彼は郎党を大切にする。他の人々も頼って来るようになる。より多くのライフルを購入する。そして二―三人の隣りあうカーンを征服する。今や彼は権力者となった。

多くの、おそらくすべての国が同様の方法で設立されたのであり、初期のこのような段階において文明は苦しみ、よろめくのである。しかし、これらの谷では人々の好戦的性質と支配に対する憎しみが発達のさらなる進展を阻害している。私たちは有能で、倹約家で、勇敢で、権力への道を戦い、吸収し、合併して、より複雑で相互依存的な社会の基礎を築こうとしている男を見てきた。彼はこれまでのところは成功している。しかし、その成功は今や破滅となる。彼に対抗する連合体が形づくられる。周囲の首長とその支持者は村の人々に支援されている。数に圧迫されて野心的なパシャン人は滅ぼされる。勝者は戦利品をめぐって争い、そして物語は始まったときと同じく流血と争いの中で幕を閉じる。

生存の条件がこのようであるため、当然これらの部族はその居住地を要塞化してきた。谷にある場合、それは塔と小銃の銃眼のある壁によって守られている。丘のくぼみにある場合はその位置自体が有利である。どちらにしてもそれはよく武装し、勇敢で、絶え間ない戦争によって鍛えられた頑丈で好戦的な人々によって守られている。

この絶え間のない混乱の状態から、怪我を厭わず、命を軽んじ、不用意に軽率に戦争に乗り出すという習慣が生まれた。そしてアフガン国境の部族民が激情なしに戦い、かっとなることもなく他人を殺す光景が見られるようになる。このような気質は、あらゆる形の法と権威に対する敬意の絶対的な欠如と相まって、完全な対等の確信と相まって、イギリスの権力との頻繁ないざこざの原因となっている。ささいなことがその敵意を呼び起こす。彼らはある辺境の駐屯地に突然攻撃を加える。そして撃退される。彼らの視点においては事件は終わりである。自分たちが最悪の運命をたどったフェアな戦いがあっただけである。彼らを困惑させるのはサーカー(*インド政府)」がそうした小さな出来事を重く見ることである。例えばモーマンド族が辺境を渡ってシャブカドルの戦闘が起こった。彼らは政府が勝利に満足することなく、自分たちの領域に侵入し、罰を課そうとしていることに驚き、そして悲しむ。あるいはマムンド族は村を焼かれたため、第2旅団のキャンプを夜襲する。これで引き分けである。軍隊がそうした見解を受け入れないことに彼らはびっくり仰天する。

彼らは互いに戦うとき、悪意をもっておらず、戦闘員が仲間の屍を越えて友人になったり、祭りや競馬のために作戦を中断したりすることは珍しいことではない。抗争が終わればたちまち誠心誠意の関係が再び確立される。それでも非常に矛盾に満ちているのが彼らの性格であり、これらすべてが、その家族のヴェンデッタと個人的な流血の確執について書いたことを損なうことはない。裏切りと暴力を悪徳ではなく美徳と見なす彼らの論理は、非常に奇妙で一貫性のない名誉の規定を生み出しており、論理的な精神では理解できない。もし白人がそれを完全に把握できて、彼らの心的衝動を理解するなら―いつ彼の味方をすることが彼らの名誉であり、そしていつ彼を裏切るのが彼らの名誉であるか/いつ彼らは彼を守るべきか、そしていつ殺すべきかをもし彼が知っているなら―彼は、その時と機会を判断して、山の端から端まで安全に通り抜けられるかもしれない。しかし、文明化されたヨーロッパ人がこれを達成することはほとんどできない。水滴を顕微鏡で覗き込んだ時に観察される、お互いを和やかにガツガツと喰らい、満足そうに貪り食われる奇妙な生物を理解できないように。

私はパシャン人の特性の中の好ましいものについて喜んで述べたい。それはパシャン人の終わりない乱闘の中において、粗野な騎士道精神が命ずるところの女性の特権である。多くの砦は小さな池や泉から少し離れたところに建てられている。包囲中、攻撃側は女性が夜間に壁の足部に水を持っていくことを許す。朝に守備側は出てきてそれを―もちろん銃火の下で―取り、抵抗を続けることができる。しかし、生活の軍事的な側面から社会的側面に目を移すなら、女性たちの置かれた状況にはより暗い影が差しており、どんな埋め合わせを以てしても救われることはない。私たちは彼女らが人類の周縁にいる劣化した民族のように、汚れと無知の中でそのむさ苦しく銃眼のある陋屋にいるのを見る。トラのように獰猛であるがきれい好きではない/危険ではあるが優雅ではない。理想主義者が通常原始的な人々が持っているとする単純な家族の美徳には著しく欠けている。一般に彼らの妻と女性たちには動物のような地位しかない。彼女らは自由に売買され、ライフルと交換されることすら稀ではない。彼らは真理を知らない。一つの典型的な挿話において彼らが宣誓というものをどのように考えているかがわかる。畑の境界の論争において双方の申立人はコーランを手に持ち、自分の土地の上だけを歩くことを誓って、自らの主張する境界線を一周する習慣がある。しかし隣人の土地の上を歩くときには誓いが偽りにならないように自分の畑のホコリを少し靴の底に入れておくのである。双方がそうしたペテンに精通しているため、宣誓のひどい茶番はすぐに放棄されて力に訴えることになる。

すべてが悲惨な迷信の支配下に置かれている。ジアラット(*イスラム神殿)、あるいは神聖な墓の力は驚くべきものである。病気の子供たちは水牛の背中に乗せられて、時には六十―七十マイルも運ばれて、そうした神社の前に置かれ、そして―もし彼らが旅の途中で死ななかったなら―同じようにして運び戻されるのである。惨めな子供がこうして牛の背中に揺さぶられて苦しんでいるのは考えるだけでも痛ましいことである。しかし、部族民はこの治療をどの異教徒の処方薬よりもはるかに効果的だと考えている。願いの成就を確実にするにはジアラットに行って地面に棒を置けば十分である。立派な男子の跡継ぎを得るための確かな方法は、ファキールがそこに縛りつけた、木にぶら下がっている石や色のついたガラス玉を座って振ることである。牛に良い乳を出させるには聖人の墓の近くにある気に入った石の上に少し漆喰を塗る必要がある。これらはほんの数例である/しかし、それは文明世界が笑うべきか泣くべきかさえわからない精神的発達の状態を明らかにするには十分であろう。

彼らはその迷信によって数多くの聖職者の強欲と圧制に晒されている。すなわち「ムラー」、「サヒブザダ」、「アクンザダ」、「ファキール」そしてトルコで言うところの神学生に相当する、人々を犠牲にして自由に生きる、放浪するタリブ・ウル・イルムの群れといった連中である。さらに彼らは一種の「ドロワ・デュ・セニョール(*初夜権)」を持っており、どんな男の妻や娘もそれから安全ではない。そのマナーやモラルのいくつかは書くことも憚られるほどである。マコーレーがワイチェリーの戯曲について「スカンクがハンターに撃たれないように彼らは批評家に叩かれない。」と言ったように彼らは「安全である。なぜなら汚なすぎて手を触れることができず、臭すぎて近づくことすらできないからである。」

それでも、この野蛮な人々の生活にさえ、絵のように美しいものを愛する人がその期待と不安に共感する瞬間がないわけではない。夕方の涼しさの中でアフガニスタンの山の後ろに太陽が沈み、渓谷がとても気持ちのよい薄明に満ちているとき、村の長老たちが水辺のスズカケノキの元へと連れて行ってくれる。そこで男たちがライフルの手入れをするか水タバコを吸い、女たちがビーズや丁子、木の実で粗末な飾りを作っているとき、ムラーが夕方の祈りを唸るのである。白人はこうした様子をほとんど見たことがなく帰国後に語ったこともない。しかし武器や牛の価格、収穫の見通し、村のゴシップから、南にあって年々近づいてくる大国の事にいたるまでの会話を私たちは想像できるだろう。おそらくベルチまたはパシャンの元セポイがペシャワルのバザールでの自らの冒険を列挙したり、過去に自分が付き従って戦った白人将校たちについて語ったりするであろう。その飾らない勇気やその奇妙なスポーツについて/毎月の恩給をきちんと送ることを決して忘れない政府の遠大な力について語るであろう/そして聴衆の輪に向かって自分たちの谷がその偉大な組織の広範囲な支配に巻き込まれ、裁判官、収税官、弁務官がアンベイラ(*ブナーの村)の会合に馬で乗りつけたり、ナワガイ(*後出のナワガイとは別のアンベイラ近郊の村)の土地の地租を見積ったりする日のことさえ予言するかもしれない。そのときムラーは声を上げ、預言者の息子たちがインドの平原から異教徒を追い出し、デリーにおいてカフィール(*異教徒)が今支配しているのと同じくらい広い帝国を支配していた他日を思い出させる:真の宗教が地上を闊歩し、丘の間に隠れて無視されることを軽蔑していた日を:強大な君主たちがバグダッドを支配し、すべての人々が神は一でありマホメットがその預言者であることを知っていた日を。そして、これを聞いていた若者たちはマティーニ銃を握りつつアッラーに祈るであろう。いつの日か、我が視線の七百ヤード先に―最高の獲物である―サヒブ(*インドで白人につける敬称)を横切らせ給え、さすれば侮辱され脅迫されたイスラムのためにせめて一撃を加えん、と。

この国の全体的な様相とその住民の性格をこのように簡単に述べた。この段階では、詳細に進む必要はない。記事が進むにつれて読者はくすんだ山々、そしてその影の中に住む人々のより生々しい印象を受けるであろう。

私が語るべき物語は辺境戦争の一つである。問題の重要性も、戦闘員の数も、ヨーロッパの規模ではない。その結果に諸帝国の運命がかかってはいない。しかし、物語に興味深さや内省の素材がないとはいえないであろう。文明国の紛争においては何千人もの大軍がぶつかり合う。旅団と大隊は前方に急行させられ、おそらく射撃地帯に入って砲列の集中または大量の小銃で掃討される。数百人―数千人が死亡し、負傷する。生存者たちは闇雲に、呆然として、動転して、最も近い遮蔽物へとあがく。後ろから絶えず新たな兵が投入される。やがてどちらかが屈する。すべてのこの混乱、この大規模虐殺の中では個人とその感情は完全に失われている。語るべき物語を持っているのは軍だけである。そうした規模の出来事の中では人間の期待と不安、強さと弱さは等しく見分けがつかない。喧騒とホコリの中で破壊以外のものは何も見られない。しかし辺境では、朝の澄んだ光の中で、山肌に煙のパフが点在し、すべての尾根がまぶしい剣の刃で輝いているとき、観察者は人間の勇気のすべての段階を観察し、的確に評価するであろう―ガジ(*イスラム戦士)の野蛮な狂信、シーク教徒の静穏な運命論、イギリス兵の頑固さ、そしてその将校たちの自信に満ちた不敵さを。そして献身と自己犠牲、クールな皮肉と断固たる決断の時に気づくであろう。感激の瞬間を、あるいは獰猛な怒りと落胆を共有するであろう。将軍の技能、兵士の質、軍事技術の永遠の原理は、歴史的に有名な戦場と同様に明瞭に発揮される。統計的規模が縮小されるだけである。

一杯のシャンパンは爽快感を与える。神経は引き締められ、想像力は愉快に掻き立てられ、機知はより軽快になる。一本のボトルは逆の効果を生み出す。過ごせば人事不省の昏睡状態を引き起こす。戦争についてもそうであり、両者の特質はすすったときに最も良く知ることができる。

私はマラカンド野戦軍の軍事作戦を記録し、その政治的成果をたどり、可能であれば、インド高地の風景と人々の描写をするつもりである。本書は、勇敢で熟練した兵士の行動を記録するのに役立つであろう。それは辺境戦争の大きなドラマに側面光を当てるであろう。それは私たちの民族の永遠の継承物である帝国のための絶え間ない闘争の中の一エピソードを記録するであろう。暇つぶしになるであろう。しかし私がそれによって叶えようとしている野心は、帝国主義的民主主義のイギリスが海の向こうにあるその大きな財産に対して持ち始めている関心の高まりを多少なりとも、少しであったとしても、刺激することである。


第二章:マラカンド・キャンプ

    私はたまたまヴィア・サクラを歩いていた。―ホラティウス

ノウシェラの町と宿営地はマラカンド野戦軍のすべての作戦運営の基点である。カブール川のインド側にあり、ラワル・ピンディから鉄道で六時間かかる。平時、その駐屯地は一個現地騎兵連隊、一個英国歩兵大隊、一個現地歩兵大隊で構成されている。戦争中、これらの部隊は前線で用いられた。兵舎は大きな病院になった。どこもかしこも輸送手段や軍の貯蔵品で混みあっていた/そして基地司令官のシャルチ大佐の指令下に残ったのは貧弱な部隊だけであった。

ノウシェラからマラカンド峠とキャンプまでの道路は、長さ四十七マイルで、四つの行程に分けられる。通常は優れたトンガ(*一頭立ての馬車)の便があり、その距離は約六時間で踏破される/しかし野戦軍が非常に多くの交通手段を利用し、非常に多くの将校が路線を上下に移動したのでトンガのポニーはすぐにひどい痛みと憔悴に陥り、それを引いていく行程に九、十、あるいは十一時間もかかるようになってしまった。ノウシェラを出てカブール川を渡る十五マイルの行程で旅行者はマルダンに到着する。「メルダン」と発音される―この場所は、ガイド軍団の常設基地である。夏の数か月は恐ろしく暑いが、日陰が多くて心地よい。素晴らしいポロ・グラウンドと快適な休憩所が自慢である。通行者はガイド隊の墓地、おそらく世界で唯一の連隊墓地を見るために立ち止まるべきである。彼らがポロに興じたグラウンドの近く、住んでいた宿舎の近くのヤシの木の下のこの最後の休息場所に、国境線で殺された歴代の国境監視員の遺体が葬られているのである。世界中を探しても兵士がこのような勇敢な一団の中に眠っている場所はないであろう。

マルダンの後、道路はよりホコリっぽくなり、周囲の土地は不毛で乾燥している。[これは秋のことである。冬と春には、しばらくの間、土地は緑に空気は冷たくなる。]トンガが進むにつれて山々が近づき、その形と色がよりはっきりしてくる。平原から隆起したいくつかの小丘と尾根が、そのずらりと並ぶ丘の列の前哨地となっている。カブール川の支流であるジャララ川の―浅瀬を渡ると、第二行程に到達する。平時には小さな泥の砦がその唯一の目印となっているが、この前の戦争の際にこれは拡張され、周りに塹壕をめぐらせた相当なキャンプとなっていた。そこはすでに放棄された場所なのでポニーの交換のために停止するだけで、すぐに行程は再開される。道の両側の並木がなくなる。道路は山に向かって伸びる単なる白い筋のように見える。それは、うだるような暑さと窒息するようなホコリの中を横切っている。土地全体が赤く、不毛で、焼き尽くされている。前方には巨大な丘の壁が暗く不気味に立ち上がっている。ようやく峠の麓のダルガイに到着する。それもまた泥の砦であり、作戦中に塹壕のあるキャンプへと拡張され、絡み合った有刺鉄線の網に囲まれている。マラカンド峠が見えるようになり―居並ぶ山々の大きな裂け目である―峡谷のはるか上に、それを守る要塞の輪郭がはっきり見える。

ダルガイから峠の頂上までの傾斜道路は折り返しの多い長い登り坂で終了する。疲れを知らない御者が背中の痛む哀れなポニーを鞭打つ。ようやく頂上が近づいてくる。その眺めは立ち止まって一見する価値がある。背後の下方には、熱気のもやの下に広大な開けた土地がある―滑らかで平らで、かすんだ地平線まで伸びている。トンガが角を曲がると新しい世界に入る。涼しい風が吹いている。平和から戦争への一歩を踏み出したのである/文明から野蛮へ/インドから山へ。すべての方面で風景は荒々しく険しい。尾根は尾根に連なっている。谷は谷に通じている。見渡す限りどの方向も険しい峰と支脈である。平原の国は過ぎ去り、私たちはハンプトン・コートの迷路のように絡まっていて、山が生垣の代わりをしている奇妙な土地に入ったのである。その土地はとても凸凹で、とてもゴチャゴチャしているので、明快な印象を伝えようとすると私は絶望してしまうほどである。

マラカンドはその縁が割れて多数の割れ目とギザギザができている巨大なカップのようなものである。このカップの底に「クレーター」キャンプがある。最も深い裂け目がマラカンド峠である。ギザギザの中で最も高い地点はガイド・ヒルで、その上に砦が立っている。そのような場所を守るために、カップの縁を保持する必要があることを理解するのに専門的知識は必要ない。しかしマラカンドは必要な守備隊を収容するにはカップの底が小さすぎる。したがって軍事的な観点から見ると、位置そのものが悪く防御不可能である。修正および改善された防御計画では、利用可能な接近経路を見渡せるようにし、見渡せないところは絡み合った有刺鉄線やその他の障害物で封鎖するという取り決めがなされ/そして、賢明な任務の体系によって、縁の大部分が現在保持されている。しかし今でも有能な評論家たちはその場所は防御に向いていない、と私に言う/峠は砦だけで保持できる、そしてそこに駐留している旅団がダルガイに撤退するならより安全で同じように有用であろう、と。この物語が始まったとき、マラカンド南キャンプは軍隊を配置することがありえない場所であった。接近が容易であった。それは近隣の高地に閉じ込められており、見渡されていた。[戦後の取り決めによって、マラカンド陣地とチャクダラとダルガイでの任務は二個大隊と分遣隊によって維持されることになった。これを遊撃隊が支援するのであるが、その正確な位置と構成は未定である。]

コタル(*現地語の峠)のキャンプのエリアは小さかったため、カルの平野に二番目の野営地を作る必要があった。これはカップの北の外縁のすぐ下にあった。これは政治的な理由から北マラカンドと呼ばれた。それは軍事的な位置としても根本的に悪かった。それは至る所から見渡され、峡谷とヌラーに囲まれていたため、敵が入りやすく、部隊が出ることは困難であった。もちろん、それには戦略的価値はなくマラカンドを保持するための、クレーターと砦に居住場所がない軍隊の住居としてのみ使用されていた。北キャンプは今では明確に放棄されている。

しかし誰も―とりわけその場所を選択した人々は―攻撃の可能性を検討したようには思えない。実際、マラカンド・キャンプ全体が純粋に一時的なものと見なされていた。英国の政党と政策の変化によって引き起こされた優柔不断によって、マラカンド守備隊は二年間理論的にも現実的にも十分な防御ができない立場に留まっていた。1895年のチトラル遠征の後、この前進駐屯地での旅団の保有は当初ほんの数週間の問題であると考えられていた。しかし月日が経つにつれて、その不確かさにもかかわらず、キャンプは永続的な外観を帯びてきた。将校たちは小屋を建て、食堂を建てた。カルの近くで良いポロ・グラウンドが見つかった。そして注意深い管理によって急速に改良された。競馬場が計画された。既婚の多くの将校は妻と家族を山間のキャンプに連れてきた。そして場所全体が急速に正式の宿営地になろうとしていた。ガジの怒りの事件が静けさを破ったことはなかった。キャンプを出るすべての人物にはリボルバーの携帯を義務付ける規定があったが、弾を込めていないか、現地人馬丁に持たせていた。丘へ行く狩猟パーティーが組織された。伯仲したポロ・トーナメントがクリスマス・ウィークに開催された。著名な旅行者―国会議員でさえ―はこの帝国の前哨基地を訪れ、アングロ・サクソン人があらゆる状況を自らのスポーツと習慣に適応させてしまうことの迅速さと容易さを興味深く観察した。

同時にマラカンド旅団の駐屯地は快適なものではなかった。彼らは二年間、キャンバス地の下や粗末な小屋に住んでいた。極端な気候にさらされていた。暑い日にもパンカ(*天井からつるして綱で引いて仰ぐインドの布製大うちわ)や氷はなかった。鉄道からは約五十マイル離れていて、交際や娯楽に関しては完全に自分たちでやりくりしなければならなかった。イギリスの騎兵将校(*自分のこと)は職務上の反対、費用、邪魔にもかかわらず、辺境での就役に成功したとき、辺境軍の将校たちに妬ましい目を向けてしまいがちである。彼らは彼が好意にすがって懇願するようなことを当然のこと、命令によってそうすることとして受け取っているからである。しかし忘れてはならない。これは孤独で人里離れた駐屯地での不快で退屈な長い月日、そして敵の前では名誉であり歓迎されるべきものではあっても平時には不愉快となる苦難を受けていることの代償なのである。

マラカンド峠を通過した後、最初の右への分岐点はスワット渓谷に続いている。旅行者は山の中にいる。視界はすべての方向で岩の壁によって制限または終了される。谷自体は広く、平らで肥沃である。真ん中を流れの速い川が流れている。その両側には広く細長い田んぼがある。乾燥した土地には他の作物がつくられている。多数の村があり、そのいくつかは大きな人口をかかえている。美しい景色である。山の涼しいそよ風が太陽の熱を和らげている。豊富な雨が大地の緑を守っている。

古代にはこの地域は仏教王国の中心であり、ウーチャンまたは「公園」を意味する「ウディアナ」として知られており、かつての占有者が快適な渓谷を高く評価していたことを示している。「人々は」と五世紀にこの地を訪れた支那の巡礼僧・法顕は言う。「みな中央インドの言葉を話している。“中央インド”とは私たちが“ミドル・キングダム”と呼んでいるものである。庶民の食物や衣服はその中央王国と同じである。仏法はウーチャンで非常に盛んである。」「公園」とは―サババツと呼ばれた―スワット川の両岸にある土地全体のことであるが、おそらく森林、花、果物で有名な渓谷の上端に特に当てはまるのであろう。谷はその美しさの多くを留めている。しかしそれを手に収めた獰猛な征服者の無思慮が森林を破壊し、無知が花と果実を衰退させてしまった。

現在の住民の評判は悪い。その油断のならない性格は不誠実さと残酷さで悪名高い人々の間でも際立っている。パシャン人の間にはことわざがある:「スワットは天国、スワット族は地獄の悪魔。」何年もの間、彼らは臆病者の汚名を着て辺境部族から軽蔑され、疑いの目で見られてきた/しかし最近の戦闘におけるその振る舞いは少なくともこの汚名を雪いだであろう。

現在は数人の小族長がスワット渓谷を分割統治しているが、1870年までは一人の統治者が治めていた。スワットのアクンドはインドで最も名誉ある職業とされている牛飼いの生まれであった。牛は神聖な獣である。彼の勤めは神々と人々に喜ばれる。小君主はその名を誇りとする―ただし彼らは通常それ以上の熱意を持たない。「ギコワール」は直訳すると「牛飼い」である。そうした仕事から未来のアクンドはインスピレーションを得た。彼は何年もインダス川の土手に座って瞑想した。そして聖人になった。川岸の沈思を長く続ける(*川の照り返しを長く浴びる)ほどにその神聖さは増した。その神聖さの評判はその地方全体に広まった。スワット族は自分たちの谷に来て住むよう彼に懇願した。勿体ぶって不承不承の態度で駆け引きしてから、彼はインダス川岸からスワット川岸に移ることに同意した。そして人々の尊敬を受けつつ数年間緑の谷に住んでいた。大反乱時にスワット王サイード・アクバルが死去し、聖人は宗教的権力と同様に世俗的権力を継承した。1863年に彼はイギリスに対するジハードを説き、アンベイラ戦役でスワット族とブナヴァル族を率いた。サーカーが戦争を終わらせるために示したあまりにも途方もない力に老人は明らかに感銘を受けたようである。その直後から彼は政府に友好的になって多くの敬意の印を受け取った。

彼は1870年に死去する前に人々を周囲に呼び寄せ、いつかその谷がロシア人とイギリス人の間の争いの舞台になるであろう、と言い放った。そうなったときにはイギリスに味方して戦うように、と彼は命じた。発言はその有名な僧侶の記憶に結びついて部族民の心にしっかりと留められており、英国人には主に「バブ・バラード(*漫画つきナンセンス詩集。W・S・ギルバードのものが有名だがその中に該当作品は見当たらない。エドワード・リアーにThe Akond of Swatというナンセンス詩がある。)」を通じて知られている。

彼の二人の息子は死去しているが、どちらもかなり若い二人の孫[スワットのミャングル家]は谷に住んでおり、スワットの至る所にあるアクンドの土地保有権を受け継いでいる。彼らには政治的影響力はほとんどない/しかしその人物と財産はミンガオラ近くのサイドゥで神聖な香りの中に眠っている祖父のおかげで人々と英国人から重んぜられている。

マラカンドの東八マイルのところにはチャクダラの信号塔が見える。そちらへ向かって広い傾斜道路が平原を横切るリボンのように走っている。それはコタルキャンプから七マイルのところでアマンダラ峠を通る。そこにおいて南の山々からの突出部が著しく低くなり、峠道となっているのである。そしてそれはさらに北に向かい、川に架かる要塞橋へと続く。この道は歴史的なものなので読者には覚えておいていただきたい。それはマラカンド野戦軍の前進経路であるだけでなく、まさしくその存在理由である。この道がなければマラカンド・キャンプも、戦闘も、マラカンド野戦軍も、物語もなかったことであろう。チトラルへの道である。

ここにおいて直ちに辺境政策全体の広漠とした問題が持ち上がる。私たちがマラカンド峠を保有しているのはチトラル道路を開通させておくためである。チトラル道路を開通させておくのはチトラルを保持しているからである。チトラルを保持しているのはそれが「フォワード・ポリシー」だからである。こうして私は主に軍事的事件と小事件の物語に充てようとしたこの書物の正に冒頭において、イギリスの最も洞察力ある知識人が迷っており、インドの最も価値ある専門家の意見が分かれている幅広い政治問題に直面することになった。もし私がとても大きく、論争の的になっているその問題の議論を、後の章でおそらく私が読者のより大きな共感と賛同を受けるまで先延ばししたとしても、私を臆病者や弱虫と思ってもらいたくはない。物語が終わった後にその教訓を指摘することは不適切とは言えないであろう。

慎重を期すなら先に延ばした方が良いであろう。しかしチトラル保持の適否の考察を先延ばししている間にその手段を説明するにはこの章が好都合である。もし必要がなかったとしても。

ノウシェラは路線上にある鉄道基地である。そこから私たちはマルダンへ、そして辺境へと渡ってきた。ここで新しく、問題となっている部分が始まる。それは最初に下ラニザイ地方を通過し、マラカンド峠を登り谷へ降下してそこから上ラニザイ地域と下スワットを通ってチャクダラに至る。ここで要塞に守られた細い吊り橋でスワット川を渡る。この橋の三つの支間の長さを合わせるとほぼ1500フィートになる。それは1895年の作戦中に約6週間で建設された、非常に注目すべき軍事土木工事の一例である。道路はスワット川を越えてからディリのカーンの領域を北と西へと走り、マラカンドから三十五マイル離れた辺鄙なサドゥ村(*パンジコラ川とジャンドル川の合流点近く)へと続いている。ここが最初の区間の終わりであり、その先は車輪の通行ができない。道路はパンジコラ川の左岸伝いの曲がりくねったラクダ道となっている。ディリから五マイル以内に到達したところで吊り橋を右岸へと渡る。そしてディリ川との合流点からその川に沿って行くとディリに到達する。サドゥからの距離は約五十マイルである。ラクダはディリの先へは進むことはできない。ここから三番目の区間が始まる―ラバだけが通行できる道で距離は約六十マイルである。ディリからの道は土木工学の勝利である。多くの場所でそれは険しく巨大な崖の表面に取り付けた木道でつながっており、他の場所では驚くべきジグザグで支脈を迂回したり、山腹を削ったりしている。そして道の終わりにはチトラル砦があり、二個大隊、一個工兵中隊、二個山岳砲兵隊からなる守備隊が駐屯している。

道路はそれが通過する地域の部族民によって維持および保護されている/しかし、それが遮断される可能性のある二つの主要な地点は帝国の守備隊が保持している。マラカンド砦は山の通路を守っている。チャクダラは川を渡る橋を守っている。残りについては部族民が徴用されている。ラニザイ族はインド政府から毎年30,000ルピーの助成金を受け取っており、それによってスナイダー銃で武装した200人の非正規軍を維持している。これをイギリスの将校は失礼にも「Catch―‘em―alive―Os.(*19世紀半ばの蠅取りのスラング、ラドヤード・キップリングが無鉄砲な若い兵士の一団に対して使った)」と呼んでいる。彼らが略奪者を追い払い、非道と殺人を思いとどまらせる。その領土を七十三マイルもの道路が走っているディリのカーンは政府から60,000ルピーの助成金を受け取っている。それゆえ彼はその任務に400人の非正規兵を提供している。

大規模蜂起の前にはこれらの協定は見事に機能していた。ルートの維持に関心のある部族民は政府への敵対行為に最も消極的であった。マラカンドの南に住む下ラニザイ族は完全に降りた。部族の長老たちは熱くなりやすい若者の武器をすべて集め、部隊を攻撃することを禁じた。上ラニザイ族は騒乱の現場に近く、迷信と恐怖によってムラーに加勢するよう誘導された/しかしとても中途半端であった。スワット族は狂信に流された。ディリのカーンはイギリスの援助に完全に依存しており、その領民も助成金の利益を理解していたので裏切ることはなかった。

道路が興味深ければその物語はさらに興味深いものであり、その建設につながった出来事と原因の要約は国境部族の政治の歴史と方法論にも何らかの光を当てるであろう。

とるに足らない首長たちはその権力が不確実で不安定であるため常に何らかの強力な宗主国の支持を求めてきた。1876年、チトラルのメータル(*インド北西辺境の支配者の古い称号)であるアマン・ウル・マルクは庇護を得ること、私たちの臣下であるカシミアのマハラジャの臣下になることを勧められた。事前の全体的な計画に従って、インド政府がすでに承認していたイギリスの機関がギルギットのチトラル―カシミア辺境に直ちに設立された。アマン・ウル・マルクは一定の武器と弾薬の供給と6000ルピーの助成金を提示され、その後12,000ルピーに引き上げられた。このようにしてイギリス人はチトラルの権益とその国境の監視地点を得た。1881年に機関は撤退したが影響力は残り、そして1889年にはるかに大きな守備隊とともに再建された。一方、アマン・ウル・マルクは政府の意思を大いに重んじ、助成金と比較的な平和を享受しつつチトラルを統治していた。しかし1892年に彼は死去した。みな同様に残忍で野心的で悪辣な多くの息子たちが残された。その一人であるアフザルは最年長でも公認の相続人でもなかったが、その現場にいたことが幸いした。彼は権力の手綱を握り、捕えることができた兄弟をすべて殺し、自身がメータルとなることを宣言してインド政府の承認を求めた。彼は「勇気と決断力の持ち主」と見られ、その支配には安定した統治の見通しがあったため彼は首長として認められた。生き残った兄弟は隣国に逃れた。

最年長のニザムはギルギットにやって来てイギリスに訴えた。助力は得られなかった。祝福はすでに与えられていた。(*聖書の故事:ヤコブが兄エサウから父イサクの祝福をだまし取ったことに重ね合わせている)しかし、1892年11月、故アマンの兄弟であるシェール・アフズルがチトラルに秘かに戻ってきた。そしてその地で兄弟愛に駆り立てられ、自らの甥である新メータルともう一人の兄弟を殺した。そして「邪悪な叔父」は王座、あるいはそれに等しいものに上った。しかし反発が起こった。インド政府は彼を承認することを拒否した。ギルギットにいたニザムは自らの主張を力説し、ついにその相続財産を取り戻しに行くことを認められた。250人のカシミヤ・ライフル隊の精神的援助が多くの支持者をもたらした。彼は人々と結びついていた。縮小規模のオレンジ公ウイリアムの上陸(*名誉革命で王としてオランダからイングランドに上陸)であり、オランダ軍の代わりにカシミア軍がいた。これに対抗するためにシェール・アフズルが送った1200人の兵は寝返った。簒奪者である叔父はそれ以上待っていることは危険であることを悟り、ジェームズ2世がフランスに逃げたようにアフガニスタンに逃げ込んだ。そこで支配者に厚遇され、将来の騒乱の要因として注意深く保護された。

ニザムはその願いがかなって今やメータルとなった。しかし彼は自分の権力を大きく行使することはなかった。地上の野心の虚しさについて陳腐な内省をしていたのかもしれない。最初から彼は貧弱で不人気であった。しかしインド政府の支援を受けてどうにかその領土に対する弱々しく拙い支配を維持していた。彼を支持するために、そして政策に従って、ヤングハズバンド大尉が100人の銃剣兵とともに送られた。ギルギット守備隊は大隊へと拡充され、マストゥージとの間にいくつかの駐屯地が設置された。

こうして帝国軍はチトラルに入った。その立場はたちまち危険に陥った。何百マイルもの悪路と好戦的な部族民によって彼らはギルギットから隔てられていた。ギルギットからの部隊の移動は常に時間がかかり困難である。しかし別のルートもあった。私が説明したルート―ペシャワルからディリを北に向かうルート―は、イギリスの領土と鉄道から始まり、より短く容易である。今この連絡線にインド政府は目を向けた。英国軍またはエージェントがチトラルに留まることになった場合、言い換えれば承認された政策を継続することになった場合、このルートが開通していなければならない。そこで本国政府に打診した。キンバリー卿(*インド担当大臣、自由党ローズベリー内閣)の返事は、責任、領土、支出の増加に反対であるということ、そして自分はそのような計画への支持を約束できない、というものであった。同時にニザムの立場の強化を期待して軍とエージェントの一時的な留置を認可した。[国務大臣からのディスパッチ、No.34、1893年9月1日]

ここでウムラ・カーンが物語に登場しなければならない。1890年4月28日付のギルギット機関の報告書はジャンドルのカーンであったこの首長について「チトラルとペシャワルの間の最も重要人物」でありその影響力がバジャウル全体に行き渡っている、としている。この強力な支配者の元にアミール(*イスラム首長を指すアミールと同じ綴りなので区別するため以下弟アミールと表記する)という名前のアマンの息子の一人が父の死後の兄弟虐殺から逃れてきた。ウムラ・カーンは彼を保護し利用することを決意した。1894年5月、この若者―約20歳―はチトラルに戻り、ウムラ・カーンの手から逃れてきたと偽った。ニザムは弟を親切に受け入れた。その美徳がその経歴を通してずっと彼の邪魔をしていたように見える。1895年1月1日、弟アミールはその歓迎を利用した。兄とチトラル内閣の主要閣僚を殺害したのである。彼は自らをメータルであると宣言し、承認を求めた。帝国の将校たちは辺境政治に通じていたが、問題がインドで検討されるまではこの悪党とのいかなる協定にも関わることを拒否した。

ウムラ・カーンは今や大兵力でチトラル渓谷の頂きへと前進してきた。名目上は親愛なる友人であり、同盟者である弟アミールが支配を固めるのを支援するためであったが、実際は自分の領土を拡大することを狙っていたのである。しかし弟アミールはウムラをよく知っており、自分の王国を勝ち取った以上、それを共有する気はなかった。戦いが起こった。チトラルは打ち負かされた。弟アミールを利用することができなくなったので、ウムラ・カーンは邪悪な叔父に復帰を勧めた。シェール・アフズル(*アフガニスタンに居た)は受け入れた。契約が成立した。シェール・アフズルはメータルになったと主張し、ウムラがその主張を支持した。反発の動きに対しては両者が武力で脅迫した。

しかし帝国政府は激怒して立ち上がり、新しい申立人と一切の関係を結ぶことを拒否した。彼にその物言いが無作法であることを告げ、ウムラ・カーンにはチトラルから直ちに立ち去るよう、そうしないのであればその結果を引き受けるよう警告した。答えは戦争であった。乏しい守備隊と散在するイギリス軍部隊が攻撃された。第14シーク隊の1個中隊はバラバラにされた。ファウラー中尉とエドワーズ中尉が捕虜になった。チトラル派遣軍の残りと同行者が逃げ込んだチトラル砦は綿密に厳重に包囲されていた。彼らを救うことが必須であった。野戦軍第1師団が動員された。4月1日マルダンから16,000人近くの部隊が辺境へと入った。現在のチトラル道路の最短ルート―スワットとディリを通るルート―を前進して救助に向かったのである。遠征隊の指揮はロバート・ロウ卿に託された。ビンドン・ブラッド卿が参謀長であった。

ここまでのところは―主にチトラルで、最終的には国境部族全体において―公認された一貫した方針に従ってイギリスの影響力が着実に増加している。ある動きに別の動きが続いている。すべてが共通の目的を目指している。今、突然私たちは一つの行為に直面することになった。それによって状況をわきまえたインド政府が、彼らが長い間追求してきた進路、それをたどるために彼らが多大な努力をし、国民に多大な犠牲を払わせてきた進路の上に障害物を置いてしまったのである。おそらく良心の呵責から、しかしおそらく騒動を局所的なものに見せ、領土のさらなる獲得を放棄することによって自由党政権(*第三次グラッドストン内閣)を宥めるためであろう。彼らは対象となる「ウムラ・カーンの側に付いていないスワットのすべての人々とバジャウルの人々」に自らが「ウムラ・カーンの間違った行いのためやむを得ず通過したり部族民の独立に干渉したりすることになったとしても、いかなる領域をも恒久的に占領することはない」という布告を出した。[布告、1895年3月14日]

この宣言が英国での政治目的を意図したものである場合、ある観点からいえば、それは最も見事に成功した。戦争で死亡したり負傷したりしたすべての兵士とほぼ同じくらい多くのことがそれについて書かれているからである。しかし軍隊の光景に激怒し、政府の宣言に注意を払わない部族民には何の影響も与えなかった。先に簡単に要約した/長く着実で計画的な前進を彼らが注意深く見ていたなら、インダス河水系全体で、「拡張し、徐々に、彼らの勢力を統合する」[インド政府からの手紙、No.407、1879年2月28日]というインド政府の公表され、記録されている決定を彼らが読んでいたなら、部族民は政府の真心さえも疑っていたことであろう。しかしそうではなく、そして細かな区別などできなかったため、彼らにとって軍の移動は侵略としか見えなかった。

それゆえ部隊の前進を阻むために彼らは集まった。その数は12,000人にのぼり、マラカンド峠―素敵な場所―を占領した。そして4月3日、ロバート・ロウ卿の軍隊の2個先進旅団に完敗して追い払われた。その後の作戦の結果、スワット川とパンジコラ川の通路が成立した。チトラルへの道が開通した。砦の包囲隊は逃亡し、ケリー大佐指揮下の小さな救援部隊がギルギットから押し進んできた。ウムラ・カーンはアフガニスタンに逃亡した、そして将来の政策の問題がインド政府で審議されることになった。

二つの案が浮上した。チトラルに対する「効果的な支配を維持する試みを放棄」する、あるいはそこに十分な守備隊を置く、の二者択一である。その承認されている政策に従って評議会は満場一致でチトラルでイギリスの影響力を維持することは「第一に重要な問題」であるという結論を出した。本国へのディスパッチ[インド政府のディスパッチ、No.240、1895年5月8日]において彼らはすべての理由を述べ、同時に救援部隊が前進したペシャワルからの道を守備せずにチトラルに駐屯することは不可能であると宣言した。

6月13日、ローズベリー卿の内閣は賢明ではなかったとしても勇気を持って断固返答した。「チトラルには軍もヨーロッパのエージェントも存在するべきではなく、チトラルは要塞化するべきではなく、ペシャワルとチトラルの間に道を作るべきではない」これにより1876年以来一貫して守られてきた方針は明確かつ最終的に否定されることになった。チトラルは自業自得の苦しみの中に残された。インド政府は覆された。それは古い辺境ラインに戻るための大胆かつ捨て鉢の試みであった。インド政府は「私たちは深く落胆しているが、決定を忠実に受け入れる。」と答え、自分たちの政策の断ち切られた糸を集めて別の織物を織り始めた。

しかし間一髪で自由党政権が崩壊し、ソールズベリー内閣(*保守党)がその決定を覆した。インド問題に関する青書を読むときに、最も向こう見ずな人々でさえ大臣になった途端に着用を強いられる公的責任の同型の仮面の下に、党派の本質の感情が動いているのを見るのは興味深いことである。言い回し、スタイル、対応の口調は同じである。それは常に植民地総督と行政官に対処し、指導する偉大な人々である。しかし政治の振り子が揺れるとともにその権勢は後ろへ前へと傾く。そして1895年の揺れは非常に大きかったため、前進政策も相応の衝撃を受けたのである。新大臣(*ジョージ・ハミルトン卿)は「歴代の政権が継続的に追求してきたその政策を、その持続が明らかに不可能にならない限り軽々に捨て去るべきではない。」[ディスパッチ、国務大臣、No.30、1895年8月16日]と見ていた。こうしてチトラル駐留は裁可され、その駐留に必要な道路が完成した。

私は細心の注意を払いつつ「背信」という大きな問題に接近しようと思う。主に兵士の行動について書く本の中で、政治家の政治的名誉にかかわる出来事を議論することは差し出がましいかもしれない。軍が行進したとしても、部族民に干渉したり、領土を永久に占領したりする意図はない、という不必要かつ根拠のない宣言をインド政府が出した/ところが今では部族民に干渉し、ダルガイ、マラカンド、チャクダラに守備隊を設置しており、そのすべては軍が通過した領域にある。しかし取引をするにも(*成句It takes two to make a bargain.取引をするには二人必要)、背信行為をするにも二人必要である。部族民は宣言を気にも留めなかった。それを理解していなかった。それを信じていなかった。信用がないところに背信はない。国境の人々は前進に抵抗した。その立場は宣言を無効にし、部族民がそれを信用していなかったことを証明した。彼らはだまされたとは思っていない。その道路を「背信」とは見なしていない。彼らがそれをどのように見ていたかといえば、その独立への脅威であり、併合の前触れである。それは間違いではない。私が見て、描写したように谷を横切って白く走る道/それを通って移動する兵士/すべての方向にその影響力を拡大していく政務担当官/チャクダラの橋と砦/そして、マラカンド峠の拡張していく宿営地を見るなら、その意味を察知するためには教育は必要ない。またいかなる詭弁を弄してもそれを覆い隠すことはできない。


第三章:勃発

  宗教にはこんなにも多くの悪事をそそのかす力があった。
                   ルクレティウス

すべての共同体において暴力的な噴出と蜂起に先立ってその道筋を用意する、静かで微妙な影響を追跡することの難しさは大きな出来事を取り扱う歴史家を常に憂鬱にさせる。彼は多くの原因を発見し、それらをきちんと記録するであろうが、常に何かが漏れていることに気づくであろう。世論の変化する潮流、関心事、党派、気まぐれの底流、非論理的な感情、または無知の偏見の渦は非常に複雑に数多くの力を発揮するため、それらすべてを観察して評価し、それぞれが嵐の発生に与えた影響を推定することは人間の知性と精勤を超える課題である。小さな事件を記録する者にはさらに大きな不利がある。細かい活字が大文字ほど読み易くないように、彼はその判断を導くための事実をより僅かしか持たない。

1897年の大部族動乱の原因を明言しようとする試みにおいて、ヨーロッパ人はアジア的な動機を測ったり、視点を推測したりできないという事実がその困難をさらに増大させる。しかしその問題を素通りすることは不可能である。私は細部を無視することにして、少なくともインドのイギリス政権が直面した恐るべき連合体につながった最も重要で明白な力について指摘したいと思う。

「フォワード・ポリシー」において最も著しい事件はチトラルの保持であった。守備隊、道路、部族民の徴集兵は部族民に文明の近接と前進を認識させた。山岳地帯の住民の大多数は独立を愛してきたが、その自由が実際に縮小されるまでは物質的な繁栄の進行に宥められて受動的な服従を続けることを厭わないかもしれず―実際にその通りであろう。英国の旗がチャクダラとマラカンドに翻っていた2年間でスワット渓谷の貿易はほぼ倍増した。文明の太陽が丘の上に昇るにつれ、商業の美しい花が開き、これまで野蛮の霜に凍り付いていた需要と供給の小川が解けだした。穏やかな暖気を浴び、新たに見つけた豊かさと快適さを享受して先住民のほとんどは満足していた。2年の間、交代兵は一発も撃たれることなくチトラルを行き来していた。郵便袋が盗まれることもなく、配達人が殺されることもなかった。獰猛な丘の男たちの間を自由に騎行する政務官たちは以前であれば武力が解決したであろう多くの紛争を解決するために招かれた。

しかし、ある階級はイギリスの権力の接近を素早い理解力と激しい敵意をもって見ていた。アフガン国境の聖職者たちは即座にチトラル道路の持つ全ての意味に気づいた。彼らの敵意の原因を知るのは難しいことではない。文明との接触はムラーの富と力が依って立つところの軽信と無知を攻撃する。無意識のうちに迷信の強さを奪う、その文明的で教育的な支配に対抗するインドの宗教勢力の全体的な連携は将来的危険の一つである。ここにマホメダニズムは脅かされ、敵対を受けたのである。幅広い、しかし静かな扇動が始まった。部族間のあちこちへ使いが出た。種族間に戦争、聖なる戦争のひそひそ話が非常に情熱的に狂信的に囁かれた。巨大で神秘的な作用が働いた。その力を合理的精神で理解することはできない。北部の野生の谷のそれよりも明敏な頭脳が準備を行った。秘密の激励が南部―つまりインド本国―から来た。実際の支援と援助はカブールから与えられた。

無知と迷信の奇妙な薄明りの中で超自然的な恐怖と疑念に襲われ、天上の栄光の希望に誘惑された部族民は驚くべき出来事を期待するよう説かれた。何かが来ていた。彼らの種族と信仰にとって素晴らしい日が間近に迫っていた。やがてその瞬間が来る。彼らは注意し、準備をしていなければならない。山は火薬庫のように爆発物で一杯になっていた。しかし火花が欠けていた。

ついに時が来た。出来事が奇妙に組み合わさって機会の価値を高めるように作用した。ギリシャに対するトルコの勝利/「ジハード」に関するアミールの著作の回覧/彼がイスラム教のカリフの地位に就任したこと、および英印新聞紙上におけるとても軽率な記事[「マホメダニズムの再燃」といったテーマに関する英印新聞の記事は教育を受けた現地人の心に最も扇動的な現地紙の空論よりも大きな影響を与えるのである]が一体となってマホメダニズムの「ブーム」を生み出した。

その瞬間が幸運だったのは/その男が欠けていなかったことである。カトリック教会の正規の司教や枢機卿にとっての隠者ピエール(*第一回十字軍に先立つ民衆十字軍を率いた指導者)がアフガン国境の通常の聖職者にとってのマッド・ムラーであった。自らの神聖な使命と奇跡の力を同様に確信している荒々しい熱狂者は異教徒に対しての聖戦、すなわちジハードを説いた。地雷が火を噴いた。炎が地面を走った。四方八方で爆発が起こった。その残響はまだ消えていない。

準備は大掛かりに広範囲に行われていたが、部族民と政府の関係を維持していた注意深いエージェントたちにはそれが見えなかった。とても異常だったことはその人たちの間の知識と目的の逆転現象である。すなわち彼らを最もよく知っていた人々こそが最もよく知らず、より論理的な精神を持っていた研究者ほど対象について理解していなかったと言えるかもしれない。いずれにせよ、熱心に情報を収集し、部族民の間に流れる空気を観測していた有能な人々の間には全方面に蓄積されつつある潜在的な力に気づいた人はいなかった。6月のマイザルでの奇妙な裏切りは線香花火的企てであった。まだ誰も危険と見ていなかった。上スワットに熱狂的な運動があることが気づかれたのは7月の初めであった。その時でさえその意義は無視され、その重要性は過小評価されていた。マッド・ファキールが到着したことが知られた。その力はまだ秘められていた。それが明らかになるまでに時間はかからなかった。

無知で好戦的な東洋の人々に狂信が及ぼす力を十分に理解することが現代のヨーロッパ人には不可能ではないにしても困難であることを神に感謝する。西洋諸国が宗教的な論争に剣を抜いてから数世代が経過し、暗い過去の邪悪な記憶は合理主義と人間らしい思いやりの強い明るい光の中でやがて消え去った。確かにキリスト教は残酷さと不寛容によって劣化し歪められているが、私たちが予防接種によって天然痘から保護されているように、常に人々の情熱に緩和の影響を及ぼし、より激しい形の狂信の熱から保護していることは明らかである。しかし、マホメダンの宗教は不寛容の猛威を軽減するのではなく増大させる。それはもともと剣によって広められ、それ以来その信者は他の全ての宗教の信者よりもこの狂気の形に服従させられてきた。苦労の成果、物質的な繁栄の見通し、死への恐怖すらたちまち傍らに投げ捨てられる。感情的なパシャン人ほどそれに抵抗する力は弱い。すべての合理的な熟慮は忘れ去られる。彼らは武器を手に入れて―狂犬と同じくらいの危険性と浅慮の―ガジになり/そのような扱いにふさわしくなる。部族民のより豊かな精神は血に飢えた宗教のエクスタシーに身悶えするが、より貧しく、より物質的な魂は他の力、すなわち略奪の期待、戦いの喜びにさらなる衝動を感じる。こうして国全体が戦いに立ち上がる。このようにして、トルコ人は敵を撃退し、スーダンのアラブ人は英国軍の方陣を破壊し、インド辺境の蜂起は遠く、広く伝播する。どの場合にも文明が好戦的なマホメダニズムに直面している。進歩の力が反動の力と衝突する。血と戦争の信仰が平和の信仰と向き合う。幸いなことに通常は平和の宗教の武器の方が優れている。

人々の並々ならぬ軽信は考えられないほどである。もしマッド・ムラーがマラカンドとチャクダラの攻撃に参加するよう呼びかけたなら、彼らは拒否したであろう。代わりに彼は奇跡を成し遂げた。彼は自分の家に座り、少量の食物やお金の捧げ物を持って訪ねて来たすべての人にその返礼として少量の米を与えた。彼の蓄えは常に補充されており、彼は何千人をも養ったと主張できたであろう。また自分の姿は夜には見えなくなると力説した。部族民が部屋を覗いたところ誰もいなかった。これらのことに彼らは驚嘆した。最後に彼は異教徒を滅ぼすと宣言した。助けはいらない。その名誉を誰とも共有する気はない。天が開き、軍勢が降りてくる。彼が助けはいらないと断言すればするほど、部族民はどんどんやって来た。ちなみに彼は部族民には弱みはないと言っていた/エージェントが論拠を見せてくれた。私は捕獲した巻物を見せてもらった。その中には―異教徒を殺した―ガジの墓がカーバ神殿の少なくとも七層以上上の天国に描かれていた。戦闘の後―恐るべき軍隊に襲撃をかけ、その数の4分の1を戦野に残したまま部族民がよろよろと帰ってきたとき―ですら生存者の信仰は揺るがなかった。疑っていた者だけが死んだのである、とムラーは言った。そしてこれが12ポンド榴散弾がお前たちの聖人に与えた唯一の影響である、と言って打撲傷を見せた。

私は原因と仮説の荒海から、結果と事実の確固たる陸地へと安堵しながら移動する。マラカンドに届いた上スワットおよび周囲の部族の間の扇動の噂と報告は、駐屯地のパシャン人セポイには十分に重く受け止められた。7月が進むにつれて数人の指揮官は大きな出来事が差し迫っている、と部下から警告された。政治エージェントのディーン少佐は、狂信的運動の日々の進展を大きな不安をもって見守っていた。誰しも心配性な人物と思われたくはない。とりわけ常に危険と隣り合わせの辺境においてはそうである。しかし結局、彼は不穏な兆候を公式に報告せざるを得なくなった。その後さまざまなポストを担当する将校に警告が発せられ、部隊は警報発令の際に持ち場に就く訓練をした。7月23日までにすべての人々は事態が脅かされていることを知らされ、あらゆる予防策を遵守するよう命じられた。しかし誰もが最後まで蜂起には懐疑的であり、発生したとしても小競り合い以上のものになるとは想像していなかった。現地人は友好的で丁寧であった。谷は豊作の好況に微笑んでいた。誰にも一週間後に起こる変化を予測することも、数日後に起こる命がけの戦いを推測することもできなかったのは不思議ではなかった/その平和な風景の中に火器と剣を持ち込むことになり/ポロ・グラウンドが騎兵隊の突撃の現場になり/あるいは自分たちと一緒に何ヶ月もの間静かに暮らしていた、陽気な未開人が逆上して獰猛な野蛮人になるなどとは。かつてこれほど完全に、これほど早く風景が変化したことはなかった。

そしてその間にも戦争の噂はどんどん高まっていった。18世紀のロンドンのコーヒーハウスのように、インドのバザールはいつも素敵な物語―つまり想像力に富む頭脳の作り事―で溢れている。一つの取るに足りない事実が見る影もないほど誇張され、歪められる。そこから何千ものとっぴで非論理的で空想的な結論が導かれる。これもまた事実として流布されていく。そのようにゲームは続く。しかし、これらすべての虚偽と根拠のない噂の中にしばしば重要な情報がひそんでいることがある。バザールの噂は単に現地人の世論の状態を暗示しているだけではなく、真実の萌芽を含んでいることはまれではない。東洋ではニュースは不思議な経路をたどって移動し、その速いことはしばしば不可解なほどである。7月が進むにつれ、マラカンドのバザールはマッド・ファキールの噂でもちきりになった。その奇跡は口から口へと、相応に尾ひれを付けて伝えられた。

全イスラム教徒にとっての偉大な日が近づいている。強力な男が彼らを率いるために立ち上がった。イギリス人は一掃される。新月までには一人もいなくなる。グレート・ファキールは、山中に強力な軍隊を隠している。その時に至ればこれら―騎兵、歩兵、砲兵―は勇み立って出てゆき、そして異教徒を滅ぼすのである。天国の軍勢が時期尚早にあらわになることがないよう、ムラーは特定の丘に誰も近づかないように命じた、とさえ明言された。そのように噂は流れた。しかし、これらすべての浅薄な作りごとの中に厳粛な警告があった。

英国の将校および政務担当官は、部族集会について言及した報告の公式通知に注意すること、そして自分の持ち場を安全にするための準備を強いられた。また深刻な出来事が差し迫っているとの見解についてそれぞれ個人的に調査していた。

7月26日の午後、マラカンド守備隊の下士官と若い将校たちは、ポロをするためにカルに向かった。そこへチャクダラ砦からラトレイ中尉も馬でやって来た。良いゲームになった。隣の村の部族民がいつものように少人数でそれを熱心に見ていた。その態度にはその考えや意図を裏切るものは何もなかった。若い兵士たちは何も見ず、何も知らなかった。知っていればもっと気にしなかったであろう。蜂起はないだろう。あるならなお良い。その準備はできている。ゲームは終了し、将校たちはキャンプや持ち場に戻った。

そのとき奇妙な出来事が起こった―これは辺境部族に特徴的な出来事である。サイス(*インド厩務員)がポロ用ポニーに敷物を載せて衣服を着せ、試合後にグラウンドをぶらぶらしていた。すると見ていた現地人が寄ってきて、戦闘がありそうだからすぐに自宅を離れるように、と勧めた。彼ら、このパシャン人たちは何が起こるかを知っていた。狂信の波が谷を一掃していた。彼らはそれに流されていた。抵抗する力はなかった。まるで痙攣が起こりそうなのを感じているかのように彼らは待っていた。あまり注意深くはなかった。マッド・ファキールが到着したとき、彼らは異教徒たちと戦って殺すのである。それまではポニーを奪う必要はなかった。そして部分的に無神経な、部分的にスポーツマンのような動機で、いくらかのかすかな騎士道精神のようなものもなかったわけではなく、現地人馬丁に警告を与えたのであった。そして謎を悟った彼らはキャンプに無事に帰着した。

この同じ午後遅くに、ディーン少佐がマラカンド守備隊を指揮するメイクレジョン准将に報告した。曰く、問題は非常に重大な局面を迎えていると推測される/大きな武装集団がマッド・ムラーの旗印のもとに集まっており、確実に攻撃があるであろう。旅団を増強するためにガイド隊を呼ぶべきである、と少佐は進言した。遅滞なく進軍するように、という命令の電報がすぐにマルダンに打たれた。8:30に当時連隊の上級将校であったP.エリオット・ロックハート中尉が命令を受けた。午前1:30に彼らは今や有名になった行軍を始めた。

ガイド隊に電報を打ってから、七時ごろ、准将は他のさまざまな指揮官と面談し、いつでも出動できる準備をしておくよう指示した。ディーン少佐はマッド・ムラーの集団が谷を下っていったことを報告し、四マイル離れたアマンダラ峠を保持することを勧告した。それに応じて、メイクレジョン将軍は次のように可動縦隊を編成する命令を出した:―

     第45シーク隊
     2個中隊  第31パンジャブ歩兵隊
     砲2門   第8山岳砲兵隊
     1個戦隊  第11ベンガル槍騎兵隊

この部隊は第45シーク隊のマクレー中佐の指揮下に午前0時に出発することになっており、午前3時に准将指揮下の残りの部隊に支援されることになっていた。

すべての準備は迅速に行われた。ワイヤーが切断される直前の―チャクダラからの電報が9:45に届き、パシャン人の大軍勢がキャンプに向かって急速に移動している、と伝えた。15分後、徴集兵隊のジェマダール(*インド下級下士官)がニュースを持って全速力で駆け込んできた。公式ディスパッチを引用するなら「ファキールがカルを通過し、マラカンドへ前進している。徴集兵隊も人々も彼に手向かいはしない、そしてキャンプの東側の丘はパシャン人で覆われている。」

ポロから戻った途端、将校たちをたくさんの仕事が待ち構えていた。音楽隊と武器を携行できない少年兵は砦へ急がなければならなかった。輸送、配給、弾薬の注文書を作らなければならなかった。やるべきことはたくさんあったが、やる時間はなかった。やっとすべてが終わり、部隊は早朝の出発に向けて待機に入った。9:30に将校たちはポロ服を着たまま夕食に腰を下ろした。着替える時間がなかったのである。10時には、彼らは行進が近づく見通しについて話し合い、小競り合いの可能性を熱心に話し合っていた。より楽観的な人物は戦いがあると主張した―小さな戦い、それは正しかった―それでも小競り合いだろうと。まだ戦闘を経験したことのない者の多くは予期せぬその機会を喜んだ。より経験のある年配者は、暴動に鑑みて問題を考えた。彼らは部族民に発砲しなければならないかもしれないが、スワット族は非常に臆病なので決して部隊に手向かうことはできないはずだった。それでもそれはチャンスであった。

突然、その夜の静寂の中で「クレーター」キャンプの練兵場に軍隊ラッパが鳴り響いた。全員が飛び上がった。「集合」の合図であった。将校が剣とベルトを取り、急いで締めている間、しばらくの沈黙があった。それを単に可動縦隊を整列させようとする警告であると考え、タバコに火をつけるのを待っていた人々がいた。そのとき突然、多方面から小銃のけたたましい爆音が聞こえた、そしてそれは六日間、昼も夜も止むことがなかった。

マラカンドへの攻撃と大辺境戦争が始まった。

発砲音が丘の間にこだました。こだまは今も響いている。広い山岳地帯全体が暴動の混乱に揺さぶられるまで、一つの谷が音の波を受け取っては隣の谷に伝えた。細いワイヤーと長く延びたケーブルが、遠く離れた西の国々に振動を伝えた。遠いヨーロッパ大陸の人々はその中に、鈍く不調和な、衰退と没落の音色を聞いたと思った。英国家庭の人々はその愛する者たち―息子、兄弟、夫―の死の印であるその爆発音を恐れた。外交官たちは賢明に、経済学者たちは心配そうに、愚かな人々はいわくありげで物知りに見えていた。すべてが静まり返った。しかしそれは何千人もの命が犠牲になり、何百万ポンドもの金額が費やされるまでは成し遂げられない課題であった。


第四章:マラカンドへの攻撃

    「ハボック」を叫び、戦争の犬を解き放て。
          「ジュリアス・シーザー」 第三幕・第1場

 

図2. マラカンドキャンプのスケッチ

 

夜間の激しい攻撃に対する抵抗は軍隊が実行を求められる中で最も困難な仕事である。あらゆる国の兵士は長い間そう認識してきた。そうした状況ではどんな勇敢な兵士にも耐えられないようなパニックが一瞬のうちに起こる。多くの勇敢な兵士が動転する。経験豊富な将校の多くが、逃亡兵の群れに気圧され無視される。戦場で死地を果敢に行軍してきた連隊は即座に恐怖に陥り、役に立たなくなる。

マラカンド・キャンプへの攻撃では危険と混乱のすべての要素が見られた。驚き、闇、混乱して破壊された存在の根拠/未知の数の敵/彼らの容赦ない凶暴性/ぞっとするような状況がすべて存在していた。しかし、その危機に対処できる兵士たちがいた。警報が鳴るとすぐに、王立人道協会の金メダルの保持者であり、アフガニスタンとインド辺境での長い経験を持つ第45シーク隊のマクレー中佐は守備隊宿舎に駆け寄った。そして七―八人の兵士を集め、彼らを同じ連隊のテイラー少佐の指揮下にブッディスト・ロードに送り、敵の前進を妨げ、阻止しようとした。そして急いで別の数十人を集め、バーフ中尉にさらに大勢を動員するように指示を残し、小さなパーティーでテイラーの後を追いかけてコタルキャンプの入り口の峡谷の方向へと走った。カル平原から二本の道路がマラカンド・キャンプに通じている。二本のうちの高い方のブッディスト・ロードはある地点で狭い隘路を通り、鋭い角度で曲がっている。ここか他のどこで敵を阻止できるか、少なくとも軍の戦闘準備が整うまで時間を稼げる可能性がある。マクレー中佐はその時二十人ほどになっていたパーティーを率い、テイラー少佐を追い越して、迅速に道を下った。それは数百人の命がかかったレースだった。もし敵の軍勢が角を曲がってしまったなら、誰も彼らの突進を阻止することはできず、抵抗しようとした者はバラバラにされるのだ。シーク隊が最初に到着したが、ごく少人数であった。角を曲がった途端、千人近い敵の大軍と出会った。彼らは主に剣とナイフで武装しており、静かにこっそりと峡谷を忍び寄り、キャンプに突撃してその中のすべての生命を虐殺することを目指し、確信していた。道路全体に荒々しい軍勢が殺到していた。マクレーは直ちに発砲した。致死的距離からの一斉射撃に次ぐ一斉射撃が密集した敵に浴びせられた。その後シーク隊は自由に発砲した。これによって怒りに叫びわめく敵の進軍は阻止され、差し当たり停止させられた。兵士の小隊はその後、ペースを落として絶え間なく発砲しつつ角の後ろ約五十ヤードの切土斜面に陣取った。側面は左側を高い岩、右側を岩と暗闇の中では移動することが不可能な荒れた地面に守られていた。道路は幅約五ヤードであった。部族民は角を曲がるとすぐに撃ち倒された。心強い陣地であった。

       その隘路で千人を三人で食い止められるかもしれない
            (*マコーリーの詩「ホラティウス」からの引用)

こうして部族民は進軍を効果的に阻止されたため、左側の丘に登り、進路を妨げる兵士に岩や石を投げ始めた。彼らは角を回り込んでライフルを発射したが、自分自身をさらすことなく兵士を見ることができなかったので、弾丸のほとんどは右側にそれた。

シーク隊は切土斜面にびっしり詰まっており、前列は射撃のためにひざまづいていた。ほとんどすべての兵士に石や岩が当たった。偉大な武勇を示したテイラー少佐は致命傷を負った。数人のセポイが死亡した。マクレー中佐自身も誤って銃剣を首に刺し、血に染まった。しかし、彼は「ラトレイのシーク隊」(*1856年トーマス・ラトレイが創設したエリート部隊)の名声を守り、死ぬか連隊が現れるまでその陣地を確保するようにと兵士を叱咤した。そして兵士たちは、大音声のシークの雄たけびと、敵の進軍に対する抵抗で応えた。

二十分間の必死の戦いの後、バーフ中尉が三十人の兵士と共に到着した。彼は辛うじてギリギリで間に合った。敵はすでにマクレー中佐の右翼に回り込んでいたため、生き残った数人の兵士は窮地に陥っていた。援軍は丘の斜面を登って敵を追い返し、側面を守った。しかし連隊の残りはもう近くまで来ていた。マクレー中佐はその後尾根の延長線上、道路の上約五十ヤードの位置に戻り、バーフ中尉の隊を強化して、夜間のすべての攻撃を撃退した。午前2時ごろ部族民は前進を諦め、多くの死者を残して撤退した。

この事件で示された精神の存在、戦術的な知識、勇気は、メイクレジョン准将による公式のディスパッチでこのように報告されている:―

「膨大な多勢に対し、峡谷の中でこの小さな組織が連隊の残りが到着するまで勇敢に抵抗することにより、その方面からのキャンプへの突撃を防いだことは間違いない。私はこのときのマクレー中佐とテイラー少佐の行動をどれほど称賛しても足りることがない。」

右翼がこのように経過している間、敵の別の攻撃はより多くの成功を収めていた。キャンプは三方面を同時に攻撃された。照明弾の輝きが北キャンプも交戦していることを示していた。敵はマクレー中佐と第45シーク隊によってブッディスト・ロードで阻止されていたが、別の大集団の男たちがグレーデッド・ロードから中央を目がけて押し入ってきた。最初の発砲音で第24パンジャブ歩兵隊の予備歩哨は道路と峡谷の歩哨を二倍に増やした。しかし圧倒的な数の敵の中に陥っていることにようやく気が付いただけだった。何百人もの獰猛な剣士たちがバザールとそれに隣接する小さな囲い地であるセライの中に群がった。狙撃手が周囲の丘に這い登り、そのうちでもとりわけゴツゴツした岩に覆われたジブラルタルと呼ばれるピークから途方もない銃火を放ち続けた。

左方面と中央すなわちキャンプの防衛は、第24パンジャブ歩兵隊に委ねられた。この連隊の一つの中隊はクリモ中尉の指揮下にサッカー場を横切って突撃し、銃剣によってバザールを掃討した。このときの光景は鮮烈で恐ろしいものであった。バザールは部族民でごった返していた。大声で気合をかけてまっすぐ突撃する兵士たちは、怒り狂う敵に銃剣を突き刺した。剣で叩き切る音、不幸な店主の叫び声、ガジたちの叫び声が絶え間ない小銃射撃の響きに重なってはっきりと聞こえた。今や敵はバザールの中へ強引に戻ろうとしたが、中隊が入り口を守り、10:45頃まですべての攻撃に耐えた。その時中隊の左側面が回り込まれて圧力が非常に強くなったので彼らはより内側の防御線に引き戻され、「工兵隊の囲い」の端に沿って陣取った。別の中隊が北キャンプとの連絡路を守った。連隊の残りと第5中隊すなわち工兵隊は戦線のあらゆる部分に加勢する準備ができていた。

それぞれの中隊の実際の動きを詳細に記録する必要はあるが、私は何よりも読者に大略を理解してもらうことを切望している。敵はマラカンドの大カップに東側からアクセスする二つの道路から途方もない強さで攻撃をかけた。彼らは右側の道ではマクレー中佐の素晴らしい動きと連隊の勇気によって阻止された。しかし圧倒的な力を注ぐことによって左側の道からキャンプに突入し、すべての抵抗を排除した。リムの延長線を保持することができなかった防御側はカップの底の中央の位置へ追い込まれた。この中心的な位置は、「工兵隊の囲い」、兵站部ライン、野戦工兵隊の敷地で構成されている。すべての方面で縁からの火力が支配権を握っていた。窮地に立たされた防御側は自分の場所を守るためにあらゆる犠牲を払う決意を固めていたが、それは悪しきことだった。

その間、敵は蛮勇と闇雲な怒りをもって攻撃に殺到していた。生命知らずの彼らは細い防衛線に向かって突撃した。そして二度も突破を成し遂げ、囲いを突き進んだ。そこで彼らは自分たち同様の大胆な兵士たちに出会った。死に物狂いの戦いになった。将軍自らがポイントからポイントへと急行し、兵士を激励して剣とリボルバーで防御に加わった。敵は兵站部ラインに侵入するとすぐに略奪と犠牲者を求めて兵舎と倉庫に突進した。

隊の兵站将校マンリー中尉は頑なに持ち場に固執し、ハリントン軍曹と一緒に自分の住む兵舎を守ろうと努めた。獰猛な部族民がドアを破って部屋になだれ込んだ。その後のことはロマンスを読んでいるようである。

中尉は即座にリボルバーを発砲した。彼はたちまち切り倒され、バラバラにされた。格闘でランプが壊れた。漆黒の闇が部屋を覆った。軍曹は襲撃者を倒し、ひとたび自由になって、壁に向かって身動きせずに立った。マンリーを殺した後、軍曹を探して部族民は今や壁伝いに手を伸ばし、暗闇の中を手探りし始めていた。結局誰も見つからなかったため敵は軍曹が逃げたと結論し、他を探すために飛び出していった。数時間後に兵舎が再奪取されるまでハリントン軍曹はそこに留まって救助された。

別の激しい攻撃が守備隊宿舎に対して行われた。工兵中隊とともにそれに立ち向かったワトリング中尉はガジを剣で刺し貫いた。しかし狂信者は怒りのあまり死に際して中尉を切りつけ重傷を負わせた。中隊は撃退された。守備隊宿舎は占領され、工兵隊の予備弾薬が奪われた。ワトリング中尉は部下に運ばれて仮包帯所に着くと、すぐにこの重要な持ち場の喪失を報告した。

メイクレジョン准将はすぐにそれを敵から奪回することを第24隊に命じた。防衛線のどこにも予備の兵士はほとんどいなかった。ようやく小さいながらも献身的な一隊が集められた。それはホランド大尉、クリモ中尉、マンリー中尉(技術部隊)、准将の当番兵、第45シーク隊のセポイ、二―三人の工兵、そして第24隊の三人の兵士、という約十二人で構成されていた。

准将は自らをリーダーとした。将校はリボルバーを抜いた。兵士は銃剣のみを使用するよう指示された。そして彼らは進んだ。地面は元々起伏が多く、異常なほどにごちゃごちゃしていた。大岩、起伏、木がすべての動きを困難にした。多くのテント、小屋、その他の建物のため複雑さが増した。そうした環境の中に多数の重武装した敵がいた。十二人は突撃した。部族民は彼らに対抗して前進した。将校は拳銃で敵を次々と撃ち殺した。兵士たちは銃剣で突いた。敵は戦闘不能となって引き揚げたが、部隊の半分は死傷していた。当番兵は射殺された。第24隊の工兵とハビルダー(*インド軍曹)は重傷を負った。准将自身は剣で首を打ち据えられた。幸運にも攻撃者の手の中で武器の向きが変わったため打撲傷で済んだ。ホランド大尉はテントに隠れていた男に近距離から背中を撃たれた。弾丸は四カ所を傷つけ背骨をかすめていた。部隊は今では数が減りすぎて何もできなくなった。生存者は動きを止めた。クリモ中尉は負傷した将校を収容し、第24隊からさらに十二人の兵士を集めて攻撃に戻った。守備隊宿舎を取り戻すための二回目の試みも失敗し、兵士たちはさらなる損失を被って後退した/しかし、敗北を受け入れないその不屈の精神で彼らは努力を続け、三回目の突撃で開放空間を疾走し、敵を打倒し押し返して守備隊宿舎を回復した。ただし、すべての弾薬は敵によって運び去られていた。その夜の損害はすでに莫大であったがそれはさらに重大な損失であった。兵站部ラインからはようやく部族民が排除された。動員可能な守備隊員は囲いの南の入り口を塞ぐ急拵えの防備を作り上げ、敵に奪取される可能性のある調理室や他のシェルターを除去するために用いられた。

翌朝調理室の周りと、三回の突撃が行われた開放空間で二十七人以上の部族民の死体が見つかった。おそらく二倍の人物が負傷し、這い逃げたことを思い起こすならば、これにより守備隊宿舎における戦いの死に物狂いの性質を推し量ることができる。

この間ずっと、リムからカップにかけての火事は深刻で継続的な損害を引き起こしていた。敵は囲い地を三方向から取り囲んで防御側を十字銃火によって圧迫し、胸壁まで頻繁に突進して来た。弾丸が全方向に飛び交っており、避難できる所はなかった。副次官補のハーバート少佐は夜の早い時間に被弾した。その後ラム中佐は太ももに危険な傷を負い、数日後に死に至った。多くのセポイも殺され負傷した。第24パンジャブ歩兵隊の指揮は、準高官であるクリモ中尉に委ねられた。しかし連隊にとって事態は好転しそうもなかった。

およそ一時頃、発砲の小康状態の間に囲いの東面に並んでいた中隊が弱々しく助けを求める叫びを聞いた。第24隊の負傷したハビルダーがバザールの近くに横たわっていた。彼は最初の攻撃で肩を撃たれて倒れていた。部族民は彼を死なせるために剣で二―三度深く切りつけ、死ぬものと思って放置していたのだった。彼が今助けを求めていた。彼が横たわるサッカー場には銃火が吹き荒れ、敵の剣士が群がっていたが、助けを呼ぶ叫びは無視されなかった。第24パンジャブ歩兵隊のE・W・コステロ中尉は二人のセポイを連れて致命的なスペースに走り出し、激しい銃火をものともせず負傷した兵士を安全な場所に移した。彼はこの英雄的な行動によって後にビクトリア十字章を受けた。

夜になるにつれ、敵の攻撃が激しくなったので准将は砦の守備隊に百人の兵士の増援を要請することにした。この堡塁は丘の上に立っており、野砲を装備していない敵に対しては難攻不落であった。到達を試みる命令にローリンズ中尉が志願した。彼は三人の従卒を伴って出発した。敵が横行する非常に荒れた地面を通り抜けなければならなかった。一人の男が飛びかかって彼の手首を剣で打ったが、リボルバーで射殺された。彼は無事に砦に到達し、切望されていた増援部隊を連れて戻った。

アフガニスタンの部族が通常するように、敵は夜明け前に囲い地を占領するための最終的努力をすると予想されていた。しかし彼らの損害は甚大であった。そして午前3:30頃に死者と負傷者を運び去り始めた。それでも射手たちが高所へ後退し、一斉射撃が減少して遠距離からの「狙撃」に移る午前4:15まで射撃は弱まらなかった。

マラカンド・キャンプ防衛の最初の夜は終わった。敵は不意打ち、位置取り、多勢という利点をすべて備えていたが貧弱な守備隊に勝利を収めることはできなかった。あらゆる場所で彼らは完敗して撃退された。しかし、英国側の損失は深刻であった。

                イギリス軍将校
     名誉戦死     L・マンリー中尉、兵站部
     危険な負傷    W・W・テイラー少佐、第45シーク隊
     重傷       J・ラム中佐、第24パンジャブ歩兵隊
              L・ハーバート少佐、副次官補
              H・F・ホランド大尉、第24パンジャブ歩兵隊
              F・W・ワトリング中尉、工兵隊
           ラム中佐とテイラー少佐は負傷により死に至った。
             
                 現地兵
     死亡・・・・ 21
     負傷・・・・ 31

朝の最初の光が谷に伸長し始めるとすぐに第24隊の二個中隊が前進し、敵が略奪のためにまだ残っていたバザールを掃討した。その場所全体が徹底的に略奪され、価値のあるものはすべて破壊されるか運び去られていた。現地人の店主は誰も羨ましがらないような奇妙な経験をしていた。英国軍の弾丸と同様の敵の剣に対する危険と恐怖の夜の間中、彼はテントの後ろに隠れ、取り残されていた。敵意のない声を聞いて、彼は避難場所から無傷で現れた。

部族民による散漫な発砲が終日続いた。

このように緊迫した決死の戦闘が南キャンプで猛威をふるっている間、北キャンプは激しく交戦しておらず、不安ではあるが静かな夜を過ごしていた。コタルでの発砲音が聞こえると第8山岳砲兵中隊の四門の砲がキャンプの南東側に移動し、何発かの照明弾を発射した。しかし、敵の大きな集団は発見されなかった。部族民は夜間に二度キャンプに接近してきたが数発の榴散弾で十分追い払うことができた。

メイクレジョン将軍は北キャンプの駐屯部隊が激しく交戦していないことに気づいた。そこでギブス少佐の下に二門の砲と第31パンジャブ歩兵隊からなる部隊を編成し、第11ベンガル槍騎兵隊の四十人の騎兵の援護を受け、第24隊の側面部隊に支援されつつ、出動して谷を偵察し、できる限りの敵を掃討するべし、という命令を出した。縦隊は追撃しつつベッドフォード・ヒルまで進出した。ここで彼らは部族民の大集団に出くわし、大きな部族的蜂起が起こったことが明らかになった。そこでギブス少佐は引き返して装備と部隊を遅滞なくコタルキャンプに移動させるよう命令した。歩兵隊と砲は撤収し、第24パンジャブ歩兵隊に護られているキャンプまで退却した。

この連隊が撤退中にブッディスト・ロードの上の高地から中隊の左側面に向けて突然の攻撃が行われた。すぐに戦端が開かれ、第24隊は攻撃者と交戦するため前進した。指揮をとるクリモ中尉は一個中隊を右翼に進出させ、この旋回運動によって敵にいくらかの損害を与え、旗を奪って撃退した。この退却時におけるこの将校のスキルと行動は、再びディスパッチにおける称賛の対象となった。中隊は約11時にそれぞれのキャンプに到着した。その間、騎兵隊は可能であればチャクダラに進軍し、その駐屯地の守備隊を補強するよう命じられていた。この任務は非常に危険なものであったが、スワット川を何度か渡ることで戦隊は何とか部族民の間を通り抜け、わずかな損失で砦に到着した。この華麗な騎行については後の章でそのすべてを記述する。

北キャンプの避難は非常にゆっくりと進んだ。それぞれの中隊は非常に慎重に装備を梱包し、輸送の申請を行なった。しかし利用できる手段はなかった。すべてのラクダは山の向こう、インド側のダルガイにいた。急げ、との命令が繰り返しコタルから出された。温情主義の支配者の鷹揚さを信じることができなかったため、全ての者は所有物を置き去りにすることを嫌がった。午後を過ぎると、敵の様相は非常に切迫して手に負えないものとなった。大勢の男たちがキャンプに近づいてくるため野砲は数多くの砲弾を発射せざるを得なかった。結局4時の時点で北キャンプをすぐに放棄すること、そこにいる部隊はコタルに退却すること、まだ移動していないすべての荷物と備品はそのままにしておくこと、という緊急命令が発せられた。

すべてのテントは攻撃されたが、何もできることはなかった。そして、すべての将校と兵士の深い嫌悪とともにその財産は敵の慈悲に委ねられた。夜の間にそれはすべて略奪され、燃やされた。こうして将校の多くが所有する衣類を根こそぎ失った。破壊の現場から立ち昇る炎は広く遠くから見ることができ、最も遠い谷の部族民ですら呪われた異教徒の虐殺の完了を急ぐよう鼓舞された。

しかし、中隊の集合が分別ある賢明な一歩であったことは疑う余地がない。コタルと南キャンプの守備隊は数が足りておらず、何があったとしてもそれぞれの中隊が一緒に立ち上がったり倒れたりする方が良い。ウトマン・ケル地域からの多数の部族民が現れ、キャンプの西側の丘に密集したことによって状況はまたさらに悪化し、守備隊は大幅に延長した防衛線を維持することを強いられた。敵に部隊の撤退を強いられていたため北キャンプの放棄は早すぎるということはなかった。彼らは第パンジャブ歩兵隊とガイド騎兵隊の銃火に守られて南キャンプに到着した。彼らの後衛は一晩中行進した後、その朝の8:30にキャンプに到着した。彼らにはやるべきことが沢山あった。

電報はその夜にあったニュースを世界中のすべての地域に伝えた。イギリスではグッドウッド(*イングランド南部ウェスト・サセックス州チチェスターにある競馬場)の競馬レースから戻ってきた人たちが夕刊紙の貼り紙で戦闘の最初の詳細を読んだ。シムラのインド政府は目を醒ますとともにもう一つの重大な仕事に直面したことに気づいた。すべての将校に自分の連隊に帰らせ、道路と鉄道によって現場へ増援部隊を向かわせる電報が打たれた。27日の深夜、機械が打ち出したニュースに肝をつぶして大慌ての電信技官がノウシェラの第11ベンガル槍騎兵隊の将校たちを起こした。興奮した目のシャツ一枚のこの男は、弾を込めていないリボルバーの銃口を掴み、走り回って全員を目覚めさせた。国中が沸き立っている。マラカンド守備隊は数千人の部族民に圧倒されている。すべての中隊はすぐに行軍するべきである。彼は受け取ったワイヤーのコピーを振り回した。しばらくして公式の命令が届いた。第11ベンガル槍騎兵隊、第38ドグラ隊、および第35シーク隊は夜明けに出発した。第1および第7英国山岳砲兵中隊も命令を受けた。ガイド騎兵隊はすでに到着していた。ロックハート中尉の2個歩兵隊は灼熱と息苦しい粉塵にもかかわらず十七時間半で三十二マイルを踏破して、27日の午後7:30にコタルに到着した。この素晴らしい偉業は兵士の能力を損なうことなく達成された。兵士は哨兵線に送られ、到着とともに任務に着いた。ダルガイ駐屯地を指揮する将校は私にこう言った、世界で最も暑い太陽の下の二十六マイルの行軍でさえもガイド隊を打ち負かせないことを示すが如く、彼らはそこを通過するときパレードのような精度で武器を揃えて担いでいた。それから彼らは一歩ごとに大きくなる銃火の音に励まされながら峠の頂きへの長い上り坂を登って行った。

こうしてたくさんの援軍ができうる限りの速度で近づいていた。しかしその間にも守備隊は孤立し、ありうる限り最悪の危険に直面しなければならなかった。北キャンプを最後に発った第31パンジャブ歩兵隊がコタルに到着すると、約1000人の部族民が白昼に最大の大胆さで急襲して左側面を脅した。彼らは第24隊の二つの哨兵線に攻撃をかけ、ぐいぐいと前進して来た。それに対抗するためクリモ中尉は二個中隊を率いて砲に支援されながら丘を登った。銃剣突撃は完全な成功を収めた。将校たちは十分な近距離からリボルバーを効果的に使用することができた。九人の敵が地表に残され、旗が奪取された。そして部族民は引き揚げ、守備隊は夕闇とともにやってくると予測される攻撃に備えた。

夕方近くなるにつれてかつてないほどの数の敵が集まってくるのが観察された。その大群衆がチャクダラ・ロード沿いに押し寄せ、丘の白い斑点が濃くなるのが見られた。彼らはみなまだ白を着ていた。このニュースはブナーには届いておらず、アンベイラの黒ずんだ装いの戦士たちはまだいなかった。北キャンプからの炎のまぶしさは、たちまち彼らを古来の敵への攻撃に駆り立てた。日が暮れたときの光景は奇妙で不吉ではあったが非絵画的ではなかった。周囲の丘にはあらゆる色、形の趣向を凝らした派手な旗印が翻っていた。日没は、尾根と小尾根の後ろに剣のひらめきを捉えた。攻撃の準備のため忙しく動く大勢の敵の姿が見られた。狙撃手が降らせる弾の雨が相応に伴った。中央のカップの底には、「クレーター」キャンプとメインの囲いがあり、夕餉の煙が立ち上っていた。部隊が彼らの持ち場へ移動し影が長くなるにつれて、発砲は大きく絶え間ない咆哮へと膨れ上がった。

27日の夜の中隊の配置は次のとおりであった。

一.右側面のマクレー大佐は、第45シーク隊とガイド歩兵隊100人に支援された二門の砲でブッディスト・ロードにまたがってほぼ同じ位置を保持していた。

二.中央では以下によって囲いとグレーデッド・ロードが防御された。
     第31パンジャブ歩兵隊
     第5中隊Q.O.(*女王陛下の)工兵隊
     ガイド隊
     二門の砲

三.左側面ではクリモ中尉の指揮下に、残った二門の砲を擁する第24パンジャブ歩兵隊が放棄された北キャンプと砦の間の通路を保持した。

リムの大部分を占めるこの延長線のほとんどは哨兵線の連鎖で占められていたが、それは互いに切り離されており、後方支援を受けつつ石造りの胸壁で防備を固めていた。しかし、中央では「工兵の囲い」の古いラインで戦線が膠着していた。バザールは敵の手に渡っていたが、メイン塹壕の約百ヤード前にあるセライはサバダー(*インド大尉)・サイード・アーメド・シャー指揮下の第31パンジャブ歩兵隊の二十四人からなる小哨によって保持されていた。ここでその夜、悲劇が起こった。

八時、部族民がすべてのライン沿いに途方もない力で攻撃をかけてきた。発砲はすぐに激しく連続的になった。中隊による弾薬の消費は非常に多く、何千発もの弾丸が射出された。右側面ではマクレー大佐指揮下のシーク隊に対して剣士が繰り返し突撃し、その多くは哨兵線への突入に成功したものの、銃剣の餌食になった。二門の砲にたどり着いた者は砲兵を攻撃しようとしたが切り伏せられた。すべての突撃は撃退された。部族民はひどい損失を被った。シーク隊の死傷者も深刻だった。午前中マクレー大佐は彼の防御から前進し、二門の砲火に守られて目前の敵を掃討した。

中央は再び激しい戦闘になった。部族民はバザールになだれ込み、セライを全方向から攻撃した。ここは約五十ヤード四方の泥壁の囲いだった。小銃射撃の銃眼があったが、側面の防御機能はなかった。敵はその場所を占領するため数時間かけて奮闘する決意をした。一方、メインの囲いの中隊の火災は非常に大きかったため、セライに対する攻撃にはほとんど気付かなかった。その哨兵線は六時間にわたってすべての攻撃に耐えたが、側面の防御機能がなかったため敵が壁に近づくことが可能であった。そこで彼らは壁に抜け穴を開け、下へ潜り込んで来るようになった。小さな守備隊はあちこちに駆けつけ、これらの攻撃を撃退した。しかし、それはふるいの水漏れを防ぐようなものだった。ついに部族民は数カ所からなだれ込み、中の小屋に火を放った。防御側が死亡または負傷して残りが四人になったとき、自らも被弾したサバダーは避難を命じた。生存者は負傷者を背負って背壁から梯子で逃げた。殺された者の遺体は翌朝異常に損壊された姿で発見された。

苦い結末に至るまでこの持ち場を守ったことは、見事な武勲と見なさなければならない。サバダー・サイード・アーメド・シャーは際立った勇敢な行為によって昇進した最初の将校となった。そしてこのときの彼の勇敢な行為は、ディスパッチにおける特別な一節の主題となっている。[サバダーと生き残ったセポイはこれにより「功労勲章」を受け取った。]

左側面では第24パンジャブ歩兵隊も激しく交戦しており、コステロ中尉は弾丸が背中と腕を貫通するという最初の重傷を負った。朝にかけて敵の圧力が強くなってきた。そこで常に大胆で力強い行動をする傾向のあるクリモ中尉は二個中隊を率いて彼らに対抗するために胸壁から前進した。部族民は後退せず、マティーニ・ヘンリー・ライフルによって絶え間ない発砲を続けた。彼らはまた中隊の上に大きな石を転げ落とした。第24隊は前進を続け、点から点、陣地から陣地へと敵を追いやって二マイルを行った。約1000人の部族民に保持されていた「ギャロウズ・ツリー(*首くくりの木)」の丘で最初の逆襲の突撃が行われた。そのような混雑した状態において隊の銃火は致命的であった。敵はクリモ中尉の逆襲の進路に四十人の死者を残し、多くの負傷者を運び去ったことが観察された。彼らは退却すると多くがジャラルコットの村に逃げ込んだ。砲が急行し、十発の破裂弾を彼らの真ん中に投下して叩きのめした。この大胆な一撃の結果、戦いの休憩中の敵は日が差して軍の攻撃が可能になる前に常に丘から撤退するようになった。

こうしてマラカンド守備隊は部族民の猛攻撃を撃退することに再び成功した。多くの敵が殺され負傷していたが、周囲百マイルのすべての部族民が攻撃に急行しており、その数はただちに増加した。27日の夜の死傷者は以下の通り:―

                イギリス軍将校
      負傷  E.W.コステロ中尉

                 現地兵
      死亡・・・・ 12
      負傷・・・・ 29

日中、敵は疲れを取るためにカルの平原へと後退した。今や多数のブナヴァル族が集会に参加していた。守備隊はこの新来者が黒または紺色の服を着ていたため、スワット族、ウトマン・ケル族、マムンド族、サラルザイ族などと区別することができた。それぞれの隊は防御の強化とシェルターの改善に従事した。部族民は擾乱攻撃や忌々しい長距離射撃を続け、ガイド騎兵隊の馬を数頭殺した。夕方にかけて彼らは何百もの旗幟を運び、新たな攻撃のために前進してきた。

暗くなると正面全体に対する激しい射撃が再開された。敵は明らかに十分な弾薬を持っていて、隊の猛射に効果的に応酬した。連隊の配置は前夜と同じであった。右側面では、マクレー大佐が再びすべての攻撃に対して持ち場を保持した。中央では、激しい戦闘が続いた。敵は囲いの胸壁まで何度も何度も突進してきた。彼らは侵入に成功しなかった。しかし、三人の将校と数人の兵士が火災で負傷した。一時的に第31パンジャブ歩兵隊に所属していたガイド騎兵隊のマクリーン中尉は素晴らしい危機回避を遂げた。弾丸が口から入ったが、骨を傷つけることなく頬を通過したのである。彼は勤務を続け、本書は数週間後のランダカイにおけるその悲劇的であるが栄光ある戦死を記録することになる。

フォード中尉は肩に危険な傷を負った。弾丸が動脈を切断しJ.H.ヒューゴ軍医将官が助けに来たが、失血により死に瀕していた。火は照明として使用するには熱すぎた。そこにはいかなる種類の遮蔽物もなかった。そこはカップの底だった。それにもかかわらず外科医は生命の危険を冒してマッチを擦り、傷を調べた。マッチは弾丸がバチバチ鳴ってそこら中にホコリを巻き上げているただ中に取り出されたが、その不確かな光によって彼は怪我の状態を見た。将校はすでに失血によって気を失っていた。医師は動脈をつかみ、結紮糸がないため銃火の中で三時間もの間、指先に人の命を握っていた。やがて敵がキャンプに侵入したように思われたとき、彼はまだ意識のない将校を腕に抱えて圧迫を緩めることなく、安全な場所に移した。その腕は動脈の圧迫に尽力した影響で何時間も麻痺し痙攣していた。

どのような視点や関心を持っていたとしても、この輝かしい献身的行為を称賛しない人はいないと私は思う。内科と外科という職業は常に人が選び取ることができる最も高貴なものとして位置づけられるべきである。医師が兵士たちの間で等しい危険と等しい勇気と共に行動し、他のすべての人々が命を奪い合っている場でそれを守り、他のすべての人々が痛みを起こそうとしている場でそれを和らげる光景は、神の目にも人の目にも常に輝かしいものと見えるはずである。人がこの世を去って、正体不明の冒険に乗り出した方が良いようなどんな状況をも想像することはできない。

敵は一晩中攻撃を続けた。彼らはしばしば胸壁に達することに成功し―ただ防御者の銃剣で死ぬだけであった。砲は散弾を発射し、恐るべき効果を上げた。朝が明けたときその場所は帝国軍によってまだ保持されていた。夜間の犠牲者は以下のとおり:―

                イギリス軍将校
     重傷―      H.B.フォード中尉  第31パンジャブ歩兵隊
              H.L.S.マクリーン中尉  ガイド隊
     軽傷―      G.スウィンリー中尉  第31パンジャブ歩兵隊

                現地兵
     死亡・・・・  2
     負傷・・・・ 13

29日の朝、チャクダラとの信号通信がしばらくの間再び確立された。その駐屯地の守備隊は自らの安全を告げ、大きな損失とともにすべての攻撃を撃退したが、弾薬と食糧の両方が不足していると報告してきた。日中敵は再び平野に後退して休息し、その夜に企てている大攻勢の準備をした。幸先は良かっただろう。その日はモハメッドが信仰のために死んだ人々の利益に特別な注意を払うジュマラットであった。その上、満月であった。偉大なファキールはこれが勝利の時であると宣言しなかったであろうか?ムラーは総員に最大限の努力を促し、攻撃を自ら率いると宣言した。今夜異教徒を完全に滅ぼすのだ。

その間、それぞれの中隊は恐るべき疲労にもかかわらず、防御を強化するために忙しく働いていた。バザーとセライは平坦にされた。木々が爆破され、中央の囲いの前に開けた射撃フィールドが得られた。敵が光に対してシルエットになり、兵士が襲撃者に良く狙いをつけることができるよう接近経路に大きな焚火が用意された。そういった仕事でその日は過ぎた。

部族民は遠距離からの射撃を続け、数頭の馬とラバを撃った。この狙撃手たちは大いに楽しんだ。チャクダラの救援後、その多くが岩の間に最も快適で効果的なシェルターを作っていたことがわかった。特に一人の男は巨大な岩の後ろに納まり、射撃時に身を守るために銃眼のある小さな石の壁を建てていた。張り出した岩は彼を太陽の熱から守った。その側には食糧と弾薬筒の大きな箱があった。ここで彼は一週間の間、キャンプに着実に弾丸を撃ち込み、将校がすべての「興味の対象」と表現したものを狙撃した。これほど魅力的なものが他にあるだろうか?

午後四時に、第11ベンガル槍騎兵隊を指揮するスチュアート・ビートセン少佐が、その主要な戦隊と共に到着した。彼は少量の弾薬を持ち込んだ。毎晩の消費は莫大であり、一部の連隊は30,000発の砲弾を発射したので守備隊はそれを非常に必要としていた。リード大佐の指揮下の第35シーク隊と第38ドグラ隊は夕方、峠のふもとにあるダルガイに到着した。彼らは最も強烈な暑さの中で一日中行進していた。行進がどれほどひどいものであったということかは第35シーク隊の二十一人の兵士が熱中症により実際に路上で死亡したという事実から判断されるであろう。これらの兵士が死ぬまで行進したという事実は、すべての兵士が最前線に立とうとする軍人らしい熱意を示したことの傍証である。メイクレジョン准将はその軍勢とともに持ち場を守ることができる確信があったので彼らにダルガイで停止し、翌日は休むように命令した。

夜とともに攻撃が始まったが、中心部の防御は大幅に改善されており、部族民は囲いの前に広がった見通しの良い斜堤を全く通過できなかった。しかし、彼らは両方の側面を決意をもって攻撃し、あらゆる場所で発砲が激しくなった。午前2時に大規模な攻撃が行われた。正面全体に、そしてあらゆる側面に膨大な数の敵が攻撃に群がった。左右では、白兵戦が行われた。マクレー大佐は再び彼の持ち場を維持したが、部族民の多くはライフルの銃口の下で死んだ。左の第24パンジャブ歩兵隊が最も激しく交戦していた。敵は胸壁に侵入することに成功し、接近戦が起こった。コステロ中尉が再び重傷を負った。しかし、隊の銃火はあまりに激しく、その前では何者も生存することはできなかった。2:30にマッド・ムラーが負傷し、別のムラーが殺され、数百人の部族民が殺され、すべての攻撃が崩壊した。そして勢いの良い攻撃はその後二度となかった。敵は、マラカンドを取るチャンスを逃したことを認識した。

29日夜の犠牲者は以下の通り:―

                イギリス軍将校
     重傷―   E.W.コステロ中尉、第24パンジャブ歩兵隊、
      すでに重傷を負っていたが、義務を果たすために任務を継続していた
           F.A.ウィンター中尉、王立砲兵隊

                現地兵
     死亡・・・・  1
     負傷・・・・ 17

翌日、敵が彼らの村まで丘を越えて、死者を引きずり、負傷者を運んで行くのが見られた。増援が加わり、午後9:30に彼らは攻撃を再開したが、気迫に欠けていた。彼らは再び損害を被って撃退された。一度雷雨がキャンプを襲っている間に彼らは第45シーク隊の持ち場に突撃したが、銃剣で追い払われた。夜間の負傷者は二人だけだった。

朝、第38ドグラ隊と第35シーク隊がキャンプに入った。敵は遠距離から塹壕に発砲し続けたが、効果はなかった。明らかに彼らはマラカンドは強力すぎて奪取できないことに気づいていた。隊は静かな夜を過ごし、疲れ果てて精も根も尽き果てた兵士らは不足していた睡眠を少しばかり取った。このようにマラカンドのイギリス辺境基地への長く持続的な攻撃は衰え、終息した。この場所での完敗にうんざりした部族民は、彼らが必ず奪取できると信じたチャクダラにエネルギーを集中した。この難局に陥った駐屯地を救援することが現在のマラカンドの守備隊の義務になった。

そろそろ終了するこの章は、詳細にそして必然的に長々と私たちの帝国の前哨基地の防衛について記述した。奇襲とそれに続く持続的な攻撃に対する抵抗がなされた。敵はあらゆる地点において撃退され、その試みを放棄したが、防御側を取り囲み注意深く監視している。軍は攻勢を取り、報復の時間が始まろうとしている。

7月26日から8月1日までのマラカンド守備隊の死傷者は以下のとおり:―

          イギリス軍将校 死亡と負傷による死亡― 3
      J.ラム中佐、第24パンジャブ歩兵隊
      W.W.テイラー少佐、第45シーク隊
      L.マンリー中尉、兵站部
                   負傷― 10
      L.ハーバート少佐、副次官補
      G.ボールドウィン大尉 D.S.O.(*殊功勲章)ガイド騎兵隊
      H.F.ホランド大尉、第24パンジャブ歩兵隊
      F.A.ウィンター中尉、王立砲兵隊
      F.W.ワトリング中尉、王立工兵隊
      E.W.コステロ中尉、第24パンジャブ歩兵隊
      H.B.フォード中尉、第31パンジャブ歩兵隊
      H.L.S.マクリーン中尉、ガイド騎兵隊
      G .G.スウィンリー少尉、第31パンジャブ歩兵隊
      C.V.キーズ少尉、ガイド騎兵隊

               現地将校 負傷― 7

          死亡、負傷した将校の総数― 20

               イギリス軍下士官 死亡
      F.バーン軍曹、王立工兵隊

                現地下士官および兵
                  死亡   負傷
  第8ベンガル山岳砲兵中隊     0    5
  第11ベンガル槍騎兵隊      0    3
  第5中隊女王陛下の工兵隊     3   18
  第24パンジャブ歩兵隊      3   14
  第31パンジャブ歩兵隊     12   32
  第38ドグラ隊          0    1
  第45シーク隊          4   28
  女王陛下のガイド歩兵隊      3   27

  下士官と兵の死亡と負傷総数―      153


第五章:チャクダラの救援

 

図3.  8月1日の騎兵隊の戦闘のラフ・スケッチ

 

前章で記述した出来事が世界のすべての地域で関心と注意を払って見られている間、それは総督評議会において気がかりな協議の対象となっていた。必然的にアフガニスタン国境の部族とのより切迫したより複雑な関係をもたらすことになる、大規模な軍事作戦の可能性を総督自身が嫌悪することは当然であった。彼は母国において平穏と節約の政策に情熱的に、いたずらに、そしてしばしば無分別に固執した政党に属していた。すべての経済状況が軍事的行動に乗り出すことに対する彼の嫌悪の後ろ盾となっていた。これほどふさわしくない瞬間は他になかった:これほど気が進まない人物は他にいなかった。エルギン卿(*1849年生、自由党)の総督府と飢饉の年(*1896~97年)は、最大の辺境戦争の年として大英帝国領インドの歴史に刻まれることになったのであるが、いかに彼の動機が熱烈であったとしても、いかにその権限が強大であったとしても、いかに一個人が実際に国家的事件の進路をコントロールすることができないかということをありありと示している。

評議会はこのたちまち辺境政策に最も広範かつ複雑な問題を引き起こし/多大な費用を伴い/彼らが管理する大きな人口の発展と進歩に大きな影響を与える可能性がある事態について決定を下すことを求められた。そのような問題は細部をその重要度によって適切に整理し/過去を吟味し、未来を予測するために/最も高遠な、見通しの利く観点から検討することが望ましいであろう。それでも状況全体をこのように見ようとした人々は何千人もの獰猛な襲撃者に囲まれ、小銃射撃の白煙に巻かれ、弾痕のついたチャクダラの岩の様子にすぐに直面させられた。守備隊は見捨てられないことを固く信じて命がけで戦っていた。これ以上傍観することは不可能であった。すべての政府、すべての為政者は同じ困難に直面する。原則、政策、経過、経済に関する幅広い検討事項は性急な緊急事態の際には脇に追いやられてしまう。決断は即座に為されなければならない。政治家は出来事に対処する必要がある。単にそれらを記録するだけの歴史家は、成功した日和見主義の例を持ち出して自らの方策を組み立て、暇を潰すかも知れない。

7月30日に次の命令が公式に発表された。「評議会の総督は、マラカンドと近接する駐屯地を守り、必要に応じて近隣の部族に対して軍事行動をとる目的で軍を派遣してマラカンド野戦軍と称することを裁可する。」

部隊は次のように構成された:―

                        第1旅団
   指揮―W.H.メイクレジョン大佐 C.B.(*バス勲章コンパニオン) C.M.G.(*聖マイケル・聖ジョージ勲章) 地位は現地准将
          第1大隊王立西ケント連隊
          第24パンジャブ歩兵隊
          第31パンジャブ歩兵隊
          第45(ラトレイ)シーク隊
          第1英国野戦病院のセクションAおよびB
          第38現地野戦病院
          第50現地野戦病院のセクションAおよびB

                  第2旅団
   指揮―准将P.D.ジェフリーズ C.B.
          第1大隊 東ケント連隊(バフ隊)
          第35シーク隊
          第38ドグラ隊
          ガイド歩兵隊
          第1英国野戦病院のセクションCおよびD
          第37現地野戦病院
          第50現地野戦病院のセクションCおよびD

                  師団
          4個戦隊、第11ベンガル槍騎兵隊
          1戦隊、第11ベンガル槍騎兵隊
          2個戦隊、ガイド騎兵隊
          第22パンジャブ歩兵隊
          2個中隊、第21パンジャブ歩兵隊
          第10野戦中隊
          砲6門、第1英国山岳砲兵中隊
          砲6門、第7英国山岳砲兵中隊
          砲6門、第8ベンガル山岳砲兵中隊
          第5中隊マドラス工兵隊
          第3中隊ボンベイ工兵隊
          第13英国野戦病院のセクションB
          第35現地野戦病院のセクションAおよびB

                  連絡線
          第34現地野戦病院
          第1現地野戦病院のセクションB
[この師団は全体で6800の銃剣、700の槍やサーベル、24の砲を利用できる野戦兵力となった。]

この強力な部隊の指揮権は現地少将の地位を付与されたビンドン・ブラッド准将 K.C.B.に委ねられた。

この将校は私が語るべき物語の主人公なので、彼を読者に紹介するための余談が必要である。ビンドン・ブラッド卿は今や彼がその一族の長であるアイルランド西部に300年間続くアイルランド人の古い家系に生まれ、私立校とアディスコムのインド軍事大学で教育を受け、1860年12月王立工兵隊の将校に任官した。最初の一一年間彼はイギリスに駐留していたが1871年に初めてインドに赴任し、そこでジャワキ・アフリディ遠征において最初の従軍を経験した。(クラスプ(*功績の内容が刻まれた留め金)付きメダル)1878年に彼は帰国したが、翌年はズールー戦争従軍を命じられた。数々の戦闘の結果、二度目のメダルとクラスプを獲得することになった。そして再びインドに向けて出航し、1880年のアフガニスタン戦争を通して服務し、しばらくカブールの部隊に所属していた。1882年には陸軍とともにエジプトに同行し、テル・エル・ケビールで最も激しく交戦したハイランド旅団と一緒だった。メダルとクラスプ、ケディブの星、メジディー3等勲章を受け取った。(*二つはオスマン帝国の勲章)戦役の後、彼は二年間帰国し、1885年にロシアとの戦争の気配があった東方へと海を渡った。それ以来、将軍はインドで最初は自らが再編成に密接に関わった工兵隊で服務し、後にアグラ地区の指揮を執った。1895年、チトラル遠征においてロバート・ロウ卿の幕僚長に任命され、マラカンド峠の強襲を含むすべての行動に参画した。この功績によりバス軍事勲章のナイト爵位とチトラル・メダルとクラスプを受け取った。そして彼は今、辺境の最高指揮官にふさわしい人物として初めて注目されたのであった。1897年の大蜂起勃発のこの時に。

三十七年にわたる軍務、多くの土地での戦争、あらゆる種類のスポーツによってその筋肉と神経は鋼のように鍛えられていた。ビンドン・ブラッド卿自身は時の流れによって(*年齢によって)警告を受けるまで見事なポロ選手であり、その素晴らしいゲームが兵士に与える利点を認識している陸軍の高級将校の一人であった。彼は様々なジャングルであらゆる種類の野生動物を追い求め、槍で多くのイノシシを仕留め、三十頭のトラを含むあらゆる種類のインドの獲物を自分のライフルで撃った。

騎兵中尉である私にとって、この戦地で服務する名誉を与えてくれた司令官に対して、称賛こそすれ、批判を申し立てることは適切ではないであろう。私は、将軍は帝国の責任と危険が生み出した、元老院とローマの人々が世界のすべての地域に執政官を送った日以来、おそらくイギリス以外のどの国も所有していないタイプの兵士、行政官の一人である、と言うことに甘んじようと思う。

ビンドン・ブラッド卿は7月28日夕方にアグラに居た。マラカンド野戦軍の司令官に任命するのですぐに赴任して着任するように、という指示の電報がインドの軍務局長からあった。彼は直ちに出発し、31日に正式にノウシェラで指揮を執った。部隊の前進の手筈を整えるため、マルダンで停止した。ここで彼は8月1日午前3時に陸軍本部からの電報を受け取った。チャクダラ要塞が強く圧迫されているという通知と、マラカンドへ急行し、いかなる代償を払ってでもその救助を試みるように、という指示であった。大勢の敵、また弾薬と物資の不足に守備隊は苦しみ、任務は難しく緊急性が高くなっていた。実際に私が聞いたところでは、8月1日のシムラではチャクダラは命運が尽きており、救援の血路を開くのに十分な軍隊が集まるまで保たないのではないかと懸念されていた。最も大きな不安が拡がっていた。ビンドン・ブラッド卿は電報に「立場は分かっている」とし、「穏やかに自信を持っている。」と答えた。彼は直ちに急ぎ、地域の混乱のただ中に8月1日正午頃マラカンドに到着した。

チャクダラの守備隊の絶望的な立場はマラカンドの友軍によって完全に認識されていた。31日の夜は比較的静かだったので、メイクレジョン准将は翌日彼らの救援を強行しようと決心した。それゆえ以下のように部隊を編成した:―

     第45シーク隊
     第24パンジャブ歩兵隊
     第5中隊 工兵隊
     第8山岳砲兵中隊の4門の砲

准将は午前11時にアダムズ中佐指揮下にガイド隊の騎兵隊を送り出した。アマンダラ峠へ疾駆し、もしそれが占拠されていないのであれば奪取するためである。三個戦隊が北キャンプに向かう短い道から出発した。それを見るやいなや大勢の敵が前進を阻止しようと集まって来た。地面の状態は騎兵隊にとって最も不都合であった。表面には大きな岩が散らばっていた。頻繁にヌラーが平野を横切り、騎手の行動を束縛した。戦隊はすぐに激しい交戦状態に入った。ガイド隊は何度か突撃した。凸凹の地面は敵に有利であった。しかしその多くが貫かれ、切り倒された。この突撃の際にキーズ中尉が負傷した。彼が一人の部族民を攻撃している間に、後ろから現われた別の部族民が肩に剣で重い打撃を加えたのである。これらスワット族の剣は剃刀のように鋭利であり、また打撃は将校の腕を数日間役に立たなくするほどに痛烈なものであったが、むちで打たれた跡のようなわずかなミミズばれを引き起こしただけで済んだ。それは不思議でほとんど説明不可能な危機回避であった。

敵の数が増加して深刻に巻き込まれ始めた騎兵隊に圧力を加えた。部族民は最大の大胆さと決意を示した。結局、アダムズ中佐は退却を命じなければならなかった。それは尚早ではなかった。部族民がすでに左側面で活動しており、それにより唯一の退却路を脅かしていた。騎兵隊は後退し、下馬して銃火でお互いを守った。キャンプ到着の際に第24パンジャブ歩兵隊が側面を保護した。騎兵隊の損失は以下のとおり:―

                イギリス軍将校
   重傷―G.M.ボールドウィン大尉、ガイド隊
   軽傷―C.V.キーズ中尉、ガイド隊

                  現地兵
                       死亡   負傷
     第11ベンガル騎兵隊・・・・     0    3
     馬・・・・              1    4
     ガイド騎兵隊・・・・         1   10
     馬・・・・              3   18
          死傷者の合計―  兵士16と馬26

騎兵隊が遭遇した激しい抵抗、および敵が示した大人数と自信は、その日のうちにチャクダラを救うという考えを事実上終焉させた。部族民は一時的な成功に大いに高揚していた。反比例して絶え間ない緊張によって精神的にも肉体的にも擦り切れ、疲れた守備隊は士気が下がっていた。誰もが翌日のすさまじい戦いを予想していた。あらゆる危険に彼らは挑まなければならない。しかし「決死の行動」や「最後のチャンス」について語る者には不足していなかった。睡眠と休息の不足がすべての兵士に堪えていた。一週間もの間、彼らは獰猛な敵と格闘していた。勝利者ではあったが、息を切らしていた。

ビンドン・ブラッド卿が着任し、指揮を執ったのはこの時だった。彼はメイクレジョン将軍が次の日にチャクダラの救援に動くため、すべての兵科から一軍を組織することに忙殺されているのを見た。マラカンド基地から部隊を引きはがすことは危険であったため、この部隊は千丁のライフル、使用可能な騎兵隊、四門の砲を超えることはできなかった。この配置をビンドン・ブラッド卿は承認した。彼はメイクレジョン准将をマラカンド基地の責任から解放し、救援部隊の指揮権を与えた。そしてその後リード大佐がマラカンドの指揮官に任命され、キャッスル・ロックの哨兵線を可能な限り強化し、その中から軍勢を出してグレーデッド・ロードの右側の高地を掃討する準備を整えるよう指示された。救援隊は以下のように編成された:―

     ライフル400丁、第24パンジャブ歩兵隊
     ライフル400丁、第45シーク隊
     ライフル200丁、ガイド歩兵隊
     2個戦隊、第11ベンガル騎兵隊(R.B.アダムズ中佐指揮下)
     2個戦隊、ガイド騎兵隊
     砲4門、第8山岳砲兵中隊
     工兵50人、第5中隊
     病院分遣隊

ビンドン・ブラッド卿は、メイクレジョン将軍に暗くなる前にキャンプの中心近くの「グレトナ・グリーン(*イングランドとの境界に接するスコットランドの町の名、親に反対された21歳未満のイングランドのカップルはここで結婚した)」と呼ばれる小さな森にこの軍勢を集めるよう命じた。そしてそこで夜のビバークをし、朝の最初の光とともに出発できるように準備するよう命令した。午後、敵は午前中の騎兵隊に対する成功に勇気づけられて大胆に哨兵線まで前進してきた。銃撃は継続的であった。実際、それは夜の十一時から十二時の間に非常に激しくなったため、「グレトナ・グリーン」の部隊は戦闘準備をした。しかし、朝にかけて部族民は退却した。

読者は多分、マラカンドが縁にギザギザの欠け目がある大きなカップであるという説明を覚えているであろう。この縁の多くは、まだ敵によって保持されていた。カップから抜け出そうとする部隊は、両側の高所から見渡されている欠け目を通る狭い道路を切り抜ける必要があった。かなり長い距離に渡って広く展開することは不可能であった。そこに将軍が今行うべき作戦の難しさがあった。マクレー大佐がブッディスト・ロードで部族民の最初の攻撃を阻止したように、救援部隊が停止させられる危険があった。8月1日、騎兵隊は北キャンプへの道を下り、かなりの迂回を行うことでこの困難を回避しようとした。しかし、これによって彼らは悪い路面に入り込んでしまい、退却する羽目になった。もし「グレーデッド」ロードが通行可能であれば、それはチャクダラ救援の道であった。もつれた、険しい土地の性質を見るに、多くの頂上と地点の中でその中の一つが他のものより重要である、ということは素人目には異常に映るかもしれない。しかしそれはその通りなのである。マクレー大佐と第45シーク隊がしっかり守っている陣地の前の高所には突出した支脈があった。これが門を開き、内部に閉じ込められている部隊を解放する鍵であった。後に誰もがこれがどれほど明白なことであったかを理解し、なぜ自分たちが以前それを考えなかったのかと思った。ビンドン・ブラッド卿はそこを最初の攻撃目標として選択した。そしてゴールドニー大佐と約300人の兵士に自分が合図したらすぐにそこへ前進するよう指示した。

8月2日の午前四時半に、彼は「グレトナ・グリーン」に赴き、救援部隊が整列し、夜明けに進軍する準備ができているのを見た。全員が厳しい行動を予測していた。疲労と不眠に悩まされ、多くの兵士が成功を疑っていた。しかし、疲れていても彼らは心を決め、命懸けの闘いに向かって奮起した。最高司令官は彼が言った通り自信を持って穏やかであった。さまざまな指揮官を呼び寄せて計画を説明し、全員と握手した。厳しく決然たるひとときであった。夜明けの最初のかすかな光が東の空にゆっくりと伸びてきた。星の輝きが淡くなった。山の後ろには太陽のきざしがあった。そのとき前進命令が出た。すぐに救援部隊は出発し四段の深い「グレーデッド(*段のある)」ロードを降りていった。同時にゴールドニー大佐は第35シーク隊の250人と第38ドグラ隊の50人とともに、今では彼の名がついている支脈を攻撃するために前進した。彼らは部族民が稜線に建てた石のシェルターに向かって静かに移動し、気付かれることなく百ヤード以内に到達した。敵は驚き、ちぐはぐで効果のない発砲をした。シーク隊は叫びつつ前方に突進した。なんの損失も被ることなく尾根は獲得された。敵は地面に七人の死者と一人の捕虜を残して無秩序に逃げ去った。

そのとき、作戦行動のすべての意味が敵と味方に等しく明らかになった。いま獲得されたこの地点からは、北キャンプへの道との合流点までの「グレーデッド」ロード全体を見渡すことができた。道を降りて行く救援部隊は損失や遅延なしに展開できるようになった。ドアが開いた。敵はこの機動作戦に完全に驚き、唖然として最大の混乱の中、あちらこちらを駆け廻っているのが見られた:ビンドン・ブラッド卿のディスパッチの生々しい言葉を借りるなら「アリ塚をかき乱されたアリのように。」やがて彼らは状況を認識したと見えて高地から降り、メイクレジョン将軍の前方のベッドフォード・ヒル近くの位置に陣取り、近距離から激しい銃火を放った。しかし部隊はすでに展開されており、持ちこたえるための人数を移動させることが可能だった。彼らは発砲で時間を無駄にすることなく、銃剣で前進した。ガイド隊の先進中隊は前方の丘を急襲し、二人が死亡、六人が負傷した。残りの部隊の突撃において損害はさらに少なかった。完全にパニックに襲われた敵は文字通り何千人も高台に沿って右側へ逃げ始めた。後には七十人の死者が残されていた。軍勢は疲労と苦しみの記憶に逆上し、勝利の衝動に触発されて無慈悲な血気で彼らを追撃した。

ビンドン・ブラッド卿はスタッフとともにキャッスル・ロックに登り作戦全体を監督した。この位置からは戦野全体が見えた。あらゆる側面から、そしてあらゆる岩から、総崩れで敗走する敵の白い姿が見えた。道は開かれた。通路はこじ開けられた。チャクダラは助かった。偉大で輝かしい成功が成し遂げられた。ぞくぞくする歓喜が全員を身悶えさせた。その瞬間、自らの作戦が勝利するのを見た将軍は地上の人間が経験する感情の中で最も素晴らしいものを経験したに違いない。その瞬間、ルーチンワークの退屈な年月、階級の低い兵士の長い坂上り、無能な者への常の従属、五回の戦闘の疲労と危険が報われた、と私たちは想像するかもしれない。おそらくそれは状況に反しており、回想を楽しむ時間などなかった。勝利が得られた。それによる利益を獲得しなければならない。敵は平野を横切って退却することを強いられる。ついに騎兵隊にチャンスが来た。四個戦隊は現場へと急いだ。

平原に向かって整列した第11ベンガル槍騎兵隊は、渓谷目がけて容赦なく追撃し始めた。ガイド隊はアマンダラ峠を奪ってチャクダラを解放するために急いだ。すべての田んぼと岩の間で強力な騎兵たちは逃げる敵を倒した。いかなる慈悲も求められず、与えられず、すべての部族民は直ちに捕えられ、槍で突かれるか切り倒された。輝く緑の水田が黒と緑のまだらになっている戦野のあちこちに、その死体は密に撒き散らされていた。それは恐ろしく、スワットとバジャウルの住民が決して忘れることのない教訓であった。それ以来彼らの槍騎兵隊への恐怖は並外れたものになった。百人もの勇猛な未開人を慌てふためかせて丘に追いやったり、何時間も平地に降りてこないようにしたりするには、数人のスワール(*インド騎兵)で十分なことがよくあった。

その間、歩兵隊は迅速に前進していた。第45シーク隊はアマンダラ峠近くの、敵が必死に守る要塞化されたバトヘラ村を襲撃した。村に最初に入ったのはソーヤー大佐の到着により連隊の指揮から解放されたマクレー中佐だった。バトヘラだけで八十人の敵が銃剣の餌食になった。それは恐ろしい報いであった。

私はこの大虐殺のシーンをもう終えたいと切望している。戦いの流血を身動きせずに見つめる観客は実際に自分自身のこととして、自らがすべてのためらいを投げ捨て、その時の衝動に押し流されて、文明がその上に不確かな厚さのベールを投げかけているに過ぎない心の奥底のすべての残忍な本能に溺れる追撃の恐怖から目を逸らしてはならない。

チャクダラの救援における犠牲者は次のとおり:―

     第11ベンガル槍騎兵隊― 死亡と負傷による死亡 3/負傷 3

                       死亡   負傷
     ガイド歩兵隊・・・・        2    7
     第35シーク隊・・・・       2    3
     第45シーク隊・・・・       0    7
     第24パンジャブ歩兵隊・・・・   0    5
     第8ベンガル山岳砲兵中隊・・・・  0    1
                  総死傷者―    33

チャクダラの救援のニュースは、インド全土に深い感謝の気持ちで受け取られた。そしてイングランドでは下院で国務大臣が電報を読み上げたとき、歓声を上げなかったメンバーは少数であった。それらの少数には注意を払う必要もない。


第六章:チャクダラの防衛

 ...猛き塔
  大風に踏みこたえしあの塔。
                        テニスン

この章が取り扱うのは文明の前哨線でたびたび発生し、特に野蛮な部族に取り囲まれた広大な帝国の人々の歴史の中に頻繁に見られるエピソードである。科学の力で武装し、相互信頼の団結によって強化された兵士または入植者の小さな一団は、何千もの好戦的で容赦のない敵によって孤立した駐屯地を攻撃されることがある。通常、守備隊の勇気と装備は、ロルクズ・ドリフト(*南アフリカ)、チトラル砦、チャクラダ、またはグリスタン(*ティラ近辺)のように、救援部隊が到着するまで持ちこたえることができる。しかし時には防御側が圧倒され、サラガリ(*前述グリスタン)やハルツーム(*1885年のゴードン)のように後に物語る者が一人もいなくなることもある。―政治的または愛国的な理由ではなく、義務や栄光のためではなく―その貴い命そのもののために戦う人/彼らがそうしたいからではなく、彼らがそうしなければならないから戦う人々の光景には何か不思議に凄まじいものがある。常に土手を溢れさせ、彼ら全員を溺れさせる脅威たる野蛮主義の増水中の大洪水に対して、彼らは社会的進歩の堤防を守っているのである。そうした状況は臆病者を勇者にし、勇敢な人物には最も気高い英雄的行為と献身の機会を与える。

チャクダラ砦が守っているのは流れが速く、幅が広く、一年のほとんどの季節において手に負えない急流であるスワット川の通路である。それは山から約百ヤード離れた平野に突然立ち上がる岩石の円丘の上に建てられている。スケッチと写真は通常その上の小丘と建物のみを示し、それを見ると誰もが小さな砦の、絵に描いたような難攻不落の様相に感銘を受ける。ただしそのバランスが頭でっかちであり、その防御はその上に位置する威圧的な崖から見渡せることに気づかない場合の話である。その構築において遮蔽の原則は完全に無視されていた。信号塔の建っている山の尾根の上に立つことによって砦を見下ろし、発砲することができた。すべての開放空間を見渡すことができた。すべての胸壁が露出していた。ただし大砲を装備していない敵に対しては、無期限に保持できた/しかしすべての内部交通が銃火に晒されているという事実は駐屯部隊の防御を苦しいものとし、徐々にその数が削られることによって要塞が奪取されてしまう可能性があった。

スワット川にかかる細く、揺れ動くワイヤーブリッジの長さは約500ヤードである。南端は小銃射撃の銃眼のある巨大な鉄の扉で閉じられている。側面には二基の石の塔があり、その一基にマキシム機関銃が取り付けられている。川の向こうには要塞化された円丘、強力な石の角堡(*防護壁の外に角状に突出した稜堡)、馬のための囲いからなる要塞本体があり、銃眼のある壁と多くのからまった有刺鉄線で守られている。そして200ヤード離れた崖の上に信号塔がある。

ここの駐屯地は蜂起の発生時には第11ベンガル槍騎兵隊の二十人のスワールと第45シーク隊の強力な二個中隊の約200人からなり、H.B.ラトレイ中尉の指揮下にあった。[実際の戦力は次のとおり。第11ベンガル槍騎兵隊、サーベル20本。第45シーク隊、ライフル180丁。英国電信士2人/病院ハビルダー1人/憲兵ナイック(*インド伍長)(第24パンジャブ歩兵隊)1人/ジェマダール1人(ディリ徴集兵隊)。英国軍将校―第45シーク隊、ラトレイ中尉、ホイートリー中尉/V.ヒューゴ外科大尉/政治エージェント、ミンチン中尉。]蜂起が差し迫っているという噂がますます高くなっていた。7月も末に近づくとラトレイ中尉は部下に警報とともに持ち場に就く訓練をさせ、また彼が万一のために必要と考える準備をした。23日、彼はD.A.A.G.から公式の警告を受け取った。[代理―補助―将軍副官。確かに、この代理―補助―補給係将校という驚くべき肩書は、より賢明で適切な用語「旅団副官」と「旅団補給係将校」に変更した方が有益であろう!]ハーバート少佐は部族民の蜂起を「ありうるが可能性は低い」と評していた。その後、砦ではすべての予防措置が行われた。26日、外でスケッチをしていたセポイが大集団の部族民が谷へ向かって進んでおり、彼自身がコンパス、双眼鏡といくらかの金を奪われたというニュースとともに駆け込んできた。

しかし混乱して切迫した状況において、マラカンド守備隊のイギリス人将校たちは駐屯地の防衛のためにすべての軍事的予防措置を講じはしたが、リボルバーだけの武装で谷を自由に騎行する習慣を放棄しなかった。また、彼らは娯楽をやめなかった。26日の夕方、ラトレイ中尉はいつものようにポロをするためにカルへ行った。ちょうど試合が終了したとき、二人のスワールが急いでやって来て彼に手紙を渡した。チャクダラのもう一人の将校であるホイートリー中尉からのもので、大人数のパシャン人が旗を立てて砦に向かって来ているという警告であった。すぐに彼は全速力で帰途につき部族民の大きな集団の近くを通り過ぎた。しかし彼らはどういうわけか彼を気に留めなかった。そして安全に砦に到達した。ちょうどギリギリに間に合ったのである。恐るべき男たちの大集団が砦に迫っていた。彼はマラカンドの幕僚将校に電報を送って攻撃が差し迫っていることを報告した。その直後、敵によってワイヤーが切断され、小さな守備隊は戦闘準備に入った。

ディリのカーンの徴集兵隊のハビルダーはいかなる事実上の攻撃の際にも向かい側の丘に火を灯して警告することを政治局と約束していた。10:15に一つの炎が立ち上がった。それは信号であった。警報が鳴った。守備隊はその持ち場に行った。しばらくの間沈黙があり、そして暗闇から一斉射撃が始まり、8月2日まで止まらなかった。すぐに砦の西面への攻撃のために前進してくる部族民の姿が見えるようになった。防御側は効果的に発砲した。敵は勢いよく前進してきた。その損失は深刻であった。やがて彼らは撃退されて退却した。

二回目の攻撃はすぐに北東の角に対して行われ、再び守備隊に打ち負かされた。午前4時に騎兵隊の囲いに三回目の攻撃が行われた。部族民はハシゴを担ぎ、大きな決意とともに前進してきた。致命的な銃火が彼らを迎えた。その後、彼らは撤退し、包囲戦の最初の夜は散漫な射撃によって終了した。守備隊は一晩中自らの持ち場に留まった。夜が明けると敵が北西の丘に撤退しているのが見られ、彼らはそこから絶え間ない銃撃を続けた。防御側の兵士は石の壁で守られていたが、銃弾が絶え間なく中に入って来た。しかし多くの兵士は不思議なほど被弾しなかった。

一方、マラカンドでは激しい攻撃を受けていたにもかかわらず、チャクダラの小さな隊に救援隊を送ることが決定されていた。ライト大尉と第11ベンガル槍騎兵隊の四十人のスワール、そしてマラカンドの輸送将校である第2ボンベイ擲弾兵隊のベイカー大尉は27日の夜明けに北キャンプを経由する道を出発した。まだそう遠くへ行く前に丘の上から敵が銃火を浴びせてきた。彼らは敢えて平野に踏み出すことをせず、起伏の多い地形の特徴を利用したのである。戦隊がポロ・グラウンドに通じる道路に到着したとき、ライト大尉は敵が平野に集合しており、突撃を可能とするために速度を速めているという情報を受け取った。しかし、部族民は槍騎兵隊を見て丘に逃げ込み、幸運にも狙いの定まらない銃火を絶え間なく放っただけであった。やがてバッケラの村に到着し、その先にアマンダラ峠が見えてきた。これは南側から谷の中央の流れが速い川まで延びている長い尾根の切れ目である。そのとき川は流れが激しく手に負えなかったため、チャクダラへ行くには尾根の上か、間を通るしかなかった。しかし峠は敵によって守られていた。

おそらくマラカンドではまだ誰も知らなかったことだが、ライト大尉はこの時までに敵の数が膨大であることに気づいていた。マラカンドからアマンダラに至るまで、すべての尾根と丘の上には旗が翻っていた。騎兵に攻撃されない場所であればどこにでも彼らは密集した。墓地[墓地は辺境の景観においてよく目にする目立った特徴である。そのうちのいくつかは非常に広大で、すべては非凡な尊厳を持っている。]と峡谷と村に男たちが群がっていた。その姿はあらゆる方向にあった。アマンダラ峠のはるか向こうから、さまざまな兵力の部族民の群れが旗を掲げ、攻撃に加わるために急行してくるのが観察された。しかし、これらの恐るべき兆候は騎兵隊員を怖気づかせるにはほど遠く、チャクダラがいかに重要かということを目の当たりにして、いかなる代価を支払ってでもそこを強行突破する決意を固めさせただけであった。

道路の右側の墓地から降る弾の雨の下、簡単な協議が行われた。アマンダラの隘路は両側を敵に占領されていた。おそらく十数人の兵士を失うが、戦隊は全速力で駆け抜けられるであろう。しかしこれは倒れた者が放置され、拷問と肉体損壊の末の惨めな死を迎えることを意味していた。負傷者を収容しようとするなら戦隊の全滅につながるであろう。他に方法がなければそこを駆け抜けなければならず、負傷者は放置されることになる。何らかの代替手段が望ましかった。そのときあるスワールが川の土手に沿って岩を迂回する道があると言った。ライト大尉はそちらを取ることにした。

道は悪かった。尾根の約半分を通過した後、それは急峻な白い岩によって突然途絶えた。実際のところそれは現地人が「ムサックス」(膨らませた革)を浮かべて川を渡っていた場所への道であった。今戻ることは失敗を意味した。ためらうことなく、どうにか通り抜けられることを信じて、騎兵らは右側を向いて丘を登り、岩の間を行った。歩いて移動するのすら難しい路面を通り過ぎた後、左側に峡谷が見えた。それはあたかも尾根の反対側に開けた平地に通じるかのようであった。四十頭の馬がひしめき合ってこの峡谷を下り、道を選ぶ余地もなく争って岩から岩へとジャンプした。明らかに騎手たちが意識していたように、敵が突然現れた場合には彼らの命は馬たちの利口さにかかっていた。

峠を保持していた部族民は戦隊が右側の川に向かって速足で逸れるのを見ると、すぐに彼らがチャクダラへ抜けるために決死の努力をするつもりであることを理解した。彼らは地形がどのようなものであるかを知っていたので、十分早くそこに着くことができれば敵を全員倒せると確信し、尾根沿いに急いで走った。それは競争だった。最初の部族民は、騎兵隊が峡谷にいる間に攻撃するのに間に合った。彼らは将校がリボルバーを使用できるほど近くまで接近してきた。しかしパシャン人は息切れしており、ひどく銃撃された。数頭の馬が襲われた。その中でもライト大尉の馬は大きな太ももの骨を貫かれたが勇敢にも持ちこたえ、騎手を無事にチャクダラに運んだ。

馬の素晴らしい活躍により、敵の力が集中する前に岩を通過することができた。しかし、すべての兵員をがっかりさせたのは、渓谷が平原ではなく、川の支流に通じていたことであった。騎兵隊の前にあったのは深さが不明で幅が広く流れの速い水路であった。しかし、戻ることは今では問題外であった。彼らは突っ込んだ。第11ベンガル槍騎兵隊はおそらくどんなインドの現地騎兵連隊よりも優れた馬の乗り手である。彼らの強い馬は、流れに逆らって頑張り抜いた。数人はほとんど流されそうになった。ライト大尉は最後に渡った。この間ずっと敵は発砲しながら近づいていた。やがて渡渉が成し遂げられ、戦隊は馬が膝まで沈む水田の島に集まった。これの向こうに幅約五十ヤードの川の別の支流が流れており、明らかに最初のものとほぼ同じ深さであった。敵の弾丸は、四方に「水の閃光」を作った。この二番目の急流を通過した後、戦隊は再び敵と同じ側の川岸にいることに気付いた。彼らは沼地にいた。ライト大尉は部下を下馬させて銃撃で応戦させた。それから彼は振り返り、再び流れに戻って、他の馬よりも小さなポニーに乗っていたため水の力に脚をとられていた病院助手を救助した。この後行軍は再開された。戦隊の行く路面はずっと重く、ひどい悪戦苦闘が展開された。田んぼの端に沿って走る敵は、絶え間ない発砲を継続し、良く狙いをつけるために膝をついた。一人のスワールが手を上に放り出して倒れた。背中を撃たれたのである。さらに数頭の馬が撃たれた。そして別の兵士が鞍上でぐらつき、地面に崩れ落ちた。停止命令が出された。下馬の上、敵に銃火が開かれた。負傷者は拾い上げられた。そして徐々にチャクダラが近づいて来て、ブリッジヘッド・マキシム機関銃が部族民に引き揚げを余儀なくさせた。[この件の詳細については、その危険を共有した第2ボンベイ擲弾兵隊のベイカー大尉に世話になった。]

こうして砦の守備隊は必要な補強を受けた。私がこの雄々しい騎行についてやや長く記述したのは、それが勇敢な兵士と良い馬を止めることができる障害物などほとんどないことを示しているためである。ライト大尉はチャクダラの指揮を引き継いだが、彼はラトレイ中尉に防衛の指揮を委ね続けることとした。防壁の後ろでの戦いは騎兵が精通していない戦闘局面だからである。

11:30に日中の暑さの中を部族民は再び攻撃してきた。彼らは砦の北側と東側を囲み、押し入ろうと奮闘した。彼らは防御側の小銃射撃によって大きな損失を被り、死者が進入路に厚く折り重なった。またしても彼らは日暮れまで回収されなかった。狂信によって分別をなくした多くのガジが旗を掲げて銃火をものともせず押し寄せ、まさしくその壁の下に弾丸で穴だらけにされて倒れた。

マラカンドと通信することは今ではほとんど不可能であった。ヘリオグラフ(*日光反射通信機)にたどり着くにはオペレーターがひどい銃火にさらされる必要があった。夕方、信号塔は石の胸壁に守られて絶え間ない一斉射撃を続ける男たちに囲まれ、全ては晒されており、ほんの一瞬ですら危険であった。

正午、主な攻撃の反撃の後、信号塔の警備は六人の兵士によって強化され、食糧と水も送られた。この困難な作戦をマキシム機関銃と自分の持ち場を離れることができるすべての守備隊員の銃火が援護した。8月1日までこのようにして水が毎日信号塔に送られていた。距離は長く、道路は急勾配であった。敵の銃火は持続していた。ともかくこの場面において物資の供給ができていたのは素晴らしいことである。

夜が近づき、防御側は新たな攻撃に対応する準備をした。ウィートリー中尉はその後ろにいつも敵が集まる地点を観察し、日光がある間にその上に砦のマキシム機関銃と9ポンド砲の照準を合わせておいた。午後11時部族民は叫び、わめき、ドラムを叩きながら前進してきた。砲とマキシム機関銃が発射され、七十人以上の敵が一回の発砲で死亡したと言われている。とにかく、攻撃は一時間半遅れた。守備隊は終日持ち場に留まっていた。彼らは今少し休むことが望ましかった。しかし、1時に北東の角で新たな攻撃が起こった。再び敵はハシゴを持ち出し、必死に猛って突撃してきた。そして撃ち倒された。

その間すべての余った時間は駐屯地の遮蔽を改善するために使われた。ベイカー大尉は自らこの仕事に当たり、あらゆる手段を行使した。丸太、砂袋、石、土を入れた箱が壁の上に積み上げられた。人命の損失が大きくならなかったのはこれらの予防措置のおかげである。

継続的な射撃が28日に行われ、午後5:30に再び敵襲があった。まず彼らは以前の攻撃の時のように自然の遮蔽物と、闇に紛れて砦の周りに建てた石の胸壁の間の開放空間を少しずつダッシュして、三々五々前進してきた。これらの一部は防壁から200ヤード以内にあった。彼らが接近するに従って銃火は激しくなった。その後、総攻撃がかけられた。砦の騎兵隊が保持している方面をぐるりと取り囲んで大きな半円状に国境のすべての部族を代表する200近くのきらびやかな色の旗を掲げ、彼らは壁の直前まで突進してきた。そのうちの数人は実際に絡まった有刺鉄線を通過して囲いの中で殺された。しかし、すべての労力は守備隊に打ち負かされ、そして朝にかけて攻撃は徐々に消え去り、通常の狙撃手だけが残った。彼らの中には特異な無謀さを示した者たちがいた。一人の男は有刺鉄線によじ登って中に入り、近くのキャンプにいた防御者に三度発砲した後殺された。

同様の光景で木曜日の夜が明けた。守備隊は生じた間隙を防御を強化し、遮蔽を改善するために費やした。特にマキシム機関銃と野戦砲の台座への進入経路に力を入れた。午後3時に敵はチャクダラ村から出てきた。そして格別の努力をして壁をよじ登るためのハシゴと、有刺鉄線に投げかける草の束を運んできた。彼らは主に信号基地に対して攻撃を仕向けた。この建物は丈夫な四角い石造りの塔である。その入り口は地面から六フィート以上高いところにある。最上部の周囲には狭いバルコニーの一種であるマチコンリス回廊があり、床に発砲するための穴が開いている。これは良い銃眼である。4時、それは近距離から襲われた。砦の守備隊は銃火によって塔の守備を助けた。敵は大胆にも防御側の小銃射撃の下に突入し、入り口から約三ヤードのところの大きな草の山に火を放った。炎が上がった。残忍な喜びのわめき声が上がった。しかし実害がなかったのを見て部族民に沈黙が戻った。日没時に砦のマキシム機関銃の照星が撃ち落とされ、防御側は一時的にその強力な武器の力を奪われた。しかし彼らはすぐに代用品を作り上げ、すべての実用的な目的に応えることができた。午後8時、敵は戦闘に疲れ、銃火は散漫な小競り合いへと次第に静まった。敵は一晩中、死者を運び去るのに骨を折った。しかし翌朝五十体以上がまだ信号塔の周りに横たわっていた。彼らの損失は莫大であった。

30日の朝にも戦闘が停止することはなかったが、前夜の敗北に落胆した敵は午後7時まで攻撃して来なかった。その時間になると前進してきて新たな奮闘をした。そして再び撃退された。おそらく読者は単調な攻撃と反撃の連続の長い物語にうんざりしていることだろう。しかし守備隊は実際にどのような状況にあったのか?彼らは―暇を見て数時間の睡眠をとるこの日まで―九十六時間も戦い、監視し続けていたのだ。水漏れのする船に乗って絶え間なくポンプの汲み出しに骨を折っている男たちが、疲労が増し、船が一時間ごとに沈んでいくのに気付いたときのように、彼らは助けが期待される方向へ不安な疲れた目を向けた。しかし、誰も来なかった。そして溺死よりも悪い死もある。

兵士は銃眼で、そして野砲の任務中に眠りに落ちた。攻撃の進行中でさえ、無礼な自然現象はそれ自身を主張し、兵士たちは小銃射撃の咆哮や敵の野蛮な姿から、完全な疲労困憊による平和な無意識の中へと漂流した。やつれたが疲れ知らずの将校たちが頻繁に彼らを起こした。

普段であれば勇敢なセポイたちは絶望していたであろう。砦は敵に囲まれていた。マラカンドも襲撃された。おそらく他の場所も同じであろう。英国領インド帝国全体が一つの大変動によって消滅してしまったようだった。将校たちは彼らを励ました。女王陛下の政府は決して我々を見捨てない。我々が持ちこたえることができれば救助してくれる。そうでない場合には復讐してくれる。彼らを率いる若い白人への信頼と、恐らく彼らの首領であって、必ずや彼らを守ってくれるであろう神秘的な君主への海を越えた漠然とした半崇拝的信仰によって彼らは僅かに残った力を回復した。戦いは続いた。

包囲戦の間中、マラカンドとの信号伝達を維持することは極度に難しくなっていた。しかし信号通信士の英雄的行為はそれに勝った。特にセポイ・プレム・シンは命の危険を冒して毎日塔の円窓から出てヘリオグラフを立て、近距離からの恐るべき銃火のもとで主力部隊に緊急のメッセージを投げかけた。極端な危険、ヘリオグラフによって接続を取得する操作の繊細さ、消費時間、必要な沈着さの組み合わせによってこの前後のページに記録されたものと同等の勇敢な行動が成し遂げられた。[最近、ビクトリア十字章をそれに値する現地人兵士にも与えるという提案がなされた。そのような勲章の価値は、英国のすべての臣民に開かれたものにすることによってさらに高められるに違いないと思われる。競争が激しいほど、成功の名誉は大きくなる。スポーツ、勇気、そして神の視座においてはすべての人間の条件は平等である。]土曜日の早朝、水が信号塔の警備隊に送られた。その後、月曜日の午後4:30まで補給はなかった。

砦への攻撃が開始されたとき、敵はおそらく1500人に達していた。それ以来彼らは1日と2日まで毎日増加しており、12,000―14,000人の勢力であったと推定されている。事態は今やさらに重大な局面を呈し始めた。31日の夕方五時に砦の東側に猛烈な勢いで新たな攻撃がかけられた。しかしそれはマキシム機関銃と野戦砲によって大きな損害被って撃退された。一晩中発砲が続き、日曜日の朝にはこれまでよりもはるかに多数の敵が現れた。彼らはいま一棟建ての民間病院を占拠し、壁に銃眼をつくり、そこから小癪な発砲を続けていた。彼らはまた信号塔につながる小尾根を占領し、これによって守備隊とのすべての通信を遮断した。その日、不幸な兵士たちには水が届けられなかった。天気は猛暑であった。尾根からの発砲はすべての内部交通を困難かつ危険にした。敵はマティーニ・ヘンリー・ライフルとスナイダー銃で大規模に武装しており、小銃射撃には最も悩まされた。塔の小隊は水を求める緊急の信号を送り続けたが、水は供給できなかった。状況は危機的になった。ラトレイ中尉の公式レポートの簡単な言葉を引用する―

「事態が非常に深刻になったため、緊急の救助を要請することにした。しかし信号発信の困難と危険性のために長いメッセージの送信はできず、極力短く、ただ二つの単語だけを送信することにした。“Help us.”」

それでも守備隊は決死の戦いを繰り広げ、部族民は尾根、民間病院、隣接するヌラーを占領したが、防御の内側に足を踏み入れるものはなかった。

やがて、闘争の最後の日がやってきた。敵はいかなる代償を払ってもその場所を奪取すると決意したらしく、明け方に途方もない数で襲撃して来た。彼らはハシゴと草の束を運んで来た。発砲が激しくなった。要塞は遮蔽されていたが、砦に向けて降りかかり、すべての方向の防壁を傷つけた弾丸の雨によって数人の兵士が死亡し、負傷した。

事態に危機が迫ったそのとき突然、救援部隊の騎兵隊がアマンダラ小尾根の上に現れた。騎兵たちは強く、抵抗する者をすべて容赦なく追撃し、切り伏せた。彼らが川を挟んで砦と反対側の橋頭保に到着すると、敵は反転して逃げ始めた。包囲の間、守備隊は頑強に死に物狂いで持ちこたえていた。救援が近づいた今、ラトレイ中尉はゲートを開け放ち、六人の兵士を引き連れて民間病院に突撃した。ベイカー大尉、ホイートリー中尉と他に数人があとに続いた。病院は奪還された。そこを占領していた約三十人の敵は銃剣によって殺された。堂々たる仕上げであった。帰る途中、出撃部隊は騎兵隊―第11ベンガル槍騎兵隊―が部族民でいっぱいの胸壁のところで阻止されているのに遭遇した。彼らはその側面に突撃して占有者のほとんどを殺し、続けてその残りも敗走と破滅に追い込んだ。最後に胸壁を去ろうとした男はラトレイ中尉の首を撃ったが、軍事的行動と同様に身体能力においても際立つこの将校は彼を切り倒した。これにより戦いは終わった。これより適切な結びは思いつかない。

包囲戦の犠牲者は次のとおり:―
                    死亡    負傷
    第11ベンガル槍騎兵隊・・・・  1     1
    第45シーク隊・・・・      4    10
    ディリ徴集兵隊・・・・      1     0
    その他・・・・          1     2
               合計、すべての兵士― 20

これが損失である/しかし砦のすべての兵士は七日七晩の間、死と隣り合わせであった。

騎兵隊の馬はずっと敵の銃火にさらされていたが、ほとんど殺されたり負傷したりしなかったというのは重要な事実である。部族民は砦が自分たちのものになることを確信し、これらの素晴らしい動物が生きたまま彼らの手に落ちることを望んでそれを撃つことを差し控えたのである。

注意深い公式の調査で確認できる限り、敵はチャクダラへの攻撃で2000人以上の損失を被った。

[弾薬の消費に関する以下の統計は興味深いかもしれない:―

                             発
     7月28日 マキシム機関銃・・・・     843
           マティーニ・ヘンリー・・・・ 7170
     7月29日 マキシム機関銃・・・・     667
           マティーニ・ヘンリー・・・・ 4020
     7月30日 マキシム機関銃・・・・    1200
           マティーニ・ヘンリー・・・・ 5530
     7月31日 マキシム機関銃・・・・     180
           マティーニ・ヘンリー・・・・ 2700

これは一人あたり一日約二十発である。射撃統制が優れていたに違いない。]


第七章:スワットの門

マラカンド峠は、山々に囲まれて東西に走る長く広いスワット渓谷へと続いている。六マイル東のチャクダラで谷は二つに分岐している。一つは北方向のウチに向かって伸び、再び西に曲がると最終的にパンジコラ川に行き当たり、その向こうはナワガイの大渓谷である。これの支流に沿って少し行くとチトラルへの道となる。これに沿って現在マラカンド野戦軍はモーマンドに向かって前進しようとしている。もう一方の支流は谷を東に延長している。チャクダラの数マイル先で南の山々から突き出た長い支脈が谷を塞いでいる。その基部の周りに川の流れが切れ込んでいる。街道は川と支脈の間の狭い石の土手道を通っている。ここがランダカイ、または何世紀にもわたって部族民がそれを「スワットの門」と呼んできた地点である。この門の向こうは上スワットであり、古来の美しく神秘的な「ウディアナ」である。この章では門の突破と谷の頂きへの遠征について記述する。

マラカンドとチャクダラでの激しい戦いは、イギリス人に対して蜂起した山岳民族の連携がどれほど恐るべきものであるかを示していた。最も遠い孤立した谷、最も離れた村々さえもが異教徒の打倒に参加するために武装した男たちを送り出した。すべてのバジャウル族はその敵対度によってランク分けされた。ブナヴァル族とウトマン・ケル族は男を上げた。マッド・ファキールに従う男たちは最大で二―三千人と推定されていたが、現在は武装した12,000人以上であることが分かっていた。軍事的および政治的状況が深刻な様相を呈してきたため、第三予備旅団を次のように構成して動員することが決定された。

                 第3旅団
         指揮―J.H.ウォードハウス准将 C.B. C.M.G.
     第2大隊ハイランド軽歩兵隊
     第1大隊ゴードン・ハイランダーズ
     第21パンジャブ歩兵隊
     第3大隊 第1グルカ隊
     第3中隊 ボンベイ工兵隊
     第14英国野戦病院
     第45現地野戦病院
     第1野戦医療兵站部

二週間前の戦いは、かつての晴れやかな風景に重大で恐ろしい爪痕を残していた。稲穂は四方八方に踏みにじられていた。燃やされた村の廃墟は遠くからインクのしみのように見えた。敵が受けた恐るべき損失は戦闘員ではなく、住民のかなりの減少をもたらした。マラカンド基地への攻撃で約700人の部族民が死亡した。開放空間が近代兵器とマキシム機関銃の使用機会をもたらしたチャクダラの包囲戦では2000人以上が死亡し負傷した。その遺体は何日もその地域に散らばっていた。立っている稲穂、村の廃墟、そして岩の間に、燃え盛る太陽の下にただれた体が横たわり、恐ろしい臭いで谷を満たした。これらを貪り食うために膨大な数のハゲタカがにわかに集まり、私が以前の章で言及した、死体を襲うために穴や隅から出てきた不愉快なトカゲとともに豊富な獲物を奪い合った。品位と健康に関するあらゆる動機が活力を取り戻した勝者に対して敵の遺体の埋葬を促したが、それはこの任務が達成されるほんの数日前のことであった。しかし、そのときですら道を外れた場所には埋葬部隊の手を逃れた相当な数の遺体が残っていた。

一方、スワット渓谷の部族民が受けた罰とその大きな損失は多くの人々の意気を消沈させ、降伏するために数人の代表団が来た。下スワット族は無条件に降伏し、彼らの村に戻ることを許された。この許可を利用して彼らが自らの荒廃した家を動き回り、損害を修復しようとするのが見られた。他の者たちは道端に座り、彼らの谷に軍隊が着実に集積していくのを不機嫌に失望して見ていたが、それはただ単に彼らが武力に訴えた結果であった。

おそらくマラカンドを攻撃した部族民は半ばそこにいた兵士をサーカーの唯一の軍隊と思っていた、と言っても過言ではない。「やつらを殺せ」と彼らは言った、「それですべて終わりだ。」彼らは電信線がはるか遠いインド南部から呼び寄せる連隊について何を知っていただろうか?彼らは世界をざわつかせたことに気が付かなかった/軍の将校がイギリスから7000マイルの海と陸を急行して山間のキャンプへ来たこと/長い列車が遠くの倉庫から弾薬、資材、補給を前線に運んでいたこと/賢明な投資家が彼らの行動が金銀比価にどの程度の影響を与えたかを検討していたこと/あるいは聡明な政治家がスワットの蜂起が差し迫った補欠選挙にどのように影響する可能性があるのか思案していたことを。これらの無知な部族民には、その広大で複雑なシステムのすべての部分が最も軽微な接触にさえも震え、揺れる現代文明の鋭敏さなど思いもよらなかった。

彼らはマラカンド峠の砦とキャンプと、川にかかる揺れる橋だけを見ていた。

マッド・ムラーに見捨てられ、二個旅団に立ち向かった下スワットの人々は完全に打ち負かされ征服されたが、上スワット族はその聖職者たちに励まされ、「門」の後ろは安全であると信じて、ずっと独立的な態度を決め込んでいた。彼らは政府がどのような協約を提示するのかを尋ねるために使者を送り、その問題を検討すると言った。彼らの反抗的態度は、政務官をしてサーカーの決意と力を印象づけるために彼らの地域への軍隊の派遣を勧告させることとなった。

それに応じて上スワット渓谷への遠征が裁可され、ビンドン・ブラッド卿は前進に必要な準備を始めた。さらなる戦闘の見通しは軍団、とりわけチャクダラの救援に間に合わず、これまで長くて埃っぽい行軍しかしていない面々によって熱心に歓迎された。どの部隊が選ばれるかに関して多くの憶測と興奮があり、誰もが自分の連隊が必ず行く/自分たちの番である/そしてもし連れて行かれなかったなら大きな恥となるであろう、と主張した。

しかし、ビンドン・ブラッド卿はすでに決意していた。彼は前進する可能性を考えてアマンダラにかなりの兵力を集中しており、行動が裁可されるとすぐに次のように隊を組織した:―

                  第1旅団
     指揮―メイクレジョン准将
       王立西ケント連隊。
       第24パンジャブ歩兵隊
       第31パンジャブ歩兵隊
       第45シーク隊

     以下の分隊とともに:
       第10野戦砲兵中隊
       第7英国山岳砲兵中隊
       第8ベンガル山岳砲兵中隊
       第5中隊マドラス工兵隊
       2個戦隊 ガイド騎兵隊
       3個戦隊 第11ベンガル槍騎兵隊

この部隊の戦力は3500のライフルとサーベル、一八門の砲にのぼった。十二日分の物資が運ばれ、兵士は「80ポンド規模」の装備で進んだ。つまり、テントその他の快適さと便利さはなかった。

部隊が出発する前に、悲しい出来事が起こった。8月12日に、7月26日夜に負傷したJ.ラム中佐が死亡した。早期に切断手術をしていたらその命は救われていたかもしれない/しかし、これはレントゲン検査によって弾丸の摘出が可能になることを期待して延期されたのであった。機械は少し遅れてインドから到着した。それはマラカンドに到達するとすぐに試みられた。しかし来る途中で機械が損傷していたことが判明し、何の結果も得られなかった。その間に壊死が始まり、切断手術に耐えられないほど弱っていた勇敢な軍人は日曜日にその影響で死亡した。彼の大腿骨は弾丸によって完全に粉砕されていた。彼はアフガニスタンとゾブ渓谷で勤務し、ディスパッチにおいて二度言及されている。

14日にはビンドン・ブラッド卿が特別部隊に加わり、16日には谷を数マイル上ったタナに移動した。同時に彼はウォードハウス准将にブナーの南の峠の方向に小さな隊を分遣するよう命じた。ハイランド軽歩兵隊、第3中隊ボンベイ工兵隊、および第10ベンガル槍騎兵隊の一個戦隊は、それに応じて第3旅団があったマルダンからラスタムまで進軍した。この動きにより彼らはブナヴァル族を脅し、上スワット渓谷から注意をそらせた。このようにして敵の力を弱めたビンドン・ブラッドは「スワットの門」を突破するために進んだ。

16日の夕方、ビートソン少佐指揮下の第11ベンガル槍騎兵隊による偵察によって、ランダカイの陣地が敵によって強く守備されているという事実が明らかになった。多くの旗が誇示され、騎兵隊が近づくと前線の全体から銃弾が発射された。戦隊はすぐに退却し、状況を報告した。将軍は夜明けに攻撃することにした。

17日の午前6:30に騎兵隊は移動し、すぐにジャララと呼ばれる村の近くのある仏教遺跡で部族民と出会った。小競り合いが続いた。その間、歩兵隊が近づいていた。敵の主な陣地が明らかになった。ランダカイの支脈の稜線に沿って、空を暗く縁取る旗印が見られた。その下で部族民の剣の刃が日の光に輝いていた。石の胸壁の長い列が尾根を冠し、その後ろには敵が密集していた。5000人以上がいたと推定されている。

これがどんな強い陣地であったかを理解することは難しくない。軍の左側には手に負えない川があった。その右側は急峻な山であった。手前には敵に保持されている長い尾根があった。谷を抜ける唯一の道は、尾根と川の間の土手道であった。さらに前進するには、敵を尾根から追い出す必要があった。ビンドン・ブラッド卿は前方へ騎行して土地を偵察し、配置を決めた。

正面攻撃で陣地を占領するには、大きな損失が伴う。敵は手強く配置されているので部隊が前進しようとするなら激しい銃火にさらされるであろう。一方、尾根が一度捕捉されれば、部族民の駆除は保証される。そこは良い陣地なのは彼らがそれを保持している間だけである。敗北の瞬間は破滅の瞬間となる。理由は以下のとおりである。尾根の背後を占めるのは沼のような水田であり、敵は非常にゆっくりとしか退却できない。彼らの安全な退却路は支脈の上から丘の主稜線へと続いていた。つまり彼らはその前線の延長によって退却路を形成していた。もちろん、これは戦術的に人々が入り込む最悪の状況の一つである。

尾根の背後にある土地がどのようなものかを知っていたビンドン・ブラッド卿は直ちに現状を認識し、それに応じて計画を立てた。彼は敵の左翼を攻撃することを決意した。これによって敵の側面に回り込むだけでなく、適切な退却路を断ち切るのである。一度味方の軍勢が長い尾根から主要な丘へ続く地点を確保したなら、尾根に残っているすべての部族民は捕えられるであろう。それゆえ彼は次のように命令を出した:―

王立西ケント隊は前面を偽装し、敵の注意を引くこと。歩兵の残り、すなわち第24、第31パンジャブ歩兵隊、第45シーク隊は丘を右方向に登り、尾根の頭に側面攻撃を仕掛けること。騎兵隊は敵がそれを見渡していた尾根から追い出されるやいなや―工兵中隊が修理のために配置されている―土手道を通って前方に突進し、田んぼを横切ってその先の開けた土地へ敵を追撃する準備をすること。強力な砲兵隊の全てが直ちに行動を開始すること。

そして軍は前進した。王立西ケント隊は主要陣地に先立つ小さな支脈で仏教遺跡から敵の一部を追い払うことによって戦いを始めた。大砲がタナ村近くの狭い道路で動けなくなる可能性があったため、第10野戦中隊は後方に残されていた。しかし、それは無事に到着し、今や急ぎ足となり、午前8:50に敵の陣地とその強力に占領している石の砦に砲火を開いた。数分後、第7山岳砲兵中隊は王立西ケント隊が奪取した支脈で戦闘を開始した。このように大砲の重砲火が攻撃の準備を整えた。野戦砲の大きな砲弾は、それまで十二ポンドの破裂弾の爆発を見たことのない部族民を驚かせた。二個山岳砲兵中隊がさらに彼らを狼狽させた。最初の十五分の砲撃の間に多くが逃げ去った。残りはすべて反対斜面と胸壁の後ろに隠れた。

その間、側面攻撃が進行していた。メイクレジョン将軍と歩兵隊は急な丘の斜面を登り、尾根と主要な丘の接合地点に向かって着実に移動していた。ついに支脈の上の部族民は彼らを脅かす危険を感じた。彼らは退却路をはっきり意識した。彼らは白い軍隊が土手道に沿って強行突破を試みることを想定して尾根の下端にかなりの数の予備兵力を配置していた。彼らは皆、孤立の大きな危険にさらされていることに気づいた。彼らは半島にいて、兵士たちは地峡を確保していた。因って彼らは、最初は側面攻撃に交戦する意図で尾根沿いに左に移動したが、その後破裂弾の砲撃が激しくなり、小銃射撃が増したため、ただ退却を望むようになった。山岳民族が丘を移動する速度は非常に速かったため、ほとんどの敵は側面攻撃によって孤立する前に逃げることができた。しかし逃げる際に射殺されたり、大砲の砲火で殺されたりした者も多かった。数人の勇敢な男たちが第31パンジャブ歩兵隊に突撃したがすべて倒された。

ビンドン・ブラッド卿は敵が総崩れになったのを見て、王立西ケント隊にほぼ無人となった尾根の正面に向かって前進するよう命じた。イギリスの歩兵隊は急いで急勾配の丘を登り、石の胸壁を奪取した。この陣地から彼らは側面攻撃との連絡を確立し、全軍は長距離射撃で逃げる部族民を追撃した。

「スワットの門」はこじ開けられた。軍が土手道に沿って前進できるようになった。しかし、これはさまざまな場所で敵によって破壊されていた。工兵隊は急いでそれを修復した。これが行われている間、騎兵隊は好機が向こうの平原にあることを知っていたので狂的焦燥の中で待たなければならなかった。道路が十分に修復されて一列が通過できるようになるとすぐに彼らは先を争って通過し、土手道の反対側に二―三騎ずつ現れた。

いま事件が起こった。それは素晴らしい勇気ある行動の機会をもたらしたが、それでも不必要な生命の損失を伴ったので悲惨なものと呼ばなければならない。騎兵隊が荒れた路面を通過すると、先頭の騎手たちは約一マイルの距離で部族民が丘に向かって素早く走っているのを見た。追跡の興奮に夢中になり、抵抗がわずかであったために彼らは敵を侮り、丘に到達する前に敵を捕まえることを意図して勢いよく前進した。

アダムズ中佐は平野に入るとすぐに、墓地近くの小さな木立を奪取することができれば、退却する部族民に効果的な下馬銃撃を加えることができると考えた。そこで、彼はできるだけ多くの兵士を集め、マクリーン中尉とタイムズ特派員であるフィンキャッスル卿と一緒にその地点へ向けて騎行した。一方、先頭の戦隊を指揮するパーマー大尉と、インドのタイムズの戦争特派員を務めるランカシャー・フュージリアー連隊(*火打ち石銃兵隊)のグリーブス中尉は敵を追って田んぼを全速力で騎行した。戦隊は追いつくことができず、湿った土地でだらだらと長い列になった。

丘のふもとでは地面がより硬く、これに達すると、二人の将校は無謀にも敵の中に突入した。この精神によって帝国は多くの命を失ったのであるが、多くの戦いではそれを得たのである。しかし戦いというよりむしろ策略に負けた部族民は、猛然と追跡者に振り向いた。尾根上の部隊はすべてを目撃していた。パーマー大尉は旗の持ち主を切り伏せた。別の男が彼を攻撃した。鮮烈な打撃が大尉の腕を跳ね上げた。弾丸が手首を粉砕したのである。別の男が馬を殺した。グリーブス中尉は身体を撃たれると同時に地面に落ちた。敵は周りを囲み、横たわった彼を剣で叩き切り始めた。パーマー大尉はリボルバーを抜こうとした。この時、二人のスワールが沼のような田んぼを抜け出して直ちに全速力を出し、叫び声を上げながら救助に来た。そして部族民を切りつけ、滅多切りにした。彼らは皆バラバラに切られるか撃ち倒された。丘の斜面は敵で覆われていた。負傷した将校たちはそのふもとに横たわっていた。彼らは囲まれていた。これを見てアダムズ中佐とフンキャッスル卿、マクリーン中尉と二、三人のスワールが支援に駆けつけた。彼らの突撃によって部族民は少し後退し、激しい銃火を浴びせてきた。たちまちフィンキャッスル卿の馬が撃たれ、彼は地面に落ちた。彼は立ち上がり、傷ついたグリーブスをアダムズ中佐の鞍に持ち上げようと努力したが、この瞬間に第二弾がその不運な将校に当たり、グリーブス中尉は即死した。支援している間にアダムズ中佐は軽度に、マクリーン中尉は致命的に負傷し、二頭を除くすべての馬が撃たれた。ひどい銃火にもかかわらずグリーブス中尉の遺体と他の二人の負傷した将校は救助され、小さな木立に運ばれた。

生き残った将校であるアダムズ中佐とフィンキャッスル卿の両方がこの勇敢な偉業のためにビクトリア十字章に推薦され、それを受け取った。またマクリーン中尉が生きていればそれを受け取ることになっていた、と公式に発表された。多くの人々が、思いがけない死によって勇気の報酬が妨げられることは許されるべきではないと思った。そして彼が素晴らしい兵士であり、良きスポーツマンとして知られていた辺境では特にそうであった。

フィンキャッスル卿とグリーブス中尉にふりかかった極端な運命は、ちょっとした考察に値するかも知れない。どちらの将校も軍に正式に雇用されていなかった。どちらも自費で旅をし、戦争の何らかを見るためにすべての障害を回避し、克服する努力をしていた。剣とペンの騎士、彼らには率いるべき軍勢、行うべき任務、自らの行為を報告するべき注意深い指揮官はなく、自らの命以外に差し出すものは何もなかった。彼らは高い賭け金を支払った。そして戦場以外ではそこまで気まぐれではない運命の女神は、一方には王の最大の贈り物とも言われる兵士が望み得る最大の名誉を、そして他方には死を払い戻したのである。

敵の敗走でランダカイでの戦闘は終了した。こうして数時間でほとんど損失なく、部族民が難攻不落と見なしていた「スワットの門」はこじ開けられた。ガイド騎兵隊の一つの戦隊はブラジア・クレア大尉の下で敵を追撃してアブエ村の近くで小競り合いに勝利し、夕方6:30頃にキャンプに戻った。[この士官はこの事件での手腕と判断によってディスパッチに言及された/しかし彼は辺境では一ヶ月後のハモンド将軍の命によるママニへの見事な偵察でより有名である。多大な損害を被りながらも最も価値ある情報の入手に成功したのである。]戦いの最中、約1000人の部族民が輸送隊を脅かした、しかし、これは元気のない連中であった。第11ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊との短い小競り合いの末、二十人の死傷者を出して退却したのである。その日の総死傷者数は次のとおり:―

                    イギリス軍将校
     死亡―R.T.グリーブス中尉、ランカシャー・フュージリアー連隊
       ―H.L.S.マクリーン中尉、ガイド隊
     重傷―M.E.パーマー中尉、ガイド隊
     軽傷―R.B.アダムズ中佐、ガイド隊
                現地兵―負傷― 5
                その他―負傷― 2
                総犠牲者―  11

将校の死をもたらし、ビンドン・ブラッド卿が公式ディスパッチで「不幸な出来事」と記述した事件さえなかったならば、総犠牲者が七人に過ぎなかったことを覚えておく必要がある。非常に強い陣地がほとんど損失なく捕捉できたのは、第一に将軍の作戦計画によるものであり/そして第二に、彼が集中させた大砲の力による。10月20日にダルガイの基地を急襲する最初の企てによってダーセットシャー連隊は深刻な損失を被ったのであるが、その前に大砲による攻撃で揺さぶられたことは、ランダカイの戦闘を目撃していた人々の間に多くの反省を引き起こした。

翌18日朝、部隊は上スワットの谷を上って進軍を続けた。現地人はすっかり怯えており、もはや抵抗することはなく、平和を求めた。ランダカイでの彼らの損失は500人を超えていたことが確認された。彼らは正規軍がその強力な武器を使用できるようになったなら対抗するチャンスがないことを知った。

軍が肥沃で美しい渓谷を進むと、すべての兵士は多数の仏教遺跡に感銘を受けた。かつてここには繁栄した都市と文明化された人々がいたのである。ここは法顕[仏教王国の歴史 ジェームス・レッジ、文学修士、法学博士翻訳]によれば、「計500のサンガラマ」、いわば修道院であった。これらの修道院ではもてなしの法が実行されていた。「見知らぬビクシュ(托鉢増)がそのうちの一つに到着すると、彼らの望みは三日間叶えられ、その後自ら寝る場所を探すように言われる。」これらはすべて時とともに変化した。その都市は今や廃墟にすぎない。文明的で穏やかな様子の仏教徒に野蛮人が取って代わった。主人はもてなしを求める旅行者をそれ以上彼と関わる面倒を避けるためにさっさと「寝る場所(墓場)」へと案内する。

「言い伝えがある。」と、その歴史の最も暗い時代に地球の最も荒れた国々を旅した勇敢な僧は続ける。「ブッダが北インドに来たとき、彼はこの地に来て、見る人によって長くも短くも見える足跡を残した。」博識の法顕は「それは今も存在し、それについては現在でも同じことが真実である。」と断言しているが、様々な騎兵隊の偵察はそれを発見できず、残念ながら私たちはまたもそれが時間の潮流によって消し去られたと結論しなければならない。ここでも、この仏教徒のペデケル(*当時の人気旅行ガイドの名前)は、「彼が衣を乾かし/邪悪なドラゴン(ナガ)を改宗させた場所」の岩を見るべきだと言う。「それは十四腕尺(*キュビット45~56cm)の高さで二十腕尺以上の幅があり、その一面は滑らかである。」これは良く信じられているのであろう/しかし、どれが竜が悔い改めブッダが衣を乾かした現場なのかを兵士たちが確かめるには、あらゆる大きさの岩の数が多すぎた。

その仲間はジェララバード、またはその地域の都市に向かって進んだが、法顕は「公園」の緑と肥沃な美しさに魅了され、快適な谷に残り、「夏は静養していた。」それから彼はソフートの地に降りた。それはおそらくブナーである。

経済的と思われないような何ものも好まれない、この忙しく、実用的、無味乾燥な現代においてさえ、しばし過去のベールを上げ、かつてそうあったであろう世界を垣間見ることは無駄なことではない。キリスト教紀元の五世紀は、人類の歴史の中で最も憂鬱で陰気な時期の一つであった。大ローマ帝国はゴシックのアラリック、フンのアッティラ、ヴァンダルのゲンセリックといった打撃の前に崩壊してしまった。古典の時代の芸術と武勇は、ヨーロッパを水没させた野蛮の大洪水に沈んだ。キリスト教徒はアリウス主義の論争によって激しく揺れていた。守らなければならなかったその純粋な宗教は、迫害の血で汚され、迷信の恐怖によって堕落させられた。これらすべてが西側諸国を苦しめ、人類の衰退または滅亡の予兆のように見えたとき、現在ローマを略奪した者よりも凶暴な野蛮人に支配されている北インドの荒々しい山々にはニルヴァーナという言葉で表現される穏やかな入滅の達成にその人生を捧げた/穏やかで、繁栄した、勤勉で知的な人々がいた。私たちは時間がもたらした大変革を振り返り、学びと進歩の中心地が年月とともにどのように変化したかを観察するとき、おそらく悲しい結論、文明の太陽が直ちに全世界を照らすことは決してできないという結論に至ることは不可避である。

19日に部隊はミンガオラに到着し、五日間快適なキャンプで待った。ここでディーン少佐が各部族の降伏を受けるためであった。彼らは敗北によって非常に謙虚になり、穀物と飼料を供給することで軍隊の機嫌をとろうとした。停止中に800を超えるさまざまなタイプの武器が引き渡された。ミンガオラに到着した夜キャンプに数発の銃撃あったが、村人たちは罰せられることを恐れて「狙撃者」を追い払った。21日に、コトケ峠までの偵察が土地の性質に関する多くの価値ある情報をもたらした。全員がその景色の美しさに感銘を受けていた。24日に部隊がバリコットに戻るとき、彼らはヒマラヤの輝く雪の頂きが空の青と水田の緑を隔てている美しい谷の思い出を持ち帰った。

軍隊がバリコットで休憩している間、ビンドン・ブラッド卿は個人的にスワット渓谷からブナヴァル族の地へと続くカラカール峠を偵察した。ブナヴァル族はユサフザイ族のユサフ部門に属する。彼らは好戦的で乱暴な人々である。インド反乱の鎮圧の後、反乱に加わったセポイと現地人将校の多くが避難するためその谷に逃げてきた。ここで彼らは半ば力によって、半ば説得によってその地位を確立した。彼らは土地の女性と結婚して定住した。1863年、ブナヴァル族はイギリス政府と衝突し、歴史上アンベイラ戦役として知られる激しい戦闘が続いた。インドからの難民は再び熱心に白い軍隊を批判し、そしてその並外れた勇気と凶暴さによって、「ヒンドゥスタンの狂信者」と名付けられた。三十六人の将校と八百人の兵士を犠牲にしてブナーは鎮圧された。ついに第101フュージリアー隊が「岩山の哨兵線」を奪取し、作戦の終わりまで保持した。多大な費用をかけてインドからやってきたゾウが作物を踏みつけた。「ヒンドゥスタンの狂信者」のほとんどは戦闘で死んだ。ブナヴァル族は政府の協約を受け入れ、軍隊は撤退した。それ以来、1868年、1877年、1884年に彼らは境界の村々を襲撃したが、遠征の脅しによって罰金を支払わされ、損害を回復させられた。1863年の頑強な抵抗以来とってきた評判によって、彼らは辺境部族の間で指導的地位に就くことが可能となっていた/そして彼らはこれに乗じてイギリスに対するいくつかの暴動を扇動し、荒立ててきた。マラカンドとチャクダラの襲撃者の中でその黒と濃紺の服装によって彼らを見分けることができた。今や彼らは元の谷へと撤退し、そこから政府に反抗してすべての協約を拒否していた。

ビンドン・ブラッド卿とその護衛が峠の頂上に近づいたとき、そこの見張りが数発の銃弾を発射したが、抵抗はなかった。すべてのブナヴァル族はその地域の南の入り口を守るために急行していた。ラスタムのウォードハウス准将の軍隊に攻撃される危険があると考えたのである。将軍はコタルに到着し、足下の谷全体を見た。大きな村々が平野に点在し、肥沃で繁栄した景観を呈していた。

無防備なカラカール峠は軍隊が通行可能であり、政府が同意した場合二週間以内に難なく、ほとんど戦うことなくブナーを征圧することができる。

この件についてインドに電報が打たれ、大いに遅延して躊躇った後、総督は戦勝者である将軍の勧告に反対した。ブナヴァル族と決着をつけるのが望ましいことは完全に認められたが、政府はリスクに尻込みした。従ってマラカンド野戦軍は二週間近く休眠状態にあった。インド政府がブナーを攻撃することを恐れているというニュースが、辺境に山火事のように広がり、部族民の意気を復活させた。彼らは弱さの兆候を見つけたと思った。それがまったく間違っているわけでもなかった。しかしその弱さは物理的というよりも道徳的なものであった。

ブナーの処罰は延期されているだけであり、数か月後には完結する可能性があると主張されている。[1897年記]しかし峠を強行突破することなくその土地へ入る機会は二度とないかもしれない。

8月26日、部隊はタナに戻り、上スワットへの遠征は終了した。

[以下は7月26日から8月17日までのスワット渓谷での戦闘で命を落とした部族民の最も信頼できる推定値である。数字には負傷してその後死亡した者が含まれており、戦闘中に即死した者の二倍以上である―

  1.下スワット   パシャン人 ・・・ 700  墓地に埋葬
  2.上スワット   パシャン人 ・・・ 600  墓地に埋葬
  3.ブナー固有         ・・・ 500  墓地に埋葬
  4.ウトマン―ケル       ・・・  80
  5.ユサフザイ         ・・・  50
  6.その他の部族        ・・・ 150
            合計― 2080


 1、2、3は現場での最近の調査の結果である。
 4、5、6は現地情報に基づく推定値である。

部族民には外科的または内科的知識がほとんどなく、援助の申し出をすべて拒否したため、負傷者に対する戦死者と戦傷死者の割合が非常に高くなったのであろう。負傷者数と回復者数が等しいと仮定すると、合計損失は約4000となる。これらの数値を各戦闘の個別の推定値と比較することにより、照合することができる。

  マラカンド     ・・・  700
  チャクダラの救援  ・・・  500
  ランダカイの戦闘  ・・・  500
        合計― 3700


第八章:モーマンドの地への前進

この章の冒頭において物語を語る立場の変化に注意しなければならない。これまでの一連の出来事は客観的なヒストリーの形式で記録してきた。しかし今後は他の人々の証言と同様に自分の記憶にも頼ることができる。[私は読者を退屈させたり、個人的な事柄を差し挟んで物語の価値を下げたりしたいとは思っていない。首尾一貫させるには私とマラカンド野戦軍との関係を説明すれば十分であろう。私はイギリス軍の現役騎兵将校が命令を受けるまで待つとするならば、かなりの時間を待つことになるであろうことに気づいた。(*チャーチルは当時インドのバンガロールの連隊に赴任していた)そこで連隊から六週間の休暇を取り、9月2日に記者としてマラカンドに到着した。パイオニア誌とデイリーテレグラフの特派員として、また遅かれ早かれ軍事的立場において軍に加わることを期待して。]歴史的記録は目撃者によって記されたときにその価値を高めるか、失うかは疑わしいところである。個人的な観点から見るならば、すべてのものはそれが個人に影響を与えた度合いに応じて緩やかな遠近感を持って見えるものである/そして私たちは自分が聞いたものよりも、見たものの重要性を相対的に誇張する傾向があり、物語の細部の正確さが増すと全体のバランスの正確さが失われるかもしれない。それはとても良い論点であるが私は意見を述べようと思わない。この本に着手した元の目的は、北西辺境での戦争の姿を本国の英国人に提示することであったことを記憶している/存在するだけではなく、見ることのできる姿/そして私はこの目的は個人的な物語のスタイルを採用することによってよりたやすく達成されるという考えに傾いている。このように歴史的記録としてはあまりにローカルで、専門性が高く、あまり重要ではないが、読者が場面や状況の真の印象を形成するのに役立つ多くの事実が本書の中に盛り込まれている。記事は重々しくないほうがより鮮明になり、公平でないほうがより活き活きしてくる。「歴史の尊厳」から降りるそれぞれのステップが、それに対応する関心の高まりに伴う限り、私たちはその快い道を、下り道であったとしても、気兼ねなく辿って差し支えないであろう。

第九章では、部隊の作戦の新しい段階も紹介している。モーマンド族が敵となり、場面がスワットからバジャウルに変わる。その地へ進軍する前に、インド政府がこの強力で好戦的な部族に対する遠征隊を派遣する事となった原因や成り行きを簡単に考察することが望ましいであろう。

辺境を一掃した狂信の津波は、他のすべての国境の人々と同様に、モーマンド族に影響を与えた。しかし、彼らの状況はいくつかの重要な点でスワット渓谷の現地人の状況とは異なっていた。このモーマンド族は全く刺激されたり、干渉されたりはしていなかった。彼らの土地を通る軍事道路はなかった。要塞化された基地が敵意をかき立てたり、独立を脅したりしなかった。他者の中で自分たちが長く享受していた孤立を尊重していたなら、彼らは―イギリスの一定の人々に非常に強く訴えかけているように見える―劣化した野蛮主義の状態にそのままいつまでも留まっていられたのかも知れない。しかし、彼らは侵略者となった。

これらの獰猛な部族民が住んでいる荒涼とした陰鬱な山岳地帯の中心には、ヤロビの寺院と村がある。一つは奉献された陋屋、もう一つは要塞化されたスラムである。この人目につかず邪魔の入らない隠れ家はハッダ・ムラーとして有名な、非常に高齢の独特の神聖さを持つ僧侶の住居であった。彼の名前はナジブ・ウ・ディンであった。しかし部族民は五十年近くにわたって敬意のあまりその名を呼ぶことがなかったため、それは異教徒の記憶と記録の中にのみ保存されている。しかしインド政府は何度かこの男の性格をありありと眼前にしていた。約十三年前彼はアミールと仲違いし、彼に対してモーマンド族を蜂起させた。彼の自宅と出身地はアフガニスタンのハッダ村にあったので、アミールは反抗的な臣民をカブールに召喚してその行いの申し開きをさせることで応えた。しかしアフガニスタンの法的手続きをよく知っていたずる賢い僧侶は招待を断り、それ以来外部の支配と制約がないモーマンド地域に隠居していた。

このように追放の罰を課すことに満足して、アミールはその罪を忘れることにした。彼は、そのムラーの大親友である部下の司令官「シパ・サラー」への手紙の中で彼を「イスラムの光」と表現した。とても強力な光、確かに、彼はそれが自分の領内にいることを望まなかった/しかし国境の向こうにいるのであればその非常に神聖な人物に尊敬を示すことが適切であった。したがって彼は部下の役人に彼を大事にし、尊敬するように指示した。こうして彼は―必要なときに使用される―強力な武器を手にすることになった。扇動によるものであろうと個人的な動機によるものであろうと、ハッダ・ムラーは長い間英国の権力に対する苦々しい敵であった。1895年に彼はモーマンドの戦士を派遣し、チトラル救援部隊に抵抗した。それ以来、彼は積極的に関与してきた。説教や他のムラーとの連絡によって、進行してくる文明に対抗する大きな連合体を育て上げたのである。

1896年、彼はノウシェラとスピンカーラのマンキ・ムラー―今はインド政府を支持する比較的従順なムラー―との長い宗教論争を終結させた。自らの意見を述べた本を出版し、敵対者のそれを粉砕したのである。この作品はデリーで印刷され、インド中のマホメダンの間で大々的に販売された。無料のコピーが「シパ・サラー」およびその他のアフガニスタンの名士に送られ、ハッダ・ムラーの名声は国中に知られていた。その影響力が高まったことに加えて、その文筆の成功が彼の奮闘を刺激した。

マッド・ファキールがスワットとブナーを鼓舞している間、この強力な僧侶はモーマンドを扇動した。彼は肉体的には弱者であることが知られていたが、その神聖さと、彼ら自身の特別な聖人であるという事実がその雄弁さに劣らずこの野蛮な部族を強力に動かした。ジハードが宣言された。イスラム教はいつまで侮辱されているべきであろうか?イスラム教徒はいつまで北の不毛の地に潜んでいるべきなのか?僧侶は彼らに立ち上がって白い侵略者の撲滅に参加するよう促した。死んだ者は聖人となる/これらのカフィールは真の信仰者が使っても良い金や他の多くのものを持っているので、生き残った者は豊かになるのである。

略奪と楽園の組み合わせの魅力には抗いがたいことが証明された。8月8日、6000人近くの大勢の集団が国境を越え、イギリス領に侵入し、シャンカルガルの村を焼き払い、シャブカドルの砦を攻撃した。この場所は辺境の防御システムの前進基地であり、ペシャワルの北西約十九マイルに位置している。通常の守備隊は約五十人の国境警備隊で構成されている。強力に構築されており、ペシャワル守備隊が戦闘を開始する時間ができるまで襲撃隊の注意を引いて前進を遅らせることを目的としている。この場合において、これらの両方の目的は見事に果たされた。

モーマンド族の侵攻のニュースがペシャワルに届くと、すぐに第20パンジャブ歩兵隊のJ.B.ウーン大佐の指揮下に遊撃隊が動員され砦の方向に進んだ。8月9日の夜明けに、彼らは部族民がシャブカドル近くの手強い陣地にいることを発見した。ウーン大佐の配下の兵力は小さかった。構成は次のとおり:―

   砲4門 第51野戦中隊
   2個戦隊 第13ベンガル槍騎兵隊・・・・     槍151本
   2個中隊 サマセットシャー軽歩兵隊・・・・ ライフル186丁
   第20パンジャブ歩兵隊・・・・       ライフル400丁

合計約750人の兵士。敵の数は6000であった。それでも、すぐに攻撃することが決定された。

その後の戦闘についてはマラカンド野戦軍の運命と遠隔的に結びついているため、詳細に説明するつもりはない。前進する歩兵は、600ヤードの前線でしか攻撃できなかった。敵の陣地ははるかに長く、素早く両翼を回り込んできた。厳しい銃火となった。多数の死傷者が発生した。退却が命じられた。アジア型の戦争でよくあるように、それはかなり切迫していた。九時頃の状況は危機的であった。このとき、ペシャワル地区の指揮官であるエルズ准将が戦場に到着した。彼はすぐに、第13ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊にうまく右翼に移動し、正面へ突撃して敵の前進を阻止するよう命じた。運動会のときのように「撃ち方やめ」が号令された。そして一時停止した。騎兵隊の動きはほとんどの部隊から見えなかったが、突然全員が敵の銃火の緩みに気づいた。そして部族民が混乱して退却しているのが見られた。騎兵の力が著しく発揮された。巧みに率いられた二個戦隊は、理論家が不可能な路面と呼ぶであろう大きなヌラーの川床の上の一.五マイルの見事な突撃を成し遂げ、そして岩と石の間で速歩にペースを落とした。敵は戦野から追い出された。六十人が実際に槍騎兵に突き刺され、残りは気落ちして無秩序に辺境の向こうの彼らの丘に退却した。

死傷者は次のとおり:―

                イギリス軍将校
  重傷―A.ラム少佐        サマセットシャー軽歩兵隊
    ―S.W.ブラッカー大尉   王立砲兵隊
    ―E.ドラモンド第二中尉   サマセットシャー軽歩兵隊
  軽傷―A.V.チェーン中尉    第13ベンガル槍騎兵隊

                イギリス軍下士官と兵
                         死亡  負傷
  第51野戦中隊、王立砲兵隊     ・・・・  0   2
  サマセットシャー軽歩兵隊      ・・・・  3   9

                現地兵

  第13ベンガル槍騎兵隊       ・・・・  1  12
  第20パンジャブ歩兵隊       ・・・・  5  35
  その他               ・・・・  0   1

          総犠牲者数、すべての兵士―  72

こうした蹂躙はこれらの野蛮人による英国領土の意図的な侵害であり、「フォワード・ポリシー」であろうが「フォワード・ポリシー」でなかろうが罰せられないままであることはもちろん不可能である。しかし、インド政府がブナヴァルの問題に示したゆらぎとためらい、カイバル峠の要塞の衝撃的で不名誉な遺棄がすべての人心に新しかったため、モーマンド族討伐の命令は軍全体に最大の安心感をもって受け入れられた。司令官が準備した作戦の全体的な計画は次の通り:―

1.ビンドン・ブラッド卿とマラカンド野戦軍の二個旅団は相応の騎兵と砲とともに南バジャウルを通ってナワガイに移動し、9月15日にその場所からモーマンドの地に侵入する。

2.同じ日にエルズ少将が同じ戦力でシャブカドルを出て、国境の山へ入り北東に進軍して合流する。

3.これがなされた後、ビンドン・ブラッド卿の最高指揮下に連合軍はモーマンドの領域を通ってシャブカドルに戻る。ついでに彼らはハッダ・ムラーのジャロビ村に対処し、部族民の服従を確実にするために罰を与えることが必要となるであろう。軍はその後、既に組織することが決められていたティラ遠征隊に利用されることになるであろう。

ナワガイを出た後、その地の地形については何も知られておらず、地図が存在しない/途中に食糧、飼料、水の供給が存在しないという事実がこれらの作戦の準備と実行を幾分困難なものとした。配給の問題に関しては広いマージンを認める必要があり、現地のすべての不測の事態や障害に備えるため、ビンドン・ブラッド卿は第2旅団にラバ輸送を完全装備した。道路が通行可能であれば、ラクダを伴った第3旅団が続く。

用いられた軍の構成は次のとおり:―

               一.マラカンド野戦軍

   指揮―ビンドン・ブラッド少将

                   第2旅団

   ジェフリーズ准将 C.B.
  バフ隊
  第35シーク隊
  第38ドグラ隊
  ガイド歩兵隊
  第4中隊(ベンガル)工兵隊
  第7山岳砲兵中隊

                   第3旅団

   ウォードハウス准将
  女王陛下の連隊[この連隊は第3旅団ではゴードン・ハイランダーズと交代した。]
  第22パンジャブ歩兵隊
  第39パンジャブ歩兵隊
  第3中隊(ボンベイ)工兵隊
  第1山岳砲兵中隊 王立砲兵隊

              騎兵隊―第11ベンガル槍騎兵隊

         連絡線 第1旅団

  メイクレジョン准将
  王立西ケント隊
  ハイランド軽歩兵隊
  第31パンジャブ歩兵隊
  第24パンジャブ歩兵隊
  第45シーク隊
  第7英国山岳砲兵中隊
 そして、次の追加部隊:―
  1個戦隊 第10ベンガル槍騎兵隊
  2個戦隊 ガイド騎兵隊

               二.モーマンド野戦軍

                  第1旅団

  第1大隊 サマセットシャー軽歩兵隊
  マキシム機関銃支隊 第1大隊デボンシャー連隊
  第20パンジャブ歩兵隊
  第2大隊 第1グルカ隊
  AおよびB分隊  第5英国野戦病院
  3個分隊 第31現地野戦病院
  A分隊  第45現地野戦病院

                  第2旅団

  第2大隊 オックスフォードシャー軽歩兵隊
  第9グルカライフル隊
  第37ドグラ隊
  CおよびD分隊 第5英国野戦病院
  第44現地野戦病院

                  師団
  第13ベンガル槍騎兵隊
  第3山岳砲兵中隊 王立砲兵隊
  第5(ボンベイ)山岳砲兵中隊
  第5中隊(ベンガル)工兵隊
  第28ボンベイ先発工兵隊
  第1パティアラ歩兵隊
  CおよびD分隊 第63現地野戦病院

遠征軍の実際の動きを記録することは、その物語を語ることに着手した者の最も重要な義務の一つである。明快で簡潔であるため、また興味のない読者は読み飛ばしてしまうであろうから、私はビンドン・ブラッド卿がパンジコラ川を渡って旅団を移動させた行軍と作戦の全体を速やかに説明しようと思う。マラカンド野戦軍がゴーサムに無事に宿営した後、振り返って読者にその景色を観察し、道中の出来事に注目してもらうことにする。

8月末、ラバ輸送を備えた第2旅団はスワット渓谷のカルにいた。第3旅団はウチにいた。9月2日シムラから明確な前進命令が届いた。この指示に従い、ビンドン・ブラッド卿は数日前にあらかじめウチから移動していた第3旅団のウォードハウス准将に命令を出した。ディリのカーンの徴集兵隊からパンジコラ川にかかる橋を引き継ぎ、通路の安全を確保するべし。6日、第3旅団がサライからパンジコラまで行軍し、ギリギリのところで橋が敵の手に落ちるのを防いで確保した。敵は既にそれを占領するために集まっていたのである。第10野戦中隊の12ポンド砲が通路を見渡す強力な位置に配置され、旅団は左岸に宿営した。同じ日にジェフリーズ准将が司令部とともにカルからチャクダラまで行軍した。7日に彼はサライに進み8日にパンジコラの渡渉を果たし、更に先のコトカイの土手でキャンプした。10日、両旅団はゴーサムに行軍し、そこで合流した。マラカンドとの連絡線ではチャクダラとサライに病人と負傷者のための宿場が設置された。パンジコラの背後に前進兵站部が設営され、それを守り、通路を保持するための追加部隊がスワット渓谷から移動した。

細部が機械的に非常にうまく機能したゴーサムでのこの集結に対して、バジャウルと隣接する谷の部族民が反抗的態度を取らないはずはなかった。大きな会合が開かれ、9月7日までは断固とした抵抗のすべての兆候が見られていた。恐るべき連合体が現れたためゴーサムまたはその近辺での戦闘を予測して、ビンドン・ブラッド卿はおそらくテル・エル・ケビール以降英国のどの戦闘よりも大規模となる六個戦隊、九個大隊、三個砲兵中隊を自由に使えるよう手配した。[この勝利においてイギリスの死傷者に関して多くの誤解が存在する。よって、二十分間の戦闘で11人の将校と43人の兵士が死亡し、22人の将校と320人の兵が負傷したことをはっきりと述べておかなければならない。]

しかしこの予測は失望に変わる運命にあった。強力な部隊の整然とした容赦ない前進は部族民を警戒感で満たした。彼らはパンジコラ橋を占領しようと中途半端な試みをした、そして機先を制されていることに気づき、再び議論に入った。不決断のこの局面において政務担当官はそのすべての術策を弄した。そして突然、私たちの行く手に集合した巨大な連合体の全てが、基部を南の海に溶かされた氷山のように崩壊した。

博愛主義者が何と言ったとしても、部族民が公然とはっきりした立場で前進に抵抗するよう勧めるのが良い方針であったと思わる。もし彼らがそうしていたなら、地上のあらゆる場所を知り、奪い合ってきた勝利者である指揮官の下の強力な大砲に支援された二個の強力な旅団が彼らにひどい損害を与えて打ち負かしたことは間違いない。バジャウルは一撃で片付き、おそらく人命の損失はその後に発生したそれよりもはるかに少なかったであろう。そうではなく、抵抗を分散することが私たちの外交の目的であった。重大な局面になるべきであり、そして手術されるべきであったこの炎症は今や全身に撒き散らされ、今後の章でその結果が示されることとなる。

こうして旅団が無事にゴーサムに着いたため、読者には一旦マラカンドに戻り、そこから司令部スタッフの行軍に同行してもらうことにする。9月5日、私が同行を喜びとするビンドン・ブラッド卿とそのスタッフはキャンプを出発し、カル平野を越えてチャクダラへと進んだ。この絵のような要塞の風景と状況についてはすでに説明したが、ここで夜になったため私たちは休止し、行軍は翌朝遅滞なく続けることとなった。チャクダラからサライまでは十二マイルの行程である。カトガッラ峠の頂上に達するまで道は絶え間なく谷を上っている。「カトガッラ」は「喉を切る」を意味し、実際この陰気な隘路が暗くて恐ろしい行為の現場であったと信じることは難しくない。そこから二マイル下るとサライである。途中私たちは第2旅団と出会い、ラバの長い列と行軍する兵を避けるために道路を離れなければならなかった。

サライの谷の幅は約二マイルで、そこから急峻な山が立ち上がっている。すべての小尾根に古代の仏教徒の住居であった赤レンガの遺跡を見ることができる。放り出され、忘れられてから長くなる初期の文明のこれらの遺物は、関心を刺激し、内省を目覚めさせずにはおかない。それは、「パンテオンから犠牲の煙が昇り、フラビア朝の円形劇場にキリンとトラが繋がれたとき」の時代に心を立ち返らせる。そしてそれは私たちに未来までも推測させる、いつの日か旅行者が平然と落ち着いて英国のかつてのインド保有を示すわずかな石と鉄の欠片を調査するのだろうか。実際、残るものは僅かであろう。私たちが目下の利益のため、未来でなく現在の虚飾のために築くのであれば、私たちがいつか世界で力を失ったとき、その痕跡は時間とともにたちまち消し去られるであろう。しかし、おそらく、遠い後世のいまだ生まれぬ批評家が、インドの歴史のどの時期よりも「古イギリスの時代」に米の収穫が豊富で、耕作中のエーカー数が多く、人口が多く、死亡率が低かったことを覚えているとしたなら、私たちには記念碑などなくともピラミッドに優る栄光があるであろう。

私たちは6日の夜に第2旅団と一緒に宿営し、翌朝星がまだ輝いている間に行軍を再開した。サライから五マイルの所で道は細くなりラバの踏みならした道になる。そしてこの先は車輪の通行には適していない。それにも関わらず、第10砲兵中隊はそこを通って砲を移動させることに成功し、安全にパンジコラ川に運んで行った。実際、兵士は敵に近づくために多くのことを成し遂げるものである。川の峡谷の前に広がる景色は陰鬱であるが壮大である。大きな崖がその先の土手に急峻に聳え立ち、道は岩の壁で途切れている。川の流れは速く、橋の約一マイル下流で狭い裂け目に突入して山間に消える。そこには魚がたくさんいるが、流れが速く危険である。そして軍がその近くに野営している間に二人の砲手が落水して命を落とし、流れ去った。確かに数頭のラクダの死体が押し流され、渦に巻かれて、岩に打ち付けられるのを見るにつけ、その事故を理解することは難しくなかった。

ようやく橋に到達する。それはワイヤーロープで支えられた脆弱な構造物である。両端には小さな泥の塔に隣り合った門がある。砲台は右側の小丘の上に設置され、砲身の長い砲は銃眼から反対側の丘を覗き込んでいた。これらの丘の基部の周りで、チトラル戦役において多くの厳しい戦いが行われた。橋から約半マイル先に、ガイド隊が非常に強く圧迫された場所があった。圧倒的な数の部族民のため一晩中窮境に立ち、大佐が殺され、橋が壊れ、川が洪水に襲われたのである。

野外電信は橋頭で止まっていた。そして半ダースの軍事通信士がいる小さなテントがあって、何千マイルもの海と陸地を通って私たちとロンドンをつないでいる細い糸が切れたことを示していた。この先は明滅するヘリオグラフを備えた信号局の短信が唯一のリンクとなる。私たちは電線の末端にいた。私はしばしば反対側の末端に立ってニュースが届き次第テープマシンがカチカチと打ち出すのを見たものである/軍の動き/行動の見通し/戦い/死傷者。なんと光景が違うことであろうか。秋の夕方のクラブ―メンバーは心配そうに寄り集まっては議論し、疑問を投げかけ、主張したものである/外の交通の雑音/タバコの煙と電灯の中で。そして電線からたった一時間離れた場所には渦巻く泥水に明るい日光が輝き、峻厳な黒い岩、谷の一マイル上には旅団の白いテント、川沿いには鮮やかな緑の水田の長い縞が連なり、そして前景には茶色い服の武装した男たちがいる。どちらの末端に居るべきであるかについて、私は全く疑いを持たない。ニュースを得るよりもニュースを作る/批評家ではなく俳優になるべきである。

橋を渡るには、鞍を降りて馬を引いて一列に並ぶ必要があった。それでも構造物全体が揺れるので歩行は困難であった。そのような条件下での輸送隊の通行には終日を要し、ラバの長い列を担当する不運な将校は絶えず働いていた。しかし、司令部スタッフはすぐに通り過ぎ、約一マイル先でジャンドル川の支流の浅瀬を渡り、正午頃にコトカイのキャンプに到着した。そして翌日私たちはゴーサムに進んだ。しかし道路については興味深いものではないので、読者はこれ以上の説明を快く免除してくれるのではないか、と私は思い始めている。私たちはホコリと暑さに難渋してそれを行く必要はない。様々な事件によって注目されることのない、軍の日常の動静を語ることは単調でウンザリするものである。しかしげ従軍中の兵士の生活を真に理解しようとするなら、行軍の疲労とキャンプの単調さを精神的に共有する必要がある。優れた功績、戦争のスリリングな瞬間は情勢のハイライトに過ぎず、その背景はルーチンの重労働で不快なものである。

第2旅団はゴーサムで第3旅団と合流し、政務担当官と部族民のジルガ(*民会)との間の保留中の交渉に参加するまで残った。

すべての文書において純粋にローカルな用語を使用することは推奨されない。インドに広く普及した歴史が存在しないのは、おそらくキャラクターの異様な名前とその別名が記録を散在させてしまっているためであろう。この記事において私は訛った言葉の聞き苦しい方言を避け、現地語の使用を最小限に抑えるよう熱心に試みた。しかし最近採用されたばかりのこの用語は、おそらくその意味を説明するのに都合が良いため、このごろ新聞でとても大っぴらに使われている。ジルガは部族民の代表団である。必ずしも部族全体を代表しているとは限らない。それは―非常に多いことだが―少数派の申し入れに過ぎないのかもしれない。それは時折、そのメンバーだけの意見を述べていることがある。したがってある日に決まったことが翌日にしばしば無効になる。ジルガが朝に和平の協約を受け入れるかもしれない、そしてキャンプはその夜急襲されるかも知れない。しかし今の彼らは本物であり、部族の名前と権威において話をした。彼らは政府の協約を聞くため、終日ディーン少佐のテントの前にやってきては並んで座り続けた。課せられた主な条件は、ライフルの引き渡しであった。財力と人口の計算に基づいて決まった数が各一族に要求された。闘争に明け暮れる人生を送っている人々にとって、この刑罰の方法は特別癪なことだった。しかし、他の道は開かれておらず、服従し、協約を遵守することを約束して代表団は出発した。彼らの武器を集める努力と熱意を促すために合同作戦は三日間遅らせられ、軍はマンダの近くのゴーサムに野営した。

私はこの休みを利用して、少なからず胸騒ぎがするが、ディリとバジャウルの部族政治のもつれた、不明瞭な問題に触れようと思う。助成金の支払いによって恩恵を受けている人々を除いて、僧侶によって扇動されたすべての人々は英国政府に対して苦々しい敵意を持っている。今や彼ら戦うことを切望しており、怒りや狂信によってたやすく乗り越えられる恐怖に縛られているだけであった。地域全体に四人の主要なカーン(*アジアの王族、貴族の称号)が存在し、絶対的な支配権からうっすらとした宗主権まで、地域ごとに異なる権力を行使している。最も重要なディリのカーンは政府に公認されている。彼はイギリスの影響力に支えられており、すでに言及したようにチトラル道路を保護し、維持するための徴集兵を集めることを委任されている。これらの仕事によって彼は報酬と一定の武器弾薬手当を受け取る。領民は彼の英国への共感を嫌悪しているためその支配に強く反発しており、彼が自らを守る助けとなっているのは政府が与える武器と金銭だけである。言い換えるなら彼は人形である。

ナワガイのカーンは恐怖によってインド政府に友好的な態度を示すことを強いられていた。領民はこれに憤っており彼の立場は不安定である。彼はイギリスのエージェントからいくらかの無形援助を受けており、領民は政府がいつまで彼を支持し続けるかが不明であり、また彼の困難な立場を部分的に理解しているため、これまでその支配に嫌々服従してきた。

ジャーのカーンの地位と態度はそれに似ているが、彼はそれほど影響力のない首長である。四番目の実力者であるカル(*マラカンド峠の麓のカル平原とは別。マムンド渓谷直下の平原。)のカーンは、おそらく最も正直で信頼できる人物である。彼は後の章に登場し、そして読者は彼の行動からその性格を判断する機会を持つであろう。このように、これらの谷では人々はすべて敵対的であるが、その支配者はイギリスに対して友好的な態度を維持することが好都合であり、それゆえ彼らは領民に嫌われている。

この場において人気のある一派のリーダーは注目に値する。いつものことながら彼は不在である。1895年のチトラル遠征の後、ウムラ・カーンはその領地から追放され、カブールに逃げた。彼はそこに留まっていた。アミールは英国政府に対してバジャウルで彼が問題を起こすことを防ぐ義務を負っていた。アミールが戦争を望むならば、彼はウムラ・カーンを送り返すであろう。これは地域全体、特にジャンドル渓谷、サラルザイ渓谷、およびマムンド渓谷に強い徒党を作り、イギリス人とこれに友好的なカーンに敵対するであろう。アミールはインド政府への最近の手紙でこのことをほのめかした/そして、そのような一段階はおそらく彼の宣戦布告に先立つか、私たちのそれに引き続くであろう。しかしアフガニスタンの元首は自分に王位を与え、それ以来助成金によってその収入を増加させた大きな権力に戦争の挑発をすることによって目下得るものがなにもなく、多くの物を失うことを知っていた。一方、自らの国境の部族への影響力を維持し、自分が強力な敵になり得るという事実をインド政府に印象づけることを強く望んでいるため、彼は機会が訪れたら切るべきトランプ・カードとしてウムラ・カーンを持ち続けているのである。追放されたカーンはバジャウルにおける権威を維持するために郎党を武装させ、養うための資金を十分に供給されていた。

このように簡単に説明した状況は、以下の章に関わる作戦によってほとんど変更されなかった。軍事デモと抵抗した部族に課せられた厳しい処罰が友好的なカーンの忠誠心と地位を強化した。一方、戦争によって人々の敵意が異常に増大することはなかった。そしてある特別な一部族は彼らに将来的にトラブルを起こす力を与えるであろうその勇気に対する名声を得た。しかし、私はそうした話を先取りしないことにしたい。


第九章:調停

両旅団の歩兵隊がマンダ近くのゴーサムで停止している間に、騎兵隊はあらゆる方向に毎日偵察を行った。視界にある対象は地形学的であり、時に軍事的であり、他の者には外交的、インド的応用でその言葉を使うなら「政治的」であった。

10日、ディーン少佐はジャンドル渓谷の様々な首長を訪問した。私は彼に同行の許可を求め、了承を得た。手の空いているすべての人々は暑くてほこりっぽいキャンプからの転地に乗り気であり、結構な一団が結成された。その中にはビートソン少佐、ホブデイ少佐、フィンキャッスル卿など既に本書に登場した名前もあった。第11ベンガル槍騎兵隊の戦隊が護衛を務めた。

ジャンドル渓谷は約八マイルの長さがあり、幅はおそらくその半分である。パンジコラからナワガイまで続く主渓谷に始まり、他のすべての側面は高く険しい山々に囲まれている。川床には私たちの訪問時には小さな小川が流れているだけだったが、ほぼ半マイルの幅がある。隣り合った水田には巧みに工夫された堤と水路によって水が導かれている。平原自体は乾燥して砂だらけであるが、冬には中等度の収穫が得られる。多くのスズカケノキの木立が地下水の存在を証明している。

この谷は自然および政治的特徴において、アフガニスタンの谷の典型と見なして良いであろう。七つの別個の城が七人の別々のカーンの拠点を形成している。これらの有力者のうちの数人がマラカンド攻撃に関係しており、要塞への私たちの訪問は完全に友好的な性質のものではなかった。死ぬまで戦うという最も神聖な誓いを結ぼうとして、彼らは丸四日間を費やした。しかし大きな部族連合は崩壊し、間際になって彼らは和平を決定したのであった。しかしパシャン人は中途半端なことはしない。険悪な表情や不機嫌な沈黙でその歓迎の温かさを損なうようなことはしない。私たちが最初の要塞化された村に近づくと、支配者とその軍勢は私たちに会いに馬で出てきた。そして多くの言葉で忠誠を主張し、私たちの無事な到着に喜びを表明した。彼は見栄えが良く、スタンピング・ローンの種牡馬に姿よく騎乗していた。その服装は印象的であった。金のレースに厚く覆われたゴージャスな深紅のチョッキから、手首をボタンで留めた白いリネンの流れるような袖が伸びていた。また長くてゆるい、だぶだぶのリネンのズボンも足首の上で留められていた。そして靴の先端は奇妙に尖っていた。この印象的な装いは豊かに刺繍された小さなスカルキャップと装飾用の剣によって完成されていた。

彼は優雅に機敏に馬を飛び降りてディーン少佐に剣を捧げた。少佐は騎馬して同行するよう告げた。兵は毛むくじゃらのポニーに乗った四―五人の悪辣な見かけの男たちで、かなりバラバラの様式のライフルで武装しており、距離を置いて後に続いた。砦は百ヤード四方の囲いであった。その壁はおそらく高さ二十フィートで、泥で塗りつぶされた粗石と散在する木材の層で築かれていた。その上部全体に沿って銃眼が並んでいた。それぞれの角には進入路に縦射を加えるための高い側面塔があった。この好戦的な住居の門には約二十―三十人の部族民が集まっていた。率いていたのは年配で長い白いローブを着たカーンのいとこであった。全員が私たちに厳粛な敬礼をした。護衛が間隔を詰めた。一団が砦の射程圏内から速足で出て行った。前進偵察隊は壁を周って遠い側に位置をとった。こうした細かな事柄が遵守された後、会話が始まった。それはパシュトゥ語で行われたので、当然ながら二人の政務担当官以外の私たち一団の全員には理解できなかった。どうやらディーン少佐は二人の首長の行動を非難したようである。彼は彼らがパンジコラにかかる橋を奪取して、マラカンドを攻撃するために集まった狂信的な群衆に通路を提供したことを非難した。彼らはいかにもあっさりとこれを認めた。「では、なぜいけないのか?」彼らは言った/「良いフェアな戦いがあった。」今、彼らは和解しようとしている。彼らは悪意を持っていない。なぜサーカーが持つのか?

しかし、このスポーツマンのような状況の見方を受け入れることはできなかった。引き渡すよう命じたライフルはどこにあるのか、という問いがなされた。これに彼らはぽかんとした。ライフルなどなかった。ここにはいかなるライフルもあったことはない。兵士に砦を捜索させて彼ら自身に見させなさい。命令が出された/三、四人のスワールがカービン銃を構え、下馬して、疑わし気に少し開けられた大きな重たい門に入った。

門は小さな中庭へと通じており、それは内部の防衛側によってあらゆる側面から見渡されていた。目の前には、規模が良く分からない大きな低い部屋があった。一種の番所である。男たちのざわめきがあるだけだった。外壁は五フィート近くの厚さがあり、山砲の砲火にも耐えられたであろう。強力な建造物であった。

武器の捕獲作戦に慣れている槍騎兵隊は予想される一般的な場所を急いで捜索したが、何も見つからなかった。しかし彼らはあることに気づいて、すぐに報告した。砦には女性や子供がいなかった。これには不吉な側面があった。私たちの訪問は予想外であり、彼らは驚いたが既に全ての緊急事態に備えていた。彼らはライフルを隠し、戦闘の準備をしていたのである。

二人の首長は優れた善良さで微笑んだ。もちろん、ライフルはなかった。しかし、事態は彼らにとって予想外の方向へと向かった。彼らはライフルを持っていなかった―ディーン少佐は言った―よろしい、それでは彼ら自身が来なければならない。彼は槍騎兵隊の将校を振り向いた/一つの分隊が前方に進み、二人を囲んだ。抵抗は無駄だった。逃走は不可能だった。彼らは人質であった。しかし彼らはオリエントの落ち着きをもって行動し、避けられないものを冷静に受け入れた。彼らはポニーを用意させ、騎乗して私たちの後について護送された。

私たちは谷を登って行った。各砦に近づくと、カーンとその郎党が出てきて私たちを出迎えた。これに際して明らかな悶着はなく、関係は終始友好的であった。谷の頂上はこれらの中で最も強力な小君主の本拠地、バルワである。この砦はウムラ・カーンのものであり、その卓越した建築様式がその非凡な男の知力の発達を証明していた。チトラル遠征の後、それは政府によって現在の所有者に与えられた。しかし彼は谷の他の族長たちと自らのほとんどの近親者らに酷く憎まれ、イギリスへの忠誠以外の選択肢はなかった。彼は私たちを丁重に迎えてくれた。そして砦に入って中を見るよう私たちを誘ってくれた。すべての予防措置を取り、歩哨を配置した後でこれは行われた。それは私が見た中でアフガン建築の最高の見本であった。まさにこの砦でファウラー中尉とエドワーズ中尉が1895年にウムラ・カーンの捕虜として監禁されていたのである。新しい主がバルコニーの開いた部屋を見せてくれ、そこから渓谷全体の素晴らしい景色を見ることができた。監禁用のより悪い場所は沢山あった。砦は注意深く防御され、さまざまな進入路を完全に見渡すことができた。銃眼と塔の賢明な配置がすべての死角をカバーしていた。壁の内側のブラシウッドの回廊から防御側が身体を晒すことなく銃撃できるようになっていた。中央には塔があった。運命の女神が微笑まない場合にはそこが守備側の最後の拠点となるのである。

ここに明らかにされたのは何と奇妙な共同体のシステムであろう!背後に山を背負い、谷の残りの部分、すべての同族に対して、死の恐怖と戦争の可能性を常に心に留めつつ、部分的に武力で、部分的に英国のエージェントの支援によって、また部分的に敵との絶え間ない確執によって生き抜いている男がここにいたのである。

これらの谷間では「万人対万人(*の闘争)」である。逮捕された二人のカーンは丘に逃げることもできたであろう。彼らは罰されることを知っていた。それでも彼らは自らの要塞を離れることを敢えてしなかった。おそらく隣人、親族、兄弟が無防備な砦に足を踏み入れ、それを我が物としてしまうからである。これらの砦のすべての石は裏切りで血塗られており/土地は一エーカー毎に殺人現場である。バルワでは、ウムラ・カーンが兄弟を殺した。憤怒や堂々とした戦いによってではなく、背後から冷淡に計画的に殺したのである。そのように彼は権力を獲得したのであるが、モラリストは身震いしながら「フォワード・ポリシー」さえなければ彼はおそらく今日を完全に満喫していたはずである、と言うかもしれない。このウムラ・カーンは多くの才能を持っており、知性において同胞よりはるかに抜きんでていた。辺境ではそれは偉大な殺人者であったということを意味するが、彼は偉大な男であった、そして彼は交渉中であった速射銃と「ヨーロッパモデルで」訓練していた軍隊によって多くのことを成し遂げていたかもしれない。しかしインド政府の意思による表や裏からの介入によってこのアフガニスタンのナポレオンのキャリアは断たれた。彼を利用することができたかもしれない。イギリスの支配力に触れた強い男は共に働くのに最適な道具であり、ウムラ・カーンの鼻柱を折って感服させてから元の地位に復帰させたなら、彼は法と秩序を維持するための役に立ったかもしれない、と辺境をよく知る人々は言う。戦う際にアフガン人はどちらの側で戦うかをあまり気にしない。今日、私たちを手伝ってくれる悪い男たちと悪い同盟者がいる。実務に疎い人は私たち、世界で重要な位置を占める人々、がいったいどうしてこれらの国境の首長たちのせせこましい陰謀に関わり、そのような道具を使って手を汚さなければならないのか、と疑問に思うかも知れない。大英帝国が一人の残忍なカーンをその隣人に、または一つの野蛮な部族を別のそれに対抗させてバランスを取るのは適切なことであろうか?それは百万長者が砂糖鉢の角砂糖を数えるのと同じくらい、私たちの帝国の威厳をはるかに下回っている。しかしこの地域を占領することが私たちの所有物の安全のために必要なのであれば、それを強力に支配していなければならない、ということに私たちの自尊心はより同意しやすいであろう。それについてはもっと威厳があったほうが良いのかも知れない。しかし威厳を保つことほど費用がかかるものはない。そして、私たちが現在の誇り高い地位に到達できたのは、この点において常に健全な商業の原則に導かれてきたためであろう。

要塞の周りを見て、それを構築した手腕と知識を賞賛した後、私たちはカーンに砦の壁からほど近い小さな泉のほとりの美しいスズカケノキの木陰に案内された。ここには非常に快適であるが通常は虫がいっぱいいる沢山の網縁台や現地のベッドがあり、その上に私たちは座った。

マイザル、その他の多くの辺境での歓待事件を忘れるわけにはいかないので、すべての進入路に歩哨が置かれ、十分な護衛が戦闘態勢を維持していた。そして私たちは朝食を―最も素晴らしい朝食を―摂った。

辺境軍の部隊の快適さと利便性のための準備には比肩するものがない。彼らはアルダーショット軍事演習におけるイギリス連隊より快適に、より不快感の少ない現役生活を送る。行軍が長くても短くても、平和的でも対立的でも、戦闘が成功しても失敗しても、その兵站部は決して失敗することはない。実際、敵には常に槍と弾丸があり、友軍にはサンドイッチと「ペグ(*テントを張る小杭、洗濯ばさみ)」があるというだけである。

この機会に、私たちの糧食はカーンのもてなしで補われた。食べ物を背負った男たちの長い列が現れた。ある者は梨やリンゴといった果物/他の者は山積みのチャパティ(インドの種なしパン)やピラフの料理を持ってきた。

私たちの騎兵隊も忘れられてはいなかった。その中のマホメダンは、提供された食物を遠慮なく受け入れた。しかし、シーク教徒は済まなそうに沈黙を保ち、辞退した。彼らはイスラム教徒の手で調理されたものを食べることができなかった。そこで彼らは食欲をそそる料理を物欲しそうに見つめながら座って、少しばかりの果物で満足することにした。

その高い徳を痛々しいほど意識している彼らの姿は非常に厳かで立派であった。しかし私は、もし傍観者が私たちではなかったなら、スズカケノキが宗教的偏見に対する理性の勝利を目撃していたかもしれないと考えずにはいられなかった。

日中の暑い間を私たちはこの心地よい木立で休み、睡眠と会話で何時間も過ごした。これがより好意的な土地でのピクニックパーティーである、という幻想を壊すものはあちこち歩き回る歩哨だけであった。そして影が長くなったので、私たちはキャンプへの帰還を開始した。

到着するとすぐに政務担当官は喜び、兵士たちは失望した。部族民が政府との協約を受け入れる決心をしたことが判明したのである。ウトマン・ケル族のライフルはすでに百丁が引き渡されており、今ではディーン少佐のテントの外にあり、それらの調査に忙しく従事している将校の群れに囲まれていた。

旅行や戦争の物語において、物語の中に結論や議論を散りばめるのと、最終章にそれらすべてを集めるのとでは、どちらが望ましいかについては意見が分かれており、どちらかの意見に従って実践されてきた。私はためらうことなく前者の方法をとることにする。物語はそれが起こるに従って語られるものであり、途中で考察や内省が生じるに従って読者の注意はそこへ向くものだからである。したがって、ゴーサムのキャンプのメインストリートに百丁のライフル、おそらくそれが全てではない百丁のライフルが積まれている現在、辺境部族への武器の供給問題の余談を語ることは適切である。

その中に国境の人々が生きる永続的内戦状態は、当然致命的武器に対する強い要求を生む。良いマティーニ・ヘンリー・ライフルは、この地方では常に400ルピーまたは約25英国ポンドの値段で買い取られる。このようなライフルの実際の価値は50ルピーを超えないため、意欲的な商人には非常に大きな利ざやが生じることは明らかである。辺境全体で、そしてずっと下のインドでまでも、ライフルは熟練したずる賢い泥棒に盗まれる。ラグマン渓谷(*ジャララバード北西の谷)に住んでいるウト・ケルという一部族は武器の運輸を特別な生業としていた。その泥棒は最も大胆で、その代理人は最もずる賢かった。彼らのやり口のいくつかは非常に巧妙であった。一つの話は繰り返す価値がある。棺桶が鉄道輸送に提出された。故人の親族が同行していた。彼らは死んだ男は辺境に埋葬されることを望んでいたと言った。臭いは死体の腐敗が進行していることを示していた。鉄道職員は非常に不快な物体の通過のためにすべての施設を提供した。経過を確認した者はいなかった。それは近寄りがたいものであった。棺桶と会葬者が安全に辺境へ渡って行った後に初めて、一ダースのライフルが棺桶の中に隠されており、四半身の「よく熟成した」牛肉が死体の代わりに入っていたことが警察に知らされた!

残念ながら、辺境部族が武器を入手する手段は盗難だけではない。ウトマン・ケル族が引き渡した百丁のライフルのうち三分の一近くが政府のマティーニ銃であったと宣告された、政府の刻印があったのである。現在ではそういうライフルは存在しないと思われる。そうした宣告がなされるとたちまち、破棄されたそれらについて兵器庫当局が責任を問われる、これはヨーロッパ人の監督の下ではすべての事例において行われることである。そのようなライフルが破棄されずに国境部族民に所有されているという事実は、兵器庫に関係する誰かが不正で違法な輸送を行っているということの非常に重要な例証である。徹底的な調査が行われたことは言うまでもない。

これらのライフルに関連するもう一つのポイントは、三つに切断して正式に破棄された場合でも、その断片には市場価値があるということである。部族民によって再結合されたものを私はいくつか見た。もちろん、これらは非常に危険な武器であった。百丁の中には他にも奇妙な逸話を持つものがあった。二―三丁はロシアの軍用ライフルであり、おそらく中央アジアの遠い基地から盗まれた。一丁はマイワンド(*アフガニスタン西部)で奪われたスナイダー銃であり、それが属していた不運な連隊の番号を帯びていた。いくらかはおそらくヨーロッパからアラビアとペルシャの陸地経由で/その他はカブールの武器工場から来たのであろう。それは需要を満たすための供給のたゆまぬ努力の一風変わった事例であった。

武器問題の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。大辺境戦争を独特なものとした長距離ライフル射撃は新しい特色である。これまで私たちの部隊は大胆な剣の攻撃に直面しなければならなかったが、発砲に直面することは比較的少なかった。前者に対し、近代兵器は効果的である。しかし、どんなに訓練しても、いかに有能であろうとも、弾丸が兵士に当たるのを止めることはできない。これは問題のほんの一部である。戦いにおいては部族民に十分なものは兵士にも十分であるべきである。結局のところ栄光の不可分の付随物にすぎない死傷者よりも重大な検討事項が持ち上がってくる。山岳地帯での輸送はラバとラクダに完全に依存している。一つの旅団に補給するだけでも、非常に多くの数が必要である。夜にはこれらの動物をしっかり守られたキャンプにぎっしり詰め込む必要がある。近くの丘から見渡せず、ヌラーから攻撃されないキャンプ場を谷に見つけることはできない。歩哨を出すことは「剣で突撃されたり」、激しい攻撃の際に敵の本隊の銃火で仕留められたりする危険がある。[これは剣の突撃がまだ懸念されているスワットとバジャウルに当てはまる。]その結果、輸送動物は夜間に長距離銃火にさらされなければならない。記事が進むにつれて、読者はそのように
輸送用ラバが大量に殺されるのを二度見ることになる。ある一定の数が殺されると、旅団は石炭のない機関車と同じくらい無力である。動けない。援助がない限り飢えなければならない。毎年、部族民は優れた狙撃手になり、より良いライフルでより完全に武装する。彼らが私たちの動物を絶えず狙撃するという方針に気づくならば、すべての行動は停止させられるかも知れない。そして、こう考えるゆえに私は辺境で行われることは何でも、できるだけ早く行われるべきであるという結論に達するのである。では話に戻ろう。

翌9月11日、軍隊はゴーサムで停止していたが、別の戦隊が諜報将校であるH.E.スタントン大尉 D.S.O.がウトマン・ケル地方に入る山道の地形的偵察をする際の護衛を命じられた。新しい地図を作成し、既存の地図の詳細を追加および修正する機会は軍隊がその地方を通過するときにのみ発生するため、見過ごしてはならない。道はナワガイへ通じる主渓谷を上っていた。私たちは早めに出発したが、道は長く、峠の入り口に着く前には日が高くなっていた。風景は私が今まで見た中で最も奇妙なものの一つであった。川の対岸にはウトマン・ケル族の住居があり、七マイル✕三マイルのエリアに、堀、塔、小塔を備えた四十六の独立した城を数えた。風変わりな印象が生まれていた。グリム童話が連想された。それはまるで私たちが通常の地上を去り、空想の不思議な国、巨人や鬼のリゾートに迷い込んだかのように思えた。

峠にたどり着くために、私たちは大きな村を横断することを余儀なくされた。道は狭く曲がりくねっており、騎兵にとって想像し得る限り最も厄介なものであった。攻撃に対する防御のために可能なあらゆる予防措置が取られた。ようやく戦隊は安全に通り抜けて、その先で隊列を組んだ。峠への急な登りが見えるようになった。偵察するべきルートが二つあったためパーティーは分割された。急いで朝食をとった後、私たちは上り始めた。かなりの距離を馬上で行くことができた。コース上の全ての難しいターンにはスワールが配置された。急いで戻って来なければならない際の退却の安全を確保するためである。村の首長はガイドとして私たちの安全を大いに心配してくれる陽気で愉快な道連れを同行させてくれた。しかし、これらの人々を当てにすることはできなかった。谷の反対側には前進する隊に歩調を合わせて移動する多くの人影が見られた。やがて馬と付き添いの大部分を放棄しなければならなくなった。私はスタントン大尉と、ロイターの特派員でもある戦隊の指揮官コール大尉と二個騎兵隊とともに峠の上まで同行した。その日は非常に暑く、困難な登山は癒しようのない喉の渇きを引き起こした。やっと私たちは頂上に到達し、コタルに立った。

アレクサンダーがインドへの行軍で山を越えて以来、おそらく白人が見たことはなかったであろう谷を私たちははるか下に見ていた。多くの村々がその奥深くに点在しており、また他の村々は丘に寄り添っていた。離れ離れの砦が目につき、大きな木々は水の不足がないことを示していた。それは登山の努力が報われる景色であった。たとえそれが引き起こした渇きが癒されなかったとしても。

スタントン大尉がスケッチ―あの有用な景色のスケッチのうちの一枚―を作成している間、今や迅速騎兵隊偵察の他のすべてにとって代わって、私たちは親切で清潔なヨーロッパ人ウエーターが近くにいたなら注文して持参させる飲み物の名前を挙げる空想を楽しんだ。私が何を選んだかは忘れたが、それは非常に長くて非常に冷たいものであった。ああ!想像力は現実にどれほど後れていることか。私たちが眼前に思い浮かべた鮮やかな印象―深いグラス、そしてチリンと鳴る氷―は不快感を消し去ることはできなかった。

その間、私たちのガイドは地面にしゃがみこみ、指さされたすべての村の名前を発音した。間違いがないことを確認するために一連の質問が繰り返された。彼は大きな自信と誇りを持って、それぞれを今度はまったく違う名前で呼んだ。しかし発音できなかった名前はどれもこれも同じようなものである。谷の村々は田舎者の気まぐれで命名されて公式の歴史に残るのである。しかし、今では論争不要として受け入れられている多くの記録も、おそらくそのような貧弱な権威に由来しているのであろう。

スケッチが終了して私たちは降下を開始し、問題なく馬のところに辿り着いた。戦隊は村の近くに集結した、そして私たちはもう一つのスケッチパーティが私たちよりも多くの冒険に遭遇していたことを聞いた。

それを指揮していたのはヘスケス中尉であった。彼は若い将校で、1895年のマラカンド峠の襲撃で重傷を負ったが、再び現役に志願して第11ベンガル槍騎兵隊に所属していたのである。峠のふもとで、彼は部隊を下馬させ、数人の兵士を連れて登り始めた。峠は部族民に占領されていた。彼らはさらに前進するならパーティーを攻撃すると脅した。中尉は答えた、自分は反対側にある土地を見たいだけで、誰にも危害を加えるつもりはない。同時に彼は道を進み、部族民も事を荒立てることを望んでおらず、ゆっくりと後退しつつ何度も狙いを定めたが発砲はしなかった。彼は峠の頂点に達し、副諜報将校のウォルターズ中佐はその先の土地の最も貴重なスケッチを作成することができた。それは大胆な行為であり、他のいかなる理由よりもその大胆さによって成功したのである/もし部族民が発砲していたならばパーティーの中に生きて降りることができた者はほとんどいなかったであろう。村を二度も横断することは望ましくなかったため戦隊はそれを迂回して帰り、太陽が沈むとともにゴーサムのキャンプに到着した。

英印旅団の軍事キャンプは、通常の原則に基づいて配置されている。歩兵隊と砲が四角形に広がっている。動物と騎兵は中に置かれる。中央には司令部のキャンプがあり、准将のテントは師団を指揮する将軍のテントに面している。周囲には胸壁が構築されており、敵の近接度と活動に応じて高さが変化する。この胸壁は無作為な銃撃からの防御になるだけではなく、突然の攻撃の場合には兵士が布陣する場所となる。その背後に歩兵隊が横になって眠り、各中隊の一部門は身支度をし、軍装して予備歩哨となる。彼らのライフルはしばしば銃剣をとりつけた状態で低い壁に沿って置かれる。騎兵隊が防衛の一部を担わなければならない場合、彼らの槍も同様に配置されることがある。一列の見張りと共に二五ヤードごとの歩哨がキャンプを囲んでいる。

月明かりの中で景色を見ることだけが、旅に良く値する経験である。たき火は弱まって赤く光る小片になった。銃剣が規則正しく並んだ青白い点の列となって煌めいている。退屈な沈黙は、絶えず落ち着かない動物の動きと時折の馬の嘶きによって破られる。すべての谷は暗闇に沈んでおり、山々は高く黒々と聳えている。それらの側面のはるか上まで部族民の瞬く篝火が見られる。頭上は月の淡い輝きに包まれた星空である。それは芸術家と同様に哲学者にもインスピレーションを与える光景である。キャンプは抑制された物音に満ちている。ここには静かでまじめな思考のための反省の場所はない。その日はエキサイティングなものだったかもしれない。翌日は戦闘があるかもしれない。何人かは殺されるかもしれないが、戦時の命は今を生きるだけである。休息をとるには十分疲れている。そして、キャンプは、それを構成するさまざまなアイテムがすべて個性を持っていると言えるのであれば、肩をすくめて、過去を悔やまず、不安を持たずに未来を見つめるのである。


第十章:ナワガイへの行軍

土地の性質に関して入手できる地図や情報を検討した後、ビンドン・ブラッド卿は二つのルートでモーマンド族の地に入ることを決めた。(1)第3旅団はナワガイ峠を経由する。(2)第2旅団はランバト峠を越える。これによって地域をより徹底的に掃討することになり、補給にさらなる利便性がもたらされることになる。第3旅団の踏破する距離が長いため、第3旅団は第2旅団を追い越し、9月12日に十二マイルを行軍してシュムシュクに到着した。これまで先を行っていた第2旅団は七マイルの楽な行程でジャーまで移動し、支援距離内でキャンプをした。

司令部スタッフは第3旅団に移り、彼らと行軍した。最初の五―六マイルは騎兵隊が前日に偵察していた道路であった。再び、全員が谷のウトマン・ケル側にある多数の城に感銘を受けた。多くの熱血漢は立ち止まって、この素晴らしい場所のいくつかを爆破したいと思ったことであろう。しかし政府の協約は守られた、そして縦隊は白と青を纏った防御者に覆われた砦を不快な軽蔑とともに見つめながらゆっくりと通り過ぎた。

数時間騎行した後、スタッフは澄んだ急流の岸の木陰で朝食をとった。

私たちは二百ヤード離れた水の上にじっと座っているコガモの大きな群れを見た。誰もが興味を持った。たくさんのライフルがあった/しかし、猟銃はどこにあるのか?厳格かつ迅速な検索が行われた。相談を受けた軍の政務担当官デイビス氏は、やがてショットガンを持っている友好的なカーンを見つけた。さらに時間がかかった後、この武器が持ち込まれた。コガモはまだ平気で水に浮かんでいた。猟銃は危険の感覚を目覚めさせなかった。彼らは谷でたくさんの射撃音を聞いていたが、通常は鳥に向かって発射されたものではなかった。エキサイティングな瞬間が到来した。誰が撃つべきか?責任は大きかった。大勢が断った。ついにマン獣医大尉―数日後にナワガイで負傷した―が志願した。彼は銃を取り、苦労して忍び寄った。彼は注意深く這って行った。私たちは感情を抑えながら見つめていた。突然二発の銃声が鳴り響いた。それが最初であり、その後に多くが続いた。200ヤード離れた行軍縦隊の兵たちはすっかり目が覚めた。コガモの群れは急上昇して飛び去ったが、死傷した四羽が後に残された。私たちがこの鳥たちを拾い上げたときの満足感が間違っていなかったことは、その日の夕食での彼らの素晴らしさによって完全に証明された。

さらに一マイルほど行くと約三十ヤード幅のワテライ川であった。これはジャンドル川へと流れ、そこからパンジコラ川に流れ込むのである。これを越えて対岸に上がると、軍はおそらく幅十マイル、長さ十六マイルほどの広く平らなカル高原に出た。高い土地に立てば、谷の規模の大きさが明らかになった。東(*原文では西)を見渡せばパンジコラの背後の丘、以前のキャンプ地、そしてジャンドルに付属する谷の入り口が見えた。正面の奥の端には、山岳地帯の開口部にナワガイの峠があった。左側にそびえ立つのは、コ・イ・モールの大山塊、別名「孔雀山」である。壮麗な峰で、高さは約8000フィート、その頂上はペシャワルとマラカンドの両方から見える。その名前はおそらく訛りである。アリアン(*アレクサンドロス東征記の著者)はメロス山と呼んでいる。その麓に以前はニーサ市が立っていたが、他の多くの都市と同じくアレキサンダーの武器の前に跪いた。その住民は平和を懇願し、政治を「憲法」によって行い、「インドの他の地域では成長しなかったツタがここでは成長した」と自慢した。都市、ツタ、憲法はともに消滅した。山だけが残っている。少し北へ目を移すとラムラット峠が見える。右側ではなだらかな平野が丘陵地帯に流れ込んでいるように見え、直径約十二マイルのほぼ円形の広い山ふところが谷に開いている。顕著な支脈が丘から流れ出て、海の湾と入り江のような、多くの暗い渓谷と深い窪みを形成している。入り口の幅は大体一マイルであった。私が最初に谷を覗いたとき、通り過ぎる嵐の黒い雲が全体に暗く垂れ下こめていて、外の輝く太陽光とは対照的に、もやのかかった薄明かりがそれを満たしていたことを覚えている。それはワテライ、あるいは後に私たちがマムンド渓谷(*モーマンドとは別)と呼ぶ地であった。

カルのカーンは川の向こう岸で将軍に会った。彼は明るい目、ふさふさした黒いひげ、白い歯の、背が高く見栄えの良い男で常に笑顔を見せていた。彼は豪華な服を着ており、十数人の騎手を従えて、ハンサムではあるが御しにくいこげ茶色の馬に乗っていた。彼はビンドン・ブラッド卿を優れた敬意と礼儀をもって迎えた。カーンはパシュトゥ語しか話さないので政務担当官を通じていくらかの会話が行われた。カーンは自分と隣人であるジャーのカーンの忠誠心を力説した。部隊の平和的な通過を安全なものにするためにできる限りのことをするつもりである、と言った。部隊が必要とする物資は自分の力が及ぶ範囲では自分が提供するであろう。彼は行軍する兵士と動物の長い列を心配した。将軍は彼を安心させた。部隊が干渉されたり抵抗されたりしなかったならば、夜間にキャンプに発砲がなかったならば、遅れた兵が彼の領民に殺されたり傷つけられたりしなかったならば、徴発が必要なすべての穀物と木材に対して現金で支払いを行うであろう、と。

カーンはこの約束を感謝と安堵で受け入れ、以後ナワガイとマムンド渓谷で行われた作戦中、忠実で名誉ある行動を保った。その力を最大限に発揮して血気盛んな若者を抑えた。他の部族が反乱に参加するのを思いとどまらせるためにできる限りその影響力を使った。配下の見張りが毎晩私たちのキャンプを監視し、その結果疲れた兵士たちは長く良く眠ることができた。戦いの終わりには政府とマムンド族の仲介をした。それは到底任せられるようなものではなかったが、彼はあるとき注目すべき奉仕を申し出た。第2旅団で兵力と弾薬筒がほとんどなくなった時、郎党とともに弾薬輸送隊を護衛しようというのである。この場合、もし彼が裏切っていたら最も重大な結果を招いたことであろう。しかし領民の反発と隣人からの復讐の脅しにもかかわらず、彼は最初から最後まで将軍との約束を守った。

彼の方では英国の誠実さについて不満はないであろう。戦闘が一か月近くこの地方で続けられたが、領有する村の一つも焼失することはなく、その作物が受けたすべての損害は気前よく補償された。彼は報復を受けないことを保証されていた。そして作戦の終わりにはかなりの金銭が贈られ、サーカーは敵を罰すると同じく、友に報いることができる、ということを彼に証明した。

第3旅団のラクダ輸送は道中で遅れ、長い行進で疲れていた兵士たちは荷物が来るまで炎天下にシェルターなしで数時間待たなければならなかった。ようやくそれが到着すると私たちはテントなしで可能な限りのキャンプをすることにした。毛布、棒で支えた防水シート、あるいは隣接する木の緑の大枝から即興のシェルターが作られた。これらの貧弱な覆いの下に兵士たちが横たわって夕暮れを待った。

誰もがインド反乱(*1857年)の期間中に暑い気候の中を遠征しなければならなかったイギリス軍の苦しみを知っている。この谷の9月はそれを容易に想像したり、的確に説明したりできるほどの暑さであって病院報告書が示すように太陽への曝露が英国の大隊にはひどく堪えていた。もちろん反乱の後、兵士の服装と装備に多くの有益な変更が加えられた。不十分なパガリー(*帽子の周りを一周する布)のついた小さなキャップは長い上掛けの覆いで陰が増えたピス・ヘルメット(*防暑帽)に代わっている。高い飾り襟と厚くてタイトなユニフォームはなくなり、クールで快適なカーキ色の服装に代わっている。脊椎プロテクターが背中を覆い、また他の方法で合理的な改善が行われている。しかし太陽に変化はなく、全ての予防策は最小限に過ぎなかったため、その弊害を防ぐことはできなかった。

時間がゆっくりと過ぎる。暑さは強烈である。エンジンの煙突の上で見られるように空気が焦げた平野の上で輝いている。猛烈な暖気の風が吹く。そして安らぎをもたらすことはなく、ただホコリの旋風を巻き上げるだけである。それはシェルターを四散させて中にいる者を半ば窒息させる。水はなまぬるく、のどの渇きを癒すことはできない。太陽が西の山に向かって沈むにつれて、ようやく影が長くなり始める。全員が生き返る。動物たちでさえも全体の安堵感を共有しているように見える。キャンプの人々は日没を眺めるため外に出て、夕暮れを楽しむ。私たちの心からは日の天体に対する殺伐とした憎しみの感情が消えており、それが翌朝五時から再び自分たちを苦しめようとしていることを忘れるよう努めている。

マラカンド野戦軍がモーマンド地方に入るまでに数日間の余裕があるため、ビンドン・ブラッド卿は両旅団に13日は停止したままでいるよう命じた。第3旅団はシュムシュクに/第2旅団はジャーに。その間に二個偵察隊が送られた。一つはランバト峠の頂上へ、もう一つはワテライ渓谷の上方へ。

モーマンドへの前進が始まって以来、初めて「狙撃」を受けたのが12日の夜であった。キャンプに向かって約半ダースの弾が発射されたが、眠りの浅い者の邪魔をしただけであった。しかし、それは始まりを告げていた。

翌朝、偵察隊が出発した。将軍はランバト峠に向かう一隊に同行した。その向こう側の未踏破の土地の性質を自ら確認するためである。歩兵の二個中隊は道を開くよう、他の二個中隊は峠の途中まで支援を続けるよう命じられた。ビンドン・ブラッド卿は六時に出発した。従う護衛は派手な槍旗に司令部のユニオンジャックを結びつけて景色に色味を加えていた。数マイル騎行した後、私たちは歩兵隊に追いつき、停止しなければならなかった。彼らを先に行かせて荒れた路面をきれいにさせなければならなかったのである。さらに一マイル先では下馬して徒歩で進まなければならなくなった。現地人の態度と振る舞いは最も非友好的であったが、抵抗はなかった。若者たちは丘に引き下がった。年長者は私たちを睨みつけ、罵りさえしたがそれにとどまった。村の墓地はあらゆる種類の財産、ベッド、水差し、穀物の袋でいっぱいであった。住民は私たちが略奪を望んでいるのではないか、そして神聖な場所であれば安全なのではないかという二重の妄想の下にそれらをそこに置いたのであろう―というのが私たちの見解であった。彼らは不機嫌な顔つきをしていたが、ついには皆立ち上がって恭しく敬意を表することになった。

登山には骨が折れ、少なくとも一時間かかった。しかし、通り道はどこでも通行可能であり、あるいは簡単にラバの通行が可能になりそうであった。ジャングルでの長年にわたるあらゆる種類の狩猟によって鍛えられ、強化されている将軍が最初に頂上に到着し、続いてウォードハウス准将と息切れしたスタッフが続いた。アンバサー渓谷の素晴らしい景色が広がった。それは乾燥した様相を呈していた。たくさんの村が見えたが水の兆候はなかった。これは深刻な問題であった。井戸に関する情報が信頼できなかったため、谷の未知の危険の中に部隊を突入させる前にいくらかの貯水槽と小川を確認できていることが望ましかったのである。いくらか検討した後、ビンドン・ブラッド卿は元の計画を修正して第2旅団の二個大隊と一個戦隊だけに峠を越えさせ、残りは彼とナワガイで合流するために行軍することにした。そして私たちは戻って昼食に間に合うようにキャンプに到着した。

一方、ワテライすなわちマムンド渓谷の偵察はより興味深い性質のものであった。ビートソン少佐指揮下の第11ベンガル槍騎兵隊の二個戦隊と政務担当官のデイビス氏が合意した協約を実行させるよう、マムンドに圧力をかけるために派遣されていた。彼らは五十丁のライフルを引き渡すと約束していた。しかし今、それを行う意志をみせていない。彼らは旅団は地域を行軍しているだけであって停まっている時間がないことを理解していた。そして自らの武器をできるだけ長く保持することを決意していた。

騎兵隊が最初の村に近づくと約300人の男たちが集まって旗印を見せ、槍騎兵に停止を求めた。口論が続いた。女性と子供を移動させるための三十分が与えられた。その後、戦隊は前進した。部族民はまだ威嚇しつつ、丘に向かってゆっくりと引き下がった。それから小さな一団がやってきて、ビートソン少佐に隣の村にスワット渓谷の戦闘で捕らえられた軍馬がいることを知らせた。マムンド族がマラカンドへの攻撃に関係していたというこの自白は十分にナイーブであった。騎兵隊は村へ騎行した。馬は見つからなかったが、最初の村の差し出がましい情報提供者は馬が繋がれていた場所を熱心に指し示した。この情報の結果として、そして部族民に元の協約の実行を促すためデイビス氏は見せしめを決心し、ビートソン少佐に馬を盗んだ者の家の破壊を許可した。これはその通りに実行された。煙が上がり始めるやいなや半マイル離れたところで待っていた部族民がマティーニ・ヘンリー・ライフルで騎兵隊に弾の雨を降らせた。しかし交戦するつもりはなく速歩で退却した。彼らは追跡され、銃でよく狙われたが、正確な射撃には射程が長すぎたため弾丸は頭上で無害のまま口笛を吹いただけであった。

槍騎兵隊が谷を去ると先の章で述べたことを例証する事件が起こり、それは現地人の日常生活に特有のものである。最初の村の人々は騎兵隊の注意を二番目の村に向けた。二番目の村の一部は結果として焼かれた。双方の住民はこの件をライフルで論議することになり、その夜最後に見たときには活発な小競り合いをしていた。しかし、どうやらすぐに争っていたことを忘れたらしい。

騎兵隊が発砲されたという噂は彼らがキャンプに帰り着くより先に広まっていた、そして、何らかの対抗措置がとられる見通しはどこにおいても満足をもって歓迎された。多くの人々がモーマンド遠征は単なるパレードであり、部族民はそれに従事している強力な軍隊に圧倒されていると考え始めていた。彼らはまもなく真実を悟らされることとなった。私は戦隊が戻って来るのを見た。その背後でマムンド渓谷は夕闇と一日中その上にかかっていた重い雲ですでに暗くなっていた。彼らは大いに喜んでいた。人生において撃たれたのに何の損害もないことほど爽快なことはない。スワールは鼻高々で馬に座っていた。若い将校の何人かはまだ興奮で頬を紅潮させていた。しかし彼らは見事にこの件についてすべて忘れてしまったかのように振舞った。彼らは数人の輩が彼らを「狙撃した」と信じた/それがすべてであった。

しかし、決してそれがすべてではなかった。何であれアフガンの「血火の十字架」(*スコットランド高地氏族が人を戦争に召集するのに用いた)に相当するものが各部族の間を巡っていた。その夜は攻撃するために集まる時間がなく、開けた土地のキャンプは夜の銃撃には向いていなかった。他の旅団が近づいて来ていた。待つことになった。そこで彼らは時折銃撃するだけに甘んじた。それは私たちが夕食をとっている間に始まり、朝の光が差すまでとぎれとぎれに続いた。負傷者はいなかったが、ヌラーの周りをうろついたり、時々発砲したりすることに夜を費やした部族民は翌朝戻って自分たちのしたことを同胞に自慢したであろうと想像できる。「お前たちがみな夜中、暗闇の中でまどろみ、眠っている間、俺は、俺ですら、一人で呪われた者たちの陣営を攻撃し、サヒブを殺した。そうじゃないかね?兄弟。」すると兄弟たちはいつかその嘘が実証されることを期待しながら、間違いなくそうであり、彼こそが部族に貢献している、と答える。それが「狙撃者」の褒美であった。

翌朝早くに第3旅団と第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊がナワガイに移動し、抵抗を受けることなく峠を通過した。将軍と司令部スタッフが彼らに同行した。そして私たちはその向こう側にベドマナイ峠をはっきり見ることができる、広々とした大きな谷の中にいることに気づいた。ここでようやく私たちはモーマンド族の意図についての確かな情報を得た。さらなる前進を阻止するためにハッダ・ムラーと1000人の部族民が集まっていたのである。結局のところ、戦闘になるであろう。夕方、ビンドン・ブラッド卿は騎兵隊の一個戦隊を率いて峠へのアプローチと土地の全体的な地形を確認するために出かけた。戻ると同時に彼は18日に強行突破する、とインド政府に通信した。兵士、特にまだ交戦したことのないイギリス軍は来るべき戦闘を熱く期待した。しかし、ことの成り行きは違った経過を辿ることとなった。

私たちが偵察から戻ったときにはすでに夕暮れだった。夜は楽しかったし、屋外で食事をした。それでも谷はとても暗かった。山々はビロードのように黒かった。やがて月が昇った。その神秘的な光が急速に谷間に溢れたのだが、私は景色の美しさを描写したい気持ちを抑えることにする。すべての適切な単語はおそらく多数の作家によって何度も使用されてきたし、無数の読者によって読み飛ばされてきた。実際にこれらの手の込んだ説明は、それを見たことがない人には何も伝えることはなく、見たことがある人には不要であると私は考えるようになった。自然は代理人によって賞賛されるものではない。しかし戦時、特に辺境戦争においては誰でも月の重要さを痛感する。「今夜は何時に昇るのか?」という質問が繰り返される/他のこと―攻撃、「狙撃」、突撃―のために。他に潮の干満もその動きに影響を受ける。

一方、ナワガイの平和なキャンプの静かな夕食中に私たちは「銀色の乙女」(*初雪)が東の山々に速やかに現れるのを見た。彼女は十一マイル離れた別のシーン、私たちが去った谷を凝視していた。

第2旅団はその朝、ジャーからランバト峠のふもとまで行軍した。翌日にはそれを通過しようとしていたのである。ジェフリーズ准将はこの行動を見越してバフ隊をコタルを保持するために派遣し、残りの部隊とともに麓でキャンプをした。夜明け前の前進を目的として採られたキャンプの立地は敵の接近に好都合であった。地面は荒れ、多数の小さく曲がりくねったヌラーが交差し、岩が散らばっていた。ただし、他の場所にするなら翌日に長い行進が必要であった。攻撃がありそうとは考えられていなかった。

8:15に、将校が夕食を終えようとしていたとき、静けさの中に三発の銃声がした。それは合図だった。たちまちヌラーからガイド歩兵隊の区画の前面への活発な発砲が始まった。弾丸はキャンプ全体にうなりを上げ、テントを裂き、動物を殺し、傷つけた。

ガイド隊は着実に銃火を返し、テントの列の前に掘られたシェルター塹壕が他の部分よりも高かったため、将校も兵も被弾しなかった。10時、敵のラッパ手が「退却」を吹き鳴らし、銃火は少しの落下弾のみとなった。全員が事件の終了を祝福していた10:30、第38ドグラ隊が占めるキャンプの反対側で活発な攻撃が再開された。主にマティーニ・ヘンリー・ライフルで武装した敵は、塹壕から100ヤード以内まで忍び寄っていた。これらの高さはわずか十八インチであったが十分に兵士を守ることができた。将校は危険を顧みない見事な態度で惜しげもなく身体をさらした。光り輝く月明かりの下を平然と上へ下へと歩くため、彼らは絶好の目標であった。准将は銃撃を制御し、弾薬の浪費を防ぐためにキャンプの脅かされている側へと出向いた。しかし、何千発も発射したにも関わらず大きな成果は得られなかった。砲兵中隊は数発の照明弾を発射した。地面が非常に荒れていたため、それによって明らかになったものはほとんどなかった。しかし部族民はその匂いを毒ガスだと思って警戒した。将校は物陰で身を守るように指示されていたが、ことづてを伝え、銃撃を規制する必要のため、かなり多くの曝露の機会があった。そして塹壕の上に現れたすべての人にとって危険は大きかった。第38ドグラ隊のトムキンス大尉は心臓を撃たれ、数分後、連隊の副官ベイリー中尉も殺された。間に合わせで作られた大雑把な箱型シェルターの救護所にこれらの将校を連れて行くのを支援する際、ドグラ隊付属の将校であるハリントン中尉は頭の後ろに脳を貫通する銃弾を受け、その後死亡した。すべてのテントが攻撃を受け、穀物袋やビスケットの箱でできる限りの遮蔽物が配置された。2:15に発砲は停止し、敵は戦死し負傷した仲間とともに撤退した。彼らは丘から離れた場所で日の光に捕らえられるつもりはなかった。しかし彼らはすでに少し長居しすぎていた。

明るくなるやいなや、コール大尉の指揮する騎兵戦隊が追跡を開始した。谷を長く全速力で駆けた後、山へ向かう一団に追いついた。彼はすぐに突撃して岩に到達する前にそのうちの二十一人を槍で貫くことに成功した。その後、戦隊は下馬してカービン銃で発砲した。しかし、部族民はすぐに向きを変え、隊の馬の方向に突進した。一人のスワールが負傷し、数頭の馬が殺された。急所を脅かされた騎兵たちは急いで駆け戻り、自分の鞍に乗るのに辛うじて間に合った。馬に乗る際に焦ったため四頭が逃げて全速力で走り去り、六人の下馬した騎兵が残された。コール大尉はそのうちの一人を鞍の自分の前に乗せ、騎兵たちはその例に倣った。このように戦隊は行く手を阻まれ、退却して射程外に出た後、再び失った馬を捕らえることに成功した。敵は騎兵隊が再び騎乗しているのを見て丘に避難した。しかし彼らの戦意が高かったことは明らかであった。

マルカナイの夜間攻撃の犠牲者は次のとおりであった:―

                イギリス軍将校
   死亡―         W.E.トムキンス大尉 第38ドグラ隊
               A.W. ベイリー中尉 第38ドグラ隊
   負傷により死亡―    H.A.ハリントン中尉 第38ドグラ隊付属

                現地将校
   負傷・・・・          1

                    現地兵
                     死亡    負傷
   第八山岳砲兵中隊・・・・       1     1
   第35シーク隊・・・・        1     3
   第三八ドグラ隊・・・・        1     0
   ガイド歩兵隊・・・・         0     1
   その他・・・・            2     2
    総犠牲者数      16   /   そして98頭の馬とラバ

一方、第3旅団はナワガイでの静かな夜を過ごしていた。しかし翌朝6時ごろジェフリーズ将軍のキャンプが攻撃されたというメッセージがランバト峠のバフ隊からヘリオグラフで送られて来た/その激しい発砲は一晩中続き、犠牲者の中に数人の将校がいたとのこと。このニュースに全員が沸き立った。私たちが朝食をとっている間に、現地将校と第11ベンガル槍騎兵隊の十人のスワールが早くも到着して詳細を語った。マムンド族との六時間の戦闘:三人の将校が死亡、致死的負傷/百頭近い動物が撃たれた。この情報の結果として、ビンドン・ブラッド卿はランバト峠通過の命令を取り消し、ジェフリーズ将軍にマムンド渓谷へ行き、部族民を徹底的に懲罰するよう指示した。

私は命じられた作戦を目撃するために、現地将校の護衛の下で第2旅団に戻ることを許された。私は鞍に乗せることができるものを慎重に選択し、最も重要なものは外套、チョコレート、歯ブラシであったが、すでに出発していた護衛の後を急行し、彼らが丁度ナワガイ峠を通過するときに追いついた。

最初の六マイルの間、道は網状の深い山峡を通っており、騎兵たちは非常に注意深く道を選んだ。小さなパーティーが攻撃されるとまずい場所であった。しかし幸運なことに、数人の武装部族民に出会ったものの彼らは私たちに発砲しなかった。ある地点でルートは前夜の襲撃者の一部が退却した深いヌラーを通っていた。これらはおそらくチャルマンガ渓谷に続いていた。彼らは明らかに損失を被っていた。負傷した男たちを運んだ現地のベッドがいくらか散らばっていた。おそらくこの場所で彼らは牛を見つけて乗り換えたのであろう。ようやく扱いにくい地面を通り抜け、ナワガイの平坦な平野に入ると、私たちは目をこらして旅団を捜した。谷を越えて七マイル離れたところに長い茶色の筋があった。それはマルカナイからマムンド渓谷の入り口まで行進する軍隊であった。五つの燃える村の煙が高い円柱のように空中に昇っていた。山に対しては青く、空に対しては茶色く見えた。一時間の騎行で私たちは旅団の所に着いた。誰もが昨夜の出来事に夢中であった。そして全員が不眠のせいで消耗しているように見えた。「あなた方はヌラーから抜け出せてとても幸運だった」と彼らは言った。「もっと多くのことが起こるだろう。」

騎兵隊はすぐに追跡から戻った。彼らの槍の先は黒く血塗られていた。感謝を込めてニヤリと笑ったシーク兵に、あるスワールは誇らしげに武器を見せた。「何人?」あらゆる方向から質問が飛んだ。「二十一人」と将校は答えた。「しかし、やつらは闘志にあふれている。」

今や旅団にカルのカーンが所有するイナヤット・キラというなかなか立派な石の要塞の近くの空き地にキャンプすること、という命令が出された。これは言い換えるなら「グラント砦(*アメリカ西部でアパッチ族との戦いに使われた砦)」である。軍は行軍と前夜の戦いで非常に疲れていたが、敏速に塹壕を掘り始めた。キャンプに約三フィート半の高さの外壁が作られ、全員がそれをガリガリと引っ掻いて自分のための小さな穴を作った。これらの仕事で午後が過ぎた。

バフ隊はランバト峠の頂上から行軍して日没時に入って来た。彼らは夜の銃声を聞いており、その場にいなかったことに失望していた。それは「単なる運」であった。1895年のチトラル遠征中、彼らはすべての会戦の機会を逃すという不運を経験していた。今回も同じであった。全員が彼らを元気づけようとした。暗くなるやいなや攻撃の可能性が高くなった。

夕食後、キャンプの北にある大きなヌラーから銃弾が降って来るようになった。すべての照明が消され、テントは引き払われた。誰もが地面を掘ってスープ皿を置いていた場所へ退いた。しかし攻撃は行われなかった。敵は友人を通して政務担当官に、自分たちは疲れているのでその夜は休むだろう、と伝えていた。彼らはキャンプを銃撃するため数人の「狙撃手」を送った。彼らは二時頃まで気まぐれな一斉射撃を続けた後、撤退した。

前夜に休息を奪われていた人々は銃撃にもかかわらず、すぐに眠りに落ちた。その他の疲労に圧倒されていない者たちには、自分の穴に横たわってじっと星たちを見つめる以外の仕事はなかった―ピカデリー・サーカスと同じくイナヤット・キラにも静かに輝くその公平な星たちを。


第十一章:9月16日、マムンド渓谷の戦闘

キャンプにラッパの音がする、それがどんなに冷たい朝の空気の中で鳴ることか。
兵士に起床が命ぜられており、彼は暗いうちに起きて武装しなければならないのだ。
燃える太陽の光が君の上に来た時、君の信念と足元よ、確かであれ。
戦線でライフルが打ち鳴らされ、
澄んだ音色で戦いのラッパが吹き鳴らされるそのとき。
                  「下ベンガルでの訓話」A.ライアル卿

 

図4. マムンド渓谷のスケッチ―9月16日の戦闘計画とともに

 

物語は今、私がクライマックスと見なさざるを得ないところへ差し掛かった。マムンド渓谷の戦闘は非常に多くの鮮明な出来事と永続的な記憶によって私には想起されるため、おそらくその真の歴史的な重要度以上の重みを持ってしまっていると思われる。読者にはその間ずっと私が個人的な視点と呼んでいるものを斟酌していただかなければならない。いかに作戦の規模が小さいものであったかをその間ずっと心に留めておく必要がある。パノラマを大人数の軍隊が満たすことはない。百丁の銃の雷鳴が響くことはない。騎兵旅団が閃く剣を振り回すことはない。危機的地点に歩兵師団が振り当てられることはない。傍観者は丘の斜面だけを見るであろう。そして注意して見るならば、そこをゆっくりと動いている、風景の大きさの中ではほとんど見えないほど小さな茶色の服を着た数人の男たちを見ることであろう。この男たちが何をして何に苦しんでいるか/彼らの行動が何であり、その運命がいかなるものであるかを見るために、私は傍観者を十分接近させたいと思っている。しかし傍観者には私が観察者としての役割を厳守しているかどうか、書いてある内容を注視してくれるようお願いしたい。もし何らかの語句や文章によって私がこれを逸脱したことが発見されたなら、私は悪意の工夫が発想するいかなる害悪をも甘受するつもりである。

16日の朝、ビンドン・ブラッド卿の命令に従い、ジェフリーズ准将はイナヤット・キラの塹壕で囲まれたキャンプを出てマムンド渓谷に入った。彼の意図は部隊の手の届く範囲にあるすべての防御設備のある村を燃やし、爆破することによって部族民を厳しく罰することであった。これを一日で完了し、その強さを見せつけた旅団は17日にナワガイへ行進し、18日と決まっていたベドマナイ峠への攻撃に参加することを期待されていた。結果的にはこの期待は空しかったわけであるが、これまで部族民から隊に対して真剣な抵抗がなされたことはなく、いかなる集会のニュースも将軍に報告されていなかったことを覚えておく必要がある。谷は見捨てられたように見えた。村は取るに足らず、無防備に見えた。どこにおいても敵が立ち向かってくることはないと断定された。

起床ラッパは五時半に鳴り、六時に旅団は行軍を始めた。谷全体を一度に成敗するために、軍は三個の縦隊に分割され、次の任務が割り当てられた:―

一.ビビアン中佐指揮、第38ドグラ隊と数人の工兵からなる右縦隊はドモドロの村を攻撃するよう命じられた。二.ゴールドニー大佐指揮、バフ隊の六個中隊、シーク隊の六個中隊、工兵隊の半個中隊、第8山岳砲兵隊の四門の砲、および第11ベンガル槍騎兵隊の戦隊で構成される中央縦隊は、谷の最上部へ進み、バデライとシャヒ・タンギ(シャイツゥンギと発音)の村を破壊するよう命じられた。三.メージャー少佐指揮、ガイド歩兵隊の五個中隊と数人の工兵で構成される左縦隊は谷の西端の村々に向けられた。

各大隊からの二門の砲と二個中隊がキャンプを守るために残され、ガイド隊の一/三の中隊が調査隊を保護するために切り離された。これにより戦野の歩兵の戦力は二三中隊に減少し、1200人をわずかに超えることになった。交戦していない第38ドグラ隊の300人の兵を差し引くと、この作戦に使用された総兵力は、すべての武器を合わせて約1000人であった。

最初に右の縦隊の運命を取り扱うのが好都合である。ビビアン中佐は六マイル行軍した後、午前9時頃にドロモロの村の前に到着した。彼はそこが敵に強固に守られていることに気がついた。砲や援護なしで攻撃するには自軍の戦力が十分とは思えなかった。そこで自重してキャンプに引き返し、午後4時ごろに到着した。二人の兵士が長距離射撃により負傷した。

中央の縦隊は私が加入したコール大尉の槍騎兵戦隊に守られていた。七時ごろ私たちは谷の北斜面の円錐形の丘の上に敵がいることに気づいた。騎兵にとって双眼鏡よりもはるかに有用な道具である望遠鏡を通してその姿を見分けることができた。青や白をまとった男たちの長いラインがあり、それぞれがその横に武器をまっすぐに立て、テラスにしゃがんでいた。情報はすぐにゴールドニー大佐に送られた。歩兵は戦闘を熱望し、行軍を急いだ。騎兵隊は丘の1000
ヤード以内まで進んだ。しばらくの間、部族民は座ってその足元に広がる平地に軍隊が漸進的に展開するのを見ていた。そして砲と歩兵隊が近づくと彼らは向きを変えてゆっくり山の斜面を上り始めた。

彼らの動きを遅らせるか、戦闘に誘い込むことを意図して、今や騎兵隊は速歩で近射程内に入り、下馬してちょうど7:30に発砲した。すぐに応射があった。丘の高い斜面から、基部のトウモロコシ畑から、そして村の塔から、少量の煙のパフがさっと吐き出された。敵は凸凹の地面に、兵士は墓地の墓石と木々によく覆われていたため、小競り合いはどちらの側にも大きなダメージを与えることなく一時間続いた。そのとき歩兵隊が到着し始めた。バフ隊はゴールドニー大佐の縦隊から切り離され、バデライの村に向かって動いていた。第35シーク隊は長い尾根に向かって進んだ。その角のあたりにシャヒ・タンギが位置するのである。彼らが私たちの前をゆっくりと―むしろ疲れて、迅速な行軍に疲れていたのである―横切ったとき、騎兵隊はよりふさわしい仕事を求めて鞍に跨り走り去った。騎兵の武器―槍―を携えて。私はシーク隊と運命を共にすることになった。抵抗はほとんどなかった。数人の大胆な狙撃者が背の高いトウモロコシ畑から先頭の中隊に発砲した。他の者は山から長距離射撃を行った。どちらも損害を与えることはなかった。今やゴールドニー大佐はライダー大尉の配下の一個半中隊に円錐丘を一掃し、連隊の右翼を山からの銃火から守るよう命じた。これらの約七十五人の兵士が急な坂を登り始め/その日ずっと遅くまで再び彼らに会うことはなかった。残りの四個半の中隊は前進し続けた。進路は上へ上へと積み重なる丈の高い作物の段々畑を通る。軍隊はこれらを苦労して上り、敵が守ろうとしたいくつかの塔から彼らを一掃した。半個中隊と仮包帯所が墓地の近くに残され、さらに二個中隊が支援のために丘の麓に配置された。他の二個中隊はシャヒ・タンギにつながる長い支脈の上昇を開始した。

丘の斜面で軍隊がどれだけ非常にゆっくり移動するのかを、見ることなく実感するのは不可能である。村に到着したのは十一時であった。敵は離れたところから「狙撃」したが、なんの損害も与えられなかった。誰もが戦わずに逃げた彼らの意気地のなさを罵倒した。村の一部と、刻んだわらの一種であるブーサの山に火を放ち、二個中隊はキャンプに戻る準備をした。

しかし八時頃、騎兵パトロール隊は谷の北西端に非常に大きな戦力の敵がいることを報告していた。そこでジェフリーズ准将はガイド歩兵隊に主縦隊への参加を命じた。[時間が記されているメッセージの複写:―「ガイド歩兵隊を指揮している将校へ。―午前8:15送信。午前8:57受信。敵はカンラに集まっている/直ちにゴールドニー大佐の左翼につくこと。C.パウエル少佐D.A.Q.M.G.(*副助補給将官)」]キャンベル少佐は馬にまぐさをやっていた部下を集め、ゴールドニー大佐の部隊の元へ急いだ。五マイルの行軍の後、彼は左翼前方で強敵と接触し、たちまち激しい銃撃戦になった。小銃射撃の音はバフ隊をバデライから呼び戻し第35シーク隊の支援のために行軍させた。

両方の連隊が現場に急いでいる間に大きな発砲音が聞こえ、自分たちがいるシャヒ・タンギ近くの支脈の頭に危険が迫っていることに私たちは初めて気が付いた。左翼への圧力が退却線を脅かし、一マイル以内からは支援が得られなかった。すぐに退却が命じられた。この時点まで、部族民はほとんど見られなかった。あたかも両中隊の退却が攻撃の合図であったかのように見えた。しかしこれは敵の全体的な前進の一部であって、もし退却が命じられていなかったとしても、先進中隊は襲撃されていただろうという考えに私は傾いている。いずれにせよ、情勢の局面はたちまち変わった。遠い丘の中腹から男たちが素早く走り降りてきて、棚田から棚田へと飛び降り、岩から岩へと身をかわした。全員の発砲が増加した。退却を援護するために半個中隊が残った。次から次へと遮蔽となる田んぼに小さな突進を繰り返し、二人三人と接近してくる敵に対してシーク隊は優れた腕前を見せた。やがて約百ヤード離れたいくらかの岩の後ろにかなりの数の敵がたまった。発砲は今や激しくなり、半個中隊はその側面を脅かされているのに気づいて、次の陣地に後退した。

特異な地形を説明するために余談が必要である。

頂上に村があるその支脈は三つの岩の小丘で構成されており、それぞれが主丘に近づくとともに高くなっている。これらは銃火によって両翼から見渡すことができる開けた地峡によってつながっている。土地の断面はスイッチバック鉄道に似ている。

半個中隊はこれらの小丘のうちの最初の一つを損失なく立ち退き、次の小丘までの開放空間を素早く横断した。数人の兵士がここで倒れ、無事に運び去られたのではないかと私は思う。敵は最初の小丘に登って二番目の小丘を見渡し、銃撃を開始した。再び中隊は退却した。カッセルス中尉は約八人の兵士と共に背後に残り、残りが開放空間を横切るまで小丘を守った。撤退するやいなや、彼らは中尉に退却を叫んだ。彼は命令を下した。

ここまでの朝の小競り合いは神経病者に喜びを、兵士に経験を、ジャーナリストに「ネタ」を与えたかもしれない。今や突然黒い悲劇が現場に現れ、多数の鮮烈な些事の中にすべての興奮が消えた。カッセルス中尉は小丘を去るために立ち上がったとき、鋭く向きを変えて地面に倒れた。二人のセポイがすぐに彼を掴んだ。一人が足を撃ち抜かれて倒れた。発砲を続けていた兵士が空中に飛び上がり、落下して見たこともないほど恐ろしい速さで口と胸から出血し始めた。他の者は足を蹴り出し、体を捻って仰向けに倒れた。四分の一はまったく静かに横たわっていた。こうして書いている間に小さなパーティーの半数が殺され、負傷した。敵は両翼に回り込み、また見渡していた。その銃火は正確であった。

サバダー少佐であるマンゴル、シンという名の二人の将校と、三―四人のセポイが二番目の小丘から負傷者を運び去るのを手伝うため前方に走った。彼らが現場に到着する前に、さらに二人の兵士が撃たれた。サバダー少佐はカッセルス中尉を掴んだ。彼は血に染まり、立つことができなかったが、戦線に留まることを切望した。他の者は負傷者を掴み、悲鳴とうめき声にもかまわず、尖った岩の上を乱暴に引きずり始めた。私たちが小丘から三十ヤードも離れないうちに敵はそこへ突進し、発砲し始めた。連隊の副官であり、辺境で最も人気のある将校の一人であるヒューズ中尉が殺された。弾丸は唇の間に空気を吸い込むときのような奇異な吸収音で空中を通過した。数人の兵士もまた倒れた。ブラッドショー中佐は将校の体を運び去るよう二人のセポイに命じ、彼らはそれを始めた。突然、大勢の部族民がバラバラと丘の稜線に駆け寄り、剣を手に、大きな石を投げながら突撃してきた。冷静な観察者であり続けることは不可能となった。数人の負傷者が振り落とされた。サバダー少佐はカッセルス中尉を守り、中尉は彼に命を負っている。他の将校を運んでいた兵士たちはそれを振り落として逃げた。体が地面に大の字になった。その上を汚れた白い亜麻布を纏った長身の男が湾曲した剣で急襲した。それは恐ろしい光景であった。

剣士たちが深く突撃していたなら、全員が切り伏せられていたであろう。しかし、彼らはそうしなかった。これらの荒々しい山の男たちは取り囲まれることを恐れていた。退却は続いた。今や集中していた二個中隊は五―六回立ち向かおうと試みた。部族民はその度に両翼を圧迫した。彼らは地の利をすべて持ち、側面を包囲されたシーク隊と同程度を見渡していた。やがて支脈の底部に到達した。二個中隊の生き残った兵士は装着された銃剣とともにヌラーの中で反撃に転じた。部族民は勢いよくやって来たが、三十ヤード離れて停止し、怒号し、発砲し、剣をひらめかせた。

おそらく突撃の後だったのであろう―散開した戦隊縦列で後退している私たちの騎兵隊を除いて他の軍隊は見えなかった。彼らの援助を得ることはできなかった。バフ隊はほぼ一マイル離れていた。事態は重大であった。ゴールドニー大佐自身が兵を再編成しようとした。おそらく六十人程になったシーク隊は強く圧迫され、発砲したが効果がなかった。そのとき誰かが―誰だったかは不確かであるが―ラッパ手に「突撃」を鳴らすよう命じた。甲高い音が鳴ったのは一回ではなく、十数回であった。全員が叫び始めた。将校たちは必死に剣を振るった。そしてシーク隊は気合をかけつつ敵に向かってゆっくりと前進し始めた。最高の瞬間であった。部族民は向きを変えて退却し始めた。兵士たちは即座に強固な銃火を放った。自らを苦しめた者を猛烈に撃ち倒したのである。

私はそのとき初めて、反攻は前線全体で行われたものであると感じた。私が記述したのは単なる小事件である。しかし読者は記事から辺境戦争における多くの損失の意味を知るかもしれない。勇敢で良く武装しているが、負傷者を抱え、登りに疲れ果て、数に勝る軍勢に圧倒された部隊が退却を命じられた。これは弱い軍隊には達成が難しすぎる作戦である。近くに支援がない限り、彼らは厳しく痛めつけられなければならず、敵を阻止するために残る小さな援護パーティーは非常に頻繁に寸断され、撃ち倒される。後にマムンド渓谷ではこの二個シーク中隊が試みたことを成し遂げるため、大隊全体が用いられた。しかしシーク隊の勇気には証人の必要はない。

支脈を退却している間、私は戦闘の全体的な局面を観察することができず、今それを記述する際に一つの小さな部隊の不運だけを取り扱った。それは個人的な視点によるものである。二個の先進中隊が丘を駆け降りている間に、少なくとも2000人の部族民が旅団の左前面全体に沿って総攻撃を行い、そのほとんどがライフルで武装していた。騎兵隊、第35シーク隊の二個の支援中隊、および到着しつつあったガイド歩兵隊の五個中隊がこの攻撃に抵抗した。全員が交戦した。旗印を誇示しつつ、大いなる勇気を持って敵は激しい銃火の真っ只中を前進してきた。多くが殺され負傷したが、彼らは軍隊との間の長い小競り合いの戦線を前進し続けた。第35隊の一個中隊が深刻な影響を受けるようになった。これを見てコール大尉は指揮下の戦隊を前進させ、地面が荒れていたにもかかわらず突撃をかけた。敵はヌラーに避難し、その中に旗印とすべてを投げ出した。そして近距離で騎兵隊に鋭い銃火を放ち、数頭の馬と人に命中させた。戦隊は退却した。しかし彼らの前進の精神的効果は絶大なものであった。攻撃全体が停止した。歩兵隊は銃撃を続けた。その後、部族民は退却し始め十二時ごろについに撃退された。

今や戦闘を中断する機会が訪れた。旅団はバラバラでキャンプを出発し、深刻な抵抗はないであろうと予想していたのであった。軽率に前進していた。先進部隊は無造作に指揮されていた。敵は猛烈な反撃を行なった。その攻撃は撃退されて完敗に終わり、旅団は集結した。歩兵隊がさらされていた疲労を考えると、おそらくキャンプに戻って翌朝再び始めた方がより賢明であったであろう。しかしジェフリーズ准将はシャヒ・タンギの破壊を完了し、敵の手に残されたヒューズ中尉の遺体を回収することを決意した。それは大胆な方針であった。しかしそれは軍のすべての将校によって承認された。

二回目の攻撃が命じられた。ガイド隊は左翼の敵を食い止めることとされた。第35シーク隊に支援されたバフ隊は村を占領することになった。可能なすべての部隊は戦野の縦隊に加勢すること、という命令が信号によってキャンプへ送られ、その結果六つの新しい中隊が出発した。前進が始まると砲は旅団の右側の尾根で戦闘を始め、継続的に村を砲撃した。

再び敵は「狙撃」に戻り、その姿はほとんど見られなくなった。しかし丘を登るには二時間かかった。村は三時に占領され、バフ隊によって完全に破壊された。3:30にキャンプへの帰還命令が届き、二回目の撤退が始まった。敵は再び力強く迫ってきたが、今回は二個ではなく十個中隊であり、後衛のバフ隊がリー・メトフォード・ライフルによってすべてを遠ざけた。五時十五分前に軍隊は丘を離れ、私たちは自分の周囲を見回した。

この二回目の攻撃が行われている間に午後は過ぎ去った。およそ二時頃、辺境で申し分ない経験を積んだキャンベル少佐とコール大尉は部族民との渡り合いをその日のうちに終わらせることができないという事実に気付いた。彼らの提案で砲の近くの支脈の将軍の参謀将校へ次のようなメッセージが回光通信された。「今の時間は2:30である。帰途においても戦わなければならないことを覚えておかれたし。」しかし准将はすでにこの可能性を予見しており、前述のとおり帰還命令を出していた。この命令は増大する敵の攻撃に強く圧迫される最右翼のライダー大尉の中隊には届かなかった。負傷者が彼らの退却を遅らせた。おそらく高所を取ろうと考えたのであろうが、彼らは山腹をはるかに押し上げ、今や私たちは二マイル離れた空の輪郭線上に熱く戦う彼らを見ていた。

私が一時停止を利用してポニーに餌をやったり、水をやったりしていた時、第16槍騎兵隊のマクナッテン中尉が彼らについて私に指摘し、私たちは望遠鏡を通して彼らを見た。それは奇妙な光景であった。入り乱れて走り回る小さな人物、小さな煙のパフ、空を背景としてシルエットになった剣を振るうミニチュア将校。彼らが命がけで戦っていた、あるいは実際に何らかの危険にさらされていた、と信じることは不可能に思えた。それはすべてとても小さく非現実的に見えた。しかし彼らは強く圧迫され、弾薬筒が不足していることを示していた。そのとき、時間は五時で北の山々に集まる重い雷雲によって暗闇の接近が加速されていた。

3:30頃、准将はガイド隊にライダーの支援に赴き、中隊の救出を試みるよう命じた。キャンベル少佐に自身の裁量で行うように指示したのである。それは難しい問題であったが、ガイド隊とそのリーダーにとっても同じことであった。彼らはその日の始めには左翼端にいた。次に中央へ急行した。そして今右翼端への命令を受けた。彼らはすでに十六マイルを行軍していたが、まだ元気であった。私たちは感心してその一列の行軍が前を横切って行くのを見ていた。一方、旅団の退却は遅れた。すべての部隊がお互いをサポートする必要があり、軍隊はガイド隊がライダーを救出するのに成功するまで待たなければならなかった。今や敵は一日中群れていた渓谷の北西端から大兵力でやって来た。それゆえ戦闘は初めて壮観なものとなった。

旅団全体は広い平野を横切る梯陣をなしていた。右翼端ではライダーの中隊とガイド歩兵隊の両方が激しく交戦していた。砲兵隊の左後方、半マイル離れたところを第35シーク隊の二個中隊と工兵隊がゆっくりと後退していた。さらに左には第35隊の残りがいて、半マイルの間隔をおいてバフ隊がいた。騎兵隊は最左翼を守った。この長い軍隊は互いを目視ができたが、平地全体を横切る深く広いヌラーによって分断されており、ゆっくり後退し、接触を保つために頻繁に停止した。七百ヤード離れたところに約三マイルの長さの大きな半月隊形で現れ、絶え間なく発砲してくる敵がいた。彼らの火力は効果的であった、そして、このとき他の犠牲者とともに王立砲兵隊のクロフォード中尉が殺された。彼らの姿は小さな白い点の列のように見えた。すぐに暗闇が落ちてきた。煙のパフは銃火の閃光になった。大きな黒い雲が谷を覆って広がり、雷がごろごろと鳴り始めた。日光は消え失せた。全体像がはっきりしなくなり、すでに真っ暗になっていた。すべての連絡、すべての相互支援、すべての全体的統制が停止した。各部隊は間隔を詰め、約七マイル離れたキャンプへの行程に最善を尽くした。激しい雷雨が頭上を襲った。鮮やかな稲妻が縦隊を照らし出し、敵が照準を合わせることが可能になった。個々の部族民はバフ隊の五十ヤード以内まで走り寄り、侮辱の言葉を叫びつつライフルを発射した。彼らはイギリス兵の限られたパシュトゥ語の嘲りと注意深い一斉射撃で応答された。軍隊は最大の安定性を示した。兵たちは肚を据えており、士官たちは元気よく、射撃は正確だった。八時半に敵は私たちを煩わせなくなった。私たちは彼らを追い払ったと思ったが、彼らはもっと良い獲物を見つけていたのであった。

キャンプへの最後の二マイルは苦痛であった。射撃の終了後、兵士たちは疲労を自覚した。バフ隊は十三時間継続して行軍し、戦っていた。彼らは前夜以来、早朝のビスケットを除いて食事をしていなかった。その中の年配で経験豊富な兵たちはトラブルに笑い、帰ったら朝食、夕食、お茶を一緒にすると宣言した。若い兵たちはあらゆる方向に倒れ込んだ。

将校たちがライフルを運んだ。使用できるポニーやラバは疲れ果てた兵士たちを乗せていた。これもすべてではなかった。他の軍隊が私たちの前を通り過ぎた。さまざまな連隊の一ダース以上のセポイが道端に人事不省で横たわっていた。最終的に後衛が彼ら全員を連れ帰った。バフ隊は九時にキャンプに到着した。

その間、ガイド隊は孤立した中隊の生き残りを敵の手から救い出すという素晴らしい戦功を挙げていた。急いで行軍した後、彼らはライダーの部下が後退していた丘のふもとに到着した。そのシーク隊員たちはその日の行使によって完全に疲れ果てており、混乱しており、多くの場合、極度の疲労によって武器を使用することさえも不可能であった。部族民は戦闘中の中隊の両翼と後方に大勢で取り付き、絶え間なく発砲し、踏み込んで個々の兵士を切り倒しさえした。将校は二人とも負傷していた。ガニング中尉は、弾丸で三か所を撃たれ、さらに二か所を深く剣で切られながら助けを借りずに丘をよろめきながら下った。疲れていて、数において劣勢で、三方向を囲まれ、無傷の将校がおらず、弾薬筒がないのであれば死は時間の問題である。全員がバラバラに切り刻まれていたはずであった。しかし今や助けが近づいていた。

ガイド隊は戦線を形成し、銃剣を装着し、丘に向かって駆け足で前進した。その基部から少し離れたところで彼らは立ち止まり、勝ち誇る敵に対して恐るべき圧倒的銃火を放った。戦野全体でその中隊の一斉射撃の大きな爆発音が聞こえ、煙が見られ、左翼の私たちは何が起こっているのかと思った。急に停止させられた部族民はたじろいだ。中隊は退却を続けた。夜が近づくとともに多くの勇敢な行為が行われた。ガイド隊のアフリディ(*カイバル峠付近を本拠とするパシャン人の一部族)中隊のハビルダー、アリ・グルは、大きなポケットのあるゆったりしたジャケットのようなキャンバス地の弾薬筒キャリアを掴み、それを部下のポーチから抜き取った弾薬でいっぱいにした。そして連隊とシーク隊の間の銃火の吹き荒れる空間を突進し、悪戦苦闘している兵士たちに貴重な包みを配布した。彼は戻る際に負傷した現地将校を背負っていた。これを見たガイド隊の数人のアフリディたちは叫び声を上げて気合をかけつつ、救助のために前方へ走った。他の負傷したシーク隊員たちは彼らの勇敢さによって恐るべき運命から救われた。ついにライダーの中隊は丘の基部に到達し、生存者はガイド隊の援護の下で再編成された。

この寄る辺なく、暗闇と距離によって旅団から分断され、三方から敵に攻撃された彼らは冷静にキャンプへの血路を開く戦いを進めたのである。多くの負傷者たちに動きを妨げられ、荒れた地面の上で、彼らはあらゆる攻撃を撃退し、その退路を絶とうとする部族民のすべての試みを打ち負かした。彼らは面目をほどこして安全に9:30にキャンプに到着した。将校の技量と経験、兵士の忍耐と気迫が、多くの人々が不可能だと思った任務の達成を可能にしたのである。そしてマムンド渓谷の戦闘における彼らの働きは素晴らしい最も有名な辺境連隊の歴史の輝かしい一ページを埋めることとなった。[最も前面に立った二個中隊の二人の将校、ホドソン大尉とコドリントン中尉の武勇はディスパッチにおいて特別に言及される主題となり、後にジェフリーズ准将は連隊の優れた功績を称賛した。]

バフ隊がキャンプに到着すると、それまで降りそうで降らなかった雨が降ってきた。降りは激しかった。闇は濃かった。キャンプは泥の海となった。ジェフリーズ将軍は敵襲を予想して外周を縮小するよう合図した。そのためキャンプのサイズは元の半分まで詰められた。

ほとんどのテントは打撃を受け、地面に山をなして一緒くたに積み重ねられた荷物とともに倒れていた。輸送動物の多くは解き放たれて込み合った場所を徘徊していた。夕食やシェルターはなかった。兵士たちは徹底的に疲れ果てて、夕食抜きでぬかるみの中に横たわった。負傷者の状態は特に痛ましかった。打撃を受けたテントのいくつかの野戦病院であった。暗闇と雨の中では気の毒な仲間のために包帯を直し、モルヒネ注射をする以上のことは不可能であり、最後の者がドーリー(*インド式駕篭)から出たのは翌日の午後四時のことであった。

約一時間後に雨は止んだ。将校が眠りにつく前の部下に何か食べさせようと忙しくしている間に、すべての部隊がキャンプにいるわけではないことが判明した。将軍、砲兵中隊、工兵隊、四個の歩兵中隊はまだ谷にいた。まもなく私たちは銃声を聞いた。彼らは攻撃されており―おそらく圧倒されている。彼らに援助を送ることは、より多くの軍隊が切り離されるリスクを負うことであった。バフ隊は疲れ果てており、最も深刻な損失を被ったシーク隊、そして一日中行軍して戦っていたガイド隊は考えられなかった。しかし第38ドグラ隊はかなり元気であり、将軍の不在下で指揮をとるゴールドニー大佐はすぐに四個中隊を整列させ、救助のための行軍を命じた。コール大尉は、彼らに一ダースのスワールを同行させることを申し出た。馬に鞍が置かれた。しかし命令は取り消され、その夜軍隊がキャンプを出ることはなかった。

この決定が正しかったかどうかは読者に判断してもらうことにしたい。暗闇と荒れた地面のために救援隊が将軍を見つけられない、というのもありうることである。彼らがヌラーに巻き込まれて打倒されていた可能性もある。キャンプ本体の守備も多すぎるわけではなかった。敵の数は不明であった。こうしたことが主な理由であった。一方、数マイル離れた谷で戦友が命がけで戦っていることを時折の銃声に思い出させられつつ、私たちが眠りにつくために横になっていることは兵士らしい振る舞いとは思えなかった。


第十二章:イナヤット・キラにて

  「二千ポンドの教育が
   十ルピーのジェザイル(*アフガンの手作りマスケット銃)に倒れる。
   ・・・・・
   構ってくる奴を強く殴れ。撃てる奴をまっすぐ撃て。
   オッズは安い男についている。」
                       ラッドヤード・キップリング

17日、夜明けの半時間前に騎兵隊は馬に乗り、荒れた地面を通るのに十分明るくなると戦隊は直ちに行方不明の軍隊を探し始めた。二時ごろから私たちは銃声を聞かなくなっていた。そこで私たちは彼らが敵を打ち負かしたと判断していた。もちろん、その沈黙には他の理由があったのかも知れなかった。ビロット村の近くで馬を止めたとき、壁や家の辺りで動く人影が見えた。先進縦列は慎重に進んだ。突如、彼らは短縮駈歩で壁に接近し、私たちは少なくとも数人が生きていることを知った。コール大尉は自分の戦隊を振り向いて手を挙げた。スワール隊は衝動を共有してあぶみの上に立ち上がり、歓呼し始めた。しかし応答はなかった。これも不思議ではなかった。村は修羅場であった。外壁の一つの角に戦闘の生存者がいた。(*外壁を二つの側面として)三つめの側面は浅い塹壕で保護されていた。周りには男たちとラバの死体が横たわっていた。五―六人の現地兵士の遺体が急いで掘られた墓に埋葬されていた。彼らはマホメダンだったので、彼らの墓は部族民によって尊重されると考えられていた。[これらの遺体はその後掘り起こされ、原住民によって損壊された。これは軍のあらゆる信条の兵士を激怒させ憤慨させる胸の悪くなる行為であった。私がこの不快な問題に読者の注意を向けさせるのは、単に山の野蛮人たちの心の退廃について先の章で述べたことの正当性を示すためである。]十八人の負傷者が屋根のない小屋に並んで横たわっていた。痛みと不安に引きつった彼らの顔は早朝の淡い光の中ですっかり青ざめていた。二人の将校が負傷しており、一人は左手を、もう一人は両足を撃たれていた。彼らは間に合わせの止血帯が取り除かれ、苦痛がいくらか緩和される瞬間を辛抱強く待っていた。頭からの出血に染まったカーキ色のコートの准将は、ヘルメットに弾丸の穴のある唯一の参謀将校と話していた。最も熱心にリアリズムを愛する人は満足したであろう。食べ物、ドーリー、および医師がすぐに到着した。負傷者は野戦病院に運ばれ治療を受けた。無傷の者は急いでキャンプに戻り、朝食をとって行水をした。半時間後にその縁起の悪い場所にいたのは傷ついたラバを撃つ数人のスワールと、期待を込めて成り行きを見ていたハゲタカだけであった。

私たちはその夜の話を徐々に聞かされた。約三十人の工兵隊と第35シーク隊の半個大隊からなる砲兵隊がキャンプに戻りつつあった。ガイド隊の銃声が聞こえていたので、支援のために彼らは一晩中停止して外に留まること、という命令が七時頃出された。准将は何よりもその安全を心配していたのである。この命令が砲兵隊に届いたので彼らは工兵隊を(*砲の)護衛として戻り、ヌラーを再び横断してビロットの村の外でシークの二個中隊を伴った将軍に出会った。第35隊の半個大隊はどうやら命令を受け取らなかったらしくそのまま行軍を続けた。王立砲兵隊のウィンター中尉は彼らを探すために送り返された。彼はそれを見つけられなかったが、ウォーリッジ少佐指揮下の元気な四個中隊に出会った。ガイド隊の二個中隊と第35隊の二個中隊である。彼らは将軍の増援要求に応じてキャンプから送られたのであった。ウィンター中尉は彼らを砲の護衛として連れ帰った。村に到着すると准将はすぐに彼らをガイド隊の支援に送った。彼は自分のシーク隊の二個中隊を計算していた。しかしウォーリッジが退去し、すでに夜の闇に消えたとき、この二個中隊も消えたことが判明した。彼らは暗闇の中で接触を失っており、将軍が停止していることに気づかずにキャンプに向かってしまったのである。こうして砲は三十人の工兵以外の護衛なしに残されることになった。

そのときバフ隊の十二人の兵士のパーティーが到着した、そして、彼らが砲の元に導かれた事情は記録しておく価値がある。バフ隊は村を通って撤退中に、敵の前進を阻止するためにしばらくの間マホメダンの墓地を保持していた。そこへジェフリーズ将軍の当番将校バイロン中尉が馬で乗りつけ、後方中隊を指揮していたムーディー少佐に告げた。道の百ヤードほど先に負傷した将校が護衛もなしにドーリーに横たわっている。数人の人手が欲しい。ムーディーは命令を発し、伍長以下十数人の兵士たちがそのドーリーを探し始めた。彼らはそれを見つけられなかったが、捜索中に村の外で将軍と砲と兵を見つけた。この連発ライフルを持った―連隊の名誉を完全に守った―十二人の勇敢な兵士の存在は、まさに局面を変えた。イギリス軍の運が彼らを村に導かなかったとしたら、砲が奪われ、将軍が殺されていたことは疑いがなく、もちろんそこにいた誰も疑っていなかった。幸運の女神は、特に戦争においては、小さな支点にその強力な梃子を使用するものである。

次に将軍は砲と工兵隊に村に入るように命じた。しかし燃えるブーサがいっぱいで不可能であった。そこで兵士たちは村の外で自らの塹壕を掘り始めた。村はすぐに敵でいっぱいになった。彼らは砲と兵が占めるスペースを二方向の家と壁から見渡し、約三十ヤードの距離で発砲し始めた。まるで敵がその壁を保持しているラケットコートにいるかのように、部隊の全体が晒されていた。砲や負傷者を捨てていくことはできなかったので、彼らは動くことができなかった。幸いにも、この地点の多くの部族民はライフルで武装していなかった。彼らは石と燃えるブーサを小さな守備隊の真ん中に投げた。彼らはその光で良く狙いをつけた。誰もがありあわせの遮蔽物の下に隠れた。あまり沢山はなかったが。勇敢な現地兵士ガンナー・ニハラは差し迫った命の危険にありながら、燃えるブーサを繰り返し外套で消した。ワトソンとコルビンの両中尉は部下の工兵たちとバフ隊の十二人の兵士とともに村に押し入り、銃剣で敵を追い出そうとした。しかし小さなパーティーが掃討するには村は大きすぎた。部族民は次々と場所を移動しながら繰り返し発砲した。彼らは数人の兵士を殺傷し、ワトソン中尉の手に銃弾を命中させた。しかし彼は奮闘を続け、再び撃たれて立っていられないほどの重傷を受けるまでやめなかった。部下は彼を村から運び出した。再度の試みは無益であろうと思われた。

読者の注意はこの将校の勇気に向けられている。長い行軍と戦いの後、暗闇の中で、食物もなく、無勢で、重く痛い傷を負った後も揺るがず、怯まず戦い続ける人物に対してその勇気において対等な者は少なく、優越する者は全くいない。おそらく耐えることは挑むことと同じくらい高い勇武の形である。両方の組み合わせは崇高である。[両将校はこの時の行動によってビクトリア十字章を受けた。]

九時の雨によって銃火は止んだ。部族民は火薬が濡れることを恐れたのである。しかし十時ごろ再開した。今や彼らは村の壁に大きな穴を開け、そこから約一ダースの男たちが発砲して恐るべき効果を挙げた。他の者は壁に銃眼をつくり始めた。砲はこれらの獰猛な開拓者に二十ヤードの距離で散弾を発射し、壁を粉々に砕き、多くを殺した。敵は弾丸、燃えるブーサ、石のシャワーで応えた。

そのように時間はのろのろと過ぎた。将軍とバーチ大尉は、両方とも夜の早い時間に負傷した。傑出した勇敢さでふるまっていたウィンター中尉は11:30頃に両足を撃たれた。彼はこれで四十五日以内に二回重傷を負ったことになる。彼はさらに失血によって気絶するまで、砲を指揮し続けた。現地人砲手は自分も撃たれるまで彼を体で庇った。光景全体、切迫した、必死の戦い、ラバの死体、その後ろにうずくまる将校と兵士、ブーサの燃える山、ライフルの閃光、そして全てを覆う、あたり一面の夜の闇は―ドヌー(*アルフォンス、フランスの画家)の鉛筆に値する。

やがて、真夜中頃に助けが到着した。ウォーリッジの二個中隊はガイド隊を探しに行っていたが見つからなかった。彼らは再び戻ってきてビロットでの発砲を聞き、第11ベンガル槍騎兵隊から伝令を送って将軍が援助を望んでいるかどうか尋ねた。この気骨ある少年は―ほんの若い新兵であったが―そこら中にいる敵とほとんど同様にわが方の兵士に撃たれる危険にさらされつつも、村までを冷静に騎行した。彼はすぐに救援の二個中隊を連れて来た。そして獲物を邪魔された敵は暗がりへ撤退した。砲兵隊とその防御者がそれ以上どれだけ長く持ちこたえられたであろうかは分からない。彼らは着実に人を失い、その数は非常に少なくなっていたので、いつ突撃を受けても不思議ではなかった。そういう話であった。

17日には作戦はなかった。兵士たちは休み、死傷者は数えられ、負傷者は包帯を巻かれ、自信が取り戻された。前日に殺害された英軍将校と兵の葬儀は正午に行われた。参加できる者は全員参加した/しかし軍葬の華美はすべて省略され、身体を覆うユニオンジャックはなく、墓の上での斉射はなかった。負傷者の邪魔をしないためである。その全てが間違いなくそうであったと言える/自国のための戦いの中で命を落とした人々の遺体がキャンプのどこかに―正確な場所が今は故意に忘れられているが―静かに埋葬された。記念碑はなかった。荒らされないことを保証するのは、知られないことだけである。それにもかかわらず葬儀は印象的であった。戦争のゲームは一部の人々に戦利品、名誉、昇進、または経験を/他の人々には義務を果たす意識を/そして他の人々―おそらく傍観者―にはプレイの楽しみと人々と事物についての知識をもたらす。しかし、ここにはすべてを失って兵士の墓だけを得るという―悪い数字を引いた人々がいた。支給品のブランケット、民族の誇り、帝国の威厳に包まれたこれらの形のない形を見ると戦争の栄光などぼんやりした実体のない夢の織物に過ぎないと思えてくる/そして私はバーク(*エドモンド)に思い至らない訳にはいかなかった。「私たちの存在はなんと影のようなものであろうか、そして私たちが追い求めるものはなんと影のようなものであろうか」

交戦人数に比して実際の死傷者数は長年にわたるインドでの英国軍のどの作戦よりも多かった。1000人を超えない軍隊において、九人のイギリス人将校、四人の現地将校、一136人の兵士が死亡または負傷したのである。以下は全報告である:―

               イギリス軍将校
  死亡― V.ヒューズ中尉、副官   第35シーク隊
      A.T.クロフォード中尉   王立砲兵隊
  重傷― W.I.ライダー大尉   第35シーク隊付属
      O.G.ガニング中尉   第35シーク隊
      O.R.カッセルズ中尉   第35シーク隊
      T.C.ワトソン中尉   王立工兵隊
      F.A.ウィンター中尉   王立砲兵隊
  軽傷―ジェフリーズ准将、第2旅団司令官   マラカンド野戦軍
      バーチ大尉       王立砲兵隊

               イギリス軍兵士
               死亡     負傷
  バフ隊           2      9

               現地兵士
               死亡     負傷
  第11ベンガル槍騎兵隊   0      2
  第8山岳砲兵隊       6     21
  ガイド歩兵隊        2     10
  第35シーク隊      22     45
  第38ドグラ隊       0      2
  工兵隊           4     15
        総犠牲者数  149   /    48頭の馬とラバ

一部では9月16日の戦闘は失敗であったと考えられている。私は事実に即してこの見解は正しいとは思わない。部隊は設定されたすべての任務を達成した。彼らはすべての抵抗にもかかわらずシャヒ・タンギの村を最も完全に燃やし、部族民に200以上の損害を負わせた。敵は殺された者の死体から二十二丁のライフルを奪ったことで意気を上げたが、軍隊の勇気に感銘を受けていた。「もし」と彼らは言ったと報告されている。「彼らが分断されたとき、このように戦うのであれば私たちは何もできない。」私たちの損失は間違いなく重く、持っていたアドバンテージに釣り合っていなかった。それはマムンドの数と戦闘力について軍全体で共有されていた無知によるものであった。この出来事のあとで多くが賢くなったが、これらの部族民は軍隊と同じように武装しており、または彼らが自ら証明したように勇敢で恐るべき敵であるということは誰も知らなかった。「敵を軽んじるな」というのは古い教訓であるが、好戦的で勇敢なすべての国々は毎年新たに学び直さなければならない。私たちの損失はまたライダー大尉の中隊の孤立によるものであり、救出するために暗闇に追いつかれるまで部隊全体が待たなければならなかったためである。危険を冒さずに戦争を行うことはできず、また後装銃で武装した敵に対して損失なしに作戦を行うことはできない、と言われている。弾丸から兵を完全に守る戦術はない。エラーに注意して困難を忘れ、危険の中で行われたことを安全な場所で批判し、平和の保障の元に戦時の行いについて意見を述べる呑気な批評家は、傷ついて、馬を撃たれ、最後の部隊とともに戦野に残り、部下の兵士の安否だけを気にかけている将軍の壮観が私たちの軍事史に値しない、とは言えないことを思い起こすべきである。

気さくで勇敢な戦友を失ったことによる意気消沈は、即時の戦闘の見通しによって払拭された。ビンドン・ブラッド卿はそのときナワガイの陣地において危険にさらされていたが、増援の代わりに部族民に対する精力的な作戦の遂行を准将に命じた。そして18日朝、ドモドロ村を攻撃するために部隊が動いた。第38ドグラ隊が16日に非常に強く守られていることに気づいた村である。再び敵は多勢であった。再び彼らはその効果的な戦術を採った/しかし今度はチャンスが与えられなかった。旅団全体が攻撃のために集中して行軍し、射程外の平坦地に隊形を作った。将軍とスタッフが前に騎行して偵察した。

村は丘の陥凹部にあり、そこから港の桟橋のように二つの長い支脈が突き出ていた。背後の山は唐突に5000フィートの高さに聳えていた。支脈に囲まれた土地はトウモロコシと大麦の作物でいっぱいであった。砦と見張り塔が入り口を守っていた。8:30に前進命令が出た。敵は砦を守ろうとせず、即座に奪われて爆破された。マムンド渓谷での戦闘中において爆発は珍しい光景ではなかったが、それは見慣れないものであった。厚い赤褐色の塵の大きな雲が突然空中に飛び出し、あらゆる方向に膨張した。塔は半分に壊れて倒れた。一連のドンというくぐもった音が続いた。ホコリの雲が消え去ったとき、そこにはわずかな残骸しか残っていなかった。

敵は今や支脈から発砲してきた。両方の支脈が白い煙の小さな輪を頂くようになった。第35シーク隊は前進して右の尾根、第38ドグラ隊は左を片付けた。ガイド隊は村に移動し、メインの陥凹部を登った。バフ隊は予備であった。砲兵中隊は左側で戦闘を始め、反対側の丘の稜線を砲撃し始めた。彼らは器具によってその射程を測り、わずかに異なる射程で毎回二発の砲弾を続けざまに発射した。小さな砲が大きな砲声を上げて爆発した。それから山側のはるか上方で二つの煙の玉が上下に現れ、数秒後、破裂した砲弾の音がかすかに戻ってきた。通常、一つは狙った地点の少し手前に―もう一つは少し先に―落ちる。誤差を割り出して次の弾丸を的中させるのである。部族民が発砲してくるピークに破片と弾丸の粉塵が現れる。そして静かになり人気がなくなる―顧みられることのない悲劇の現場である。徐々に支脈から敵が取り除かれ、ガイド隊は村を通り抜けて山の斜面を登り、急な水路の大きな岩の間に落ち着いた。孤立した狙撃手たちが弾の雨を降らせ続けた。私が観察しているロックハート中尉の中隊はこの中の一人を一斉射撃で殺し、私たちは彼が小さな水たまりのそばに座って石にもたれて座っているのを見た。もともと醜い男であったが今では顎と顔の骨が弾丸でバラバラになったため、見るも恐ろしい姿になっていた。その唯一の衣服は腰で締めたぼろぼろの青い亜麻布の外套であった。彼はそこに座っていた―無知で、品がなく、むさ苦しいが勇敢で、好戦的な典型的な部族民である/その唯一の財産、彼の武器、それは同胞に持ち去られていた。私は社会的生物としての彼の本質的な価値と、その週に殺された士官たちのそれを対比せざるを得なかった。この章の始めのキプリングの短詩が不思議な意味を持って思い起こされた。実際、私はワテライ渓谷でそれが引用されるのをよく聞いた。

今や工兵隊が村に入っており、粗末な家々を破壊するための準備に従事していた。その平らな屋根は土で覆われており、最初に穴を開けておかないと良く燃えないのである。これには時間がかった。その間、部隊は獲得した陣地を保持し、敵との散漫な銃火の応酬を続けた。正午ごろそこに火がつけられ、濃い煙の雲が高い柱となって風のない空気中を昇っていった。そして軍の撤退が命令された。すぐに敵は反撃を始めた。しかし、ガイド隊の技量が上であった。各中隊の後退は他の中隊の銃火で援護され、遠く丘の下へと慎重に素早く下って行った。敵に好機はなかった。一時までにはすべての中隊が破壊された土地から離れていた。バフ隊は後衛の務めを引き受け、すぐに燃えている村を再び占領した部族民との活発なちょっとした小競り合い―幸運にも人命の損失を伴わなかった―をして喜んでいた。これはおそらく半時間続き、その間残りの旅団はキャンプに戻った。

この非常に成功した仕事の犠牲者は少なかった。これは頑強な忍耐力を備えたジェフリーズ准将がマムンド部族民の精神を打ち破った六つの事業の最初のものであった。

                     死亡    負傷
  第35シーク隊・・・・         2     3
  ガイド歩兵隊・・・・          0     1
  第38ドグラ隊・・・・         0     2
                 総犠牲者数   8

敵の損失は相当なものであったが、信頼できる詳細は入手できなかった。

19日、軍隊は休息し、キャンプを出たのは採餌部隊のみであった。20日、戦闘が再開された。谷の入り口の位置からは丘のくぼみにあるすべての村を見え、過去のものだけではなく今後の戦闘の場所をも識別することができた。懲罰のために選ばれた特定の村の名前は決して口にされず、旅団がキャンプから数マイル行軍するまで目的は明らかにされなかった。したがって部族民は「栄光ある不確実性」(*イギリスで法律の議論において良く使われる)の状態を継続し、本当の多数を集めることができなかった。午前5:30に旅団は出発し、騎兵隊に先導されて谷を行軍した―長い茶色の兵の流れであった。ほぼ中心に到着して軍隊はより間隔を詰めてコンパクトな隊形になった。そして突然先端がくるりと左に回転し、ザガイ村への行軍が始まった。すぐに山の斜面の高いところから煙の長い柱が空中に打ち上げられた。それは狼煙であった。他の丘がそれに答えた。この件は今や時間の問題となった。氏族が集まる前に村を占領し破壊することができれば戦闘はほとんどないであろう。しかし部隊が遅れたり深入りしたりした場合、その戦闘がどのような規模になるかは分からなかった。

ザガイ村はドモドロ村と似た立地条件にある。長い支脈がその両側で谷へと伸び、その形の窪みの両側のテラスに家が建てられている。水路の近くに岩だらけの地面から豊かな美しさで伸びている見事なスズカケノキは緑のパッチとなって丘の斜面を目立たせている。背景の陰鬱な茶色とは対照的である。軍隊が堂々と接近するにつれて、絶え間ない太鼓の音がかすかに聞こえ、それはラッパの音によって時々変化した。騎兵隊が偵察に出かけ、その場所は強固に守られていると報告した後、速歩で駆けて側面の監視に行った。敵は支脈の稜線に旗を誇示していた。前進は続いた:ガイド隊は左側へ、第38ドグラ隊は中央、バフ隊は右側へ、そして第35シーク隊は予備である。約九時に左側から銃撃が始まり、四分の一時間後に中央付近で砲が戦闘に入った。ガイド隊とバフ隊は左右の尾根を登った。敵は例によって後退し、「狙撃」に入った。そして第38隊は前進して村を占領し、破壊するため工兵隊に引き渡した。彼らはこれをはなはだ徹底的に行い、十一時に家とブーサの山から濃い白い煙が上がった。それから軍隊は撤退するよう命じられた。「Facilis ascensus Averni sed ・・・/」(*ラテン語Facilis ascensus Averni, Sed revocare gradum,hic labor,hoc opus est.地獄へ行くことは容易であるが戻るのは骨である。)この引用が私を困難へと導くのを許すことなく(*チャーチルはラテン語が苦手だった)、私は通常アジア人に対しての前進は容易であるにも関わらず、全ての退却は危険である、と説明しよう。村が破壊されている間、敵は集まっていた。空を背景に暗い点からなる多数の線として―山の頂上に彼らの姿が認められた/他の者は隣接する左右の谷から来ようとしていた。右側の者たちは成功し、バフ隊はすぐに鋭く交戦した。左側の騎兵隊は再びその武器の力を示した。少なくとも600人を数える大勢の部族民が戦闘の現場に到達しようと努力していた。そこにたどり着くには開けた地面を横切らなければならなかったが、それは槍騎兵隊の正面だったので彼らはそれをしなかった。この同じ部族民のうちの多くがマラカンドへの攻撃に参加しており、そしてインドの獰猛な騎兵によってカルの平野全体を追いかけ回されていた。彼らはその経験を繰り返すことを望まなかった。彼らがその友軍と彼らを隔てる空間を突破しようとするたび、コール大尉と配下のわずか五十騎の戦隊は速歩で前進し、たちまち部族民は小走りに丘へ戻った。長い時間、彼らは遅れさせられ、スワールたちに向かってまもなく「お前たちをひき肉にする」とわめき立て、やってみろ、と返答されることに甘んじた。やがて彼らは丘を離れるなら騎兵隊から逃れられないことに気づき、長い迂回路を通って、村が破壊されて軍隊が去った半時間後に到着した。

それでも、退却が進行していると見るやいなや、すべての戦線に沿って全面的攻撃が行われた。左翼では旗を掲げ、剣を振るって前進してくる約500人の軍勢がガイド隊を脅かした。彼らはこれを追い散らし、着実な長距離射撃で彼らを遠ざけ、多数を殺し、負傷させた。右翼ではバフ隊が別の支脈から見渡されることに悩まされた。私が同行したハスラー中尉の中隊は地面によってこの側面射撃から守られていた。しかし非常に多くの弾丸が頭上で唸りを上げており、それがどこから来るのかを見ようとして中尉は稜線を越えて向こう側へ歩いて行った。ここの半個中隊は活発に交戦していた。山の高い地点から彼らに正確な銃火が向けられていた。私たちはリー・メトフォード・ライフルでその地点を射程に収めようとした。それはおよそ1400ヤードと測定された。部族民はマティーニ・ヘンリーで武装しているだけだった。それにもかかわらず彼らは優れた腕前を発揮した。R.E.パワー中尉が腕を射抜かれ、ほぼ直後にケーン中尉が胴に重傷を負った。幸いなことに弾丸は最初に剣の柄に当たっており、もしそうでなければ彼は死んでいたであろう。二―三人の兵士もまた負傷した。マティーニ・ヘンリー・ライフルの射程と能力を知っている者であれば、それほどの長距離から損失を与え得る手腕と射撃術を高く評価するであろう。

撤退が進むにつれて部族民が近くへ寄ってきた。しかしバフ隊は恐るべき武器を非常に効果的に使用していた。私はその力が印象的に発揮されるのを目撃した。F.S.リーブス中尉は配下の中隊の撤退を援護するために一ダースの兵士を残し、この時大胆に前進して来た敵に効果的な発砲を加えることを目指していた。三百ヤード離れたところにヌラーがあり、その小隊を孤立させるため、これに沿って敵は走り始めた。しかし私たちの銃火はある地点で彼らの前進線を見渡していた。やがて一人の男がその開けた場所を走った。部隊は即座に発砲した。ライフルの大きな利点は固定した照準器を使用できるため、正確な距離を推測するのに困難がないことである。男は倒れた―白い点となって。他の四人が突進してきた。再び一斉射撃があった。四人全員が倒れて動かなくなった。この後、私たちはほとんど邪魔を受けることなく順調に後退した。

軍隊が丘から離れるとすぐに、敵は岩と尾根を占領し、撤退する兵士に発砲した。バフ隊の退却線は、滑らかで開けた土地の上にあった。十分間の活発な発砲があった。一人の将校と七―八人の兵士が倒れた。地面は湿っていて深く、弾丸は柔らかい泥に突き刺さり、奇妙で物珍しい音を立てた。部族民は敢えて開けた場所へ出てこなかったので、部隊が射程外に出るとすぐに発砲は停止した。

最左翼に相当な数の敵の集団が現れた、そしてしばらくの間、彼らは丘を出て平野に入ろうとしているように見えた。しかし騎兵隊が速歩で前方に出ると、混乱して走って戻り、もと通りの一団となった。砲兵中隊はすぐにその真中に二発の榴散弾を爆発させ、大きな効果を挙げた。これで仕事は終わり、部隊はキャンプに戻った。死傷者は以下の通り:―

                イギリス軍将校
  重傷―G.N.S.ケーン2等中尉
  軽傷―L.I.B.ハルケ大尉
    ―R.E.パワー中尉

                イギリス軍兵士
                   死亡  負傷
  バフ隊               1  10
               (負傷により死亡)

                  現地兵
                       負傷
  第38ドグラ隊・・・・           2
          総犠牲者数        16

結局のところ小競り合いでしかなかったものについてこんなに長々と記述したことに対して、私は読者に謝罪しないことにする。辺境戦争の描写は本質的に細部の描写であり、細部を知ることだけが本当の印象を得ることを可能にするのである。

22日と23日にダグ村とタンギ村がそれぞれ攻略されて破壊されたが、抵抗はわずかであった。作戦に目立った新しい特徴もなかったので、これ以上の説明で読者を飽きさせないことにしたい。死傷者は以下のとおり:―

                イギリス軍将校
  負傷―S.ムーディー少佐  バフ隊

                  現地兵
                  死亡   負傷
  ガイド歩兵隊           1    2
  第38ドグラ隊          0    2

これらの作戦によってマムンド渓谷の部族は厳しく処罰された。彼らが16日の戦闘に際して感じたであろう歓喜は完全に消え去った。旅団は思いのままに村を奪って焼き尽くす力を実演し、その行動を妨害しようとするすべての者に深刻な損失を与えた。部族民は今や完全に落胆し、21日には和平を訴え始めた。

しかし状況はアフガニスタンの辺境が近接していることによって複雑になっていた。ムマンド渓谷の西側はヒンドゥ・ラージ山脈の山々に囲まれており、その頂上に沿ってアミールとの境界となるデュラン・ラインがある。この区域の向こう側には強力な武力を持つアフガニスタンの最高司令官であるゴーラム・ハイダーがいた。その総計は私が述べた戦闘の時点で九個大隊、六個戦隊、十四門の山砲に達していた。ザガイへの攻撃中に丘のより高い斜面にカーキ色の制服を着た多数の人影が観察され、特定のグループが部族民の動きを指揮しているように見えたと主張されている。いずれにせよ、部族民がアフガン軍の正規軍に、より多くをアフガンの部族民に、武器弾薬の供給に留まらず実際の介入によって支援されていた事を、私もマムンド渓谷にいた他の誰も疑っていない。

私は辺境の蜂起におけるアミールの共謀の疑いについて発言するのに十分な証拠を持っていない。確かに長年にわたってアフガニスタンの政策は、一貫してパシャン族の間で反乱を起こすのに使えるかもしれないエージェントを集めて維持することであった。しかしアミールがイギリスとの悶着から得られる利益は明らかではない。多分その地位の継続性やおそらく助成金増加の見地から、彼はインド政府にとっての彼との友情をより重要なものにするためだけにずっと全力を尽くしていたと思われる。彼は今年、その力を試し、誇示した可能性がある/そして彼はもし自分が味方として役に立たなかったとしても、どんなに危険な敵になりうるかを私たちに示すことを望んだのかもしれない。敏感で難しい問題である。証拠のほとんどは国家秘密文書の中にある。問い合わせることは有益ではない/ことによると結果は望ましいものではないかもしれない。愛国的な思慮分別は常に熱心に培われるべき徳である。

私が述べた事実がアミールの共犯の可能性を減少または増加させるとは思わない。アメリカの議事妨害者がキューバの反政府勢力に同情するように/ジェームソン襲撃隊がトランスバールのアウトランダーを支援したように、アフガニスタンの兵士と部族民も国境を越えて同郷人と同じ宗教の信者に同情し、支援した。おそらくアフガニスタン植民地局はいかなる調査においてもそれを立証するであろう。

彼らに同情心を主張させたその命を持ち帰らされることは、人々の恥辱ではなくむしろ名誉である。人類の進歩はまさにそのような人々に負ってきたのである。私がこの問題に言及するのはアフガニスタンの部族民やその支配者に対する敵対的な感情を喚起するためではなくマラカンド野戦軍の第2旅団が直面した困難を説明するためである。なぜ名もない村に防御者が何千人もいて、なぜ貧困に苦しむ農民の武器が優れたマティーニ・ヘンリー・ライフルだったのかを。

マムンド族自体は今や心から和平を切望していた。彼らの谷は私たちの手にあった/彼らの村と作物は私たちの慈悲にかかっていた/しかし、こうしたことに苦しんでいない同盟者たちは熱心に闘争を続けようとしていた。彼らは16日に死んだ兵士のライフルのほとんどを捕獲し、手放すつもりは毛頭なかった。一方、この問題において英国領インド帝国を無視することが許されないのは明らかであった。私たちはライフルの引き渡しを主張し、その高価なファクターである帝国の威信は、いかなる代価を支払ってでも、それを手に入れるまでは作戦を遂行することを要求した。ライフルにはほとんど値打ちがなかった。私たちが失った兵や将校たちには大きな値打ちがあった。それは不健全な経済学であった、しかし、帝国主義と経済学は、正直さと私的利益のようにしばしば衝突することがある。したがって、私たちは名声を維持するために、損の上塗りをするという方針をとることになった/商人に支払いができない男が決済の代わりに新しい注文をするように。これらの不十分な条件下で交渉が始まった。しかしそれが軍事情勢に干渉することはなく、軍隊は谷で毎日採餌を続け、部族民は毎晩キャンプに発砲した。

週の終わりには、負傷者の苦しみを労り、部隊の行動に満足していることを表明する女王陛下からのメッセージが旅団指令で発表された。それはすべての者に最も快い歓喜をもたらした。特に現地兵士たちは、その前で自分たちの小君主がみな頭を下げ、サーカーですら召使にすぎない威厳ある君主が自分たちの行動と危険を知らなかったわけではないことを聞いて、誇りと歓喜を抱いた。皮肉屋や社会主義者はこういった類の者をあざ笑うかもしれない/しかし結束したり崩壊したりしがちな巨大な共同体である軍隊を注意深く考察する愛国者は、忠誠心の影響力がいかに帝国の連帯を促すかを観察するであろう。

そして読者は私に同伴して、十二マイル離れたナワガイの第3旅団のキャンプに行かなければならない。私たちは再びマムンド渓谷に戻り、その人々と自然の特徴についてさらに学ぶ機会を持つであろう。


第十三章:ナワガイ

   「荒々しいバジャウルの山岳民族は自らの血で窒息して横たわり、
    そして、カフィールは足場を固めた…」
               「下ベンガルでの訓話」 A.ライアル卿

自然界において、傷ついた動物を仲間が追いつめる、容赦ない残酷さほど悲惨で邪悪な光景はほとんどない。世界において西洋人がこの粗野な生まれながらの本能を遥かに上回っていたのは、おそらくキリスト教文明と、涼しくて爽やかな気候のためである。ヨーロッパ人の間では力は敵意を、弱さは哀れみを引き起こす。東洋ではすべてが異なる。安全は成功の中だけに、平和は繁栄の中だけにある。スエズの向こうでは人心の傾向はそのようである。皆が倒れた者を見捨てる。皆が倒れた者に襲いかかる。

マムンド渓谷での戦いの記事において、部族民が退却する敵を追跡し、孤立した部隊を圧迫する活力に読者は印象を受けたかもしれない。戦争においてこれは正常で現実的な方針である。しかし山岳民族は軍事的知識からではなく、自然な性向からそれを採用していた。彼らの戦術は彼らの性質の結果である。道徳的、政治的、戦略的な行動はすべて同じ原則に則っている。恐怖しつつ不機嫌に軍隊の通過を見守っていた強力な部族は、彼らの背後に弱さの兆候が現れるのを待っていたのである。旅団が地域を支配し、自信と成功を収めている限り彼らの連絡は自重され、蜂起は局所化されていた/しかし、停止、反転、退却により、すべての方面において恐るべき連合体が立ち上がった。

もし読者がこれを念頭に置くのであれば、この章が取り扱う立場を理解することができ、本書の範囲を超える他の多くの問題を説明することができる。忘れてはならないのは、辺境戦争の偉大なドラマはペシャワルからコロンボ、クラチェー(*カラチ)からラングーンに至る劇場を埋める莫大な静かで注意深い観客の前で演じられることである。

9月17日にビンドン・ブラッド卿がナワガイで直面した戦略的および政治的状況は、困難で危険なものであった。彼は敵国に進出していた。彼の前にはハッダ・ムラーの呼びかけによってさらなる前進に対抗するためにモーマンド族が集まっていた。彼が従えていた一個旅団は敵が守っているベドマナイ峠を突破できるほど強力ではなかった。計算に入れていた第2旅団は十二マイル離れたマムンド渓谷に完全に費やされていた。四日の行程分離れているパンジコラ川の第1旅団は移動するのに十分な輸送手段がなかった。一方エルズ将軍の師団はシャブカドルの北東の難しい土地を痛いほど苦労して進んでおり、あと数日間は到着できなかった。こうして彼は、それを通り抜ける退却こそが最大の危険と困難になる「山峡のネットワーク」の背後で孤立したのであった。

これに加えて敵地、またはいつでも敵となる可能性のある土地を越えて伸びる六十マイルの連絡線がマムンド渓谷での予期せぬ暴動によって深刻な脅威にさらされていた。彼は二つの戦火の間にいた。これもすべてではなかった。大きな権力と影響力を持つ首長であるナワガイのカーンの忠実さは、ビンドン・ブラッドの旅団の存在のみによって保たれていた。インド政府が唱えたように、旅団がマムンド渓谷のジェフリーズ准将に合流するために行軍した場合、この強力な首長はイギリスへの反抗に全力を投じたであろう。マムンド渓谷の炎にベドマナイ峠の炎が加わって、強烈な大火を引き起こし、燃え上がりやすい部族民の間で広範囲に広がったことであろう。バジャウルは男を上げたことであろう。スワットは最近処罰されたにもかかわらず、不気味に扇動されたであろう。ディリは支配者を拒み、その連携に参加していたであろう。山岳地帯全体が燃え上がっていたことであろう。すべての谷が武装した男たちを投入したであろう。ラカライに到着したエルズ将軍は支援旅団ではなく敵対的な集団に出会い、何事も成し遂げることなくシャブカドルに戻らなければならなかったかもしれない。

ビンドン・ブラッド卿はナワガイにとどまることにした。ハッダ・ムラーの集団をマムンド渓谷の部族民から切り離す/エルズ将軍に手を差し伸べる/峠を開いたままに、カーンを忠実なままに保つ。ナワガイが状況の鍵であった。しかし、それは数多くの危険を冒すことなしに握ることはできない鍵であった。それは大胆なコースであったが、正しく着想された大胆なコースが通常そうであるように、成功したのである。それゆえ彼はジェフリーズにマムンド族に対する圧迫作戦を命じ/ナワガイのカーンに政府の信用と、彼をすべての敵から「保護」する自分たちの決意を保障し/エルズ将軍にナワガイで会うつもりである、と回光通信し/キャンプに塹壕を掘って待ちうけた。

長く平和に待っている必要はなかった。何世紀にもわたる絶え間ない戦争によって戦術的な本能を進化させてきた部族民は、自分たちの望みにとってナワガイの第3旅団の存在が致命的であることをすぐさま理解した。そこで彼らはそれを攻撃することに決めた。スーフィー(*イスラム神秘主義者)とハッダ・ムラーは、信じやすい信奉者たちにその影響力のすべてを行使した。前者は来世の幸福の希望に訴えた。戦死したすべてのガジたちは、カアバの上の玉座のまさに足元に座るべきであり、褒め称えられ、威厳を与えられ、天国の美女の二重の手当ての魅力によってその苦しみを癒されるであろう。ハッダ・ムラーはさらに具体的な誘導を行った。陣地に突撃した者には銃口が向くことはない。弾丸に傷つくことはない。彼らは不死身である。まだ天国に行くべきではない。地上で名誉を受け、尊敬されて生き永らえるべきである。ハッダ・ムラーの信奉者は来世の快楽の志願者の三倍の死者と負傷者を抱えていたため、この保証はより重要になったようである。この粗野で迷信的な山の息子たちの未発達な心の中にも、経済学と実践哲学の未分化の胚芽、潜在的な進歩の可能性の証があるように思える。

     ある者はこの世の喜びを
     ある者は預言者の楽園が来るのを恋い願う。
            ああ!現金を受け取り、債券を手放せ。
     遠い太鼓の響きなど気にするな。
                     ウマル・ハイヤーム
              (*1048年生まれのペルシャの学者・詩人)

毎夕、攻撃の可能性のある戦線に騎兵隊を出して、陣営の近くに日没時の攻撃を狙う敵が集まっていないことを確認するのは、すべての戦争において賢明な指揮官が行っていることである。18日、第11ベンガル槍騎兵隊のデラマン大尉の戦隊はベドマナイ峠の方向からやってくる敵の散開した一隊に出会った。とりとめのない小競り合いが起こり、騎兵隊はキャンプに退却した。その夜いくらかの発砲があり、哨兵線から約五十ヤード離れたところへ迷い出た女王陛下の連隊の兵士が、いたるところに潜んでいる残忍な敵に引き倒されて殺された。翌夕、騎兵隊はいつものように偵察した。戦隊はその前進偵察隊に守られて平野を横切り、ベドマナイ峠に向かって押し出した。突然、部族民の長い列がヌラーから立ち上がって一斉射撃を行った。馬が撃たれた。戦隊は旋回して短縮駈足で脱出し、専門的に「接触の確立」と呼ばれるものに成功した。

今や約3000人の敵の大規模集団が平野に現れた。日没の約半時間前、彼らは踊り、叫び、ライフルを発射した。山岳砲兵隊は数発の破裂弾を発射したが、距離が大きすぎてあまり利益はなかった、それとも損害というべきか?そして暗くなった。その夜、旅団全体は攻撃を予測し続けていたが、非常に中途半端な試みが行われただけであった。これは簡単に撃退され、軍の側では女王陛下の連隊の一人が殺された。

しかし、20日にナワガイのカーンから明確な情報があった。すなわち、その夜キャンプに決然とした攻撃が行われることになる、と。騎兵隊の偵察は再び日暮れに敵と接触した。将校たちは一時間早く夕食を取り、8:30頃発砲が始まったときにちょうど終わった。長距離からではあったがキャンプの位置は周囲の高みから見渡されていた。そこから、今や徹底的なライフルの銃火が放たれた。すべてのテントが撃たれた。塹壕に入っていない将校と兵は伏せるよう指示された。弾丸の大部分は陣地の一方の側の胸壁を飛び越え、腹ばいになった人々に害を与えずに音を立てて通過していった/しかし歩き回るのは危険であり、また高みから撃ち込まれる銃火は誰にとっても癪なものであった。

今やキャンプのすべての側面に剣による決然とした激しい突撃が行われた。約4000人にも上る敵が最大の勇気を示した。彼らは塹壕の直前まで駆け寄り、まさしく部隊の銃剣の下で、死ぬか、死にかけていた。攻撃の矛先はイギリスの女王陛下の歩兵連隊に向けられた。その夜キャンプにいた多くの人が言った通り、敵がそこに突撃すると決めたのは幸運なことであった、連発ライフルに直面していなかったなら彼らは陣地を破っていたかもしれない。

しかしイギリス軍の火砲は圧倒的であった。その統制は見事であり、その帯びている武器はより恐るべき弾丸によってすべての突進を食い止めた。自信を持った兵士たちが完璧に制御されていた。敵の突撃に際して兵に連発銃の使用命令が出された。砲は照明弾を発射した。この大きな打ち上げ花火は空中で破裂して星になり、ゆっくりと地面に落ちて、素早く走ってくる部族民の群れの上に青白く、ぞっとするような光を投げかけた。そして小銃射撃のポンポンという音は単一の強烈な咆哮となった、ライフルの弾倉の中の十個の弾薬筒がほぼ瞬時に発射されたのである。そのような銃火を前にして何者も生存は不可能であった。勇気、獰猛さ、狂信、何も役に立たなかった。すべてが一掃された。笛が鳴った。自由な銃撃は機械のような精度で停止し、分隊の着実な一斉射撃が再開された。攻撃が続いた六時間の間にこれが一回ではなく、十二回行われた。第20パンジャブ歩兵隊と騎兵隊もその前線に加えられた攻撃に着実に耐え、撃退した。やがて部族民は完敗にうんざりし、憂鬱に無秩序に丘に退却した。

その夜キャンプにいた人々は皆、最も不快な経験をした。塹壕にいた人々が一番マシであった。何もすることもなく、見るものもない他の人々は、次の弾丸が彼らに命中するかどうかに思いを巡らせながら六時間も横たわったままであった。ある一張りのテントに十六個の銃弾の穴が見つかったという事実から、銃火の深刻度についてある程度想像がつくであろう。

ウォードハウス准将は十一時頃に負傷した。彼は塹壕の周りを歩き、攻撃の進行と弾薬の消費について指揮官と協議し、報告後、ちょうどビンドン・ブラッド卿の元を去ったとき弾丸が足に命中した。重症で痛いが幸運にも危険な傷ではなかった。

キャンプに落ちた弾丸の数が多かったことを考慮すると、イギリス側の損失は驚くほど少なかった。全報告は以下のとおり:―

                イギリス軍将校
  重傷―  ウォードハウス准将
  軽傷―  マン獣医大尉

                  イギリス軍兵士
                   死亡    負傷
  女王陛下の連隊・・・・       1     3

             現地兵士―負傷       20
             その他―           6
             全兵士中の合計       32

騎兵馬と輸送動物の犠牲は最もひどかった。120頭以上が死亡、負傷した。

ほとんどの場合、敵は仲間の死体を運んで撤退したがシェルターの壕の外に横たわるおびただしい死体は彼らの攻撃の勇気と活力を証明していた。翌朝、頭の半分を吹き飛ばされた一人の男が見つかった、山砲の散弾の発射によるものであった。彼は砲口、彼が止めたと信じていた砲口、の一ヤード先に横たわっていた。つまり盲目的軽信と狂信の犠牲者は合理主義と機関砲の連合の力によって幸せに地上を去ったのである。

もちろん敵の損失を正確に見積もることは非常に困難であった。しかし、翌日に200人の死体が近くに埋葬されたことが立証され、多くの負傷者がさまざまな村へ運ばれたと報告された。概算において損失は約700人と見積もられた。

これで事態は片付いた。ハッダ・ムラーの集団の後ろ盾が崩れ、そのことは急速に広がった。ナワガイのカーンは、政府に対するその揺るぎない忠誠を熱心に主張した。マムンド族は落胆した。翌日、エルズ将軍の率いる旅団が谷に現れた。ビンドン・ブラッド卿は配下の騎兵隊と共に騎行した。二人の将軍はラカライで会った。エルズ将軍はマラカンド野戦軍の第3旅団によって補強され、ベドマナイ峠を通過してハッダ・ムラーの敗北の仕上げをすることが決定された。ビンドン・ブラッド卿と騎兵隊は、ムマンド渓谷のジェフリーズの部隊に加わり、そこでの事態に対処する。したがって、マラカンドからペシャワルに二個旅団を連れて行くという当初の計画は破棄された/そして第3旅団を除いて、ティラ遠征に必要なビンドン・ブラッド卿の部隊はノウシェラを経由して集合地点に向かうことになった。後にわかるように、この計画は出来事の経過に合わせてさらに修正された。

私は21日の朝に第3旅団に再び加わり、夕方には護衛隊に便乗して谷を越えてエルズ将軍の旅団に会いに行った。モーマンド野戦軍の動員はImperial Service Troops(*英印軍に協力するために藩王国が出すことになった軍隊)の初の運用として特徴づけられる。パティアラのマハラジャとパータブ・シン卿の両者が軍を率いていた。後者は熱病にかかっており、テントの外に座っていたが、いつものように陽気で立派であった。祝祭行列の壮大なユニフォームで見る者すべての注目を集めたこの華麗なインドの小君主は、今では実務的なカーキ色を纏っており、連隊の長としての勤務において最も喜ばしい反響を得ていた。すべての費やされた人命と金銭にもかかわらず、すべての軍事的、政治的失敗にもかかわらず、1887年の辺境大戦争は少なくとも英国がインドの他の地域を治める基盤を示し、誰が味方で誰が敵かを明らかにしたのである。

私はポロがインドの小君主と英国将校の良好な関係の強化に非常に大きく関係していると考えざるを得なかった。ポロを帝国の要因として語ると奇妙に聞こえるかもしれないが、国家的競技がハイ・ポリティクス(*国家の生存にかかわる政策)において役割を果たしたのは歴史上初めてのことではない。ポロはイギリスとインドの紳士が同じ条件で交わった共通の基盤であり、大いなるお互いへの尊重と尊敬はその競技会に帰されて然るべきである。これに加えて、ポロはインドの下級将校の救いであり、若い将校は従来のように、昼夜を問わずブランデーをテーブルの「目玉」としていない。ポニーとポロ・スティックがその度胸と判断力、落ち着きを高めるゲームをプレイするために、彼らをバンガローと食堂から誘い出したのである。Indian Polityの著者は、英国と現地の将校が通常の年功序列で、同じ立場で一緒に勤務する日が来ると断言している。私がイギリス軍将校について知っていることからして、私自身はこれが可能であるとは信じられない/しかし、仮にそれが実現したとしたら、その道はポロのグラウンドで準備されていたのであろう。

第3旅団のキャンプが再び攻撃されることはなかった。部族民は前夜の経験から苦い教訓を学んでいた。しかし塹壕が暗闇の中に並んでいて、女王陛下の連隊が占めている前面を敵の小隊があちこち動き回っていたと言われている。非常に優れた一斉射撃が一晩中、時々行われた。暗闇から数発の落下弾が戻ってきたが誰にも不都合はなかった。そして軍の大部分は前夜に失った睡眠を補った。

翌朝ビンドン・ブラッド卿とそのスタッフ、第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊は、ナワガイ峠を通り抜け、イナヤット・キラでジェフリーズ将軍と合流した。今や第3旅団はマラカンド野戦軍を離れ、エルズ将軍の指揮下に入ったのでこの物語の本来の範囲を超えてしまった/しかし完全を期すため、またその驚くべき火砲によってナワガイの戦略的状況を救い、ハッダ・ムラーの信奉者に恐るべき損失を与えた見事な連隊について読者はより多くを聞きたいであろうから、私は彼らのその後の運命を簡単に辿ろうと思う。

ウォードハウス将軍が負傷した後、第3旅団の指揮はグレイブス大佐に委ねられた。彼らは9月29日にベドマナイ峠の突破に参加し、続く二日間はミタイ、スラン渓谷の要塞化された村の破壊に用いられた/しかし、これらの作戦には多くの人命の損失は伴わず、わずか三名の犠牲者で旅団全体がシャブカドルに到着した。その後女王陛下の連隊はティラ遠征に参加するためペシャワルに派遣された。そしてそこでマラカンド、モーマンド野戦軍で得た名声をさらに高めることになるのである。


第十四章:マムンド渓谷に戻る

   「私は再び、私たちがスポーツをした丘を訪れる。
    私たちが泳いだ小川、そして戦った野原を。」
                「ハロー校を遠く眺めて」バイロン

 

図5. バジャウルでの作戦地図

 

あいまいで漠然とした満足感とともに、マムンド渓谷の入り口にあるイナヤット・キラの塹壕で囲まれたキャンプに私は再び読者を導く。そこでは非常に多くの出来事があり、非常に多くの思い出と経験がそれに結びついている。軍隊がいなくなった今、生活と活動の場は寂しく静かになっている。そこで倒れた将校と兵士の墓は、平野の中で所在が分からなくなっている。しかし、その名はまだ少なからざる英国の家庭で記憶されており、打ち捨てられた塹壕の陣地を見るにつけ、部族民は第2旅団の訪問を簡単には忘れないであろう。

15日の午後、キャンプが最初に設営されたとき、小さな急ごしらえのシェルター塹壕だけがキャンプを囲んでいた。しかし、数週間が経過するにつれて、胸壁はより高くなり、溝はより深くなり、穴はより多くなり、場所全体が要塞となった。防御側を側面攻撃から守るため、境界線に沿って防弾壁が構築された。土と石の巨大な壁が馬とラバを守った。キャンプ全体の周囲の五十ヤード外には突撃を挫くための仕掛け線が注意深く敷設されており、入り口に通じる小道と轍は踏み固められて平らな道になっていた。永続性の側面は気休め程度であった。

9月16日の戦闘以来、第2旅団は移動できなかった。輸送―軍隊の生命と魂―は、ここより未発達ではない国でそうであるよりもさらに重要な要素である。旅団の機動性は荷を担ぐ動物に完全に依存している。14日に多くのラバが殺された。16日に野戦病院は負傷者で一杯になった。負傷者を運ぶことができなかったため、キャンプが移動できなくなってしまった。彼らを残して移動することは不可能であった。彼らのための十分な護衛を差し引くと、旅団の残りの人数は戦うには少なくなりすぎてしまう。したがって、第2旅団は居座っていた。その攻撃力は出撃と帰還の行軍に限定されていた。ビンドン・ブラッド卿がとった最初のステップは、負傷者を基地に送り返すことによる機動性の回復であった。部隊の構成にもいくつかの変更が加えられた。今やモーマンド野戦軍に合流している第11ベンガル槍騎兵隊の後をガイド騎兵隊が引き継いだ。とても深刻な損失を被った第35シーク隊はパンジコラ川から来た第31パンジャブ歩兵隊に入れ替えられた。皆が発熱していたバフ隊はマラカンドから来た王立西ケント連隊と交代した。その週の戦闘で今や砲が四門に減り、将校の半分、ラバの三分の一、部隊の四分の一を失った第8英国山岳砲兵隊に第7隊が取って代った。

負傷者を運ぶためのラクダが、パンジコラから送られた。バフ隊は連絡線を下る長い護送隊を護衛した。キャンプの誰もが彼らを見るのが最後になることを残念に思った。今週の戦いで彼らはイギリス歩兵大隊がすべての混成旅団のバックボーンであることを明らかにし、現役において獲得するのが非常に難しく、失うのがとても容易な、羨ましくなるような名声を確かにガイド歩兵隊と共有したのであった。

9月24日ビンドン・ブラッド卿はティラ遠征軍第一師団の指揮官に任命するというディスパッチを受け取った。マムンド・ジルガとの交渉が進行中であり、合意に達する可能性があると思われたので彼はスタッフとともにパンジコラに赴いた。ここで彼は電信線とつながることによってインドと簡単かつ迅速に通信でき、同時にイナヤット・キラでの事態の進行を見ることができるのである。デイビス氏はマムンド族との外交関係を指揮した。26日、部族のジルガがキャンプに入った。彼らは服従のしるしとして4000ルピーを預け、五十丁の銃器を持ち込んだ。ただし、これらは最も古く、最も時代遅れのタイプであり、そして明らかに非常に多くの兵士を死傷させた武器ではなかった。このことが部族の代表者に突き付けられた。彼らは他に何もないと抗議した。自分たちは貧しい、と彼らは言った、その財産は政府のなすがままである。しかし他の武器は持っていない。

政務担当官はきっぱりとしており、その条件は明確であった。16日に第35シーク隊から捕獲された二十二丁のライフルを引き渡さなければ、村を破壊する。他の条件は受け入れない。これに対して、彼らはライフルを入手しなかったと答えた。それは皆、クナー渓谷から来たアフガニスタンの部族民によって持ち去られた、と彼らは言い、それは真実であったと私は思う。これらは引き渡せない。それに加えて―これも真実であるが―彼らは「フェアな戦争」に囚われていた。

カルカッタに数年間住んでいた一人の男はこの件に関して特に雄弁で、なかなかの技量でこの事件を論じた。しかし、デイビス氏に「部族の中には長老がいなかった」のか、なぜ彼らは「バブ[現地吏員―東洋のお役所仕事の権化]に導かれたのか」と尋ねられて彼は打ちひしがれた。議論は彼らとイギリスの権力との不和の問題全体にまで拡張された。彼らは、マラカンドとチャクダラを攻撃するために若者を送ったことを認めた。「世界はすべてガザ(*イスラム聖戦)に向かっていた」と彼らは言った。自分たちは遅れをとることができなかった。彼らはまた、マルカナイのキャンプを攻撃するために谷から五マイル離れて出かけて行ったことを告白した。なぜサーカーは村を焼き払ったのか?と彼らは尋ねた。自分たちは仕返しをしようとしただけである―自らの名誉のために。これらはすべて政府の観点からすると最も不満足な心的態度を示しており、部族がより従順な態度をとるまでは旅団が谷を立ち去れないことは明らかであった。問題は重要なポイントに戻った。彼らがライフルを引き渡すかどうか?これに対して彼らは仲間の部族民に相談して翌日に返答する、と曖昧に答えた。これは事実上の拒否に等しく、27日に返答がなかったため、交渉は終了した。

これと、ディリとバジャウル全体の部族民の脅迫的な態度の結果、ビンドン・ブラッド卿はインド政府に電報を送り、この地域において大部隊を維持することを推奨した。これにより、彼はティラ遠征の司令官を事実上辞任した。この私心のない決定は全軍に最も爽快な満足感を与えた。政府は将軍の助言を受け入れた。ティラ軍は再編成され、W.P.シモンズ少将が第一師団の指揮官を引き受けた。ビンドン・ブラッド卿は十一個大隊、七個戦隊、三個砲兵隊を自由に使えることになり、現地の状況に適切に対処するように指示された。彼は直ちにマムンド族に対する懲罰的作戦を再開するようジェフリーズ将軍に命じた。

これらの命令に従い、29日に第2旅団は谷の中央にある十二から十四の村をすべて破壊し、三十以上の塔と砦をダイナマイトで爆破した。谷全体が煙で満たされており、煙は濃い多数の柱となって上向きに渦を巻き、破壊現場の上空に雲のようにかかっていた。解体の継続的な爆発音は砲撃に似ていた。軍隊と公然と争うことができない部族民はむっつりと丘の中腹にとどまり、騎兵隊のパトロールに対する長距離射撃に甘んじた。

今は村を燃やすという問題を議論するのにふさわしい機会であると思う。私は独立した公平性をもって英国人と部族民との間の紛争の進展について述べてきた。私は同様の精神をもって、採られた攻撃方法の審理に取り掛かろうと思う。イギリスではこの問題について多くの誤解が存在し、そのいくつかは並外れた無知によって引き起こされている。下院議員の一人は国務大臣に、村を罰する際に犯罪関係者の家だけを破壊するように注意したかどうかを尋ねた。細心の注意を払った、という答えが厳かに返ってきた。軍隊がおそらく村へ銃剣を持ち込み、それを激しい反撃に備えて構えており、あらゆる瞬間が命の損失と危険の増大を意味するとき、どれが「犯罪関係者」の、どれが無実の人々の家なのかを慎重に判別して回る光景は十分にばかげている。別のメンバーは、「村が破壊されたのか、要塞だけが破壊されたのか」と尋ねた。「要塞だけである」と大臣は無邪気に答えた。実際はどうだっただろうか?アフガニスタン国境近辺では、すべての男の家は彼の城である。村は要塞であり、要塞は村である。すべての家には銃眼があり、塔があるかどうかは単に所有者の財力の問題である。ある三代目の国会議員はその楽しい週刊誌のコラムにおいて問題をちょっとした長さで論じ、そういう戦術の野蛮さについてコメントした。それは野蛮であるだけでなく、無意味であると彼は断言した。村の住民はどこへ行ったのだろうか?もちろん敵の元へ!これはおそらく、実際の事実の最も著しい誤解である。この筆者は部族民が戦闘をする正規軍と、自分の仕事を続け、おそらく過度の軍事費に時々抗議する、平和で法を守る人々から成っていると想像したようである。実際には、これらの地域全体において全ての住民は石を投げるのに十分成長した最初の日から、引き金を引く力が残っている最後の日まで兵士である。そしておそらくその後共同体の足手まといとして殺される。

私は村を焼くことの合法性の問題をこうした正確な事実を知った上で、読者が自ら吟味することを勧める。インド政府の命令と英国の人々の黙認の下に移動する、英国の旅団のキャンプは夜間に攻撃される。いくらかの貴重で費用のかかっている将校、兵士、輸送動物が殺され負傷する。襲撃者は丘に退却する。彼らを追いかけてそちらに行くことは不可能である。彼らを捕まえることはできない。彼らを罰することはできない。残る救済策は一つだけである。その財産を破壊しなければならない。[インド辺境とキューバでの村の焼失の影響の対比を少し考えてみると面白いかもしれない。キューバでは反乱を起こしているのは人口のごく一部であり/残りは共鳴者である。これらの生ぬるいパルチザンを戦闘温度まで加熱するために反乱者は村を破壊し、砂糖を焼く。これにより住民の前に「戦いか飢餓か」の二者択一の選択肢を置くのである。これは住民に彼らが皆嫌っているスペイン人に対して武器を取らせ、戦野において反乱軍に加わらせるという効果を持つ。このようにキューバでは、政府は財産の保護に尽力し、反政府勢力は財産の破壊に尽力する。ウェイラー将軍が彼らをすべて町に集め、あのような痛ましい結果をもたらしたのは、動揺する住民の忠誠心を保つためであった。彼の政策は非情だったが根拠あるものであり、それが強健な軍事作戦を伴っていたなら成功していたかもしれない。]彼らの村はその良い行いのための抵当に入っている。彼らは完全にこのことに気づいており、キャンプや輸送隊を攻撃するときにはコストを考慮し、その価値があると考えたときに攻撃を行う。もちろん、それは戦争の他のすべてと同様に残酷で野蛮なことであるが、人間の命を奪うことを正当とし、その財産を破壊することを不正とするのは非哲学的な心だけである。いずれにせよ、非戦闘員を苦しめることによって守備隊を降伏させるためにパリのような都市の住宅への砲撃を正当化する、という戦争の習慣を持つ国が泥の陋屋を燃やすことを非難してはならない。

公式な用語では村の焼却は通常「非常に多くの村を訪れ、処罰した」または「要塞を取り壊した」と遠回しに表現される。私はこの回りくどさを全く良いとは思わない。インド政府が示す英国の民主主義の良識に対する自信の欠如は、最も賞賛に値しない特徴のひとつである。エクセター・ホール(*ロンドンで良く政治集会が行われていたホール)だけがイギリスの全てではない/そして私たちの島の人々は健全で現実的な結論に到達するために、問題を自らの前にフェアに提示することを要求するだけである。もしそうでなかったなら、私たちは世界において現在の地位を築いていなかったことであろう。

 

図6. 9月30日のアグラ攻撃を説明するラフ・スケッチ

 

マムンド渓谷に戻る。平野の村と丘の村の違いが強制的に実証された。29日、平野の一ダースを超える村が一人の命も失うことなく破壊された。しかし30日にはやや話が違った。アグラ村はザガイ村の近隣にあり、ザガイ村の攻略については既に書いた。それは山々の広い凹部にあり、その上の移動は困難で、説明することも不可能なほどに絡み合った凸凹の土地の中に立っていた。大きな岩が山の険しい斜面を翻弄しており、中には高さ三十フィートのものもあった/これらの中に散在しているのは、小屋や作物で覆われた細い段々畑で、それぞれが十フィートから十二フィートの大きな段となって上へ上へと続いていた。同じ凹部に同時に占領しなければならないガットという別の村が含まれていたことが、その場所への攻撃をさらに複雑なものとした。これによって、旅団は彼らの数が許す範囲よりも幅広い前線で攻撃することを余儀なくされた。ガイド騎兵隊が丘に近づいたとき、抵抗が企てられたことは明白であった。肉眼で何枚かの赤い旗が見え、双眼鏡では尾根と支脈に並ぶおびただしい人影が見えた。戦隊が低木林の許す限り前進すると、まもなく散開した敵からの発砲があった。数人の騎兵が下馬してカービン銃で返礼した。そして8:45に銃弾の雨が降り始めた。今や旅団は以下の編成で戦闘を開始した。最左翼の騎兵隊は側面を脅かす重要な谷の上端を守った/ガイド歩兵隊と王立西ケント連隊は戦線を攻撃の中心まで延長した/第31パンジャブ歩兵隊は村の右側の支脈に向かって移動し、第38ドグラ隊は温存された。戦闘はガイド歩兵隊が敵の陣地の左側の尾根を強襲することで始まった。ここは固く守られており、胸壁によって要塞化され、その後ろに防御者が隠れていた。ガイド隊は活発なペースで前進し、それほど発砲せずに、開けた土地を越えて丘のふもとまで進んだ。優れた遮蔽物から撃ってくる部族民は激しい銃火を継続した。弾丸はあらゆる方向にホコリを巻き上げ、もしくは空中でヒューヒューと悪辣な音を立てた/しかし距離は近く、敵が攻撃に耐えるつもりはないことがすぐに明らかになった。部隊が100ヤード以内に近づいて銃剣を装着したとき、十数人の肚を据えた男たちがまだ胸壁から発砲していた。ガイド隊のアフリディとパシャン中隊は鋭い歓喜の叫び声を上げ、途方もない叫び声は最高潮に達し、前へ突進して丘の民だけが登ることができる丘を登り、頂上を片付けた。隣の丘の斜面には退却する部族民の姿が見られ、シェルターを見つける前に多くが撃ち果たされた。

彼らが周りの地面に打ち込まれる弾丸をあっちへこっちへと避け、丘の斜面を骨折って上っていくのを見るのは奇妙なことであった/しかしその前の十分間の記憶が新鮮であったため、同情の気持ちは起こらなかった。かなりの数が倒れ、穏やかに座り込み、静かに横たわった。彼らが倒れるたびに現地兵士たちは奇妙な小さな歓声を上げた。これらガイド歩兵隊のアフリディとパシャン中隊はよく訓練された猟犬の群れと何の違いもないことが示唆される。彼らの叫び、動き、そしてその性質は似ている。

西ケント隊は今やガイド隊の右翼に並んでいた。後者が奪取したその長い尾根を守っている間に、イギリスの連隊は村に移動した。ここで抵抗は非常に厳しくなった。絡み合った凸凹の地面は、段々畑が時には十フィートの高さで立ち上がっており、丈の高い作物で覆われていた。両陣営に損失を出しながらの接近戦となった。小銃射撃の銃火は大音量に、継続的になった。右の支脈を上った第31パンジャブ歩兵隊はすぐに西ケント連隊と手を結び、両連隊は熱く交戦した。その間、中央付近で戦闘していた山岳砲兵隊は(*パンジャブ)歩兵隊の頭上の、敵が射撃してくる高い斜面に破裂弾を撃ち込み始めた。まもなくその任務を果たすには兵員が少なすぎることが明らかになった。左翼のガイド歩兵隊は、獲得した小尾根を離れることができなかった。大きな勢力を示しつつあった敵に再奪取されないようにするためである。その結果、ガイド隊と王立西ケント隊の間に隙間ができた。これにより部族民がイギリス連隊の左翼に回り込むことが可能になった。その間に右翼の第31パンジャブ歩兵隊も包囲してくる敵に背後を襲われた。損失のほとんどはこの状況のために起こったものである。

イギリスの連隊は村を強行突破し、その上の岩の間の胸壁に手強く陣取った敵に遭遇した。ここで彼らは急激に阻止された。先進中隊はこれらの砦の一つを襲撃し、敵はすぐに丘のさらに上へと退却した。約十五人の兵士が砦の中に入り、おそらくそのすぐ下にさらに三十人がいた。その場所全体がより高いところから見渡されていた。敵の射撃は正確で強烈であった。

そのうちの四―五人は、たちまち死傷した。胸壁は紛れもない罠であり、中隊は退却を命じられた。ブラウン・クレイトン中尉は最後まで残って撤退を見守っている際に撃たれて死亡した。銃弾が心臓の近くの血管を断ち切ったのである。約三十人のガジが丘を駆け下りて突撃して来たとき、残った二―三人の兵士は手を使って岩壁の上を降りていた。百五十ヤードの距離に支援のためのウエスタン少佐の西ケント隊三個中隊がいた。彼はすぐにスタイルズ大尉に胸壁を取り返し、兵士を取り戻すよう命じた。中隊は突撃した。スタイルズ大尉が最初に石壁に到達し、ジャクソン中尉とともに残った敵を排除した。五―六人の兵士が突撃で負傷し、また胸壁の中で倒れた者もいた。この中隊の前進陣地はまもなく守りきれないと判断され、全連隊が激しく交戦している村の縁に戻るように命じられた。

一方、オブライエン大佐の下で右翼を前進した第31パンジャブ歩兵隊は、側面の岩尾根からの激しい銃火にさらされた。隊の攻撃は敵が粘り強く守っていた、そのうちのいくつかは巨大な、大量の丸い岩に向けられた。すぐに接近戦となった。二個の先進中隊が100ヤード未満の距離で交戦することを余儀なくされた。さらに、その右側面からの十字銃火が彼らの困難を追加した。そのような立場では、オブライエン大佐の存在は非常に貴重であった。ポイントからポイントへと素早く移動して、銃撃を指揮し、彼に献身する兵士たちの精神を活気づけた。敵の狙撃手がこの目立つ人影を狙い始めるまで長くはかからなかった。かなり長い間、弾丸はその周りのあらゆる地面を打ったが、彼は無傷であった。しかし、ついには体を撃たれ、致命傷を負って彼は戦いの場から運び去られた。

軍事キャリアの追求における他のすべてのそれとは異なる事情と環境を考察するため、小休止する。政治生活、芸術、工学において、才能があり、知恵をもって行動する人は、世の中での地位を着実に向上させるであろう。間違いを犯すことがなければ、おそらく成功を収めるであろう。しかし、兵士は外部の影響により大きく依存している。彼が他者より出世するための唯一の方法は、頻繁な戦闘でその命を危険にさらすことである。彼のすべての財産、それが何であれ、世界におけるそのすべての地位と重み、そのすべての蓄積された資本は、彼が作戦に加わるたびに新たに賭けられなければならない。彼は二十回の実戦を経験し、勲章やメダルをたくさん身につけているかも知れない。昇進中の兵士として注目されているかも知れない。しかし砲火を浴びるたび、彼が殺される可能性はまだ運が使われたことのない最年少の下士官と同じか、おそらくそれよりも大きいのである。実験に力を注ぎ、大きな誤算をした政治家はまた運を取り戻すかもしれない。しかし無差別の弾丸はすべてを解決する。詩人が幾分冷酷に言っているように:―
死んでしまったら、もう良いことはない。(*Stone―dead hath no better.引用元不明)

オブライエン大佐はまだ若いのに、特別に大隊の指揮官に選ばれていた。彼は何度かの遠征を行った。すでに彼は下級兵士の骨折り仕事を経験しており、軍職のより大きな褒賞のすべてが視野に入っていた:そして、その連隊長である大佐としての戦闘中の死は、兵士が望み得る最高の終わり方ではあるが、国家により大きな価値をもたらしていたかもしれないという点において、名誉ある生涯の突然の終了を記録するのは悲しいことである。

圧力は今や全戦線に沿って非常に強くなり、准将は軍隊が深入りすることを恐れて撤退を開始するよう命令した。しかし村は燃えており、敵も接近戦でひどく苦しんでいたため通常の気力で追撃しては来なかった。砲兵隊は敵の横隊から600ヤード以内まで前進し、退却路を見渡す支脈を片付けるため榴散弾の速射を開始した。砲弾は今や丘を去って砲の前にいた西ケント連隊の頭上で叫びを上げ、尾根の稜線で爆発して小さな白い煙のパフとなった。そしてそれに含まれていた数百の弾丸は地面を引き裂いて濃いホコリの雲とした。

戦線から発するドーリーと担架の継続的な流れが始まった。すぐに利用可能なすべての運搬器具が使い果たされ、負傷者の身体は荒れた地面の上を同志の腕によって運ばれなければならなかった。やがて撤退は完了し旅団はキャンプに戻った。後方を守っていた騎兵隊の存在は敵が丘から離れることを阻止していた。

戻ると、恐ろしい光景を見ることになった。ドーリーと担架の列の先頭には殺された兵たちの遺体があり、それぞれが縄でラバに縛りつけられていた。頭が片側にぶら下がり、足が反対側にぶら下がっていた。地面に滑り落ち、引きずられてホコリと血にまみれたシーク兵の長い黒髪は、その姿を見るも恐ろしいものにしていた。しかし他の方法はなかった。そして彼らの遺体を置き去りにし、私たちと戦っていた野蛮人たちに辱められ、汚されるよりはましであった。キャンプの入り口には負傷者を待つ―袖をまくり上げた―外科医の大きなグループが待っていた。防水シートで薬箱を覆った二台の手術台も用意された。カーキよりも茶色い(*陰鬱な)戦争の一面がある。

アグラへの攻撃の犠牲者は以下の通り:―

                 イギリス軍将校
  死亡―    J.L.オブライエン中佐    第31パンジャブ歩兵隊
         W.C.ブラウン・クレイトン2等中尉   王立西ケント隊
  重傷―    H.イサケ中尉    王立西ケント隊
         E.B.ピーコック中尉   第31パンジャブ歩兵隊
  軽傷―    W.G.B.ウエスタン少佐   王立西ケント隊
         R.C.スタイルズ大尉   王立西ケント隊
         N.H.S.ロウ大尉    王立西ケント隊
         F.A.ジャクソン2等中尉   王立西ケント隊

                 イギリス軍兵士
                     死亡      負傷
    王立西ケント隊・・・・       3      20

                  現地兵士
                     死亡      負傷
    ガイド騎兵隊・・・・        0       4
    第31パンジャブ歩兵隊・・・・   7      15
    第38ドグラ隊・・・・       0       4

                 総犠牲者数   61

ビンドン・ブラッド卿はパンジコラのキャンプで30日の激しい戦闘のニュースを受信するとすぐに、援軍を連れてイナヤット・キラへ行くことを決めた。[9月30日の戦闘の後、オブライエン中佐に代わって第45シーク隊のマクレー中佐が第31パンジャブ歩兵隊の指揮官に格上げされた。そこでもう一つの空席を埋めるための一時的な措置として私(*チャーチル)が配属されることになった。私はこれが現地歩兵連隊へのイギリス軍騎兵隊将校の初めての配属であると思っている。私は親切に礼儀正しく扱われたので、これが最後とならないことを願うばかりである。]彼は第8山岳砲兵隊/第24パンジャブ歩兵隊の一翼/ガイド騎兵隊の二個中隊を連れて10月2日に到着した/またハイランド軽歩兵隊と第10野戦砲兵隊の四門の砲にすぐに後に続くよう命じた。彼はアグラに新たな攻撃を行い、部分的に破壊されただけのガット村を焼き払う決心をしていた。そしてこの攻撃は5日に設定された。その日までに野戦砲兵隊の大きな12ポンド砲が到着し、十四門の砲が敵の陣地に集中することになった。全員が部族民との間の問題を何としても終わらせることを切望していた。

3日、軍隊はバデライの村を奪取して焼き払うように命じられた。覚えているかもしれないが、バフ隊は16日にそこへ向かったのち、第35シーク隊を支援するために急いで呼び戻されたのである。村の攻撃と破壊には新たな特徴はなかった/部族民はほとんど抵抗せず、軍隊の前から退却した。しかし旅団が帰還行軍を開始するとすぐ、彼らはそれまで見られていたよりもはるかな大人数で現れた。騎兵隊はヌラーと荒れた地面の間では機能しなかったため、敵は大胆に平野へと進んで来た。ほぼ四マイルの大きな三日月形となって彼らは撤退する軍隊を追いかけた。活発な小競り合いが約800ヤード幅で始まった。両方の砲兵隊が戦闘を開始し、それぞれ約90発の破裂弾を発射した。王立西ケント連隊はリー・メトフォード・ライフルで良い射撃を行った。旅団の大隊はすべて交戦していた。その戦力は3000人を超えていたと推定される敵は、重度の損失を被り、部隊がキャンプに戻った2:30に撤退した。ビンドン・ブラッド卿とそのスタッフは作戦をじっと見守り、谷を偵察した。死傷者は以下の通り:―

  王立西ケント隊―      負傷1
  ガイド騎兵隊―       負傷2
  第31パンジャブ歩兵隊―  死亡1/  負傷5
  ガイド歩兵隊―       負傷3
  第38ドグラ隊―      死亡1/  負傷3
             総犠牲者数     16

翌日ハイランド軽歩兵隊と野戦砲が到着した。前者は700人以上の大戦力で行進し、見た目も素晴らしかった。それは旅団の各大隊のほぼ二倍の人数であった。病気と戦争はたちまち戦力を低下させる。砲は困難な道のない土地を乗り越えるという大きな偉業を成し遂げた。彼らは自ら通路を作らなければならず、多くの場所で砲を手で引っぱった。こうして第10野戦砲兵隊は丘陵地帯を他の車輪交通よりも六十マイル先まで進んだ。彼らは到着すると大変な歓迎を受けた。キャンプの全員が外へ出て、よく磨かれた長い筒を見て満足した。山砲は七ポンド弾であったがこれは十二ポンド弾を千ヤード飛ばすことができるのである。しかし彼らはその力を示す運命にはなかった。マムンド族は再び和平を懇願してきた。彼らは闘争に疲れていた。彼らの谷は荒れ果てていた。秋の作物の種をまく季節が近づいていた。援軍の到着は政府が協定を結ぶ決心をしたことを彼らに確信させた。ディーン少佐は交渉の指揮を再開した。一方、すべての重要な作戦は中断されたが、採餌と「狙撃」は通常どおり継続されていた。

今やこの軍勢は二個旅団を形成するのに十分な大きさであり、メイクレジョン准将が到着すると、次のように再編成された:―

                  第1旅団
指揮―メイクレジョン准将 C.B. C.M.G.
            ハイランド軽歩兵隊
            第31パンジャブ歩兵隊
            第24パンジャブ歩兵隊から四個中隊
            第10野戦砲兵隊
            第7英国山岳砲兵隊

                  第2旅団
  指揮―ジェフリーズ准将、C.B.
                 王立西ケント隊
                 第38ドグラ隊
                 ガイド歩兵隊
                 第8山岳砲兵隊
                 ガイド騎兵隊

キャンプは大幅に拡張され、土地の広い範囲に及んだ。夕方にはメインストリートは活気に満ちた様相を呈した。日が沈む前に、明るい色の戦闘帽で識別されるさまざまな連隊の将校はスコットランド歩兵隊のパイプを聞くために集まるか、その日の出来事について話し合ったり、翌日の成算について推測したりする。谷の澄んだ空気が夜の影によって暗くなり、丘が均一に黒く色あせると、グループはさまざまな会食テントの辺りに集まり、ベルモット、タバコ、会話で夕食と「狙撃」が始まる前の楽しい半時間を過ごした。

現役の軍隊とともに行動する幸運に恵まれなかった読者のために、私は力の及ぶ範囲で戦争の苦労の埋め合わせとなるもののいくらかの公平な評価をお伝えしたいと思う。健康な、野外の生活、生き生きとした出来事、興奮の実現のみならず期待、寛大で陽気な友情、全員に開かれている栄誉の機会は、人生により鋭い興趣と希少な喜びを与える。現在の不確実性と重大性は、過去と未来を比較的些細なこととし、心から小さな心配事を取り除く。そしてすべてが終わったとき、思い出が残る。それが貴重なものにならない人物はいない。困難に関しては、厳しくとも耐えられるであろう。死の向こう側を見ようと努力した禁欲主義者と隠遁者はいっそう悪いことを耐え忍んだ。名声を追い求め、戦争の楽しみに恵まれている兵士は桶の中のディオゲネスや修道院のトラピスト修道団よりも大きな不愉快に晒されることはない。これら全てに加えて、彼が次の世について学ぶ機会は限りなく大きい。しかし、そのように言葉を尽くしたとしても私たちは物悲しくも頑固な事実に直面する。この逆の人生では人の心はとても退屈になり、その魂は物質的になり、その精神は貧しくなるのであるが、六ヶ月間現役で働いた者の中には、再び安全な家に帰ること、平和の心地よい単調さを喜ばない者はいない。


第十五章:騎兵の仕事

今回のマムンド族との交渉はより好都合な状況下で開かれた。大規模な援軍が到着したことによって、部族民は政府が本気であることを確信した。准将と区別するため彼らが「大将軍」と呼んだビンドン・ブラッド卿の帰還は彼らが頑強に抵抗する場合、直ちに新たな作戦が行われるという事実を印象づけた。まだ焼かれていない村がいくつかあったため、彼らはそれを救うことを切望していた。また彼らはその力についてはっきり分からない長いトペ(*現地の言葉で大砲)、あるいは野戦砲の外観を嫌っていた。そこで彼らははるかに謙虚な心的態度を示した。

他方、軍の全員はマムンド渓谷から抜け出すには「半ペンスよりも多くのキック(*more kicks than ha'pence猿回しの猿のしつけ方)」であることに気付いていた。平野のすべての村は破壊されていた。丘のくぼみにほんのわずかの村が残っていた。敵はそこに退却していた。Arrian's History of Alexander's Conquestsにはこうある。「バジラ[バジラはバジャウルに同じ]の男たちは自分たちの事態に絶望し、街を捨て、他の野蛮人と同じように岩場に逃げた。すべての住民は都市を捨て、彼らの土地にある岩場に飛ぶように走っていった。」アレキサンダーの困難が始まったのはその時であった。歴史家は次のように重々しく断言する。「この土地の岩は途方もないものであり、ゼウスの息子ヘラクレスでも攻略できない。」歴史は繰り返し、バジャウルの人々は戦術を繰り返した。旅団が思いのままに村を奪取し焼却する能力については疑いの余地はない。それと同時に彼らは戦闘を引き継ぐアフガニスタンの部族民やアミール軍の正規兵と会戦するであろうこと、その作戦において将校と兵士を失うであろうことは確実であった。この問題はどんな代価を支払っても終わりにしなければならなかった。早ければ早いほど良かった。

しかし和平の兆しにもかかわらず採餌隊は常に銃撃を受けており、これは騎兵隊の価値を示すいくらかの機会を与えた。私はこの機会に作戦中の騎兵科の実績を振り返ってみたいと思う。旅団がバジャウルに入るとすぐ、第11ベンガル槍騎兵隊は騎兵の正統の任務である偵察にどんどん利用された。ビートソン少佐は毎日、情報が必要とされるさまざまな渓谷と峠への遠征を行なった。この騎兵隊の使用法は辺境ではまったく新しいものであった。彼らをこのように使用することは危険と考えられていたのである。騎手は有利に戦いつづけるためには良い地面を必要とするが、どれほど荒れた土地、大胆な使い方をされる土地でも容易に移動することができ、必要なだけ情報を集めることができるのである。

辺境での騎兵の使用機会は偵察だけではない。彼らは情報収集に役立つため、攻撃的戦術において恐るべき存在である。

山岳戦闘において通常彼らの任務は一方の側面を守ることである。その地においてはいかなる形の(*騎兵の)突撃も滅多に可能ではなく、兵士はカービン銃を使用する必要がある。9月30日(*アグラ村の破壊)、騎兵隊はそのように使用された。敵陣の左側には一面に低木が生い茂った広い谷と石壁があり、多数の敵が陣取っていた。この部族民が谷から出てくることができたなら旅団の側面が襲われ、危険な状態になっていたであろう。五時間にわたって敵を食い止めるためにはガイド騎兵隊の弱い二個戦隊で十分であった。

彼らが採用した方法は注目に値する。六―七人の兵士の小さなグループが下馬し、カービン銃で敵の銃火に応射した。他の騎乗した兵士の小さなグループがヌラーや窪み、または障害物の後ろに隠れていた。敵が下馬したパーティーの一つに突進しようとして荒れた地面から前進しようとするたび、騎乗した哨戒隊が全速力で前に進んで追い払った。部族民の騎兵隊に対するこの恐怖は、彼らの常の性質とは対照的である。これはこの種の戦争における騎兵隊戦術の鮮やかな発揮であった。これにより膨大な数の敵が主要な戦闘への参加を妨げられたことを思えば、騎兵科の力と価値が説得力を持って証明されたことになる。

10月6日、小規模ではあるが非常によく似た任務を私は目撃した。戦隊は採餌隊の活動の保護に従事していた。哨戒横隊は急速に動き回るため敵の狙撃手とっては難しい目標となっていた。戦隊の残りの部分が下馬して大きな石堤の後ろにいるのに私は気がついた。カービン銃を持った二十人のスワールが、約300ヤード離れたモルチャ―小さな石の砦―を占領している敵と交戦していた。散漫な小競り合いがしばらく続き、半マイル離れた丘からもモルチャからと同様の銃撃があった。弾丸は堤の近くに落ち続けたがその遮蔽効果は良好であり、負傷者はいなかった。ようやく採餌が終了し、戦隊が歩兵隊の援護の下へと撤退するという知らせがもたらされた。今や興奮の瞬間が来た。指揮官は部下が騎乗した瞬間、敵が保持するあらゆる地点から銃撃されることをよく知っていた。彼は最初の部隊に騎乗を命じ、二番目の部隊に撤退の援護を命じた。兵士らは我先に鞍に乗り込み、展開して短縮駈歩で約300ヤード先の窪みへ伸びる線となった。たちまち銃撃が起こった。騎兵たちの近くにホコリが噴き上がり、その耳元を弾丸がヒューという音を立てて飛んで行った。しかし誰にも命中しなかった。その間残った部隊は彼らの撤退を援護するために敵に速射を続けていた。そして彼らが行く番になった。最後の一斉射撃の後、兵士らは馬に駆け寄り、騎乗して、先の隊を―彼らがそうしたように長い線状に伸びて―収縮駈歩で追いかけた。再び敵が銃撃し、再び地面のホコリは弾丸が良く狙いをつけられていることを示していた。しかし再び負傷者はなかった、そしてスワールはくぼみに到達し、笑い、上機嫌で語り合った。それでもやはり戦隊は朝の小競り合いで一人の兵士と一頭の馬がともに重傷、という損失を被った。

第2旅団がイナヤット・キラのキャンプにいる間、このような出来事がほぼ毎日発生していた。これは兵士を訓練する上で最大の価値を持っていた。ガイド騎兵隊は辺境戦争について知るべきことをすべて知っているが、他の多くの連隊もそのような経験の機会に恵まれるならずっと強力な戦闘組織となることであろう。

1987年のインド辺境戦争が示した大きな特徴は、騎兵隊の並外れた価値である。シャブカドルでの第13ベンガル槍騎兵隊の突撃は成功以上のものであった。スワット渓谷ではチャクダラの救援においてガイド騎兵隊と第11ベンガル槍騎兵隊が敵に最も恐るべき損失を与えた。副官へのビンドン・ブラッド卿の公式報告の言葉を引用するならこれらの連隊は「復讐に燃えて、追跡し、切り刻み、あらゆる方面において槍で突き、その死体で戦野は濃く覆われた。」ランダカイの行動の後、騎兵隊は再び最も精力的に追撃を行い、多数の敵を殺した。私はマラカンド野戦軍にいる間、騎兵隊が絶え間なく使用されているのを目撃したが、将官からはより多くの数を自由に使えるとうれしい、と何度か言われた。読者は本書において騎兵の仕事を記録した数多くの事例のいくつかを思い出すかもしれない。9月15日の朝、騎兵隊は敵が丘に到達する前に追いつき、前夜の損失(*マルカナイ)に対して復讐することができた。16日の戦闘で、コール大尉の戦隊の突撃は敵の全体攻撃を停止させ、歩兵隊が自らの銃火によって部族民を躊躇させ、退却に転ずることを可能にした。実際、マムンド渓谷でのあらゆる戦いにおいて騎兵隊が最初に入り、最後に出たのである。ビンドン・ブラッド卿は公式ディスパッチにおいて騎兵隊の仕事についてこのように言及している:―「今、私は騎兵隊が提供した軍務のかけがえのない性質に注意を喚起したいと思う。ナワガイでは、第11ベンガル槍騎兵隊の三個戦隊が地域を席巻した。騎兵隊が行ける場所であればどこへでも偵察を行い、信号隊を保護し、敵のすべての動きを監視したのである。マムンド渓谷において同じ連隊のE.H.コール大尉指揮下の一個戦隊は、彼らがそこにいる間に起こったすべての戦闘に参加した。そしてたとえ敵が数ではるかに勝っていたとしても、あえて広い場所で彼らに立ち向かうことは決してないという評判を確立した。後にコール大尉と部下はマムンド渓谷を離れたが、アダムズ中佐指揮下のより強力になったガイド騎兵隊が同じ方法で高次の戦術的スキルを示し、顕著な武勇と組み合わせていっそう効果的に行動した。」―公式ディスパッチ、1897年12月3日、インドの官報から。

騎兵隊のブームがあった。しかし一つの部分、そして最も重要な部分は、その幸運の分け前を拒まれてきた。当局はイギリスの騎兵隊の辺境での勤務をずっと拒んできた。もちろん、これは費用を根拠として弁護される。「イギリスの騎兵隊は非常に金がかかる」と言われ、そして「現地兵も同じように仕事をできる。」「より良く。」と言う人もいる。しかしそれは軍務の最も高価で重要な部門に水を差す、貧しい種類の倹約である。軍に入った若い将校が自分の前に置くべき野心は、戦闘において部下を率いることである。これが彼の生気を鼓舞し、その奮闘を励ますのである。その快適な馬上で彼の命と名誉がいつかそれに左右されるかも知れないことに思い至ったとき、「馬小屋」もはやつまらなくなくなる。彼が間もなくピンチの時に部下に自分の傍らに立つことを命ずるかもしれないと思うなら、もはやその利害や業務が退屈ではなくなる。しかしすべては虚しい展示物であり、その連隊が高価すぎて抜けない剣であることに彼が気づいたなら、自然に熱意を失い、気休めとしてポロに行くようになるかも知れない。それも良いものだが。

騎兵隊と歩兵隊の両方の辺境連隊で、多くの若い兵士に出会えたことは私の幸運であった。彼らはすでに三年、あるいは四年も服務していた。大胆で、知的で有能な彼らは、その訓練の価値を証明しており、どんな条件下でも、どんな国でも彼らの部下を率いるにふさわしい。イギリスの騎兵連隊の下士官は、輸送将校、信号将校、戦争特派員、またはスタッフ(*参謀など)の現役の軍務を折りに触れて少し経験することができる/しかし平和の中で訓練を受けた人物が戦野で兵士を率いる可能性は決して熟慮に値しない。楽しみたい、軍の仲間付き合いで数年間を愉快に過ごしたい、仕事を持ちたい、と思っている若い人にはイギリスの騎兵隊が向いている。しかしプロフェッショナルな兵士になりたい、戦争のエキスパートになりたい、実践的戦略の専門家になりたい、ハードな冒険の日々と戦場での真実の友情を求める若者には、私が見たガイド隊や第11ベンガル騎兵隊のようなすばらしい辺境連隊の選択をお勧めする。

私は物事の既存の状態を批判する人々は、彼らが非難する弊害を是正する建設的な法律を準備しているべきであると理解している。インド政府が全面的あるいは部分的に私の助言を容れることはまずないが、ここで私は彼らに愚かな「安物買い」政策をやめ、インドでイギリスおよび現地人の軍隊を使用する場合の正規の比率の原則を順守するよう強く勧告する。すなわち、二個現地騎兵連隊が辺境任務に派遣されているとき、三個目はイギリス軍の騎兵連隊であるべきである。

これに加えて騎兵隊将校に可能な限り多くの現役の軍務を経験する機会を与えるため、下士官が現地騎兵隊の緊急雇用に志願することを許可するべきである。私は現地騎兵連隊を指揮する数人の将校と話をしたが、将校は常に不足しているのでそうした取り決めはうまく機能して必要を満たすであろう、とのことであった。下士官は大佐の承認を得て現地連隊に所属し、ヒンドゥスタンで過ごし、現地軍に勤務する資格があると報告されたなら雇用可能とされるべきである、と私は再び指摘する。財政的に難しいと言われるであろう。私はこれを信じない。政府の強欲さがいかなる協定を課そうとも服従するほど、軍務の経験に強い意欲を持っている騎兵下士官が大勢いる。本当のところ、実際の経済に影響してはならない理由はない。インド政府がヒンドゥスタン語を話す将校への報奨として提供してきた金額は、これまで多くの騎兵将校を言語の学習へ誘導してこなかった。ここにはより強力で費用が一切かからない動機がある。

専門的になることは重い罪であることに私は気づいている。もしこの本が悪評を得るのであれば、下院の軍事の夕べが疎まれるのと同じように疎まれるのであると考えている。私はマラカンド野戦軍から遠く離れて軍事的論争のややこしい小道に迷い込んでしまったようである。何を書いていたかを忘れさせてしまったであろうことを読者には許していただきたい。

前章で説明した戦闘と継続的な疾病の発生により再び野戦病院は満床となり、軍隊の機動性を維持するため、すべての病人と負傷者を直ちに基地に送ることになった。陸路で100マイルを超える―旅は二週間近くを要し、揺れと暑さがその経験を負傷者にとって痛々しくうんざりするようなものにした。しかし戦争の厳しい窮乏においてはこういったことは不可避である、そして家に近づきたいという兵士の願いはその苦しみの多くを和らげる。病人と負傷者の護送隊は、自身がいくらかの療養を必要としていた王立ケント隊によってパンジコラ川まで護衛されることになっていた。インドにおいてテントなしで遠征を行うことは常に英国の連隊にとっては試練である/そしてペシャワル、デリー、ミアン・ミアなどの不健康な駅から前線に移動すると兵士は熱に飽和され、夏の暑さに衰弱して病人のリストは長く深刻になる。地表の水を飲むことによる腸チフス、および日中の暑さや夜間の寒さへの暴露の結果としてのその他のさまざまな種類の熱病はたちまち戦力から百人を奪ってしまう。インド辺境軍の将軍は敵の動きと同じくらい病院報告書の変動に注意を払わなければならない。従ってビンドン・ブラッド卿がマムンド族は和平を望んでおり、それに対するさらなる作戦はおそらくないだろうと見たとき、すぐさま配下のイギリスの一個連隊をパンジコラ近くのテントに送ったのであった。

9月30日と10月3日の戦闘で負傷した約六十人の兵士と、同数の病人が護送団の大部分をなしていた。軽傷者はラクダで運ばれた。現地のベッド台を二つに切って作った「カジャワ」と呼ばれる揺りかご状の架台に乗るのである。より重傷な者は白いカーテンで太陽から守られ、四人の現地人によってドーリーまたは担架で運ばれた。ラバに乗れる者は乗った。歩兵隊の護衛は考え得るあらゆる予防策をとりつつ列に沿って配置されている。しかし扱いにくい荒れた地面に苦しむドーリーと動物の長いラインへの攻撃の危険は、非常に現実的で恐ろしいものである。

負傷した兵士たちの陽気さと辛抱強さは信じがたいほどである。おそらくそれは、間近で死に立ち向かったことによって彼らが会得したものであろう/おそらく部分的には安堵感が人の心をしばし戦争から平和へと(*争いから平安へと)逸らせるためであろう。いずれにせよ、それは驚くべきことである。ある気の毒な仲間、バフ隊の兵卒はザガイで撃たれ、腕を肩のところで切断された。私が同情を表明すると彼は哲学的に「卵を割らなければオムレツを作ることはできない」と答えて一呼吸おいた後、とても満足げにつけ加えた。「あの日連隊はうまくやった。」彼は兵士の家系の出であったが、私は彼を待ち受けているであろう未来について沈思せずにはいられなかった。医学的に不適格とされることによる軍務からの解雇、飲酒以外の楽しみを見つけることが叶わない不十分な恩給、浮浪者の生活、貧困者の墓。おそらく連隊、つまり将校は彼を働かせることに成功したのでその資産から彼の年金に追加をするであろう。しかし、世界で最も裕福な国がそれに良く貢献した兵士を顧みず、国が誇り高く負うべき責務を新聞の慈善活動、地元の機関、そして民間の慈善団体に託すというのはなんという邪悪で恥ずべきシステムであろうか。

縦隊は六時に出発し、八マイル行進して十時頃にジャーに到着した。ここで王立西ケント隊を救援するために来ていた第24パンジャブ歩兵隊の一翼が加わった。ジャーのキャンプは北の丘から見渡されているという不利な点がある。そしてその名前を聞くのも苦痛な別の厄介な部族、サラルザイ族は夜間に軍隊に発砲して勇気を見せびらかすことを楽しんでいる。もちろんこの丘からの射程外にキャンプを移動することでそれを防ぐことができる。しかし残念なことに、そうしたとしても南にある別の丘から見渡されることになり、そこからウトマン・ケル族のシャモザイ部門―それについても私が先に述べたことが当てはまる―が同様のことを楽しむことになる。それゆえ不自由な事態に直面せざるを得なかった。

作戦中比較的忠実だったジャーのカーンの長男がその夜「狙撃」があることを指揮官である大佐に知らせに来たのは、私たちがキャンプに着いて間もない頃だった。特定の邪悪な男たちが部隊を滅ぼす意思を表明したが、ジャーのカーン位の相続人であり、女帝の味方である自分は私たちを守るつもりである、と彼は言った。私たちの眠りが妨げられないように彼自身の常備兵の中から四人の見張りを立ててキャンプを監視させ、歩哨に誰何されたときには「チョキダール」(夜警)と答えるようにしよう。これはすべて非常に満足のいくもののように思われたが私たちはいつものように周りに塹壕を掘った。保護者の力や性向を疑ったためではなく、すでに説明したように単に形式の問題としてである。

ちょうど夜の十二時、キャンプは連続した十数発の速射によって起こされた。カーンの見張りたちが敵を諫めるのが聞こえ、敵は嘲りと敵意に満ちた言葉で答えた。

発砲は一時間続き、「狙撃手」は自尊心を満足させて、感情を和らげ、弾薬筒を消費して喜んで去って行った。軍全体は沈黙を保ち、応射を授けたりはしなかった。

動物と兵士で込み合った100ヤード四方のキャンプに五十発の弾丸を落として、一頭のラバの尾を撃つという以上の結果を得られないというのは信じがたいことかもしれない。しかしそれは事実であった。これは少しであっても現役の軍務が兵士にとっていかに価値があるかということを示している。初めて砲火を浴びたとき、彼は自分が大きな危険にさらされていると想像する。すべての弾丸が自分に当たろうとしており、すべての射撃が自分に向けられていると考える。確かに彼はたちまち殺されるであろう。この試練を一度か二度経験すれば、その利益のオッズについて彼はなんらかの考えを持つようになる。多くの弾丸の音を聞いたが、それは自分を傷つけなかった。昨日のように今夕も無事に帰ってお茶を飲むことであろう。彼はより一層非常に強力な戦闘機械になる。

軍事的な観点から見ると帝国の一、二か所で永続的な辺境戦争があることには最大の価値がある。この事実はいつか私たちの兵士が平時に訓練された同数の徴集兵と対峙した時に証明されるかもしれない。

発砲は軍隊にほとんど影響を与えなかったが―ほとんどの者が何度も経験したことがあったが―それは負傷者に対しては厳しい試練であった。その神経は痛みと衰弱でくたくたに疲れていて、緊張に耐えられないのであった。担当外科医―タイレル少佐―は、哀れな仲間はあらゆる銃撃が打撃になるとでも思い込んでいるかのように震えている、と私に告げた。脚への弾丸は勇敢な兵士を臆病者にしてしまう。頭への打撃は賢者を愚か者にする。実際、私は十分な量のアブサンは善良な人間を悪党することができると読んだことがある。物質に対する精神の勝利はまだ完全ではないようである。

射撃が行われている間に奇妙なことが起こるのを見た。それは動物の習性と発育に興味を持つ人には面白いかもしれない。私のテントのすぐ前には開けた空きスペースがあり、山羊と羊の群れが占有していた。輝く月明かりですべてをはっきり見ることができた。弾丸がその上で口笛を吹くか、近くの地面を撃つたびに、彼らは明らかに恐怖で身をかがめ上下に揺れた。これに気づいた将校は彼らが砲火を浴びるのは初めてだと言った/そして、これは恐怖心で説明できるものなのか、それとも説明し難いものなのか、私はそれからずっと疑問に思っている。

10月9日夜のジャーの「狙撃」の記述にこの章のかなりの部分を割いた。そして評論家はなぜそのようなありふれた出来事について多くを書かねばならなかったのかを尋ねるかもしれない。しかし、この夜間射撃はそれについて何らかの記述がなければインド辺境戦争の描写が完成しないほど、非常に一般的な特色であると私は感じている。

翌日私たちはパンジコラ川を渡り、私は騎馬でノウシェラ基地への連絡線を出発した。各段階において何らかの文明と平和の利器が再び出現した。パンジコラでは電信線/サライでは新鮮なジャガイモ/チャクダラでは氷/マラカンドでは快適なベッド/そしてついにノウシェラで鉄道に到達した。しかし、これらは結局のところ重要ではない。それは手元にあるときには不可欠のように見えるが、手に入らなくとも困ることはない。ちょっとした普通の食物と哲学的気質が人生の唯一の必需品である。

私は読者を戦闘の場から遠ざけない。あなたは自由であり、その想像力によって高地の谷に引き返し、そこでキャンプと兵士の間に居続けてドラマの結末を見ることができる。


第十六章:降伏

   「彼らの目は物憂い悲哀によって
       落ちくぼんで疲れていた。
    そして、その荒れ果てた高地の住まいから
      下の平野を見下ろした。
   「二人は剣で、
      そして一人はエンフィールド・ライフルで傷を負っていた。」
 「ラジプー(*ラジャスタンのクシャトリア)の反逆者」ライアル

ついにマムンド族との交渉は結論に達し始めた。部族は本心から平和を望んでおり、旅団を谷から去らせるためならいかなる犠牲をも払う用意をしていた。今やカルのカーンは価値ある助力を見せた。彼は一貫してサーカーと和解するよう彼らを促し、彼らがライフルを返すまで軍隊が去らないことを確信させた。ついにマムンド族はライフルを手に入れると言った。しかし、悔い改めの道は茨(*原文では石)の道であった。部族民がいかなる代価を払っても和平することを決定したまさにその夜、山の向こう側のクナール渓谷から戦いに飽き足りない千人の好戦的なアフガニスタン人が到着し、すぐにキャンプを攻撃する意思を発表した。マムンド族は彼らを思いとどまらせた。カルのカーンの郎党たちは彼らに、どうか分別をなくさないように、と懇願した。最終的にこの歓迎されない盟友は立ち去るよう説得された。しかしその夜キャンプに攻撃があるかもしれない、という警告があった。そこで予備歩哨は二倍にされ、すべての兵士は準備良く服を着たまま寝た。マムンド族が私たちを敵から守っていたという事実は、状況に悲哀をもたらした。哀れな部族は新たな交戦に直面しないよう、「狙撃手」やその他の襲撃者を追い払うための見張りをキャンプの周りに配置した。彼らの誠意は疑う余地がなかった。

翌日ライフルの最初の一回分が引き渡された。16日に第35シーク隊から奪われた十五丁のマティーニ・ヘンリーがカルのカーンの部下によってキャンプに運び込まれ、将軍のテントの前に置かれた。ほとんどすべてが剣で滅多斬りにされて傷だらけであり、それを所有していたシーク隊員が最後まで戦って死んだことを示していた。おそらく、これらは過去に作られた他のどの銃器よりも血と財貨のコストが高かったであろう。残りの二十一丁は後で、と約束され、その後全て引き渡された。しかし、彼らが地面に横たえたライフルは、「フォワード・ポリシー」の経済的側面に関する苦い批判であった。これらの部族には武器以外引き渡せるものはない。これらの数丁を奪い取るために一か月を要し、多くの人命と数千ポンドを費やした。それは過去最悪の取引であった。「辺境部族の完全な軍縮」が明白な政策である、と人々はぺらぺら話している。このような結果が最も望ましいことは間違いない。しかし、それを叶えるのはスズメバチの群れに刺された針を裸の指で摘出するのと同じくらい苦痛で退屈な仕事である。

ライフルの引き渡しの後、協約の議論はスムーズに進んだ。完全なジルガが部族からキャンプへ送られ、徐々に明確な理解が得られるようになった。部族民は自らが被った損失を嘆いた。なぜ、サーカーは彼らのところに来てあんなひどいことをしたのか?なぜ、とディーン少佐は答えた、彼らは和平を破ってキャンプを攻撃したのか?部族の長老たちは、すべての共同体の慣習に従って「若い男たち」に非難を投げかけた。悪を行ったのは彼らである、と言い放った。全員が処罰された。最終的に明確な協約が合意された。そして批准のために同月11日に全体のダルバー(*現地語で会見)が設定された。

こうしてその日、午後の一時頃マムンド族を代表する大きなジルガが、カル、ジャー、ナワガイのカーンに伴われてキャンプから約半マイル離れたナワ・キラ村に到着した。三時、ビンドン・ブラッド卿、主任政務担当官のディーン少佐/副政務担当官のデイビス氏/司令部スタッフの大部分、および他の数人の将校がガイド騎兵隊に護衛されてダルバーに向かった。到着時に将軍は友好的なカーンと握手を交わして彼らをとても喜ばせ、用意されていた席に着いた。部族民が正方形の三辺をつくっていた。友好的なカーンたちは郎党とともに左側にいた。マムンド・ジルガは他の二つの辺に詰め込まれていた。ビンドン・ブラッド卿は左にディーン少佐を伴い、配下の将校を周りに置いて四つ目の面を占めた。

そしてマムンド族は正式に降伏を申し出た。彼らはその行動に深い後悔を表明し、ふりかかった不幸を嘆いた。自分たちは併合を恐れて戦っただけであると言明した。ウムラ・カーンの信奉者を谷から追放することに同意した。まだ引き渡していないライフルについて保証した。そして彼らは厳しい罰に苦しんで服従したので、サーカーは罰金もこれ以上の刑罰も科さないことが告げられた。これには彼らも喜びの色を見せた。全部族民が協約を遵守し、和平を保つことを手を挙げて誓って十五分間のダルバーは終わった。そして解散となった。

戦闘でマムンド族が被った損失については350人の死亡が確認され、その他におそらく700―800人の負傷者がいた。そのため丘の村はすべて負傷者で混み合っていた。この推測は越境してきた部族民の犠牲者を含んでおらず、それはおそらくかなりのものであったが、それに関して信頼できる情報を得ることはできなかった。ビンドン・ブラッド卿は負傷者に医療援助を申し出たがこれは辞退された。彼らにはその動機が理解できず、策略を恐れたのである。消毒薬や麻酔薬なしのこの哀れな男たちがどれだけ苦しんだかは、考えるのも恐ろしいことである。しかし恐らく自然の女神はその代わりとして激しい気質と山々のすばらしい空気を与えたのであろう。

このようにして、マムンド渓谷のエピソードは終わった。12日の朝、最後の軍隊がイナヤット・キラのキャンプから移動し、兵士、砲、輸送動物の長い列がカルの平原をゆっくりとたなびいて行った。部族民は丘に集まって敵の出発を見たが、その光景に彼らが感じたであろうどんな喜びも谷に目を向けると消えてしまったことであろう。一つの塔も、一つの砦もなくなっていた。村は破壊されていた。作物は踏みにじられていた。大量の死傷者を出して、冬が近づいていた。撤退する縦隊を追いかける挑戦的な射撃はなかった。獰猛なマムンド族は戦争にうんざりしていた。

兵士たちは行軍して去ったが、彼らは完全に勝利したと回想することはなかったであろう。一か月間、彼らはイナヤット・キラに宿営して絶えず戦っていた。マムンド族は壊滅させられた。帝国の権力は主張されたが、代償は重かった。1200人を超えたことのない戦闘部隊において31人の将校と251人の兵士が死傷したのである。

マムンド渓谷でのジェフリーズ将軍の旅団の死傷者は以下のとおり:―

  英国の将校  ・・・・死亡、または負傷により死亡  7
         ・・・・負傷・・・・  17
  英国の兵士  ・・・・死亡・・・・   7
         ・・・・負傷・・・・  41
  現地将校   ・・・・死亡・・・・   0
         ・・・・負傷・・・・   7
  現地兵士   ・・・・死亡・・・・  48
         ・・・・負傷・・・・ 147
  その他       ・・・・      8
                 ―――――――――
              合計・・・・ 282

  馬とラバ・・・・ 150

この犠牲者リストが長くなった主因は、すでに書いたように、アフガニスタンの国境に近いことであった。しかし、マムンド渓谷の人々の勇気、戦術、射撃の名声を否定することは不公平で不寛容である。彼らは非常に良くそれに値したのである。どれくらいの期間かは不確かであるが、彼らは野蛮主義の見通しの効かない暗がりの中で争い、戦ってきた。やがて彼らは文明と衝突し、文明は―科学戦争の凄まじい光が暴いた憎むべき悪を記録せざるを得なかったが―彼らが勇敢で好戦的な人種であることを惜しげもなく認めるだろう。その名前は、この忙しい世紀においてさえ数年間兵士の心の中に留まるであろう。またイングランドにはそれを決して忘れない家族がいる。しかし、おそらく丘の中腹にむっつりと座ってその居住地の廃墟をじっと見つめている部族民はこれらをすべて理解していなかった。または仮に理解していたとしても、英印政府と終局したことをまだ後悔していた。彼らにとって名声は高くついた。確かに「栄光ほど高価なものはない」というのは私たちも言われてきたことである。

軍隊は12日夜、ジャーでキャンプし、翌日にはサラルザイ渓谷をマタシャに移動した。ここで彼らはほぼ一週間残った。マムンドへの罰に怯えたこの部族は、組織立った(*regular)抵抗はしなかった。ただ何人かの熱血の「狙撃手」が毎晩定期的に(*regularly)キャンプに発砲した。数頭の馬とラバが撃たれ、ガイド騎兵隊のスワールが負傷した。谷の遠端まで毎日送られた軍の偵察隊は何の抵抗も受けず、部族のジルガは引き渡すよう命じられたライフルを集めるためにあらゆる努力をした。19日までに全てが引き渡され、20日に軍隊はジャーに戻った。そこでビンドン・ブラッド卿はウトマン・ケル族の降伏を受けた。彼らは要求された武器を持参し、マラカンドとチャクダラを攻撃した賠償としての罰金を支払った。

まだ戦闘気分であった兵士たちは、とても平和的な大成功をもたらした政治交渉を焦れながら見ていた。

クライヴ卿とクライヴ卿の後のすべてのインド軍司令官は野戦部隊に文官を付ける慣行を痛烈に批判している。彼らは軍事作戦を妨害し、将軍に干渉することで計画に優柔不断の精神を吹き込むと言われており、またそれはしばしば真実である。マラカンド野戦軍の政務担当官は常に軍の仲間に個人としては人気があったが、多くがその職務上の行動を批判し、その存在に難色を示していた。遠征における文官の義務は、二つある。一つ目は交渉、二つ目は情報収集である。これらの義務のうちの前者は絶対になくてはならないものと思われる。部族民の難しい言語と独特の性質は終生の研究対象である。現地の事情、カーンの力と影響力/または人々に対する他の支配者、国の全般の歴史と伝統についての知識は完全に専門化されなければならない仕事である。部族民が抵抗している間は荒っぽく手っ取り早い方法が優れているが、彼らが服従することを切望しているときは他の何かが必要である。現地人と政府の間のすべての問題を理解し、争いのすべての詳細を理解し、両方の観点をある程度認識できる人物が必要である。私はそのようなものが軍隊で見つかるとは思わない。最も有能で完成された人物が注意を払うのは軍の専門職だけで十分である。

これに加えてイナヤット・キラで友好的な監視隊が「狙撃手」を追い払ったとき第2旅団がどれだけ静かな夜を過ごしたか/どれだけ多くの新鮮な卵とスイカが調達されたか、その地域においてどのくらい容易に手紙とメッセージが運ばれたかを私は忘れることはできない。[私は先進の特派員だったため、パンジコラの電信事務所に報道電文を送る際に常にこの手段を利用した。ルートは敵地の二十マイルを通過し、これらのメッセージは決して届かなかったことがなく、何度かは公式のディスパッチや回光通信されたニュースより先に到着した。同様の働きによって、9月30日のアグラへの攻撃で殺された大佐オブライエン中佐とブラウン・クレイトン中佐の遺体は安全に速やかに埋葬のためマラカンドに送られた。]これは文官であるデイビス氏とガンナー氏が非常に難しい環境下で、我々と実際に戦わなかった部族民との関係を維持することによってなされたのである。

第二の義務については、敵の数と意図に関する情報の収集が、騎兵隊の諜報部門より良く、より適切に実行されると信じることは難しい。将軍がどのような軍事情報を必要としているか理解していることを文官に期待するべきではない。それは彼らの仕事ではない。デイビス氏がナワガイでの大夜襲について最も正確な情報を入手して、ビンドン・ブラッド卿に十分な警告を発したことは承知している。しかし一方で16日の戦闘に先立ってマムンド族についての利用可能な情報が乏しかったことは、その日に被った深刻な損失の主因である。他にも絶え間なくイナヤット・キラに対する夜襲の噂があったため、毎週約三回は全軍がブーツを履いたまま寝た。文官は外交任務を遂行し、将校は戦争を遂行すべきである。そして情報の収集は軍事上の最も重要な任務の一つである。私たちのパシャン人セポイ、諜報部門、そして意欲的な騎兵隊は、将軍がその計画に使用するために必要なすべての真実を入手するであろう。少なくともこのように責任を明確に割り振ることができる。

しかし、ある点においては私には疑う余地がない。政務担当官は作戦を指揮する将軍の監督下になければならない。「国家の中の国家」があってはならない。野戦軍を指揮できるのは一人の人物だけである。そしてその中のすべては彼の職権の下になければならない。政務担当官が、時にその決定に戦争の勝敗と兵士の命が直結している将軍に相談や報告をすることなく、いつでも部族民と協議する権限を持つのであれば、食い違いが起こって困難を生み出し、悲劇を巻き起こすであろう。

遠征が続く間は戦争のすべての危険を冒し、それが終わると野蛮な人々の間でその性質を研究し、その気性を観察するために自分の命を同様の危険にさらして生きる、そうした勇敢な人々の感情を傷つけることなくこの主題を議論することは難しい。私はそれと縁が切れることをうれしく思っている。

旅団のバジャウル滞在中、アフリディ・セポイの間でいくつか数件の脱走事件があった。あるとき歩哨に出ていた第24パンジャブ歩兵隊の五人の兵士が一団となって離脱し、武器を持ったままティラとカイバル峠に向かって出発したのである。私はアフリディとパシャン人兵士のいくつかの武勇と行跡を記録しているので、勲章の取り消しを提示するくらいで済ますのが適当であろう。帝国の臣民民族のキャラクターや、私たちが多くを依存している現地人兵士のキャラクターに興味がある読者は、おそらくパシャン族とシーク族を題材とするやや長い余談を許してくれるであろう。

アフリディとパシャン人兵士を十把ひとからげに裏切り者で信用ならないと断言する人々は、これらの人々が非常に奇妙で間違った立場に置かれていることを忘れてはならない。彼らはその同郷人や同じ宗教を信じる人々と戦うことを要求されている。一方には狂信、愛国心、自然の絆のすべての力が蓄積されている。他方には軍事連合があるだけである。忠誠の誓いを違えるのは間違いなく重大なことであるが、それより神聖ではないとは言えない他の義務もある。誓いを尊重することは、個人が社会に負う義務である。それでも、兄弟を絞首台に送る証言をする者がいるだろうか。自然のつながりは古く、他のすべての人間の法律よりも優先される。パシャン人がその友である同郷人を抑圧するために連れてこられ、抑圧を見つめるだけに留まったとしても、彼は自分がバーク(*エドモンド)の次の言葉の立場にいることに気づくであろう。「道徳は戸惑い、理性はよろめき、そこから恐るべき自然が跳ね返ってくる。」

辺境にはこのことに思い至り、アフリディのジレンマに同情する多くの人々がいる。長い経験と相当な名声を持ち、戦闘で何度もシークとアフリディの両方を指揮してきたガイド歩兵隊の将校は次のように書いている。「個人的には、私たちが侵略した今、彼らが脱走して自分の故郷を守ろうとしたことを責めるつもりはない。彼らがそうすることを望んだのはただ自然で適切なことと思う。」

このような意見は、この主題について語る肩書を持った多くの将校の典型的な見解であると考えられる。彼らの命はいつでもその問題の上にかかっているのである。

シーク隊は進軍の守護者である。それはもともとパシャンと戦うために創案された。その宗教がマホメダニズムと正反対となるように設計された。これは賢明な政策であった。狂信は狂信と対峙した。宗教的嫌悪が人種的憎悪につけ加えられた。パシャンの侵略者は山に撃退され、シークはラホールとペシャワルに定住した。強い差異と多くの敵意が今日も残っている。シークは腰まで髪を伸ばす/パシャンは頭を剃る。シークは飲みたいものを飲む/パシャンは禁酒家である。シークは死後に火葬される/パシャンがこれをすると天国へ行けなくなる。兵士としてのパシャンは射撃がうまく、丈夫で、特に丘の斜面を良く進軍し、そして恐らくそれ以上に素晴らしい闘士である。彼らは教育よりも本能に頼っている。その血の中に戦争がある:生まれながらの射撃手であるが、/汚く、怠け者で、浪費家である。

シークにはより文明的な人物がいる。思いのままに撃つのではなく、忍耐強い練習によって学ぶ。パシャンほどタフではないが、レスリング、ランニング、水泳などの力業を喜ぶ。とても清潔な兵士であり、より注意深い。しばしば極度の倹約家であり、常につつましく、通常パシャンと同様の食事を摂ることはない。[実際にいくつかの連隊では非常に痩せたシークが食物の形で給与を得ており、将校は彼らが太って強くなるまで注意深く監視することになっている。]

シークはライバルが落胆し、失望するような状況下で進み、敵の気力が旺盛ならその根気がなくなると言う人もいる。その主張は事実による裏付けがない。1895年バッチェ中佐がパンジコラ川の近くで殺され、ガイド隊が強く圧迫されたとき、アフリディ中隊のサバダーは同胞に向かって叫んだ。「さあ、それでは、ガイド隊のアフリディの皆、指揮官が殺された。今が突撃の時だ!」英国の将校はこの衝動的な兵士たちがその持ち場を離れ、確実な死に向かって突き進んで行くのを抑えるのに最大の苦労をした。この話はタマイ(*スーダン)の戦闘での有名な騎兵大佐の言葉を思い起こさせる。方陣が破れたように見え、そして興奮して混乱した特派員が戦隊のもとに全速力で荒々しく駆け寄り、すべてが失われたと告げた。「すべてが失われた」とはどういう意味か。第10軽騎兵隊がここにいるのが見えないのか?」世界には他の人々が成功から得るのと同じように、災害や破滅の近傍から断固とした喜びを得る人々がいて、他の人々が勝利の中にあるときよりも、その人々が敗北の中にいるときの方が堂々としている。そのような精神は間違いなくアフリディとパシャンの中に見受けられる。

この議論を締めくくるにあたり、多くの戦闘を経験した年老いたグルカのサバダーの意見を引用したいと思う。彼によれば、自分はシークのほうが好きだったが、すぐにピンチのときにはインドのどの種族よりもアフリディの兵士といるようになった、とのこと。どちらも女王陛下の兵士であることに思いを巡らせるのは心地よいことである。

マラカンド野戦軍にはグルカはいなかったが、これらの邪悪な小さな兵士に言及せずにインドの戦闘民族を考えることは不可能である。見た目は青銅色の日本人のようである。小さくて活発で獰猛で、幅広い顔でいつも陽気に歯を見せて笑っている。彼らはパシャンの気力とシークの規律を兼ね備えている。彼らはすべての金銭を食物に費やし、宗教、飲酒、喫煙、英国兵のような宣誓に縛られることはない。彼らは―彼らを「ニガー」の種族と見なしている―英国兵の目に他種族に向けられるよりも多くの好意を見出す。彼らは純粋な傭兵であり、危険を歓迎する一方で遠征の延長を嫌い、妻や平時の大きな肉料理の元に戻ることも同じく熱望している。

ウトマン・ケル族に協約を順守するように促した後、旅団はパンジコラ川を再び渡り、連絡線を楽な行程で行軍してマラカンドに戻った。ガイド隊はマルダンに戻り、再び宿営地に戻ってたちまち戦時から平時に戻った。ティラ遠征に参加する機会を失ったことにひどく失望したバフ隊は、マラカンドの駐屯地に残った。アフリディ族に対する作戦の発令を待ち受け、またブナヴァル族に対する遠征が必要な場合に備えてジャララの近くにかなりの戦力が維持された。

ここで私たちはマラカンド野戦軍から離れる。しかしまだ書かれていないその歴史の一章が残っているかもしれず、この野戦軍から編成された素晴らしい連隊が信頼できる指揮官の下で別の機会に偉大な戦争ゲームをプレイするかもしれない。そうであるなら、読者は紙面において私に話を続けさせるのか、それともその仕事を別の手に渡すかを決めなければならない。[マムンド渓谷とバジャウル全域での作戦が独自のクラスプによって記念されていないことは、軍における名誉と褒賞の授与方法が気まぐれででたらめであることの良い例である。旅団が被った損失は紛れもなく最も深刻なものであった。結果は上首尾であった。軍隊の行動は公式に称賛されている。しかし、私が過去八章で説明したすべての激しい戦いで交戦していた兵士は特別に鋳造されたクラスプの対象から除外された。彼らは一発の弾丸が撃たれるのすら見たことがない数千人の辺境のすべての兵士と同じ一般的なクラスプを受け取ることになったのである。]


第十七章:軍事的所見

   「・・・・そして、あなたは語った
    出撃と撤退について、塹壕、テントについて、
    矢来、辺境、胸壁について、
    真鍮銃について、大砲、マスケット銃について。」
            「ヘンリー四世」 第一部・第二幕・第3場

軍とかかわりのない多くの人に読まれるべき本がある程度成功するためには、完全に軍事的考察に費やされた一章は一見不適切かもしれない。しかし私は近年、博識になることを望むすべての人がすべての他人の仕事の表面的な知識を持ちたがっていることを覚えている。グラッドストン氏が「時代における軍国的精神の高まり」と呼んでいるものにも勇気づけられて、専門用語を避けながらも、辺境戦争を純粋に専門的な観点からしばし一瞥することが一般的な関心事になることを私は願っている。私の所見は私が述べた戦域に当てはまるものとして捉えられるべきであるが、その多くが辺境全体に当てはまることを私は疑わない。

最初の最も重要な考慮事項は輸送である。これがどんなに重要事なのかを自分で見たことのない人は誰も理解できない。半個歩兵大隊に護衛された一マイル半以上のラクダの護送隊を見たときの私の驚きをよく思い出す。私はそれが一個旅団のたった二日間の物資にしか相当しないことを知らされた。人々はあちらへこちらへと移動している縦隊のことをまるでそれがその土地を行軍し、単にどこで敵と出会っても戦わなければならない兵士の移動グループであるかのように軽々しく話す。そして軍隊は固定基地と安全に結ばれるために前進兵站部、宿場、休養キャンプ、通信の長い鎖をその後ろに苦労して引きずる重い塊であることを理解している人はほとんどいない。車輪の通行が不可能なこれらの谷では、物資の移動の困難さとコストは莫大である/そして現地調達は全くできないか、ほとんどできないのでその熟慮は最重要である。多くの理由でラバ輸送はラクダ輸送よりも優れている。ラバはより速く動き、より難しい地面を通過できる。またそれはより丈夫で良い健康状態を保つ。ビンドン・ブラッド卿はモーマンドに対して前進を始めるとき、第2旅団にラバを完全装備した。これによってその可動性が高くなり、必要とされるあらゆる急速な移動に利用できるようになった。その二つ―ラクダとラバを混ぜると両方の欠点が結びついて互いの優位性を消してしまうように見える。

私はすでにインドの軍務キャンプと、それなしでは辺境の夜は完全と言えない「狙撃」について説明した。したがって以前それが専門的なのではないかと疑ったため省略していた二つのポイントにだけ触れることにする。ときに夜間射撃はより深刻な攻撃や実際の急襲や剣の突進に変わることがあるため、敵に相対して塹壕の溝を掘ることをお勧めする。近代的な武器があったとしても、最後に頼りになるのは銃剣であり、そのとき高地にいることの利点は相当なものである。

砲兵隊がキャンプ周りのラインの一部を形成するとき、砲の間には歩兵が配置されるべきである。砲兵士官はこれを好まない/彼らは非常に良い仲間であるが、譲歩してはならない事柄がいくつかある。誰もがその武器の力を過大評価しがちである。

マムンド渓谷ではすべての戦闘は村を占領することで起こった。村は山のくぼみの中の岩が多く凸凹した地面にあって、機敏なライフル射手の群れに守られていた。素早く動き回る敵の姿への一斉射撃はほとんど役に立たないことがわかった。部族民は一瞬だけ身体をさらして岩から岩へと急速に突進した。そして分隊が彼らに注意を向け、ライフルで狙いをつける前に、チャンスと標的は一緒に消えているのであった。より良い結果が得られたのは上手な射手を選び、チャンスを見つけたら命令を待たずに射撃する許可を与える方法であった。しかし全体的に言うと、うまく配置された敵の銃火によって時間を稼がれるだけに終わる銃撃に多くの時間を浪費せず、歩兵は銃剣攻撃で突き進むべきである。

村の奪取と破壊の後、軍隊は常にキャンプに戻らなければならず、撤退が必要であった。現代のライフルで武装した多数の活発な敵に直面してそうした作戦を実行することの困難は大きかった。私は後方中隊でその撤退を目撃する機会が六回あった。五回は幸運、一回は悲惨であったが全てに損失が、そして経験豊富な将校が私に告げたように、危険が伴った。弾が誰にも当たらない限りすべては上首尾であるが、数人の兵士が負傷するとたちまち困難が始まる。その地点が放置されるとすぐに―小丘、穀物の畑、いくらかの岩、またはその他の地面の事物は―敵に奪われる。いくらか密集隊形になって撤退中の中隊に彼らは優れたライフルでよく狙いをつけ、二、三人を殺傷する。今日、文明化された戦争ではこうした負傷者は地面に残され、問題は翌日に交渉によって取り計らわれる。しかし、いかなる慈悲も求められたり与えられたりしない辺境では、負傷者を運び去ることは神聖な義務である。また、すべての連隊がその死者を運び去る奮闘的努力も同じである。部族民が自らの手に落ちたすべての遺体に加える下劣で忌まわしい損壊、およびそれらを晒すことによる侮辱行為は、非哲学的な精神に死への新たな恐怖を追加する。今では身体を運び去るには少なくとも四人の兵士が必要であり、より多くを必要とすることが非常に多い。結果を観察するべきである。誰かが撃たれるということは銃撃ラインから五丁のライフルが引き抜かれることを意味する。十人の兵士が撃たれたなら、戦闘力に関する限り、中隊を戦闘から除外しなければならない。目ざとい敵が押し進んでくる。負傷者を抱える兵士のグループは素晴らしい標的である。目下、後衛が負傷者に煩わされている。するとそこへ剣による強力な突撃が押し寄せてくる。こうして大惨事が発生する。

時にはある連隊で、時には別の連隊でいくつかの出来事の進行を見ていて、私はこれらの困難を避けるいくつかの方法を観察した。辺境戦争に長く熟練したガイド隊は最も価値あるインストラクターであった。すべての地点は手放すとすぐに敵に奪取されるため、各中隊から二人または三人の兵士を残してすべての撤退を隠す必要がある。彼らは活発な銃撃を続け、全中隊が新しい陣を敷くか、それに近くなったときに駆け戻って合流するのである。これに加えて、撤退中のある中隊の銃火は常に別の中隊を援護するように手配する必要があり、撤退の際には発砲を停止することがあってはならない。援護する中隊は後衛中隊が動き始める前に実際に位置についていて、すぐに発砲する必要がある。9月18日のガイド歩兵隊の退却に私は特に感心させられた。敵に強力に圧迫される中でこれらの原則が高い技術で徹底して実行され、負傷したのは一兵だけだったのである。指揮官のキャンベル少佐がとった、互いの退却を十字銃火で援護しながら二本の支脈を退却して降りるという有利な方法は軍事的展開というよりも、複雑なチェスの問題に似ていた。

新しいダムダム弾―非公式に“ek―dum”[ヒンドゥスタン語で「直ちに」]弾と呼ばれている―を搭載した新しいリー・メトフォード・ライフルの威力は途方もないものである。一度使えば兵士はその武器を最大限に信頼するようになる。それは500ヤードまでは非常に真っ直ぐに発射される、専門的に言えば平坦な弾道を持っているため、距離の判断に困難はない。これは最大の価値を持つ。弾について言えばその阻止能は望みうる限り最大のものであろう。ダムダム弾は爆発しないが、膨張するのである。リー・メトフォードの最初の弾丸は基部に開口部(*雷管)があるニッケル筒で覆われた鉛の小弾丸であった。改善された弾丸ではこの外筒は後方に移動している。基部の穴が少し小さくなり、先端の鉛が露出したままになっている。結果は素晴らしいものであり、技術的観点で見ると美しい機械である。骨に当たると弾丸が「セットアップ」し、すなわち拡がり出てその前にあるものすべてを破って引き裂き、胴では普通致命傷となり、四肢では切断が必要な傷となる。大陸の批判者はそのような弾丸がジュネーブまたはサンクトペテルブルク条約の違反ではないかと尋ねた/しかしこれらの国際協定の条項は膨張弾を禁止しておらず、この主題に関する唯一の規定は特定のサイズ未満の破裂弾を使用してはならないというものである。弾丸は本来殺すことを目的としており、この弾丸は撃たれた者に通常の様々な鉛弾以上の痛みを与えることなく、最も効果的にその義務を果たすと私は見ている。敵が戦闘の進行中にリー・メトフォード・ライフルとダム・ダム弾薬を手に入れたので、後者の点に関する情報が手近にある。感覚はあらゆる弾丸によって生じるものに似ていると言われている。猛烈な麻痺の一撃に続き、負傷と脱力の感覚があるが、その時点での実際の痛みはほとんどない。確かに今日では回復の期間を除いて、傷による多大な痛みに苦しむ不幸な兵士は非常に少ない。兵士が撃たれる。四分の一時間で、つまりショックが消えて痛みが始まる前に通常彼は包帯所にいる。ここでモルヒネを注射され、すべての感覚が均一に鈍くなる。この状態でクロロホルム麻酔されて手術を受けるのである。

将校の服装を兵士と同じにすることの必要性は、作戦を見たすべての人の目に明らかであった。現地兵士のターバンに対してヘルメットをかぶったイギリス人将校の姿は目立ち、良く狙いをつけた銃火をその方向に引き寄せた。もちろんイギリスの連隊では違いはそれほど顕著ではない。それにもかかわらず鋭い目をした部族民は近距離では常に将校を特別な標的としていた。私が思うには、主に将校はライフルを持っていないという事実によって区別していたのであろう。次の逸話はこれがいかに明白であったかを示しているのかもしれない:―

バフ隊がパンジコラ川に向かって行軍しているとき、救援にやってきた王立西ケント隊とイナヤット・キラで行き会った。新しく来た連隊の兵士がバフ隊の友人に前線はどうだったかを尋ねた。「ああ」友人は答えた「将校と白い石の近くに行きさえしなければ大丈夫だよ。」アドバイスが実行されたかどうかは記録が残っていないが、それは確かに本当であった。三日後―9月30日―アグラ村で交戦した王立西ケント連隊の中隊では十一人の将校のうち八人に弾丸が当たったか、かすっていた。

山岳戦争で軍隊が経験する疲労は非常に大きいため、兵士の負荷を軽減するためにあらゆる努力を払わなければならない。一方で、兵士はより多くの弾薬を身につけて運ぶことが望ましい。弾薬筒箱を積んだラバは撃たれて敵の手に落ちる可能性が非常に高い。私が撤退を記録したシークの二個中隊は9月16日にそうして6000発以上を失った。

イギリスの歩兵の厚い革ベルト、ポーチ、背嚢装備は不必要に重い。多くの将校がそれを織物で作ることを提案するのを聞いたことがある。これに反対する言い分は、織物はすり減るということである。基地にこれらの装備を大量に供給し、古い装備が使用に耐えなくなったらすぐに新しいものを支給することでその異議に対処できる。兵士をすり減らすよりベルトをすり減らす方が安くつくはずである。

兵士が戦野に持って行けるチョコレート、小さなソーセージ、または携帯可能で栄養価の高いものを与えることに多大な努力がなされるべきである。行軍が長く、運命が不確実で、しばしば撤退が遅れ、常に圧迫されていた戦争において、連隊や中隊が図らずも一晩中食料なしで野宿しなければならない機会が多かった。胃袋が世界を支配していることを思い出してみるのは良いことである。

集中砲撃の原理はヨーロッパで長い間認められてきた。ビンドン・ブラッド卿は、インドの山岳戦にそれを適用した最初の将軍である。以前は砲を二、三門使用するのが慣例であった。これまで見てきたようにランダカイの戦闘でマラカンド野戦軍は十八門の砲を持っており、そのうち十二門が一列に並んでいた。非常な大戦力で優れた陣を敷いていた敵をこの砲の火力がそこから追い払った。歩兵攻撃はほとんど損失なく成し遂げられ、人命の犠牲は百人でも少なかったところを、一ダースで成功が得られた。

この後、マムンド渓谷ではほとんど砲撃が行われなかったと言えば奇妙に思えるかもしれない。しかし、それは事実である。マムンド族は取るに足らない部族であるが、岩の中に家を建てる/凸凹の地面にいる狙撃手に対して、砲はほとんど何もできない。砲の煙のパフが破裂弾の接近を彼らに知らせるときはいつでも、双眼鏡で敵が岩の後ろに避難するのが見えた。おそらく無煙火薬はこれに待ったをかけたであろう。しかしいずれにせよ、砲が向けられたのは非常に悪い標的であった。

それに本当の大きな働きがあったのは、敵を殺すことではなく、敵に特定の支脈や小丘を占領させないことであった。9月30日、王立西ケント隊と第31パンジャブ歩兵隊がかなりの圧力の下で撤退したとき、英国山岳砲兵隊は敵から700ヤード以内に移動し、退却線を見渡す高地へ榴散弾の急速な射撃を開始した。そしてそこにいた部族民を殺し、その仲間が丘に登ることを絶対的に禁じたのである。

山の中でのあらゆる後衛戦闘において、砲の使用は不可欠である。二門の砲でさえ丘の中腹の峰や岩場から歩兵が脱出するのを大いに支援し、適時の砲弾によって味方が撤退した地点を部族民が直ちに占領するのを防ぐ。けれども砲を出し惜しむ理由もないのであって、可能であれば少なくとも二個砲兵隊が旅団の攻撃に同行するのが良い。

回光通信による信号伝達は、作戦全体を通じて最大の価値を持っていた。私は電報通信につながっている信号局の半永久的なラインの優位性を常に認識していたが、そのような複雑な装置を戦闘中に使用することの実行可能性に疑いを持つようになった。太陽が常に輝いているこの炎熱の国では、ヘリオグラフは常に役に立つ。丘が奪われとすぐに准将との通信が確立され、攻撃が進行中であってもメッセージを迅速かつ明確に送信するのに困難はないように見えた。馬でも移動できるが遅くて骨が折れる、渓谷に頻繁に分断されるこの土地では、それは最も確実で、最も速く、実際に相互通信の唯一の手段である。私はこのことを証言できることを喜んでいる。なぜなら以前馬鹿にしていたからである。

私は歩兵と大砲に触れた。前章はほぼ完全に騎兵に捧げられたが、私は再び馬と槍に戻りたいという欲求に抵抗することができない。騎兵の武器としての剣や槍の問題は長い間議論されてきており、最新の経験を持つ人々の見解について考えてみることは興味深いかもしれない。槍の使用を目撃する機会はなかったが、ガイド隊と第11ベンガル槍騎兵隊の両方の多くの将校の意見を聞いた。全員が槍はこの戦争に有利な武器であることを認め、または主張した。確実かつ便利に殺すことができ、騎手が切り倒される危険性が少ない。長さに関しては一般的な意見は短槍を支持しているようである。これは、尻にカウンターバランスを備えており、リーチが良好であり、近接した場所でより便利である。辺境で最も著名な騎兵将校の一人であるビートソン少佐は、これを強く支持している。槍旗を結び付けるか、先端の下約十八インチにある種の鋲を取り付ける必要がある。これを行わないと槍が深く刺さりすぎることがあり、その両方が壊れると敵が身をくねらせて近寄り、槍騎兵を攻撃したりすることがある。これは実際に何度か起こった。

さて、どの程度まで戦隊を槍で武装させるべきかという質問を検討する際、ガイド隊が採用したシステムは興味深いかもしれない。この戦争では騎兵が下馬してカービン銃を使うことが度々必要とされた。槍は邪魔になるので鞍に縛りつけておかなければならない。これには時間がかかり、騎兵が小競り合いしている時には通常、これに費やす時間はあまりない。ガイド隊は四人に一人の兵士に槍を持たせることで問題と折り合いをつけた。この兵士は他の兵士たちが下馬したときも鞍に留まって全員の馬を守る。また、各戦隊槍騎兵の外側の部分も担当するが、これも教練書の指示に従って騎乗したままである。しかし専門的になりすぎたかもしれない。

合同の戦術に少し触れる。辺境戦争では摂理は優れたバンド・オ・バスト(*band-o-bust)[手はず]の側にある。舞台効果や大きなチャンスはない。山に入ったときと同じく高い名声とともに山を離れる准将は自分が有能で賢明な人物であることを証明したのである。すべての「ダッシュ(*突進、衝突、罵り)」を避け、戦いを求めて一日を始めることはなく、いかなる確定的意図も持たず、英雄的な偉業を試みず、時計に目を向ける将軍の元には犠牲者と栄光はほとんどない。敵にとっては過ちを犯すまでは恐ろしくならない。流血のない軍事作戦を信じない大衆は注意を払わないかもしれない。配下の将校たちは戦闘がなかったことに不平を言うかもしれない。しかし義務を巧みに果たし、人命を守ったことに思いを巡らせるなら、彼は大きな報いを見出すであろう。

辺境戦争の全体的な再調査は、その土地を知り、地域を知っていて、より速く動き、より良く射撃できる活動的で積極的な敵と戦う場合、通常の軍隊が大きな不利に晒されることを示している、と私は思う。スワット渓谷の部族民が被った恐ろしい損失は、開けた場所では訓練された軍隊が最も勇敢な野蛮人をいかに簡単に掃討できるかということを示している。しかし、丘の斜面ではすべてが変化し、観察者は近代的兵器の強さではなく弱さに驚く。大胆なライフル射手が個人として兵士よりも優れており、最大の疲労に耐え得るならば、その行く手を遮ることはできなくとも、常に損害を与えることができる。

キューバでスペイン人が直面している軍事的問題は多くの点でアフガニスタンの渓谷に見られるものと似ている。道がなく、出鱈目で未発達の国/いかなる戦略的重要地点もなく/優れた機動性を持ち、近代的ライフルで十分に武装してゲリラ戦術を採る敵。結果はどちらの場合も、軍隊は敵を捕まえる以外、どこへでも行き、何でもできるということある/そして、そのすべての行動には必ず損失を伴う。

部族を征服するという問題を純粋に軍事的な観点から見れば、時間が問題にならず、長期にわたる作戦が本国の政策の変更によって中断される危険がなければ、司令官は部族民が攻撃を当然と思い込むよう誘導するべきである。この点において私は発言をスワットとバジャウルの平底の谷に限定しなければならない。マムンド族のような部族を威圧するために混成旅団は谷の入り口でキャンプするのである。そしてイナヤット・キラのように塹壕を掘って非常に強力に防御する。部族民は丘を離れようとしないため、騎兵隊は毎日全く安全に谷をパトロールできる。作物の播種と農作業はすべて停止される。現地人は夜キャンプに発砲して報復するであろう。これにより損失が発生する/しかし、誰もが眠るのに良い穴を掘り、将校が日没前に夕食をとるようにし、日没後に勤務外で歩き回ることを禁じた場合、損失が深刻になる理由はない。やがて、彼らの谷の占領に激怒し、恐らく食料不足と冬の接近により捨て鉢になった部族民は、キャンプを襲撃するための途方もない企てをするであろう。強力な塹壕、突進を断ち切る仕掛け線、そして近代的ライフルで、彼らは大虐殺とともに撃退され、一度厳しく罰せられたならおそらく協約を請うであろう。そうでない場合、彼らがそうするまでプロセスを継続するのである。

そのような軍事政策は先に私が記録した強健な方法と同じくらいの費用がかかる。より少数の軍隊が利用されることになるかもしれないが、彼らは動員されたまま、より長い期間戦野に留まる必要がある。しかし人員の損失ははるかに少ないであろう。この方法の成功の良い例として見出されるのはナワガイでのビンドン・ブラッド卿の戦術である。彼は自軍が敵を攻撃するには弱すぎたため、敵を攻撃するように仕向け、そして大変な損失とともに討ち払ったのである。

私たちが今到達した点から、今日のより大きな軍事問題を手早く、さっとではあるが一瞥することはおそらく望ましくないが、可能である。私たちはここ数年、「短期勤務」システムを採用している。それは大陸システムである。それには多くの欠点がある。その下で集められた軍隊は、若さ、訓練の不足、連隊の提携の欠如に苦しんでいる。しかし大陸ではこれに一つの卓越した長所がある:膨大な数が提供されるのである。現役の軍隊は単に兵士を迅速に製造して予備軍に渡し、それが必要になるまで蓄えておくための機械にすぎない。欧州諸国は兵士を量だけで論じている。必ずしも高い水準の勇気と訓練を求められないが致命的な兵器で武装した兵士の巨大な軍隊が、さまざまな戦略的条件の下でお互いに向けられている。数千人が虐殺され、大きな戦闘に勝ったり負けたりした後で、彼らは前の状態に戻る。二つの国の勇気の平均値はおそらく決まっているのであろう。大陸システムの本質は、その巨大な規模である。

私たちはこのシステムを一点を除くすべての点で採用しており、その一点が重要なのである。私たちにおいては量が多くはなく、質が劣っているのである。短期勤務システムによって数が少し増やされ、水準がかなり低下させられたのである。大陸の要件に非常によく適合しているこのシステムが私たちに利点を与えない理由は明らかである。私たちの軍隊は志願兵役によって募集されている。短期勤務と徴兵は切り離せない。このため数人の断固たる軍人が徴兵を提唱している。しかしイギリス人がそうした自由の剥奪、またはそのような商業への足手まといを甘受するまでには多くの言葉が語られ、多くの投票がなされ、多くの打撃が加えられなければならない。そうした犠牲が払われることになるのはイギリス海峡が干上がってしまったときであろう。

徴兵制なしには私たちは大きな数を持つことはできない。したがって、私たちは持っているものを最高の品質にする努力をするべきである/そして私たちの状況と必要がこの見解を強化する。私たちの兵士には大人数の戦いは求められないが、非常に頻繁に白兵戦が要求される。その遠征は温暖な気候の文明国での戦いではない。彼らは海を越えてアフリカやインドの辺境に送られ、そこで暑い太陽の下で、そして疫病の多い土地で、強健な野蛮人との独特の戦闘に従事している。彼らはその任務に十分な年齢ではない。

若くともその優れた武器と支配的民族の威信によって、彼らは現地軍に対する優位を維持することができる。たしかに今回の戦争では重要でない、取るに足らない、いくつかの事件が発生した。それは事実である。しかし帝国の利益のためには便宜的に忘れたほうが良い。現地兵の多くはイギリス兵よりも十歳年上である。その多くは軍務に就き、銃火をくぐっている。そのいくらかはメダルを持っている。もちろん、全員が自然条件に慣れている。彼らがどれだけ多くの利点を享受しているかは明らかである。また、彼らが何らかの優位を持っていると思い込んだ場合、結果がどれほど深刻になるかは明らかである。そうした仮定ですら、インドにおける私たちの存在そのものへの脅威となる可能性がある。真価(*Intrinsic merit)を持っていることがその属国に対する支配的民族であるための唯一の資格である。もし私たちがこれに失敗したのであれば私たちの精神が古くて弱くなったからではなく、兵士が若く、まだ強くなっていないからである。

二十一歳や二十二歳の少年たちが、円熟して人生の最盛期にある三十歳のシークやグルカと同等の条件で競争することを期待されている。不公平なテストである。彼らがなんとか持ちこたえているということは、私たちの民族の活力の素晴らしい証である。試みは危険であり、費用もかかる。私たちはそれを続けている。イギリス軍がいつか再び大陸戦争に参加するという考えを今なお胸に秘めているためである。英国の人々が、自らの小さな軍隊が大陸の無数の軍隊の間で粉砕されて倒れるのを許すほど愚かであったなら、彼らには当然のすべての不幸がふさわしいであろう。

私はこれらの主張が独創的でも目新しいものでもないことを知っている。単に整理しただけである。私はまた国家の職務に一生を捧げた有能で立派な人々の中にも、私が引用した見解と相容れない人々がいることを知っている。この問題はインド人の観点から考えられてきた。おそらく五歳年上の部下を率いてイギリスの連隊を指揮したがるインド人大佐はいないであろう。この主題に関するインド人の意見は偏った情報のみに基づいており、現地の環境によって歪められている可能性がある。それでも私は、軍がジュビリー行進と辺境戦争のみならず、下院において示される評価においても同時にそうした傑出した地位を占めているのであれば、国民一般の考えを甘受することが正しいと思っている。

具象から抽象に移るなら、非常に多くの勇敢な行為を記録している本書の中に、兵士が自らを大きな危険にさらし、その中に留まった動機の本質に関する簡単な問いが含まれることは不適切ではないであろう。戦争の環境には神経を揺るがすあらゆる要素が含まれている。弾丸の口笛/多くの野蛮な敵の叫び声と怒鳴り声/血に覆われ、時には痛みで泣き叫ぶ負傷者の哀れな様相/全ての側面において死が歩を進めている場所を示すホコリの噴出―これらは兵士を襲う光景と音であり、成長と教育によって彼らはその重要性を完全に認識しているのである。それでも、兵士の勇気は美徳の最も一般的なものである。全住民から無作為に選ばれた何千人もの人々が、自己保存の本能を制御することがわかっている。この勇気も特定の国に特有のものではない。勇気は一般的なものであるだけでなく、全世界的なものである。しかし多くの人が所有していると思われるこの美徳について、全ての人が最高のものを持っている、というのは人生の明らかな矛盾である。不幸なことではあるが、臆病者として晒されることを恐れない人はおそらくいない。なぜこの一般的なものが貴重なのであろうか?どう説明できるのであろうか?

こういうことではないだろうか。兵士の勇気は実際には肉体的な害の軽視や危険に対する無関心ではない。これらの気質を装う試みは、多かれ少なかれ成功している。ほとんどの人物は演劇において良い俳優になることを目指している。俳優であるとは全く思えないほど完璧な人物もいる。これはその他の人々が努力して目指している理想である。また非常にまれにしか達成されていないものでもある。

準備、虚栄心、感情という三つの主要な影響が組み合わさって、兵士の試みを支援する。最初のものには規律と訓練のすべての力が含まれている。兵士は何年もの間砲火の下をくぐる可能性について考えてきた。それはどのような経験であろうか、と漠然と思っていた。それをくぐり抜けて無事に戻った多くの人々を見た。その好奇心はそそられている。そして今、その機会が訪れている。道路と鉄道によって彼は日ごと現場に近づいている。その心は前途に慣れ親しんでいる。仲間も同じ状況にある。彼は習慣に順応する。その背後には環境の持つ力が隠れている。ついにその時がやって来る。彼は遠くで煙のパフが吐き出されるのを観察する。空中の音に耳を傾ける。多分何かのドシンという打撃音を聞き、近くの兵士が撃たれたキジのように倒れるのを見る。次は自分の番かもと思う。恐怖がその喉を固く握る。

そのとき、非常に多くの美徳を促進する悪徳である虚栄心が自らを主張する。彼はその仲間を、仲間は彼を見る。これまでのところ自分は弱さの兆候を見せていない。彼は考える、仲間は自分を勇敢だと思っている。心から切望する名声がその眼前に輝いている。そして彼は受けた命令を実行するのである。

しかしヒーローになるにはまだ別のものが必要である。さらなる困難な試練とさらに厳しい苦難が降りかかって彼を手助けしなければならない。最後に違いを生むのは感情である。疑う人は夜にキャンプの焚火に出かけて兵士の歌を聞いてみると良い。誰もが自分が気高く尊いと考える、あるいは必要な時に至れば自分をこの世から引き上げてくれる何ものかにすがっている。おそらく自分は古い血統、そして常に死に方を知っていた民族の出自であることを覚えているためであり/あるいは、おそらくもっと小さく、もっと親密なもの/連隊が「ゴードン」、「バフ」、「女王陛下の」、何と呼ばれようと、そうした名前―単なる大隊の非公式の名前に過ぎないが―をとても大事にすることで偉業が成し遂げられ、名誉と英国民の帝国が維持されるのである。

名前の問題に関しては、連隊に短い名前をつけることの利点を知ることは有意義であろう。誰もがマチアス中佐のゴードン隊へのスピーチを覚えているであろう。一部の連隊に向けたスピーチが領土システムの途方もない肩書を負わされていることをちょっと想像してみると良い。たとえば、キプリング氏の有名な連隊「ホーエンツォレルン―シグマリンゲン―アンスパッハ王女のマーサーティ・ドビルシャーの王立軽歩兵隊」など。古い連隊が始まった頃はすべて同様に名付けられていたのである。

これはおそらく血も涙もない章であった。私たちが標的と考えてきた人々/自らの家と丘のために戦って単なる攻撃の目的とされた部族民/は単なる戦争の浪費物として殺され傷つけられた人間たちである。どうすれば勇気という高貴な美徳を大量生産できるかを知ろうとして私たちはその分析さえも試みた。

哲学者は残念な思いをするかもしれず、慈善家は痛みに嘆き悲しむかもしれない。人類のscientific(*系統立った、科学的)な破壊に多くの人の注意が向けられるべきであると/しかしビジネスライクな時代の現実的な人々は―天使ではなく―人間の世界に住んでいることを覚えており、それに応じて自分の行動を調整するのである。


第十八章:そして最後に・・・辺境の謎

   「・・・私は若いころしばしば医者と聖人を熱心にやり、
    それについて、そしてそれについて
    大いなる議論を耳にしたが、
    いつも入ったときと同じドアから出てきた。」
                    ウマル・ハイヤーム

さまざまな小さな事件を書き綴った本書はこれまで、こうした事件が発生する原因となった大きな問題をほとんど取り扱ってこなかった。冒頭の章は本に含まれる考察を読者に予期させるべきであり、結びは通読によって読者に生じたであろう見解を言い表しているべきである。先に辺境政策の問題についての議論を控えたとき、私はその検討をより好都合な時機まで延期しただけであると宣言した。今がその時である。この件に関して私の意見が年齢や経験によって裏打ちされていないことを言い募る人物がいないことを望んでいる。そういう人に私は答える、もし書かれたことが虚偽であったり愚かなことであったりするならば、年齢も経験もそれを支援することはできない/そしてもしそれが本当のことであれば、そうした支援は必要ない。ユークリッドの定理は乳児や白痴によって提起されたとしても争う余地がない。

昔話の漁師が思いがけず解き放った魔人が瓶の中から煙の雲となって立ち上り、空全体に広がるのを眺めたように、研究者は広漠とした疑問が広がってゆくのを見る。問題は刻々と広がってゆくだけではなく、深まってゆくように見える。軍事的、経済的、政治的、道徳的なすべての頭脳の下に集められる可能性のある、多様でしばしば対立する多数の事実を振り返り、適切に理解するために必要とされる専門的および技術的知識の蓄積を思うなら、その全体は人間の知性と記憶の限界を超えていると私は確信する。そのような問題について広い視野を持つことは難しく、一般化することは危険である。まして多くの人々が思い違いをしているように、それを名言や警句で片付けるということはなおさら不可能である。その行き着く先は細部と全体のバランスとの関係が全く失われてしまった地点である。それはすべてを見るためには遥か彼方に立つ必要があり、そうしなければ色や形の見分けがつかないほどの巨大なサイズの絵画である。絶えず視点を変えることによって、いくらかの真実の見通しが可能になる。それでも心の鏡の不完全性によって概念がねじ曲げられ歪曲されないことはない。

課題の大きさに思いを致し、自分自身の弱さを意識しつつ、私は慎重な調査と寛容の精神で現在の「フォワード・ポリシー」を検討し、そこから単なる推測に過ぎないその政策の本題の答えに近づきたいと思う。

イギリスの力がインド平原を征服し、その君主たちを鎮圧し、ヒマラヤ山脈の麓で立ち止まってその疲れを知らないエネルギーを国内の進歩と発展に向けた時代に私は戻らなければならない。「山のライン」(*山の手前を意味している)は海が境界を定めるのと同様に、明白で分かりやすい辺境を形成した。南にはインドの大英帝国があった/北には好戦的で野蛮で、近寄り難く、度し難い種族がいた/そしてそのはるか先に、アジアの別の巨大な力が横たわっていた。

英印の政治家の知恵は非常に多くの決定的要素と非常に多くの平和の保証のある状態を長い間維持してきた。狂信に駆られたり略奪に誘惑されたりした北部の野蛮人が山から降りてきて平野に侵入したとき、彼らは互角の勇気と優れた規律に出会い、算を乱して元の領域に追い返された。しかしこれは抑止力として不十分であることが判明したため、純粋に防御的な原則は懲罰的遠征システムへと修正されなければならなかった。しかしこれは「肉屋とボルト」(*Butcher and Bolt.性交渉の後すぐに他の行動のために立ち去ること、butcher:虐殺者、bolt:逃げ出す)政策として嘲笑された。

徐々に状況が変化するにつれて、彼らに対処する方法が変化した。懲罰的な遠征は部族民の激しい敵意を呼び起こした。インド政府はロシアの陰謀をしばらくの間に警戒して見守っていた。国境が「無住の地」のままでいられる限り、それは「大きな溝の固定」だったので全ては良好であった/しかし、いずれかの権力が最大になるのであれば、それはロシアやアフガニスタンであってはならない。[「私たちは一旦インド政府の職務に就いたなら、いかなる代償を支払ってでも、この僻遠の地における他のいかなる勢力の政治的優位の確立をも阻止することを考えなければならない。」―インド政府から国務大臣への手紙、No.49、1879年2月28日]この地域においてロシアの影響力が卓越するなら、彼らは思いのままにインドを侵略する力を持つことになり、その成功の可能性をここで議論する必要はない。アフガニスタンの影響力が卓越するならアミールがその場の支配者となり、いついつまでもインド政府を脅迫することが可能になるであろう。古い辺境ラインからの脱却という政策の変更は力を増して責任ある人々の前に到来した。今日、私たちはその変化によって生じた弊害を見ている。それを引き起こした危険は修正された。

前進を支持する意見は数年でインド政権内に着実に高まった。1876年に決定的な一歩が踏み出された。パシャン部族の宗主権を獲得しようとするアミールの試みに激昂して、リットン卿の政府はカシミアを介してチトラルに手を伸ばした。その国家のメータルは名目上カシミアのマハラジャの臣下になったが、実際には帝国政府の臣下となった。公言された目的は、結局のところヒンドゥークシュの通り道の効果的な制御力の保障であった。[1877年6月11日ディスパッチNo.17]ビーコンズフィールド公(*ベンジャミン・ディズレーリ)の有名な内閣であるイギリス内閣はこの行動を承認し、その政策を承認した。1879年に再び総督政府は公式ディスパッチで、その獲得の意図を宣言した。「カシミアの支配者を通じて、効果的にヒンドゥークシュの通り道を制御できるそうした政治的、軍事的配置を作る力。[1879年2月28日ディスパッチNo.49]「もし」とディスパッチは続ける。「私たちがこの国に対する私たちの影響力を拡大し、徐々に強化して(斜体にしたのは私である)、私たちが山岳地帯のこちら側、すなわちインダス川水系内への外国の干渉がありえないと断じた場合、私たちは明確で分かりやすく尊重される可能性が高い、辺境の自然な境界線を引いたことになる。」[1879年2月28日ディスパッチNo.49]

どんな方針または意図の宣言も、これより明確ではなかったであろう。「私たちの影響力を拡大して強化する」という言葉は、野蛮な人々に当てはめた場合、究極的に併合以外の意味を持たない。こうして長い間人々の心中で熟成し、多くの小さな緊急事態や方便によって形作られ下書きされてきた、インドの平原から山岳地域への進出の計画が明確に宣言された。前進が始まった。リポン卿の総督府が終了した後、新鮮で強力な衝撃が伝わってきた。'84年と'85年のロシアの辺境政策の特徴であるむき出しの侵略(*アフガニスタンのパンジェ紛争:1885年、ロシア軍は、英国保護下のアフガニスタン北西部のパンジェに入った。しかし戦闘は小規模に留まり、ロシアの外交官はロシア帝国がこの地域へさらに侵入することはないと保証し、大規模戦闘に至らなかった。)は、それに相応した怠惰な無関心と国益への無頓着に出会っただけであった。大事には至らなかったのだが、ひょっとすると実際に罰を受けていた可能性もある。卿の後継者たちがその時代の愚行や失策を自分から切り離そうとするのは当然のことであった。反発の精神が由緒ある不介入政策の最終的な放棄につながった。「山のライン」に代わって今度はその通り道の保有を続けることになった。これがいわゆる「フォワード・ポリシー」である。ギルギット、チトラル、ジェララバード、カンダハールの辺境を獲得することを目的とした政策である。

その方針に従って、私たちは多くの辺境砦を構築し、道路を建設し、地域を併合し、国境の部族とより親密な関係を築くようになった。その政策で最も顕著な事件はチトラルの保有である。この行為を部族民は自らの独立への脅威であると見なし、そして聖職者は全体の併合への序章であると見なした。彼らが間違っていたわけでもない。それは「フォワード・ポリシー」の公認された目的だからである。すでに述べたようにチトラルの保有の結果、文明によって自らの権威を弱められることを知っている聖職者が、人々への自らの宗教的影響力を利用して全体的な蜂起を煽ったのである。

チトラルの問題を単独で議論することは無意味である。「フォワード・ポリシー」が正当化される場合、その論理的な結果であるチトラルの併合も正当化される。枝道と本筋は共に立つか、倒れるかである。

これまでのところ私たちは前進し、抵抗されてきた。「フォワード・ポリシー」は領土の増加をもたらし、おそらくより良い辺境ラインと―戦争への―より近い道筋をもたらした。これはすべて予想されていたはずである。現在の体制は平和の可能性を排除していると言えるかもしれない。悪名高く情熱的で無謀で好戦的な民族の真っ只中に孤立した駐屯地が形成された。これは挑戦状である。それが部族民によって襲われたとき、救援と懲罰的遠征が必要になる。これはすべて認められている政策の結果であり、それを開始した人々は疑いなく予見していたはずである。要塞が不適切に構築されていることは奇妙と見なされるかもしれない。マラカンド基地のように狭苦しく/チャクダラのように見渡されて/サラガリのように側面防御なしに/カイバルのように適切な守備隊なしに。これは副次的な問題であり、偶然である。残りの状況は故意に作られている。

国境部族間の巨大な連合の可能性は確かに考慮されていなかった。距離によって分かれ、派閥によって分かれているので、それらに一つ一つ対処できると予想していた。この点で私たちは誤りを悟らされた。

「フォワード・ポリシー」の最初の必然的な帰結であったその戦争と混乱の期間は、いずれにせよ混乱し費用がかかったことに間違いはない。経済的な観点から見ると、辺境渓谷の取引においては秩序を維持するために必要な軍事費が英国貨幣の一シリングすら決して支払われることはない。間違いなく私たちの影響範囲が彼らの存在範囲と衝突することは部族民にとって不幸なことである。軍事的な問題、純粋に専門的な問題、前進した辺境ラインが望ましいかどうかについてでさえ、意見は分かれている。ロバーツ卿(*アフガン戦争に功績のあった前インド軍最高司令官)はあることを言っており/モーリー氏(*ジョン、自由党)は違うことを言っている。

「フォワード・ポリシー」に反対する議論がないわけではない。その開始に反対した多くの人がいる。今もそれに反対する人はたくさんいる/何ものも自然の辺境ラインを超えてインド政府を誘惑したことはないと考え、彼らが言ったようにすればそれは実用的で哲学的であったであろうと主張し続ける人々である:「インドの平野全体に私たちの法を布くのである。そこに私たちの知事と治安判事を置くのである/私たちの言葉は重んぜられ、私たちの法は守られるであろう。しかし海の波のように大地が立ち上がるこの地域は、敵とライバルを私たちから隔離するための嵐の海峡として機能するであろう。」

しかし、過去の論争に携わることは無駄である。現在のもので十分であり、私たちが関わっているのは現在なのである。

私たちはルビコン川を渡ったのである。この問題について最もよく知っているすべての人々の意見によると、今では前進は撤回できない。確かに国境部族の激しい敵意、アミールの不確かな態度、さらなるロシアの侵略の可能性、インドが受ける印象を考慮すると、この判断に異議を唱えることは困難である。歴代のインド政府は明確かつ防御可能な辺境を見つけることの必要性を認め、歴代の英国内閣が認めていると強く主張している。古いラインは残されており、そのラインとアフガンの領土に続く前進ラインの間、そしてその南側すべてを法と秩序に従わせなければならないわけであるが、そこにはいかなる平和的で恒久的な解決の見込みもないように思われる。

私たちをこの立場に置いた責任は、「山のライン」を保持するという古い国境政策を最初に捨てた人々にある。公平なペンとより完全な知識を備えた未来の歴史家は、彼らの行いが賢明であったと断言するはずである。一方これらの偉人たちがその同時代の人々の喝采と賞賛の中で、「成功した試みの満ち潮の中で」官庁を離れたことを思い出すべきである。彼らを激しく攻撃したすべての人々についても言うべきことはそれほど多くない。決定し、責任を受け入れ、行動を弁護した人々である。しかし、十年前または百年前のインドの統治者もその後継者たちと同じように環境に弄ばれていたのではないかという考えに私は傾いている。

現在の私たちの情勢に戻ろう。私たちは荒れ狂う危険な海域に乗り出したのである。事象の強い流れが引き返すことを禁じている。向こう岸に到達するのが早ければ早いほど、航海の危険と不快感は早く終わる。全員が陸に到達することを切望している。コースに関する提案は数多くある。それが不可能であると言われても戻ることに固執し、いくらも行かないうちに船を沈めてしまうであろう数人の悪質で神経質な船員がおそらくいるだろうが、数で勝ることはない。彼らが事態を遅れさせている間に、潮流はより波が高くより岩が多い上陸地点に私たちを運んでいくのである。

「全力前進」と呼びかけ、リスクを問わず一気に航海を達成しようとする人もいる。しかし悲しいかな!船には石炭が不足している。そして変化する風に対して帆を広げることができ、好都合な潮流を利用できるだけであり、波が高いときには停止する必要があるのである。

しかし、賢明な乗客は航海の難しさと海の危険性を知っていながらも、本来の不変のコースを保つよう操舵手にフェアに頼むであろう。嵐や事故によって引き起こされる遅延がどうであれ、船の船首は一貫して遥かな港に向けられているべきであり、何が起こったとしてもこの船はいつかどこかへ漂着することを期待して無目的にあちこちを漂流することは許されない、と彼は道理と正義とともに主張するであろう。

「全力前進」の方法が間違いなく最も望ましいであろう。これは軍事的視点である。主張されているように良い野戦軍を動員し、余裕があるときに辺境の渓谷で、そこがハイドパークと同じぐらい安全となり、文明化されるまで作戦するのである。このコースは必ずしも住民の根絶を伴う必要はない。軍事ルールは部族民の性格と理解力に最も適したルールである。彼らはすぐに抵抗の無益なことを理解し、安定した政府による富と快適さの増加を徐々に歓迎するようになるであろう。加えて我々はほぼ即座に明確な辺境を獲得するであろう。この計画の実際の難点はただ一つだけである。しかし、それは圧倒的なものである。そしてそれは「フォワード・ポリシー」全体に対する最も深刻な議論の構成要素となっている。これである:我々はそれを実行するための軍隊もお金も持っていない。

避けられない代替案が現在のシステムであり、戦争によって中断され、それが終わった時にまたそこへ戻らなければならないシステムである/段階的な前進、部族間の政治的術策、助成金と小さな遠征のシステムである。

この政策は時間がかかり、苦痛であり、幾分威厳を損なうが、それが確実で強力ではない理由はない。しかし、それは一貫して追求されなければならない。強力な政策を優柔不断に施行することは子供にダイナマイトを持たせるより危険である。内外を問わず、インドの統治者に浴びせられる正当な非難は、彼らが事実を認識しているにもかかわらず正当な結論から尻込みしていることである。

彼らは後戻りできないことを知っている。完全に続けるつもりでいる。それでも彼らは、状況を認め、率直に国の前に真相を提示し、昔ながらの民主主義の良識と勇気を信頼することを恐れている。その結果、1895年のチトラル遠征に先行したような、ばかげた不必要な声明によって自らの手を縛ってしまった。辺境部族を監視する政務担当官は、厳密な規則に則りながらも、個人の人格の力によって威信を獲得すること、個性を均一性と組み合わせることを期待されている。そしてこの臆病さは、時にカイバル砦の放棄のような哀しく愚かな行動につながってしまう。

しかしすべての困難と過失にもかかわらず、そこには着実な進歩がある。それは多くの小さな改革によって加速され、より容易になるであろう。この細部の問題は専門家の領域に非常に近いので、私は列挙したり、論じたりするつもりはない。とりわけ平時の通常の任務において政務担当官にはより幅広い権限が与えられるべきである、と提唱されている。他の人たちは部族民に自分たちが見ているものがサーカーの全兵力ではないという事実を印象づけるため、軍隊が時々デモ行進をすることを提唱している。大胆な人は若いパシャン人を取り込み、ローマ人の習慣に従って彼らをインドで教育することを示唆した。しかし、これはキリスト教の時代よりは古典の時代にふさわしいように思われる。

人々と国々を広く見渡してみると銀は鋼よりも良い武器のように思われる。助成金制度は部族との関係を改善し、その利権を法と秩序の側に参加させ、富を増すことによって野蛮さを減ずる傾向がある。武器の供給に関しては、政府は買い手として市場に参入し、代理人を雇って部族民よりも高い値をつけさせた方が兵士を雇うより安上がりであろう。水が低きに流れる如く、経済の法則は確実に商品を落札者に手渡すのである。この戦争には他にも間違いなく多くの教訓がある。それはイギリス人の力や勇気の及ぶ限りの、それでも長くて辛い仕事を軽くするかもしれない。

私たちはいま過渡期にあり、終了の手法も契機も見えない。しかし絶望していてはならない。私にはアフガンの渓谷がしばしば完全に丘に囲まれていて出口がないように見えたことがある。しかし、縦隊が進むにつれて峠道が徐々に見え始め峠が現れるのである。険しくて困難な時もあれば、敵に掌握されていて強行突破しなければならなかった時もあるが、抜け道のない谷は見たことがない。危険を知る人々の確固とした、しかし用心深い歩調とともに進むなら私たちは最終的にその道を見つけるであろう/しかし問題が起こったときには、その技能と規律に思いを致してそれに対処する彼らの能力を疑わないようにしよう。そのような精神で別れの一瞥とともに私はこの主題から離れることにしたい。

私が語ってきた、そして他の人々が語るであろう/大辺境戦争の記事を読んで今日、単に勇敢な兵士と苦労して稼いだ金銭の損失を嘆くだけの人が多くいるに違いない。しかし、将来のある時代において歴史に確かな光を当て、状況全体、その原因、結果、および機会を検討する人物は、おそらく同様に深刻ではあっても、より悲しくはない別の意見を持つであろう。1897年は民族のより高い運命に対するその信念を全世界に宣言した年としてイギリス人の年代記に刻まれた。ワインの泡が弾け、灯火が輝く饗宴において強者がその武勇を誇るのであれば、寒い明け方に自分が怠惰なほらふきではないことを見せる機会があるのは良いことである。より広い知識とより発達した頭脳を持ったいまだ生まれぬ判定者は最近起こった出来事の中に、人類の種の進歩を方向づけ、諸帝国の興廃を調整する、そして少なくともそう言われても差し支えない人々に人類に幸福、学び、自由をつけ加える機会を与えた不思議な力の作用を発見することであろう。

 

 

2020.7.20